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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『曽我の里』03-曽我の遺跡群   

日時 2018.6.29(金)
天気 晴れ

相模国府比定地の関連として出てくる「千代廃寺」、
ここは見ておきたいと思っていました。
調べていたらこの酒匂川低地は遺跡の宝庫です。

駅前の案内板に従い群家跡と想定される永塚遺跡、
千代廃寺跡、高田遺跡など順番に訪ねてみました。
初期国分寺・国府説は否定されているようですが、
この考えは方は初期寺院と郡家に置き換えられるようです。

日差しが強くて鎮守の森に入るとホット一息でしたが、
西からの稲作の伝来や古東海道の関連など、
遺跡としてはなかなか興味深いものがありました。



・・・永塚(小田原市)

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眼下の酒匂川低地(足柄平野)に下曽我遺跡群が広がっています/六本松峠


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下曽我駅からめぐる小田原の遺跡/下曽我駅前
下曽我駅の周辺には小田原の歴史を考える上で重要な遺跡が多く所在しています。遺跡解説の説明板をコース上に設置しています。下曽我駅を出発して遺跡めぐりに出かけてみてはいかがでしょうか。
下曽我遺跡・永塚遺跡群(説明板234
古墳時代の集落からは銅鏡が見つかっていることが注目されます。奈良・平安時代は地方役所である足下郡家(あししもぐうけ)があったと推定されています。古代の井戸や舗装道路のほか木簡や墨書土器など貴重な資料が見つかっています。
千代遺跡群(説明板567弥生時代後期以降、地域でも屈指の大集落が展開していました。奈良・平安時代千代寺院跡(千代廃寺)が所在し、瓦や木簡など寺院との関連を示す遺物が多く見つかっています。
高田遺跡群(説明板89
8世紀の正倉院文書に記載された「足下郡高田郷」が所在した場所と推定されています。低地部の調査では古墳時代の農耕具が見つかっているほか、古墳時代前期の銅鏡なども出土しています。
下堀方形居館(説明板10
中世土豪クラス居館跡と推定されています。当時の屋敷地の名残である方形の区画や土塁が残存しているほか、周囲を囲む二重の堀が発掘調査で見つかっています。(小田原市教育委員会


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街道の風景① 田園に森戸川が流れます、森が永塚観音、郡衙想定地です/永塚

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永塚観音

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永塚観音
永塚観音は永塚の観音様と呼ばれ古くからこの地方の人々に尊信されています。本尊は馬郎婦観音立像(陶製)です。観音縁起は延淳年間(17441747)の火災によって焼失してしまいました。しかし、伝承によれば昔、光海(小海)のほとりに貧しいが心やさしく信心深い農夫が住んでいて、ある年の718日の夜農夫の夢枕に白髪の老人が立ち「昔この地方に大地震による大災害があり、その際に光海が出来た。その時に観音様も水中に没してしまった。信仰心の厚いお前に観音様の場所を知らせるので、明朝光海へ来なさい。一本の白羽の矢を放つからその矢の落ちた所に観音様はある」と農夫に伝え、翌朝その農夫が光海に行くとそこには一本の白羽の矢があり、その水中に御丈6寸(18cm)の青磁の観音様を見つけ、信心深い農夫は家財を一切売り払って観音様を安置する御堂を建立したとされています。以後、この地域の人々に尊信され、毎年717日の御開帳には多くの参詣客で賑わいをみせています。(説明板)

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良雲寺(曹洞宗)           遺跡説明板


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郡家想定地としての永塚
永塚台地の北側には永塚長森遺跡永塚北畑遺跡が広がっています。両遺跡では数次にわたる発掘調査で弥生時代後期から平安時代にかけての遺蹟が発見されています。永塚長森遺跡では弥生時代後期から古墳時代前期方形周溝墓が発見されています。方形周溝墓とは弥生時代から古墳時代前期にかけての埋葬遺構です。中央の埋葬施設を取り囲むように四角く溝(周溝)を掘り墓域を区画したものです。丁度この説明板の前でも2基の方形周溝墓が確認され多くの遺物が出土しています。永塚台地では南側の永塚下り畑遺跡で20軒以上の住居跡が確認されていますが、この周辺では住居跡はほとんど見つかっていません。このような異なる遺構分布傾向から、永塚の北側には墓域が広がっていたのではないかと考えられます。

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永塚北畑遺跡では奈良・平安時代住居跡が多数確認されており集落が広がっていたことが分ります。しかしその一方で、永塚観音堂を中心とする永塚長森遺跡一帯では奈良時代以降の遺構はあまり確認できず、住居跡も発見されていません。このような集落遺跡の空白状況は千代台地における千代廃寺周辺の様子とよく似ています。千代の場合は寺院があったため集落が営まれなかったと考えられますが、永塚の場合も郡家(地方役所)があったためではないかと考えられています。今のところ郡家に関係する明確な遺構は発見されていませんが、このような住居跡の空白状態から郡家が永塚に所在した可能性を想定することができます。(小田原市教育委員会)

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街道の風景② 曽我病院前に説明板が立っています/永塚

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学史に残る下曽我遺跡の調査
下曽我遺跡1959年に行われた曽我病院の土取工事中に発見されました。翌1960年から発掘調査が行われ、木枠の井戸木柵列が発見され、木簡墨書土器などが出土したことで話題となりました。この時に発見された井戸は3基であり、出土した木簡は研究史上4例目で関東では初めての発見でした。

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最初の発掘調査から約40年後の2001年、社会福祉法永耕園の新築工事に伴って再び発掘調査が行われました。この調査では40年前に発見されていた井戸(1号井戸)を再び確認することができ、井戸の詳しい構造や規模を確認することができました。また、未確認であった井戸も新たに1基発見され、下曽我遺跡には合計4井戸が存在することが分りました。井戸の周りには曲物埋設遺構や護岸施設と考えられる木組み遺構も確認されており、この辺りが水の豊富な土地であったことが分りました。

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下曽我遺跡の調査では墨で文字が書かれた土師器や須恵器、灰釉陶磁器(はいゆう)が多く出土しています。このような土器を「墨書土器」と呼んでいますが、墨書土器は奈良時代頃から日本各地で見られるようになり平安時代になると多く出土するようになります。写真3に掲載した「千字文」とは習字の手習い書のことであり「上主ちょう」の主ちょうとは郡司(郡の長官)の役職名である「主帳」と同じ意味を表しています。他にも「」(け)「大家」(おおやけ)「」など郡家(地方役所)のような公共の建物を表す文字を記した土器が多く出土しています。このような墨書土器が多いことから、下曽我遺跡は一般的な集落と異なり郡家に付属する(津)であったのではないかと考えられています。(小田原市教育委員会)

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街道の風景③ 曽我病院の先の住宅地に説明板が立ちます/永塚

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集落がひろがる永塚下り旗(くだりはた)遺跡
この辺りの遺蹟は小字名から永塚下り畑遺跡と呼んでおり、弥生時代後期から平安時代にかけての遺蹟としてしられています。丁度この場所で2001年に発掘調査が行われ(永塚下り畑遺跡第Ⅳ地点)大きな成果が挙がりました。発掘調査では弥生時代後期から古墳時代前期の住居跡10軒確認されました。


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住居跡の中には神奈川県で3例目となる重圏文鏡と祭祀に用いられたと考えられる片口の高杯(たかつき)が出土するものや、ユリ科のネギ属の球根(アサツキやヤマラッキョウのようなもの)が納められた壺や神奈川県2例目(全国で6例目)となる琴柱垂飾品(ことじがすいしょうひん)の発見されるものもありました。これらの住居は集落の中でも特殊な役割を果たしていたと考えられます。

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また、古墳時代後期から奈良・平安時代の遺構も濃密に分布していました。その中でも1号道路状遺構は小石、土器、瓦の破片で表面を舗装した珍しい舗装道路で、同Ⅴ地点でも続きが発見されています。発見された住居跡はこの道路に沿って建てられていることが分りました。

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なお、永塚下り畑遺跡周辺では愛知県猿投窯で焼かれた緑釉陶器(ろくゆととうき)の破片が多く出土しています。緑釉陶器は平安時代の国産陶器としては最高級品です。永塚下り畑遺跡で多くの緑釉陶器が出土する理由は、南方の千代廃寺や永塚に所在地が推定される郡家(地方役所)との関わりが考えられます。先の舗装道路を歩き千代廃寺と郡家の間を往来する人々の姿が思い起こされます。(小田原市教育委員会)


・・・千代

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街道の風景④ 県道716号から一段上に「千代廃寺」の説明板が立ちます/千代

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忠魂碑が建ってます           県道716号


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千代寺院跡(千代廃寺)/千代
奈良・平安時代の千代には寺院が建てられていました(通称「千代寺院跡」「千代廃寺」)。195051(昭和2526)年に千代中学校の校庭造成のために県道沿いの千代字北町で土取り工事が行われ鬼瓦を含む大量の瓦などが採集されています。1958(昭和33)年に寺院跡の実態解明を目的とした最初の発掘調査が行われました。現在忠魂碑の建つこの場所も台ノ塚と呼ばれ1960(昭和35)年に発掘調査が行われています。いずれも、明確な寺院の痕跡は見つかりませんでした。

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その後の発掘調査でも具体的な姿が明らかにならず千代寺院跡は謎に包まれた状態が長く続きました。2006(平成18)年に千代字南原で行われた千代南原遺跡24地点で、主要建物の基礎(基壇)跡が検出されました。初めての建物跡の発見で千代寺院跡の実態解明の大きな一歩となりました。




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また、低地の千代南原遺跡第7地点では、公的な施設の存在を示す木簡2点が出土しているほか、千代仲ノ町遺跡第4地点では、寺院などの厨房施設を意味する「」の文字が記された墨書土器が出土するなど寺院の様子が次第に明らかになっています。かつては千代の寺院を東大寺式の伽藍配置を持つ初期国分寺とする説もありました。近年では8世紀初頭地元豪族によって造営され、8世紀末から9世紀前半に修復された後、10世紀前半まで存続した寺院と考えられています。また、伽藍配置も法隆寺式であった可能性が指摘されています。永塚・下曽我遺跡に推定される古代の役所である足下郡家とともに、地方行政の中心であったようです。(小田原市教育委員会)


・・・高田

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街道の風景⑤ 若宮八幡神社の境内にも説明版が立ちます/高田

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若宮八幡宮周辺の遺蹟
若宮八幡周辺で最初に人々が生活するようになったのは3世紀前半の弥生時代後期のことです。永く古墳時代前半まで継続的に大規模な集落があったことが発掘調査によって明らかになっています。土器は煮炊きや食料の貯蔵など生活の様々な場面で用いられましたが、若宮八幡東側の高田宮町遺跡Ⅱ地点の調査では肩の部分に2つの口がついた全国的にも珍しい壺形土器が見つかっています。また。北側の高田北之前遺跡Ⅱ地点では、破損のため先端部分だけですが磨製石剣と呼ばれる道具が出土しています。実用的なものでないため祭祀用の石器と考えられています。

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さらに中央集権的な国家の仕組みがつくられる古墳時代後期~奈良・平安時代の集落も見つかっています。奈良東大寺の正倉院には「高田郷」として高田の地名が確認できる8世紀の文書が伝わっています。永塚周辺や千代には郡家(地方役所)や寺院が造られ、高田郷は地域の中心的な役割を果たしていました。寺院や郡家の近くに位置していたためそれらと関係するような遺構、遺物も検出されています。高田北之前遺跡第Ⅱ地点では8世紀前半の大型の井戸が検出されているほか、当時の官人が腰帯に付けていた丸鞆(まるとも)と呼ばれる石製の帯飾りが出土しています。また、若宮八幡南側の高田宮町遺跡第Ⅳ地点では吉祥句である「千万」と墨書きされた灰柚陶器が見つかっています。(説明板)


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高田西原の道祖神/高田
「道祖神」といえば「サエノカミ」とか「サイノカミ」と呼ばれ、道路の神様として防塞を意味し外から襲いくる疫病、悪霊などを防塞する神として知られ、古くから集落の外にあって悪霊を防いで集落と旅人を守護する神であるといわれている。道祖神は小田原市内に252ヶ所で307体が存在するが、その60%の185体は浮彫双立合掌型である。ここ西原の道祖神も浮彫双立合掌型であるが、市内の数多くの道祖神の中で在銘による最古の道祖神である。彫られた銘によれば寛文庚戌歳高田村とあるから335年前に建立されたものである。また、最も古い道祖神であるのに摩滅も少なくその美しいお姿を今に伝えていることから昭和63年小田原市有形民俗文化財に指定された。(説明板)


・・・下堀

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街道の風景⑥ 小田原厚木、県道の先、関口川を渡ると下堀です/高田橋下流

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717号を横断              公民館に説明板があります

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下堀方形居館
説明板の前方約40mの場所には下堀方形居館と呼ばれる中世豪族クラス居館と推定される遺構が残っています。甲斐武田氏の家臣である志村氏の居館であっと推定されていますが、その出自は明らかではありません。


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堀の名残である用水路に囲まれた区画は南北129×東西103の規模で、出入り口と考えられる南西の東側がやや外側に広がっています。居館の北西側の県道部分の発掘調査では、居館をめぐる内堀と外堀の二重の堀が検出されました。内堀は土塁の裾から幅が7程度、外堀6m前後の堀底からは中世の陶磁器類の他漆碗や下駄、銅製の笄(こうかい)などが見つかりました。



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髪をかきあげるために用いられた笄は花菱と思われる家紋が施された優品です。さらに、堀の外側では井戸跡や堀立柱建物が見つかり居館に伴う施設があったものと考えられています。周辺から検出される遺構は居館と軸を揃えているものが多く、整然とした区画割りがなされていたことが明らかになっています。(小田原市教育委員会)

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中里下堀八幡神社鳥居


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中里下堀八幡神社沿革
祭神:譽田別之命(応神天皇) 祭祀:大祭43日現4月第1日曜日
由来:元和84月(西紀1623年)鎌倉八幡宮から分霊されて下堀村社八幡社としてまつられた。明治42年(西紀1909年)神社の整理統合政策により中里の無資社天津神社を併合して住民の鎮守神として中里494番地に 中里下堀八幡神社を建立した。明治44年(西紀1911年)神饌幣帛供進の格式を得る神社に指定される。昭和33年(西紀1958年)神殿を除き参集殿拝殿火災のため焼失。昭和422月(西紀1967年)氏子寄進により現神社再建。(説明板)


・・・中里

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街道の風景⑦ 中里ポケットパークの説明板

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中里遺跡/ポケットパーク
中里遺跡は1952年に大同毛織小田原工場建設の時に遺跡の一部が発見され、その後再開発事業のため1991年から3地点において本格的な発掘調査が行われました。その結果、この地区には今から約2150年前頃(弥生時代中期前半)東日本では最も古い本格的なコメ作りの集落があったことがわかりました。右の図のように第Ⅰ地点では多くの住居倉庫井戸などのある集落、第Ⅱ地点では水田、第Ⅲ地点では方形周溝墓と呼ばれる墓の跡が発見されています。こうした集落・水田・墓地がまとまって発掘されたことにより弥生時代の集落の全体を知ることの出来る貴重な遺跡といえます。

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また出土した瀬戸内地方土器などから遠く400kmも離れた瀬戸内地方の人々との交流によって、進んだ稲作技術東日本最も早い時期に取り入れた人々の集落遺跡であることが明らかになりました。中里遺跡はこのように学術的に大変貴重であり、小田原の歴史を知るための代表的な遺産でもあるところから発掘された住居跡の一つを再現し、中里遺跡ポケットパークとして市民の皆さんに弥生文化に親しんでいただこうとするものです。(株式会社ダイドーリミテッド 小田原市教育委員会)

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下曽我駅周辺の遺跡図/「永塚遺跡群と下曽我遺跡」(小田原市教育委員会編)を参照しました


・・・飯泉

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街道の風景⑧ 巡礼道を飯山観音に向かいます/飯泉観音手前

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巡礼道道標              飯泉交差点を直進/255号

国道255

秦野市より足柄上郡松田町を経て小田原市へ至る一般国道である。秦野市と足柄上郡松田町の間は国道246号と重複しているため、単独区間は足柄上郡松田町(国道246号)と小田原市(国道1号)の間である。国道1号と国道246号を南北に結んでおり足柄平野の主要ルートとしての役割を果たしている。Wikipedia

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勝福寺山門

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勝福寺(しょうふくじ)
小田原市飯泉にある真言宗東寺派の寺院。山号は飯泉山。本尊は十一面観音で、坂東三十三箇所5番札所である。飯泉観音(いいずみかんのん)とも称される。この寺は奈良時代孝謙上皇の信頼を得たが、上皇の没後下野国薬師寺に左遷されることとなった僧・道鏡が下野国へ赴く途中、上皇から賜った十一面観音を相模国足柄下郡千代村に堂宇を建立して安置したのに始まると伝えられる。この観音像は、唐からの僧。鑑真が請来したものと伝えられ、当初は補陀落山と号し、道鏡の出身である弓削氏氏寺であったという。平安時代の830年(天長7年)現在地に移ったとされ、室町時代に現在の勝福寺と号するようになり、後北条氏の帰依を得た。なお、この寺には曾我兄弟(曾我裕成・時致)が仇討の際に日参して成就したことや、二宮尊徳が14歳の時、旅僧の訓読する観音経を聞いて発心したという伝説が残されている。Wikipedia

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飯山観音仁王門

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勝福寺の仁王門
飯泉山勝福寺は真言宗東寺派に属し、通称飯泉観音と呼ばれ坂東33
観音の第5番札所として有名です。本堂や本尊の十一面観音は県の重要文化財に指定されるなど由緒ある寺院です。仁王門は「飯泉誌」によると宝暦8年(1758)に造営されたもので、全体に木割れが太く、二重の虹梁蟇股(こうりょうかえるまた)式の妻架構(つまかこう)が堂々とした外観を構成しています。また八脚門としては県下でも最大限で格調高いものです。この仁王門も老朽化のため昭和34年から38年まで解体修理され、屋根も瓦葺から銅板葺に改変されましたが、それ以外は貫などに新材で補修した場所があるものの原形をよくとどめています。(説明板)

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飯泉山勝福寺(通称飯泉観音)
飯泉山勝福寺は真言宗東寺派に属し、十一面観音を本尊とする。創立は奈良時代の頃、弓削道鏡が流されて下野に赴くとき、千代の郷に寺を建立し孝謙天皇より賜った唐国伝来観音像を安置したのに始まると伝えられている(千葉山弓削寺)。後に寺が焼けて当地に移され飯泉山勝福寺と称した。坂東33観音の5番札所としても有名で、国府津の額木橋から当寺までの道は巡礼道と呼ばれている。棟札によれば、現在の本堂は宝永3年(1706)に再建されたもので、江戸初期の古式をとどめた地方色豊かな建物である。本寺にまつわる伝承として、曽我兄弟が仇討祈願のため日参し五郎が百人力、十郎が十人力を授かり富士の裾野で仇討に成功したことや、講談で有名な雷電為右衛門が田舎相撲の大岩第五郎を倒したことがある。また、二宮尊徳が少年時代の頃旅僧から観音経を聞き一念発起した地であると言われている。飯泉観音の縁日は118日が初観音、89日・10日が四万八千日、127日・8日がだるま市で、いずれも市が立ち多くの人で賑わう。(説明板)


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勝福寺の青銅水鉢
水鉢は青銅製で帆船の形をしています。船尾に十一面観音菩薩の座像が一体あり、水鉢の全体に多数の銘文が刻まれています。銘文によれば作者は江戸神田の鋳物師小沼播磨守藤原正永とあり、江戸時代の宝永元年(17047月と記してあります。この水鉢は水鉢として形などが珍しくその造りも優れています。全長274cm、幅45cm、高さ82cm。(小田原市教育委員会)

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勝福寺の銅鐘
この銅鐘は青銅製の和鐘で、銘文により江戸時代初期の寛永6年(1629)に地元小田原の鋳物師である青木源右衛門が作ったことがわかります。また、この銅鐘の奉納者は江戸の侍である佐須弥左衛門尉政重と記されています。小田原の鋳物業は戦国時代に北条氏から庇護を受け、関東鋳物業の中心でありました。江戸時代になってからも鋳物は栄え山田、長谷川、青木の緒家から名工が生まれ小田原の梵鐘として広く知られてきました。この銅鐘もその一つであり、市内に残る数少ない銅鐘の内でも優れたものであります。総高139cm 鐘身高100cm 口径74cm 童頭高28cm(小田原市教育委員会)


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勝福寺の大イチョウ             二宮金次郎発願の像

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八幡神社鳥居/飯泉

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八幡神社
主祭神:誉田別命 例祭日:10月第1日曜日  境内末社:稲荷社・天神社・神明社
古来、茲飯泉は鎌倉街道・大山街道・足柄山道・箱根山道等々が交錯し、殊に(まりこ)(現在の酒匂川)の渡し場と共に交通の要衝であったが、同時に洪水・地震・噴火に悩まされた住民は相謀り、永年の願望だった茲飯泉村に鎮守神を奉斎すべく、時の宗我麿介広之(宗我都比古神社々主)に請願し、鎌倉八幡宮のご分霊を奉遷したのである。其の後逐次近郊の末社を整理集合して郷社として天下泰平・五穀豊穣・安産・永世平和の守護神として崇尊され祀られてでた。(由緒書き)

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街道の風景⑨ 左から狩川が合わせます、かつては「飯泉の渡し」箱根の山が眼前に迫ります/飯泉橋

狩川

神奈川県の足柄平野西部を流れ酒匂川に合流する二級河川。二級河川部分の延長は13.64kmである。神奈川県南足柄氏の金時山東斜面に源を発し北上、その後足柄街道(県道78号線)に沿って流れる。南足柄市役所や大雄山駅近くからは県道74号線に沿って概ね南東へ向かって流れ、小田原市飯泉の国道255号飯泉橋付近で酒匂川に合流するWikipedia


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振り返って見る曽我丘陵、北は松田丘陵&丹沢山地です/飯泉橋曽

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曽我の里ルート図(赤:歩行ルート 橙:旧東海道 紫:巡礼道 緑:六本木通り)


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資料ファイル

足柄下郡

神奈川県西部にある郡。以下の3町(箱根町、真鶴町、湯河原町を含む。郡域は上記の3町以外では現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。小田原市(大字曽比、栢山、上曽我、曽我大沢、鬼柳、下大井を除く全域)。713(和銅6年)律令時代「好字二字の制」により足下郡と表記されることとなり、これによって「あしのしも」という読みも行われた。郡衙は小田原市内の千代廃寺付近と推定されている。Wikipedia


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足柄郡家と千代廃寺
千代廃寺(千代寺院)は研究史の上では初期国分寺に比定されたことがありました。これは「府中」(ふなか)や「国府津」という地名、そして千代廃寺の伽藍配置が東大寺方式であるとされたことによります。そのため千代廃寺に隣接した永塚台地に初期相模国府があったとする説も木下良氏によって唱えられました。現在では初期相模国府説は否定されていますが、この考え方はそっくり初期寺院郡家に置き換えることができます。というのも郡家の近隣では初期の古代寺院の跡が発見されることが多いからです。こうした寺院は郡寺、郡附属施設寺院、郡家周辺寺院などと呼ばれています。
国府津も国府の津(湊)を語源とするものではなく「郡津」(こほりのつ)が転訛したものではないかと考えられています。

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永塚に足下郡家があったとすとその中心はどこだったのでしょう。ここでは先に示した集落遺跡の空白地、永塚観音堂周辺に広がる永塚長森遺跡候補地としてクローズアップされてきます。そして郡家の存在と深く関わる古代の東海道は足下群と足上郡の郡境を東西に走り、大磯丘陵の手前でに方向を変えて国府津付近に比定されている小総駅家(おぶさのうまや)へと続くものと思われます。
下曽我遺跡の立地は台地から下った低地部にあります。この一帯は永塚小海端、曽我岸、曽我岸、曽我光湖、曽我耕海、千代光海などの地名が残るように森戸川の氾濫による低地が広がっていました。低湿地が埋め立てらて今の姿になったのは天保81837以降であることが千代三嶋神社の開拓記念碑から分かります。おそらく古代には小舟を使って下曽我遺跡の辺りまでは森戸川を遡ることができたのでしょう。そのように考えると下曽我遺跡は郡家に付属するの機能を持っていたこと考えることができます。隣接する永塚下り畑Ⅳ地点で見つかった舗装道路跡も郡家と津、さらには千代廃寺を結ぶ地域の重要道路だったのではないでしょうか。(「永塚遺跡群と下曽我遺跡」/小田原市教育委員会編を参照しました)

相模国府-四之宮(平塚)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26660116/

by Twalking | 2018-07-13 10:32 | 古東海道関連(新規)

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