無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり飛鳥山01-飛鳥山公園   

日時 2018.8.17(金)
天気 晴れ


今年の夏は猛暑続きで外出は控えてましたが、
湿度が低いカラッとした天気との予報だったので、
久し振りに出かけてみました。

飛鳥山公園界隈ですがここは豊島郡衙跡、豊島氏の
本拠・平塚城址など史跡が豊富にありますので、
ます、飛鳥山博物館で下調べして散策してみました。
初めてですが、いい森ですね!気持ちよかったです。



・・・飛鳥山公園/北区

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街道の風景① 駅のすぐ北側が飛鳥山公園、武蔵野台地の縁辺に位置します/王子駅

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飛鳥山
東京都北区の小丘陵。武蔵野台地東縁が荒川低地に接する崖上にあり、北東側直下にJR京浜東北線王子駅がある。地名は元亨年間(132124)豪族豊島氏居城守護神として熊野飛鳥明神をここに勧請したことに由来する。標高は27mにすぎないが、台地末端の急崖上から荒川低地を眼下に見下ろし、晴れた日には遠く筑波山や日光連山まで見通せた。徳川8代将軍吉宗は、当時旗本野間氏所領であったこの地を石神井川のすぐ北の王子権現寄進し、1000本をこえる桜を植えて一般に公開したため上野、向島と並ぶ桜の名所となり、紅葉の滝野川とともに江戸の郊外行楽地として親しまれた。(コトバンク)

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JRの飛鳥山下跨線橋を渡ると別世界、いい森ですね~!/飛鳥山公園

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桜の賦の碑
桜の賦は松代藩士で儒者であったが、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ明治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山の作である。この賦で象山は桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門第吉田松陰
の密出国の企てに連座松代に蟄居中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志操は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞えると結んでいる。この賦は象山50(万老元年1860)の作と云われ2年後の文久2年(1862)孝明天皇の宸賞を賜った。象山は蟄居赦免となり翌年京に上り皇武合体開国論を主張してやまなかったが、一徹な尊王攘夷論者によって刺され元治元年(186471154歳の生涯を閉じた。この碑は遺墨をもとに弟子勝海舟の意によって同門小松彰等によって建てられた。碑陰記は同門北沢正誠の文で書は日下部鳴鶴である。明治141115日と刻まれている。この下に挿袋石室が埋蔵されている。桜賦俗解巻照 森正(東京都北区役所)

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飛鳥山の歴史
飛鳥山公園は明治6に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。このあたりは古くから人が住んでいたらしく先土器時代(日本で最も古い時代)、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台のところ)に飛鳥明神の神が祀られていたからと伝えられています。江戸時代の中頃元文2年(1737)徳川八代将軍吉宗がこの地を王子権現寄進し荒地を整備して、たくさんの桜や松、楓などを植えたのでそれからは桜の名所として有名になり周りに茶屋などもできました。その説明は右手の大きな石碑に詳しく刻まれていますが、この文章がとても難しくすでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました。飛鳥山のお花見は向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語に出てくるような仇討ちの趣向や変装などのためにたいへんな賑わいでした。また東側の崖からはカワラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって危険防止のために禁止されました。この山は東から西へのなだらかな斜面でしたが、道路拡張のためにせばめられ先に中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ夜は五色の光に輝いています。(東京王子ロータリークラブ)

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飛鳥山碑
八代将軍吉宗は鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保5年(1720)から翌年にかけて1720本の苗木を植栽した。元文2年(1737)にはこの地を王子権現社寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも開放されるようになり花見の季節には行楽客で賑わうようになった。この碑文は吉宗が公共園地として整備したことを記念して、幕府の儒臣成島道筑(鳳卿・錦江)によって作成されたもので、篆額は尾張の医者山田宗純の書である。碑文の文体は中国の五経の一つである尚書(「書」または「書経」ともいう)の文体を意識して格調高く書かれており、吉宗の治世の行き届いている太平の世であることを喧伝したものと考えられる。碑文には元亨年中(13213)に豊島氏王子権現(現在の王子神社)を勧請したことから、土地の人々がこれを祀ったこと、寛永年間に役人は祭りを復元し、三代将軍家光公の命を受けて昔の形のまま祠を新しくしたことなどが記されている。異体字や古字を用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよく知られている。(東京都教育委員会)


・・・旧渋沢庭園

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緑のオアシスですね・・・、憩えます/旧渋沢庭園入口

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旧渋沢庭園暖依村荘跡
飛鳥山公園の一角は渋沢栄一が1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで初めは別荘として、後には本邸として住まいました「暖依村荘」(あいいそん)跡です。約280002の敷地に日本館西洋館をつないだ母屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年の空襲で焼失しましたが、大正期の小建物として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が昔の面影をとどめる庭園の一部とともによく保存されています。


渋沢史料館

渋沢栄一の1840(天保11)年から1931(昭和6)年の91年におよぶ生涯と携わったさまざまな事業、多くの人々との交流などを示す諸資料を渋沢史料館にて展示しております。(説明板)

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茶席待合跡              
茶房「無心庵」跡・邀月台跡


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兜稲荷社殿
日本橋兜町の第一銀行構内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や燈籠等は現在まで残されています。この社は最初、三井組の守護神である向島の三囲神社(みめぐり)から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後、兜社は為換座の建物とともに第一国立銀行に引き継がれたものです。(説明板)

向島三囲神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/16707366/

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こちらが入口辺りだったようです(現存せず)

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旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)
飛鳥山公園南側一帯には日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。渋沢栄一は明治34年から昭和6年に亡くなるまでの30年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は現在の本郷通りから「飛鳥山3つの博物館」に向かうスロープ付近に出入り口となるがあり、邸内には和館洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和20年の空襲で焼失してしまい、大正6年竣工の「晩香廬」(ばんこうろ)と大正14年竣工の「青淵文庫」(せいえんぶんこ)のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は渋沢栄一の喜寿の祝いとして、「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督しています。当時の世界的なデザイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成17年「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)」として二棟が重要文化財(建造物)に指定されました。(東京都北区教育委員会

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国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 晩香廬
設計者:田辺淳吉(清水組技師長)建築年:1917(大正6)年 
近代日本の大実業家のひとり渋沢榮一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設)の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナーストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。応接室の空間は勾配のついた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名はバンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。(財団法人渋沢栄一記念財団)

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国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 青淵文庫 
設計者:中村田辺建築事務所・田辺淳吉 建築年:1925(大正14)年 
渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。(財団法人 渋沢栄一記念財団)

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今回の目的の一つ「北区飛鳥山博物館」へ向かいます

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江戸名所図会 飛鳥山 全図 飛鳥橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

飛鳥山

山名の由来は飛鳥明神社が祀られていたことによる。享保51720)年から8代将軍吉宗の命により、桜の苗木約1000本、ツツジ、赤松、楓などの植樹が幕府によって行われ庶民に開放された。花見の名所として多くの人々が訪れた。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)


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飛鳥山公園案内図



・・・・資料ファイル

北区飛鳥山博物館(01-豊島郡衙関連)

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展示風景① 律令時代と豊島郡衙(奈良時代~平安時代)

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墨書土器
奈良時代/御殿前遺跡出土「厨」の文字が書かれており、食料の保管や調理を行なっていた「厨家」で使われていたことを示している。(説明板)

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墨書土器
奈良・平安時代/中里遺跡出土「中」や「大家」などの文字が見られる


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武蔵国豊島郡衙
武蔵国は現在の埼玉県と東京都、神奈川県の横浜市や川崎市を含んだ広い範囲です。その中心は国の役所である「武蔵国府」で現在の東京都府中市にありました。武蔵国は21の郡(最初は19の郡)に分割されていました。現在の北区はその中の豊島郡に含まれます。その範囲は北区・板橋区・荒川区・台東区・文京区・練馬区がほぼ該当します。各郡には役所として「郡衙」がおかれていました。豊島郡の中心である「豊島郡衙」は北区の西ヶ原にありました。(展示パネル)

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豊島郡衙の構造
古代の役所「豊島郡衙」は郡庁院と正倉院に大きく分けられます。郡庁院には行政の事務的な仕事を行う中心施設の「正殿」があります。その他、宿泊施設である「」や食料の保管や調理を行なう「厨家」(くりや)などの建物群が周辺にあります。郡庁院の西にある正倉院には租税として徴収した稲籾(いなもみ)を納める「正倉」や大型の倉の「法倉」などがあります。これらは中央の広場を囲むように数棟が列になって建てられていました。正倉院全体は大きな溝で取り囲まれていました。(展示パネル)

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古代東海道と豊島郡衙
律令社会においては中央からの命令を地方に、地方の状況を中央にいち早く伝達することを目的に道路を整備しました。地方の各国はそれぞれ七つの「道」というブロックにくくられ、その各国府を中継するように直線道路を造りました。武蔵国は宝亀2771)にそれまでの東山道から東海道に編入され、相模国府から武蔵国府、そして下総国府へと向かう道路としての東海道が確立されました。豊島郡衙は武蔵国から下総国府へ行く最短距離のルート上に位置しており、古代東海道がここを通っていました。(展示パネル)

駅路網の移り変わり


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7世紀第4四半期~8世紀第3四半期
武蔵国は東山道に属していたので中央からの伝達ルートは上野国府から新田駅(上野国)を通じて南の武蔵国府へと進み、そこから引き返して足利駅(下野国)を通り下野国府へと行きました。




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8世紀第4四半期
武蔵国の東山道から東海道への編入に伴い、中央からの伝達ルートは相模国から武蔵国、そして下総国へと進むルートに変わりました。








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9世紀第1四半期~10世紀終末
武蔵国から下総国へと向かうルートが変更されました。これで道路網の整備が確立されたことになります。(「延喜式」の駅路網)








・・・
北区史(通史編・原始古代)より補足(抜粋)

全国に設置された地方官衛のうちこれまでに発掘調査から推定できる遺跡例は国衙跡約30例、郡衙跡約70例を数える。武蔵国内では武蔵国府関連遺跡(東京都府中市)、都築郡衙跡長者原遺跡(横浜市緑区)榛沢郡衙中宿遺跡(埼玉県大里郡岡部町)そして豊島郡衙である御殿前遺跡(東京都北区)の4遺跡が判明しており、18ヶ所の郡衙跡が未確認である。
郡衙を構成する諸施設については長元3年(1030)の「上野国交替実録帳」(実録帳)から伺うことができ、記載されていた施設とは正倉郡庁(たち)・厨家(くりや)であった。発掘調査で明らかになった郡衙遺跡が増加しその構造も「実録帳」のそれと符合する例が多く指摘されている。

武蔵国府関連遺跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/18098975/
都筑郡衙跡・長者原遺跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22820760/

豊島郡衙
郡衙域:区内西ヶ原二丁目から上中里一丁目の広域に存在し、標高20mを超える武蔵野台地北東縁辺に立地している。(東京低地との比高差約20m)郡衙関連遺構は御殿前遺跡七社神社前遺構に分布する(両遺跡とも縄文時代・弥生時代の大規模な集落跡であり複合遺跡と位置づけられている)

発掘調査:昭和57年にスタートし20数次の調査が実施され郡衙の構造を広域的に把握することが可能になった。調査は御殿前遺跡(農業技術研究所跡地・現在の防災センター・滝野川体育館ほか)が最初で、郡庁曹司など郡衙の主要施設が発見された。昭和61年から西ケ原駅、62年滝野川警察署(周辺は七生神社遺跡に該当)、63年大蔵省印刷局滝野川工場内で調査、農業技術研究所跡地の西方域正倉院の位置することを確定した。これにより「実録帳」にみえる郡衙を構成する諸施設の要件を満たすことになった。

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初期豊島郡衙
豊島郡衙の創設も7世紀後半に求めることができ、掘立柱建物堅穴住居址特殊遺構で構成されていた。掘立柱建物(現在の滝野川体育館)は梁行2間、桁行15間の南北棟は桁行総長が37m、床面積が2002近い壮大な建物。この建物の南行から9m隔てた東側には大型東西棟(桁行2間(25m)梁行2間で桁行が10間(25m以上)が発見され、南北等とL字形に設けられている。郡庁の西側には館と考えられる3棟の東西棟が見られる。南西側で堅穴住居跡が集中、多量の汁器類が出土し厨家に相当する。郡庁と館の中間には空間地が設けら直径3m、深さ2m弱の大穴が発掘され、炭化物とともに畿内産土師器が出土した。(図:初期豊島郡衙の構成 7世紀後半~8世紀初頭/北区史)

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拡張する豊島郡衙
8世紀以降、前代よりも一段と整備されていく。郡庁は初期郡庁の南側に場所をわずかに移し終焉するまで建て替えを続け踏襲された。全貌は不明だが二つの配置形態に分類できる。最初の形態は殿舎が東西(脇殿)に2棟、北側に1棟(正殿)をコの字状に配置し周囲を柵列塀で画するもの。(西柵列塀の長さは63m近く)つづいての郡庁は回廊を方形に巡らし、内部の中央北側に正殿を配置するもの。回廊規模は南北が約62m、東西は56m前後と推定される(未調査)
正倉院は大溝で区画され推定長で東大溝265m、南大溝195m、西大溝270m、確認されていないが北大溝225mの不長方形の内郭面積550002を超す規模であった。区画溝内部には正倉建物群20棟)が整然と立ち並んでいた。正倉建物は総柱高床倉庫が14棟で主体をなし、柱間寸法7尺等間で三間×三間、平面積402の同一規模を有していた。正倉院の主要範囲には現在大蔵省印刷局滝野川工場が所在している。郡庁・正倉院を中心に広域に配置された官衛施設の規模はおよそ東西500南北350に及び、初期郡衙の8倍近くに拡大したことになる。郡衙の終焉9世紀後半には律令的官衛機能の衰退と連動するように迎えることとなる。(図:拡張する豊島郡衙(8世紀から9世紀 黒塗り部分は初期豊島郡衙/北区史)

官衛域を通る官道

歴史地理学の研究では豊島郡衙の地を豊島駅に比定する意見が多く聞かれる。しかし、駅家施設を示す遺構遺物は残念ながら確認できていないが、注目できるものとして官道が官衛域を通過していることがあげられる。正倉院の南大溝前面には、現在も鎌倉街道推定されている道路が横走している。そのルートは滝野川方面から谷田川が流れる谷を越え、官衛域の西側に到達すると正倉院南面に引き込まれ、正倉院大溝が東南遇で直角に折れ曲がるように沿って縦走し、東京低地へ下るのである。大溝と区画溝は鎌倉街道のルートを画するように配置されている。このような構造上の特徴は、推定鎌倉街道が8世紀代に遡る官衛の整備に伴って官衛域に組み込まれた官道であったとみてまちがいないだろう。この官道が武蔵国府から乗瀦駅(あまぬま・のりぬま)を経て、豊島駅を結ぶ駅路になるのかはにわかには判断しがたい。しかし、次駅の下総井上(いかみ)が下総国府周辺に所在するとみられ、豊島郡衙と下総国府が東京低地を最短で横断できる位置関係にあるなど、駅路敷設には条件的に都合のよい場所であることに変わりはない。

by Twalking | 2018-08-23 13:01 | 東京散歩(新規)

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