無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり石神井&豊島02-石神井公園周辺   

日時 2018.8.31(金)
天気 晴れ

三宝寺池から石神井川一帯を歩いてみました。
ここは石神井城の郭内、氷川神社や池の謂れの三宝寺、
豊島氏の菩提寺道場寺などの古刹があります。

大田道灌が陣を張ったといわれる城山を確認して、
旧早稲田通りにある禅定院に寄り、豊島橋から
石神井川沿いを廻って駅に向かいました。

深い緑の社叢に立派な伽藍、石神井川の川辺も
いいですね・・・、見応えたっぷりのコース、
桜の頃、秋の紅葉、また違った趣きがあると思います。


・・・上石神井


練馬区の南西部に位置する地域。江戸時代、現在の上石神井及び石神井台は武蔵国豊島郡上石神井村と呼ばれていた。現在の上石神井の範囲は字城山、観音山、立野、池淵、出店(でだな)あたりであり、城山と呼ばれていた場所には現在早稲田大学高等学院とその中学部がある。(Wikipedia

d0183387_19351121.jpg
川の風景① 石神井川右岸の高台が「城山」大田道灌が布陣したと伝わります/上御成橋

d0183387_19464057.jpg
d0183387_19470112.jpg
川から急坂を上ります         下って氷川神社へ戻ります

d0183387_19412033.jpg
城山遺跡・愛宕山塁:No45139遺跡
上石神井3丁目、早稲田高等学院一帯に拡がる遺跡で旧石器・縄文・弥生・中世の遺構・遺物が確認されています。旧石器時代の石器の一部には細石刃(じん)と呼ばれる区内では類例の少ない石器が出土しています。なお、No139遺跡の愛宕山塁太田道灌勢石神井城攻めの際のという伝承がありますが、調査でははっきりしていません。堀状の遺構が確認されておりある程度の規模の施設が構えられていた可能性が考えられます。(練馬の遺跡/練馬区HP)


・・・石神井台


上石神井村のうち石神井川、小字で大門(だいもん)、沼部西村小関をいう。大門という地名は大寺門前を指し、区内にはここのほか練馬と高松に残っている。3代将軍家光は鷹狩りのたびによく三宝寺で休憩した(徳川実紀)。だから三宝寺の山門を御成門と呼ぶ。地名の大門はその御成門に由来する。石神井の語源となった石神様は一説に三宝寺池から出現したともいう。歴史的文献に見える石神井については前にふれたが石神信仰そのものはさらに古く、扇山遺跡(石神井台4丁目)や天祖東遺跡(関町北3丁目)などから縄文時代石棒が発見されている。(練馬の地名今むかし抜粋/練馬区HP)

d0183387_23034342.jpg
街道の風景① 石神井川低地から真直ぐ北に延びる氷川神社の参道です

d0183387_23141991.jpg
氷川神社鳥居/石神井台

d0183387_23154139.jpg
氷川神社
氷川神社は、社伝によると応永年間(1394~)この地を領していた豊島氏武蔵一ノ宮分霊を奉斎して石神井城内に創建したといいます。祭神は須佐之男命・稲田姫命、大己貴神の三神です。文明9年(1477)石神井城落城のあとは石神井郷総鎮守として上石神井、下石神井、谷原、田中、関の五ヶ村の人びとから崇敬されておりました。境内末社には江戸時代からの北野・須賀・稲荷をはじめ御嶽・八幡・三嶋・榛名・浅間・三峯・阿夫利の各社があります。境内には享保12年(1727)の「石神井郷 鎮守社 御手洗鉢」と刻まれた水盤をはじめ多くの石造物があります。中でも本殿瑞垣のうちにある一対の石灯篭は右側の竿に元禄12年(1699豊島泰盈(やすみつ)が寄進したことが刻まれ、左側のものは火袋が失われ銘文が失われていますが泰盈の子泰音(やすたか)によって奉納されたと伝えられています。文化財:豊島氏奉納の石燈籠(練馬区指定文化財)石神井台氷川神社の水盤(練馬区登録文化財)(練馬区教育委員会)

d0183387_23244214.jpg
石燈籠一対
かつては本殿の前面両側に置かれてた燈籠で、元禄12年の年期が彫られています。当神社を創建した豊嶋泰盈(としまやすみつ)、豊嶋泰音(としまやすたか)により奉納されたものです。「高砂」図の彫刻がある風雅な燈籠ですが、一基は火袋が欠損しています。神社の歴史とともにあった石神井城は太田道灌の攻略を受け文明九年(1477)に落城し、当時の城主とその息女は池に入水して果てたと伝えられています。豊嶋氏の繁栄と悲劇が窺われる文化財といえましょう。練馬区文化財指定。(東京都神社庁)

d0183387_23291932.jpg
街道の風景② 三宝寺の門前です/旧早稲田通り

d0183387_23312100.jpg
三宝寺参道入口に「守護使不入」の碑が建っています/石神井台

守護使不入
(しゅごしふにゅう)
鎌倉時代・室町時代において幕府が守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、幕府によって設定された特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じたこと。(Wikipedia


d0183387_23380450.jpg
三宝寺
三宝寺は江戸時代には山号を亀頂山(きちょうざん)といい、不動明王を本尊とする真言宗智山派のお寺です。室町時代の応永元年1394権大僧都幸尊が開山したと伝えられます。文明9年(1477)石神井城落城の後、石神井池南方台地上の現在の野球場周辺から現在地に移ったといわれています。戦国時代に小田原北条氏、江戸時代には徳川氏から保護を受け、近くに数十の末寺をもち府内88ヶ所巡り16番札所となっていました。二度の火災で焼失したものもありますが優れた仏僧や絵画などを今でも数多く所蔵しています。また、三門3代将軍徳川家光が狩りをした時、ここを休憩所としたことから「御成門」と呼ばれるようになったと伝わります。山内東側の長屋門勝海舟邸の屋敷の門を移したものといわれています。(練馬区指定文化財)三宝寺の梵鐘  阿弥陀三尊来迎迹像板碑(子育千体地蔵堂に保管 文明4年(1472)銘 来迎画像が描かれています)

d0183387_23540278.jpg
三宝寺山門(練馬区登録文化財)
寛永2年(1625)及び正保元年(1644)に徳川家光が狩猟の際、当山が休憩所とされたのでこの山門を御成門と称するようになった。江戸時代には平常は門扉を閉じて庶民の通行を禁じていたといわれる。棟札に記されたところでは当山23世宥泉和尚が布施物を蓄積して再建したものであるという。文政10年(1827726日に成り2度の火災にもその難を免れ当山第一の古建築であるばかりでなく当地方稀に見る傑れた山門である。(説明板)

d0183387_23540964.jpg
大黒堂・子育千体地蔵堂
大黒堂は第33世融憲和尚の念持仏であった大黒天尊像を本尊としている。昭和4年(1929)に大黒堂を創建され、併せて江戸子育千体地蔵堂に祀られていた子育千体地蔵尊合祀された。そして東京をはじめ近在に甲子講中の結成を求め信徒を募り殷賑を極めた。現在のお堂は昭和59年の甲子大開帳を期に大黒天と千体地蔵尊を別祀し上階を大黒堂、下階は千体地蔵堂として改築された。(説明板)

d0183387_23584461.jpg
大師堂(奥之院)
建物什宝調書控には「経堂」として載せられているもので、絵図画によれば古来ほぼ現在地近くにあったと思われる。昔は一切経等を納めた経堂であったが、これに千体地蔵弘法大師を安置したので専ら大師堂と呼ばれていた。近年までは朱塗りの小堂であったが昭和42年に迎えた弘法大師ご生誕1300年を記念して改築された。現根本大塔の位置にあったものを平成4年根本大塔建立に伴って現在地に移築された。(説明板)

d0183387_19253959.jpg
d0183387_19253222.jpg
根本大塔               観音堂

d0183387_19281958.jpg
通用門(長屋門)
練馬区旭町兔月園にあった勝海舟邸の屋敷門が所有者の明電舎の事情により取り壊しの処分を受けるに際し、練馬区長須田操氏の斡旋で当山に移築された。(説明板)

d0183387_19390061.jpg
街道の風景③ お地蔵さんが建っています/道場寺角(旧早稲田通り)

d0183387_19441537.jpg
d0183387_19442750.jpg



お地蔵さん           こちらの「焼きだんご」お勧めです

d0183387_19484103.jpg
道場寺山門 豊島氏の菩提寺と伝えられています 

d0183387_19500141.jpg
道場寺
道場寺は豊島山といい曹洞宗の寺です。この寺は文中元年(北朝応安5年・1372)、当時の石神井城主・豊島景村養子輝時(北条高時の孫)が大覚禅師を招いて建てたもので、その時、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々菩提寺としたと伝えられています。今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明9年(1477)太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主泰経一族の墓と伝えられる石塔3があります。道場寺には北条氏康印判状が所蔵されています。この古文書は永禄5年(1562421日、小田原の北条氏康から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状です。内容は道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、練馬区内では現在のところ練馬区に関係する唯一の後北条氏文書です。境内の三重塔(昭和48年築)内には人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されています。(練馬区教育委員会)

d0183387_20083416.jpg
d0183387_19501280.jpg
山門(室町様式)              三重塔(鎌倉様式)

d0183387_20150635.jpg
d0183387_20151168.jpg
鐘楼(安土桃山様式)         紅葉の頃がいいですね

d0183387_00044912.jpg
禅定院山門

d0183387_00045982.jpg
禅定院
禅定院は照光山無量寺といい真言宗智山派(豊島88ヶ所霊場第70番札所)のお寺で、本尊は阿弥陀如来です。「新編武蔵風土記稿」によれば今から約600年前、願行上人によって開かれたお寺であると伝えます。文政年間(181830)の火災で建物・記録などことごとく焼失しましたが境内にある応安、至徳(南北朝時代)年号の板碑によっても創建の古さをうかがうことができます。門前の堂宇に安置された六地蔵や鐘楼前の大宝篋印塔は石神井村の光明真言講中によって造立されたものです。本堂前の寛文13年(1673)と刻まれた織部灯籠(区登録文化財)はその像容から別名キリシタン灯籠といわれ、区内でも珍しい石造物の一つに数えられています。墓地入口にいぼの治癒に霊験のあるいぼとり地蔵や、墓地内に寺子屋師匠の菩提を弔った筆子塚があります。また現在の石神井小学校の前身である豊島小学校は、明治7年区内初の公立小学校としてここに創立され、以来30余年子弟の教育の場でした。(練馬区教育委員会)

d0183387_00161900.jpg
d0183387_00162506.jpg
板碑                 キリシタン燈籠

d0183387_00163721.jpg
d0183387_00163182.jpg
いぼとり地蔵               「なかよし・わらべ」の碑

d0183387_00412784.jpg
川の風景② 気分を変えて石神井川沿いを歩いてみました/豊島橋(旧早稲田通り)

d0183387_00570684.jpg
d0183387_00571298.jpg
山下橋                和田前歩道橋

d0183387_00590732.jpg
川の風景③ 遊歩道がついて、桜の頃がいいでしょうね、山下橋に戻ります/南田中橋

d0183387_01011078.jpg
武蔵野の路「千川・石神井川コース」
このコースは武蔵野市多摩湖自転車道入口から練馬区石神井川長光寺橋までの河川沿いの約8.9kmの平坦なコースです。コース周辺には武蔵関公園、善福寺公園、石神井公園など水と緑の豊かな都市型リクリエーション施設が点在しています。また史跡、寺社などの文化資源が数多く見られます。(案内板)

善福寺池の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24083934/

d0183387_01143662.jpg
和田稲荷神社の台輪鳥居、途中にありましたので参拝/石神井町

稲荷鳥居

鳥居の形式の一。明神鳥居に似て、島木との間に台輪が付いたもの。台輪鳥居。(コトバンク)


d0183387_01144032.jpg
和田稲荷神社
石神井町にある稲荷神社。地図などでは単に「稲荷神社」とだけ記されている。別名伝五郎稲荷、または和田堀稲荷とも呼称される。かつては周辺の和田地区鎮守であったが、明治以降は石神井公園南側に隣接する石神井氷川神社合祀されている。複数の旧資料中に記述はあるものの、明確な創建年代については不詳である。境内の石碑(1932年建立)の背面には 「三百餘年の昔 京都伏見乃里より(渡邊)傳五郎翁の遷し祀りしと云ふ」と刻記され「伝五郎稲荷」はこの人物の名に由来する。入口の鳥居は台輪鳥居と呼ばれる形式でこの形で現存するものは比較的数が少ない(練馬区内では3基のみ)。敷地内のほぼ中央に立つ御神木の白樫(シラカシ)は高さ18m・幹の太さ3.8mで、樹種別では練馬区内最大のシラカシとされる。1900(明治33年)に奉納された神使の狐像と火焔宝珠紋の手水舎がある。現在はこの手水舎に水は無い。また境内社として、本殿の左手奥北側の塚に朱い鳥居があり荷田春満を祀ったとされる「荷田神社」がある。Wikipedia

d0183387_01242562.png
石神井公園駅周辺マップ
(赤:歩行ルート青:石神井川黄:富士街道・旧早稲田通り・井草通り)

三宝寺池・石神井城関連展示はこちらへhttps://teione.exblog.jp/27089411/


・・・資料ファイル
石神井公園ふるさと文化館(2


d0183387_02203574.png

武蔵野の中の練馬
武蔵野台地は多摩川から流れ出た土砂が青梅付近より古東京湾にかけて堆積した扇状地でした。その後、1213万年の間に海進・海退隆起、富士山などの火山灰の堆積により現在のような西高東低の比較的平らな台地となりました。地表は黒土で覆われていますが、深さ0.51m程で厚く堆積した火山灰土(関東ローム層、赤土)となります。その下は扇状地の時期に堆積した小石混じりの土層となり地下水が蓄えられています。練馬区域は石神井川などの河川沿いの土地は乾いた平坦な土地でした。(展示パネル)

d0183387_02170983.png
主な旧道(展示パネル)

d0183387_02454450.jpg
所沢道
八成橋で杉並区から練馬区に入ります。禅定院の門前で向きを西に変え、道場寺三宝寺の前を通って、富士街道を斜断した後、南大泉を経て保谷市に入り、所沢へと通じています。概ね今の早稲田通りです。「新編武蔵風土記稿」ではこの道のことを単に「所沢ヘノ道」と記してあり、はっきり「所沢道」と書かれたのは「石神井町誌」(大正14年)が初めてのようです。関東大震災後、都市計画により名称が「昭和通り」となり、大部分の区間で拡張工事が行われましたが、禅定院から石神井小学校の間には今も所々に細い道が残っています。八成橋には谷原長命寺への道標があります。江戸の文人太田南畝が「石神井三宝寺遊記」で歩んだ道でもあり、大泉・石神井から江戸方面への産業の道でもあったと共に江戸からの参詣、行楽の道でもありました。(練馬区教育委員会)

d0183387_02483755.jpg
清戸道(きよとみち)
主に江戸時代に江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道である。神田川に架かる江戸川橋(現文京区関口付近)を江戸側の起点とし、そこから北西へ約56里(約2024km)の武蔵国多摩郡清戸(上清戸村、中清戸村、下清戸村、清戸下宿。現東京都清瀬市上清戸、中清戸、下清戸、下宿付近)との間を結んでいたとされる。成立の経緯は明らかではない。江戸時代に尾張藩鷹場が清戸にありそこへ鷹狩りに向かう尾張藩主が通ったといわれているが、それよりも農村であった清戸から市場である江戸への農産物輸送路としての役割が大きかった。「清戸道」の名称は江戸時代以前の文献には確認できないが『新編武蔵風土記稿』では「下高田村」(現:豊島区)の「村の北寄に目白辺より練馬辺への往還掛れり」、「長崎村」(同)の「雑司ヶ谷より練馬村境界に通ずる往来あり、幅五間」といった形で清戸道に相当する道の記述が見られる。(Wikipedia

d0183387_02420961.jpg
ふじ大山道
現在の練馬区から大山へ向かうものである。富士山への参詣者も通ったため「ふじ大山道」と呼ばれ、それが明治期に入って「富士街道」の名で呼ばれるようになったものである。練馬区北町1丁目の旧川越街道とふじ大山道の分岐点に1753年(宝暦3年)下練馬村講中により「ふじ大山道 田なしへ三里 府中江五里」と陰刻された道標が建立されており練馬区指定文化財となっている。経路:川越街道下練馬村(練馬区北町1丁目付近)-田無(西東京市)-押立の渡し(多摩川)- 長沼(稲城市) -図師(町田市)-府中通り大山道を経て大山へ(Wikipedia

by Twalking | 2018-09-06 19:34 | 東京散歩(新規)

<< 狛犬-石神井氷川神社 一難去って・・・ >>