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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『ひぐらしの里』01-道灌山   

日時 2018.9.18(火)
天気 晴れ


不安定な天気が続いていますが、
なんとか晴れそうなので日暮里周辺
に歩きに出かけました。

武蔵野台地北側の続きでになりますが、
全く知らない所、土地勘もないので
「散策マップ」等を参考にしました。
いい所ですね~!見所一杯です。


・・・西日暮里

日暮里(町)
1918年(大正7年)に町制施行して誕生、元の武蔵国豊島郡日暮里村(にっぽりむら)。歴史的には武蔵野台地と荒川沿岸の低地(氾濫原)の境にあり起伏が激しい。奈良時代にはこの周辺は「武蔵国豊島郡荒墓郷」と呼ばれていた。この荒墓郷は現在の台東区・荒川区・北区南部あたりを占めるかなり広大な地域であった。日暮里はかつて新堀(にいほり)という地名だったが、享保のころから「一日中過ごしても飽きない里」という意味を重ねて「日暮里(日暮らしの里)」の字が当てられ、1749年(寛延2年)に正式な地名となった。Wikipedia抜粋)

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街道の風景① 道灌山通りの右が道灌山、左が諏訪台です/西日暮里駅歩道橋

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東京都道457号駒込宮地線
文京区と荒川区を結ぶ一般都道。(通称道灌山通り全線が環状4号線に属している。起点:文京区千駄木3丁目(道灌山下交差点)終点:荒川区西日暮里1丁目(宮地交差点)経由地:千代田線・西日暮里駅・JR東日本西日暮里駅)千代田線西日暮里駅は同道路の地下に建設され、JR東日本の西日暮里駅は同道路をまたぐ跨線橋の上にホームがある(Wikipedia


・・・道灌山

荒川区西日暮里四丁目にある高台である。上野田端王子へ連なる台地の一際狭く少し高い場所にある。名称の由来は江戸城を築いた室町時代後期の武将・太田道灌出城址という説、鎌倉時代の豪族・関道閑(せきどうかん)の屋敷址という説がある。明治
時代にはこの台地を訪れた正岡子規が「山も無き 武蔵野の原を ながめけり 車立てたる 道灌山の上」とここからの眺望を短歌に残している。Wikipedia


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街道の風景② 開成高校に沿って坂を上ります/ひぐらし坂下

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ひぐらし坂
荒川区西日暮里四丁目にある延長約180mの坂である。都道457号駒込宮地線(通称・道灌山通り)に面する開成高校の正門脇から途中左方に曲がり、開成学園グラウンド脇に上る。坂のある台地道灌山と呼ばれる高台であり、この坂は道路を通すために道灌山を削り道灌山通りと田端方面とを接続させるために作られた。1990年(平成2年)に地元から要望によって「ひぐらしの里」に因んで「ひぐらし坂」と名づけられた。Wikipedia

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佐竹邸と渡辺町/坂下
この付近一帯は
秋田藩主
・佐竹右京太夫の広大な抱屋敷であった。約2万坪(約660002)に及ぶ敷地内には「衆楽園」と名づけられた山荘があり当時、城北屈指の名園として知られていた。明治以降、笹や竹が生い茂り「佐竹っ原」と呼ばれるようになったが、大正5年に27銀行(後の東京渡辺銀行)頭取・渡辺治右衛門が入手し、近代的田園都市を目指した高級住宅地を建設・分譲した。渡辺町と呼ばれ、石井柏亭ら多くの芸術家・文化人が住んだ。昭和7年の区制施行時に日暮里渡辺町が正式地名に採用された。(荒川区教育委員会)

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道灌山遺跡
開成学園第2グランドを中心に広がり、縄文時代(およそ8000年前)から江戸時代にわたって営まれた集落址である。これまでの調査により縄文時代の住居址、弥生時代中期の住居址と溝(環濠)、平安時代の住居址、江戸時代の溝などが検出されている。グランド北側から検出された環濠は幅約1.6m、深さ1.3mで断面形がV字形を呈する。ほぼ東西に延び、台地上における弥生時代集落の居住区域の北限を示すものと思われる。(荒川区教育委員会)
第一号住居址(ここから西へ約10m)
開成学園第2グラウンド内から発見された弥生時代中期の住居址である。平面形は四隅が丸い長方形を呈し、長径約5.6m、短径約4.4m、深さ約20cmである。(荒川区教育委員会)

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道灌山遺跡
JR西日暮里駅の西側の開成学園周辺、標高約23mの上野台地上にあります。上野台地は北西は北区の飛鳥山から、南東は台東区の上野公園まで細長く延び、多くの遺跡が分布しています。道灌山遺跡では弥生時代(環濠)が見つかっています。溝は幅約2m、深さは約1.21.5m、断面はV字形をしています。溝の役割は外敵の侵入を防ぎムラを守るため、またムラの境界として使われたといわれています。環濠の内側から弥生時代の住居跡が4軒見つかりました。また、隣接する北区(不動坂遺跡)では弥生時代の溝の一部や(方形周溝墓)などが見つかっており、道灌山遺跡との関連がうかがえます。(荒川ふるさと文化館常設展示図録を参照)

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開成高グランド先から田端方面を望みます/坂上

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道灌山
西日暮里四丁目の台地は道灌山と呼ばれている。地名の由来として太田道灌砦跡という伝承や、地元の土豪で善性寺(東日暮里五丁目)の開基とされる関道閑屋敷跡などの説がある。道灌山は眺望に優れ、秋田藩主佐竹右京大夫の抱屋敷や上覧場と呼ばれた見晴台などがあった。見晴台は庶民にも開放され茶屋が設けられていた。眼下には三河島や尾久の田園風景、筑波山や日光連山、下総国府台(千葉県市川市)などを望むことができた。道灌山は薬草摘みの場として知られ一年中、採取者が訪れていた。また、虫聞きの名所としても名高く、秋の風情を求めて江戸の人びとがここに集まった。虫聞きの様子が歌川広重の浮世絵などに描かれている。その後、田端の台地(北区)も道灌山と呼ばれるようになり、茶屋などが設けられ賑わいを見せるようになった。その一方でここ道灌山の物見台は寂れていったという。根岸(台東区)の正岡子規も道灌山をよく訪れ、紀行文「道灌山」を残したことで知られる。(荒川区教育委員会)


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向陵稲荷神社鳥居/西日暮里


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向陵稲荷神社/西日暮里
当社は向陵稲荷大明神(宇迦之御魂神)を主神とし祭祀を行い、祭神の神徳をひろめ本神社を信奉する人々を教化育成し、家内安全・商売繁盛及び学業成就の神であります。当社は江戸時代初期より佐竹右京太夫屋敷内に祀られておりましたが、大正の初期渡辺町(現西日暮里4丁目の一部)の開設されたときにひぐらし公園(現開成学園中学校の校庭)に祀られ町の鎮守と崇められていました。後当初に移転しましたが、昭和20年の大戦災で全町焼土と化しましたが当社は不思議にも戦火をまぬかれ神威赫々として現存し、昭和46年社殿を改築、社務所を新設し宗教法人向陵稲荷神社となりました。(説明板)

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街道の風景③ 開成学園の高校と中学の間を道灌山通りへ下ります/向陵稲荷坂


・・・西日暮里公園

西日暮里駅から坂を上がった高台にある西日暮里公園。すぐ近くには諏方神社があり、多くのお寺が点在しています。この辺りは江戸時代に「ひぐらしの里」として高台からの見晴らしや寺社巡り、虫の鳴き声を楽しむ虫聴きなどで親しまれていました。(荒川区HP)


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街道の風景④ 西日暮里駅から坂を上ると西日暮里公園があります/西日暮里駅

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素晴らしい森が残ります、景勝地だったんですね/西日暮里公園

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青雲寺境内と前田家墓地
かつてこの地には、太田道灌に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繋松があり、荒川(隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を望むことができる景勝地として多くの人々が訪れた。花見寺の一つ青雲寺(西日暮里3丁目6番)の境内の一部で、金毘羅社なども祀られていた。明治7年この一帯が旧加賀藩前田家に売却くされ同家墓地となった。前田家12代当主・斉泰から4代にわたって神式の墓地として使われたが、昭和47年に国許に改葬され翌48年その跡地にこの西日暮里公園が開設された。なお、この地にあった日暮里舟繋の松の碑や滝沢馬琴筆塚の碑などは、現在の青雲寺本堂前に移されている。(荒川区教育委員会)

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道灌山
道灌山は上野から飛鳥山へと続く台地に位置します。安政3年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里付近にその名が記されています。この公園を含む台地上に広がる寺町あたりはひぐらしの里と呼ばれていました。道灌山地名の由来として中世、新堀の(日暮里)の土豪・関道閑屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌出城を造ったなどの伝承があります。ひぐらしの里は江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれます。

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道灌山・ひぐらしの里は荒川区内で最も古い歴史をもつところです。このあたりから出土した土器や住居址などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたことを物語っています。道灌山の大半は秋田藩主・佐竹氏抱屋敷になりますが、東の崖ぎわ人々の行楽地で筑波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で多くの採集者が訪れました。ひぐらしの里では寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。『桃さくら鯛より酒のさかなにはみどころ多き日ぐらしの里』(十返舎一九)雪見寺(淨光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(青雲寺・修性院)、諏訪台の花見、道灌山の虫聞きなど、長谷川雪旦や安藤広重ほかの著名な絵師の画題となり今日にその作品が伝えられています。明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり「道灌山」という紀行文を著しました。『山も無き武蔵野の原を眺めけり車立てたる道灌山の上』(子規) 昭和48年ここ西日暮里公園が開園し区民のいこいの場となっています。(石碑文)

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道灌山虫聴
江戸時代から明治時代にかけて道灌山は虫聴きの名所だった。『江戸名所花暦』(文政10年(1827) 刊行文は岡山鳥で絵は長谷川雪丹)にはつぎのように書かれています。虫『道灌山 日暮より王子への道筋、飛鳥山への続きなり。むかし太田道灌出城の跡なりといふ。くさくさの虫ありて人まつ虫のなきいつれはふりいてヽなく鈴虫に、馬追い虫、轡虫(くつわむし)のかしましきあり。おのおのその音いろを聞んとて、袂すヽしき秋風の夕暮より、人人是にあつまれり。また麻布広尾の原、牛嶋もよし虫聴きの名所は、道灌山が最も有名でとくに松虫が多く澄んだ音色が聞けたといいます。このほか真崎(南千住白鬚橋のたもと)、隅田川東岸(牛嶋神社あたり)、三河島(荒木田の原あたり)、王子・飛鳥山辺、麻布広尾の原が虫聴きの名所でした。『東都歳時記』によれば旧暦7月の末、夏の終わりから秋の初めにかけて「虫聴」がさかんだったと記されている。道灌山虫聴の絵は雪丹、安藤広重、尾形月耕が描いた3種類があります。広重の絵は公園入口に模写したものがあります。尾形月耕は明治期に活躍した画家で、岡倉天心らとともに美術界発展に尽くした人です。新聞の口絵、挿絵が有名でした。この絵は道灌山に月が昇る頃、中腹にむしろを敷き、虫かごに虫を入れて鳴かせ、たくさんの虫に音色を催促しています。坂を上ってくる女性が足音をしのばせている姿もほほえましく感じます。この絵は明治末頃の作と思われますが、秋の夜長に涼を求めて老若男女がここにあつまり、自然の美しさ、すばらしさを楽しんでいたのです。(石碑文)

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道灌船繋松
道灌船繋松のことは『江戸名所図会』(天保七年刊(1836)斎藤幸雄・幸孝・幸成(月岑)の33人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれています。『青雲寺の境内、涯に臨みうっそうとしてそびえたり、往古二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋、大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)或人曰く、往昔このふもとは豊島川に続きし入江にて、道灌の砦城ありし頃は、米穀その外すべて運送のよりこの目当にせしものにて、つなぐといふもあながち繋ぎとどむるの議にはあらず、これは舟人の詞にして、つなぐといふは目的とするなどといえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当にせしを誤りて、道灌船繋の松と唱ふるとぞ』長谷川雪旦は「日暮里惣図」と題し、この地域を7枚に画いています。道灌山から諏訪神社、浄光寺、養福寺、本行寺まで当時の様子がわかります。道灌船繋松はこの絵の中でも台地上に高くそびえています。安永元年(1772)の秋台風のため一本が折れ、残り一本になってしまったようです。この松をなつかしんで「日暮里繋舟松之碑」が道潅山に建てられましたが、現在は青雲寺本堂脇に移されています。建碑の年月はわかっていません。天明5年(1785)に鳥居清長の描いた墨本「画本物見岡」の「日暮里青雲寺境内」の絵にこの石碑を眺めている人たちの姿がみられることから、石碑は安永元年から天明5年までの13年間に建てられたことがわかります。道灌山の船繋松はここのシンボルであり、地域の人たちに親しまれ大切にされていました。(石碑文)

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江戸名所図会 日暮里惣図 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

日暮里

古くは新堀または入堀と表記したが、江戸時代中期には日暮里と書くようになった。寛延(1748-51)の頃からつつじが植えられ、一帯は寺院の庭が続く名所となった。春の桜、秋の紅葉も美しく、日の暮れるのも忘れるということから「ひぐらしの里」とも呼ばれた。その範囲は谷中の感応寺(現天王寺)裏門から道灌山方面に広がっており、西部の台地上には寺院が東部の低地には農村が広がっていた。一帯は太田道灌出城跡とされ、物見台等の遺構が残る。諏訪神社境内は諏訪台と呼ばれ、眺望が良く厄よけなどの願いを掛けて高い場所から皿などを投げる土器投げ(かわらけなげ)げの遊びが盛んに行われた。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)



・・・諏訪台通り

諏訪台
諏訪台は縄文・弥生時代から人々が生活を営んでいた場所であり、景勝の地としても知られている。江戸時代、四季折々の景色を楽しむ客でおおいに賑わった。安藤広重の『名所江戸百景』の中にも諏訪台の春景色が描かれている。また「土器投げ」という遊びが流行し「花の散るたびに土器それるなり」など川柳にも詠まれた。享保13年(1728浄光寺の住職宝山が『諏訪浄光寺八景詩歌』を板行。筑波茂陰・黒髪晴雪・前畦落雁・後岳夜鹿・隅田秋月・利根遠帆・暮荘炬雨・神祠老杉の八景を巧みに詠んだ諸家の詩歌が収められている。(荒川区教育委員会)

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高村光太郎記念碑
荒川第1日暮里小学校門前に石碑とふくろうの像があります。創立百周年の際に造られたもので、石碑『正直親切』は同校卒業の高村光太郎直筆によるものです。(案内版)

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諏方神社鳥居/西日暮里


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諏方神社
信濃国諏訪の住人豊島左衛門尉経泰は、諏訪明神を敬い守護神と崇めていたが、治承のころ源頼朝の幕下に参じ、関東の野に奮戦して勇名をとどろかしその軍功により豊島の地を賜わる。これも御神徳の賜と経泰江戸に移住するとき一行とともに下行、己が庭内に勧請するが、これを郷土の人びと明神の御神徳と仰ぎ、産土神として奉仕するに至る。とき元久2年(1206)である。文安(1449-9)のころにおよんで太田道濯当社に祈り、霊験あらたかなるをもって社領を寄進するなど、信仰大いに寄せられる。寛永11年(1634)日暮里の現在地山をひらきて御遷座し奉る。慶安2年(1650)には徳川氏神領として五石の御朱印を寄せ、爾来、徳川氏は厚き誠を寄せられた。当地は上野より飛鳥山に通じる高台にあって、四季の眺望よく文人墨客の遊観頻繁にして、諏訪台八景の地に選ばれるなど江戸景勝の地としても賑わった。(東京都神社名鑑)

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源為朝公の山車
この人形はだしにしつらえ御輿と共に巡行したもので、平安時代末期武勇に猛けた「源為朝」鎮西八郎為朝公を擬してある。製作年は安政(18541860)とあるが作者は現在不詳。当時の日暮里諏方様の山車は江戸の中でも有名であり、且つ格式の高いものであった。特に日清戦勝の祝賀会が皇居前広場で行われた時、東京中の山車が勢揃いした。その勢揃いの順位が3番目、道中鳶頭連中が木遣りと芸者の手古舞を2頭の牛車が引いて参列し妍を競ったといわれる。明治の終わり頃までは本祭りの度に牛と子供連中に曳かせたが、その後土地の発展に従い電線などにより不可能となり、氏子有志が組織した「祖崇会」が維持管理し人形だけ飾った。戦後からそれが自然と消滅して、人形は倉庫の中に保管したがその痛みが激しく、このままでは朽ち惜しいということで金子正男・工藤三郎両氏相計い、昔日の姿に復元したものである。(平成元年1027日 平塚春造記)

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地蔵坂
この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は諏方神社の別当であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名は地蔵尊が安置されていることにちなむという。(荒川区教育委員会

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諏方神社境内


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浄光寺山門/西日暮里

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江戸六地蔵と浄光寺
山門をくぐって左手に高さ一丈(約3m)の銅造地蔵菩薩がある。元禄4年(1691空無上人の勧化により江戸東部6ヶ所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので、門前は「地蔵前」ともよばれる。浄光寺は真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し江戸時代までは諏方神社別当寺であった。元文2年(1737)八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同5年以降徳川将軍御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。(荒川区教育委員会)

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石造群                江戸六地蔵

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浄光寺墓地より西日暮里駅方向の景観です

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街道の風景⑤ 右が富士見坂ですが、ひとまず直進してみます/諏訪台通り

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日暮里小学校跡
明治135月谷中天王寺門前の瑞輪寺境内にあった寺子屋が日暮里6番地(現諏訪台ひろば館あたり)に分離移転したという。その後、公立小学校設置の必要性に迫られていた日暮里村・谷中本村・谷中村の三村が東京府知事に設置を嘆願。明治18年に認可され公立日暮小学校が誕生した。開校当時、児童数36名、教員2名・1学級で、校舎は萱葺15坪(約502)一棟の規模であったという。大正2年校名を第一日暮里尋常高等小学校と改称。昭和1111月日暮里9丁目1080番地、旧星雲寺内(現在の区立第一日暮里小学校)に新築移転した。(荒川区教育委員会)

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養福寺参道/西日暮里

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養福寺仁王門

養福寺は補陀落山観音院と号し真言宗豊山派に属しています。開創の確かな年代はわかりませんが、初代住職という乗蓮は寛永3年(1626)に没したと伝えられています。この仁王門は山門を入り正面右寄りにあります。もとの本堂や観音堂などほかの建造物は戦災で失われましたが、宝永年問1704-1711)建立と伝えるこの仁王門は焼失を免れて江戸期の木造建造物として現在に残ったものです。門の表側には仁王像一対があり一つは口を開いて「阿」、一つは口を閉じて「呼」を示しています。仁王像は分身して一対になり仏法を守護するといわれ、各地の寺々にも多くみられます。また、門の裏側には四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)のうちの二天(広目天・多聞天)の像があります。(荒川区の文化財)

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養福寺と文人たち
養福寺は真言宗豊山派の寺院で補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保3年・1718没)によって中興されたという。江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる『談林派歴代の句碑(区指定文化財)』や江戸の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた『柏木如亭の碑』、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。(荒川区教育委員会)
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養福寺墓地から日暮里駅方向の景観です

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啓運寺山門/西日暮里

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啓運寺
荒川区西日暮里にある法華宗本門流の寺院。山号は法要山。大本山鷲山寺末。木造毘沙門天像(寛政9年以東光雲作)や区内唯一の延宝8115日銘庚申塔(ともに荒川区登録文化財)を所蔵する。元和元年(1644)、円住院日立を開山に寛永寺御用地(現在の下谷一丁目付近)に創建され、元禄11年(1698)に下谷二丁目へ移転後、明治18年(1885)に現在地へ移転したという。Wikipedia

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木造毘沙門天像(啓運寺)
啓運寺は法華宗(本門流)の寺院で法要山と号す。上野にあったが明治18年に現在地に移転。毘沙門天は多聞天ともいい、四方を守護する四天王の一つであるが独立して福徳富貴の神としても信仰されている。当寺の毘沙門天は台座の裏に「寛政9年(17978月吉辰、仏師以東光雲」の墨書銘がある。その外境内には延宝8年(1680)銘の庚申塔がある。この塔には「三守庚申三尸伏、妙法、七守庚申三尸滅」の銘文のほか36名の施主名が刻まれており区内唯一の日蓮宗系の庚申塔である。(荒川区教育委員会)

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日暮里周辺地図


・・・・・
資料ファイル

江戸六地蔵
街道筋の入口に建てられたものが知られていすが、いわゆる「東都六地蔵」「初めの六地蔵」というものもあると知りましたので整理しておきます。

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東都六地蔵
東都六地蔵は空無上人元禄の頃16881704)に建立したものである。建立の年代順で示すと以下。
現存する東都六地蔵はここ(専念寺)と浄光寺2体を残すだけとなり貴重なものである。(文京区教育委員説明板)(写真:浄光寺山門に立つ石碑)

1番・瑞泰寺(文京区向丘2361)

2番・専念寺(文京区千駄木12222
3番・浄光寺(荒川区西日暮里343
第4番 心行寺(府中市紅葉丘23214
5番・福聚院(台東区上野公園1613
6番・正智院(台東区浅草2313

江戸六地蔵

宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像である。江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。鋳造は神田鍋町の鋳物師・太田駿河守藤原正儀により、像高はいずれも270cm前後である。江東区永代寺の第六番は富岡八幡宮の二の鳥居付近にあったが、明治元年(1868)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり取り壊された。現存する第一番から第五番まではすべて東京都指定有形文化財に指定されている。Wikipedia

1番(旧東海道)品川寺(宝永5年・1708))品川区南品川3-5-17
2番(奥州街道)東禅寺(宝永7年・1710))台東区東浅草2-12-13
3番(甲州街道)太宗寺(正徳2年・1712))新宿区新宿2-9-2
4番(中仙道)真性寺(正徳4年・1714))豊島区巣鴨3-21-21
5番(水戸街道)霊厳寺(享保2年・1717))江東区白河1-3-32
6番(千葉街道)永代寺(享保5年・1720))江東区富岡1-15-1(廃仏毀釈で廃棄)

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by Twalking | 2018-09-21 19:56 | 東京散歩(新規)

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