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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『ひぐらしの里』02-谷中   

日時 2018.9.18(火)
天気 晴れ


諏方神社へ戻って富士見坂をくだります。
諏訪の台と本郷台の間の低地を藍染川が流れていました。
現在は暗渠、その上をよみせ通りが通ります。

よみせ通り、谷中銀座と下町情緒豊かな商店街です。
周辺は古刹も多く、夕焼けだんだんもいいですね。
見所も一杯、ぶらりには最高、面白い所です。



・・・西日暮里

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街道の風景① 古来よりの富士見の名所、諏訪の台から西へくだります/富士見坂


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富士見坂
坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことからこの坂も通称「花見坂」または「妙隆寺坂」と称された。都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。都心にいくつかある富士見坂のうち最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。(荒川区教育委員会

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街道の風景② 坂下は「六阿弥陀道」、左へ行った南泉院門前に道標が建ちます

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法光寺山門/西日暮里

法光寺
荒川区西日暮里三丁目(日暮里富士見坂下)にある法華宗門流の寺院。山号は日照山。慶安3年(1650)、現在の港区赤坂に開基。開基檀越は江戸時代初期の安房東条藩主・西郷正員。同寺には西郷家代々の墓も現存するが、当主が明治維新後渡米したきり音信不通である。その後、寺地が御用地となったために新宿区四谷坂町へ移転。さらに明治時代に現在地である日暮里富士見坂下へ移転。この移転は当時の住職が私財を投じたものだった。JR日暮里駅と西日暮里駅の中間に位置する富士見坂の下にあるため「富士見坂法光寺」もしくは「富士見坂下法光寺」などと通称される。近くには「花見寺」「月見寺」「雪見寺」と呼ばれる寺院があり、法光寺のことを「富士見寺」と呼ぶ人も少数だが存在する。(Wikipedia

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南泉寺山門/西日暮里

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南泉寺
当山は臨済宗妙心寺派で元和2年(16162代将軍秀忠より境内3200余坪を拝領した。開山大愚和尚は徳川家の信仰を受け、武州豊島郡下村の石高30石と寺紋に葵を拝領し明治に至っている。寺格は紫衣地で、妙心寺輪番住職を勤め宮中に参内する事も許されていた。徳川家の代替祝儀における納経では一束一本(賜物)を帝鑑の間で進上し、柳の間で時服を受け興に乗って参礼することも許されていた。墓城には将軍家光、家綱に仕えた老女岡野の墓や講談師松林伯円の墓がある。本堂内の木造聖観音立像は旗本美濃遠山氏の念持仏で、厨子には遠山家の家紋が記されている。下半身は鎌倉時代後期のものと推定されるが頭部、胴体部などは江戸時代に修復されたものと考えられる。(文京区史跡さんぽ実施報告書)

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美濃遠山氏の聖観音
山号を瑞応山と証する臨済宗妙心寺派の寺。元和2年(1616)徳川家から境内3200余坪を拝領し大愚が開創した。その後、将軍家光・家綱に仕えた老女岡野の遺言により貞享3年(1686)朱印地30石を賜った。本堂内の木造聖観音立像は美濃遠山氏の念持仏。厨子に遠山氏の家門「遠山家 息心庵本尊、正観音菩薩、安政4年丁巳710日」の銘がある。上半身等に江戸期の補修が加えられているが鎌倉期の作と推定される。その他、善光寺式阿弥陀三尊の一部と思われる銅造菩薩立像を所蔵。境内には菅谷不動、講談師松林伯円の墓等がある。(荒川区教育委員会)

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街道の風景③ 坂下を右は修性院、塀に布袋様が描かれています/六阿弥陀道

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修性院山門/西日暮里

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修性院
日蓮宗の寺院です。この辺りは江戸時代の中頃から「ひぐらしの里」と呼ばれ、江戸近郊の行楽地としてにぎわっていました。修性院は妙隆寺(修性院に合併)・青雲寺とともに花見寺とも呼ばれています。浮世絵師・歌川広重の「名所江戸百景」日暮里寺院の林泉はここの境内春景色が描かれています。また、谷中七福神の一つである「ひぐらしの布袋」が祀られています。寺の塀には四季をモチーフにした布袋尊のイラストが描かれており道行く人々に親しまれています。(荒川区HP)

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日ぐらしの布袋尊
修性院の布袋は谷中七福神の一つで「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神めぐりは江戸市中で最も古い歴史をもち、年初めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。江戸時代の中期ごろからこのあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(現、身延山関東別院玉川寺)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。境内には江戸時代の儒者・日尾荊山衣幘碑がある。(荒川区教育委員会)

身延山関東別院玉川寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22627917/

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青雲寺山門 崖上が西日暮里公園です/西日暮里


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青雲寺
青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。宝暦年間(1751-64)、堀田相模守正亮の中興と伝える。江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため青雲寺は修性院・妙隆寺(現、身延山関東別院玉川寺)などとともに花見寺ともいわれていた。現在谷中七福神のひとつ「恵比寿」が祀られている。境内には滝沢馬琴の筆塚の碑(文化6年)をはじめ、硯塚の碑(寛政10年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など江戸を代表する文人の碑が多く残っている。(荒川区教育委員会)

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馬琴の筆塚・硯塚(花見寺)江戸中期に「ひぐらしの里」として市民に親しまれたこの地は四季に花が咲き花見寺の名を生んだ。この青雲寺は七福神の一つ「恵比須」が祀られており、境内には道灌船繋松の碑をはじめ瀧沢馬琴の硯塚(寛政10年・1798)、同じく筆塚(文化7年・1810)、享和年間(18013)の狂歌師安井甘露庵の碑があり往時をしのばせるものが多い。(荒川区教育委員会)

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瀧沢馬琴の硯塚            道灌船繋松の碑

西日暮里公園周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27119266/


・・・よみせ通り

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街道の風景④ 文京区との境、この通りの下を藍染川が流れています

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よみせ通り
「よみせ通り」は「谷中銀座」とT字型に交わる通りで台東区谷中と文京区千駄木区境です。ここはもともと藍染川が流れていたのですが、大正91920)に暗渠工事が行われ藍染川を覆う上の通りが「よみせ通り」となりました。「よみせ通り」は色々なお店が立ち並ぶ便利な活気溢れる買い物通りとなりました。特に午後からは露店が並んで大道芸人が客を呼び、夜遅くまでにぎわいました。露店(夜店)の並ぶことから「よみせ通り」と呼ばれるようになったということです。(
谷根千散策)(よみせ通り入口/道灌山通り)

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よみせ通り延命地蔵尊
此の所のお地蔵さまは今から370余年前、長野県南佐久郡切原村の黄檗宗
の由緒ある立派なお寺の偉いお坊さまが大変慈しんで信仰されていたお地蔵菩薩さまで、昭和8年に地元のお年寄りで信仰の篤いお方が分霊をお迎えしてここへ安置されたもので、大変不思議なお力を持って救って下さる効き目があると伝え聞き、遠近よりお徳を偲んで大勢のお参りの人々がお見えになっています。いつも家族が無事でいられる、子供や孫が丈夫に立派に育つ、勉強が良く出来て尊敬される人に成れる、旅行に出掛けても事故に合わない、難しい病気や悩みを全癒してくれる、いつまでも若々しく長生き出来て幸福でいられる、人々の祈願するものすべてお聞き叶えて下さり、あなたの災厄を払い除けてお守りして下さる、沢山ご利益が授かると感謝されて益々お参りの人々が増えて、お地蔵さまから大変尊い善いお力を授かり喜ばれていろいろとお礼の真心のこもった奉納をいただいております。お地蔵さまはいつもあなたをお線香の煙の向こうからやさしく、あたたかく見守り続けていらっしゃいます。合掌(説明板)

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旧駒込坂下町
元文年間(173641)開かれた町で、千駄木坂の下にあるので千駄木坂下町と名づけられた。明治44年駒込坂下町と改められた。千駄木坂下は坂上から東京湾の海が見えたので潮見坂、坂のそばに団子を売る茶店があったので団子坂と呼ばれた。団子坂は明治時代、菊人形で有名であった。(文京区)
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街道の風景⑤ この先も良さそうですが、谷中銀座へ左折します/谷中

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谷田川、藍染川
この広い谷を巣鴨薬園からの通水、周辺の谷戸からの湧水を集めた谷田川(谷戸川とも呼ばれた)の小河川が流れていた。江戸期には王子石堰からの通水も合わせた。下流にはかつて谷田川に架橋されていた霜降橋、谷田橋などの名前が残っている。昭和に入って暗渠化されたが、暗渠上には染井銀座田端銀座霜降銀座が建って賑わった。谷根千(現在は「よみせ通り商店街」)に入ると千駄木谷中の町域境界を流れていた。かつて付近は藍染めが盛んであった事から「藍染川」とも呼称された。川はいくつかの通水に分かれて流れており、夏には小川を蛍が飛び「蛍川」と名があった。一帯は盆地のようになっており大雨でたびたび浸水していた。1918年、治水対策として谷田川を分岐させて道灌山の下を暗渠で通し、JR西日暮里付近から開渠として京成線沿いに町屋へ向かう藍染川排水路を通した。しかしこの排水路や残った川道も1960年までには暗渠化され、現在は暗渠跡に葦染川通り藍染西通りの名が残るのみとなっている。千駄木付近暗渠道は細かく蛇行していることから「へび道」の俗称がある。通水は不忍池に注いでいた。Wikipedia


・・・谷中/台東区

台東区の地名で旧下谷区にあたる下谷地域内である。谷中は「寺町」と呼ばれるように寺院が集中している。上野戦争で罹災したものの、関東大震災や第二次世界大戦では被害が少なく旧来の町並み・建造物が残されている。早口言葉「なかなか鳴かない谷中のかなかな」に関しても有名。下谷地域の北西に位置し、文京区(千駄木・根津)・荒川区(西日暮里・東日暮里)との区境にあたる。名前の由来は本郷台地上野台谷間に位置することから名付けられたといわれる。Wikipedia抜粋)

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昔ながらの元気な商店街、さすがに人気がありますね!/谷中銀座商店街

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商店街入口/よみせ通り      商店街の先は夕やけだんだん/坂下
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谷中銀座商店街案内図 

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坂上からの風景、これは絵になりまね!人気のほどが分かります/夕やけだんだん

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夕やけだんだん
荒川区西日暮里三丁目10番・13番と14番の間にある日暮里駅方面から谷中銀座に下る坂(階段)。御殿坂の延長線上にあたる。階段の傾斜は15度で緩やかであり、高低差は4m、段数は36段ある。幅は4.4mあり長さは15mとなっている。階段上から谷中銀座を見下ろす風景は谷中関連の雑誌や番組にしばしば登場する有名なもので夕焼けの絶景スポットにもなっている。階段の下には「谷中ぎんざ」と書かれたゲートがある。また、階段には野良猫・飼い猫を問わず沢山の猫が集まっているので「夕やけにゃんにゃん」と呼ばれることもある。平成2年に石段が改装された際の愛称募集時に作家・タウン誌『谷根千』編集者の森まゆみが命名したWikipedia
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街道の風景⑥ 真直ぐが夕焼けだんだん、左の七面坂を下ります/坂上

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七面坂(しちめんざか)
宝暦年間の『再校江戸砂子』に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中3-10)坂下にあるもと日蓮宗の寺七面坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里3-10)七面塔を指す。七面塔は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方・七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女祀る堂である。坂は『御府内備考』の文政9(1826)の書上によれば幅2(3.6)ほど、長さ50(90)、 高さ2(6)ほどあった。なお宗林寺は『再校江戸砂子』に蛍の所在地としそのホタルは他より大きく光もよいと記され、のちには境内にハギが多かったので萩寺と呼ばれた。(台東区教育委員会)

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長明寺山門/谷中

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長明寺
台東区谷中にある日蓮宗の寺院。山号は日照山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流・ほんこくじ)、池上・土富店法縁。境内には会津藩士平田門十郎二女蝶子の墓所がある。春には枝垂れ桜で知られる。慶長14年(1609)蓮光院殿日照禅尼(志村八兵衛尉夫の妻)を開基、在天院日長(元和6年・1620没)を開山に創建された。大正年間には付近の谷中正運寺(慶長5年・1600創建)を合併した。(Wikipedia

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銅鐘
本銅鐘は総高122.9cm、口径75.1cm。銘文によると天和2年(1682)初冬(10月)16日屋代安次が自らの逆修供養のために寄進した。逆修とは生前に自分の死後の冥福を祈るために仏事を修することである。撰文は下総国飯高(現千葉県八日市場市)の日蓮宗檀林所として著名な飯高寺の僧性孝、書は長明示4世住職目習。鋳物師は椎名伊予良寛。鋳物師の椎名家は江戸時代初頭に多くの作例を遺し、椎名伊予吉次を初代とする江戸鋳物師の名家であった。椎名伊予良寛は延宝9年(1681)頃から元禄13年(1700)頃にかけて活躍した鋳物師でおよそ26点の作品を残している。銅鐘が19点、銅燈籠が24点、宝塔・水盤が各1点である。特に宝塔は上野寛永寺にある将軍家墓所の1つで、4代将軍家綱(厳有院)の墓である。このように将軍家の墓の鋳造を任されている事からも、椎名良寛が当時実力を伴った著名な鋳物師であったことがわかる。(台東区教育委員会)

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宗林寺山門/谷中

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宗林寺
宗林寺は妙祐山と号する日蓮宗寺院で、はじめは駿府(静岡県静岡市)の地に斎藤宗林を開基、玄龍院日辰を開山として創建されたようです。天正年間(15731592)に江戸昌平橋外(千代田区)に移り、後に上野東寺町に移転、さらに元禄14年(1701)に当地へ転じたと伝えられます(『御府内寺社備考』)

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本銅鐘は、銘文によると宝暦4年(1754)、当寺14世日道(?1766)の代に宗林寺の鐘として鋳造され鐘楼堂に懸けられました。本鐘を鋳造した鋳物師(いもじ)鈴木播磨大掾藤原定久は、江戸時代中期中葉に活躍した江戸の鋳物師で神田に居住していました。定久の作例は銅鐘、銅常香盤、銅灯篭など8例が知られています。作例からわかる活動期間は宝暦年中(17511764)と短期間でした。とくに銅鐘は本鐘を含めて5口が知られますが、現存が確認できるのはわずか2口にとどまっています。このことから、鋳物師鈴木播磨大掾藤原定久を知り作例を研究する上で本鐘のもつ重要性は高いといえます。さらに、近世の鋳物師の制作活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品です。(台東区HP)

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江戸名所図会 日暮里惣図其2 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・西日暮里/荒川区

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街道の風景⑦ 区境です、左が荒川区、右が台東区谷中の寺町になります/坂上

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延命院山門/西日暮里

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延命院
日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局。家綱出生の際に安産を祈祷した慧照院日長が三沢局の信施を受け、甲州身延山七面大明神を勧請。慶安元年(1648別当寺として延命院を開創したという。七面大明神には胎内に慶安3年(1650)法寿院日命が願主となり、仏師矢兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ七面堂に祀られている。これにちなんで門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。境内には樹齢600年を超えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。(荒川区教育委員会)

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延命院のシイ
シイはブナ科に属し、日本の照葉樹林の最も中心となる常緑高木である。堅果(実)は、渋みがなく、やや透明な白色で食用となり、また庭園樹としても広く利用されている。延命院のシイは天保7年(1836)開板の「江戸名所図会」巻5の「日暮里惣図」に現在地と思われる位置に本樹の全容が描かれていて、当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺われる。かつては幹周り5.5m(平成9年調べ)の巨樹だったが、平成14年(20025月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し安全のため現在の樹形に保っている。(東京都教育委員会)

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本行寺山門/西日暮里


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本行寺
本行寺(ほんぎょうじ)は大永6年(1526江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て宝永6年(1709現在地移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。20世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ「青い田の 露をさかなや ひとり酒」などの句を詠んでいる。儒学者市河寛斎・書家米庵父子や幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代に太田道灌斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。(荒川区教育委員会)

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道灌丘碑
太田道灌斥候台を築いたところを道灌物見塚と呼んでいる。塚は境内にあり「わたり二間ばかり、高さ一丈ばかり見事な塚なり」(江戸砂子)とあるところから当時の模様が想像される。今は道灌丘碑を残すのみとなっている。この本行寺は宝永6年(1709谷中から移ったもので、景勝の地であったところから月見寺とも呼ばれていた。(荒川区教育委員会)

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小林一茶の句碑               山頭火の句碑

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街道の風景⑧ 諏訪台通りから日暮里駅への下り、右手は谷中霊園です/御殿坂

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御殿坂
文政12年(1829)に成立した『御府内備考』には「感応寺本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根津」の誤写の可能性がある。明治5年『東京府志料』には長さ15間(約27.3m)幅2(約3.6m)とあるが、現在の坂の長さ50m以上あり数値が合致しない。以前は谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの路線ができた際に消滅したためその名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。(荒川教育委員会)

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西日暮里方向の景観です/下御隠殿橋(日暮里駅)

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鶯谷方向の景観、スカイツリーが望めます/谷中霊園入口(日暮里駅上)

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『歴史と文化の散歩道-日暮しの里散歩』地図

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日暮里周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(橙:諏訪台通り・六道阿弥陀道・よみせ通り 黄:富士見坂・七面坂・御殿坂・三崎坂) 

by Twalking | 2018-09-25 18:49 | 東京散歩(新規)

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