無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり千駄木~上野公園03-上野桜木   

2018.9.28(金)
天気 晴れ


寛永寺は以前一度訪ねたことがあります。
上野戦争で焼失、明治に支院の大慈院跡地に移築・復活したもの、
建物も寛永期のもの、扁額の「瑠璃殿」がひときわ目を引きます。

境内に「建永寺の歴史」が紹介されています。
往時の壮大な伽藍の様子は錦絵などでしか偲べませんが、
それでも戦災等を免れた貴重な遺構は味わい深いものです。



・・・上野桜木/台東区

台東区の北西、下家地域の北部に位置する高台の住宅地。武蔵野台地東端にあたる。下谷桜木町を前身としており、上ノ台部分は上野花園町から独立したところで寛永寺域であったことからその子院が数多くあった。多数の寺院の存在とともに、江戸時代の町割り、道割りの上に明治・大正・昭和の建物が混在していて歴史的重層性のある景観を作りだしている。町内にある寛永寺は寛永2(1625)徳川3代将軍徳川家光の治世に建てられた。寛永寺は徳川家の菩提寺として知られ、都内を代表する寺院として知られている。寛永寺には徳川家墓所として6の将軍の霊廟がある。また、大慈院は徳川慶喜が謹慎していた場所でもある。Wikipedia


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街道の風景① この先の信号を右折すると寛永寺です/旧吉田屋酒店(言問通り)

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上野桜木町
上野桜木町は上野台とその東側山麓に広がっていた。上野台部分は上野花園町から独立したころで、寛永寺域であったことからその子院が数多くあった。本町内にある寛永寺本堂は慶応4(1868)彰義隊の戦争により寛永寺本坊はじめほとんどが焼失したため、寛永年間(16241643)に建てられた川越喜多院本堂を明治12年に移築したものである。東側山麓にあたる現在の根岸一丁目二番付近は谷中村の飛地であった。本町ができた年代は明治7年から同112月の間と推察する。そして町名のいわれはこの付近に桜の木が多くあったことに由来する。(下町まちしるべ/台東区)


・・・寛永寺

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東叡山寛永寺の山門

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寛永寺山門/上野桜木

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根本中堂

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寛永寺本堂
旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前噴水池あたりにあったが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治9年(1876)から12年にかけて埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永15年(1638)の建造といわれる。間口・奥行ともに7間(17.4m)前面に3間の向拝と5段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲は勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁などすべて素木のままである。屋根は入母屋造本瓦葺、二重棰とし、細部の様式は和様を主とする。内部は内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥檀が設けられている。須弥檀の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ内外陣ともすべて畳敷になっている。(台東区教育委員会)

東山天皇御宸筆「瑠璃殿(るりでん)」
1698年(元禄11)徳川綱吉は江戸第一の大きさを誇る根本中堂(焼失)を建立、東山天皇から「瑠璃殿」の勅額を賜りました。現根本中堂に掲げられています。

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銅鐘
本鐘の大きさは総高177.2cm、口径91.8cm、厳有院殿(4代将軍家綱)の1周忌にあたる延宝9(1681)58日に厳有院殿廟前鐘楼に奉献された。明治維新以降に寛永寺根本中堂の鐘として当所に移されたと伝えられる。現在は除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞享3(1686)にかけて銅鐘を中心に17例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており幕府との関係の深さが窺える。本鐘は将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。平成18年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。台東区有形文化財(台東区教育委員会)

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旧本坊表門-根本中堂鬼瓦
この鬼瓦は現在「黒門」の通称で親しまれている寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)に据えられていたものです。旧本坊表門は寛永初年に寛永寺の開山である天海大僧正自身が建てたものであり、天海自身をはじめいわゆる歴代の輪王寺宮住まわれた場所でした。この門は昭和12年現在の東京国立博物館の地から現在地移築され、平成22年から行われた解体修理によって修復されました。

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この時の調査により、現鬼瓦の製作年代は不明ながら、東側の「阿」形より西側の「吽」形が古いこと、かつては鳥衾(とりぶすま・鬼瓦の上に長く反って突き出した円筒状の瓦)を接合する部分が設けられていましたが、現存の鬼瓦には鳥衾を取り付けた痕跡がなかったことが分っています。東側にあった「阿」形は耐用年数を過ぎていたため修復の折り西側の意匠にあわせて造り替え、新たな息吹を門に与えています。この修復を機会として寛永寺根本中堂と合わせここに展示いたします。(寛永寺教化部)

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了翁禅師塔碑(りょうおうぜんじとうひ)
了翁禅師(16301707)は江戸時代前期の黄檗宗の僧です。俗姓は鈴木氏。出羽国雄勝郡に生まれ幼い頃から仏門に入り、後に隠元禅師に師事します。諸国を巡るうち霊薬の処方を夢に見て「錦袋円(きんたいえん)」と命名し、不忍池付近に薬屋を俗甥の大助に営ませます。その利益で難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行いました。こうした功績により輪王寺宮から勧学院権大僧都法印位を贈られています。宝永478歳で没し万福寺塔頭天真院に葬られました。本碑は了翁禅師の業績を刻んだ顕彰碑生前に作られたものです。元々建てられた場所や現在の場所に移築された時期などは不明です。東京都指定旧跡(東京都教育委員)

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慈海僧正墓(じかい)
墓石の正面中央に聖観世音菩薩の像を彫り、右側には「当山学頭第4世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院3世」背面に「元禄6年癸酉216日寂」と刻む。慈海僧正は学徳をもって知られ塔叡山護国院、目黒不動尊、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は寛永寺一山の山号で一山を統轄・代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭はまた門主・輪王寺宮名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」30巻の著作がある。寛永元年(1624)目黒で誕生、70歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の位が贈られた。墓は初め凌雲院内にあったが、昭和33年東京文化会館建設のため寛永寺に移った。東京都史跡(台東区教育委員会)

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尾形乾山墓碑・乾山深省蹟(おがたけんざん・しんせいせき)
尾形乾山は琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳である。寛文3年(1663)京都で生まれた。乾山のほか深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で正徳・享保年間(17111735輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開きその作品は「入谷乾山」と呼ばれた。享保3年(174381歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政6年(1823)顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で文化12年(1815)に光琳百回忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政2年には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨4-8-25)内に現存し東京都旧跡に指定されている。当寛永寺境内の二つの碑は昭和7年、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は墓碑に刻まれそれによると現・善養寺碑は明治末の善養寺移転に際し両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正10年には公寛法親王との縁により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと三たび移転を重ねたとある。なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。(台東区教育委員会)

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虫塚碑 
虫塚は伊勢長島藩主増山雪斎が写生図譜である「虫豸帖(ちゅうちじょう)」の作画に使った虫類の霊をなぐさめるため、雪斎の遺志によって文政4年(1821)に建てられた。増山雪斎は宝暦4年(1754)に江戸で生れた。本名を正賢といい雪斎・玉園・蕉亭・石顚道人・巣丘隠人などと号した。江戸の文人大田南畝や大阪の豪商木村兼葭堂など広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。自ら文雅風流を愛し、清朝の画家・沈南蘋に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。中でも虫類写生図譜「虫豸帖」(都指定史跡融解文化財、東京国立博物館所蔵)はその精緻さと本草学にのっとった正確さにおいて、殊に有名である。文政2年、66歳で没した。虫塚は当初、増山家の菩提寺・寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたためこの場所に移転した。勧善院4代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。碑は安山岩製で台石の上に乗る。正面は葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設にかかわったことが知られる。(台東区教育委員会)


・・・寛永寺徳川家廟

徳川家霊廟

東京国立博物館裏手の寛永寺墓地には徳川将軍15のうち6(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は東京の観光名所として知られ旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物であったが、昭和20年(1945年)の空襲で大部分を焼失。焼け残った以下の建造物は現在重要文化財に指定されている。厳有院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔。常憲院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔Wikipedia

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徳川家霊廟

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徳川綱吉霊廟勅額門

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徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財)
5代将軍綱吉は延宝8(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6(1709)110日に63才で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。元禄11(1698)9月この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。又、それに伴って先聖殿(湯島聖堂)上野から湯島に移されている。綱吉の霊廟は宝永6年の11月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみてももっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり第2次世界大戦で焼失した。この勅額門水盤舎(ともに重要文化財)はその廟所と共にこれらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、胴瓦葺。(台東区教育委員会)

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天璋院篤姫墓所(非公開)
天璋院篤姫は天保6(1835)1219日、薩摩藩今和泉島津家・島津忠剛の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子・かつこ・於一おかつ)嘉永6(1853)、島津本家28代当主・島津斉彬の養女となり名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同年中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。その後、安政3(1856)近衛家養女となり、名を敬子(すみこ)と改め同年に徳川13代将軍家定公の正室として輿入れしました。この輿入れの際に篤姫は斉彬より14代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で入輿からわずか2年後の安政5(1858)に逝去され、14代将軍には紀州の慶福(のちの家茂)が就任しています。(落飾し天璋院と号する)また同年、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま夫と養父を相次いで亡くしました。しかし、落胆の中でありながら篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。公武合体の為、家茂公のもとへ降嫁した和宮とは当初は対立していましたがのちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献しています。明治になるとわずか6歳で徳川家を継いだ16代家達公の養育に余生を捧げ、明治1611月に49歳で亡くなるまで徳川家の為にその生涯を捧げました。なお、墓所は5代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷の木が植えられています。(寛永寺教化部)


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徳川家綱霊廟勅額門

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徳川家綱霊廟勅額門
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代将軍家綱は慶安4年(16514月に父家光の死に伴ってわずか10歳で将軍の座につき、延宝8年(168058日に39歳で没した。法名を厳有院という。病気がちであった家綱時代の政務は主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由比正雪の乱の解決を機にようやく安定期に入った。家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門水盤舎(ともに重要文化財)はその廟所と共にこれらの災いを免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。なお、このうち水盤舎延宝8に家綱のために造られたものであるが、この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。(台東区教育委員会)

芝増上寺(徳川家霊廟)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24440613/

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武蔵野台地東縁 日暮里駅方向の景観です/徳川霊園

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上野台地の下は鶯谷駅、上野方面の景観です/徳川霊園

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街道の風景② 霊園を左に下ると鶯谷の駅、直進して上野公園へ向かいます/国立博物館裏

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殉死者の墓/現龍院墓地
慶安4(1651)420日三代将軍徳川家光が死去した。その後を追って家光の家臣5名が殉死、さらにその家臣や家族が殉死した。ここには家光の家臣4名とその家臣8名の墓がある。堀田正盛(元老中。下総国佐倉藩主)阿部重次(老中。武蔵国岩槻藩主)家臣の新井頼母・山岡主馬・小高隼之助・鈴木佐五右衛門・村片某、内田正信(小姓組番頭・御側出頭。下野国鹿沼藩主)家臣の戸祭源兵衛・荻山主税助・三枝守恵(元書院番頭)家臣の秋葉又右衛門。殉死とは主君の死を追って家臣や家族らが自殺することで、とくに武士の世界では戦死した主君に殉じ切腹するという追腹の風習があった。江戸時代になってもこの風習は残り将軍や藩主に対する殉死者が増加、その是非が論議されるようになった。家光への殉死から12年後、寛文3(1633)に幕府は殉死を禁止。その後、この風習はほぼ絶えた。(台東区教育委員会)

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街道の風景③ 上野駅公園口&上野市街を望みます/両大師橋

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寛永寺周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)


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資料ファイル
寛永寺

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東叡山寛永寺
元和8年(1622)徳川幕府2代将軍秀忠上野の地を天台宗の僧・天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。本坊寛永21625)に竣工。根本中堂の完成は元禄111698)のことです。江戸末期までの寛永寺は今の上野公園をはじめその周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていました。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約3万坪 江戸時代1/10ほど)現在に至っております。江戸開府400年を記念し、往時の寛永寺を描いた錦絵などで江戸と現代を比較しつつここに寛永寺の歴史を紹介いたします。(説明板)

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「江戸図屏風」(右隻第46扇より/国立歴史博物館)
3代将軍家光の事蹟を顕彰記念するために製作された屏風といわれ、秩序整然とした寛永の頃の江戸が描かれている。台東区域に絞ってみると隅田川、そして浅草橋から浅草寺に至る街並み、寛永寺と上野東照宮、それに不忍池が描かれいずれの寺社も森に囲まれた静寂な空間として表現されている。さらに左手、つまり当区域の南部には武家屋敷が並んでおり、街道の裏手には田んぼのある農村風景も見られる点が注目される。江戸の名所は京都の名所を見立てたものが多い。東叡山寛永寺は京都の比叡山延暦寺に見たて、寛永寺の大仏は京都方広寺の大仏、清水堂は京都の清水寺、不忍池は琵琶湖、弁天堂は竹生島に見立ててつくられた。(説明板)

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浮世絵東叡山御中堂之景/
北尾重政 
24.4×36.5cmこの作品は旧い時代の作品で非常に珍しいもの。上野の浮世絵作品の中でも代表作の一つである。(説明板)


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東都名所上野東叡山全図/初代歌川広重 
36.4×73.7cm 広重の作品の中でも有名な絵。よく売られたらしく現存する作品数も多い。(説明板)
(錦絵:錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)


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寛永寺旧伽藍
松坂屋上野店あたりから上野公園入口あたりの道をかつて「広小路」と称したが、これは将軍が寛永寺にある徳川秀忠らの霊廟に参詣するための参道であり、防火の意味で道幅を広げていたため広小路と呼ばれた。上野公園入口付近には「御橋」または「三橋」と称する橋があって寺の正面入口となっており、その先に総門にあたる「黒門」があった。上野公園内中央を通り大噴水、東京国立博物館方面へ向かう道がかつての参道であり、文殊楼、その先に法華堂と常行堂、多宝塔、輪蔵、根本中堂本坊などがあった。その周囲には清水観音堂(現存)、五重塔(現存)、東照宮(現存)、不忍池の中島に建つ弁天堂(現存するが20世紀の再建)などが建ち、また36か院にのぼる子院があった。天海は江戸と寛永寺との関係を京都比叡山の関係になぞらえて構想していた。すなわち、根本中堂、法華堂、常行堂などは比叡山延暦寺にも同名の建物があり、清水観音堂は京都の清水寺になぞらえたもの(傾斜地に建つ建築様式も類似する)、不忍池と中島の弁天堂は琵琶湖とそこに浮かぶ竹生島宝厳寺の弁才天にならったものである。(Wikipedia

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江戸朱図(東京都公文書館)台東区のクローズアップ
都市江戸はたえず拡大していた。江戸の範囲、つまり御府内の範囲はどこまでなのか、江戸後期にはかなり混乱を生じていたらしい。そこで、文政元年(1818)幕府は江戸絵図面に朱線を引き、この朱引の内を御府内とする統一見解を示した。その内側の黒引の線は町奉行の支配地。朱引と黒引の間は同じ御府内といっても代官支配地であった。(説明板)







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上野戦争碑記
慶応4(1868)、戊申正月、伏見の変(起る)。前大将徳川公(慶喜)江戸に帰り、罪を上野(東叡山寛永寺子院大慈院)に待つ。この時に当たって城中(江戸城)紛糾し議論沸騰す。老成者いわく、すでに罪を皇室に得、今又兵を出だして担ぎ戦うは是れ其の罪を重ねるなり。恭順して詔命を待つに若かずと。少年の者は皆いわく、今日謂うところの詔命(天皇の命令)は宸衷(陛下の御心)出づるにあらず。乃ち是れ二三幕臣の為すところ(なり)焉んぞ主家の為に冤を雪ぎ、後(後継者)を立つるを請はざるや。苟も命を得ずんば乃ち死あるのみと。悲憤激烈言々人を動かす。余も亦之に賛()し、同志諸氏と四谷円応寺に會して謀議す。既にして浅草本願寺に移り、遂に上野東叡山に屯し、将に請う所あらんとす。衆、余をして隊名を撰ぶばしむ。余曰く、大義を彰明するはこの一挙に在り。彰義となさんと欲す。皆曰く善しと。是において四方より来会するもの日一日よりも多し。十二隊を得。曰く遊激、曰く歩兵、曰く猶興、曰く純忠、いわく臥竜、曰く旭、みな幕府の士なり。曰く萬字、関宿の藩士、曰く浩気、小浜の藩士、曰く高勝、高崎の藩士、曰く水心、結城の藩士なり。首領を立て約束を申べ、分かれて山中の寺坊に屯す。この時に当たって官軍すでに江戸城にあり。命を伝えて解散せしむ。使者三たび反り、竟に聴かず。前大将軍水戸に移る。因って輪王寺宮法親王(公現法親王、後の北白川宮能久親王)奉じて益々素志を達せんと欲す。官軍その屈強すべからざるを知るや遂に攻撃の議に決す。初め寛永()中、徳川氏、根本中堂を上野に建て寛永寺と称す。輪王寺宮世々これを管()す。金碧熒煌、観美を窮極す。吉祥閣その前に屹立す。環らすに三十六坊を以てし、比叡山に擬し、因って東叡山と称す。地勢爽塏(そうがい)西、不忍池に臨み、東南は下谷に接し、西北は根岸、三河島の諸村に連なる。而して埤堞(ひちょう)の據って(よって)以て守るべきなし。乃ち急に市民を募集し木石を運び、塁を築き柵を植う。市民、争って来たり役に就く。巨砲を山王台に置き、以て東南に備う。山門すべて八、南を黒門と云い、広小路を控う。我が隊、歩兵万字の二隊を率いて守る。東を真黒門と云い、車坂門と云い、屏風坂門と云い、坂本門と云う。この間一帯、丘を負いて市に面す。我が隊、純忠、猶興、遊撃の諸隊(にて)守る。別派の一隊、分かって啓運、養玉の二寺に陣す。西を穴稲荷門と云い、神木、浩気の二隊(にて)守る。清水門と云い、谷中門と云うは、歩兵、臥竜、旭、松石の諸隊(にて)守る。部署既に定まる。乃ち市民に命じ避去せしむ。去る五月十五日未明、官軍来たり襲う。初め我が兵、山中にあるもの三千余人、事、倉卒(にわかに)出づるをもって、外にあるものは途梗(道路がふさがる)して入ること能わず。また怯恇(きょきょう)遁走するものあり。その留まって拒ぐ(ふせぐ)もの、僅かに千人なるべし。急に命を諸隊に伝え、各々その処を守らしむ。鹿児島、熊本藩の兵、呼噪(こそう=さけびさわぐ)して広小路より進み、先ず南門を攻む。我が兵、銃を叢め斉しく発す。官軍辟易す。たまたま、鳥取藩兵の湯島台にあるもの火を天神別当喜見院に放ち、不忍池の南に沿いて来たり二藩と合し、兵勢漸く加わる。我が山王台の兵、巨砲を発してこれを拒ぐ。少しして火、二か所に起り、煙焔天に張る。津藩の兵、竹町より進むもの、山下の酒楼に登り、簾を埤(ひく)めて狙撃す。我が兵、裡てこれを走らす。時まさに梅雨、泥濘膝を没す。市民、荷擔して亡()ぐ。〇仆困頓、号泣、路に盈つ。而して来りて我を助くるものも亦少なからず。萩、岡山、大村、佐土原、津、名古屋(等の)六藩の兵、本郷より進んで西門を攻め、先づ我が兵の根津の祠に屯するものを撃ち、突進して直ちに三崎に至る。この地、丘阪高低、道路狭隘、加うるに霖潦(長雨)をもってし、踏趄(行きなやむ)進むこと能わず。我が兵、高きに據り、縦に撃ち、北()ぐるを追うて薮下に至り、伏兵に遭いて潰ゆ。根津の南に水戸、富山、高田の藩邸あり。池を隔て、東叡山と相対す。差が、岡山、熊本、佐土原、津、名古屋の諸藩の兵これに據り遥に銃砲を放つ。また一隊を遣わし舟を泛べて水を渡り、来たって穴の稲荷門に逼る。我が兵、善く柜ぐ。徳島、鹿児島、岡山、新発田、津、彦根の諸藩の兵来たり東門を攻む。我が兵、最も少なし。啓運寺の兵、邉え撃ちてこれを走らす。北()ぐるを追うて御徒町に至る。官兵、反(そり)戦う。我が兵、且つ戦い、且つ退く。養玉院の兵出でて援けてこれを挟撃し、官兵、敗走す。この時に当たって東西南の諸門、皆囲いを受く、我が兵、奮闘す。一人百人に当たらざるはなし。その最も激しき者を南門の戦いとなす。晨(あさ)より午に迄(いた)り、勝敗いまだ決せず。未牌(午後二時)津の藩兵の南門を攻むる者、遷(めぐ)つて山下に出で、肉薄して乱射す。我が兵稍阻む。官兵、勝に乗じて将に南門に入らんとす。我が兵、撃ちてこれを走らす。而して鹿児島、佐賀、鳥取の藩兵、代わって進み、攻撃甚だ急なり。我が兵、死傷相い踵()ぐ。新黒門初めて守りを失う。諸門ついに敗る。是において官兵、三面より斉しく入り、山(東叡山)を奪いて火を放つ。余、初め難問にありて拒ぎ戦う。敗るるに及んで隊士百人と退いて中堂の前に至る。殊死(死を決して)して戦う。たまたま、火、堂宇に及ぶ。吉祥閣むまた黒煙、猛火の中にあり。天地ために震い、山河ために動く。而して官兵充塞(ふさがる)してまた拒ぐべからず。すなわち走って法親王に謁せんと欲す。親王既に遁(のが)る。之に跡して三河島に至り、ついに追いおよぶ。王、納衣草履、唯一僧のみ従う。余等伏して生死相従わんことを請う。侍僧の曰く、王、将に会津に赴かんとす。卿等去って後図(のちのはかりごと)をなせと、衆みな涙をふるって散ず。後、一、二年、海内すでに定まる。諸の罪を得るもの赦されて故郷に帰る。余も亦万死を出でて一生を得、当時を回顧して深概に堪えざるものあり。よってその顛末を録することかくの如し。明治七年申戌五月 幕府の遺臣阿部弘蔵撰 清蘇州費廷桂書
(何の碑だろうとネットで調べてみたら「上野戦争碑記」でした。漢文で書かれていますが、幸い「訳」もありましたので記録させていただきました)



by Twalking | 2018-10-08 15:24 | 東京散歩(新規)

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