ぶらり千駄木~上野公園04-上野公園(1)
天気 晴れ
上野公園は「日光街道」のバスの出発地でしたので、
朝とか帰りがけなどに園内をぶらりと歩いて、
記録はしていましたが、まとめ直したいと思っていました。
今回、一部ですが古石神井川跡や寛永寺など関連する
箇所を廻りながら上野公園をゴールにしましたので
記録を整理して更新したいと思います。
歴史遺産も多いし、緑も豊か、歩き甲斐のある公園です。
・・・上野公園/台東区
江戸時代初期この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが、徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永2年(1625)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応4年(1867)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治6年1月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。恩賜公園のいわれは大正13年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模景観はもとより施設などが我が国有数の都市型公園として整備された。面積62万m2余り。上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。(下町まちしるべ/台東区)
・・・・輪王寺
江戸時代、現在の上野公園には寛永寺の堂宇伽藍が整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現・東京国立博物館敷地内)に本坊があり、「東叡山の山主である」輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は3500坪(約1.15ha)という壮大なものであったが、慶応4年(18588)5月の上野戦争のためことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。これはその焼け残った表門である。明治11年帝国博物館(現・東京国立博物館)が開館すると正門として使われ関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない現在地に移建した。門の構造は切妻造り本瓦葺、潜門のつく薬医門である。薬医門とは本柱が門の中心線上から前方にずれ、本柱と控柱を結ぶ梁の中間上部に束をのせ、その上に切妻屋根を乗せた門をいう。なお、門扉には上野戦争時の弾痕が残されていて当時の戦闘の激しさがうかがえる。(台東区教育委員会)
寛永寺の開山・天海(慈眼大師)は寛永20年(1640年)に死去し、翌正保元年(1644年)現・輪王寺の地に天海を祀る開山堂が建てられた。天海が崇敬する良源(慈恵大師、元三大師)を併せ祀ったことから「両大師」と呼ばれるようになった。日光の輪王寺は明治初年の神仏分離後に旧名の満願寺となっていたが、明治16年(1883年)に輪王寺の寺号復称が許可され、2年後の明治18年(1885年)には「輪王寺門跡」の称号が復活した。開山堂は慶応4年(1868年)の上野戦争では焼け残ったが、平成元年(1989年)に火災に遭い、天明元年(1781年)再建の開山堂と寛政4年(1792年)再建の本堂が焼失した。現在の本堂は平成5年(1993年)に再建されたものである。
境内西側に本堂(1993年再建)東側に輪王殿(斎場)がある。輪王殿の手前には西隣の東京国立博物館敷地から移築した寛永寺旧本坊表門(重要文化財)が建つ。本堂前の鐘楼に懸かる梵鐘は慶安4年(1651)の製作。本堂前の参道左右の銅燈籠はもと上野の大猷院(徳川家光)霊廟に奉納されたものである。(Wikipedia)
両大師(りょうだいし)
天台宗で良源 (りょうげん)と天海(てんかい)を並べて尊崇する呼称。ともに平安なかばと、戦国時代末に荒廃した比叡山と天台宗を復興し、良源は第18世天台座主となり、慈恵大師と諡(おくりな)し、天海は上野東叡山寛永寺を開山、慈眼(じげん)大師と諡する。両大師の験力は民間の信仰を集め上野の両大師など、とくに関東一円に盛んである。(コトバンク)
日光山輪王寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/17642344/)
・・・噴水池広場
日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。また、社団法人日本工芸会の本部がある。1872年(明治5年)に創設された日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。収蔵品の総数は11万件を超え、国宝87件、重要文化財622件(2009年3月31日現在)を含む。(Wikipedia)
この門はもと因州池田家江戸屋敷の表門で、丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年(1892)芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。のちに東宮御所として使用されさらに高松宮家に引き継がれる。表門は昭和29年(1954)3月さらにここに移建して修理を加えたものである。創建年代は明らかではないが、形式と手法からみて江戸時代末期のものである。屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており大名屋敷表門として最も格式が高い。昭和26年(1951)9月、重要文化財に指定。(説明板)
・・・上野東照宮
唐門(国指定重要文化財)
正式名称は唐破風造り四脚門。柱の内外四額面には日光東照宮の『眠り猫』で有名な左甚五郎作の『昇り龍・降り龍』の彫刻があり、毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して、頭が下を向いているものが昇り龍と呼ばれています。両側上部に錦鶏鳥の透かし彫りがございます。透かし彫りが裏表どちらから見ても美しく見えるように一本の木を両面から彫り出す高い技術が必要なもので、室町桃山時代の技術を集大成したものとして評価されています。両側中央にある透かし彫りは諌鼓鳥というモチーフです。昔、中国の皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、天子の政道に誤りがある時は人民にそれを打たせてその訴えを聞こうとしたが政治に誤りが無く、打つことが無かった為、鶏が太鼓に住みつくほどであったと言う故事に由来します。徳川の世が天下泰平であるように願いを込めて彫られたと考えられています。(説明板)
向こう側が透けて見えるのでこの呼び名があります。社殿の東西南北を囲んでおり上段には野山の生き物と植物、下段には海川の生き物が計250枚、約90種類彫られています。鳥や獣の他、蛙や貝、鯰、昆虫など珍しい彫刻もあり、実写的なものから大きくデフォルメされたものまであります。これらの彫刻は創建当時、極彩色であったと思われますが、その後の修理で弁柄漆で上塗りされたと考えられています。平成21〜25年の保存修理工事では江戸創建当時の姿を蘇らせるために全ての彫刻に彩色を行いました。彩色は生彩色と呼ばれる方法で行いました。生彩色とはまず金箔で彫刻を覆った上から絵具で彩色を行う豪華な彩色方法です。絵具は創建当時と同じ岩絵具を使用しました。彫刻の形から動物の種類を推察し、当時の彫刻や絵からどのような色で描かれていたかを調査し、有識者間での検討を重ねて色を決定し彩色がなされました。(説明板)
これら唐門両側の6基の銅灯篭は家康公36回忌である慶安4年(1651)4月17日に奉納された。尾張・紀伊・水戸の「御三家」により2基づつ奉納されたものです。すべて重要文化財に指定されている。笠の龍が舌を巻いているようなモチーフは「蜃・しん」という想像上の動物で、口から気を吐き蜃気楼を作るといわれている。火袋の天女の装飾が美しく精巧である。燈籠の奉納者は唐門より順に以下のように並んでいる。紀伊 従二位大納言徳川頼信(家康の十男) 水戸 正三位権中納言徳川頼房(家康の十一男) 尾張 従三位兼右近衛権中将徳川光義(家康の孫・家康の九男義直の子)御三家の中では尾張・紀伊・水戸の序列が一般的なので通例だと兄弟の順からも九男が興した尾張家が一番唐門側に来るのであるが、奉納の前年に義直が他界し子の光義(後の光友)が家督を継いだばかりでまた官位も低かったため唐門から最も遠い場所に奉納し、このような順になったと考えられる。(説明板)
東照宮社殿唐門前と参道に50基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といいここに銘文を刻むことが多い。これら銅燈籠は諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘一基をはじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献2基、同年4月17日奉献45基、同5年孟夏17日奉献2基となっている。慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は東照宮社殿とともに一括して国の重要文化財に指定されている。(台東区教育委員会)
寛永8年(1631)土井利勝により上野東照宮(寛永4年・1627創建)の一部として五重塔が建立・寄進されました。寛永16年(1639)火災により焼失、甲良宗広らにより同年再建されたのが現存する五重塔です。以前この場所には五重塔への参道がありました。ですから五重塔の正面は今ご覧になっている面です。明治時代に神仏分離令が発令され、五重塔は仏教施設であることから全国の神社所有の五重塔は多くが破壊されました。当宮の五重塔も取り壊しの対象となりましたが美しい姿を何としてでも残したいと考えた当時の宮司は熟慮を重ね、五重塔を手放すこととし塔は寛永寺の所属であると国に申し出ました。東照宮五重塔は寛永寺五重塔と名前を変えましたがその機転により取り壊しは免れました。寛永寺の所属となったものの寺からは距離があり管理が難しいことから昭和33年(1958)東京都に寄付されました。現在は動物園の敷地内にございます。塔の高さは約32m、江戸時代の多くの五重塔が初層から第4層までを和風、最上層のみを唐様風とするのに対し、この塔は全層が和風様式です。建物内部には心柱が塔の土台の上にしっかりと建てられ、塔の頂上にある青銅製の相輪まで貫いています。心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造が江戸時代の五重塔に多く見られるのに対し、この塔は土台にしっかりと建てられた桃山時代建築の五重塔に良く見られた構造で建てられています。屋根は初層から第4層が本瓦葺、最上層は銅瓦葺を使用しています。初層上方には十二支の彫刻が、各層の軒下の角隅部には4頭ずつ龍の彫刻が配されています。関東大震災でも倒壊せず戊辰戦争や第2次大戦でも焼失を免れた、江戸初期の建築様式を伝える優れた建築の一つとして明治44年(1911) 国の重要文化財に指定されました。以前、塔の初層内部には心柱を大日如来に見たてそれを中心にして東寺大仏師職法眼康猶の作と伝えられる弥勒・薬師・釈迦・阿弥陀の4体の仏像が安置されていました。第2次大戦中五重塔は管理が行き届かず扉は壊れた状態でした。その内部に仏像が置かれたままになっているのを発見した当時の宮司は、仏像の破損や盗難を防ぐため急いで東照宮内に4体を引き取って大切にお守りし戦後寛永寺にお返ししました。現在 この4体の仏像は東京国立博物館に寄託されています。(上野東照宮)
東照宮
東照大権現の神号を得た徳川家康をまつる神社。全国各地に所在し、そのうち日光市の日光東照宮が特に有名で元別格官幣社。元和2 (1616) 年に没した家康の遺体はいったん駿河国の久能山に葬られたが、遺言により元和3 (1617) 年下野国日光山に改葬された。その後、寛永 11 (1634) ~13年に将軍徳川家光が社殿の大々的な改築を行ない現在の日光東照宮ができた。すべて漆塗りで極彩色が施され当代の建築装飾が集約されている。社殿の形式は権現造の典型的なもので、最もよく知られている陽明門をはじめ5件8棟が国宝に指定されている。1999年には近隣の二荒山神社、輪王寺とともに世界遺産の文化遺産に登録。なお東照宮は初め東照社と称し、正保2 (1645) 年東照宮号を朝廷から授けられた。(コトバンク)
久能山東照宮の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/20531443/)
日光東照宮の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/17778572/)
・・・大仏山
佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之東照大権現御宝前石燈籠寛永8年辛末孟冬17日と刻印し寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631年)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などはまだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけてこの燈籠を寄進したのである。勝之は織田信長の武将佐久間盛次の4男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。燈籠の大きさは高さ6.08m、笠石の周囲3.63mと巨大でその大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに日本三大燈籠に数えられる。(台東区教育委員会)
正面の丘はかつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。最初の大仏は越後(現新潟県)村上藩主堀直寄が寛永8年(1631)に造立した2m80cm前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため正保4年(1647)の地震により倒壊してしまった。明暦~万治年間(1655~1660)には木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって3m60cmをこえる青銅製に堂々たる釈迦如来坐像を像立した。その後、元禄11年(1698)輪王寺宮公弁法親王が同像を風雨から覆うための仏殿を建立。天保12年(1841)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、1年半後の天保14年(1843)には最初の造立者・堀直寄の子孫堀直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政2年(1855)の大地震では大仏の頭部が倒壊したものの間もなく堀家が修復している。しかし、明治6年(1873)上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に明治9年・1876、明治10年・1877の二説あり)、大正12年(1923)の関東大震災では大仏の面部が落下、さらに第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため面部のみが寛永寺に遺った。寛永寺では昭和47年(1972)丘陵上の左手に壁面を設けここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。なお、江戸時代の大仏はいずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。また、同じく丘陵上の正面にある建物は「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和42年(1967)3月着工、同昭和42年(1967)6月に完成した。高さ15m内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。(台東区教育委員会)
『花の雲 鐘は上野か 浅草か』芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。時の鐘ははじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永3年(1626)になって日本橋石町3丁目に移され江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い上野山内、浅草寺のほか本所横川、芝切通し、市谷八幡、白不動、目黒円通寺、四谷天竜寺などにも置かれた。初代の鐘は寛文6年(1666)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。その後、天明7年(1787)に谷中感応寺(現・天王寺)で鋳直されたものが現存の鐘である。正面に「東叡山大銅鐘」反対側には「天明七丁未歳八月」下に「如来常住 無有変易 一切衆生 悉有仏性」と刻まれている。現在も鐘楼を守る人によって朝夕6時と正午の3回昔ながらの音色を響かせている。なお、平成8年6月環境庁の残したい「日本の音風景100選」選ばれた。(台東区教育委員会)
東叡山寛永寺
天台宗の寺。寛永2(1625)年開創。創建年号にちなみ寛永寺と号された。山号は東叡山(東の比叡山の意味)、院号は円頓院。日光山に東照宮を営んでいた僧天海が、幕府より江戸忍岡の地を与えられ、寺院を建立し武蔵国川越の東叡山喜多院から東叡山の名を移した。その後、徳川家康を祭神とする東照宮、京都清水寺の観音堂を模した清水観音堂などが建立され、幕府の保護のもとに隆盛を極めた。一帯は物見遊山の場としても栄え桜の名所でもあった。これは、桜を好んだ天海が吉野より桜を移植したことに始まる。慶應4(1868)年、彰義隊と官軍との戦場となり伽藍の大部分が灰燼に帰した。現在、この一帯は上野公園となっている。(錦絵で楽しむ江戸/国立国会図書館)
ぶらり千駄木~上野公園03-上野桜木の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27150492/)
by Twalking | 2018-10-10 14:19 | 東京散歩(新規)