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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり千駄木~上野公園05-上野公園(2)   

日時 2018.9.28(金)
天気 晴れ


かつての参道を清水観音堂、旧山王台、不忍池へ向かいました。
みどりも多いし、見所豊富ですから散策にはうってつけ、
それにしても外国の方が多いですね・・・、ちょっとビックリ。

今回は寛永寺の関連史蹟を中心に見て廻りましたが、
ここは博物館や美術館、それに芸大もありますから、
いろいろな楽しみ方ができます。
今度は目的を変えて訪ねてみたいと思います。


・・・擂鉢山

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かつての参道でしょうか、左が清水観音堂、寄りませんでしたが右奥が擂鉢山になります

摺鉢山古墳
摺鉢山はその形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、1500年前前方後円形式の古墳と考えられている。現存長70m、後円部径43m、前方部幅は最大部で23m、後円部の道路との比高は5mである。丘上はかつての五條天神清水観音堂鎮座の地であった。五條天神の創立年代は不明であるが堯恵法師は『北国紀行』のなかで文明19(1487)に忍岡に鎮座する五條天神を訪れた際『契りきて たれかは春の 初草に 忍びの丘の 露の下萌絵』とうたっている。現在、上野公園忍坂に鎮座。清水観音堂は寛永8(1631)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが元禄年間(16881703)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移転した。現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。(台東区教育委員会)

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花園稲荷神社鳥居


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花園稲荷神社
祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと、別名豊受姫命・とようけひめのみこと)
この神社の創建年代については不詳であるが、五條天神社が移転してくる以前からこの地にあった神社である。一説に空海が東寺の門前に建てた稲荷山太田道灌が勧請したとも、天海が勧請したとも、のちに木食浄雲により再興されたとも伝えられるが、社伝では承応3年(1654)に天海の弟子晃海により再興されたとされる。幕末には上野戦争(黒門・穴稲荷門の戦い)の舞台ともなった。1873年(明治6年)に周囲が寛永寺の花畑であることから花園稲荷神社と改名され、現在の花園稲荷神社の社殿などが整備された。本務社である五條天神社に管理されているものの花園稲荷神社は独立した法人格を持つ兼務社であって、五條天神社の境内社ではない。(Wikipedia

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稲荷坂
花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保17年(1732)の『江戸砂子』にその名が見え、明治29年(1896)の『新撰東京名所図会』には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ」とある。(台東区教育委員会)

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五条天神社鳥居


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五条天神社
景行天皇の御代(110日本武尊が東夷征伐のため上野忍ケ岡をお通りになられた時、薬祖神二柱の大神に難儀を救われたことを感謝しここに両神を祀られた。相殿の菅公は社名が五條天神といわれたことから、寛永18年(1641)に合祀されたともいい、また神職瀬川家が代々連歌師であって歌道の祖として庭内に祀られていた社を合祀したともいう。社地は天神山にあったが寛永寺が創られるにあたり神職瀬川邸に遷り、震災のあと現地に昭和39遷座された。(東京都神社名鑑)

忍ヶ岡(しのぶがおか)

台東区西部、上野古名。山手台地が隅田川沿いの低地に臨む突端にあたり、江戸時代に東方の下谷(したや)に対して上野とよぶようになったが、以前は忍ヶ岡、また忍ヶ森とよばれた。東叡山寛永寺が1625年(寛永2)建立され、明治以後に上野公園となり文化、散策の地として親しまれている。忍岡中学校にその名が残っている。(コトバンク)


・・・旧山王台

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前方が彰義隊の墓所、右手に西郷像が立ちます

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敬天愛人/西郷隆盛
像台東区上野の上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)、鋳造は岡崎雪聲。発起人は吉井友美、宮内省より500円を下賜され、さらに全国25千人余の有志の寄付金で建立された。除幕式は西郷の死後21年を経た1898年(明治31年)1218日に行われた。身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合の遠近感適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではない。以後「上野の西郷さん」と呼ばれて100年以上も国民に親しまれ、現在でも東京タワーや新宿の高層ビル街とならぶ東京の象徴的光景となっている。(Wikipedia

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敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来
西郷隆盛は文政10年(1827年)127日薩摩藩士として鹿児島鍛冶屋町に生まれた。通称吉之助。南州はその号である。若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回。元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶應3年(1867年)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことは余りにも有名である。その後は故郷に退隠したが明治41871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果たした。然るに、明治66月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断固反対して、大使派遣による平和的修交を主張しその決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学校を興して後進青年の育成に努めた。明治102月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7ヶ月余ついに敗れて城山に自刃した。924日、享年51歳。そのため一時逆賊とされたが明治222月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友・吉井友実が同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志25千人の醸金を得て明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。西郷隆盛の偉大な功績はその信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお敬慕される所以はここに在るのである。(碑文)

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彰義隊の墓

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彰義隊の墓(台東区有形文化財)
江戸幕府15代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(18682月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。慶応4515朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。正面の小墓石は明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋葬したものだが、後に掘り出された。大墓石明治14188112月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成2年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会)

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彰義隊の墓
15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷(おきさと)らは、慶応4年(1868)大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の除名嘆願のため同志を募った。そこに徳川政権を支持する各藩士をはじめ新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦515日上野戦争は武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。生き残った小川ら隊士は明治7年(1874)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、120年余りに渡り小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史記念としてその管理は東京都に移されている。(説明版)
(写真:彰義隊奮戦の図/説明板)

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階段を下ると上野広小路ですが、清水観音から不忍池へ向かいます


・・・清水観音堂


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清水観音堂

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清水観音堂
清水観音堂は寛永81631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山・慈眼大師天海大僧正15361643)によって建立されました。天海大僧正は寛永21625)年に2代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂です。清水観音堂は京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢山」(すりばち)に建てられました。しかし元禄初期、今の噴水広場の地に寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄71694)年9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する創建年時の明確な最古の建造物です。平成212月から文化財保存修理が行われ平成81996)年10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る国指定重要文化財です。(寛永寺HP)

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月の松                清水坂

清水坂
この坂を「清水坂」という。坂の上には東叡山寛永寺清水観音堂があり、坂の名はその堂の名称にちなむ。清水観音堂は寛永8(1631)に京都の清水寺を模し摺鉢山の上に創建され、元禄7年(1694)に現在地へ移転した。国の重要文化財に指定されている。不忍池弁天堂から清水観音堂へ向かう途中にあるこの石段坂を「清水坂」といいます。(台東区教育委員会)


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江戸名所図会 清水堂花見図 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・不忍池

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清水坂を下ると不忍池、湖畔から上野のお山(忍岡)を望みます

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不忍池
不忍池はかつて古石神井川武蔵野台地の東端を割って海ぞいの低地へと注ぎ出ていた開口部に位置し、川の東岸にあたる上野台地(いわゆる上野のお山)や西岸にあたる本郷台地(東京大学の立地する台地。南は神田山(駿河台)へと連なる)にくらべると10m以上も標高の低い谷あいとなっている。縄文時代の頃にはこの辺り一帯は東京湾入り江であった。その後海岸線後退とともに取り残されて、紀元数世紀頃にになったと考えられる。1625年、江戸幕府は西の比叡山延暦寺に対応させこの地に寛永寺を建立した。開祖である慈眼大師・天海は不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島(中之島)を築かせ、そこに弁天堂を作った。当初の弁天島は文字通りで渡る島であった。しかし1672年に弁天島から東に向かって石橋が架けられ徒歩で渡れるようになった。明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なっていた。特に池の北側は今よりもかなり広く藍染川(谷田川)という川も注いでいた。また、弁財天の中島への両側は家が建ち並び明治5(1872)4月には不忍天竜町という町名さえ起立されていた。上野の山が公園に指定されたのに伴い1875年に不忍池も公園に編入された。このときの面積は18ha、1989年当時に対して1.7倍の広さだった。しかし1884年共同競馬会社による競馬場の建設に伴い埋め立てが行われほぼ現在の形が出来上がった。Wikipedia抜粋

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弁天堂

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弁天堂 
寛永21625)天海僧正は比叡山延暦寺にならい上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は琵琶湖に見立てれられ、竹生島に因んで常陸(現茨城県)下館城主・水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し弁天堂を建立した。当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間166172)に石橋が架けられて自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。弁天堂は昭和20年の空襲で焼失し、昭和339月に再建された。弁天堂本尊は慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。本堂天井には児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前手水鉢の天井に天保3年(1832)と銘のある谷文晁による「水墨の竜」を見ることができる。大祭は9月の巳の日で巳成金という。(台東区教育委員会)

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弁天堂(背面)               琵琶の碑

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大黒堂

このお堂は豊臣秀吉公が大切に護持していたと伝わる大黒天が祀られている。東叡山寛永寺(天台宗)の伽藍の一つです。大黒天はもともとインド古来の「マハーカーラ」という戦争の神、時間を支配する恐ろしい神と考えられてきました。やがて日本に仏教が伝わり民間信仰の対象となってからは、日本古来の福神の大国主命と同体である(同音)という考えが生まれて、武神から福神へと変化し広く親しまれるようになりました。この大黒堂は太平洋戦争で焼失しましたがご本尊の大黒天は安泰で、昭和43年に旧位置に再建されました。(説明板)

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芭蕉翁碑・ぶぐ供養碑  
       めがねの碑


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幕末の剣豪櫛淵虚沖軒之碑       鳥塚

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遊歩道より上野広小路方面の景観です

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弁天堂&スカイツリー         湖畔のひと時

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江戸名所図会 忍ばず池 中島弁財天
 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

不忍池

現在の上野公園の西南部にある池。かつて東京湾の入江であったが、平安時代ごろ入江が後退した際に取り残されて池となったとされる。寛永寺創建の際、寺の山号を比叡山にならって東叡山としたことにちなみ、この池を琵琶湖に見立てて、竹生島になぞらえた中島を築造し弁天堂を創設した。名前は忍岡に由来するという説や、篠が生い茂って輪のようであった(篠輪津)という説など諸説ある。特に夏季は美しい眺めで、文人たちにより小西西湖(しょうせいこ)と唱えられた。蓮の名所で茶屋では蓮飯を食べさせた。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)

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街道の風景 池の端から昌平橋通りの千代田線・湯島駅にゴールしました/天神下交差点

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上野公園周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

ぶらり千駄木~上野公園04-上野公園(1)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27153886/

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ルート地図(千駄木~上野公園)
(赤:歩行ルート 赤角:本駒込駅・湯島駅)


by Twalking | 2018-10-11 21:21 | 東京散歩(新規)

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