無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり上野~三ノ輪01-上野   

日時 2018.10.16(火)
天気 晴れ

不安定な天気が続きますが、晴れそうなので出掛けました。
旧筋違御門から御成道を上野へ、根岸の里から
奥州裏街道を三ノ輪へと予定しています。

旧筋違御門、上野広小路、アメ横などは久し振りです。
ついでに徳大寺(摩利支天)、下谷神社にもお参りして
松が谷の寺町、根岸の里へ、ここは初めてなので楽しみです。


・・・外神田/千代田区

千代田区のうち神田川の北側に張り出した位置にあり一般的に秋葉原と呼ばれている地区にほぼ相当、文京区(湯島)、台東区(秋葉原・上野)との区境にあたる。江戸府内より見て神田川(外堀)の外側を「外神田」(内側は「内神田」)と称したことが名前の由来で、1964年の住居表示実施による町名変更の際この名が新町名に採用された。
Wikipedia


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街道の風景① 定番のスポット、聖橋から神田川昌平橋方向を望みます/御茶ノ水駅

聖橋

千代田区駿河台と文京区湯島にまたがり本郷通り(都道403号)を結んでいる。全長79.3mのうち神田川の上部の36.3mが放物線を描く鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで昭和2年(1927年)に完成した。両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂ニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。Wikipedia


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昌平坂                        湯島聖堂

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街道の風景② 万世橋にでて中央通りを上野へ向かいます/万世橋

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万世橋
千代田区北東部、神田川に架かる橋。江戸時代、中山道御成街道との分岐点に筋違見附があり、城を守る筋違門があった。1873年(明治6)城門を壊した石を利用して東京で初めてのアーチ型の石橋(眼鏡がつくられ、橋の名を万代(よろずよ)として不朽を願った。1906年(明治39)撤去され、やや上流に架橋、万世橋とされ呼び名もいつしか「まんせいばし」と変えられ付近の地名ともなった。現在の橋はふたたびもとの筋違門付近1930年(昭和5)鉄筋コンクリートで架けられたもの(上流の万世橋は昌平橋と改称)。秋葉原)駅に近く橋の南詰にあったかつての甲武鉄道(中央線)万世橋駅跡には交通博物館があった(20065月閉館)(コトバンク)

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旧万世橋駅(マーチエキュート神田万世橋)
かつて中央線の神田~御茶ノ水間に明治451912)年に開業した「万世橋駅」がありました。昭和18休止になりましたが、赤レンガの万世橋高架橋の中にホームや階段など駅の施設が一部残っていました。「旧万世橋駅」はこれら駅の遺構を再生し、歴史的価値ある遺構を随所にご覧いただける施設です。開業当時姿をほぼ留めた「1912階段」や、交通博物館開館時に設けられた「1935階段」をはじめとする遺構を公開するほか、旧万世橋駅時代のプラットホームにデッキを設けた「2013プラットホーム」にはフリースペースやカフェがあります。このほかにも万世橋駅の足跡を今に伝える展示も実施しています。(東日本鉄道文化財団HP)

駿河台・筋違御門の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24224167/

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街道の風景③ かつての御成道、総武線の御成街道架道橋」にその名を残します/秋葉原駅前

御成街道
神田川以北は五街道ではなく江戸城から寛永寺へと向かう御成道(御成街道)に由来する。御成道は昌平橋と現在の万世橋の間の位置にあった筋違橋から下谷広小路(現在の上野広小路)を経て、寛永寺境内(現在の上野恩賜公園)の参道に接続していた。「御成街道」の名前は御成街道架道橋に残っている。また、万世橋の前後は架橋に伴って整備された道筋である。(Wikipedia

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秋葉原
秋葉原駅周辺
、主として千代田区外神田・神田佐久間町および台東区秋葉原周辺を指す地域名である。18701月(明治212月)の大火を受けてできた火除地(空地)に明治天皇の勅命で1870年(明治3年)10月に宮城(江戸城)内の紅葉山から鎮火三神を勧請して創建した「鎮火社」が、火防(ひぶせ)の神・秋葉大権現として人々が「秋葉社」「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、火除地を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだことで秋葉原の地名が誕生した。鎮火社は1888年(明治21年)に日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が上野から秋葉原まで延長されるのに伴って東京府下谷入町(台東区松が谷三丁目)に遷宮して秋葉神社となった。Wikipedia

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神田亀住町

江戸時代のこの界隈は武家屋敷がたち並ぶ地域で、幕末のころには一帯が豊前小倉藩小笠原家中屋敷となっていました。神田亀住町はもともと神田川北岸に江戸時代からあった神田六軒町、柳原大門町、神田八軒町、上野町代地が明治2(1869)合併してできた町名です。その名前は末永く生活できる場であってほしいという願いを込めて付けられたといいます。この年の12月、現在の外神田一帯に大きな被害をもたらした火事がありました。火災後、神田亀住町は新政府により火除地(延焼を食い止めるための空き地)とされたため、翌3(1870)小笠原家屋敷跡代地として与えられ、神田川北岸に移転してきました。明治44(1911)の町名変更で町名はいったん亀住町となります。昭和22(1947)にふたたび神田亀住町に戻されますが、昭和39(1964)の居住表示の実施で、神田栄町や神田元佐久間町と合併して現在の外神田五丁目になりました。町内にある亀住稲荷(かめずみいなり)神社は豊前小倉藩の中屋敷内にあった稲荷と神田八軒町にあった稲荷を一緒に祀ったユニークな社(やしろ)です。町の人々はこの神社に深く愛着をいだき稲荷のための保存講を組織し管理・運営を続けるなどいつの時代も大切にしてきました。(千代田区町名由来版)


・・・上野/台東区

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街道の風景④ 上野松坂屋から京成上野駅の一帯が黒門のあった下谷広小路です

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上野
戦国時代『小田原衆所領役帳』に江戸上野という記述が見られ北条領であった。江戸時代:
1752年の地図上の不忍池(中央上やや右)。上野山は戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれており、元々江戸においては人口の少ない地域であった。1603年に江戸幕府が開かれた頃、忍岡には伊賀国上野を本拠地とする外様大名・藤堂高虎の屋敷が置かれた。後に徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され門前町が開けた。この頃から寛永寺付近の一帯を「上野」と呼ぶようになる。これは藤堂家の所領である上野に地形が似ていたためと言われている。寛永寺には歴代将軍の墓も建てられ江戸幕府から保護されたので繁栄し、それに伴って門前町の上野も発展した。上野寛永寺は江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、京都の延暦寺(京都から見た場合は北東)に擬えた江戸鎮護の寺でもあった。明暦の大火後には上野に広小路が設置された。ただし、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸時代には「下家広小路」と呼ばれていた。Wikipedia抜粋)

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旧東黒門町
東叡山寛永寺が創建されたのにともない、寛永3(1626)に同寺の門前町として上野新黒門町ができた。この命名については御府内備考が『問う叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉』と述べられているのに由来する。上野新黒門町は御成道(現在の中央通り)両側に形成されていたが、明治2(1869)御成道を境にして東西に二分され上野西黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。翌3年東京府の近代都市政策のもと下谷第39番組に属し地元指導者を中心にまちづくりが始まった。そして明治5(1872)付近の武家屋敷を合併し本町は形づくられた。明治44年に上野の二字をはずし東黒門町となった。(下町みちしるべ/台東区)

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街道の風景⑤ 朝の不忍池です。右手に下町資料館、左に龍門橋碑(忍川)があります

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下町風俗資料館               龍門橋碑

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上野広小路三橋遺構
上野広小路三橋遺構は都道中央通り(上野広小路)に建設中の台東区営地下駐車場工事地内における発掘調査により平成17年度に発見された石組水路です。江戸時代には寛永寺の参道に続く下谷広小路にかかる遺構で、西側の不忍池から広小路を横切るように水路(忍川)が砂層を分断してへ流れていました。川には三つの橋(中央に将軍が寛永寺に参詣する時に使用する大橋、左右に一般用の小橋)が架けられていて三橋と呼ばれていました。下谷広小路はほぼ現在の都道中央通りとなっており、本遺構は三橋に関係するものと考えられます。石組水路は明治に暗渠となっていたようですが、昭和5年の地下鉄銀座線に分断されて廃棄された後には、コンクリート管が埋められましたが、遺構部分は良好に残されていました。水路は一度改築されて約80cm浅くなり、さらに途中から南側に折れ曲がります。当初の深い部分において上幅3m、下幅1m、高さ3mあり、石垣は間知石を積み上げ、底面の砂層の上には長さ450、幅40、厚さ10cmの板材を組み合わせて敷いています。構築は17世紀中頃、改築は17世紀後半から18世紀前半頃と推測され、改築は参道が広小路として拡幅されたことと関連すると思われます。本遺構は遺存が良好であり、また類例の知られていない板敷きを有するなど貴重です。また忍川と上野広小路の歴史を解明し、さらには寛永寺と三橋の関係を考えるためにも重要です。(台東区教育委員会/台東区HP)

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旧上野三橋町
本町は明治2(1869)上野仁王門前町と仁王門前上野家来屋敷の東側、そして北大門町飛地と上野役人屋敷を合併しその地域を町域にして起立した。町名は町の南西、御成道(現中央通り)、不忍通りとの交差点のあたりに三橋という橋があったことに由来する。橋の名は不忍池から流れ出る忍川三つ並んで架設されていたことにちなむという。ほかに将軍が寛永寺墓参の折に渡る橋なので御橋といい、それが三橋に転訛したとする説もある。定説の三つの橋は真中の橋が将軍専用で、両側の橋が一般の通用橋であったという。忍川は昭和初年に暗渠になりそのため橋も消えた。昭和39(1964)の住居表示では大部分が上野4丁目になり一部JR高架線下が同6六丁目になった。(下町まちしるべ/台東区)

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上野広小路・下谷・山下
現在の上野公園(旧寛永寺)周辺。広小路は、現在の上野公園入口から松坂屋に至る一帯。明暦の大火(明暦31657年)ののち、道幅を広げて火除け地となった。歴代将軍が寛永寺参拝に利用した御成道で、沿道に食料品店、料理店などが並ぶ繁華街であった。現在の中央通りと不忍通りの交差点には忍川が流れており、三つの橋が並んでかけられていたことから三橋(みはし)と呼ばれた。松坂屋、三橋は錦絵にも描かれた。下谷は寛永寺(現上野公園)の東側一帯をさし、台地であった上野に対する名称。山下は東叡山の下の意味。現在のJR上野駅構内駅前広場にあたる。元文21737)年の火災ののち火除け地となり、町屋は開かれず商店や見世物小屋が立ち並ぶ歓楽街となった。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)
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江戸名所図会 東叡山黒門前 忍川 三橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景⑤ 昭和通りの歩道橋よりお上野のお山を望む、上野駅周辺が「山下」でしょうか/上野駅前

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昭和通り
第一京浜(国道15号)・銀座通り(国道15号)が交差する港区新橋交差点から、明治通りが交わる台東区大関横丁交差点に至る道路の東京都通称道路明である。昭和通りは関東大震災の復興事業として計画・建設された道路である。当時東京市長だった後藤新平の原案では道幅を108mとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅に狭められ1928年(昭和3)に完成した。Wikipedia

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上野駅
当駅は日本の鉄道黎明期に日本初の私鉄である日本鉄道が上野熊谷間の第一区線(現在の高崎線)開業時(1883・明治16年)に合わせて、東京下町北端の山下町に東京方の起点駅として開業した歴史ある駅である。以来、日本を代表するターミナル駅として栄えてきた。現在、当駅には北関東と東京を結ぶJR各線の中距離電車と東京都区部を走る各通勤電車(JR東日本・東京メトロ)各線が結節し、また東北、上信越方面の各新幹線、その他在来線各線の優等列車が発着するなど東京の「北の玄関口」として機能している。Wikipedia
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江戸名所図会 山下 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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・・・御徒町

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御徒町
御徒町駅周辺5駅を核とした地域・通称。東京7ヶ所の副都心、上野・浅草副都心を形成する拠点地域のひとつでもある。江戸時代秋田藩竹町(御徒町の北側)現在の佐竹商店街近辺にあり幕末後、野ッ原になった。その後、明治の後半から大正にかけてこの地には寄席、見世物小屋が並び東京の一大歓楽街を成していた。江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。現在は町名としては消滅し台東区台東および東上野の一部となっている。
Wikipedia)写真:御徒町駅前

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街道の風景⑥ 久し振りのアメ横です、相変わらず賑わっていますね

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アメヤ横丁
台東区の南西部、JR御徒町駅上野駅間ガード下西側一帯のマーケット街。アメ横ともよばれる。終戦直後の1946年(昭和21)ここに闇市や露店が開かれて活況を呈したが、当時飴屋が多かったのでこの名が生まれた。その後、飴屋が菓子問屋、化粧品店になりやがて万年筆、香水、時計などの高級輸入品を扱うまでになり、とくに年末の食料品、海産物の売り出しは東京の名物の一つともなっている。1983年(昭和58)北東端にモダンな地下2階、地上5階建てのアメ横センタービルがオープンし現在は新旧のアメ横共存の形である。(コトバンク)

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徳大寺山門

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徳大寺/上野
台東区上野4丁目アメヤ横丁の商店街の中にある日蓮宗の寺院。山号は妙宣山。本尊は大曼荼羅。開運摩利支天を祀ることから摩利支天山(まりしてんさん)とも呼ばれる。旧本山は大本山中山法華経寺。親師法縁。周囲を商店に囲まれた環境の中で立体構造型の特異な寺院様式を呈しており、参道上にアメ横周辺では異色の空間といえる境内が広がる。正午と夕暮れ時6時の商店街に響きわたる鐘の音は、徳大寺の鐘楼堂によるものである。創建年代は不明だが、伝承では江戸時代前期の承応2年(1653)に示寂した日遣によって開山されたとものという。京都本法寺の日達が下総国中山(現在の市川市)の法華経寺へ赴く際に聖徳太子作と伝えられる摩利支天像を感得、これが宝永5年(1708)にこの寺に安置され、以後江戸における流行仏のひとつとして庶民の信仰を集めた。Wikipedia

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浄行菩薩               七面大明神


・・・東上野

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街道の風景7 浅草通りを南に向かうと下谷神社があります

浅草通り

中央通りと昭和通りと交わる台東区の上野駅交差点から明治通りと交差する江東区福神橋交差点にわたる道路の通称。 都道463号上野月島線と同453号本郷亀戸線の一部に属する。台東区内全域にあたる昭和通り (国道4)から江戸通り(国道6)の間は、浅草通りの下を東京メトロ銀座線が地下の最も浅いところを走っている。日本で最初の地下鉄はこの通りの下を通って完成されたものであるWikipedia


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南稲荷町
明暦3(1657)江戸大火後、江戸各地の寺院がこの付近に移転してきた。そして唯念寺、成就寺、宗源寺、西蓮寺の各門前に町屋が形成された。この頃、唯念寺の門前町屋は町内に稲荷神社があったので俗に稲荷町一丁目と呼ばれていた。また、成就寺の門前町屋は稲荷町といっていた。明治2年これらの門前町屋は、隣接する辻番屋敷を合併して下谷稲荷町と名付けられた。稲荷神社は現在の下谷神社である。明治5年、下谷稲荷町は現在の浅草通りで南北にわかられるとともに下谷江島町をあわせて下谷南稲荷町が誕生した。その後、明治44年に下谷の二字をはずして下谷稲荷町となった。(下町まちしるべ/台東区)

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下谷神社鳥居/東上野

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下谷神社(したやじんじゃ)
大年神と日本武尊を祭っている。古くは下谷稲荷社下谷稲荷明神社と呼ばれた都内最古稲荷神社。東京メトロ銀座線に名を残す旧町名の稲荷町はこの神社の旧称が由来の町名である。例大祭で近隣町内を渡御する本社神輿は台輪幅41寸の千貫神輿といわれ大きな威容を誇る。社殿の天井画は横山大観の作。また、1708年に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれた。このため本神社には「寄席発祥の地」の石碑がある。夏になるとドライミストで神社に集まる人々が涼しんでいる。「水」と「芸能」のパワースポットと云われる。宮司の阿部明徳は東日本大震災で被災した神社等の仮社殿、鳥居、神輿、縁日などの復旧支援活動を、他の神社関係者と共に行っている。当初は上野公園に鎮座していた。730年(天平2年)峡田の稲置きらが建立したとも、行基が伏見稲荷大社を勧請したとも伝えられる。939年(天慶2年)平将門による天慶の乱追討祈願のため藤原秀郷が社殿を新造したという。寛永年間、境内が寛永寺山内となるにあたり、1627(寛永4年)別当正法院と共に下谷屏風坂下に移転したが、126坪余と手狭だったため1680年(延宝8年)下谷広徳寺前にあった谷中天眼寺先住少林庵抱地525坪余と土地交換した。1703年(元禄16年)旧地も正法院抱地になった。1868年(明治元年)神仏分離令により正法院を分離した。翌年周囲の町名が当社に因み下谷稲荷町となる。1872年(明治5年)下谷神社と改称、翌年下谷地域の郷社と定められた。関東大震災で社殿を焼失、1928年(昭和3年)現在地に移転。1934年(昭和9年)現在の社殿が完成した。Wikipedia

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舞殿                 隆栄稲荷神社

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「落語発祥の地」碑
現在の下谷神社は明治5年以前は「下谷稲荷社」が正式な名称でした。江戸時代、寛政10年(17986月に初代山生亭花楽が下谷稲荷社で5日間の寄席興業を行いました。これが江戸における最初の寄席興業といわれております。落語自体はもっと前から存在しましたが、それ以前の落語は身分の高い方の前で一対一で話をしたそうで、寄席の定義というのは一般の人を対象に木戸銭をとって落語を聞かせることだそうです。馬喰町の櫛職人をしていた京屋又五郎という人が山生亭花楽と名乗り「風流浮世おとし噺」の看板を掲げ、下谷稲荷社の境内の賭け小屋で一般の人を対象に木戸銭を取って落語を聞かせました。これが江戸における最初の寄席興業といわれており、寛政の後の文化・文政の時代には百数十軒にも増加したそうです。山生亭花楽の名前は「山椒は小粒でピリリと辛い」をかけたて付けられてものだそうです。平成10年(1998)寄席発祥200年を記念して都内4つの亭席、落語協会、落語芸術協会をはじめ落語関係者の協力により境内に記念碑が建てられ、落語関係者200名参列の下除幕式が執り行われました。(宮司 阿部明徳) 

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南参道 下町らしい風情のある参道です

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江戸名所図会 下谷稲荷明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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上野広小路周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(黄:歩行ルート 橙:中山道・御成道 青:神田川)


by Twalking | 2018-10-21 19:42 | 東京散歩(新規)

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