無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり浅草橋~三ノ輪01-元浅草   

日時 2018.11.10(土)
天気 晴れ

天気が良さそうなので浅草に出かけました。
浅草は日光街道で寄りましたがほんのさわりだけ、
浅草寺とその周辺は見所が沢山あります。

ルートはいろいろですが、ひとまず鳥越神社に寄り、
新堀通り沿いに合羽橋、浅草寺へ、境内を散策してから
新吉原、三ノ輪方面へ向かって歩いてみようと思います。


・・・鳥越

台東区の南部に位置し浅草地域に属する。当地の鳥越神社に蕨手刀、高杯、勾玉(まがたま)、菅玉、銀環など古墳出土と思われる遺物が所蔵されており、この地にかつてあった鳥越古墳出土のものとする説がある。
地名は徳川家康の江戸入府以前からのもので、後北条期の鳥越村は現在の台東区浅草橋・柳橋・蔵前・鳥越・三筋・小島の一帯と比定される。地名は地内の鳥越神社に由来する。Wikipedia)

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街道の風景① 浅草橋から鳥越神社へ、ここは訪ねたかった神社です/鳥越神社前(蔵前橋通り)

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蔵前橋通り
文京区のサッカーミュージアム入口交差点から千代田区、台東区、墨田区、江東区、葛飾区を経由し江戸川区の市川橋手前の国道14号(千葉街道)との交差点にわたる道路の通称。都心から千葉街道にに直通し千葉県方面に通ずる重要な交通拠点であり、総武線にほぼ近いルートを通っている。京葉道路(靖国通り)・春日通りなどと区間を平行することから重要なハブとしての機能も果たす。Wikipedia写真:蔵前4

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旧浅草鳥越二丁目
本町名は鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代の後期の頃(1185)まで白鳥村と言われていた。日本武尊が東国平定のため東征するおりこの地にしばらくとどまったことから村々の人々はそのご威徳を慕い尊び、白雉(はくち)2(651)白鳥山の山上に白鳥大明神を祀った。その後、永承(10461053)の頃、源義家親子の率いる軍勢が奥州征伐のため大川を越えようとする時、白い鳥に浅瀬を教えられ無事に渡ることができた。義家公はこれ白鳥大明神のご加護とたたえ鳥越大明神の社号を奉った。
「鳥越夜祭り」
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9日に近い日曜日に鳥越神社の「千貫御神輿」が氏子によって町内を練り歩く。なかでも見ものは夜の宮入である。火入れ式のあとに氏子衆によってかかげられた百数十の高張提灯と担ぎ手の熱気によって祭は最高潮に達する。(下町しるべ/台東区)

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鳥越神社鳥居/鳥越

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鳥越神社境内

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鳥越神社
当神社は白雉2年(651)の創建。日本武尊、天児屋根命(あめのこやねのみこと)
、徳川家康を合祀している。社伝によると日本武尊が、東国平定の道すがら当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(10461052)奥州の安倍貞任らの乱(前9年の役)鎮定のためこの地を通った源頼義義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名付けた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになりこの辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前4丁目16番付近)は関東大震災で焼失したため大正14年(1925)に当社に合祀された。例大祭は69日前後の日曜。千貫神輿といわれる大みこしの渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑い、また正月8日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。(台東区教育委員会)

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扁額                 神輿蔵

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志志岐神社(鳥越神社境内)
御祭神:豊玉姫命
当社はその本社対馬國下懸郡久田村にあり、往昔より安産を守る神として崇められている。御祭神豊玉姫命は、海神の鸕鷀(うがや)の翼を用い草として葺けるに未だ葺き合えざるに安産し給うに依りて、御子鸕鷀葺不合尊(みこうがやふきあえずのみこと)と申奉る。此の故事により対馬國人本社を安産の神として崇め奉るに依りて、藩主宗対馬守、寛永年間にその邸内社を現在の台東1丁目2番辺りに勧請し、屋敷の守護神となし、安産の神として諸人に参拝せしめられたり。産婦社域内の御石を頂き安産を祈り、お礼に御石を納め箒を納める風習あり。平成13年(2001)鳥越神社御鎮座1350年を奉祝し、其の社を境内末社として鎮め祀る。(鳥越神社)

浅草橋周辺(神田川)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24237753/


・・・三筋(みすじ)

台東区の南部に位置する。東辺は新堀通りに接しこれを境に蔵前に、南辺は鳥越に接する。古くは鳥越神社境内で、江戸期から付近の御徒町などに似た同心の組屋敷が密集して立ち並び、書院番組屋敷と大番徒組屋敷が置かれていた。屋敷の間に3条の道が縫うように通っていたことから当時から「3本」の「筋(道)」ということで「浅草三筋組屋敷」と呼ばれる俗称があった。歌人齋藤茂吉の義父である齋藤紀一の病院(浅草医院)と住居が東三筋町54番地(現在の三筋1丁目付近)にあり、茂吉自身も養子に入って学生時代を三筋の地で暮らし、後に「三筋町界隈」と題したエッセイを記した。また、三筋2丁目にある台東区立三筋保育園庭に茂吉の歌碑が残る。
Wikipedia

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街道の風景② 新堀通りと平行した道、下町の住宅街です/三筋

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斎藤茂吉歌碑/三筋
『浅草の 三筋町なる おもひでも
うたかたの如や 過ぎゆく光の如や』
斉藤茂吉は明治・大正・昭和にわたり、日本近代文学史上に偉大なる足跡を残したアララギ派の歌人で、医学者でもあった。山形県に生れ、明治29年(189615歳のときに上京、浅草区東三筋町54番地、養父斉藤紀一方に寄寓し、開成中学・一高・東京大学医学部を経て長崎医学専門学校教授となり、更に文部省在外研究員として欧州に研鑚しその後、青山脳病院長となり、作歌の傍ら研究・評論・随筆など独自の業績をあげ、その著「柿本人麿」にて学士院賞を、次いで昭和26年(1951)文化勲章を授与され、昭和28年(1953225日、709か月の生涯を終えた。因みにこの三筋町は、茂吉が第二の故郷として夢多き少年時代を過し、生涯懐しんだところで、短歌は長崎在住のときに当時を回想し詠んだものである。(台東区教育委員会)



・・・元浅草


旧浅草区にあたる浅草地域内である。江戸時代
初めの頃より寺院の多く集まった地域で「新寺町」と通称され、さらに明暦の大火の後、本郷湯島などからも寺院が移転して数を増やし、その各寺院の周りに門前町が作られた。明治以降は細かく分かれていた門前町がまとめて編成され、1934年(昭和39年)の住居表示の実施により元浅草が町名に採用された。元浅草と名付けられた由来、地名に「元」が付くのはその地名の発祥地もしくは各街道町の最も都側(上り)である場合が一般的とされているが、元浅草の場合は旧下谷区と浅草区の境目、浅草繁華街西の始め(元)に由来している。Wikipedia

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街道の風景③ 春日通りを越えると元浅草、お寺さんが多いですね/孫三通り

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龍福院山門/元浅草

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龍福院
真言宗智山派寺院の龍福院は青林山最勝寺と号します。龍福院の創建年代は不詳ですが、正保元年(1645)谷町より当地へ移転したといいます。御府内八十八ヵ所霊場82番札所です。


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小林静親墓
小林清親は木版浮世絵師最後の人といえる。江戸の末、弘化4年(184781日浅草御蔵屋敷に武士の子として生まれ、上野戦争
には幕府方として参加、明治維新後は新聞、雑誌にさし絵を描き生計を立てた。その前後、イギリス人ワーグマンに洋画を河鍋暁斎、柴田是真からは日本画を修得、浮世絵師としての大成をはかった。やがて小林清親の版画には上野、浅草を中心に新しい東京の風俗・建物が光と影によって描きだされ、それらは明けゆく明治の時代を先取りしたものとしてひろく一般に迎えられた。それは安藤広重や歌川国芳ともちがう、写実のなかに木版の刷りの美しさを生かしたものだが、浮世絵興亡の歴史からみれば最後の光でもあった。巷説、わが家が焼けたとも知らず両国の大火を写生していた男である。大正4年(19151128日死去。69歳。寺内には小林氏墓「真生院泰岳清親居士」と清親画伯碑がある。(台東区教育委員会)


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孫三稲荷/元浅草
この付近は『御府内備考』によると、慶安年中(16481652)川村某が駿河国安倍川(現在、静岡県静岡市域を中心に流れる一級河川)の鎮守「孫三稲荷」とともに駿河から当地へ移したことにより安倍川町と称していた。孫三稲荷は当地に伝わっている由来によると、天正年間(15731592)徳川家康が「孫三」と名乗る者に馬の轡を取らせ安倍川を渡ったが、後にその孫三を探したところ該当者はなく、ただ安倍川の川辺に「孫三」の名を持つ祠があり実はこの稲荷の化身であったという霊験から、天正18年(1590)関東入国の際、家康の命により稲荷の神体ごと川村某の手により江戸にもたらされ慶安年中当地へ移したという。この伝承は江戸へ招来した年も『御府内備考』と異なるが、『町方書上』に慶安に安倍川より移安したことが記されており、江戸初期には地域鎮守として信仰を集めていたことが知られる。『町方書上』にはまた、当町に店借していた修験者の善明院という人物が「正一位孫三稲荷大明神」を司っており、神像は木造で長さ3寸(約10cm)であったと記されている。現在、静岡の孫三稲荷の所在は不明であり、当地も関東大震災、東京大空襲などによって記録や社殿を失ったが、昭和26年(1951)当町会(安倍川町・菊屋橋町会)によって社殿が再建され、毎年38日に例祭が行われている。(台東区教育委員会)

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街道の風景④ 菊谷橋公園に「川柳ゆかりの地」碑があります/孫三通り

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川柳ゆかりの地/菊谷橋公園
柄井川柳(初代)は享保3年(1718)生まれ、通称を八右衛門、名を正通という。柄井家は祖父図書の代から浅草龍宝寺門前名主を務めており、川柳も宝暦5年(1755)から龍宝寺門前の名主となった。その2年後、宝暦7年(1757)から前句付の点者(選者)として活躍している。寛政2年(1790)死去。墓は龍宝寺(天台宗、蔵前4-36-7) にあり都指定旧跡となっている。前句付は出題された前句(主に七七の短句)に付句(主に五七五の長句)をつけるもので、川柳が点者を務める万句合(まんくあわせ)は広く人気を集めた。明和2年(1765)川柳の選句集『俳風柳多留(はいふうやなぎだる)』初編の刊行を一つの契機として、付句が独立した文芸となっていった。この文芸は「川柳点」「狂句」などと呼ばれたが明治中期から「川柳」の名称が用いられるようになった。個人の号名が文芸の呼称となるのは稀有のことである。この地域で活躍した柄井川柳の偉業を記念するため、有志の運動により当公園には平成元年3月に柳が植樹され、平成44月には柄井川柳碑が建立された。(台東区教育委員会)

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旧浅草菊谷橋一・二丁目
本町は昭和11(1936)年に江戸・明治時代からの浅草栄久町の北半分、同阿部川町の南半分、同森下町の西隅を合わせ一丁目となり、同栄久町の北部、同阿部川町の北半分、同南松山町の東側大部分を合わせ二丁目として起立した。町名の由来はこの地の中央部を南北に流れていた新堀川の橋である菊屋橋にちなんで付けられた。菊屋橋は下谷と浅草を無図部、江戸時代以来の主要道路の新寺通りを渡す橋だった。新寺通りは現在の浅草通りである。浅草栄久町は明治2(1869)に浄念寺、東漸寺、天台龍寶寺、善照寺、常福寺、実相寺、本法寺、浄土龍寶寺の八か寺の門前町を合わせ起立した。浅草阿部川町は元禄9(1696)それまでの幕府下級官吏の大縄拝領地から代官細井九左衛門の支配地となり、その翌年誕生した町である。町名はこの地の地主が皆現静岡市内の安倍川から移ってきた者であったため付けられた。
下町まちしるべ/台東区)

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永見寺(えいけんじ)曹洞宗のお寺さんです/寿(新堀通り)

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宗圓寺 浄土宗のお寺さんです/寿(新堀通り)

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街道の風景⑤ 合羽橋道具街入口の「ジャンボコック」さん、目立ちますね/菊谷橋(浅草通り)

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街道の風景⑥ 通りの左手が松が谷、右が西浅草になります/かっぱ橋道具街通り

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合羽橋
台東区の浅草と上野の中間に位置する食器具・包材・調理具・食品サンプル・食材・調理衣料などを一括に扱う道具専門問屋街のこと。日本一の道具街である。浅草通りと交わる菊谷橋交差点付近から言問通りまで約800mに渡って南北に伸びるかっぱ橋道具街通り沿いに各店が軒を構える(松が谷北・南地区、西浅草北・南地区)。「調理、厨房備品に関するものなら何でも揃う」と言われる。その顧客の多くが飲食店主などの料理人である。厨房用品一切に係わる専門店はその総数が170店以上に及ぶ。
Wikipedia


・・・松が谷

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街道の風景⑦ かっぱ橋本通りから真正面にスカイツリーが望めます/松が谷

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旧松葉町
本町は明治2
(1869)それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前がひとつになってできた。町名は新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。寛永19(1642)この地域に「通し矢」で有名な京都東山の三十三間堂にならって浅草三十三間堂が建てられた。元禄11(1698)勅額火事といわれる大火に見舞われお堂は焼失したが、深川で再建されたことから跡地に下谷あたりの寺院が移転して寺院街を形成した。そしてこれらの寺院に門前町が開かれるに従て新寺町と呼ばれるようになった。浅留町と浅草坂本町ができたのもこの頃である。矢先稲荷神社は三十三間堂の鎮守として稲荷神を祭るのに始まった。そして社名は弓術練習のために造られた三十三間堂稽古場的先に奉祭されたことからこのように呼ばれた。
下町まちしるべ/台東区)

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矢先稲荷神社鳥居/松が谷

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矢先稲荷神社
寛永19年(16421123日に将軍家光が当地に浅草三十三間堂を建立したさい、その堂の鎮守として稲荷神を祭ったのをはじまりとし、その神像は寛永寺の天海僧正の寄進である。浅草においても通し矢が行なわれ、江戸市民にも観覧が許され大いに評判になったと伝えられている。ところが、元禄11年(1698)の大火により当社は三十三間堂とともに焼失、深川に移転を命ぜられたところ付近の住民の懇願により当地の産土神として残り、現在にいたっている。(東京都神社名鑑)

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浅草三十三間堂址
『文政町方書上』によると寛永19年(16421123日、弓師備後(ゆみしびんご)が浅草において幕府から62478合の土地を拝領し三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。堂創建に際し備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁矢場としその北方的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。元禄11年(169696日、世に「勅額火事」と呼ぶ江戸大火が起こり三十三間堂も焼失。跡地は公収された。同14年に替地を給され三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。(台東区教育委員会)

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浅草寺社景跡三十三間堂絵図
寛永19年(1642)「弓師備後」(びんご)」「上野寛永寺天海僧正」の発企、武術奨励を願う三代将軍「家光公」の命により、浅草三十三間堂は創建されました。同じく鎮護社「矢先稲荷神社」が建立され375年の崇敬を集めています。明暦大火(明暦3年・1657)後、「火除地」に設定された当地域に寺院が建て始め、新堀川が開削された寛文11年(1671)「浅草三十三間堂」を中心とする長閑な時代を「田中辰斎絵師」が描いています。南北120丹碧の大伽藍でおこなわれる一昼夜の「通し矢」は江戸名所そして一世を風靡した華やかな時代でした。残念なことに元禄11年(1698)「勅額火事」と呼ばれる大火で焼失しました。存続すれば松葉町の様相も違ったものであったと思われます。(矢先稲荷神社)

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元禄元年番江戸大絵図(抜粋・宮町高木家所)
蔵寛永19年(1642)京都の三十三間堂を模してこの地に浅草三十三間堂が建てられ、通し矢(定められた時間にどれだけ矢を通すかを競う)が盛んに行われていました。その矢場の先に祭られたことから矢先稲荷と名付けられました。絵図のほぼ中央に三十三間堂が絵入りで記入されています。堂はその後、元禄11年(1698)に焼失し、再建されたところは深川でしたが、神社だけは地元民の要望でこの地に残り現在に至っております。(大正8年「松葉町誌」当神社発行より/説明書き)

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海禅寺参道/松が谷

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海禅寺
台東区松が谷三丁目にある臨済宗系の単立寺院。振袖火事の後、現在の浅草に移る。蜂須賀氏の庇護あつく、世に「阿波様寺」と呼ばれた。かつては臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院で、大雄山と号し寛永元年(1624)神田明神の北、妻恋に草創。江戸における妙心寺派触頭のひとつであった。本尊・釈迦如来、開山・覚印周嘉、開基・曽我主計頭尚祐。海禅寺の称は下総守谷の高野(現在、茨城県守谷市高野)に現存する大雄山海禅寺平将門が創建したとされる。同寺の寺紋は平将門に由来する九曜紋)の同名の寺の山号・寺名を引き継いだものである。梅田雲浜の墓があることでも知られる。なお覚印は後に元禄93月無疑浄光禅師を諡られた。(無疑の疑は正しくは疑の左に石が付く)覚印は常陸国真壁(現・茨城県桜川市真壁)の生まれであると江戸幕府に寺籍調査票の開創由緒にて上申している。更に覚印は那須、黒羽の東山雲厳寺中興開山の無住妙徳禅師の法孫にあたる。また海禅寺は正法山妙心寺東海派の江戸府内における最初の寺院であった。海禅寺は、現在は単立ではあるが最大時には三浦半島、甲斐国など広範囲に子院および塔頭を配しその数40ヶ寺をこえる大寺院であった。
Wikipedia

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梅田雲浜墓
雲浜は名を始め義質のち改めて定明といった。通称は源次郎、雲浜は号である。若狭国小浜藩士・矢部岩十郎の次男として文化12年(181567日生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いで改姓した。朱子学を修め大津、京都で子弟を教える。嘉永5年(1852)幕府を批判したため小浜藩を追放される。しかし藤田東湖・佐久間象山・高杉晋作らと交際し尊王攘夷論を唱え、梁川星巌らとともに在京志士を指導した。その活動は常に幕政批判で開国論者の大老井伊直弼排斥も企てたが安政5年(1858)の「安政の大獄」で捕らえられた。翌6914日小倉藩江戸邸の獄中で病没。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され文久2年(1862)現存の墓石が建てられた。墓石は関東大震災で大破したが正面に「勝倫斎俊巌義哲居士」と戒名が刻まれている。(台東区教育委員会)

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・・・西浅草

台東区の東部に位置する。浄土真宗東本願寺派本山東本願寺(旧・東京本願寺)のほか教育委員会や図書館が入居する台東区生涯学習センターがあることでも知られる。地域の東部は国際通りに接しこれを境に浅草・雷門に、地域南部は浅草通りに接しこれを境に寿に、地域西部はかっぱ橋道具街通りに接しこれを境に松が谷に接する。Wikipedia

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旧浅草田島町
江戸時代の頃、この地は高い石垣の本願寺と路を隔てて北にあったことから北寺町と称されていた。明暦3(1657)の大火後、神田須田町にあった誓願寺は門前町とともにこの地へ移ってきた。この誓願寺は浄土宗京都知恩院の末寺で、田島山快楽院誓願寺といったことから明治2年に誓願寺山号にちなみ浅草田島町と称した。 明治5年誓願寺の西辺部に接する下級武士の屋敷と北西部にある安行寺を合併し町域を広げた。(下町まちしるべ/台東区)

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街道の風景⑧ 東本願寺の門前、浅草通りから参道が続きます/西浅草

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旧浅草松清町(まつきよちょう)
この地は徳川家康が江戸に幕府を開いてから田が宅地に造成された。その後、明暦3(1657)の振袖火事により京都東本願寺の別院浅草本願寺とその末寺46ヵ寺が神田からこの地に移ってきた。そして次第に門前町が開け寺町として発展した。明治2(1869)浅草松清町が誕生した。町名は大松寺の「松」と清光寺の「清」をとった。清光寺は浄土宗芝増上寺の末寺で、寛文5(1665)に水戸光圀が駿河国から当地に移したといわれている。なお、本町の東側本通りには国際通り商店街、西側には合羽橋道具街(厨房機器)があり賑わいを見せている。(下町まちしるべ/台東区)

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東本願寺山門/西浅草


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東本願寺
台東区西浅草にある浄土真宗本願寺派本山である。単立宗教法人であってその正式名は「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」本尊は阿弥陀如来。境内は4250坪を有する。1651年(慶安4年)東本願寺第12世教如が神田江戸御坊光瑞寺を建立したのを始まりとしその後、京都の東本願寺の掛所(別院)となった。1657年(明暦3年)、明暦の大火により焼失し、浅草に移転。「浅草本願寺」・「浅草門跡」と称されるようになり21の支院と35の塔頭を抱え境内は15000坪に及んだ。その伽藍は江戸後期の天保年間に出版された浮世絵師・葛飾北斎の連作『富嶽三十六景』に「東都浅草本願寺」として描かれている。1868年(明治元年)には、渋沢成一郎や天野八郎などの旧幕臣ら百数十名により大政奉還後、上野寛永寺に蟄居していた徳川慶喜の擁護を目的とする「彰義隊」が結成されその拠点となった。
Wikipedia抜粋)

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銅鐘
本銅鐘は総高302cm、口径165.5cmありその大きさは区内随一であり都内でも有数のものである。東本願寺13世宣如上人が誌した銘文によれば寛永7年(1630)に伽藍整備の一環として鋳造されたものである。東本願寺は明暦の大火(1657)以後、現在の地に移転したと伝えられるが移転に際して本鐘も移された。本鐘を制作した鋳物師は明らかでないが撞座や龍頭、下帯にみられる唐草文の意匠から近世初期に活躍した長谷川越後守吉家による鋳造と推定される。本銅鐘は区内に現存する銅鐘の中でも古いものに属する。加えてその大きさからも、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上で貴重な遺品であることから、平成15年(2003)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会)

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朝鮮通信使と東本願寺
朝鮮通信使とは室町時代から江戸時代にかけて朝鮮王朝が日本に派遣した外交使節団であり、日韓の平和構築と文化交流の歴史として貴重な記録が残っている。平成2910月「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコ「世界の記憶」に登録された。東本願寺は朝鮮通信使が江戸を訪れた際の宿所として1711年、1719年、1748年、1764年に利用された。ただし当時の建物は関東大震災で焼失し現存していない。(台東区)

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江戸名所図会 東本願寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

東本願寺(通称:浅草東御門跡)

天正191591)年、千代田区淡路町あたりに建てられた御坊光瑞寺(ごぼうこうずいじ)が始まりとされる。明暦の大火(明暦31657年)後、現在地に移転。正徳元(1711)年から朝鮮通信使の宿館を務めた。築地本願寺と並ぶ名刹として繁栄した。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)

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街道の風景⑨ かっぱ橋本通りから浅草寺へ、通りを渡ると浅草六区です/国際通り

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浅草橋~西浅草 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(赤:歩行ルート 橙:日光街道 黄:新堀通り・鞍前通り・浅草通り 青:神田川・隅田川)


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資料ファイル

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鳥越神社西側の景観 境内は道路よりわずかに高くなっています。昔は「鳥越山」といわれてましたが、蔵前の埋め立てで削られたそうです。

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鳥越神社(歴史)
『江戸時代までにここには三社の神社が成り一帯の約2万坪の広大な敷地を所領していたが、元和6年(1620年)江戸幕府が全国の天領からの米を収蔵するため、隅田川沿いに蔵(浅草御蔵)を造営することとし、この埋め立て用に大明神のある鳥越山を切り崩すことになり土地を没収されてしまった。さらに、大明神の北側にあった姫ヶ池も鳥越山からの客土で埋め立てられ、大名屋敷などの御用地とされた。三社のうち熱田神社今戸へ、第六天榊神社は森田町(現・蔵前3丁目)に遷され、残った大明神が現在の鳥越神社である』『当地の鳥越神社に蕨手刀、高杯、勾玉、菅玉、銀環など古墳出土と思われる遺物が所蔵されており、この地にかつてあった鳥越古墳出土のものとする説がある』Wikipedia抜粋)

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台東区の遺跡
台東区の地形は上野台地とその東側に広がる東京低地の二つに大きく分けられ、1万年以前の旧石器時代からの遺跡は上野台地に集中し、貝塚が見られることから縄文時代には台地周辺がであったことがわかります。古墳の存在や古代遺物の内容から古墳時代から平安時代に有力者がいたことが推定され、台東区での人々の営みが上野台地を中心に始まったことを示しています。低地では隅田川沿い微高地(自然堤防)に古い遺跡が集中し、鳥越神社には古墳から出土することもある蕨手太刀(わらびてたち)が現存しています。さらに浅草寺では鎌倉時代以降の瓦などが大量に出土し、江戸以前の浅草寺の様子を伝えています。江戸時代の遺跡では浅草寺の他、上野公園周辺の寛永寺旧境内の遺跡、都立白鴎高等学校の大名屋敷跡、池之端の寺院跡などが発掘され、近世の信仰や生活を知ることができます。土の中に眠る遺跡(遺構・遺物)を埋蔵文化財といいますが、埋蔵文化財は文献資料に記されていない様々な過去の事実を私たちに教えてくれる貴重な資料です。次にご紹介する遺跡は区の歴史を私たちに教えてくれる台東区の代表的な遺跡です。(台東区HP)
図:遺跡図(平成212月現在)/台東区HP)

駒形遺跡

隅田川西岸の微高地上、標高約5mと微高地のほぼ最高地点に立地し浅草寺の南方に位置します。平成14年から15年、駒形遺跡では駒形14地点、北側の台東区ナンバー78遺跡では駒形18地点を調査し古墳時代前期の貝塚および古代の住居跡、江戸時代の屋敷跡などが発見されています。(台東区HP)

元浅草遺跡

上野台地と隅田川の中間の東京低地に位置する都立白鴎高等学構内の発掘で江戸時代初期墓跡が多数発見されました。この地は江戸時代中期に本多家上屋敷、後期には出羽松山藩酒井家上屋敷でした。遺物では鳩笛等の玩具やその土型が多数出土していることにより屋敷内で玩具、人形類を製作していたと考えられます。その他中国産染付、色絵や九州の鍋島産染付等の高級陶磁器や貴重なガラス製品等が出土しています。(台東区HP)

by Twalking | 2018-11-14 16:03 | 東京散歩(新規)

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