無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり浅草橋~三ノ輪02-浅草寺(1)   

日時 2018.11.10(土)
天気 晴れ


今回の目的は浅草寺をじっくり見て歩くこと、
なんですが・・・、余りの人出の多さに戸惑います。
ひとます、何処に何があるのかを確認でしょうか。

雷門から仲見世、宝門門、五重塔、本堂へ歩き
浅草神社や二天門、弁天山、新奥山、そして六区へ。
一通り見て廻りましたが、2回に分けてレポートします。


・・・浅草

浅草寺を中心にして奈良時代には集落の形成があったといわれ、東京のなかでももっとも古い歴史のある土地。江戸時代、浅草は市街化され目覚ましい発展を遂げた。浅草御門(現浅草橋)から千住宿奥州街道が南北に浅草を貫通して発展を促進し沿道に町が形成された。1620年(元和6)街道南部の隅田河岸に幕府が浅草米蔵を建造。その蔵の前通りには札差商人が店を並べた。北部の浅草日本堤には1657年(明暦3)日本橋葺屋町(ふきやちょう)東側(現中央区)にあった遊廓吉原が移され、新吉原と称して大いに栄えた。1842年(天保13)から翌1843年にかけて新吉原近くの浅草猿若町に中村座、市村座、河原崎座(のち森田座、守田座)の江戸三座が移転し芝居街を形成した。地域の中央に浅草寺がありその周辺は門前町としてにぎわった。(コトバンク抜粋)

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街道の風景① やはり雷門から仲見世へでしょうか・・・/雷門通り 


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聖観音総本山 金龍山浅草寺(あさくさかんのん)
時は飛鳥時代、推古天皇36年(628318日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟は江戸浦(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司土師中知(名前は諸説あり)はこれを拝し、観音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家して自宅を改めてとなし、礼拝供養に生涯を捧げた、大化元年645勝海上人がこの地においでになり観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。広漠とした武蔵野の一画、東京湾の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれて発展し、平安初期には慈覚大師円仁(比叡山天台座主3世)が来山され、お前立のご尊像を謹刻された。鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰を集め、伽藍の荘厳さはいよいよ増した。江戸時代の初め徳川家康公によって幕府の祈願所とされてからは堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として大きく繁栄したのである。かくて都内最古の寺院である浅草寺は浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間3000万人もの参詣者が訪れる民衆信仰の中心地となっている。(説明板)

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雷門 表参道の入口の門です

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雷門(風雷神門)
天慶5年(942平公雅によって創建されたのが始まり。門の正面向かって右に「風神」左に「雷神」を祀る。このことから「雷門風雷神門)」と呼ばれる。ともに鬼面蓬髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め、連鼓を打つ雷神の姿はお馴染みのものである。また、門の裏側には向かって右に「金龍」左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は浅草寺の護法善神として伽藍守護・天下泰平・五穀豊穣の守り神とされる。現在の門は慶応元年(1865)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和35年(1960)に松下幸之助氏のご寄進により修興された。浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また東京・浅草の顔として全国的に有名。(金龍山浅草寺)

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金龍                 天龍

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江戸名所図会 金龍山浅草寺其一 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
「回国雑記」浅草といえる所にとまりて庭に残れる草花を見て『不輸の色は まだ浅草のうら枯に 秋の露をも残す庭かな』道興准后
「東国記行」角田川も見えわたるに森のようなる梢あり。問えば関東巡礼観音浅草と云う所となん。立ち寄りて結縁すべしなどいえば『秋ならぬ 梢の花も浅草の 露なかれそう 角田川かな』宗牧


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仲見世 大勢の人で賑わっています

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仲見世
仲見世は浅草寺の表参道である。雷門から宝蔵門まで長さ約250mにわたって参道の両側に朱塗りの店舗が並ぶ。日本で最も古い商店街のひとつでありいつも活気に溢れている。仲見世という名は浅草広小路(現在の雷門通り)あたりに並ぶ店と浅草寺観音堂前に並ぶ店との中間、つまり「中店」ということからこの名で呼ばれるようになったともいう。もともと雷門をくぐったあたりは浅草寺「南谷」といい、参道の両側に支院のいくつかが並んでいた。浅草寺ご本尊・観音さまへの崇敬はもとよりこれら支院に祀られていた天照大神宮、秋葉権現、出世大黒天、鹿島明神などの神仏も多くの参拝者を集めていた。参拝者の増加にともない浅草寺は付近の住民に境内の清掃を賦役として課すかわりに、南谷の支院の軒先に床店(小屋掛けの店)を出す許可を与えた。貞享2年(1685)頃のことでこれが仲見世の発祥といわれている。以降、南谷だけでなく境内には多くの店舗が並ぶようになってゆく。伝法院から宝蔵門寄りの店は役店と呼ばれ水茶屋が並んでいたのに対し、仲見世は平店と呼ばれる玩具、菓子、土産品などを売る店舗が主だった。(浅草寺HPより抜
粋)
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弁天山から現在の五重塔を望みます

弁天山
宝蔵山門の東方・広場の奥にある小山を「弁天山」といい、石段上に朱塗りの弁天堂その右手に鐘楼が建つ。弁天堂は鉄筋コンクリート造で昭和58年(1983年)の再建。鐘楼は木造で昭和25年の再建。この鐘楼に架かる梵鐘は江戸時代の人々に時を知らせた「時の鐘」の1つで「元禄5年(1692年)深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳」の銘がある。松尾芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」と関連して説明されることが多いが、この句は現存する鐘の鋳造の5年前の貞享4年(1687年)に詠まれたものである。弁天堂への石段の左側には芭蕉の「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」の句碑がある。Wikipedia

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弁天堂
弁天大と呼ばれる小丘の上に立つこのお堂は昭和58年(1983)に再建されたもの。ご本尊は白髪のため「老女弁財天」といわれる。関東三弁天(神奈川県江ノ島・千葉県柏市布施と合わせ)の1つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。境内の鐘楼の鐘は元禄5年(16925代将軍徳川綱吉公改鋳の江戸時代の「時の鐘」として、芭蕉の句『花の雲 鐘は上野か 浅草か』で有名。現在は、毎朝6時に役僧が撞き鳴らし大晦日には「除夜の鐘」が点打される。弁財天さまのご縁日は「巳の日」で堂内にてお参りができる。(金龍山浅草寺)

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時の鐘
江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城内にあったが江戸市街地の拡大にともない日本橋石町にも設置され、さらには浅草寺や寛永寺(上野山内)など9個所でも時を知らせた。鐘の大きさは高さ2.12m、直径1.52m。鐘銘によれば撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄5年(169285代将軍徳川綱吉の命により深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現千葉県)関宿藩主・牧野備後守成貞が黄金200両を寄進した。この鐘は時の鐘としてあるいは浅草寺の梵鐘としてさまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松尾芭蕉の句『花の雲 鐘は上野か 浅草か』はあまりにも著名である。昭和20年(19453月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り今なお昔のままの姿を見せている。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち昭和25年(19505再建されたものである。(台東区教育委員会)

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松尾芭蕉句碑(寛政8年・1796年建立)
くわんをんの いらか見やりつ 花の雲』はせお俳諧紀行文「奥の細道」などを著した松尾芭蕉は寛永21年(1644伊賀上野(現三重県上野市)に生まれた。芭蕉という俳号は深川の古名木川ほとりの俳諧の道場「泊舟堂」に門人が芭蕉一枝を植えたことに由来する。独自の芭風を開き「俳聖芭蕉」の異名をとった松尾芭蕉は元禄7年(1694)大阪の旅舎で51年の生涯を閉じました。この句碑は寛政817961012日、芭蕉の103回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西・銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地へ移建されました。83歳翁泰松堂の書に加えて芭蕉のスケッチを得意とした佐脇嵩雪が描いた芭蕉の坐像が線刻してありますが、200年の風雪を経て碑石も欠損し、碑面判読も困難となっております。奥山庭園にある「三匠句碑」と共に奇しくも「花の雲」という季語が詠みこまれています。(浅草観光連盟)

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江戸名所図会 金龍山浅草寺其二 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
二十軒茶屋は歌仙(かせん)茶屋とも云えり。昔はこの所の茶店にて「御福(ごふく)の茶まいれ」とて参詣の人を呼びけるとぞ。今は其の家のかず二十余軒ある故に俗(ぞく)是をよびて二十軒茶屋といいならわせり。五元集『石の枕に 鮨やありける 今の茶屋』其角

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伝法院

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伝法院
伝法院は浅草寺貫主(かんす)が居住する本坊の称号である。客殿は安永5年(1776)、玄関は翌6年の建物である。客殿は大規模な方丈形式の建物で、仏壇を広く構える内陣3室を並べた平面構成に特徴があり、本尊阿弥陀如来坐像(台東区指定文化財)を安置する。6月の山家会(伝教大師の忌日法要)、11月の霜月会(天台大師の忌日法要)をはじめ故人の追善供養、寺内徒弟の加行(けぎょう)などが行われる。台所・小書院・大書院・新書院は明治期から大正期に復興した建造物である。伝法院の主要建物6棟は平成27年に国の重要文化財に指定された。建物の背後には大泉池を中心とする池泉庭園があり江戸時代初期の作庭と考えられている。平成23年に国名勝に指定された。池畔には京都表千家の茶室・不審庵を模した天祐庵(東京都指定文化財)がある(非公開)。(台東区教育委員会)

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宝蔵門

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宝蔵門
宝蔵門は大谷栄太郎の寄進で、昭和39年(1964)に浅草寺宝物の収蔵庫を兼ねた山門として建てられた。鉄筋コンクリート造で重層の楼門である。外観は旧山門と同様に江戸時代初期の様式を基準に設置されている。高さ21.7m、間口21.1m、奥行は8.2mある。下層の正面左右には錦戸新観、村岡久作の制作による木造仁王像を安置している。浅草寺山門の創建は「浅草寺縁起」によると天慶5942平公雅によると伝える。仁王像を安置していることから仁王門と呼ばれる。その後、焼失と再建をくり返し慶安2年(1649)に再建されて山門は入母屋造、本瓦葺の楼門で昭和20年(1945)の空襲で焼失するまでその威容を誇っていた。(台東区教育委員会)

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大わらじ
この大わらじは山形県村山市の奉賛会によって奉納されている。延べ人員800人、一ヶ月をかけて制作されたものである。藁2500kgを要し大変労力が必要で、まさに信心の結晶といえる。昭和16年(1941)の奉納を最初に宝蔵門再建後は約10年に一度作られている。全長4.5m。わらじは仁王さまの力を表し「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて、魔が去っていくといわれている。また、健脚を祈ってこのわらじに触れていく人もいる。(金龍山浅草寺)

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五重塔


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五重塔
そもそも仏塔とは遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。アジア東漸を経てさまざまな形となった。五重塔もその一形態。浅草寺五重塔は天慶5
年(942)、平公雅によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うもその都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も昭和20年(19453月の戦災によって惜しくも焼失した。(戦後までの五重塔は今と反対側の本堂向かって右側にあった)以来、
浅草寺は十方各位のご信助を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和48年(1973)に現在の五重塔を再建するに至った。地上からの高さは約53ある。(塔内非公開)(金龍山浅草寺)


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久米平内堂(くめのへいないどう)
久米平内は江戸時代前期武士。『武江年表』によると天和3年(1683)に没したとされるが、その生涯については諸説あり明らかではない。平内堂には次のような伝承がある。平内は剣術に秀でており多くの人をあやめてきた。後年、その供養のために仁王坐禅の法を修業し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこんだという。臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人に踏んでもらうことによって犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近埋めたと伝える。その後、石像はお堂に納められたという。「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降とくに縁結びの神として庶民の信仰を集めた。平内堂は昭和20年(19453月の戦災で焼失した。現在のお堂は昭和53年(197810月に浅草寺開創1350年記念として再建されたものである。(台東区教育委員会)

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二尊仏
濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏は観世音菩薩(右)、勢至菩薩(左)二菩薩の金銅坐像で、像の高さは共に2.36m、蓮台を含めれば4.54mにおよぶ。基壇の組み石は長さ約12m、幅6.21m、高さ1.5mとなっている。蓮弁台座銘によれば願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛、かつて奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため貞享4年(16878月に造立した。江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町東横町(現・千代田区鍛冶町2丁目)の太田久衛門正儀(藤原正儀)鋳造の作。安永6年(17772月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが観音像銘に追刻されている。(台東区教育委員会)

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江戸名所図会 金龍山浅草寺其三 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

浅草寺

台東区にある寺。現在は聖観音宗総本山。もと天台宗。山号は金龍山。推古天皇36628)年、隅田川下流で漁をしていた兄弟が網にかかった観音像を発見し、草ぶきの堂に安置したことに始まる。江戸開幕後、徳川家祈願所として厚遇された。観音霊地の代表となり浅草観音の通称で親しまれ、東国随一の盛り場であった。風神雷神を祀る雷門から仁王門(戦後再建して宝蔵門と改称)にかけて商店が並ぶ仲見世は、境内の掃除を課しその代償に出店を許可したのが始まりで、鳩も有名。年の市と蓑市は年末の恒例行事として賑わった。年の市は羽子板市とも呼ばれ、新年の飾り物・食品・台所用品などを売り121718日に行われた。蓑市は、近郷から出て蓑や笠などを売るもので319日(祭礼のない年は18日)と年の市の翌日の1219日に行われた。(錦絵で楽しむ江戸名所/国立国会図書館)


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本堂

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本堂
本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。内陣中央には本尊を安置する間口4.5m、高さ6mの宮殿(くうでん・「厨子」と同義)がある。宮殿内部は下段の間(手前)と上段の間(奥)に分かれ、下段の間には前立本尊の観音像(伝・円仁作)、上段の間には秘仏本尊像をそれぞれ安置する。浅草寺貫主を務めた網野宥俊によれば宮殿内は床は漆塗り、壁や扉は金箔押しで、上段の間・下段の間には繧繝縁(うんげんべり)の小畳を各2枚敷いている。上段の間には秘仏本尊を納めた厨子のほか東福門院、徳川家康、徳川家光、公遵法親王がそれぞれ奉納した観音像が安置され、かつてはその他の寺宝類もここに納められていたという。Wikipedia

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迷い子しるべ石
昔、迷子が出た時にはこの石碑でその旨を知らせた。石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方に「志らする方」、一方に「たづぬる方」としそれぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。情報未発達の時代には重宝され「江戸」市内の繁華な地に建てられたものの一つ。安政7年(18603月、新吉原
の松田屋嘉兵衛が仁王門(現宝蔵門)前に造立したが、昭和20年(1945)の空襲で倒壊したため昭和32年(1957)に再建された。(金龍山浅草寺)

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旧石灯篭(部分)
近年まで本堂前に高さ約5mもの堂々たる石燈籠が安置されていたのを覚えている方も多いであろう。明治25年(1892)に石工の酒井亀泉が奉納した灯篭でありこれはその一部である。江戸時代後期、亀泉の祖父栄三は酒癖が悪くそれがもとで失職してしまった。栄三の妻は信心していた浅草寺にお参りし、夫の酒癖の悪さの許しを願い、子孫代々酒を断つ旨を誓った。この家訓を守りやがて一家は石工として大成。亀泉がその報恩にと浅草寺にこの灯篭2基を奉納したのである。平成16年(2004)経年劣化などによる倒壊のおそれがある為、惜しまれながらも撤去されここにその一部を記念として納めた。(金龍山浅草寺)

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「鳩ポッポ」の歌碑
東くめ作詞、滝廉太郎作曲で明治33年(1900年)に発表された童謡「鳩ぽっぷ」の歌詞と楽譜を表した碑。昭和37年(1962年)の建立。なおこの曲は文部省唱歌の「鳩」とは別の曲である。
Wikipedia

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二天門


この二天門は慶安21649)頃に浅草寺東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮随身門と伝えられ随身像が安置されていた。なお、浅草寺東照宮は元和4年(1618)に建立されたが、寛永8年(1631)と寛永19年(1642)の火災によって浅草寺の他の諸堂とともに焼失し、その後東照宮は江戸城紅葉山に移された。明治初年(1868)の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天増長天二天像に変わり名称も二天門と改称した。現在安置されている二天像は京都七条の仏師・吉田兵部が江戸時代初期17世紀後半)に制作したもので(東京都指定有形文化財)、昭和32年(1957)に寛永寺の厳有院殿4代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。二天門は昭和25年(1950)国指定重要文化財に指定された。(台東区教育委員会)

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手水鉢(ちょうずばち)
「手水鉢」は社寺の参拝前に手を清めに置かれる鉢のことである。鉢の側面には「安永61777)に観世音千百五十年法会供養の日に臨時連中によって寄附された」とあり、推古36年(628)のご本尊さまご示現から数えて1150年を祝う記念法会のために、明和6年(1769)に設置された浅草寺の消防組織である「臨時連中」によって献じられたと推定できる。また、銘文に「隋神門前」とあり、文化10年(1813)に編纂された『浅草寺志』にも「裏門の外」と記されていることから場所を変えずに今に至ると判明する。現在は使われていないが、江戸時代の多くの人々がここで手を清め観音さまや三社さまにお参りされたことであろう。(金龍山浅草寺)

寛永寺霊廟の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27150492/)

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浅草寺境内案内


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資料ファイル

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浅草寺遺跡
隅田川西岸微高地が最も広く高くなる地点に立地し、古代には遺跡周辺を下総国(現・千葉県)へ抜ける官道が通っていたようです。浅草寺は寺伝によると推古天皇36年(628)の創建で、区内最古の寺院として著名です。本堂・五重塔の再建や影向堂(ようごどう)新設等の調査により、奈良・平安時代の遺構が確認され、仏具等の須恵器(古代の陶器)、和同開珎等の皇朝十二銭(古代の貨幣)などが出土しています。また、多数の中世の瓦が出土し大きな伽藍を持つ寺院であったことが想像され、鎌倉幕府の文献・吾妻鏡に浅草寺の記述があることから鎌倉幕府との関係も推測されます。他に多数の板碑や火葬骨を収納する渥美(現・愛知県)産の蔵骨器も発見されています。六角堂の調査では六角堂基礎の石組から土製や木製の人形、針、櫛、一字一石経、羽子板、漆器、銅鏡など江戸の信仰や生活ぶりがわかる遺物が出土しました。(台東区HP)

日本堤消防署二天門出張所地点出土浅草寺中世関係資料

浅草寺遺跡は区の東側、隅田川の西岸に位置し浅草寺旧境内地を対象にした遺跡です。浅草寺遺跡ではこれまで7回の調査が行われており(本堂・五重塔・影向堂・浅草寺病院・福祉会館・消防署・浅草神社地点)、古代から近世にかけての浅草寺関係資料が確認されています。平成16年には寺院東側の日本堤消防署二天門出張所の改築に伴い調査をしました。調査地は近世は門前町屋であったようですが、近世以前は浅草寺境内地と推定されます。中世・古代の遺構として井戸跡・貝廃棄土坑、埋葬等が検出され、中世井戸跡を主に多量の瓦や板碑、陶磁器・土器が出土しています。瓦は大半が平・丸瓦ですが軒平瓦や各種道具瓦も出土し、文字瓦(「法華経」?等、隅木蓋瓦?)も見られます。年代的には軒瓦の文様・形状等から156世紀が中心です。堂舎で使用されていた瓦を廃棄したものと推定され、文字瓦は堂舎に葺く時の祈願のためとも思われます。板碑は浅草寺周辺に確認される先刻連座板碑、類例の少ない名号(みょうごう)板碑「南無阿弥陀仏」等が見られ、製作年代は年号未詳を含め13世紀後半~16世紀前半に推定されます。陶磁器・土器では中国等外国製品や各種国内産も見られます。軒平瓦等は本堂・五重塔地点からの出土資料と同種です。ちなみに影向堂地点等からは13世紀前半頃連珠文軒平瓦が出土し、現在浅草寺関係瓦としては最古であり、今のところ伽藍成立期の瓦と思われます。瓦・板碑等の内容から本調査地点出土の中世等の資料は浅草寺に関係する資料と推定され、特に『江亭記』等の文献から浅草寺が勢威を誇る中世後半に関わる貴重な資料です。(台東区HP)
図:遺跡図(平成212月現在)/台東区HP)

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東都金龍山浅草寺図/魚屋北渓 文政3年・1820Wikipedia

平 公雅(きんまさ/きみまさ、生没年不詳)
平安時代中期の武将。平良兼長子で弟に公連、公元らがある。安房守武蔵守、右衛門少尉、従四位下。父良兼らが従兄弟の平将門と度々争い、勝利して将門の妻子を捕らえ上総に拉致すると、弟の公連と共にこれを将門の許に逃がしたとされる。承平7年(937)に将門の訴状により朝廷から下された追捕の官符で父らと共に対象になっているため、この頃は父と共に将門と争っていたと見られるが、天慶2年(9396月に父が病死すると、将門と対立する平貞盛らとは距離を置いて中立的立場になったといわれている。12月に将門が「新皇」を自称し叛乱をおこすと、翌天慶3年(940114日、将門の牽制のために任命された8(坂東8ヶ国)の東国掾の一人となり、将門の乱の鎮圧後に安房守となった。天慶5年(942藤原秀郷後任として武蔵守となり、将門の乱によって荒廃していた武蔵国・金龍山浅草寺再建したことで知られる。また、天慶八年(945)の318日に公雅の枕元に観音様が立ち「この沖合に生ずる青、赤、黒三通りの海草を食すれば、無病開運、来世は必ず仏果を得べし」と告げたので、教えの通りにそれらの海草を集めて食してみたところ、非常に美味しくて体にも良いことから「観音様の法(のり、教え)だから『浅草のり』だ」と評判になったという伝説も知られている。Wikipedia

by Twalking | 2018-11-18 11:18 | 東京散歩(新規)

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