烏山川緑道(世田谷区)03-若林~合流地
天気 晴れ
世田谷の旧中心地から太子堂、三宿を通り目黒区へ、
三軒茶屋は大山道の追分で今も活気があります。
川筋は静かな住宅街、落ち着いたいい街並です。
太子堂界隈は古い道が残っていて風情があります。
「鎌倉通り」とあるので、調べて見ると中道の支道
のようです、本路と合わせて歩きいてみたい道です。
大橋から開渠となりますが、流れがある方がいいですね。
・・・若林
北野神社・牛天神とも呼ばれ、祭神・菅原道真公を祀り学問にご利益があるといわれています。その歴史は古く応永8年(1401)に武蔵国深大寺の僧・花光坊長弁が連歌の法楽を興行したと記録が残っています。環七ができた時に境内の3分の1以上の土地が削られましたが、地元の人々を始め多くの人々に天神様として親しまれ毎年1月には初天神祭を盛大に執り行われます。(若林町会HP)
当駅の三軒茶屋方至近距離にある踏切で東急側では「西太子堂5号踏切」と称する。環七通りを横切る唯一の踏切である。一般的な鉄道の踏切と違って遮断機はなく、信号機によって交通を制御している。かつては遮断機のある一般的な踏切であったがモータリゼーションによる環七通りの交通量増大に見合わなくなったために1966年(昭和41年)に現在の形式に変更された。(Wikipedia)
祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)である。当神社の由緒によれば「当社ヲ福寿稲荷ト云、三反五畝ノ除地ハ明和6年4月地頭ヨリ寄附セリ、神体長サ五寸許、三衣ヲ着シ白狐二跨レリ、彩色ヲ施シ彫工イト巧ミナリ、祭礼9月21日、神楽ヲ奏セリ」とあり、なお神社の記録によれば『本社間口壱丈奥行弐間、但シ木造 拝殿間口三間奥行三間、但シ木造、境内坪数318坪、(1049・4m2)境内立木31本、内目通一尺以上五尺未満21本、目通五尺以上一丈未満10、什器一、幟一対、手洗鉢一個、鳥居一台、右之通り相違無之候也、明治17年』とある。すなわち明治17年ころは樹木鬱蒼とし大木に囲まれた神社であったが、昭和20年に戦災にあい、現在では銀杏その他10教本の樹木があるのみである。なお神社には「正一位福寿稲荷大明神」と記した縦1.5m、横0.6mほどの古い額があったが戦災で焼失してしまったという。祭礼は9月7日。(せたがや社寺と史跡)
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・・・太子堂
鉄道の駅は三軒茶屋駅、西太子堂駅が設置され、幹線道路は国道246号線、世田谷通り、茶沢通りが通る。三軒茶屋駅周辺と世田谷通り沿いに商業地が広がりその他は住宅地が多い。河川は東西に烏山川が流れるが暗渠化されて緑道となっている。地形的には一丁目は概ね平坦だが、二・四丁目と三・五丁目の中央を通る烏山川緑道に向かって急な坂も点在している。(Wikipedia)
当社の鎮座年暦不詳なれど旧当社別当・円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(1592-1596)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。
弁天社は元々インドの音楽・芸能の神で仏教とともに伝えられました。弾いている琵琶の形が水を掬う瓢(ひさご)に似ていることから水の神になり、厳島の神と同じとされました。また財宝の神ともされ七福神の一つに数えられます。当社の弁天様は烏山川に架かる弁天橋のたもとに水・農耕の守り神として祀られていましたが昭和27年に現在地に遷されました。(パンフレット)
稲荷神は元々稲・穀物・食物の神で、御神徳は衣・食・住を守り、更に商売繁盛・殖産興業など広くに及び社内や会社の守護神ともされます。当社では八幡神社のお食事を司る御食神として祀られております。狐は稲荷神の御使いとされています。(パンフレット)
幹まわり4mを超える大きな楠を中心に大小数百本の樹木に囲まれた杜に太子堂の町々をお守りする八幡神社が祀られています。烏山川の北方に位置するこの地は、関東ローム層の固い安定した地盤で、南に向かって緩やかな斜面は神を祀る社殿を建てるのに最もふさわしい所で。西側には若林と境する鎌倉に通ずる古道(鎌倉道)に接し、昔は交通の要衝でした。(パンフレット)
教学院は竹園山教学院最勝寺という。慶長9年(1604)玄応大和尚の開基になり江戸城内紅葉山にあったが、後赤坂三分坂に移転した。更に寛永8年(1631)第5世法印岸能大和尚のとき青山南町4丁目に移ったが、延享年間と宝暦年問の2度の火災で古記録を失いその間の詳しいことは明らかではない。元禄年間までは麹町山王成琳寺の末寺であったが、貞享4年(1687)旧相州小田原の城主大久保加賀守の菩提寺となって寺運隆盛となり、東叡山輪王寺の直末寺となった。後に大寺の格式となり比叡山延暦寺の末寺となった。明治41年、第17世権僧正寛葆大和尚の代に太子堂町の現在地に移転した。本堂に恵心僧都作の阿弥陀如来と聖徳太子の作といわれる聖観音像を安置している。
三軒茶屋という地名は、江戸時代の中頃から大山道(矢倉沢往還)の本道(現世田谷通り)と近道(現玉川通り)の分岐点近くに田中屋、設楽屋(しからぎ・後に石橋屋)、角屋という3軒の茶屋があったことが起こりといわれています。この茶屋はみな座敷に膳を整え、茶屋娘を置く立派な構えの料理茶屋でしたが、一方店の前に床几を並べ、葭簀(よしず)を立て道行く人々にお茶の接待もしていました。江戸時代は大山街道や多摩川行楽の人びとの休み処として栄え、回りには髪結床や煙草屋などもありました。明治以降シャボン屋、立ち飲みのできる酒屋、駄菓子屋、魚屋などいろいろな店が増え、明治40年には玉川電車も開通して次第に盛り場としての体裁を整えてきました。(案内板)
世田谷区太子堂にある商業施設及びホール施設併設のオフイスビル。三軒茶屋駅周辺の再開発事業により1996年(平成8年)に完成した。東急世田谷線に直結、東急田園都市線三軒茶屋駅にも地下通路で接続されている。周囲に中低層の建物が多い中、レンガ調外壁の一際目立つ建築物で周辺のランドマークにもなっている。地上27階(124m)(Wikipedia)
三件茶屋と下北沢、東北沢を結ぶ世田谷区道の通称。三軒茶屋と下北沢を結ぶ道路であることから茶沢と命名された。
茶沢通りの中程から入ったところに下ノ谷商店街があります。下町情緒の懐かしい雰囲気の店が並んでおり、第1・第3日曜日の朝9時から10時まで朝市で賑わいます。街と人びとが作り出す原風景とでもいったものが見られる一帯です。(案内板)
松陰太子堂散歩は淡島通りから烏山緑道に沿って太子堂を経て世田谷線の上町駅までの約4.6kmの道のりです。聖徳太子堂のある円泉寺、吉田松陰ゆかりの松陰神社、井伊家の菩提寺である豪徳寺、かつての世田谷の中心・世田谷城址などを巡ります。(案内板)
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真言宗、聖王山、法明院と号し、開山は賢恵僧都で葛飾郡新堀村の生れである。円泉寺の建立由来書によると、文禄1年(1592)賢恵僧都が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観世音を背負って関東へ下った。文禄4年当地に来て一泊した時、賢恵僧都が不思議な夢をみた。聖徳太子が告げていうには「この地に霊地あり円泉ケ丘といふ。こ霊泉湧き出づ、永くここに安住せん。汝も共に止まるべし」と。翌文禄5年12月本堂、聖徳太子堂、庫裡が完成、本堂には運慶の作といわれる長さ約1mの十一面観世音立像を安置して本尊とした。
聖徳太子を祀った太子堂の由来から地名が生まれたという。明治4年、境内に「郷学所」が設けられ、世田谷の教育発祥の地となったところだ。ケヤキの大木の並木は、農村だったころ区内随所に見られた屋敷林の名残ともいえる。秋の境内は紅葉したケヤキやイチョウの落葉で黄色のカーペットが敷かれる。(せたがや百景)
・・・三宿
町全体が烏山川の削った谷の斜面に位置し南側が三宿一丁目、北側が三宿二丁目、谷底部分が境となっている。この川は現在暗渠・緑道(遊歩道)化されており三軒茶屋や池尻大橋方面にいくことができる。川沿いのいわゆる境目付近に三宿神社が存在する。三宿神社のある小高い丘は多聞山と呼ばれ、過去には三宿城(多聞小学校敷地が本丸と比定されている。現在の住所は池尻)、多聞寺が存在したが、明治維新後の明治政府による廃仏毀釈の影響で多聞寺は緊急に神社化され、前述の三宿神社となった。故に現在も神社脇に旧寺の墓地が存在する珍しい状態となっている。(Wikipedia)
祭神は倉稲魂命をまつった稲荷社であるが、毘沙門天(木像1尺位)も祀られているので一名毘沙門様とも称せられている。昔多聞寺(現在廃寺)の境内にあった毘沙門堂の本堂をうつしたものと伝えられ、現在の社殿は昭和42年の建築である。三宿の氏神で例祭は9月23日であるが、奉納される神楽のうちにたぬきはやしがあるが、これは養老の滝の物語の孝子がたぬきを助けたという伝説にちなんだものだといわれている。二の鳥居の傍に昭和31年土地の有志が建立した石碑がある。この石は旧江戸城に築かれていた城石だということで表の面に、過去五百年之進歩道灌不知 未来五百年之進歩我等不知 石又沈黙 江戸城築城之石 大田道灌築城五百年 武者小路実篤 とある。(せたがや社寺と史跡より)
・・・池尻
旧・荏原郡池尻村。吉良氏の部将である橋本天王丸の子・兵庫重寿が17世紀前半に開発したとされている。1945年までは国道246号の南側(池尻1丁目と2丁目)のほとんどの区域を陸軍の練兵場が占めていた。そのためこの地域には陸上自衛隊の三宿駐屯地や池尻小学校・(旧)中学校、世田谷公園そして国家公務員官舎や都営アパートなど国や東京都の建物が集中して建築されている。北沢川と烏山川が合流し目黒川となる付近で沼沢地帯を為していた。池尻の「尻」とは「出口」という意味で池や沼や湖が川に落ちる部分のことを示している。「いけしり」や「いけのしり」という呼称もある。(Wikipedia)
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(緑:烏山川緑道・北沢川緑道 橙:大山道 紫:滝坂道 緑:鎌倉道)
(青:烏山川緑道 紺:北沢川 橙:大山道 紫:滝坂道)
(青:北沢川・烏山川・蛇崩川 青角:合流点 橙:大山道 紫:滝坂道)
(紺角:源流域・北沢川合流点 赤:旧甲州街道・大山街道 紫:滝坂道)
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by Twalking | 2019-02-14 18:58 | リバーサイドウオーク(新規)