鎌倉道中道(東回り)(4)十条~川口01-赤羽
天気 晴れ
十条台地を下り赤羽、岩淵宿へ向かいます。
右手は武蔵野台地、左手は荒川の低地になりますが、
国土地理院のデジタル地図を見ると複雑な地形です。
旧街道はその台地に沿って通っています。
丘の上には古刹があり、往時の様子が偲ばれます。
なかでも稲付城のあった静勝寺周辺は見応えがあります。
初めての所なのでじっくり見て歩きたいと思います。
・・・中十条
北区の南部に位置する。十条地区の中央部にあたることに由来する。北側は埼京線と京浜東北線に挟まれ三角形の形になっている。宅地が目立つ。(Wikipedia)
『東ノ方ヲ望メハ近郷ノ田園ヲ見ワタシ又遠クハ筑波日光ノ山々ヲ望ミテ最佳景ト云ヘシ』(新編武蔵風土記稿)
八雲神社は近世には真言宗智山派無量山龍谷院西音寺持ちであった。江戸時代、文化文政期編纂の新編武蔵風土記稿に「牛頭天王社 西音寺持」とある。その後、王子神社の末社として旧宿町(中十条二、三、四丁目辺り)の村持ちの神社となったが、現在は「八雲講」組織の管理運営により祭礼が執り行われている。太平洋戦争以前は環状七号線の真ん中辺りにあったが、昭和16・7年頃現在の地に遷座となる。社地提供の高木家が代々講元を務める。
十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成街道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられてその跡に児童遊園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。(北区の歴史と文化財)(写真:八幡山児童公園)
日光御成街道は王子から岩槻を経て幸手で日光街道と合流する奥州(日光)道中の街道として重要な道でした。将軍の日光社参というのは将軍が4月17日の家康年回忌などに日光東照宮参詣することですが、その行列はとても華やかだったそうです。しかしその費用は莫大なもので、一度社参すると幕府の財政を圧迫するほどでした。また、将軍社参の年にあたると道中筋では代官の陣頭指揮のもと村民総動員の形で御用を勤めたため、これに対する沿道の名主や村人達の負担も大変なものでした。(歴史と文化の散歩道)絵図:日光御成道と北区の村々(弘化年間絵図)
祭神:誉田別命(ほむたわけのみこと・応神天皇)ここは八幡山と呼ばれております。古老から聞き伝えに依りますと、この八幡神社は享保年間(1716~1736)に鎌倉の鶴が岡八幡宮から分祀して創建したとのことです。(現存の記録は明治18年6月が最古のものです。)それで「若宮八幡神社」と言います。以来、地元の有志が代々お祀りをして参りましたが平成8年に新たに「八幡山の会」と云う組織に改め、この神社を「心のふるさと」としてその周辺を含めて護持、整備を行っております。多くの方々にご賛同戴いて当会への入会ご寄附等ご協力下さいますよう御願い申し上げます。平成16年6月吉日 八幡山の会代表世話人/説明板
・・・赤羽
北区の北部、荒川を隔てて埼玉県に接する地区。江戸時代は赤羽根と記し、この一帯に赤土が多く赤埴(あかはに)といわれたことが地名の由来ともいう。JR京浜東北線から以西は山手台地で赤羽台といわれる。以東は荒川右岸の沖積低地で、江戸時代は岩槻街道(日光御成街道)筋の寒村であったが、1887年(明治20)以降台地は軍用地となり工兵隊、被服本廠(ほんしょう)、火薬庫などがあった。現在はJR京浜東北線、埼京線の接点として赤羽駅付近は交通、ショッピングの一中心地をなし赤羽台には住宅団地がある。1991年(平成3)東京メトロ南北線赤羽岩淵(いわぶち)駅開業。(コトバンク)
稲付川は北耕地川とも呼ばれた水路で、石神井川の水を分けた潅漑用水でした。石神井川中流にある板橋の根村(現在の板橋区双葉町)の堰で分水されたので根村用水または中用水(なかようすい)とも呼ばれていました。江戸中期・4代将軍家綱の時代に開削されたようですが詳しいことはわかっていません。北区内の流路はほとんどが暗渠となり下水溝になってしまいましたが、稲荷台(板橋区)の裾をめぐり、姥ヶ橋(うばがばし:環七通りの交差点名として残っています)をくぐって、現在の梅木小・清水小の脇を流れ、岩槻街道を過ぎたところで細分されて各村に導かれていました。その末はそれぞれ荒川(隅田川)に放流されていましたが、現在では北本通り(国道122号)の東側神谷3丁目地内に残っており、隅田川に接続しています。(北区を流れる河川/北区HP)(写真:法真寺題目塔)
香取神社本殿は境内東側に位置する拝殿の後ろに設けられた本殿覆屋の中に安置されています。朱塗りの三間社流造で屋根は杮葺きです。石の亀腹の上に土台が据えられ、その上に高さ約10尺、奥行約8.3尺の社殿が建てられています。香取神社は経津主神・大山咋神・建御名方神を祭神としています。「新編武蔵風土記稿」には『村の鎮守とす、長二尺六寸許の石を神体となせり』と記述され旧稲付村の鎮守でした。稲付村は17世紀半ばの郷帳(「武蔵田園簿」)に「御神領」と記され、東叡山寛永寺領に属していました。
ここにある七つの石はその一つに「さし石」と刻まれている力石です。江戸時代後期から明治時代にかけて稲付村では春の彼岸がすぎるころ少しの間農作業に暇ができましたので、村の鎮守である香取神社の境内に村内の力自慢の若者たちが集まって石の「サシアゲ」などして力くらべをしたといいます。七つある力石のうち五つの石に重さが刻まれています。軽いものでも19貫目(約71kg)重いものでは55貫目(約206kg)もあります。また、六つの石には「小川留五郎」と名前が刻まれています。
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岩槻街道から法真寺に向かう入口には題目塔が建っていて、元禄11年(1698)銘で「伝教大師一刀三礼にて御彫刻、本門薬師如来」とあります。天正元年(1537)慈眼大師(天海僧正)の弟・證導院日寿上人の開山で、開基は京都山科毘沙門堂跡守澄法親王と伝えられています。本堂、客殿、檀信徒会館の他、境内には三十番神堂・三蛇弁財天・咸得稲荷が奉納されています。手入れの行き届いた庭が素晴らしく、岩槻街道沿いであるにもかかわらず鳥のさえずりを聴きながら眺める枯山水は都内にいることを忘れさせてくれます。(北区の歴史と文化財)
この坂は鳳生寺門前から西へ上る坂で坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から六右衛門坂とも呼ばれます。坂上の十字路を右(北)に向かうと赤羽駅西口の弁天通り、左(南)へ向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。名称の由来となった鳳生寺は太田道灌の開基と伝えられ、岩淵宿にあったものを移したので、現在も岩淵山と号しています。(北区教育委員会)
江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄は住民が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は毎年2月の初午祭のときに道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。餅は正月を祝って鏡餅として神棚にそなえるととも、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では餅を搗く際に臼にまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振りおろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗くときにうたったのが稲付千本餅搗唄です。唄は大正12年(1923)9月の関東大震災の前後まではズシ(=辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(=催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々をまわり、一晩かけて餅搗の手伝いをするときにうたわれました。しかし米屋が餅の注文をとるようになると餅を搗く機会が次第に失われモヤイによる餅搗唄も姿を消していきました。昭和40年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする道観山稲荷講の人々が初午祭に際して餅搗唄を伝承するようになり今日に至っています。東京都北区指定無形民俗文化財。(説明板)
静勝院
江戸城を造ったことで知られる室町中期の武将・太田道灌が、砦として使用したといわれる稲付城。道灌の死後、稲付城を寺にしたのが静勝寺のはじまりです。稲付城跡はこの寺域から南へかけての丘陵一帯とされています。東側山門正面奥には、北区指定有形文化財の木造太田道灌坐像が安置された道灌堂があります。 また、北区指定有形文化財の静勝寺除地検地絵図・古文書を所蔵しています。(歩きたくなるまち北区)
静勝寺の由来は太田道灌の死後、太田道灌の師・雲綱和尚が1504年に城の一角に彼を弔う堂を建立して道灌寺とした事にはじまる。その後明暦元年(1655)道灌の子孫の太田資宗が堂などを整備して中興、太田道灌とその父・大田資清の法号によって寺号を自得山静勝寺と改めたと言われている。江戸時代を通じて静勝寺は太田氏の菩提寺とされ、道灌堂(太田道灌像を祀るお堂。1715年建立)、旧本堂(現在の弁天堂。1694年建立)などを造営するなど深くかかわっていた(Wikipedia)
正面の道灌堂の厨子内には太田道灌の坐像が安置されています。像は道灌の命日である7月26日にちなんで26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌に当たる享保20年(1735)7月に建立され、厨子は350回忌に当たる天保6年(1835)7月に製作されました。太田道灌(1432~1486)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦に参加したといわれていますが、長禄元年(1457)4月に江戸城を築いたことで知られています。像は頭を丸めており道灌が剃髪した文明10年(1478)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振りが置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5cm、構造は檜材の寄せ木造りです。頭部は前後二材矧ぎで魚眼をかん入し差首としています。体内に納入されていた銘札によると元禄8年(1695)静勝寺第6世の風全恵薫によって像立され、以後6回の修復が施されました。現在の彩色は昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。像は道灌が没してから200年以上も後に像立されたものでありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で平成元年1月に北区の指定有形文化財に指定されました。(北区教育委員会)
静勝寺文書は赤羽西にある静勝寺に伝存した文書群です。承応から昭和にいたる文書群のうち、近世文書68点が「静勝寺除地検地絵図・古文書」として平成5年に北区指定有形文化財に指定され、近代文書152点が「静勝寺近代文書」として平成4年に北区指定有形文化財に台帳搭載されています。静勝寺境内一帯は太田道灌が築城した戦国時代の砦「稲付城」跡でした。区指定有形文化財のうち貞享4年(1687)の静勝寺除地検地絵図は城塁配置を知ることができる最も古い絵図で、境内や付近の地形、稲付城の空堀の遺構が描かれています。この他、絵図成立に関連したものや境内の堂舎普請や太田道灌顕彰のための活動、寺院財政の一端を示す文書なども伝存しており、当時の静勝寺の様子を知る上でも貴重な資料であるといえます。北区指定文化財。(北区の歴史と文化財)(写真:弁天堂)
稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。昭和62年(1987)静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城はその街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。道灌の死後、この城には孫の資高が居城し後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷5ケ村を所領しました。明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。東京都指定有形文化財。(北区教育委員会)
稲付城跡は武蔵野台地島北端部の標高21m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも『堀蹟』として登場します。現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。
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亀ヶ池辨財天は弁天通り共栄会商店街振興組合をはじめとする地域住民で組織されている後援団体辨天講の皆様方のご協力に依って維持管理しております。亀ヶ池辨財天は教宗法人静勝寺の鎮守として同寺の辨天堂に安置されてある亀ヶ池辨財天を勧請して祀っています。毎年4月1日の辨天大祭には静勝寺住職が祈願導師を勤め家内安全諸願成就の祈祷札を講中及奉納の皆様に配布してます。元旦、初詣、二月の節分会等地元の繁栄と平和のための諸行事を取り行います。昭和55年、静勝寺のご後援ご指導のもと辨天講々中地元の関係者の誠意溢れる信仰心により本寺静勝寺の辨天堂に安置しております。尊像を写した木彫の分体を斯道の大家「西山如拙翁」に依頼して昭和56年4月1日辨天例大祭に御遷祀開眼の法要を営み地元地元繁栄と家内安全諸願成就御守護の神辨財天辨財天佛像を御堂に祀っています。地元の守り神様として皆々様の家内安全、商売繁盛、交通安全、良縁、安産息災、入試合格等ご参拝の上御祈祷・御祈願下さい。特に、昭和58年10月吉日亀ヶ池の中には長寿の亀子宝安産亀辨天様を安置致しました。どうぞお願いが成就するよう御参拝下さい。辨天講は今後とも一層積極的に管理守護に務めて参る所存であります。皆様方の御理解とご支援御愛護宜しくお願い申し上げます。昭和五十八年十月吉日 辨天講
この坂は旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治28年(1887)8月から9月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移ってきたので坂はつくられました。この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は『赤羽の兵隊屋敷』と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより付近の住民にも親しまれていました。現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。(北区の歴史と文化財)
赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和気命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇、日本書紀によれば応神天皇の父)、息長帯比売命(神功皇后、日本書紀によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷5ヶ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり、現在もその地域の総鎮守となっています。創建年代等は不詳ですが、伝説によれば延暦年中(782-806)坂上田村麻呂(758-811、平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として崇敬され、征夷大将軍の職名は永く部門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長徳年中(995-9)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154-56)源頼政が修造を加え、応永(1394-1428)正長(1428-29)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として1貫文の地を寄進し、文明元年(1469)太田道灌が社殿を再建したといいます(岩淵町郷土誌)。
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by Twalking | 2019-04-22 19:32 | 鎌倉街道(新規)