鎌倉道中道(西回り)(2)笹塚~中板橋03-上板橋
天気 晴れ/曇り
妙正寺川から中野・新宿境を豊島区へ向かいます。
川沿いにある哲学堂公園は緑豊かで憩えますし、
野方配水塔は近代の歴史遺産として一見価値ありです。
その先は改良されたバス通り、道も途中で消えており、
ちょっと我慢の歩行となりますが、板橋区へ入ると
川越街道の上板橋宿や中板橋周辺は面白いと思います。
・・・西落合/新宿区
新宿区の最北西部に位置する。町域北部から東部は目白通りに接しこれを境に豊島区南長崎に接している。南東部から南部一帯は新宿区中落合に、南西部は概ね妙正寺川沿いに接し中野区上高田に、西部は中野区松が丘・江古田・江原町に接している。中央部を新青梅街道が横断している。旧地名は「葛ヶ谷」(くずがや)である。(Wikipedia)
葛ヶ谷は1559年(永禄2年)の「小田原衆所領役帳」にも見られる古い地名であり、桂(葛)大納言・源経信の住地で葛ヶ谷と言われたとされる。もっともその他にも葛ヶ谷の「葛」は「国栖」とも書き、林野に住む人の意味とする説、葛の生えている原だったから名付いたとする説、自性院中興の祖といわれる鑑秀上人の詠歌に「あさひさし ゆうひかがやく かつらがや みだのじやうどや ぢぞうかんのん」とあり、葛ヶ谷は古くは「かつらがや」と読み、それが中期以降に「くずがや」と呼ぶようになったとする説等がある。(Wikipedia)
哲学堂一帯の高台は和田山ともいう。源頼朝が上総国から隅田川を渡って武蔵国に入った時、和田義盛が陣屋を設けたとの伝説がある。しかし、和田とは地名学的にみると川が曲がる所、曲がって水の淀む所という意味である。この地名は妙正寺川がこの西で北にも南にも大きく曲がっている意味を持つものである。杉並区和田や新宿区和田も同じ意味を持つものである。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)
旧葛ヶ谷村の鎮守で、祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武内宿彌の4柱である。社伝によると平安時代の前九年の役で源義家が安倍頼時討伐に行く際、京都の桂(葛)の里の一族が義家に従い、常に氏神の八幡宮に勝利を祈り無事頼時を征伐した。京への帰途この一族は地形・風土の似た落合のあたりにとどまった。このためかつてこのあたりを葛ヶ谷と呼んだ。その際、勧請した八幡が葛谷御霊神社となったという。
哲学堂公園は鎌倉時代、源頼朝の重臣・和田義盛の居館跡と伝えられ、妙正寺川を望む丘陵地であったことから和田山と呼ばれていました。明治39年、東洋大学の前身・哲学館の創立者・井上円了博士が哲学教育の道場としてこの地に哲学堂を創設しました。園内の建物には孔子、釈迦、ソクラテス、カントを祀る四聖堂や聖徳太子、菅原道真、荘子など東洋の六賢人を祀る三層六角の六賢台、宇宙館、絶対城と哲学と仏教の名称が付けられています。建物の周囲は樹林に囲まれ武蔵野の面影が色濃く残り、地元の人々の散策の場となっています。また、井上円了博士の墓は公園の北側蓮華寺にあります。(歴史と文化の散歩道)
哲学堂の正門にあたる。天狗と幽霊が傍らにあり、天狗は物質界、幽霊は精神界の象徴であるという。
東洋の釈迦と孔子、西洋のソクラテスとカントの四聖人が祀られている。公園の中心的な建物といえる。
日本の聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、インドの龍樹、迦昆羅の東洋の六人の哲人が祀られている。
当地における講義室。哲学は宇宙における真理を追究する学問であるからこの名になった。
当地における図書館のこと。絶対的な真理に到達せんと欲するならば、万巻の書物を読み尽くすことであるという教えから、絶対城と命名された。現在は、建物が遺構として残っているだけで図書館としての機能はない。(Wikipedia)
野方配水塔はみずのとう公園内にある荒玉水道の給水場につくられた塔です。荒玉水道は関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため13の町村が合同で設立しました。塔の高さは33.6m、基部の直径は約18mの鉄筋コンクリート造り。設計は「近代上水道の父」と呼ばれた中島鋭治博士によるものです。着工は昭和2年(1927)で完成は同4年。昭和41年(1966)まで使われていました。解体計画もありましたが、災害用給水槽として平成17年(2005)まで使われ、現在は国の登録文化財として大切に保存されています。ドーム型の屋根が地域の特徴ある景観をかたちづくり、江古田の水道タンク・みずの塔・給水塔などと呼ばれ、地域のランドマークとして親しまれてきた東京近郊都市化のシンボルです。(中野の歴史-まるっと中野)
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・・・長崎(町)/豊島区
かつて東京府北豊島郡に存在した町の一つ。伝承によれば鎌倉時代末期に長崎氏の長崎高重知行となったため、長崎と呼ばれるようになったという。しかし長崎村は周辺の地域とは異なり文書を残さず口伝でのみ情報を残してきたため確証となる文書は存在しない。室町時代の「小田原衆所領役帳」には『太田新六朗知行江戸長崎」とあり、すでにこの地名が存在し江戸衆に組み込まれていたことがわかる。古くから清戸道(現在の目白通りなど)から長橋道(現在の山手通りなど)が分岐するあたりに道の駅として椎名町という小名があった。長らく農地であったが昭和に入ってから徐々に住宅地に変貌した。(Wikipedia)
主に江戸時代に江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道である。『北豊島郡誌』には清戸道の経路について「清戸道 府費支弁道 小石川区江戸川(現:文京区)より起り、本郡高田村の南部を東西に貫きて長崎村(現豊島区)に入り、同村と豊多摩郡落合村(現新宿区)との境界を劃して、上板橋村の南端(以降現練馬区)を縫ひ、進んで下練馬村と中新井村との境界に沿うて上練馬村に入り、石神井村に於て富士街道を横ぎり、大泉村の中部を貫走して北多摩郡と埼玉県北足立郡との境界に進む」と記されている。(Wikipedia)
桜並木の千川通り 西武池袋線を越えます
千早と要町境を北へ 要町通りを横断します/要町3
・・・大谷口(おおやぐち)/板橋区
板橋区の南部南端部に位置する。北で大谷口上町、東で大山西町、南で豊島区千川、西で向原と隣接する。町域の南辺をもって板橋区-豊島区境を形成している。町域中央を南北に縦走する都道を境界に東側に大谷口一丁目、西側に大谷口二丁目が並ぶ。1559年(永禄2年)の『小田原衆所領役帳』に初出する。『新編武蔵風土記稿』では上板橋村の小名として見える。1932年(昭和7年)板橋区大谷口町となる。地名は石神井川の湾曲地点の地形を表したものと考えられている。(Wikipedia)
川越街道を越えていくと、西側には徳川家康の乗馬の轡を祀ったという轡神社がある。その北は専称寺前を通り東上線踏切を越え、賑やかな商店街を通って石神井川の山中橋に出る。この橋は旧街道に架かる大切な橋で、板の橋であったことから生まれた板橋の名は、この地方一帯の地名になった。しかし、ここに中世の板橋宿があったかどうかは分からない。しかも、軍記物に出てくる板橋という地名はこの地ではなく、北区の石神井川に架かる「松橋」と間違えられたものと思われる。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)
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板橋区大谷口にある荒玉水道の大谷口給水場に作られた配水塔である。ドイツで衛生工学を学び近代水道の礎を築いた中島鋭治博士による設計。高さ約33mの鉄筋コンクリート造の円筒の上に大小二つのドームが載る意匠を特徴とする。1931年に完成し、配水塔としては1972年まで使用された。完成当時の周辺は畑田圃が多く、近隣上板橋村各戸への給水ではなく王子・滝野川方面の製紙工場への給水が主であった。「大谷口水道タンク」として板橋区の景観百選に選定されるなど地域のランドマークとして親しまれてきた。しかし、老朽化のため2005年に取り壊された。跡地は給水所として再整備され、2011年に配水塔の意匠を継承するデザインのポンプ棟が完成した。(Wikipedia)
・・・仲町(なかちょう)
板橋区南東部に位置する。北で中板橋、東で栄町、南で大山町、西で弥生町と隣接する。町域の北辺を東武鉄道が東西に走る。(Wikipedia)
御祭:神倭建命。もと轡権現社と呼ばれていました。名称の由来については、この地を訪れた徳川家康の乗馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれています。江戸時代から「百日ぜき」に霊験がある神として広く信仰を集め、遠方から参拝に来る信者で賑わったといいます。信者は病気の治癒を祈るとともに、当社に奉納されている馬わらじの片方と麻をいただいて帰り、全快すると新しい馬わらじと麻を当社に奉納しました。社前の道路は、俗に鎌倉街道といわれた古道で、この道が石神井川を渡るところが本来の「板橋」という説もあります。(板橋区教育委員会)
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資料ファイル
川越街道上板橋宿
上板橋村
かつて武蔵国豊島郡、後に東京府北豊島郡に存在した村の一つ、江戸時代初期に誕生した。歴史的な板橋のうち西側の部分に相当する。現在の国道254号(川越街道)「日大病院入口」交差点から旧川越街道の石神井川に架かる「下頭橋」にかけての地域である。板橋の地名はすでに平安時代には存在しており、江戸時代初期に上板橋村と下板橋村に分割された。江戸時代となると大半が江戸幕府の天領となり野方領に属した。川越街道(川越・児玉往還)の宿場町としては「上板橋宿」と呼ばれていたが、下板橋宿と異なり正式な村名は「上板橋村」であった。江戸側から下宿、中宿、上宿に分かれていたが、規模としては小さなもので問屋場や本陣などは設置されず、名主屋敷がその代わりを果たしていた。(Wikipedia)
下宿辺り 豊敬稲荷神社前
川越街道は江戸時代に川越郷中・川越往還とも称し川越と江戸を結ぶ幹線でした。また、中山道の脇往還としても利用され、信州や越後からも通じていました。この弥生町の旧街道沿いは宿(上板橋宿)と呼ばれ、川越口(下頭橋)から上・中・下の三宿に分かれ、文政6年(1823)の「上板橋村地誌改書上帳」には『宿内は6丁40間(約730m)、道幅は3間(約5.5m)』と記されています。宿の中程には名主屋敷と称する建物があって、明治の初め頃までの遺っていたようです。名主の河原与右衛門家は明治期には転居していましたが、明治期副戸長を務めた榎本家には「上板橋宿副戸長」と刻まれた石碑が現存しています。上板橋村は町場(宿)と村方に分かれ、その村方の範囲には現在の板橋区の南西部地域と練馬区の小竹・江古田も含まれ、その地域からは人馬が提供され旅客や物資の継立てを担っていました。(板橋区教育委員会)
弥生町には江戸時代の川越街道が通っています。そのうち大山町の境から当地までの街道沿いは上板橋宿となっていました。石神井川に架かる下頭橋は寛政10年(1798)近隣の村々の協力を得ることで石橋に掛け替えられています。境内にある「他力善根供養」の石碑はその時に建てられたものです。
江戸時代の街道で、江戸日本橋より中山道を進み、江戸四宿の1つ板橋宿の平尾追分で分岐して川越城下に至る街道で伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」では実測、10里34町33間半(約43km)だった。(歴史)室町時代の長禄元年(1457)、上杉持朝の家臣・太田道灌が江戸城(千代田城)と川越城(河越城)を築き、部分的にあった古道を繋ぎ2つの城を結ぶ道を作った。古河公方に対する扇谷上杉家の防衛線であった。後に豊島泰経が道灌に対抗するために練馬城を築いて江戸と河越の間の道を封鎖しようとしたために両者は激しく対立した(『太田道灌状』)。戦国時代を通じ重要な役割を果たしたが、江戸時代に入って寛永16年(1639)に川越藩主になった松平信綱と嫡男の松平輝綱が、中山道の脇往還としてさらに整備したのが川越街道である。当時は「川越道中」「川越往還」などと呼ばれ、「川越街道」と呼ばれるようになったのは明治に入ってからである。この頃の川越街道は板橋宿・平尾追分より中山道を分かれ川越城西大手門に至る道であった(ほぼ現在の旧川越街道、県道109号新座和光線)。街道には上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6ヵ宿が設置され各宿には伝馬役が置かれた。(Wikipedia)(写真:254号日大病院入口交差点)
練馬城(豊島園)周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27096197/)
中山道板橋宿の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/21124294/)
by Twalking | 2019-05-25 13:14 | 鎌倉街道(新規)