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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(2)笹塚~中板橋03-上板橋   

日時 2019.5.16(木)
天気 晴れ/曇り


妙正寺川から中野・新宿境を豊島区へ向かいます。
川沿いにある哲学堂公園は緑豊かで憩えますし、
野方配水塔は近代の歴史遺産として一見価値ありです。

その先は改良されたバス通り、道も途中で消えており、
ちょっと我慢の歩行となりますが、板橋区へ入ると
川越街道の上板橋宿や中板橋周辺は面白いと思います。


・・・西落合/新宿区


新宿区の最北西部に位置する。町域北部から東部は目白通りに接しこれを境に豊島区南長崎に接している。南東部から南部一帯は新宿区中落合に、南西部は概ね妙正寺川沿いに接し中野区上高田に、西部は中野区松が丘・江古田・江原町に接している。中央部を新青梅街道が横断している。
旧地名は「葛ヶ谷」(くずがや)である。Wikipedia

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街道の風景①
坂の右手は哲学堂公園、右手に御霊神社があります/哲学堂通り

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葛ヶ谷
葛ヶ谷は1559年(永禄2年)の「小田原衆所領役帳」にも見られる古い地名であり、桂(葛)大納言・源経信住地で葛ヶ谷と言われたとされる。もっともその他にも葛ヶ谷の「葛」は「国栖」とも書き、林野に住む人の意味とする説、葛の生えている原だったから名付いたとする説、自性院中興の祖といわれる鑑秀上人の詠歌に「あさひさし ゆうひかがやく かつらがや みだのじやうどや ぢぞうかんのん」とあり、葛ヶ谷は古くは「かつらがや」と読み、それが中期以降に「くずがや」と呼ぶようになったとする説等がある。(Wikipedia


哲学堂一帯の高台は和田山ともいう。源頼朝が上総国から隅田川を渡って武蔵国に入った時、和田義盛が陣屋を設けたとの伝説がある。しかし、和田とは地名学的にみると川が曲がる所、曲がって水の淀む所という意味である。この地名は妙正寺川がこの西で北にも南にも大きく曲がっている意味を持つものである。杉並区和田や新宿区和田も同じ意味を持つものである。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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葛谷御霊神社鳥居


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葛谷御霊神社
旧葛ヶ谷村の鎮守で、祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武内宿彌の4柱である。社伝によると平安時代の前九年の役で源義家が安倍頼時討伐に行く際、京都の桂(葛)の里一族が義家に従い、常に氏神の八幡宮に勝利を祈り無事頼時を征伐した。京への帰途この一族は地形・風土の似た落合のあたりにとどまった。このためかつてこのあたりを葛ヶ谷と呼んだ。その際、勧請した八幡が葛谷御霊神社となったという。

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当社にも中井御霊神社の項で紹介した備謝祭が伝わっている。備射祭は歩射、奉射などとも書く正月の弓神事で、当社では備謝の字をあてている。江戸時代には各地でさかんに行われていたが現在、東京23区内では新宿区のニヶ所(葛谷御霊神社と中井御霊神社)と大田区東六郷の六郷神社のわずか3ヶ所に伝わっているにすぎない。(新宿区の文化財)(写真:力石)

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哲学堂公園入口

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哲学堂公園
哲学堂公園は鎌倉時代、源頼朝の重臣・和田義盛居館跡と伝えられ、妙正寺川を望む丘陵地であったことから和田山と呼ばれていました。明治39年、東洋大学の前身・哲学館の創立者・井上円了博士が哲学教育の道場としてこの地に哲学堂を創設しました。園内の建物には孔子、釈迦、ソクラテス、カントを祀る四聖堂や聖徳太子、菅原道真、荘子など東洋の六賢人を祀る三層六角の六賢台、宇宙館、絶対城と哲学と仏教の名称が付けられています。建物の周囲は樹林に囲まれ武蔵野の面影が色濃く残り、地元の人々の散策の場となっています。また、井上円了博士の墓は公園の北側蓮華寺にあります。(歴史と文化の散歩道)

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哲理門
哲学堂の正門にあたる。天狗と幽霊が傍らにあり、天狗は物質界、幽霊は精神界の象徴であるという。





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四聖堂(哲学堂)
東洋の釈迦と孔子、西洋のソクラテスとカントの四聖人が祀られている。公園の中心的な建物といえる。




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六賢台
日本の聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、インドの龍樹、迦昆羅の東洋の六人の哲人が祀られている。





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宇宙館
当地における講義室。哲学は宇宙における真理を追究する学問であるからこの名になった。




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絶対城
当地における図書館のこと。絶対的な真理に到達せんと欲するならば、万巻の書物を読み尽くすことであるという教えから、絶対城と命名された。現在は、建物が遺構として残っているだけで図書館としての機能はない。(Wikipedia

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街道の風景② 新青梅街道の先左手に野方配水塔、これは一見の価値ありです。街道は中野・新宿境を北へ向かいます/哲学堂通り

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野方配水塔/中野区江古田
野方配水塔はみずのとう公園内にある荒玉水道の給水場につくられた塔です。荒玉水道は関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため13の町村が合同で設立しました。塔の高さは33.6m、基部の直径は約18mの鉄筋コンクリート造り。設計は「近代上水道の父」と呼ばれた中島鋭治博士によるものです。着工は昭和21927)で完成は同4年。昭和41年(1966)まで使われていました。解体計画もありましたが、災害用給水槽として平成17年(2005)まで使われ、現在は国の登録文化財として大切に保存されています。ドーム型の屋根が地域の特徴ある景観をかたちづくり、江古田の水道タンク・みずの塔・給水塔などと呼ばれ、地域のランドマークとして親しまれてきた東京近郊都市化のシンボルです。(中野の歴史-まるっと中野)

妙正寺川02-哲学堂周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24154853/


・・・長崎(町)/豊島区

かつて東京府北豊島郡に存在した町の一つ。
伝承によれば鎌倉時代末期長崎氏長崎高重知行となったため、長崎と呼ばれるようになったという。しかし長崎村は周辺の地域とは異なり文書を残さず口伝でのみ情報を残してきたため確証となる文書は存在しない。室町時代の「小田原衆所領役帳」には『太田新六朗知行江戸長崎」とあり、すでにこの地名が存在し江戸衆に組み込まれていたことがわかる。古くから清戸道(現在の目白通りなど)から長橋道(現在の山手通りなど)が分岐するあたりに道の駅として椎名町という小名があった。長らく農地であったが昭和に入ってから徐々に住宅地に変貌した。Wikipedia

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街道の風景
③ 目白通りを越えると豊島区に入ります/南長崎6丁目

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清戸道(きよとみち)
主に江戸時代に江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道である。『北豊島郡誌』には清戸道の経路について「清戸道 府費支弁道 小石川区江戸川(現:文京区)より起り、本郡高田村の南部を東西に貫きて長崎村(現豊島区)に入り、同村と豊多摩郡落合村(現新宿区)との境界を劃して、上板橋村の南端(以降現練馬区)を縫ひ、進んで下練馬村と中新井村との境界に沿うて上練馬村に入り、石神井村に於て富士街道を横ぎり、大泉村の中部を貫走して北多摩郡と埼玉県北足立郡との境界に進む」と記されている。(Wikipedia

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桜並木の千川通り           西武池袋線を越えます


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千早と要町境を北へ          要町通りを横断します/要町3


・・・大谷口
(おおやぐち)/板橋区


板橋区の南部南端部に位置する。北で大谷口上町、東で大山西町、南で豊島区千川、西で向原と隣接する。町域の南辺をもって板橋区-豊島区境を形成している。町域中央を南北に縦走する都道を境界に東側に大谷口一丁目、西側に大谷口二丁目が並ぶ。1559
(永禄2年)の『小田原衆所領役帳』に初出する。『新編武蔵風土記稿』では上板橋村小名として見える。1932年(昭和7年)板橋区大谷口町となる。地名は石神井川湾曲地点地形を表したものと考えられている。(Wikipedia

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街道の風景④ 要通り先の三差路を真ん中の細道へ入ります。道は消えいますが大谷口給水所にでます/板橋高校横

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旧街道は3本の道のうち中央の板橋高校西側の細道であるが、途中で消えて、その北方お板橋十小学校東側あたりから川越街道に出る。
川越街道を越えていくと、西側には徳川家康の乗馬の轡を祀ったという轡神社がある。その北は専称寺前を通り東上線踏切を越え、賑やかな商店街を通って石神井川の山中橋に出る。この橋は旧街道に架かる大切な橋で、板の橋であったことから生まれた板橋の名は、この地方一帯の地名になった。しかし、ここに中世の板橋宿があったかどうかは分からない。しかも、軍記物に出てくる板橋という地名はこの地ではなく、北区の石神井川に架かる「松橋」と間違えられたものと思われる。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

鎌倉道-滝野川・松橋周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27555687/

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街道の風景⑤ 住宅地の道ですが、直進すると大谷口配水塔へでます。

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大谷口配水塔
板橋区大谷口にある荒玉水道の大谷口給水場に作られた配水塔である。ドイツで衛生工学を学び近代水道の礎を築いた中島鋭治博士による設計。高さ約33mの鉄筋コンクリート造の円筒の上に大小二つのドームが載る意匠を特徴とする。1931に完成し、配水塔としては1972年まで使用された。完成当時の周辺は畑田圃が多く、近隣上板橋村各戸への給水ではなく王子・滝野川方面の製紙工場への給水が主であった。「大谷口水道タンク」として板橋区の景観百選に選定されるなど地域のランドマークとして親しまれてきた。しかし、老朽化のため2005に取り壊された。跡地は給水所として再整備され、2011に配水塔の意匠継承するデザインのポンプ棟が完成した。(Wikipedia

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その先板橋十小から川越街道へ     川越街道を横断します/日大病院入口


・・・仲町
(なかちょう)


板橋区南東部に位置する。北で中板橋、東で栄町、南で大山町、西で弥生町と隣接する。町域の北辺を東武鉄道が東西に走る。(Wikipedia

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街道の風景⑥ 川越街道から中板橋へ下ります

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坂下右側に庚申塔           その先が轡神社です

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轡神社鳥居(くつわじんじゃ)/仲町

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轡神社
御祭:神倭建命。もと轡権現社と呼ばれていました。名称の由来については、この地を訪れた徳川家康の乗馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれています。江戸時代から「百日ぜき」に霊験がある神として広く信仰を集め、遠方から参拝に来る信者で賑わったといいます。信者は病気の治癒を祈るとともに、当社に奉納されている馬わらじの片方と麻をいただいて帰り、全快すると新しい馬わらじと麻を当社に奉納しました。社前の道路は、俗に鎌倉街道といわれた古道で、この道が石神井川を渡るところが本来の「板橋」という説もあります。(板橋区教育委員会)

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専称院山門/仲町


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専称院宗派は浄土宗で亀嶋山地蔵寺専称院と号し、御本尊は阿弥陀如来です。むかし鎌倉時代の武将豊島清光行基7の地蔵を作らせたという伝説があり、専称院の前身は豊島村(現北区)でそのひとつを祀る地蔵堂でした。浄土宗の専称院となったのは、宝永年間1704-1711)に豊島村民臼倉四郎右衛門の要請を受けた祐天上人によって中興され、堂宇の整備が進んでからです。荒川沿いにあったため寛政12年(1800)水害の溺死者の供養塔が建てられるなど、水難者供養寺としても有名でした。専称院が都市計画道路建設によって豊島から当地に移ったのは昭和12ころのことです。もともと当地には江戸時代初頭まで乗蓮寺があり、その後も乗蓮寺に附属する香林庵が残っていました。香林庵は明治7年(1874)に区域で初めて公立の小学校が設置された場所ともされています。(板橋区教育委員会)

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門前にお地蔵さん           専称院石造群

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街道の風景⑦ 東武東上線を渡り中板橋商店街を北へ、賑やかな商店街です/中板橋

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商店街の外れに石神井川が流れます、いい風景ですね、中板橋駅へ戻ります/山中橋

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大谷口周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照(緑:鎌倉道 橙:目白通り・川越街道 青:石神井川)

鎌倉道中道(西回り)(2)02-上高田の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27611932/

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鎌倉道中道(西周り)笹塚~中板橋ルート図(緑:鎌倉道 橙:青梅街道・川越街道 紫:推定古東海道 赤:甲州街道・中山道 紺点線:石神井川)


・・・・・
資料ファイル

川越街道上板橋宿

上板橋村

かつて武蔵国豊島郡、後に東京府北豊島郡に存在した村の一つ、江戸時代初期に誕生した。歴史的な板橋のうち西側の部分に相当する。現在の国道254号(川越街道)「日大病院入口」交差点から旧川越街道の石神井川に架かる「下頭橋」にかけての地域である。板橋の地名はすでに平安時代には存在しており、江戸時代初期に上板橋村と下板橋村に分割された。江戸時代となると大半が江戸幕府の天領となり野方領に属した。川越街道(川越・児玉往還)の宿場町としては「上板橋宿」と呼ばれていたが、下板橋宿と異なり正式な村名は「上板橋村」であった。江戸側から下宿中宿上宿に分かれていたが、規模としては小さなもので問屋場や本陣などは設置されず、名主屋敷がその代わりを果たしていた。Wikipedia


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街道の風景⑧ 川越開戸から分かれ「下頭通り(旧川越街道)」を行きます/日大病院入口交差点

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下宿辺り               豊敬稲荷神社前

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豊敬稲荷神社鳥居/弥生町

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豊敬稲荷神社
抑々豊敬稲荷の建設は江戸末期から明治の初期と思はれる。當時市神様として崇められていたが、時代の変ると共に一民家の隅に遷つされていたが、福本芳太大人が當地に赴任、爾来敬神の念に厚い大人が本稲荷を発見調査の結果、この様な地に存置すべきでないと自ら土地を境内地として購入、祠宇を始め附属建物を工築し現在の地に御遷座、名稱も豊敬稲荷と命名さる。

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併而昭和28621日芳太郎大人他界の後も福本倫三氏は大人の意思を承継し、其後神輿庫の新設に伴ない祠宇の見劣は勿論破損放置は亡父の意に反すつことを痛感し祠宇の改築を計画、弟博次氏並びに役員一同と協議し一般崇敬者の協力を得て施工を加瀬工務店に委ね、昭和361月起工、爾後卓越せる技術と努力にて昭和376月竣工、同年74日の吉日を撰び境内地を含め天祖神社総代稲荷神社役員参列のもとに竣工奉祝祭を執行、後工作物及び境内地を含め天祖神社に奉献、後昭和421021日倫三氏髙井松子夫人、稲荷神社奉賛会長となり副会長及び世話人と協力を計り境内整備に力を注ぐ。今回玉垣建設も会長崇敬者に依り完成するものなり、依而後世の為に記す。天祖神社宮司小林猛男(境内石碑)

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旧上板橋宿復元之図(昭和初期)/豊敬稲荷神社境内

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旧上板橋概要図
川越街道は江戸時代に川越郷中・川越往還とも称し川越江戸を結ぶ幹線でした。また、中山道脇往還としても利用され、信州や越後からも通じていました。この弥生町の旧街道沿いは宿(上板橋宿)と呼ばれ、川越口(下頭橋)から上・中・下の三宿に分かれ、文政6年(1823)の「上板橋村地誌改書上帳」には『宿内は640間(約730m)、道幅は3間(約5.5m)』と記されています。宿の中程には名主屋敷と称する建物があって、明治の初め頃までの遺っていたようです。名主の河原与右衛門家は明治期には転居していましたが、明治期副戸長を務めた榎本家には「上板橋宿副戸長」と刻まれた石碑が現存しています。上板橋村は町場(宿)と村方に分かれ、その村方の範囲には現在の板橋区の南西部地域と練馬区の小竹・江古田も含まれ、その地域からは人馬が提供され旅客や物資の継立てを担っていました。(板橋区教育委員会)

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街道の風景⑨ この辺りが中宿でしょうか/弥生小学校入口

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下宿付近               下頭橋

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下頭橋より下流側中板橋駅方向の景観です/石神井川

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六蔵祠

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下頭橋(げとうばし)
弥生町には江戸時代の川越街道が通っています。そのうち大山町から当地までの街道沿いは上板橋宿となっていました。石神井川に架かる下頭橋は寛政101798)近隣の村々の協力を得ることで石橋に掛け替えられています。境内にある「他力善根供養」の石碑はその時に建てられたものです。

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橋の名の由来については諸説があります。一つ目は旅僧が地面に突き刺した榎に杖が、やがて芽吹き大木に成長したという「逆榎」がこの地にあったという説。二つ目は川越街道を利用する川越藩主が江戸に出府の際に、江戸屋敷の家臣がここまで来て出迎え頭を下げたからという説。三つ目は橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたという説の三つが伝わります。ここにある六蔵祠は六蔵の遺徳を讃えて建てられたものです。下頭橋と六蔵祠は昭和61年度に区記念物(史跡)に登録されました。(板橋区教育委員会)


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川越街道
江戸時代の街道で、江戸日本橋より中山道を進み、江戸四宿の1板橋宿平尾追分で分岐して川越城下に至る街道で伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」では実測、103433間半(約43km)だった。歴史)室町時代の長禄元年1457)、上杉持朝の家臣・太田道灌江戸城(千代田城)と川越城(河越城)を築き、部分的にあった古道を繋ぎ2つの城を結ぶ道を作った。古河公方に対する扇谷上杉家防衛線であった。後に豊島泰経が道灌に対抗するために練馬城を築いて江戸と河越の間の道を封鎖しようとしたために両者は激しく対立した(『太田道灌状』)。戦国時代を通じ重要な役割を果たしたが、江戸時代に入って寛永161639)に川越藩主になった松平信綱と嫡男の松平輝綱が、中山道脇往還としてさらに整備したのが川越街道である。当時は「川越道中」「川越往還」などと呼ばれ、「川越街道」と呼ばれるようになったのは明治に入ってからである。この頃の川越街道は板橋宿・平尾追分より中山道を分かれ川越城西大手門に至る道であった(ほぼ現在の旧川越街道、県道109号新座和光線)。街道には上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6ヵ宿が設置され各宿には伝馬役が置かれた。(Wikipedia)(写真:254号日大病院入口交差点)

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上板橋宿周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照(橙:旧川越街道 緑:鎌倉道 青:石神井川)

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by Twalking | 2019-05-25 13:14 | 鎌倉街道(新規)

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