日時 2022.7.18(月)
天気 曇り/晴れ
今年の梅雨明け宣言は速く猛暑続きで控えていました。
このところ戻り梅雨となり風も吹いているので出かけました。
前回の続きで青葉区の新石川、荏田地区です。
ここは早渕川が港北NTへ大曲して流れていく谷筋で、
矢倉沢往還・鎌倉街道中道が通る交通の要衝です。
変化に富んだ面白い地形なのでじっくり見てみたいと思います。
・・・新石川/青葉区
たまプラーザ駅西側のトンネル、この辺りが尾根部になります
新石川 昭和54年の土地区画整理事業の施行に伴い元石川町の一部から新設した町。古くは都筑郡石川村・黒須田村であった。明治22年の市町村制施行の際、都筑郡山内村大字石川及び黒須田となり、昭和14年の横浜市へ編入の際元石川町となる。平成6年の行政区再編成に伴い緑区から編入。町名は従来の由緒ある名称を残したいという地元の要望により「新石川」と名付けた。(青葉区)(写真:國學院方向/新石川公園入口)
西側の景観 右手があざみ野駅方向、丘下を早淵川が流れています/新石川公園
新石川公園 記念碑 この地区は多摩丘陵に属する丘陵地帯であったが、土地区画整理事業により郊外住宅として新石川の町を誕生せしめたものである/元石川第三土地区画整理組合
伊勢社鳥居
伊勢社 旧石川の中村と下谷の二つの集落の谷戸宮である。江戸時代後期の地誌である「新編武蔵風土記稿」には「伊勢社、除地一段、村の東にあり、南に向ふ」とある。江戸時代初期の創建と言われるが、伝承ではこの伊勢社は昔、中村に源内様という方がおられ、其の方の所有であったという。棟札が五枚残されている。一番最古のものは文字が消失している。年代順に示すと宝暦12年(1762)天明8年(1788)天保10年(1839)そして新築される前の社と考えられる明治18年(1885)である。宝暦12年のには「天下和順日月満期 奉造立太神宮小社一宇所願成就修 導師別當万願寺□□惣氏子中石川大工當内仁兵衛」とある。氏子達は「天候の安定と豊作、そして穏やかな日常を祈願していた」。
慶応2年の記録には下谷43戸中村25戸の寄進者が見える。最高は一両、平均は二分の寄進額、明治20年の記録によれば祭礼は9月20日、氏子は88戸、神官は関戸良本となっている。明治初年の「神仏分離令」により保木の関戸氏が祭祀を努めるようになったのだろう。大正の頃から祭礼は4月3日となり今日に至っている。宵宮には中村で幟を立て、当日は神主を迎えて式典と直会を行なった。幟返しは下谷の役目だった。昭和51年5月に現社の新築がされてから、地元囃子連による囃子の奉納が行われるようになった。昭和54年2月18日に新石川の街が誕生すると共に周辺は良好な住宅街となり人口は急増した。現在旧中村下谷の人口は約二万人余となりその氏神として崇敬を集めている。(石碑文)
境内社秋葉神社
平成10年9月新石川4丁目17から造成工事のため当地に遷宮した。棟札が3枚遺されている。文化五辰歳(1808)5月5日には「秋葉山大権現中村下両谷氏子」また明治7年(1874)のには「表-奉遷宮秋葉山宮謹古国土安全五穀成就中村下谷惣氏子中」。これによると文化5年(1808)に静岡県周智郡春野町秋葉山にある秋葉神社の分霊を勧請したものと考えられる。「火防せの神」として著名で秋葉信仰は江戸時代後期の文化文政期に最盛期を迎えたとされている。当地もその例であったのだろう。ただご神体が「からす天狗」であることから、神仏分離以前の秋葉山の「三尺坊大権現」を勧請したものと考えられる。伝承によると当初は白根の斎藤清兵衛家に祀られ、中村下谷両谷の持ち物であったという。明治7年新石川四丁目に遷宮された。(石碑文)
境内社三峰神社 金毘羅神社 この石祠の銘文を見てみると右横-再建嘉永四辛子年春二月吉祥日別当満願寺 左横-石川村願主下谷とある。この石塔は以前、新石川四丁目15近くの東名高速道路上辺りにあったのだが、東名高速の建設のため秋葉神社の地に遷座したのである。台石には5名の名前が刻まれている。また地所寄付として工藤赦次郎の名が入っている。明治初期に驚神社下の下寮で子弟の教育をした人物である。(石碑文)
お伊勢原 石川の地名、下谷地区にあり、名は伊勢社に由来する。(「谷戸めぐり」さんの解説より)(写真:伊勢神社)
西勝寺参道 浄土真宗本願寺派のお寺さんです
西勝寺
「除地、一段四畝二十歩、村の巽の方にあり、京都西本願寺の末、影顕山と號す、客殿七間四方、坤の方に向ふ、本尊阿彌陀佛長二尺餘の立像なり、開山願應元文四年九月朔日寂す。太子堂 本草に向て左にあり、二間半に三間、太子は長五寸ばかりにてその作を傳へず」(新編武蔵風土記稿)
改築中の本堂 山門
寺の谷(てらのやと)石川の地名。谷の入り口に西勝寺があり、その寺の持ち物だったか。現在の新石川公園に至る道が痕跡である。(「谷戸めぐり」さんの解説より)
馬坂(うまさか)
石川の地名。西勝寺付近の古い道の坂を言う。寺の谷へと繋がる。(「谷戸めぐり」さんの解説より)
早淵川左岸の旧道
旧朝日屋酒店 山之内小学校脇
驚神社参道への小径
山際に建つ山内小 驚神社への小径
釈迦道
石川から渕山橋を渡り荏田宿(246号)へ抜ける旧道で、通称・釈迦道(しゃかんどう)と呼ばれているようです。明治の地図にも美しが丘の丘越えの道が記されていますが、宮前区の登戸や桝形城から郡境を越えて石川から荏田方面へ抜ける鎌倉街道の支線かも???、ちょっと気になる道筋です。
驚神社鳥居
参道
神橋 参道階段
拝殿
驚神社(おどろきじんじゃ) 創立年代詳かならざるも 往古より延喜式所載の武蔵國石川牧の総鎮守なりしと云ふ 其の当時 石川牧の地域は頗る広汎にして旧都筑郡内は旧山内村石川・同荏田・旧中川村大棚・同茅ヶ崎・同中里村黒須田・同大場・同鐵・同麻生・同鴨志田・同早野・同王禅寺・橘樹郡内は旧向丘村菅生・宮前村土橋・同有馬・同馬絹・同野川・同梶ヶ谷等の大宇に亘れるものゝ如し 依て昭和14年横浜市に合併当時まで 此の石川に秣場と称する馬料共有地五拾餘町歩を遣せる
又社前は旧鎌倉街道に当り源頼朝の臣畠山重忠篤く崇敬せりと云へり 明治6年12月村社に列し 昭和15年5月27日拝殿を再築し 全く社殿の面目を一新し 昭和12年10月6日神饌幣帛料供進神社に列す 昭和57年拝殿屋根を銅板葺に改修 当神社の名称は右の如く馬を大切にする意から馬を敬う即ち「驚」がついたものと伝ふ 御祭神:素戔嗚尊(此の大神は伊邪那岐神の御子にして天照大御神の御弟神に坐して農業 漁業 山林の守護神として全国的に篤く崇敬されし神なり 又清明を尊び人命救助の神 罪を祓う神 荒神鎮斎 鎮疫病としても崇められし神なり)(境内掲示板)
手水舎 力石
牛込獅子舞 牛込獅子舞は関東・東北・信越地方に分布する一人立ち三頭獅子舞の横浜における代表的存在です。約300年前、元禄年間の悪病流行の際に始まると伝えられています。丘陵を隔てた川崎市高津区初山の獅子舞と芸態や歌詞が酷似しており、18世紀中頃に移入されたものと推定されます。獅子頭は3個で、剣角と巻角を持つ雄獅子2個と宝珠を頂く雌獅子1個とからなり、鶏の毛で飾り赤い布を垂れます。武蔵の一帯に分布する頭と同系に属します。舞手3人は裁著(たつづけ)・白足袋・草履ばきで、締太鼓を胸につけ、バチを打ちながら舞います。その他にはい追い(弊負い)、ササラ子、万灯持、小万灯持の各役が加わります。以上の役につくものは牛込地区で生まれた成年までの男子に限られ、獅子役の3人とはい追いはちょうなんの役とされています。この他にホラ貝3人、笛数人、歌上げ数人は大人で牛込地区の古老があたります。当時は獅子宿で支度をして道行の曲に合わせて神社まで練って行き、神前に祭詞を述べてから曲に合わせて三角形になったり一列になったりまた円形になって舞います。「わが国で、わが国で、雨が降るげて、雲が立つ。おいとま申していざ帰られる」と祭神に舞終わりの挨拶をします。(横浜市教育委員会)
新石川橋際 新石川橋
・・・支川合流点
旧道の先が支川の旧合流点、右手が現在の合流点です/東名高速下
旧合流点 現合流点
東名・荏元跨道橋から合流点(マンション左下)方向をみます/観福寺上
削平したんですね・・・、この部分は尾根でした/前耕地橋
上流方向 下流方向/関谷橋(246号)
関耕地 荏田の地名、字名。石川境の地、谷筋にあった耕地を言うのだろう。現在の国道246と県道102が交差する辺り。(「谷戸めぐり」さんの解説より)
合流点付近(明治初期~中期)/歴史的農業環境閲覧システム(青:早渕川 青丸:旧合流点 赤丸:現合流点 橙:大山街道 赤:246号 緑:東名 薄茶:釈迦道・卵塔場)
・・・荏田町/青葉区
ブルーライン明かり部 トンネルを出て246号、旧大山街道を越え向かいの丘でトンネルになります
観福寺らんとうば墓地 東名荏元橋(跨道橋)
早渕川右岸 中央が驚神社の社叢、左に山内小、奥右手が多摩プララーザ、左が美しが丘でしょうか/荏元橋
246号(東京方面) ブルーライン(関根橋)の下を早淵川が斜めに横断しています(関根橋・暗渠)
江田町
昭和14年の横浜市へ編入の際山内村大字荏田から新設した町。古くは都筑郡荏田村であった。明治22年の市町村制施行の際、元石川村・黒須田村飛地と合併して都筑郡山内村大字荏田となる。平成6年の行政区再編成に伴い緑区から編入。町名は旧村名を採った。地名研究で「エダ」は「湿田」を意味するという。(青葉区)(写真:246号荏田方面)
観福寺参道
観福寺 「除地、一段四畝二十歩、村の北の境ひ字關根にあり、境内は少しく高き所なり、寶劔山観音院と號す、新義真言宗にて王禅寺村王禅寺の末寺なり、開山の由緒詳ならず、中興法印朝壽は寶永5年5月2日寂せり、本尊如意輪観音坐像にして長三尺、客殿九間半に六間半東向なり、前に石階十四五級ありこの上より臨めば四方の景色いとよし。地蔵堂。客殿に向て左の方にあり、二間半四方、地蔵は坐像にして長三尺ばかり。辨天天満宮相殿。これも同邊にあり。瘡守稲荷社。背後の山上にあり、小社なり。第六天廢社。境内のつづきなり」(新編武蔵風土記稿)