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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:東京散歩(新規)( 154 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神楽坂三景   


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粋な黒塀、見越しの松に・・・、いい雰囲気ですね~


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神楽坂で一番細い路地とか、中ほどにカフェがありますよ~


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検番横町から熱海湯へ下る階段、「熱海坂」て言うみたいです

年に一度の集まりの前にぶらりと歩いてみました。
やっぱり神楽坂は裏通りが面白いですね。

神楽坂の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24174371/

by Twalking | 2019-07-18 22:29 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 春の富士   

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富士見橋/鎌倉道(中道)(世田谷区上野毛)
お~、日本晴れ、
美しい春の富士ですね~・・・
ありがとう~!

(富士見橋(田園都市線・跨線橋)は関東の富士見100選に選ばれています)

by Twalking | 2019-03-08 21:33 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり白金   

日時 2019.1.24(木)
天気 晴れ


歴史資料館がオープンしたと支所で伺いましたので、
古川と別れ蜀江坂を上って白金台へ向かいました。
この辺りは静かで緑も多いので歩くにはいいですね。

歴史資料館は東大医科学研究所の一画にあります。
剥製や出土品、所蔵の錦絵・切絵図などがみれますが、
丁寧に説明をしていただきました、ありがとうございました。


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街道の風景① 五之橋から古川と別れ商店街を白金台へ向かいます/白金

麻布田島町
元禄(16881704)から享保(17161736)にかけて新堀向と俗称したようですが、近傍に三田龜塚(みたかめづか)の代地二ヶ所、西久保天徳寺領屋敷があるのを併せて田島町を名乗ったといいます。そのころ周囲はなお田であったので「田の中の島のような町」との意味だという説もありますがはっきりはしていません。(麻布地区の道路橋/港区HP)


・・・白金

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街道の風景② 白金台の下は北里通り(305号)お墓参りで通る道です/白金

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白金(しろかね)
応永年間にこの地を開いた「柳下上総介(やぎした)」氏が、大量の銀(読みはシロカネ)を所有していたことから「銀長者→白金長者」と呼ばれ、「白金」がそのまま地名になったとされています。銀の読みと同様に町名も、しろかねと濁らないのが正式のようです。『小田原衆所領役帳』では「白銀」と記されていましたが、読みはやはり「しろかね」だったそうです。江戸時代は豊島郡と荏原郡の境界線上にあったこの白金村は、区画が定まらず入会地(共同耕作地)とされました。明治に入り東京府へ編入され、武家地跡に白金下三光町、白金上三光町、芝白金丹波町などが起立しました。明治11年(1878)に一旦芝区に所属しますが、白金志田町・芝白金丹波町以外は荏原郡へ所属替えとなり、13年後再び芝区に編入され、芝白金今里町、東名光(ひがしなこう)、西名光(にしなこう)、松久保、雷神下などをあわせて芝白金三光町となり、昭和22年(1947)港区の成立により芝の冠称を除き白金三光町となります。後の「新住居表示」により麻布新広尾町、麻布田島町、芝三田老増町(おいます)、白金三光町、白金志田町、白金台町などの全域または一部をあわせて現在の「白金」となりました。(港区の地名の歴史/港区HP)

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本妙寺山門


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本妙寺
港区白金にある日蓮宗の寺院。山号は金峯山。旧本山は身延山久遠寺(身延門流)、通師法縁。日瑞(碑文谷法華寺・現在の天台宗円融寺10世)が退隠のため碑文谷法華寺の付近に創建。延宝4年(1676)日玄(4世)の代に現在地へ移転した。Wikipedia


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北里大学北里研究病院港区
白金五丁目にある医療機関。学校法人北里研究所が運営する病院である。北里柴三郎によって設立された土筆ヶ丘養生園を起源とする。(1893年・明治26設立)
北里柴三郎
細菌学者。肥後の人。東大卒。ドイツに留学、コッホのもとで研究し破傷風菌の純粋培養に成功、さらに血清療法を発見。帰国後、伝染病研究所長のち北里研究所を創設。ペスト菌の発見者でもある。(コトバンク)

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坂の風景① 北里研究所前から聖心女子(裏門)に沿って南へ上る坂です

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蜀江坂(しょっこうざか)
坂上の丘を、紅葉が美しい中国の蜀江にちなんで蜀江台と呼んだことからつけられた。むかしの字名は卒古台であった。(標柱)




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聖心女子学院(裏門)
港区白金に所在し、完全小中高一貫教育を提供する私立の女子小学校・中学校・高等学校。カトリック女子修道会である「イエズスの聖心会」を母体として設立。(1908年・明治41年)世界約40ヶ国、200校の姉妹校がある。一学年3クラス、収容定員1344(初等科第1学年から第4学年までは1クラス32人、初等科第5学年から高等科第3学年までは1クラス42)の小規模な学級編成されている。(
Wikipedia

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レンガ塀が素敵な坂です        坂上も緑が多くて寛げます


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坂の風景② 歴史資料館に寄ってから麻布方面に戻ります/日吉坂上(目黒通り)

日吉坂 
能役者日吉喜兵衛が付近に住んだためと伝える。ほかに、ひよせ、ひとせ、ひとみなどと書く説もある。(港区標柱)


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坂の風景③ 聖心女子学園の表門前を通り、北里通りへ下ります

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三光坂
本来は坂下専心寺にあった三葉の松にもとづき三鈷(さんこ・仏具)坂だったというが、日月星の三光などともいう。(標柱)




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白金三光町
東京市芝区(現・東京都港区)にかつて存在した町名。もと
白金村の内字上三光、下三光、名光、東名光、西名光、卒古台、松久保、雷神下の地である。18913月合して1町となし「白金三光町」と称し東京市に属す。その内上三光にはもと上杉氏分部氏の別邸及び旧幕府書院番組屋敷址その他の土地があった。1872年合して「白金上三光町」といった所がある。下三光には黒田氏伊達氏の別邸及び土地が存在し1872年合して「白金下三光町」を立てた所がある。また町の東北には俗に「鷺森」と称し寛永中鷺森明神の門前町を開き、1869年立てて「白金錦町」と称した地がある。(Wikipedia

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三光坂下               西光寺浄土宗のお寺さんです

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氷川神社鳥居


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氷川神社
祭神:素盞鳴尊、日本武尊、櫛稲田姫尊 
白鳳年間(今から1338年前)に所謂白金邑総鎮守の氏神様として建立せられた。明和9年目黒行人坂から出た火災により類焼、その後宝暦2年大規模な権現造りの御社殿が御造営され嘉永5年には拝殿が銅葺せりと伝えられ立派な建物であったが、昭和20425日大東亜の戦禍にあった。昭和33年秋現在の御本殿・拝殿・参道・社務所等境内整備に至る迄造営大工事が竣工した。(境内掲示)

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境内
                 建武社

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街道の風景③近くに駅はあったみたいですが麻布十番に戻りました/麻布十番通り

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白金周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

白金台の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22184781/



・・・・・
資料ファイル

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港区郷土博物館

建物
この建物は東京大学建築学科教授の内田祥三(よしかず)により設計され、昭和131938)年に建設された旧公衆衛生院です。構造は鉄骨・鉄筋コンクリート造、スクラッチタイルで覆われたゴシック調の外観で「内田ゴシック」と呼ばれる特徴的なデザインとなっており、隣に建つ東京大学医科学研究所と対になって建てられました。建物の内部にも講堂や教室・研究室などのほか細部にわたる意匠など当時の状態を伝える部分が多くあります。歴史的に貴重なこの建物を保存・改修し、郷土歴史館を中心とした複合施設として活用しています。(港区HP)

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港区立郷土歴史博物館 
2018年(平成30年)11月、白金台のゆかしの杜に郷土歴史博物館が開館します。建物は昭和13年に建築された旧公衆衛生院の歴史的に貴重な外観や内部の講堂などを保存改修して活用しています。郷土歴史館では出土した縄文土器やクジラの骨格標本など本物に触れたり、プロジェクションマッピングやタッチパネルを活用しながら港区の自然・歴史・文化を学ぶことができます。また、ミュージアムショップやカフェもあり歴史を知り交流できる施設です。ぜひご来館ください。(港区HP)

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ミンククジラ(ナガスクジラ科)
宮城県鮎川で捕獲されたクジラで、東京慈恵会大学の標本館に収蔵されていましたが平成10年(1998)に寄贈されました。ミンククジラは歯のかわりにヒゲを持つクジラの中までほぼ世界中の海に生息しています。体長は9m前後になります。ナガスクジラ科の中では最も小さいクジラです。(説明板)

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ステンドグラス
このステンドグラスは港区三田三丁目・札の辻近くにあった浅野セメント創業者・浅野総一郎自邸ステンドグラスです。その後、浅野邸は港区立芝浜中学校として利用されていましたが、校舎の建替え時に不要となったものを保存しています。(説明板)

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伊皿子貝塚
港区三田4丁目19(旧三井家邸宅敷地、現・NTTデータ三田ビル敷地)にあった縄文時代後期貝塚。規模は大きくはないものの貝の種類の豊富さや貝層密度の濃さでは日本有数の貝塚である。貝層の下からは貝塚より古い時代の土器、貝層の上からも縄文時代晩期の土器、さらに弥生時代以降の遺構も見つかりこの地には貝塚を形成した時期だけでなく長い期間人の営みがあったことがわかる。貝塚の上下から違う時代遺物も発見されていることからそれらも合わせて伊皿子貝塚遺跡ともいう。貝塚の位置は台地上の標高11前後のに向いた斜面上にある。縄文時代の縄文海進時には高輪台地は南西から北東方向に伸びる台地で東は東京湾、北から北西は古川(渋谷川)西も低地で、伊皿子貝塚は高輪台地の東側にあり東京湾に直接面していた。港区内には縄文遺跡が多く存在するがその多くは古川沿いにあり、東京湾に直接面していた縄文遺跡は多くは無い。(Wikipedia
写真:
伊皿子貝塚の貝層断面

中原街道・伊皿子坂周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22226945/

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本村町貝塚/南麻布3丁目
古川を南に望む台地の端と斜面にあるとされる貝塚です。ハマグリ・サルボウなど海水産の貝殻からなる縄文時代前期の貝塚です。当時は海水がこのあたりまで入り込んでいたことを示しています。土器の形式としては黒浜式・諸磯式が多く出土しています。旧町名で本村町、今の南麻布3丁目の広い地域に広がっていたと考えられますが、近年の台地上の数ヶ所での試掘調査では貝塚はまったく確認されていません。古川の谷を望む台地の南斜面で日当たりもよく、原始・古代から生活の適地であったと考えられますが、現在では開発が進みその痕跡をわざかながらも伝えるのはここだけになってしまいました。(港区教育委員会)写真:薬園緑地付近

古川・四之橋周辺(旧本村町)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27423693/

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港区埋蔵文化財包蔵地(遺跡)分布図
/平成303月現在(部分拡大)
(橙:旧東海道 紫:中原街道 緑:大山街道 青:古川を着色)

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港区等高線マップ

by Twalking | 2019-02-03 18:31 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり麻布狸穴町   

日時 2019.1.24(木)
天気 晴れ


所用があって港区の麻布支所まで出かけました。
支所は鳥居坂上にありますので、ついでに
周辺の坂道を歩いてみました。

外苑東通りの西側は古川への谷になっていて、
坂上が旧飯倉片町、谷側は麻布狸穴町になります。
ここは訪ねて見たかった所、楽しみです。


・・・麻布十番

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街道の風景① 麻布十番から鳥居坂を六本木方向へ向かいます/環状3号線

環状3号線

六本木区間は青山から六本木を経由し芝へ至る区間。並行する外苑東通りのバイパス機能を持つ。1993年に全線開通・供用を開始した。外苑東通りが尾根沿いを走るのに対して当道は谷沿いの低地を走る。都道319号環状三号線に指定されている。Wikipedia


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十番稲荷神社鳥居/麻布十番

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十番稲荷神社
祭神:倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)宗像三女神
もと末広神社(旧坂下町鎮座)および竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)です。両神社は昭和20415日に戦災に遭い焼失、昭和256月復興土地区画整理により両社境内地を現在地に換地、隣接指定されました。その後両社は合併して社名を十番稲荷神社と改称し、平成9329日現社殿に建て替えられました。

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末広神社由緒
慶長年間(15961615年)に創建され、元禄4年(1691年)には坂下東方雑式に鎮座していましたが、同6年永井伊賀守道敏が寺社奉行の時、坂下町41の社域に遷座されました。往古より境内に多数の柳樹があり、「青柳稲荷」と称されていましたが、後にその中の一樹の枝が繁茂して扇の形をしていたことから「末広の柳」とよばれるようになり、社名に冠されて末広稲荷と称されました。その後、明治204月に末広神社と改称されました。

竹長稲荷神社由緒(たけちょう)
創建は定かではありませんが一説には和銅5年(712年)とも、弘仁13年(822年)に慈覚大師の八咫の神鏡を以て武蔵国豊島群竹千代丘(今の鳥居坂上)へ稲荷大神を勧請したとも伝えられています。延喜式内社の稗田神社と目されており、少なくとも10世紀初頭には鎮座していた古社と考えられます。その後、弘安2年(1279年)に鳥羽氏が社殿を再建、そして寛永元年(1624年)3月に永坂町に遷座されました。(十番稲荷神社HP)


・・・鳥居坂

旧麻布鳥居坂町
東鳥居坂町と鳥居坂町との間の坂が鳥居坂です。これは氷川神社の二ノ鳥居があったためという説もありますが、江戸時代に鳥居丹波守屋敷があったためと思われます。明治5年(1872)に町名を付けるときに坂名をとりましたが、鳥居氏の屋敷の無いほうが麻布鳥居坂町となり、有ったほうが東鳥居坂町となりました(麻布地区の旧町名由来/港区HP)

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坂の風景① 鳥居坂を上ります、坂上には国際文化会館、東洋英和女子学院などがあります

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鳥居坂
江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間16881703)ごろ開かれた道である。(標柱)


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国際文化会館(左)
敷地は江戸時代から幕末にかけて多度津藩(現・香川県丸亀市)藩主京極壱岐守の江戸屋敷であったもので、明治初期に井上馨の所有となった。その後、久邇宮(くにのみや)邸、赤星鉄馬邸、岩崎小弥太邸と変遷し戦後は国有地となっていたが、払い下げられ1955年(昭和30年)に開館した。現在の庭園は岩崎小弥太が京都の造園家「植治(うえじ)」こと7代目小川治兵衛に作庭を依頼し、桃山時代あるいは江戸初期初期の名残りを留める近代庭園の傑作として知られている。庭園は2005年(平成17年)に港区の名勝に指定された。Wikipedia抜粋)

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東洋英和女学院
カナダ・メンジスト教会(現在のカナダ合同教会)婦人伝道会社から派遣された宣教師ミス・カートメルによって1884年(明治17麻布鳥居坂に開設された。キリスト教教育を行なうが入学及び教員の着任に際してクリスチャンであることは求められない。女子高として中高一貫教育が行われており高校からの入学者募集は行われていない。てぃばすの通る道路の反対側に港区麻布地区総合支所(旧麻布区役所)が位置する。Wikipedia

六本木周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22176559/

・・・六本木

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街道の風景② 外苑東通りに出て、東側の谷へ下ります/六本木5付近


外苑東通り

新宿区早稲田鶴巻町交差点(新目白通り交点)から、港区麻布台の飯倉交差点(国道1号交点)に至る道路の通称である。全線が都道319号環状3号線に属しており、神宮外苑の東側を通ることから「外苑東通り」と命名された。港区青山一丁目交差点(国道246号交点)の南側で環状3号線に接続する。新宿区弁天町から新宿区市ヶ谷仲之町の間にかけては片側一車線であり、渋滞が激しいため拡幅事業中である。(Wikipedia

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坂の風景② 坂途中には共同墓地があります、南へ登ります丹波谷坂/六本木

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丹波谷坂
元和年間旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした。(標柱)


・・・永坂

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旧麻布永坂町
町の北の方に「長い坂」があるので永坂町と呼ばれるようになりましたが、長坂氏の居住地があったのが由来という説もあります。東京の坂道の名で一番古く記録にあるのは上野の車坂ですが、その次はこの永坂で明暦3年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』という江戸初期の地図に「なか坂」(昔は濁点を省略した)と書いてあります。(麻布地域の旧町名由来/港区HP)

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坂の風景③ 標柱は旧道に建ちます、下ると麻布十番(一之橋)です

永坂
麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。(標柱)


・・・麻布台

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街道の風景③ 麻布通りを横断します、西側は谷になっています/飯倉片町

麻布通り(415号)
六本木二丁目交差点-古川橋交差点間に「麻布通り」の名が付与されている。これは港区により命名され2014年に都から承諾を受けたものだが、戦後に整備された比較的新しい道路なので広く周知された通称名は特に存在しない。旧来のものとしては道往寺前-伊皿子交差点間に伊皿子坂、魚籃坂下交差点-伊皿子交差点間に魚籃坂、一の橋交差点-飯倉片町交差点間の長い坂に永坂という名称が付いている程度である。Wikipedia

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飯倉片町
飯倉というのは古くからある地名です。昔伊勢神宮の直轄領である屯倉(みやけ)(役所・倉・水田を含む)を置いた跡なのでこの名が起こったといわれています。飯倉片町の起立の時期については飯倉町各丁と同じ頃のようです。「江戸図」には延宝2年(1674)町屋としてみえており、このころから片町と呼んだらしく片側町であったため飯倉片町というようになりました。(麻布地域の旧町名由来/港区HP)


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外務省飯倉公館
首脳会談や外相会談のほか各種会議やレセプションなどの交流活動にも利用されている。吉田五十八の設計で1971年(昭和46)に完成。所在地は港区麻布台1丁目53号だが、名称に冠した「飯倉」はこの地の歴史的名称「飯倉町」に由来する。また江戸時代の幕末期の開国以来の外交資料を保管し展示する外交史料館を併設している。近傍には旧事務次官公邸だった麻布台別館もある。(Wikipedia


・・・麻布狸穴町

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麻布狸穴町(まみあなちょう)
かつては飯倉村と呼ばれていましたが、江戸時代以降おいおい町並みとなり飯倉狸穴町というようになりました。狸穴の地名の由来は諸説ありますが谷あいの土地で古くより木立も繁り魔魅(まみ)(今日の動物学上ではアナグマとされており、タヌキと混同されたこともあったといいます)も住んでいそうな場所であったためと言われています。また、荻生徂徠(儒学者・16661728)は採金、すなわち「まぶ」のなまりとし、享保6年(1721)ごろ黄金のような砂がでましたが、まだ年のたらぬ金だといって掘らなかったと言っています(これは黄色の雲母(鉱物の一種)ではないかと想像されています)。この説は独特のものです(麻布地域の旧町名由来/港区HP)

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坂の風景④ ロシア大使館脇から古川方向へ下ります/麻布台

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狸穴坂(まみあなざか)
まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔そのまぶ)が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。(標柱)









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右手がロシア大使館          坂下から麻布台を望みます

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坂下に狸穴公園があります

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園内には狸穴大明神が祀られています、「狸」じゃなくて狐さんですね・・・・

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街道の風景④ 麻布十番に戻りまた、左にカーブするのが明治通り、右に登るのが麻布通りです/新一ノ橋

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麻布十番周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(橙:中原街道 黄:六本木通り・麻布通り・外苑東通り・明治通り 青:古川)

麻布十番周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22181592/


・・・・
資料ファイル


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麻布区
麻布区は港区の前身(東京市野の行政区)の1つである。1878年(明治11)に郡区町村編成法が施行され、東京府域が156郡に区画分けされた際に発足した。その範囲は今日「麻布」を名前に含む町すべて(麻布十番・麻布台・南麻布など8町)と六本木一丁目~六丁目の町域にほぼ一致する。1947年(昭和22)に港区が発足し麻布区は消滅。この際、旧麻布区域のすべての町名には「麻布」を冠する町名に変更がなされたため(一例、「六本木町」を「麻布六本木町」に変更)住居表示の実施による町名町域統合が行われるまで、麻布地区一帯には「麻布○○町」といった町名が41存在した。麻布永坂町に住む松山善三と麻布狸穴町に住む澤博士の両者の運動により麻布永坂町麻布狸穴町の地名だけが変わらず今日に残っている(ただし両町とも約半分の面積に割譲)Wikipedia)
図:港区等高線マップ(部分)/港区郷土歴史館


by Twalking | 2019-01-28 22:45 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり烏山寺町(2)   

日時 2019.1.16(水)
天気 晴れ


都心から移ってきただけに著名人のお墓も多くあります。
江戸名所図会の長谷川雪旦、浮世絵の喜多川歌麿・・・、
お墓が広いので探すのに苦労しますがお参りさせて頂きました。

また、旧家の建物が移築されているので見応えがあります。
著名なスポットの「鴨池」の静かな佇まいは趣がありますね。
かつての「烏山川」の源泉のひとつ、目黒川へ注いでいます。
今は緑道となっていますが辿ってみたい川筋です。



・・・寺町通り西側

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寺町通り① 寺町通りを左折して西側のお寺を訪ねます

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浄因寺山門

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浄因寺(じょういんじ)
浄土真宗本願寺派に属し本山は西本願寺、山号を「壽光山」という。旧地は麻布三河台(現在は港区六本木3-4丁目の一部)で、開基は1646年(正保3年)没の祐念と伝わる。ただし1695年(元禄8年)の火災で古記録を焼失したため詳細は不明である。第6世住職勝応が1781年(天明元年)に本堂を再建した。関東大震災後の1924年(大正13年)に築地にあった円光寺とともに烏山の現在地に移転した。後に円光寺は熊谷に再移転した。Wikipedia

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善行寺山門


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善行寺(ぜんぎょうじ)
浄土真宗本願寺派に属し本山は西本願寺、山号を「定聚山」という。創建当時は浅草横山町にあり、開基清傳は1640年(寛永17年)に没したという。1657年(明暦3年)に発生した明暦の大火によって本願寺別院浅草御堂ととも全焼し、後に別院に従って築地に移転した。1864年(元治元年)の火災で過去帳を焼失し、関東大震災によって堂宇などもことごとく焼失した。1926年(昭和元年)に烏山の現在地に移転した。
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萬福寺山門


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萬福寺(まんぶくじ)
浄土真宗本願寺派に属し、本山は西本願寺である。創建当時は江戸浜町にあり、1626年(寛永3年)に了信という僧侶が開基となったと伝わる。1657年(明暦3年)に発生した明暦の大火によって全焼した別院浅草御堂に従って築地に移転した。関東大震災によって堂宇や庫裏などをことごとく焼失した。1928年(昭和3年)に烏山の現在地に移転した。
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妙善寺山門

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妙善寺
親鸞が弟子・正円が鎌倉時代伊勢国(三重県)に草庵を建てたのが妙善寺のはじめと伝えられている。江戸時代八丁堀に、その後築地に移ったが関東大震災で焼失、昭和2年現在地に再建した。本尊阿弥陀如来。寺内に為永春水の墓がある。為永春水、江戸末期の人情本作者、本名・佐々木貞高、安政2年江戸に生まれた。天保3年頃より「春色梅暦」「いろは文庫」などを書いて名声を得た。天保改革で風俗を乱すものとして罰せられ、55歳で没した。(世田谷区教育委員会)


・・・寺町通り

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寺町通り② 寺町通りに戻り北へ向かいます/妙寿寺前

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妙寿寺山門

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妙寿寺(みょうじゅじ)
法華宗本門流に属し、山号を「本覚山」という。寛永8年(1631年)に創建した当初は「妙感寺」と号した。当初は江戸谷中清水町(現在の台東区池之端)にあったが後に猿江村(現在の江東区猿江)に寺を移転した。そのときに一度寺号を「妙情寺」と改めたがさらに「妙寿寺」と改めている。関東大震災によって堂宇や寺宝などをことごとく焼失した。1927年(昭和2年)に烏山の現在地に移転した。客殿旧蓮池藩鍋島家住宅で、世田谷区指定有形文化財である。Wikipedia

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妙寿寺客殿

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妙壽寺客殿
世田谷区指定有形文化財 (建造物)本覚山妙壽寺は寛永8年(1631年)江戸谷中清水町に開基された法華宗本門流の寺院です。寛文2年(1662)には深川猿江村に移りました。後に猿江村鎮守稲荷社別当となり、元禄4(1688)にはこれを合併し、以降 明治期・大正期を通じ隆盛しました。その後、大正12(1923)の関東大震災で諸堂宇が焼失し、当地へ移 転することとなり、かつて東京市麻布区飯倉狸穴町(現、港区麻布台二丁目) 蓮池藩鍋島家邸宅にあった二階建ての和風住宅(明治37年築)を昭和2(1927)移築庫裡としました。平成7(1995)には庫裡を別棟で新築し、以後これまでの庫裡は客殿として利用されております。移築の際、二階建ての和風住宅に式台のある平屋の棟を足したようで、それぞれ屋根の形状や使われている木材の材料が異なります.

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二階建て部分は主に柄材を使った贅沢な普請で、内部は一階に座敷や台所を配し、二階には24畳の大広間と12畳の次の間が配されています。二階大広間は一間半幅の床の間と天袋、違い棚の付く床脳、付書院が備えられ、天井は折上げ格天井、壁には難壁長押をまわす書院でこの住宅の上座敷となっています。かつて鍋島家では天井の高い大広間に椅子とテーブルを置き、和室でありながら洋風の接客をしていました。明治中期以降の華族や上流階級の生活様式を建物を通しうかがい知ることができます。客殿は移築当時の姿を良く残しており、意匠や技法にも優れ、島山寺町の初期形成期の歴史を知る上でも重要な建物です。今日このような明治期の遺構は都内では少なくなり、建築史学上貴重な建築であることから、区指定有形文化財に指定されました。(世田谷区教育委員会)


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太田近江大掾藤原正次作の梵鐘
太田近江大掾藤原正次は深川上大島町に居住し金屋六右衛門(通称釜六)とも称しました。茶室などの制作を生業として名をなしましたが、梵鐘も手がけ、区内における作例としては豪徳寺の梵鐘が知られています。妙壽寺の梵鐘は制作年代が享保4(1719)11月で、鐘の表面に「武州葛飾郡本所猿江稲荷別当本覚山妙壽寺」と刻まれています。これは寺がかつて本所猿江村に所在していた重要な記録となっています。(世田谷区教育委員会)

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寺町通り③ 右手に専光寺、山門に旧蹟碑が建ちます

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都旧蹟・喜多川歌麿墓
喜多川歌麿は宝暦39月に生まれ、絵を烏山石燕に学び天明・寛政期美人画浮世絵に新機軸を出しその黄金時代を現出した。また、版画方面に新様式を創始しその作品は遠く海外にまで知られている。文化3920日歿し浅草新堀端専光寺に葬られ、その墳墓は昭和2年寺とともに当初に移された。(東京都教育委員会)

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専光寺(せんこうじ)
浄土宗の単立寺院で山号を「霊照山」という。1604年(慶長9年)の創建時品川、後に馬喰町浅草新寺町と移転した。関東大震災によって堂宇や庫裏などをことごとく焼失した。1927年(昭和3年)に烏山の現在地に移転した。1945年(昭和20年)の空襲で本堂と庫裏を全焼した。1958年(昭和33年)本堂を再建した。境内墓地には浮世絵師として知られる喜多川歌麿の墓があり「歌麿寺」の通称で知られる。
Wikipedia

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喜多川歌麿墓
喜多川歌麿(1763-1806)は江戸時代中期の浮世絵師で浮世絵喜多川派とされています。出生地についてはいくつかの説があり、出生年も定かではありません。大首絵と呼ばれる美人画で当時人気を得ました。歌麿の作品は天明・寛政期の浮世絵版画の黄金時代を築きました。また、歌麿の作品はフランス印象派の画家たちに強い影響を与えたことでも有名です。文化元年(18069に「太閤五妻遊」を描き入牢に処せられました。文化3年(1806)に無くなり浅草専光寺に葬られましたが、関東大震災後の区画整理により昭和3年(1928)に現在の場所にが移されました。(東京都教育委員会)

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永願寺山門


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永願寺(えいがんじ)
浄土真宗大谷派に属し本山は東本願寺、山号を「横河山」という。開基である浄順は越後高田の武家の出であったが、出家して1617年(元和3年)神田にこの寺を建立した。代々の住職は「横河」姓を名乗り、山号も横河山としていたが、12世住職昇寂は現在の「司馬」姓に改め以後の住職もそれに倣った。14世住職専照のとき、関東大震災によって大きな被害を受けたが本尊(阿弥陀如来立像)や過去帳などは難を逃れた。1936年(昭和11年)に烏山へ移転した。(Wikipedia)

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寺町通り④ 左手に高源院、寺町の北の外れに位置しています

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高源院山門


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高源院(こうげんいん)
臨済宗大徳寺派に属し本山は大徳寺、山号を「瑞泉山」という。開基は筑後久留米藩の第4代藩主・有馬頼元で開山として大徳寺の怡渓宗悦を迎えた。1703年(元禄16年)の創建で、旧地品川であった。1893年(明治26年)に無住となり本寺であった祥雲寺の住職が兼務することとなった。1936年(昭和11年)復興のために現在地に2000坪の土地を購入した。その際寺院の敷地内に泉水を掘り中央に弁天堂を建立した。この泉水1984年(昭和59年)に「烏山の鴨池」として「せたがや百景」に選定された。Wikipedia
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世田谷百景-
烏山の鴨池

『寺町の北の外れにある高源院の鴨池には秋も深まるとたくさんの鴨が飛んでくる。コガモ、カルガモ、マガモなどが浮御堂を映した水面を泳ぐ。夏には睡蓮などが咲き乱れ赤い欄干にもたれていつまでも見飽きない。湧き水の涸れることのないこの池は地域住民の環境協定で守られている』(せたがや百景紹介文)

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宙水とは
地表に降り注ぐ雨水の一部は地中に浸透しその多くはローム層を通過してさらに下位の砂れき層中の本水を滋養します。しかしローム層中に粘土質等の水を通し難い層(難透水層)が介在する場合には、水が地中で局地的に受け止められる結果、本水より地表に近い位置にも地下水が分布します。これが宙水です。宙水は区内のどこでみでも存在する地下水ではなく、武蔵野台地の限られた地域に地形や地質などの条件により分布しており、水の得やさの面から古来より集落の立地と密接に関わってきました。(烏山寺町ひとくちメモ/ぶらり散策マップ)


・・・松葉通り

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松葉通り 寺町通りの西側のこの通りにもお寺さんがあります/松葉通り高架下

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順正寺山門


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順正寺(じゅんしょうじ)
浄土真宗本願寺派に属し本山は築地本願寺、山号を「高柳山」という。本尊は恵心僧都作とされる阿弥陀如来立像。創建は室町時代中期に遡り当時は赤坂一ツ木にあった。1618年(元和4年)に焼失し1624年(寛永元年)に再建された。そのため当時の住職了円を中興開基とする。1655年(明暦元年)に鮫河橋(現在の新宿区若葉23丁目、南元町一帯)に移転し、1721年(享保6年)に千駄ヶ谷に再移転した。1928年(昭和3年)千駄ヶ谷から烏山の現在地に移転した。
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西蓮寺山門


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西蓮寺(さいれんじ)
浄土真宗大谷派に属し本山は東本願寺、山号を「白鳥山」という。1597
年(慶長2年)に武蔵国豊島郡桜田(現在の警視庁付近)に創建され、60年余りその地にあった。大名屋敷造営のために西久保天徳寺門前(現在の港区虎ノ門3丁目)に代替地を与えられた。1655年(明暦元年)に麻布三田村(現在の慶應義塾大学三田校舎の前)に移転した。1935年(昭和10年)内務省の都市計画事業によって寺域の大半が道路敷地として収用されることになったため、1938年(昭和13年)に現在地への移転を決め193964日に遷仏徒座の式を執り行った。
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常福寺山門


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常福寺(じょうふくじ)
顕本法華宗に属し本山は妙満寺、山号を「法立山」という。創建は1511年(永正8年)で当時は浅草新鳥越町にあった。後に浅草吉野町(現在の台東区今戸2丁目)に移転したが、関東大震災によって堂宇や寺宝などをことごとく焼失した。1928年(昭和3年)3月に都市復興計画によって烏山の現在地に移転した。墓地には江戸時代の狂歌作者として知られた扇屋墨河(別名:棟上高見)とその妻でやはり狂歌作者であった扇屋稲木(別名:垢染衣紋)の墓(鈴木家累代の墓)がある。

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八相狸の由来
笠:思わざる悪事災難を避けるため用心常に身をまもる笠 目:何事も前後左右に気を配り正しく見つむることな忘れめ 顔:世は広く互いに愛想よく暮らし災を以って務めはげまん 徳利:恵まれし飲食のみにこと足利て徳はひそかに我につけん 御通:世渡りは先ず信用が第一ぞ活動常に世通八達 腹:もの事に落ちつきさりながら決断力の大胆をもて 金袋:金銭の宝は自由自在なる運用をなせ 尾:なに事も終わりは大きくしっかりと身を立てるこそ真の幸福(石碑)

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玄照寺山門


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玄照寺(げんしょうじ)
日蓮宗に属し本山は身延山久遠寺、山号を「常徳山」という。創建は1614年(慶長19年)で当時は芝白金にあった。開山の日延は李氏朝鮮国国王子臨海君である。1592年(文禄元年)文禄の役で臨海君と順和君は加藤清正に引き渡されて捕虜となった。後に講和の条件として釈放され臨海君の2子(姉弟)が日本に迎えられた。清正は2子を愛育し、弟は長じて僧籍に入り玄照寺の開山となった。姉は備中庭瀬藩主・戸川達安の側室として迎えられ、以後戸川家は玄照寺の有力な檀越となったと伝わる。1689年(元禄2年)に不受不施派禁圧により碑文谷法華寺の末寺から身延山久遠寺の直末となった。1927年(昭和2年)烏山の現在地に移転した。Wikipedia

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妙揚寺山門

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妙揚寺(みょうようじ)
日蓮宗に属し本山は身延山久遠寺、山号を「自然山」という。創建は1612年(慶長17年)7月といい、開山は自然院妙揚法尼という尼僧である。妙揚法尼は夫の死後出家して谷中の感応寺の庵に住んだ。感応寺は1698年(元禄11年)11月の不受不施派禁圧の影響で天台宗に改宗となり、翌年3月に妙揚寺は感応寺の門末から身延山久遠寺の末寺となった。一時期衰微したものの江戸時代の末に復興を見た。旧地は谷中芋坂(現在の鶯谷駅付近)だったが、明治時代末期に鉄道敷設のため境内地の一部を国に譲渡し、さらに大正時代の末に現在地に移転することとなって1928年(昭和3年)1月に完了した。Wikipedia
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源良院山門

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源良院(げんりょういん)
浄土宗の単立寺院で山号は「向旭山」という。かつては神田の西福寺の塔頭であり、1659年(万治2年)に神田山幡随院新知恩寺内に移転したが度重なる火災によって古記録を焼失した。関東大震災の前は浅草神吉町(現在の台東区東上野)にあったが、震災後の区画整理によって1925年(大正14年)75日と1926年(大正15年)615日に烏山の現在地を購入し、1932年(昭和7年)に移転を完了した。移転当時の寺号は「神田山向旭院」といった。向旭院は烏山への移転に際して源良院合併した。1975年(昭和50年)の本堂落成を機に「向旭山源良院」と寺号を改めている。Wikipedia

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観音堂                揚柳観音菩薩

楊柳観音
(ようりゅうかんのん)
三十三観音の一。病苦からの救済を使命とする。右手に柳の枝を持つことにより楊柳観音と呼ばれる。この観音は画像に描かれる例が多く絵画では座右の水瓶に柳の枝をさすこともある。Wikipedia

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烏山周辺案内図
(赤:烏山寺町通り・松葉通り 橙:旧甲州街道 緑:中央道 青:仙川・玉川上水・神田川)

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烏山周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:烏山寺町通り 橙:旧甲州街道 青:玉川上水・神田川)

烏山寺町(1)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27403962/

by Twalking | 2019-01-20 15:18 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり烏山寺町(1)   

日時 2019.1.16(水)
天気 晴れ


千歳烏山と言えば「寺町」が著名です。
前々から一度訪ねてみたいと思っていました。
烏山支所で用を済ませてぶらりと散策しました。

26寺もあるので見所はたっぷりですが、
下調べをしといた方がよさそうですね・・・、
ひとまず地図を片手に行き当たりばったりで歩いてみました。


・・・烏山

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街道の風景①「えるも~る烏山商店街」を北へ向かいます/区民センター前

烏山(からすやま)
現行行政地名は北烏山一丁目から北烏山九丁目と南烏山一丁目から南烏山六丁目。京王線千歳烏山駅周辺は烏山地域の商業及び行政の中心地区。また、千歳烏山駅より一駅上ると芦花公園駅南部甲州街道沿いの集落が起源で、北部は主に「烏山寺町」が契機である。こうしたことから北部は「久我山」「三鷹」を称する施設が散見されるなど千歳烏山駅周辺とは異なる特色がある。南北朝時代から見られる地名。の群生するがあったためか、烏色とされる黒土が山状に盛り上がった地であったことからと思われるWikipedia

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烏山小学校跡碑/烏山区民センター
烏山小学校は明治6年温知学舎と称し開校す(元御嶽神社・白山神社、烏山神社北側念仏堂跡)明治8年烏山小学校と改称す。同42年旧甲州街道北側に移る。大正7年火災により全焼、同9この地に移転。それ以来40余年児童の増加に伴い、校地校舎が狭く周辺の繁華は必ずしも教育に適さず、地域の人々の多年に亘る念願により昭和393給田の地に移す。(碑文)

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旧甲州街道横断し烏山交番横通りへ   石屋さんにマップがあります

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烏山寺町案内マップ

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甲州街道を横断            烏山寺町通り/妙高寺前

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妙高寺山門

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妙高寺(みょうこうじ)
日蓮宗に属し本山は身延山久遠寺、山号を「玄立山」という。旧地は浅草橋場(現在は台東区橋場の一部)で、関東大震災後1926年(昭和2年)に烏山の現在地に移転した。創建1625年(寛永2年)4月にさかのぼり、首玄院日立が浅草今戸に開山したと伝わる。『御府内備考続編』という資料には「安房国長挟群小湊生誕寺末 浅草橋場町 原立山妙高寺境内1129坪、内360坪御除地、760坪年貢地、外780坪持添年貢地(中略)塔中通玄院 当時廃寺(後略)」と記述されていた。1771年(明和8年)に火災による類焼被害を受け1809年(文化6年)に再興したという。

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中興開山は徳川幕府第11代将軍徳川家斉の時代で、第7世住職日真の頃である。天保の改革を推進したことで知られる老中水野忠邦が帰依し、その嫡子である水野忠精が4000坪の地所と七堂伽藍を寄進して、以後妙高寺は水野家の江戸における祈願所の役割を担うことになった。その後1922年(大正11年)5月に失火による火災を起こし、翌1923年(大正12年)91日には関東大震災に遭遇して寺宝などを焼失した。震災当時の住職は第27世吉田勝碩で、震災後の1927年(昭和2年)に烏山の現在地に移転し、本堂を建立している。次の第28世住職吉橋海要は、庫裡の建設と書院の移築を行った。この書院旧有栖川宮邸書斎を移築したものである。Wikipedia

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墓地
妙高寺には
水野家の帰依を受けた縁によって水野忠精やその子忠弘を始めとした水野家代々の墓がある。ただし忠邦は国元の山形に葬られているという。墓地の入り口付近には江戸時代中期の尊王論者として知られる藤井右門が葬られている。1766年(明和3年)藤井は謀反人として捕えられ翌1767年(明和4年)に獄門に処せられた(明和事件)。その他に日本画家の速水御舟、今村紫紅、小村雪岱、漆工家・蒔絵師の川乃邊一朝なども妙高寺に葬られている
Wikipedia


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寺町通り① 中央高速道路を渡ると寺町です、高架下に案内板があります

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烏山寺町
千歳烏山駅から北へ出て旧甲州街道をすぎ、更に進んでいくと烏山寺町の南端に入ります。途中中央高速道路が横切っていますが、そこからはさながら京都の寺院町の一角にでも入りこんだかと思うほど道の両側に寺院が立ち並んでいます。烏山寺町の起こりは大正13から始まりました。ほとんどの寺院は都心であり、関東大震災の被害にあたり震災後その土地の大部分が震災復興のため区画整理にあたり移転を余儀なくされ、当地に昭和4にかけて22寺が移転して来たものですが、現在寺町は26で形成されております。移転当時は山林荒地でしたが、その後寺町周辺は都会的な発展をみせて急速に変貌してきましたが、ここ烏山の寺町の移転当時の姿をとどめ、静かに清らかな雰囲気をかもしだしています。(案内板)

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寺町通り② 右手が多聞院、左手が乗満寺です/寺町通り2番

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多聞院山門

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多聞院(たもんいん)
真言宗豊山派に属し本山は長谷寺、正式名称は「金剛山 悲願寺 多聞院」という。創建1615年(元和元年)で、開山は述誉(1628年・寛永5年寂)である。旧地は甲州街道沿いの角筈村(現在の新宿区西新宿1丁目)で、村の名主である渡辺与兵衛が寺地を寄進して創建したと伝わる。『新編武蔵風土記稿』巻之十一、豊島郡之三、角筈村の項では「多聞院新義真言宗。江戸大塚護国寺末。金剛山慈願寺[ママ]ト号ス。(中略)本尊地蔵ヲ安ス(後略)」とあり江戸時代は護国寺末寺であった。

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旧地に存したときは甲州街道の北側に面した大きな寺院であった。新宿駅の南口から徒歩で十数分の交通至便な地域で、寺の西側には淀橋浄水場、北側には工学院と精華高等女学校などがあった。1945年(昭和20年)525日の大空襲の被害に遭って本堂、庫裡、大師堂などの堂宇はもとより、蔵していた文化財も全て焼失した。焼失後しばらくは旧地に仮本堂を建てていたが、1949年(昭和24年)に東京都が実施した区画整理事業の対象となってまず墓地を烏山の現在地に移転した。さらに1954年(昭和29年)には本堂と庫裏も現在地に再建した。多聞院は「烏山寺町」を構成する26の寺院の中では最後に烏山に移転してきた寺院である。この寺院は御府内八十八ヶ所霊場3番札所、玉川八十八ヶ所霊場44番札所と定められているWikipedia

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天竺渡来石彫涅槃図由来
この石彫涅槃図は奈良・壺阪寺より寄贈されました。壺阪寺(つぼさかでら)は浄瑠璃「壺阪霊験記」のお里・沢市との物語で名高く、昔から盲人の故呈として広く信仰されているところです。多聞院先々代中興・教荘和尚は壺阪寺住職として在職中、世界に先駆けて養護盲老人ホーム「慈母園」を昭和36年に開設し社会福祉の実践を教えられた。昭和58年長年に亙る救ライ活動に感謝の意を込めてインド政府より高さ20m、重さ1200tの大観音石像が延べ8万人のインドの人たちの協力のもとに製作され壺阪寺へ贈られ、同寺の「匂いの花園」から見上げる台地に建立されました。この日印協力の事業の輪が大仏伝図(高さ3m、延長50m)へと発展して行ったのであります。

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大仏伝図(涅槃図)は教荘和尚、博一和尚への報恩のため遺弟(壺阪寺住職常盤勝憲和尚)がインド政府に特に依頼し製作されたものです。涅槃とはサンスクリット語(梵字)のニルヴァーを音訳して出来た言葉で、智慧完成するさとりの境地のことです。涅槃像はお釈迦さまが入滅なされたお姿をあらわしたものです。この石彫涅槃図はインドのデカン高原に産出されるシーラーの名石を使いインドの文化勲章受章者マイソール大学名誉教授シエノイ博士が中心となり、南インドの彫刻師達によって製作されたものです。従来インドでは仏は「不表現」が習慣で、仏足跡あるいはストゥーパ(塔)によって仏を象徴してきましたが、ギリシャ彫刻などの影響をうけガンダーラ仏像の製作が始まり、特に仏伝図はインドの石造芸術の中に多くみられます。昭和615月吉日建立(碑文)

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仏足石(跡)
仏足石はお釈迦さまの足の裏の相です。その昔、お釈迦さまが人々の前で説法される時、多くの人々に自分の姿が見えるように岩や石の上に立ってお話をなさいました。説法が終わりお釈迦さまがお帰りになった後も石の上に足の相が残っており、人々はその足跡をそのまま石に刻み、あり難く拝んできました。その数百年後を経てはじめてお釈迦さまの像が作られるようになったと言われています。私たちが礼拝する仏さまの「基」が仏足石です。その文様の一つひとつにお釈迦さまの慈悲の心と尊い教えが込められています。(説明板)

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南法華寺(壺阪寺)
奈良県高市郡高取町にある真言宗系の単立寺院。山号は壺阪山。一般には壺阪寺(つぼさかでら)の通称で知られる。703(大宝3年)創建と伝え、西国三十三所第六番札所。本尊十一面千手観音菩薩は眼病に霊験があるといわれ、お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃『壺阪霊験記』の舞台としても有名。園内には養護盲老人ホーム慈母園があり、他にも国の内外で福祉事業を展開している。インドでの救ライ事業への尽力に対する返礼として19833月に贈られた「天竺渡来大観音像」は大理石造り、高さ約20m、総重量1200tの壮大なもの。その他、インド渡来のものとしては石像大仏伝図、天竺渡来大石堂がある。京都の清水寺北法華寺に対し南法華寺といい、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた。Wikipedia

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延命地蔵               石仏群

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乗満寺山門


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乗満寺(じょうまんじ)
浄土真宗大谷派
に属し本山は東本願寺、山号を「野條山」という。創建は古く蓮如の北国巡化に際して加賀国の真言宗寺院・林松寺住職道祐和尚が帰依したのが始まりである。その後大坂、伏見、駿河、江戸車坂と移転を重ね、中興4世受学和尚の代に「乗満寺」と改名したと伝わる。後に浅草松葉町に移転し関東大震災後の大正13年(1924年)に烏山に再移転した。Wikipedia

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寺町通り③ 左手は幸龍寺、右手に常光寺、源正寺と続きます

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常栄寺山門

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常栄寺(じょうえいじ)
浄土真宗本願寺派に属し本山は西本願寺、山号を「鳥越山」という。寺伝によれば1世は1639年(寛永16年)寂の正教という僧である。創建当時は浅草鳥越に位置し、1617年(元和3年)に本願寺築地別院の前身浅草御堂が浅草横山町に創建した際、一緒に移転したと伝わる。1657年(明暦3年)に発生した明暦の大火によって別院とともに全焼し築地に移転した。築地移転後も度々火災に遭い、関東大震災罹災後の1924年(大正13年)に烏山に移転した。Wikipedia

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源正寺山門

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源正寺(げんしょうじ)
浄土真宗本願寺派に属し本山は西本願寺、山号を「弥勒山」という。創建は1277年(建治3年)というが当時の所在地は不明とされる。1662年(寛文2年)江戸築地に移転した。関東大震災罹災後に築地の旧地に仮堂を建立したが、区画整理の対象となったために1932年(昭和7年)に烏山に移転した。所在地は北烏山4-14-1Wikipedia

釜六の天水桶
源正寺にある天水桶で、第二回せたがや地域風景資産に選定されました。江戸神田に住んだ名鋳物師釜屋六衛門の作品です。(写真右手)

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幸龍寺山門


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日蓮宗妙祐山幸龍寺(こうりゅうじ)
幸龍寺の創建は天正7年(1579徳川家康浜松城主の時、正心院殿日幸(秀忠の乳母)の願いにより、玄龍院殿日偆(にっしゅん)を招いて城下の半頭町(はんとうまち)に伽藍を整え、祈願所として開山されたことに始まると伝えられています。後に家康が駿府へ移ると寺も移転、更に天正18年(1590)家康の関東入国の翌年、神田湯島3丁目に移りました。2代将軍秀忠は正室常源院殿懐妊に際し安産を祈願、無事に世嗣家光が誕生すると鬼子母神像などを寺へ奉納しました。つづく家光浅草に約8000坪の土地を寄進し寺は神田湯島から移転しました。5代将軍綱吉はさらに2500坪の境内地を寄進し、3代将軍家光の側室・順正院殿6代家宣の祖母)の廟所を設け、幸龍寺は徳川家の香華院の列に加わり日蓮門下江戸五山の一つに数えられるほど隆盛しました。大正12年(1923)の関東大震災により現在地へ移転し今日に至っています。墓域には順正院殿墓、旧唐津藩主・小笠原家累代墓所、「江戸名所図会」の挿絵師長谷川雪旦、雪提父子の墓、江戸後期の随筆「嬉遊笑覧」の著者・喜多村筠庭(いんてい)の墓があります。(世田谷区教育委員会)

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清正公堂

境内にある堂宇のうち清正公堂山門は関東大震災の被害を免れて当地に移築されたもので、ともに天保年間の作と伝わる。清正公堂の天井には小室秋興ほか数名による板絵(花鳥、山水など伝統的な画題を扱う)が合わせて78描かれている。
Wikipedia

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浄行菩薩               鐘楼

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さざれ石
この石は学名を石灰質礫岩と云います。石灰石が雨水に溶解して粘着力の強い乳状体となり地下に大粒の石、小粒の石を集結して次第に大きくなったものであります。後にこれが地上に出て国歌に詠まれているごとく「千代八千代」の年月を経て「さざれ石の巌」となって「苔のむす」という、団結と繁栄、平和と長寿の象徴謳歌した誠にめでたき石であります。特に石は「日本発祥の地」と云われる岐阜県揖斐郡春日村の山中より産出したもので、集結の行程がこの石を一見してよく知ることができます。(説明板)

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長谷川雪旦墓
江戸時代
後期の絵師。姓は金沢名は宗秀。通称は茂右衛門または長之助とも称した。息子の長谷川雪堤(せってい)も絵師。江戸出身。唐津藩士の子。住居は下谷三枚橋(現在の台東区)。文政元年(1818)唐津藩主小笠原長昌に従い唐津に赴いていることからこの少し前に唐津藩の御用絵師になったものと推測され今も唐津には雪旦の作品が相当数残っている。この他にも雪旦はしばしば各地を旅しその土地の名所や風俗のスケッチを多く残しており、こうした態度が『江戸名所図会』を生み出す土壌になったと言える。天保5年から7年に刊行された『江戸名所図会』では650にも及ぶ挿絵を描き名声を得る。天保14年(184366歳で没す。浅草の幸龍寺(関東大震災後に世田谷区北烏山に移転)に葬られる。Wikipedia

江戸名所図会

江戸時代後期の天保年間に斎藤月岑(げっしん)が720冊で刊行した鳥瞰図を用いた江戸の名所図会(地誌紀行図鑑)。長谷川雪旦挿図も有名。神田の町名主であった斎藤長秋(幸雄)・莞斎(幸孝)・月岑(幸成)の3代にわたって書き継がれたもの。前半13巻(10冊)は1834年、後半47巻は1836年(天保7年)に刊行された(全720冊)。日本橋から始まり江戸の各町について由来や名所案内を記し、近郊の武蔵野、川崎、大宮、船橋などにも筆が及んでいる。江戸の町についての一級資料である。幸雄・幸孝・幸成三代の墓所は上野の法善寺にある。神田司町2丁目には月岑記念碑(淡路町交差点と神田児童公園の中間)がある。Wikipedia



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寺町通り④ 在明寺角を右折すると松葉通りに抜けられます/寺町3番
 
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存明寺山門


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存明寺(ぞんみょうじ)
浄土真宗大谷派に属し本山は東本願寺、山号を「桜田山」という。1647年(正保4年)に武蔵国豊島郡桜田(現在の警視庁付近)に創建され、後に芝金杉を経て1898年(明治31年)に麻布区麻布富士見町(現在の天現寺橋付近)に移転した。関東大震災罹災後に境内地のほとんどが道路に接収されたため、残された土地に存明寺麻布説教所を設けた。この説教所は佑浩寺(港区南麻布4-2-38)という寺院となって現存する。1927年(昭和2年)に烏山の現在地に移転した。Wikipedia

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称往院山門

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一心山極楽寺称往院(浄土宗)
当寺派は慶長元年(1596)白誉称往上人により湯島に創建されたが、明暦の大火で浅草に、更に関東大震災により昭和2年当地に移転した。本尊は丈六の弥陀如来である。浅草のころ当寺は寺内の道光庵主のつくるそばが有名となり「そば切り寺」として知られたが、修行の妨げいなるとして文明6年(1786)「そば禁制」の碑が当寺住職により建てられた。この碑は旧庵にあった俳人・室井其角の句碑・墓とともに現在当寺に残されている。(世田谷区教育委員会)

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「夕立や法華かけこむ阿弥陀堂」    榎本東順(父)と其角の墓碑

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妙祐寺山門


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妙祐寺(みょうゆうじ)
浄土真宗本願寺派に属し本山は西本願寺、山号を「天護山」という。1286年(弘安9年)創建時一遍建立による時宗の寺院で天護山円証寺と称した。大永年間(1521-1527年)兵火により廃絶したが、1625年(寛永2年)に浄土真宗の僧了頓が渋谷の地で阿弥陀仏像を発見し、これを本尊として満歳山学恩寺として再興した。1677年(延宝5年)幕府への願いにより寺号を妙祐寺と改め、同時期に山号も天護山に復した。1937年(昭和12年)に地下鉄銀座線の工事により墓地の一部を烏山に移転し、1945年(昭和20年)525日に空襲の被害を受けて堂宇を焼失し、1948年(昭和23年)とその翌年にかけて現在地に移転した。Wikipedia

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永隆寺山門

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永隆寺(えいりゅうじ)
法華宗本門流に属し本山は本能寺、山号を「春陽山」という。開基の日義は徳川家康の囲碁の師匠だったといい、家康から神田鍛冶橋に土地を拝領してこの寺院を創立した。その後谷中清水町、本所出村と移転を重ね、関東大震災後の1928年(昭和3年)に烏山の現在地へ移転するまでの237年間、本所大平町にあった。本城大平町の旧知は地盤が効くてしばしば水害に遭い古記録などを失ったという。Wikipedia

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鶏塚
文政の頃ほうそうが流行したときに、中国の人から卵のカラから薬を作ることを教えられ、20
年にわたり作り続けた。その供養として建てられた。(ぶらり散策マップ)

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烏山周辺地図(赤:寺町通り 橙:旧甲州街道 紫:松葉通り・烏山通り 跡:玉川上水・神田川)


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資料ファイル


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江戸時代の烏山村
「新編武蔵風土記稿」には、人家は甲州街道沿いと周辺に散在し、水田はわずかに1分で陸田は9分と記されています。このように江戸時代の烏山は畑地を中心とした農村でした。街道両側の土地は短冊形に地割りされていたのが特徴でしたが、町場とは異なって街道から奥まって住まいが配置された農家として屋敷取りでした。しかし、烏山村は「間の宿」とも呼ばれ、街道を行き来する旅人を相手にする草履屋、饂飩屋、蕎麦屋、水茶屋など農間商人の出現が早かったようです。(烏山寺町ひとくちメモ/ぶらり散策マップ)


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寺町の成り立ち
明治21東京市区改正条例により東京市街地の区画改正や都市施設の改善計画が決定し、この時市中にあった墓地の郊外移転も課題となりました。大正8都市計画法によって事業が推進される中、関東大震災(大正12年)が起こり、復興のために事業が急がれました。当時内務大臣だった後藤新平帝都復興院を設立し計画策定にあたりました。その後計画は内務省復興局に引き継がれました。このような経緯から、自然豊かで広大な烏山に浅草、築地、本所、深川などの寺院が移転し寺町が形成されました。太平洋戦争、高度成長期を経て農村だった世田谷地域も都市化の波にのまれ住宅地化が進みました。周囲が急速に変わる中、烏山寺町は静かなたたずまいを保ち緑あふれる安らぎの地となっています。(烏山寺町ひとくちメモ/ぶらり散策マップ)


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烏山寺町
寺院移転が始まる以前、この一帯は東京府北多摩郡千歳村大字烏山の字松葉山大野窪丸山と呼ばれていた。千歳村の中心部にあたる甲州街道から1km余り隔たっていたため、村はずれの一画として扱われていたという。民家はほとんどなく雑木林畑作地、桑畑、ススキの生い茂る荒地などが広がり、現在の寺院通り沿いに建つ人家はわずかに2-3軒程度であった。この地に多くの寺院が移転してきたのは、ほとんどが関東大震災の発生を直接的な契機とする。東京市中の浅草、築地、本所、荒川などにあった寺院の移転については、震災の前から計画されていた東京市の都市基盤の整備とも密接に関わっている。

2010年(平成22年)に世田谷区立郷土資料館が発行した図録『烏山寺町8-9頁によると、東京市内からの寺院移転はその時期によって2に大別されるという。11888年(明治21年)の東京市区改正条例の公布に始まり1919(大正8年)の都市計画法の公布までの期間で、この時期には上高田(中野区)、梅里松ノ木高円寺南(いずれも杉並区)などの寺町が形成された。21923年(大正12年)の関東大震災発生から1929年(昭和4年)頃までの期間で、この時期に形成された寺町は東伊興(足立区)、萩中(大田区)、立石(葛飾区)、松原(世田谷区)、谷原若葉町(いずれも調布市)、練馬(練馬区)などがある。烏山寺町2に形成されたものである。烏山に移転してきた寺院は築地や浅草から移転してきた寺院が多かった。その他に下谷・深川・麻布・三田・品川・白金など東京市内各所からも寺院が移転している。Wikipedia抜粋

by Twalking | 2019-01-19 22:13 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり世田谷-勝光院&豪徳寺   

日時 2018.12.15(土)
天気 晴れ


ボロ市を切り上げて桜周辺をぶらりと歩いてみました。
勝光院は住んでいた所の近くにあり、当時も時々
境内を散歩しましたが、いつ来ても癒されるお寺さんです。

豪徳寺周辺は通学路、世田谷城城址を通って通っていました。
豪徳寺は紅葉の名所、盛りは過ぎていましたが名残があり、
閑静な境内はやはり落ち着ける空間です。


・・・光勝院

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勝光参道 正面に山門、左手に吉良氏の墓地があります

勝光院
世田谷区にある曹洞宗の寺院。臨済宗建長寺派。山号は延命山。世田谷領主・吉良氏菩提寺。勝光院は旧世田谷村の字桜木と呼ばれた地域に位置し、現在の桜の区域全体はこの寺の寺領であった。心源院(八王子市下恩方町に現存)の末寺で、1335(建武2年)吉良治家(あるいは吉良頼氏)の創建と伝えられる。山号を金谿山(もしくは與善山)と称し寺号は「龍鳳寺」といった。1573(天正元年)に吉良氏朝が父・頼康の菩提を弔うために小机(横浜市港北区小机町)の雲松院から曹洞宗の僧である天永琳達を招いて再興し、頼康の法名にちなんで「勝光院」と改称して曹洞宗に属することとなった。徳川家康が関東に入国した後に30石の朱印地を与えた記録が残っていることから、旧吉良氏領内で最も格式の高い寺院といわれる。このとき世田谷で他に朱印地を与えられた寺社は勝国寺12石、宮坂八幡社(世田谷八幡宮)11石、満願寺が13石で勝光院の30石は破格の待遇であった。Wikipedia


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山門

境内
勝光院に向かう
参道は約150mの長さがあり、かつてはその両側にソメイヨシノの並木が植栽されていた。境内は参道に沿って左側に墓地があり、山門が中ほどに建っている。階段を上り切ると右手には鐘楼がある。本堂は東向きにあり、右側に庫裡、その奥に書院が配置されている。本堂はかつて茅葺きであったが1954年(昭和29年)に瓦葺きに改修された。書院の南西面に枯山水が作庭され、さらに中庭に石庭がある。本堂の左手奥に開山堂、手前には客殿が建てられているがいずれも時代的には新しいものという。
Wikipedia

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階段を上り本堂へ              山門脇のお地蔵さん

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本堂

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庫裡(写真は過去のものです)

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書院復元平面図(説明板)          見事な灯籠です

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梵鐘
鐘楼にある梵鐘は1698(元禄11年)の作で、総高144.5cm、口径は75cmを測る。勝光院13世住職・隆山伝盛の代に同志1000人を募って八王子の鋳物師・加藤太郎兵衛吉高が鋳造したもので、世田谷区内に伝わる梵鐘としては2番目の古さである。第二次大戦中の1944年(昭和19年)に軍の命令によって供出されたが、鋳つぶしを逃れて葛飾区の金蓮院に保存されていた。梵鐘は1977年(昭和52年)に返還され、翌1978年(昭和53年)に東大寺の鐘楼を模して新たな鐘楼が建造された。この梵鐘は2000年(平成12年)に世田谷区指定有形文化財(工芸品)に指定された。Wikipedia

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本堂から山門の景観、これは素晴らしいです


勝光院の境内は緑豊かで古木や大木になった庭木が見られる。よく手入れされた竹林と竹垣のある風景は「宮ノ坂勝光院と竹林」として「せたがや百景」に選定された。モウソウチク(群):この竹林は世田谷城の防備の一つとして配されたものといわれる。都市化の進展による開発のため竹林は減少の一途をたどっている。勝光院の竹林は植生の密度や林床の管理が行き届いている。
Wikipedia

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吉良氏歴代の墓地(写真は過去のものです)

吉良氏は
清和源氏・足利氏支族で、三河国吉良荘より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、14世紀後半、治家の代に世田谷居館を構えたと伝えられる。室町・戦国期を通じて吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り世田谷地域を支配していた。16世紀、頼康・氏朝の代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。関東が徳川氏の支配下に入ると氏朝の子・頼久は上総国寺崎村に所領を移され、以後吉良氏は旗本として幕末まで存続したが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺であった。勝光院は天正元年(1573)氏朝の中興開基で、吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の一族の墓が所在する。全28基と墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。(世田谷区教育委員会)

大山街道・上町周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22619327/



・・・豪徳寺

豪徳寺
世田谷区の中央部に位置し、周囲を赤堤・松原・梅丘・世田谷・桜・宮坂の各町に隣接する。「招き猫」伝説で知られる豪徳寺がある。町域北部を横断する北沢川緑道や南辺の烏山川緑道はそれぞれ暗渠化化した北沢川や烏山川の上部を緑道に造成したものである。町名は1966年(昭和41年)の住居表示実施時に寺の名前から地名が付けられた。Wikipedia

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豪徳寺参道

3回地域風景資産登録(平成25年度)豪徳寺の参道松並木
世田谷城主吉良氏の創建で、江戸時代には彦根藩井伊家の菩提寺となった豪徳寺は、井伊直弼の墓や招き猫の寺としても世田谷の観光資源の1つである。松の巨木がつくりだすトンネルの様な参道の並木は、豪徳寺と一体となって風格のある風景を生み出している。(世田谷区HP)

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山門

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豪徳寺
豪徳寺は世田谷城主・吉良政忠が、文明121480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳院を前身とする。天正121584)中興開山門奄宗関(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。寛永101633彦根藩世田谷領の成立後、井伊家菩提寺に取り立てられ、藩主直孝法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘・掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修埋菩薩像、及び石灯籠二基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。境内には直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道、近代三大書家の随一日下部鳴鶴(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。また同寺の草創を物語る洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝靡印塔が残されている。(世田谷区教育委員会)

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仏殿(世田谷区指定有形文化財)
井伊直孝の娘・掃雲院が父の菩提を弔うため延宝5年(1677)に建立

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法堂(本堂)

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三重塔 平成18年(2006)に落成したものです

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招福堂

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せたがや百景-招き猫の豪徳寺
井伊家の菩提寺。幕末の大老井伊直弼の墓もここにある。区内有数の名刹で、広い境内には江戸開府のころ「オイデオイデ」の手招きで井伊直孝を危険から救ったという招き猫の伝説招福堂や鐘楼、本堂が立っている。福を呼ぶ招き猫が門前で売られている。(せたがや百景公式紹介文)

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彦根藩主井伊家墓所(国指定史跡)
清涼寺(滋賀県彦根市)・永源寺(東近江市)の墓所と共に指定。井伊直弼(なおすけ)墓(東京都指定史跡)

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世田谷城周辺(平成9・2007年)/世田谷城址公園説明板(緑:滝坂道 橙:城山通り 青:烏山緑道)

世田谷城址の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/21642253/

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上町周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(橙:大山街道 緑:滝坂道 青:烏山川)

滝坂道(松原・豪徳寺)周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22847697/



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資料ファイル

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旧母子保健院の跡地は公園に整備されています

桜木ふれあい緑地/桜1丁目
この付近で第0次調査などが実施された。この緑地は東京都立母子保健院の跡地でもあり、2009年(平成21年)に「桜木ふれあい緑地」として開園した。面積は1944.642。(Wikipedia
桜木遺跡のある桜一丁目から三丁目はかつて勝光院(曹洞宗)の寺領ででした

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桜木遺跡
世田谷区桜一丁目に所在する旧石器時代から近現代に至る複合遺跡である。世田谷区のほぼ中央部にあたる台地上に位置し、その範囲は東西に約400m、南北に約220m、面積は約800002と推定されている。2005年(平成17年)に初めて調査(0次調査)が行われ、同年の第1次調査で350軒以上にのぼる縄文時代の住居跡が発見された。世田谷区内では大規模な遺跡の1つで、東京都下でも最大級の集落遺跡と評価される。第0次調査から2015年(平成27年)の第11次調査まで14回にわたって本発掘調査が行われ今後も引き続き調査が予定されている。これまでの発掘調査において縄文時代中期の大規模な集落遺跡である点がとりわけ注目され、目黒川・烏山川水系に分布する縄文時代中期の集落遺跡群において中核的な存在である「拠点集落」との推定がなされている。この遺跡から出土した縄文時代の遺物は2009年(平成21年)に「桜木遺跡出土の縄文時代遺物一括」として世田谷区の指定有形文化財(考古資料)に指定された。
(写真:桜木中北側の低地部)

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遺跡の立地
桜木遺跡のある桜一丁目は世田谷区の中央部に位置し、目黒川の上流域、烏山川中流域にあたる。この付近は標高が約40あり、古多摩川によって形成された3段の河岸段丘面からなる台地(武蔵野台地)である。台地上には多摩川・目黒川・呑川の各水系に属する小さな河川の流れによって多くのが刻まれている。 桜木遺跡は武蔵野段丘面の目黒台と呼ばれる部分に所在している。目黒台の台地は北側を目黒川水系の烏山川(台地の北西方面奥部を水源とする)、南側を細谷戸川(ほそやとがわ、桜三丁目に水源を持つ)という小河川に挟まれ、この2河川が合流する方向に舌状に突き出した形となっている。台地とその北側を流れる烏山川との比高差は5である。桜木遺跡がある段丘面は周辺の段丘面よりも浸食が進んでおらず起伏の少ない比較的平坦な土地が広がっている。一方、桜木遺跡東側の烏山川、細谷戸川の合流点付近は遺跡周辺では最も広い低地となっている。遺跡の推定範囲は東西に約400m、南北に約220m、推定の面積は約80,0002とされる。都市化の進行のために遺跡の大部分が住宅地となっている。Wikipedia
写真:勝光院西側の烏山緑道)

烏山川
世田谷区内をかつて流れていた二級河川で目黒川の支流のひとつ。世田谷区北烏山にある高源院の弁財天堂の池が源流の1つ。 1970年以降ほぼ全面的に暗渠化され、ほとんどが下水道(烏山幹線)へ転用された。近年は暗渠部の緑道化が進められ、「烏山川緑道」と呼ばれている。世田谷区北烏山付近を発し南東へ流れ、同区三宿付近で北沢川と合流して目黒川となる。流路延長は11.70kmWikipedia


by Twalking | 2018-12-21 09:05 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 世田谷ボロ市   

日時 2018.12.15(土)
天気 晴れ


お世話になった方のお葬式に母と妻と一緒に出かかてきました。
世田谷時代に母が親しくして頂き、また我々夫婦の縁を結んで頂きました。
心からご冥福をお祈りいたします。

桜新町のレストランで昼食をとりながら思い出話などいていました。
そういえば今日はボロ市・・・、折角なので二人と別れて久し振りに
行ってみました。凄い人出ですね~・・・、活気があって何よりです。



・・・桜新町

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桜新町駅にフラワーのサザエさん、これは初めてみました。

大山街道(桜新町)周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22644711/


・・・ボロ市通り

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ボロ市の風景① 大山道(直進)と津久井道(右折)の追分付近が西側の起点です

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ボロ市の風景② 旧街道も出店で大賑わいです/世田谷通り・桜小前

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ボロ市の風景③ ボロ市通りに入ると一段と込み合ってきました

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ボロ市の風景④ 「祝伝統440年」の幟がたちます、かつての往還の中心部です/代官屋敷前

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代官屋敷                       桜小の出店、剣道でお世話になりました

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ボロ市の風景⑤ この先の続きますが、他にも寄りたかったのでここまでに

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ボロ市の風景⑥ お土産に・・・と思ったんですが長蛇の列、諦めました

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天祖神社境内                    こちらは植木が主流ですね

ボロ市通り周辺(大山街道)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22619327/


・・・・
資料ファイル

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「ボロ市」の始まり
ボロ市の始まりは、遠く安土桃山時代まで遡ります。当時関東地方を支配していた小田原城主・北条氏政は、天正6(1578)世田谷新宿楽市を開きました。楽市と言うのは市場税を一切免除して自由な行商販売を認めるというもので、毎月一の日と六の日に6回開いていたので六斎市ともいいました。その後、北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ徳川家康が江戸に幕府を開き、世田谷城が廃止されると、世田谷新宿が城下町としての存在意義を失い急速に衰えていきました。六斎市は自然消滅して姿を変え、何時のころからか年に1回、年の暮れに開かれる歳の市(市町)になっていきました。明治の世になって新暦が使われてから正月15日にも開かれ、やがて121516日の両日、正月にも1516日の両日開かれるようになり現在に至っています。東京都指定無形民俗文化財(風俗習慣)伝承地:世田谷区1丁目・弦巻5丁目・ボロ市通り・世田谷通り(一部)・駒沢公園通り(一部)(世田谷区HP)
会場地図:桜栄会商店会さんより(緑:旧大山街道 黄:津久井往還 赤角:追分)

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「ボロ市」の名の由来
戦国時代に楽市として世田谷新宿に開かれた市は、徳川時代になって市町(いちまち)という名のもとに歳の市として開かれていましたが、明治20年代になって古着やボロ布の扱いが主流となっていき、いつしか農機具や正月用品が主だった「歳の市」は、その実態に合わせて「ボロ市」と呼ばれるようになりました。正式な名称となったのは第二次世界大戦後からですが、既に明治の終わり頃には世田谷の「ボロ市」が定着していました。(世田谷区HP)



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代官餅
1975年から発売されている「代官餅」は、ボロ市の会場でしか製造・販売されない希少性とその味の評判から、昼食時には購入のための長蛇の列(1時間以上並ぶことも珍しくない)ができるなど、現在ではボロ市を代表する名物となっている。内容はつきたての餅56個を1パックとして、味はあんこ、きなこ、からみ(大根おろし、海苔、ネギ、鰹節を醤油で和えたもの)の3種類で、各1パック700円(20171月現在)/(Wikipedia
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最寄駅は東急世田谷線の上町駅です

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世田谷区の地名、東急世田谷線上町駅・宮の坂駅・小田急線経堂駅が近い。世田谷通りが通る。地名の由来は世田谷城内にある御所桜という桜の木に因み、明治初期に世田ヶ谷村の小字・桜木とされた。1879年(明治12年)この地に桜学校(下町円光院本堂仮校舎、現:桜小学校)が完成。その頃から慣習的に当地域は小学校名により木の文字を省いて「」と呼ばれるようになった。1966年(昭和41年)、世田谷区世田谷より「桜」として分離。同じ世田谷区内に桜新町、桜丘と似た地名が存在するが、桜丘の地名はこの地域に由来がある、桜新町とは関係はない。Wikipedia
写真:駅前(旧世田谷通り)

by Twalking | 2018-12-19 19:51 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり蔵前~石浜04-橋場   

日時 2018.1130(金)
天気 晴れ


旧日光開街道と別れ隅田川添いの「橋場通り」を北へ向かいます。
この通りは古奥州街道の道筋、白髭橋辺りでで隅田川を渡っていたました。
後でしりましたが「石浜通り」は旧堤防に造られた道のようです。

ここは石浜から鳥越神社辺りまで微高地の丘が続いていたようですが、
現在はわずかに待乳山にその痕跡を見るのみです。
また、北側に山谷掘り(日本堤)の流路を確認できます。

江戸時代、この辺りの地形は改変されていますので、それ以前の
地形はいまひとつ捉えずらいところです。
すこしづつ辿りながら理解が深まれば・・・と思います。


・・・今戸

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街道の風景① 「石浜通り」後で調べたらこの通りはかつての「千束堤」(汐入土手)、全く面影はありませんが隅田川の堤防だったそうです/今戸2丁目

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砂尾堤と砂尾長者
南千住7丁目20番地付近から現在の隅田川に沿って台東区今戸に向かう道は、土手になっていて砂尾堤と呼ばれた。中世の石浜に砂尾長者とよばれる土豪が住み、この地を領していたことに因むという。石浜の地は古代から、武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県東部)と下総国(千葉県北部・茨城県南部・東京都東部)をつなぐ交通の要地であり、砂尾長者は15世紀半ば千葉氏が内紛により下総国を逃れ石浜に入った後、家臣としてこの地に住んだといわれる。台東区橋場にある砂尾不動院開基とも中興ともいわれる人物である。この一帯は昔から広範囲にわたりしばしば水害に見舞われた。汐入堤とも呼ばれたこの堤近くには昭和初期まで砂尾堤根という字が残っていた。(荒川区教育委員会)
(右岸の青線が堤防、石浜通りになります)

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本性寺山門/清川 法華宗本門流のお寺です



・・・橋場

橋場
は『義経記』『源平盛衰記』に浮き橋を架けたと記載がありそれが地名の由来とされる。1913年(大正2年)まで隅田川には最も古い渡しとして橋場の渡し(現在の橋場2丁目から隅田区堤通りを結ぶ)があった。1964年(昭和39年)の住居表示変更でそれ以前の浅草石浜町1丁目から3丁目の一部東側と浅草橋場町1丁目から3丁目全域から新町名として橋場と命名された。Wikipedia

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街道の風景③ 橋場通りの人権プラザ付近から今戸方向の景観です/橋戸

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保元寺(ほうげんじ)/橋戸 浄土宗の古刹です


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保元寺の縁起
保元寺は奈良時代の宝亀元年770年)に此の地に創建された都内でも数少ない古刹(古寺)である。当時都鳥鳴く隅田川に面した此の地は砂尾の石浜と云われ、保元寺も砂尾の石浜道場と呼ばれていた。とき移り平安時代の保元元年1156年)後白河天皇の勅許を得てときの年号寺名として保元寺と改称した。嘉元元年(1305年)には時宗の宗祖一遍上人もしばし保元寺にとまり修行している。南北朝時代足利尊氏が新田義興と此の地で合戦し敗走したと太平記巻31に「石浜の合戦」として記されている。その後、幾度もの戦いに保元寺はまったく荒廃し、ただ淒涼たる武蔵野の保元寺の歴史を惜しみ、芝の増上寺初代法主・西誉聖聡上人が弟子の聡誉西仰に保元寺を再興させた。この時から保元寺は浄土宗の寺となったが一時は法源寺と用字を変えたときもあった。

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境内には延文2年(1070)に亡じた鎌倉権太夫景通の古塔、木曽義仲とのいくさに白髪を黒く染めて奮戦した斉藤実盛の石仏、江戸時代の蘭学者で画師谷文晁の師でもあった日本最初の洋風画家の北山寒厳の墓と古碑、江戸幕府の医師で日本最初の天然痘予防接種をした桒田立斎の墓と古碑などがある。また歴代住職の古塔、寛文の頃より元禄その他の年号を刻された石仏など多数が現存する。保元寺は浄土宗別格であり正しくは帰命山薬王無量院保元寺と称する。此の碑は一代の書聖栖原家の志により建立した。先生は芝増上寺の林祖洞師の高弟にして、生涯一万冊の各蹟を発願し以来60年幾多の困難に耐え、遂に成満しこれを駒澤大学図書館に寄贈された。先生は此の浄業大成の後昭和4755日永眠され葬られた。行年80歳(石碑文)

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榎本家略史
榎本家は武州豊島郡石浜橋場の郷士で、平家一門の千葉氏の家人である。江戸時代の祖・榎本与兵衛武明は延享3年(174668歳で没し、千葉氏と縁のある石浜郷の古刹保元寺(法源寺とも称した)に葬られた。以来、榎本家の祖霊を祀る。4代武兵衛武由は一女「とみ」の婿養子に箱田良助を迎える。良助は備後国(広島県)箱田村の郷士の次男で、伊能忠敬が幕府の命で全国を測量する助手となり、後に榎本圓兵衛武規と称し徳川幕府の家人となる。5代圓兵衛武規の妻「とみ」が文政10年没したため「こと」を迎え武興・武揚兄弟を産み育てていく。6代榎本勇之助武興の弟が釜次郎武揚である。武揚は幕府によりオランダに留学し操船と海軍の知識を習得し帰国、徳川幕府の海軍長官となるも北海道五稜郭で敗戦し、刑死を免れ年余にわたり菩提寺謹慎となり保元寺に隠居したが、許されて明治新政府に仕え高位の身分となる。明治411027日に没し、先に保元寺に埋葬の夫人多津子と両名のみ改葬された。(碑文)

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福寿寺/橋場 曹洞宗のお寺です

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安藤東野墓(東京都師弟旧跡)
江戸時代中期の儒学者、名は煥図、字は東壁、佐左衛門と称し東野(とうや)と号していた。天和3年(1681128日下野那須郡黒羽に生まれた。父・大沼玄佐は医師として下野黒羽藩大関家に仕え、彼は次子であったが、幼くして父を失い江戸に移った。ここで太宰春台とともに中野撝謙(ぎけん)の門に学び、後に養われこれより安藤氏を称した。またたま将軍綱吉が柳沢邸に来る時、講義したという。正徳元年(171129歳の時に致仕し駒込白山に隠居した。内西代藩主本多忠統(ただむね)の賓師となったが、肺を病み享保4年(171941337歳で死去した。著書「東野遺稿」は没後友人が編集して刊行したものである。(東京都教育委員会)

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街道
の風景③ 右手は「石浜河岸」マンションが建ち並びますがかつては大名の別邸だったようです/橋場 

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砂尾山不動院山門/橋場

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砂尾山不動院
橋場不動尊の名で親しまれる当寺は正確には砂尾山橋場寺不動院といい、天平宝字4(760)寂昇上人によって開創された。当初は法相宗であったが、長寛元年(1163)に中興の祖といわれる教圓坊(一説には長圓)によって天台宗に改宗され浅草寺の末寺となったと『文政寺社書上』に記されているが、現在は浅草寺と本末関係はなく比叡山延暦寺末となっている。本堂は弘化2(1845)の建立で、その古色をおびたたたずまいはうるおいにみちている。本尊の不動明王像は『江戸名所図会』に『緑起に曰く、本尊不動明王は、良弁僧都相州大山寺にありし頃、彫刻ありし三体の一にして、かの寺の本尊と同木同作なり。僧都一時上足寂昇師に告げて云く、三体のうち一体はこの山にとどめ一体はみずから持念す。残るところの一体は、汝に附属すべしとなり。仍って僧都化寂の後(宝亀4年歳82にして寂せり)寂昇上人上総の方へ赴く道の次、適この地に至り霊告を得て有縁の地たることをしり、ここに安じ則ち村老野人にかたらひて草堂を営み、砂尾不動と号す云々。』とあり

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良弁僧都の御作であることがわかるが、このご本尊は秘仏となっており拝観することはできない。しかし、お前立のご本尊としての不動明王がありその偉容は周囲を圧している。だれの作かはわからないがおそらく鎌倉期のものと推察される。現在の本堂は1845年の建立。本堂の右前にある樹齢700年の大銀杏は、江戸時代、隅田川往来の目印になった。寂昇上人が浅茅の生い茂るこの地に当寺を開創したのは1200余年も昔のことで、奈良時代末期のことであるから文字通り橋場第一の古刹といえよう。(天台宗東京教区)

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江戸名所図会 総泉寺 砂尾不動 同薬師 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用) 奥が総泉寺(板橋区へ移転)手前が砂尾不動院です


・・・白髭橋(橋場の渡し)

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隅田川の風景① 白髭橋より下流側の景観 右手が「石浜河岸」です

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白鬚橋
白髭(しらひげ)の名は天暦5年(951)創建の縁起のある向島白髭神社に由来している。古来、梅若伝説で知られる渡船場もこの辺りにあり、のちには舟の浮橋などもかけられたという説もある。ここを「船場の渡し」といったのはこのゆかりの名であり、交通の要地であったことを示している。大正3年(1914)には地元の住民によって会社が設立され有料の木橋がかけられた。関東大震災(1923)を経て復興事業の一環として、昭和61931)に重量感溢れるアーチ橋としてかけかえられた。その後、東京大空襲などにも他の橋とともに多くの人を救う役割を果たした。現在も荒川区
・墨田区・台東区の3区を結ぶ重要な橋である。(東京都)
(構造形式: 下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋 橋長: 168.8m 幅員: 22.1m)

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台東区側に
「明治天皇行幸対鷗荘跡」「白髭橋」碑が建ちます

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明治天皇行幸隅田川鷗荘跡
隅田川
畔の橋場一帯は風光明媚な地でありかつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鷗荘(対鴎荘)もその1つで、明治時代の政治家三条実美18371891)の別邸であった。「征韓論」をめぐって政府内に対立が続いていた明治6年(1873)の10月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れこの別邸で静養していたが、明治6年(18731219明治天皇は病床の実美を気使いこの邸を訪れている。隣りの碑はこの事跡を顕彰して、のち対鷗荘(対鴎荘)の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ3m余。側面に「昭和6年(1931)歳次辛末5月建立石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。対鷗荘(対鴎荘)は昭和3年(1928白髪橋架橋工事に伴い多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。(台東区教育委員会)

三条実美

幕末の尊攘派の公卿。三条実万(さねつむ)の子。14代将軍徳川家茂に攘夷督促の朝命を伝えるなど尊攘派公卿の先鋒となり運動したが、1863年文久3818日の政変で失脚し七卿落の一人として長州、さらに大宰府に落ち王政復古を機に上京。明治政府の副総裁・輔相次いで1869年右大臣、1871年政府最高位の太政大臣となり1873年には岩倉使節団を派遣、1885年の内閣制まで同職。以後内大臣、臨時内閣総理大臣を歴任。(コトバンク)

多磨聖蹟記念館(多摩市連光寺)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23374830/

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隅田川の風景② 白髭橋より上流側の景観この先で大きく湾曲していきます。荒川区側に説明板が立ちます

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橋場の渡し
対岸の墨田区
寺島とを結ぶ160の渡しで「白髭の渡し」ともいわれていた。『江戸名所図会』に依ると古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし渡しの位置は幾度か移動したらしく はっきりしていない。大正3(1914)に白髭木橋が架けられるまで 多くの人々に利用された。(荒川区教育委員会)

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対鴎荘跡
対鴎荘は白鬚橋西詰の地に1873年、明治の元勲三条実美別邸として建設された。『いそがしき つとめのひまを ぬすみ来て 橋場の里の 月をみるかな』三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。橋場の地はその歴史も古く明治初年にいたるまで閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯はうっそうとした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、情緒豊かな風景を楽しむことができたのである(荒川区教育委員会)

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橋場の渡し
現在の白髭橋付近にあった。「白鬚の渡し」とも呼ばれた。歴史的に位置や名称に変遷があったが、記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い。律令時代の承和2年(835)の太政官符に「住田の渡し」と書かれたものが残っている。奥州総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。橋場は歴史の古い土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並び、有名な料亭も多かった。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とりわけ著名な三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあった。歌川広重が錦絵「墨田河橋場の渡かわら竈」に描いた。白鬚橋の完成に伴い大正期に廃止されたといわれる。
Wikipedia

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江戸名所図会 思河 橋場渡 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
『うき旅のみちに流るるおもひ河泪の袖や水のみなかみ 道興准后』

橋戸・今戸
隅田川西岸の今戸橋から鐘ヶ淵あたりまでの一帯。橋場は『義経記』『源平盛衰記』に浮き橋を架けたと記載がありそれが地名の由来という。橋場の渡しは現在の橋場2丁目から隅田区堤通りを結んでいた。今戸は近くの石浜に古い港があったのに対し、新しく港を開いたので今津といったものが今戸と転訛したと考えられている。今戸焼(人形、瓦など)は江戸名物の一つで、錦絵には今戸焼を焼く窯と煙が描かれることが多い。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)


・・・南千住/荒川区

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石浜神社鳥居/南千住

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大鳥居
第一鳥居(参道入口手前)は安永8年(1780、麁香様の開帳の年に建立。笠木(横柱の上部のもの)のカマボコ型様式は神明造りには珍しいものです。第二鳥居(参道の奥・写真)は寛延2年(1749)の建立。柱に刻まれている山川、高木は橋場の名主の名。様式で額束(がくづか:横柱の中央にある短い支柱)のある型は神明造りでは珍しいとされます。(石浜神社HP)

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石浜神社境内

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石浜神社
祭神:天照大神 豊受姫神
当社は聖武天皇の神亀元年724911日勅願によって鎮座され、以来1294年の歴史を持っています。文治51189源頼朝の奥州征討に際しての社殿の寄進、弘安41281)蒙古襲来の折、必勝を祈念しての鎌倉将軍家お取り次ぎによる官幣(かんぺい:天皇から神に捧げる礼物)のご奉納などを経て中世初めには大社としての発展を見ました。殊に千葉氏宇都宮氏などの関東武将の信仰は篤く関八州より多くの参詣者を集めたと伝えられています。東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、江戸近世における社運はさらに隆昌、『江戸名所図会』などにも大きく納められるところとなり、「神明さん」の通称のもと市民の間にその名を馳せました。明治5年(1872)、郷社に格付けされ以後、時の流れと共に名称などに変化はあったもののご神徳・社運の輝きはいよいよ高く今日に及んでおります。(石浜神社HP)

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真先稲荷神社
御祭神は豊受姫神(とようけひめのかみ)、天文年間に石浜城城主となった千葉之介守胤がここに一族一党の隆昌を祈って宮柱を築き、先祖伝来の武運守護の尊い宝珠を奉納安置申して以来、真先かける武功という意味にちなみ真先稲荷として世に知られました。大正15年(1926)、石浜神社に併合されました。(石浜神社HP)

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真先稲荷と田楽茶屋
真先(崎)稲荷は天文年間(15321554)、石浜城主・千葉守胤によって祀られたと伝える。もと隅田川沿岸にありその門前は景勝地として知られていた。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は対岸の三囲稲荷の狐と並んで有名であったという。江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦7年(1757)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋がたち並んでおおいに繁昌した。吉原の遊客もよく当地を訪れ、『田楽で帰るがほんの信者なり』など当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。(荒川区教育委員会)

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招来稲荷神社
ご祭神は豊受姫神、真先稲荷の奥宮としてまつられました。(石浜神社HP)




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富士遥拝所
宝暦8年(1758)の建立。当時普及を見た富士信仰・講の記念の一つです。(石浜神社HP)



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亀田鵬斎詩碑
第二鳥居をくぐり参道拝殿寄りの左手にあります。碑面には江戸は下町の名物儒学者鵬斎73歳の折の作、隅田川の詩2が刻まれています。石浜城や頼朝、道灌の歴史のあとを切々と偲ぶ名詩です。作者は宝暦2年(1752)神田の生まれ、博識多才、書画に秀でた江戸後期異色の文人墨客で、浅草周辺、当社付近の隅田川とその岸の詩情を限りなく愛した人。墓碑は今戸の称福寺境内にあります。(石浜神社HP)

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都鳥歌碑
正面には平安初期の名門貴族、漂泊の歌人業平(なりひら)が京の都を捨てはるばる大川のほとりに流れ来て、川面の都鳥を目にした時の望郷の思いを綴ったという『伊勢物語 東下り』の一節が記されています。建立は文化2年(1805)です。『名にし負はば いさこととはん 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと』(石浜神社HP)

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麁香神社関係資料
麁香神社(あらかじんじゃ)は石浜神社
摂社で本殿西の中庭内にある。祭神は手置帆負命と彦狭知命。この二神は工匠守護祖神で江戸時代には建築関係者の信仰を広く集めた。ここに立つ天保51834)銘の麁香神社建立の碑、安政4年(1857)銘の日本大工祖神の碑は、幕府御用職大工方・屋根方等の工匠が建てたものである。このほか安永3年(1774)銘の由来を記した板、安政(18541860)の銘の扁額がある。

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神社の東側の景観です大鳥居先に「石浜城址」の説明板あります

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石浜城址(石浜神社)
石浜城は室町時代の中頃、武蔵千葉氏居城となり戦乱の世に100年あまり続いた城である。天正年間(15731591)城主・千葉胤村(北条氏繁3男)を最後に後北条氏の滅亡の後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定値の一つとされる。石浜神社は聖武天皇の時代、神亀元年(724)の創建と伝える神社で源頼朝、千葉氏、宇都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越しの祓(はらえ・630日)はその壮麗さにおいて名高く、天保9年(1838)刊行の「東京歳時記」の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。(荒川区教育委員会)

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石浜神社と隅田の渡し
ここより北方に石浜神社がある。亀元元年(724)に創祀され中世においては千葉氏などの崇敬を集めて大いに栄えたと伝えられている。また、朝日明神宮とも称し伊勢詣でのかわりに参詣する人々が絶えなかったという。隅田の渡しは平安時代の編纂物「類聚三代格」(るいじゅうさんだいきゃく)や歌物語「伊勢物語」にも記される渡しで、この辺りは古くからの交通の要衝の地として賑わいをみせていた。石浜神社境内には隅田の渡しを背景にした歴史と光景を偲ばせる「伊勢物語の歌碑」や「亀田鵬斎の詩碑」が残る。(荒川区教育委員会)


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石浜城
中世
の浅草付近にあった日本の城。石浜は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域呼称であり、この付近に武蔵国と下総国の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされている。築城年次は不明であるが、中世には江戸氏一族石浜氏が本拠を構え、文和元年(1352)には新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けている。室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛では、宗家の生き残りである千葉実胤(千葉兼胤の孫)が下総国を追われて扇谷上杉家の庇護下に入り、石浜城を拠点とした(武蔵千葉氏)。この際、弟の自胤も赤塚城に逃れている。だが、下総回復は達成できず、扇谷上杉家の没落後は後北条氏に従って同氏一族の千葉胤村を当主に迎え、豊臣政権の小田原征伐によって没落、石浜城も廃城となった。城の所在地については、関東大震災以前に台東区橋場にあった総泉寺が武蔵千葉氏の菩提寺で、石浜城もその側にあったとされているが、荒川区南千住の石浜神社付近にあったとする説と、台東区浅草の本龍院(待乳山聖天)付近にあったとする説に分かれており、江戸時代以後の古利根川→隅田川の流路の変化や都市化の進展によって付近の地形も大きく変わっており遺構なども見つかっていない。「新修荒川区史」は石浜神社の神官が千葉氏の一族である鏑木氏によって世襲されていることから前者の説を主張している。「東京市史稿」は「石浜城の跡今の金龍山にて、聖天宮なり」として本龍院説をとり「大日本地名辞書」「望海毎伝」も後者の説を載せている。中世を通じて同一の場所に石浜城があったのか、また城そのものの規模についても不明のままである。Wikipedia

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江戸名所図会 石濱神明宮 (
わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
手前が真先稲荷、奥が石濱神明宮です

真先(まさき)

橋場の渡しよりの隅田川西岸一帯。真崎稲荷神社(現真先稲荷神社)、石浜神明宮(現石浜神社)があり、隅田川の眺望を楽しむ場所としても知られた。真先稲荷神社は大正151926)年に石浜神社に併合。錦絵には対岸やや北の「水神の森」と向かい合う形で描かれることが多い。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)


・・・橋場

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街道の風景④ 明治通りを左折すると「平賀源内墓」があります、かつては思川が流れていました

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平賀源内墓/橋場

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平賀源内墓(国指定史跡)
平賀源内は享保13年(1728讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延2年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこないエレキテル(摩擦起電機)、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。安永8年(177911月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町内で1218日に病死、遺体は橋場総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。総泉寺は昭和3年(1928板橋区小豆沢移転したが、源内墓当地に保存された。昭和4年(1929)に東京府史蹟に仮指定され、昭和6年(1931)には松平頼壽が(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和18年(1943)に国指定史跡となった。(台東区教育委員会)

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総泉寺(そうせんじ)
板橋区にある曹洞宗系の単立寺院。山号は妙亀山。本尊は釈迦如来。
この寺は当初浅草橋場(現在の台東区橋場)にあり、京都の吉田惟房の子・梅若丸が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うためを結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得、弘治年間(1555-1558千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣によって再興され、江戸時代には青松寺・泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺(えどさんかじ)のひとつであった。1923年(大正12年)の関東大震災で罹災したため、昭和3に現在地にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転。その後合併して現在に至る。台東区橋場2丁目の旧寺地には平賀源内の墓が残るがなぜ移転しなかったのかは不明(Wikipedia

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かつてこの辺りは総泉寺の境内・参道だった場所でしょうか

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旧参道入口付近に「お化け地蔵」が建ちます

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橋場のお化け地蔵(松吟寺)
「お化け地蔵」の名にはかつて大きな笠をかぶりその笠が向きをかえたから、あるいは高さ3m余の並はずれて大きいからなどいくつかの伝承がある。この辺りは室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺境内地であった。門前一帯浅茅ヶ原といい、明治40年(1907)刊「東京名所図会」には『浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり』とあり『当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す』とも記している。お化け地蔵の台石によればこの石仏は享保61721)の建立。関東大震災で2つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は寛政2年(1790)に建てられた。総泉寺は昭和4年(1929板橋区へ移転した。「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺境内諸仏供養の為」の碑は移転に際し建てられたものと思われる。(台東区教育委員会)

妙亀塚(
東京都指定旧跡)
この妙亀塚のある地はかつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。妙亀塚は「梅若伝説」にちなんだ名称である。「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子梅若が信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだという説話である。謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安11年(1288)戌子522日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は明らかではない。なお墨田川の対岸、木母寺(墨田区堤樋)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)がありこの妙亀塚と相対するものと考えられている。(台東区教育委員会)


・・・清川

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街道の風景⑤ アサヒ会通りを西にむかいます/清川

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玉姫稲荷神社鳥居/清川

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玉姫稲荷神社
祭神:宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
社伝に天平宝宇四庚(760)の創建とあり、享保年間に出版された『江戸砂子』に「新田義貞朝臣、鎌倉の高時を追討のみぎり、弘法大師の筆の稲荷の像を襟掛にしたまひしを、瑠璃の宝塔にこめて当所におさめまつり給ふ。故に御玉ひめの稲荷と申のよし」(東京都神社庁)

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江戸名所図会 妙亀明神社 浅茅が原 玉姫稲荷 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
(中央が妙亀明神社 奥が玉姫稲荷、右手が浅茅が原でしょうか)


・・・日本堤/台東区


台東区の北部に位置する。町域東部は台東区清川に南部は日の出会通りに接しこれを境に台東区東浅草に、西部は土手通りに接しこれを境に千束・竜泉・三ノ輪一丁目に、北部は明治通りに接しこれを境に荒川区南千住・台東区三ノ輪二丁目に接する。東部には大阪市の釜ヶ崎、横浜市の寿町と並んで称される日本の三大人足寄場のひとつとして日雇い両道者が集まる山谷の一画を含んでいる。いろは会商店街は漫画『あしたのジョー』の舞台が泪橋であることから同作品を利用した街おこしを行っている。
Wikipedia

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街道の風景⑥ 日暮れてしましましたが旧日光街道です(この先が「涙橋」)、土手通りから三ノ輪に向かいます/東浅草2


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土手の伊勢屋/日本堤
台東区日本堤にある昭和初期に建てられた木造の2階建ての飲食店舗である。1889年(明治22年)、若林家により天麩羅屋土手の伊勢屋を創業した。

伊勢屋店舗兼主屋

木造2階建、瓦葺、建築面積44㎡。
土手通りに西面して店を開き、東と南も街路に面する。間口4.6m奥行10mの木造2階建、入母屋造妻入桟瓦葺。外壁は下見板張、軒下と妻面は漆喰仕上げとする。1階を店舗、2階を住居とする。正面のカウンターなど、往時の天麩羅屋の佇まいを残す。(国指定文化財データベース)

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あしたのジョー像/土手通り    吉原北入口/竜泉

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今昔マップ/歴史的農業環境閲覧システム
(黄:歩行ルート 青:旧日光街道 橙:橋場通り 紺:「千束堤」青:山谷堀)

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ルート図(蔵前~石浜~三ノ輪)


(赤:歩行ルート 緑:旧日光街道 橙:橋場通り 紫:古代官道 黄:堤 青:山谷掘)

ぶらり蔵前~石浜03-今戸の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27262253/

by Twalking | 2018-12-17 23:27 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり蔵前~石浜03-今戸   

日時 2018.11.30(金)
天気 晴れ


隅田川から少し離れ街道筋を待乳山、今戸へぶらり。
小高い丘の上にある待乳山聖天は趣がありますし、
山谷掘公園は山谷堀の流路跡、地形がよくはわります。

招き猫で知られる今戸神社は縁結びの神社、境内には
錦絵でも描かれた今戸焼発祥の地碑が建ちます。
周辺の寺社に寄り道しながら橋戸へ向かいます。


・・・・
待乳山(まつちやま)

待乳山聖天
周囲を指す地名。台東区浅草七丁目付近にあたり、元来小高い丘を成していた。待乳山聖天:聖観音集待乳山本龍院。台東区に所在する聖天、関東三聖天の一つ、単に「待乳山」とも通称するWikipedia

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街道の風景① 寄り道しながら川沿いの「橋場通り」を散策します/待乳山聖天前

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都道314号言問大谷田線
台東区と足立区を結ぶ特例主要地方道。隅田川や荒川を横断し浅草と綾瀬周辺を繋いでいる。2013
年に発足した「東京都通称道路名検討委員会」により当初は「堀切通り」との通称が検討されたが、台東区側が「橋場通り以外の名称設定には強く反対する」と難色を示した事から、台東区域を通称の設定区間から除き、起点を白鬚橋西交差点に変更した上で「川の手通り」と名付けられた。
Wikipedia

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旧浅草聖天町・浅草聖天横町
本町の起立年代は不詳である。寛文図に「聖天丁」と記載があるのでかなり古く開かれた町である。町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんだ。聖天宮の正式な名称は本龍院といい聖天宮は聖天を安置していることによる。金龍山あいは待乳山と号し浅草寺子院である。待乳山は隅田川西側小丘で、江戸時代から文人墨客に愛された景勝の地であった。聖天宮はこの待乳山の上にある。「浅草聖天町」昭和23(1948)に浅草山川町、同金龍山下瓦町、同山ノ宿町の北隅を合して誕生した。「浅草聖天横町」浅草聖天町の西側続地であり、町の地形から横町とつけられた。起立年代はわからないが浅草聖天町よりやや遅れてできたのであろう明治5(1872)浅草寺子院の遍照院を合併して町域を広げた。(下町まちしるべ/台東区)
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聖天堂は「待乳山」の山上にあります

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待乳山山門/浅草

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待乳山聖天
待乳山聖天(まつちやましょうでん)は金龍山浅草寺支院で正しくは待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため「聖天さま」として祀ったといわれる。ここは隅田川に臨みかつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作『哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉』の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年・1955再建)のほか石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は当寺の御利益を示すもので大根健康一家和合巾着商売繁盛を表すという。17日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。なお、震災・戦災により本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和36年(1961)に再建されたものである。(台東区教育委員会)

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待乳山と歓喜天鎮座のいわれ
当山は推古天皇の3、地中から忽然と湧き出た霊山で、その時金龍が天より降って山を廻り守護したと伝えられています。それから6年後の夏、この地方が大旱魃に見舞われた時、十一面観音菩薩はその慈悲の眼をお開きになり即時の救済をはかって大聖歓喜尊天の姿となって現れたまい、これがこの山に尊天が鎮座ましました起源であるといわれています。その後、文徳天皇天安元年(857)天台宗中興の祖・慈覚大師円仁東国巡行の折り、当山に参籠して21日間の浴油の修法を行い国家鎮護の祈願をされ、さらに供養法にのっとり赤栴檀を用いて十一面観音菩薩の尊容を彫刻されたと伝えられています。開山以来長い歴史の中で多くの人々の篤い信仰を集めてきた当山は、現在に至ってもまさに霊山と呼ぶにふさわしい雰囲気を有し続けております。そもそも「大聖歓喜天(聖天様)」とは密教における普遍の尊格「大日如来」の究極の方便の姿、また観音菩薩化身として我々の智慧浅き求願を世のならいに従って成就に向かわしめ、ついに正道へ導こうというご誓願をお持ちになっておられる尊天であります。夫婦抱立のお姿は真俗の二義和合を表し、自他調和の尊さを知らしめ、すべての衆生を洩れなく救おうというご慈悲のあらわれであります。(パンフレット)

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待乳山聖天・本龍院について
待乳山聖天・本龍院は浅草寺一山支院のひとつです。寺院でありながら本堂正面には「聖天宮」の扁額が掲げられており神仏習合的な信仰が今も生きています。(パンフレット)



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大根と巾着
境内各所に印されております大根や巾着は聖天様の大きなご利益を端的に表したものです。大根は深い迷いの心、瞋(いかり)の毒を表し、大根をお供えすることによって聖天様が心の毒を清めてくださいます。その功徳によって心神を健康にしていただき良縁を成就し、夫婦仲良く末長く一家の和合をご加護いただけます。巾着は財宝を表し、商売繁盛、事業繁栄のご利益を示しています。(パンフレット)



当山は古くから聖天様の篤い信仰を集めるとともに地域の象徴としても人々に親しまれてきました。周辺江戸湊入り江近くであった頃は、入港する船舶の目印としての役割を果たしていたといわれております。江戸時代に江戸湊の埋め立てが進むと、隅田川を望む絶好な景勝地となり多くの歌人、絵師によって待乳山を題材にした作品が描かれ江戸の名所のひとつとして有名になりました。東都名所真乳山之図/歌川広重画文政~天保年間(18181844向島から待乳山を望んだ風景。河畔に聳える小山がひときわ目立つ存在であったことが伺える。(パンフレット)

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東都名所真乳山之図/歌川広重画
文政~天保年間(18181844向島から待乳山を望んだ風景。河畔に聳える小山がひときわ目立つ存在であったことが伺える。

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東都名所真乳山上見晴之図/歌川広重画
文政~天保年間(18181844待乳山から猿若町を見下ろした風景。大根を持った当時の信徒の姿が描かれている。

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銅造宝篋印塔(台東区有形文化財)
宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から天明元年1781)に鋳物師・西村和泉守が製作し、蔵前の札差等16名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は江戸時代から大正時代にかけて11代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代・西村政平にあたると考えられる。銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、特に区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。平成14年(2002)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会)

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歓喜地蔵尊
数度の火災に遭いその尊容とどめていないが、古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊として信仰されている。(案内板)




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リー・デ・フォーレスト博士の碑
(トーキー渡来の碑)
リー・デ・フォーレスト博士は明治6年(1873)米国アイオワ州に生れ無線電信電話の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年(1923)更にトーキーを発明。紐育市に於て上映世人を驚かせ在り。大正13年(1924)故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、余親しくその詳細を聴きて将来に着目す。翌年渡来、博士の行為により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て米人技師を帯同帰国、大正14年(192579日宮中に於て天皇皇后両陛下の天覧に供し各宮電化の御覧を仰ぎたる後一般に公開せり。トーキーの我が国に招来されたる之を以て初めとす。以来余、我国におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフォーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後9回に及べり。大正15年(1926)大森撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我国におけるトーキー製作の濫鬺なり。雨来トーキーは日進月歩、昭和3年(1928)の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等の普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。今やトーキー我国に渡来してより30年を閲するもフォーレスト博士の発明形式は依然として世界各国に踏襲さる。博士の業蹟偉大なりというべし。加うるに我国テレビジョンの発足もまた実に博士の力に依れり。昭和23年(1948)、フォーレスト博士は極東軍総司令官マッカーサー元帥を介して日本におけるテレビジョンの創設を慫慂したり余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジョンの創設に意あり。フォーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジョンの実現に努力し遂に昭和27年(1952)テレビジョン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し余もまた役員に加わる。翌昭和28年(1953830日日本における最初の電波を出せり。これ偏に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフォーレスト博士の日本への友情に基くものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり。今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジョンの普及もまた瞠目に値す。フォーレスト博士の文化に貢献する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟をトして碑を建てトーキー渡来の由来とテレビジョン早世の縁由を刻して博士の功績を讃え併せて報恩の微意を表す。昭和31年(19565月吉日 建碑者 皆川芳造(碑文)

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待乳山境内図/パンフレット

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江戸名所図会 真土山聖天宮 隅田川西岸 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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池波正太郎生誕の地 
池波正太郎(1928-1990)は大正12年旧東京都浅草区聖天町6番地に生まれました。この年関東大震災が起こり生家は焼失してしましましたがその後も少年期、青年期を台東区で暮らしました。「大川と待乳山聖天宮」というエッセイでは「生家は跡形もないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ」と記しています。(台東区)



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・・・山谷掘公園

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吉野通り(旧日光街道)から今戸橋までぶらりと歩いてみました

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吉野橋(旧日光街道)         聖天橋

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山谷堀公園
山谷堀
がいつ頃掘られたかははっきりしないが、江戸の遊里吉原との関係からみてもおそらく江戸初期にできたものであろう。都下水道局ポンプ場のところから隅田川へと注ぐ700におよぶ山谷堀は、北区の音無川とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。当時、この堀は吉原への通路の一つであった。山谷堀を通るので吉原通いを別名・山谷通いともいった。猪牙船などを仕立ててこのコースを通う遊興はぜいたくとされまさに「おだいじん」遊びだった。堀の上流から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と九つの橋がかけられていたが、埋立に伴いすべて取り除かれており橋台のみが昔の面影を残している。現在は水と緑の憩いの公園として整備されている。(説明板)

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山谷堀
かつては「よろず吉原、山谷堀」と歌にも歌われ、江戸名所のひとつに挙げられる風情ある場所で、船の出入りが多くなる夏の夕方などは絵のように美しかったという。河口岸には有明楼などの料亭があり芸者遊びなどもできた。江戸三座があった猿若町(現在の浅草6丁目辺り)に近いため山谷堀芸妓(堀の芸者)は「櫓下」とも呼ばれた。紙洗橋の名前は、この付近で作られていた浅草紙に由来する。浅草紙は古紙や紙くずを原料にした
漉返紙(すきがえしがみ・使用済みの和紙)を漉き直して作った中古の和紙)で、吉原の遊女が手紙の代用や後始末に使い大量の需要があった。山谷堀にも多くの作業所があり、職人たちが紙くずを紙舟に入れて堀の流れに曝しておくことを「冷やかす」とよんだ。この2時間ばかりの作業中は暇をもてあまして吉原の遊郭を見にでかけ、しかし時間がなくて登楼せずに帰ってしまうことから、買う気のない客を表す隠語として「冷やかし」という言葉が生まれたという。

錦絵:広重『江戸名所百景』より「真乳山山谷堀夜景」
画面奥から手前の隅田川に注ぎ込む水路が山谷堀。今戸橋(現・今戸橋交差点付近)の橋脚が見え、左右には当時の著名な船宿であった竹屋と有明楼の窓が灯っている。背後の森は待乳山聖天である。
Wikipedia

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街道の風景② 山谷掘に架かる今戸橋です/橋場通り

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山谷堀公園入口            隅田川に注いでいました

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慶養寺は曹洞宗のお寺、山門に仁王像があります/今戸

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本堂                 鐘楼


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江戸名所図会 山谷堀 今戸橋 慶養寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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真土山聖天宮・今戸橋
待乳山は現在の隅田公園内にある小さい丘で東に筑波山、西に富士山をのぞむことができた。本所・深川などが埋立てられる以前はこの山を入津の目標にしていたといわれ、付近の土を採って日本堤を築いたという言伝えもある。山上には聖天(しょうでん)宮が祀られ商店・花柳界の信仰が厚かった。山の下にある今戸橋山谷堀の最下流にかかっており、現在の浅草7丁目と今戸1丁目を結ぶ。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)

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・・・今戸

現在ではほとんど見られなくなったが、かつて当地は今戸焼きといった焼き物が盛んであったことでも知られていた。今戸焼の起源は天正年間(安土桃山時代)にまでさかのぼる事ができ、今戸焼の招き猫は江戸時代では浅草界隈の名物のひとつとしても知られていた。(Wikipedia
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街道の風景③ 清川へ向かうバス通り沿いに鳥居が建ちます/今戸神社前

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本龍寺山門/今戸


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本龍寺
台東区にある真宗大谷派の寺院。山号は臨川山。本尊は阿弥陀如来。元和2年(1616)創建。開基は龍賢。境内に豊原国周(くにちか・幕末から明治にかけての浮世絵師)の墓がある。

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今戸神社鳥居/今戸

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今戸神社
台東区今戸一丁目にある神社である。祭神として応神天皇・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)・福六寿を祀っている。今戸神社は康平6(1063)源頼義義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。また永保元年(1081)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り戦勝祈願をしたといわれている。大正12年(192391日の関東大震災や太平洋戦争の際、米軍の爆撃機B-29が昭和20年(1945310日に焼夷弾を投下したり(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われたがその都度再建され、現在の社殿は1971(昭和46年)に再建されたものである。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡と呼ばれていた当神社が現在の今戸神社と呼ばれるようになった。また現在では浅草七福神のひとつ福禄寿も祀っている。(Wikipedia

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今戸焼発祥之地碑
今戸焼とは現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類土人形のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。地元の今戸神社にある狛犬台座には宝暦2年(1752)に奉納した42名の陶工らの名前が刻まれており数多く軒を並べていたことがうかがえる。今戸焼の起源は定かではないが、伝承では天正年間15731591)に千葉氏の家臣が今戸辺りで焼き物を始めたとか、徳川家康入府後三河の陶工が今戸に移って来たともいわれる。「今戸焼」の名としては18世紀末頃から明らかに見られ18世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったと思われる。隅田川沿岸はかつてを含めた土製品の生産が盛んであったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていた。

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江戸時代の文献である『江戸名所図会』には瓦つくりの挿絵がみられ「隅田川長流図巻」(大英博物館所蔵)には今戸焼の窯が描かれている。近年の江戸遺跡の調査に依って施釉土器、土人形や瓦等が多く出土し、そのなかには今戸焼職人の名が刻印されている土器・土人形、今戸の地名を印した瓦も見られ、隅田川沿岸の窯業との関連が注目されている。関東大震災や東京大空襲により職人が次々に区外へ移り、現在今戸には1軒のみが残り伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されている。(台東区教育委員会)
江戸名所図会 今戸焼 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)「この辺甄者(かわらし)・陶器匠(やきものし)ありて、これを産業(なりわい)とする家多し。世に今戸焼と称す。元禄2(1687)73日『隅田河紀行』土をこね瓦をつくりならべてほしければ『やかぬまは 露やいとはむ下瓦』杉風」

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沖田総司終焉の地
沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて歿したと伝えられている。碑字橘右近書(案内板)

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江戸名所図会 今戸神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景④ 今戸2丁目の景観/熱田神社前


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熱田神社鳥居/今戸


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熱田神社
創建は元亀5末(15716月と伝えられているが『御府内寺社帳』によれば「元鳥越と同年なり」と書かれている。その昔、元鳥越には熱田大明神鳥越大明神(鳥声神社)・第六天(第六天榊神社)の三社が鎮祭されていた。正保年間(16447)に元鳥越一帯の地は幕府御用地に指定され当社は武蔵国豊島郡三谷村に移ることになった。正保2乙酉年(16456月社殿が新築され、元鳥越の氏子数十戸とともにこの地に遷座され、町名も新鳥越と改められた。社殿は宝永(1708)・文政(1824)・文久(1861)、明治年間に修理・改築を重ねたが、大正12年の関東大震災のため焼失した。同136月仮社殿を再建したが、区画整理のため昭和211月に現社地に遷座された。町名も明治の末には吉野町となり、その後今戸と変わった。先年の火災を考慮して本殿を鉄筋コンクリート造にしたため、昭和20310日の東京大空襲にも本殿だけは炎上をまぬかれた。(東京都神社名鑑)

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熱田神社と大太刀
本社は江戸時代初期以来、当地の鎮守であった。かつて元鳥越町にあったが(現在の鳥越二丁目あたり)正保2年当地に浅草新鳥越町が成立したことにともない移転して当地の鎮守となった。新鳥越町山谷堀北側千住街道(現在の吉野通り)に沿った町である。(後の浅草吉野町)本社は町の北端に位置していたが(現在の清川一丁目七番・八番付近)、関東大震災後の区画整理のため、昭和2年(192711現在地に移転した。本社が所蔵する大太刀「陰陽丸」は全長368.5cmの長大なものである。弘化4年(1847)江戸小石川に住居する刀工・川井久幸が制作し熱田神社に奉納した。宝刀として保存されるだけでなく、安政5年(1858)コレラ流行の時には疫病を祓うため本大太刀が町内を巡行している。当時江戸町々では鎮守の神輿や獅子頭が町内を巡行するなどそれぞれに疫病除け行事を行っていた。当地では鎮守の宝刀「陰陽丸」が疫病除けに最もふさわしかったのであろう。故老は「オンヨウマル」と発音していたという。平成22年台東区有形民俗文化財に登載された。(台東区教育委員会)


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江戸名所図会 山谷熱田明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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称福寺/今戸 浄土真宗本願寺派の寺です

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亀田鵬斎墓(東京都指定文化財)
亀田鵬斎は江戸時代後期の著名な儒学者である。宝暦2年(1752)江戸・神田に生まれた。名は翼といいのち長興。字は穉龍、通称文左衛門、鵬斎、善身堂と号した。折衷学者井上金峨(墓地は港区青松寺・東京都指定旧跡)に学び、山本北山とともに荻生徂徠(墓地は港区長松寺・国指定史跡)の古文辞学と排撃し、朱子学を批判したために寛政異学の禁では異端の筆頭と目されていた。書をよくし草書は近世を通じての名手といわれている。著書に「論語撮解」「善身堂詩鈔」などがある。文政9年(182675歳で没した。墓石には「鵬斎亀田先生之墓」と刻している。(東京都教育委員会)

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今戸周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:旧日光街道 橙:橋戸通り 青:隅田川・山谷堀 赤:橋 赤角:猿若町)

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by Twalking | 2018-12-11 09:27 | 東京散歩(新規)