無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:東京散歩(新規)( 126 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 飛鳥山下跨線人道橋   

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飛鳥山下跨線人道橋/北区王子
王子駅の西側の丘が飛鳥山公園、
駅南口と公園を繋ぐこの跨線橋を渡ると、
緑と歴史の香りが漂う別世界です。


飛鳥山下跨線人道橋

北区王子1丁目でJR東北本線および京浜東北線を跨ぐ人道橋である。王子駅南口と隣接する飛鳥山公園を結ぶ。橋上の通路はJR東日本の管理下となっていてあくまで王子駅の施設の一部であり道路としては認定されていない。1925年(大正14年)竣工で、日本国内に現存する数少ない古レールを構造材に利用した跨線橋。他に著名な古レール橋は目黒駅そばにある白銀桟道橋や東十条駅北口の東十条北口跨線橋がある。
構造形式: 中路ブレースドリブ固定アーチ橋 橋長: 41.0m 幅員: 2.74m 支間長36.4m Wikipedia

by Twalking | 2018-08-18 18:53 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神楽小路-神楽坂   

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神楽小路/新宿区神楽坂
神楽坂と軽子坂を結ぶ坂下の横町です。
昔と余り変わってにですね・・・、
お世話になった、好きな横丁です。


by Twalking | 2018-07-17 19:30 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「酔石横町」-神楽坂   

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酔石横町/新宿区神楽坂
善國寺の向かいにある石畳の小路、雰囲気がありますね。
千鳥足で歩きたいことから「酔石横町」の名があるとか、
ぶらりとしたくなる露地です。

by Twalking | 2018-07-16 10:36 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 市ヶ谷水管橋   

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市ヶ谷水管橋/外濠通り
市ヶ谷橋の隣にある水管橋です。
下は釣り堀、親見附濠と中央線を跨ぎます。
説明板がないので、現役なんでしょうか???


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市谷水管橋
『東京市の水道が中央線と外濠をオーヴァするところ、市ヶ谷見付に架設された總長322呎の水道橋、幅員15呎で、徑間は563連、5831連連の5徑間。下路鋼鈑桁橋で、橋臺は混凝土、橋脚鐵筋混凝土造』(新東京名所市ヶ谷見附跨線水道橋)と紹介されているそうです。中央線を跨ぐ部分は(29.26m) 、外濠を跨ぐ部分は (17.07m) 3 + (17.68m) 1連の橋で、橋歴版には「昭和四年 株式會社橫河橋梁製作所 製作」とあります。


by Twalking | 2018-07-07 21:41 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ボアソナード・タワー   

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牛込濠/外堀通り(新宿区市谷田町)
「う、誰だい???」
「天下の法政よ!」
「ボアソナード・タワー、「学祖」さまか、失礼しました」


ボアソナード・タワー

千代田区富士見町2丁目にある超高層ビル(高さ122m)であり、法政大学市ヶ谷キャンパスの校舎である。法政大学創立120周年記念事業の一環として2000年に53年館と第Ⅱ58年館の跡地に建設された建築物である。千代田区富士見一帯の中で随一の高さを誇る建築物であり、法政大学市ヶ谷キャンパスのシンボルとして、学生の間では「ボアソ」と称され親しまれている。名称は大学内の公募によって決定された。法政大学の祖であり、同大学の前身である「東京法学校」の教頭として就任したボアソナード(フランスの法学者)に由来している。Wikipedia


by Twalking | 2018-07-07 14:25 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『高浜運河沿緑地』   

日時 2017.12.12(火)
天気 晴れ

天気がいいので品川から運河沿いを歩いてみました。
学生の頃、芝浦の倉庫街でバイトをしてましたが、
すっかり様変わりして、いい街になりましたね~。

天王洲は品川沖ですから歩いても近いですよ。
行き交う船やカモメが飛んで、海を感じられる
お手頃な散歩コース、「シーサイド」はいいですね!



・・・港南/港区


港区南部の東京港に面した沿岸に位置する。ほぼ全域が埋立地であり「隅田川口改良計画」の東京湾埋立3号地、「東京港修築事業計画」の埋立9号地、品川埠頭埋立地からなる。北で芝浦および海岸、南で品川区北品川および東品川、西で高輪、東で東京港を挟んで対岸に台場と隣接する。嘉永
61853)ペリー来航により危機感を抱いた江戸幕府が、江戸防衛のため現在の港南にあたる地区に台場(品海砲台)を建設する。1912年(明治45年)隅田川口改良工事が始まり、そのとき浚渫された土砂を使って芝浦一帯(現在の港南)の埋め立てが開始される。1933年(昭和8年)高輪海岸埋立地高浜町が起立され東京市芝区の所属となる。Wikipedia



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インターシティーの高層ビル群、再開発ですっかり変わりましたね/品川駅港南口

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御楯橋方向の景観です。高浜運河の両岸には遊歩道が付いています/楽水橋

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楽水橋から旧東海道の北品川宿は近いですよ/遊歩道

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右岸のモニュメント                モニュメントから覗いてみました


・・・東品川
(ひがししながわ)/品川区

品川区東部に位置する。北部は港区港南に、東京港になり品川区東八潮になる。南東部一体は京浜運河に接し八潮になる。東品川は旧来の陸地と新興の埋立地からなっており住宅、オフィスビル、港湾関連の施設、工場、商店などが見られる。東品川二丁目天王洲アイルと呼ばれており1990年代以降、先端的なオフィスビルが次々と登場した区域として知られる。東品川五丁目は北部の港区港南とともに品川ふ頭の一角を担っているところで港湾関連の施設や発電所が見られる
。(Wikipedia

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天王洲運河が区界、前方はかつては旧目黒川の河口だった所です/天王洲橋



・・・天王洲アイル/品川区

東品川
東品川二丁目に東京モノレール羽田空港線・東京臨海高速鉄道りんかい線の天王洲アイル駅がある。シーフォートスクエアの北半分にあたるシーフォートタワー付近は、江戸時代末期に江戸防衛のため築造された第四台場の跡である。また、ボードウォークの護岸は旧第四台場石垣を再利用したものである。天王洲は海中の土砂が堆積してできたで、1751年(宝暦元年)江戸前の海であった頃に、船人が牛頭天王の面をこの海域から引き上げたという。この面は南品川の天王祭において神輿の屋根につける「神面」となっているが、この謂れが「天王洲」の地名の由来となっている。また、アイル(isle)とは英語で「」を意味する言葉で、この地が東京湾のウオーターフロントの良き景観に恵まれたロケーションであるためこの名前がつけられた。1925年(大正14年)から埋立が始まり1939年(昭和14年)に完成。第四台場は埋もれ品川と陸続きとなり埋立地は工場や倉庫の用地として利用が始まるWikipedia

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天王洲ふれあい橋を渡ると天王洲アイルになります


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遊覧船の船着場があります、奥が天王洲水門&天王洲橋です/天王洲運河

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首都高羽田線                       りんかい鉄道天応洲アイル駅

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運河沿いのテラスでランチ&おしゃべりもいいですね~

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waterline(ウォーターライン)
天王洲アイルにある水上ラウンジである。現在はT.Y.HARBOR River Loungeに改称している。東京都では初となる民間による水上利用の開発プロジェクトとして2006年に完成した。内部は併設するレストラン(TYハーバーブルワリー)とあわせてラウンジ船となり、レストラン内で醸造された天王洲エールを飲むこともできる。また、隣接する天王洲ふれあい橋とあわせてドラマのロケ現場やイベント会場となることも多い。Wikipedia)
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港区ベイエリア 安心お散歩カナルコース


・・・・・
資料ファイル

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左が明治39年、右が現在の品川沖です(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:旧東海道 緑:中原街道 青:目黒川 赤丸:第四台場・第六台場)

明治維新後の品川 
嘉永6(1853)のペリー来航後、黒船を迎え撃つために急遽築造された品川台場(品川砲台)は、海上に浮かぶ第一から第七までの7でしたが、第四第七の台場は未完成のままであり、なかでも第七は海面を埋め立てただけでした。他に陸続きの台場「御殿山下砲台」が造られました。しかし、幕府の開国政策によって、完成した台場の大砲を使うことなく終わったことは、江戸庶民だけでなく品川宿周辺の村々にとっても幸運なことでした。明治維新後の品川台場は明治6(1873)に第一師団の中に設けられた海岸砲隊が管理にあたり、同8(1875)以降大正3(1914)までは陸軍省が管轄していました。第四台場は維新後に払い下げられ大正元年(1873)には東京府から緒明菊三郎に払い下げられて造船所となりました。陸軍省によって管理されていた品川台場は大正3年、4年の2回にわたって処分され、第三、第六台場は大正4(1915)74日に東京市に払い下げられ、同13(1924)に東京府によって史跡に仮指定され、同15(1926)1020日に史跡名勝天然紀念物保存法によって国の史跡に指定されています。このうち第三台場は関東大震災によって破壊されたため復旧工事が行われ台場公園として一般に公開していますが、第六台場原型を残していたため貴重な史跡として保存されています。その後、東京湾に浮かぶこれら六つの人工島は、史跡として指定された二つの台場を残し埋立地に埋没したり航路の支障になるということで撤去されたりしてきました。第四台場は大正14(1925)に埋め立てがはじまった旧天王洲町(東品川二丁目)の北側につながって陸続きとなり昭和30(1955)に港区から品川区に編入されています。第一、第五台場は品川埠頭の埋め立てで昭和37(1962)に撤去埋没してしまいました。第二台場は東京港整備の一環として昭和37年末に海上からその姿を消したのです。(品川区教育委員会)

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歌川広重『名所江戸百景』

地域内の往時の様子。画中の神社は現在の利田(かがた)神社(東品川)。手前の水路(当時の目黒川河口)は今では一部を除いて道路になり、背後の海も一部水路を除いて沖まで埋め立てられている。左下の遊郭は有名な相模土蔵を描いたものだともいう。Wikipedia

品川猟師町(旧目黒川河口)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25840234/


by Twalking | 2017-12-15 19:13 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 城南五山02-島津山・御殿山・八ツ山   

日時 2017.10.9(月)
天気 晴れ

池田山を下ると中原街道、この台地一帯は
東海道の北側の丘にあたります。
かつては大名屋敷や寺領だった所です。

島津山、八ツ山、御殿山いずれも閑静な住宅地、
落ち着いた雰囲気のある街です。八ツ山通りを
南へ登りましたが、のんびりと散策するには
味わい深い所だと思います。


・・・五反田


品川区の北部にあるJR山手線・東急池上線・都営地下鉄浅草線の五反田駅を中心とした地域名である。単に「五反田」と表記する地名はなくおおむね山手線を境に西五反田と東五反田に分かれる。東京城南区域の中核地としてオフィス街、繁華街、歓楽街として栄えている。江戸時代に「五たんだ」として出現した地名。目黒川がほぼ東西に流れその谷周辺の水田が、一区画が5反(約50002)あったために名づけられたと思われる。五反田は大崎村小字であり周辺でしか知られていない地名であったが、1911年に山手線の五反田駅が開業し星一が大規模な製薬工場(星製薬)を建設したことで知られるようになった。(Wikipedia

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街道の風景① 中原街道・相生坂の途中を右折して島津山へ向かいます/雉子神社前

相生坂
相生坂の名勝は古く江戸時代から呼ばれていた。その由来は御殿山方面から宝塔寺(東五反田1丁目)前を通る道とこの坂のある中原街道が雉子神社(東五反田1丁目)の手前で合流していたことにもとづくとされる。昔は急坂が険しいものであったが、だんだんに道路整備がされて現在のようになった。別名を雉子ノ宮坂ともいう。(案内標柱)


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宝塔寺山門/東五反田


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宝塔寺
新編武蔵風土記では文亀2年(1502南品川漁師町に建てられたのが始まりだと記し、しかし南品川漁師町は明暦年間(1655-1658)に海岸の寄洲を埋立ててそこにできた町であるから、この伝承は信じられないとしている。万治年間(1658-1661)にのちに下大崎村に建てられた大名の一柳家の下屋敷の近くに移ったが、目黒川に近いので屡屡水害を受けたため現在の場所に移ったという。開創当初は法東寺といったが寛永頃(1624-1644)に宝塔寺と改め慈光院と称したといい、また正徳4年(1714)中興開山伝陽の代に寺格が上り、山号を許されて白雉山と称したという。このときから麹町城琳寺末寺となったといわれている。(品川区の文化財)

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雉子神社鳥居
/東五反田

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雉子神社(きじじんじゃ)
品川区東五反田にある神社。創建は文明年間(1469-1487)と言われている。村民の霊夢により大鳥明神を祀っていた。江戸時代に入り、慶長年間になり三代将軍・徳川家光が鷹狩に来た時、一羽の白雉が社地に飛び入ったのを稀なめでたいしるしとして家光から「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、「雉子ノ宮」と改称した。そして江戸社寺名所にその名を連ねた。明治維新の際に雉子神社と改められる。明治時代以前は隣接してある宝塔寺が別当寺であった。明治43(1910)に上大崎村にあった三島神社を合祀して現在に至っている。(Wikipedia

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江戸名所図会 雉の宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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袖ヶ崎神社/東五反田
当神社はもと忍田稲荷大明神と称し保延3年(11372月鎮斎され、のち康永3年(1342越前国丹生郡小川村の鎮守八幡宮の神主山口直奇の次男直正が東国へ下向し、当神社の神主となった。この時直正累代の守護神、神明宮を社の南方へ勧請し、地名をもって袖ケ崎神明宮と奉称、明治に至るまで忍田稲荷と称していたが、その後、袖ケ崎神社と改め現在におよんでいる。去る昭和205月の戦災により社殿・社務所・末社等一宇も残さず焼失した。(東京都神社名鑑)

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本立寺/東五反田
慶長2年(1597)に池上本門寺12世日惶が上目黒村に建立したのが当寺の始まりであり、開基は能勢市十郎頼永の妻、法性院天窓日忠といわれている。その後この寺は衰微して無住となったので、現在の場所にあった同宗の恵性寺の住職が兼帯していた。貞享4年(1687)幕府の寺院整理政策によって恵性寺が廃寺とせざると得なくなったとき、同寺の住職が願い出て本立寺名跡を同寺に移して恵性寺の跡を残したものと伝えられている。(品川区の文化財)

中原街道(五反田・高輪)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22226945/


・・・島津山

品川区東五反田
13丁目付近の高台に相当する。名称は旧島津公爵邸に因み、同邸宅は現在清泉女子大学となっている。

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街道の風景② 落ち着いた街並ですね~、右手に曲がると清泉女子大学です

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階段が多い街ですが、いずれも個性的で風情がありますよ~

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街道の風景③ 左手が清泉女子大、島津山になります、下って八ツ山通りに向かいます

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清泉女子大学/東五反田3丁目
相生坂八ツ山の坂の間に位置し「島津山」と呼ばれる区内有数の高級住宅地の一角にあります。本館は旧島津公爵邸として大正4年に建てられたルネッサンス様式の美しい洋館で、邸内の見学会も行われています。昭和62年には「しながわ百景」に選定されています。(品川区)

袖ヶ崎島津邸
老朽化した袖ヶ崎邸を英国風洋館に改築することを計画し1906年(明治39年)にジョサイア・コンドルに設計を依頼した。設計変更・明治天皇の崩御等もあって竣工したのは1915年(大正4年)。設備や調度等が整えられ1917年(大正6年)に披露された。その後、戦争のため維持できなくなり1944年(昭和19年)に日本銀行へ売却。周囲は大半が戦火焼失したにもかかわらず邸は焼失を免れる。1946年(昭和21年)1月から1954年(昭和29年)5月までGHQの管理下に置かれ、1961年(昭和36年)清泉女子大学本館となる。周囲一帯を島津山という。(Wikipedia


・・・北品川(五丁目)

東側は北品川四丁目、北側は北品川六丁目になる。当地も「御殿山」と呼ばれる一帯で邸宅や高級マンションが多く見られる。区域北端に八ツ山の坂(通称ソニー通り)、区域内に小関通りが通る。かつては北部にある六丁目とともにソニーの本社や関連施設があったが、五丁目にソニー御殿山テクノロジーセンターを残し2007年に港区港南一丁目(品川駅東側)へ移転した。20124月に着工した「北品川五丁目第1地区第一種市街地再開発事業」が2015年にパークシティ大崎として開業した(Wikipedia

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街道の風景④ 八ツ山の坂を上ります/八ツ山通り(ソニー通り)

八ツ山通り
北方の高輪には三菱関東閣で有名な八ツ山(土砂採取され、現在は山はない)がある。そこに向かう八ツ山の坂(八ツ山通り、通称ソニー通り、都道317号環状6号線の一部)は目黒川・五反田付近から端を発し左に池田山や島津山、中央向かいの八ツ山に並んで右側に御殿山と「城南五山」のうち4つの山の間を通る坂である。(Wikipedia


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ソニー村
ソニー株式会社の根拠地だったことで知られる品川区の御殿山地区を指す通称。ソニーの前身である東京通信工業株式会社(1958年に現社名に改称)が創業翌年の47年同地区に本社を移転。以来、周辺に同社の主要関連施設が多数建設されラジオやテレビ、ウオークマンなどのヒット商品が生み出された。90年にはNSビルが完成し2007年に現在の本社ビル(東京都港区)が稼働するまで本社機能を担った。07年度に地区内の大半のビルが売却され14年にはNSビルの売却が決定。同エリアにはソニー歴史資料館などわずかな施設が残るのみとなっている。(コトバンク)

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八ツ山の坂/坂上
このあたりは武蔵野台地突端にあった丘陵で、湾岸に突き出した洲が八つあったところから八ツ山と呼ばれた。この地にある坂のためにいつしか八ツ山の坂という名がつけられた。この道はもと三間道路と呼ばれ、道幅が3(約6m)で、あたりには人家も少なく夜は寂しい通りであったという。(標柱)

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旧因幡鳥取藩池田家下屋敷跡(元出雲松江藩大崎屋敷跡)
この地は鳥取藩下屋敷になる以前は出雲国(現・島根県)松江藩松平家下屋敷跡(拝領地14982坪、抱地4230坪)で、7代藩主松平治郷(号・不昧)が隠居後ここに独楽庵はじめ11の茶室を造り茶道三昧の晩年を送ったところとしてしられる。その後、周辺の川辺の抱地以外は幕府に公収され嘉永6年(1853)に鳥取藩池田家に下屋敷として与えられた。このころ著名な茶室は取り払わりたという。安政2年(1855)頃の鳥取藩松平(池田)相模守慶徳(15代軍慶喜の兄)は325千石の家禄があり、上屋敷は八代洲河岸(現・千代田区丸の内)中屋敷は浜町大橋際(現・中央区浜町)にあった。(説明板)


・・・北品川(四丁目)


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区域東部はJR線の線路に接し北品川三丁目になる。西部は御殿山通りなどを境に北品川五丁目と接する。一帯は「御殿山」と呼ばれる高級住宅地として知られる。邸宅やマンションが見られるほかJRの線路沿いには御殿山トラストシティ(旧・御殿山ヒルズ→御殿山ガーデン)という高層マンションとオフィスビル・ホテルなどの複合建造物が設置され付近のランドマークにもなっている。区域北東端の新八ツ山橋・八ツ山橋付近は幹線道路が集まっており交通の要所としても知られる。品川御殿は品川区北品川3丁目5番付近、英国公使館は北品川3丁目5番から6番、北品川4丁目8番東側と推定される。(Wikipedia

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街道の風景⑤ 坂上を右折し「道灌通り」を西へ、古は居木橋から高輪への道はこの辺り通ったんでしょうか?/御殿山交番先

道灌通り

江戸時代の地誌のひとつ「江戸砂子」などのほか多くの書物の中に「御殿山は太田道灌居住したと言い伝えがある」と書かれています。道灌ゆかりの地として通りの名となったのでしょう。(案内板)


・・・御殿山

品川区北品川3-6丁目付近の高台に相当する。名称は徳川将軍家が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があったことに因む。旧邸跡は現在の御殿山トラストシティと原美術館になっている。


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御殿山花見・品川全図/広重(国立図書館蔵)

御殿山
南北にのびる品川宿の中央、目黒川の北に広がる丘陵。長禄(1457-1460)期には大田道灌の屋敷があった。寛永1624-1644)の頃、この地に御殿が建てられたことが名前の由来。使用目的は「将軍の狩猟の休息所」「西国大名の参勤送迎」など諸説ある。寛文(1661-1673)の頃から吉野が植えられ桜の名所となったが、御殿は元禄151702)年2月の大火で焼失しそのまま再建されなかった。幕末、御殿山は品川台場建設のために一部を削られ、また文久21862)年には高杉晋作、久坂玄瑞、井上薫らにより新築中の英国公使館が焼き打ちされ全焼となる「御殿山焼き打ち事件」があった。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立図書館)

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原美術館
品川区北品川にある原俊夫が設立した現代美術を中心とした私立美術館である。JR品川駅から車で5分ほどの住宅街のなかにある原美術館は東京ガス会長、日本航空会長、営団地下鉄総裁などを歴任した実業家・原邦造の邸宅であった。原邦造の養父の原六郎も実業家・美術品収集家として知られている。(Wikipedia

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御殿山の坂
ミャンマー大使館の前から小関に下る坂で、以前は現在よりさらに急な坂であった。戦前と戦後にかけて道を修理し勾配を緩和した。当時この辺は徳川藩の御料地であり、御殿山と呼ばれていましたのでこの名になりました。(品川区)


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御殿山通り
御殿山の地名のおこりは太田道灌の館があったからとも、また江戸時代に将軍の別邸があったからともいわれている。この通りが御殿山を横断する通りであることから御殿山通りとした。(品川区)
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御殿山庭園/北品川

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殿山庭園
品川駅から徒歩10分、八ツ山の坂と第1京浜に挟まれて御殿山アークヒルズが天高くそびえたっています。その裏手にあるのが御殿山庭園。よく管理された園内は南に行くにしたがって谷地になっており、ビルとのコントラストがよくとれた時間と空間を周りからシャットアウトできる絶好のスポットです。池に注ぐ滝は水量も多く、ライトアップされる夜間には大人たちに絶好のロケーションを提供してくれています。(品川区)

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東海道線を御殿山橋が跨ぎますが、鉄道建設等で分断された様子が分かります


・・・八ツ山

港区高輪
3-4丁目付近の高台に相当する。名称の由来については諸説ある。かつて岩崎家の別邸で、現在は三菱グループの施設となっている開東閣があるWikipedia

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街道の風景⑥ 庭園をひと廻りして第一京浜を下ります、左手が開東郭になります/御殿山交差点

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東海道名所案内 
品川八ツ山下/国貞(国立図書館所蔵)

谷ツ山-大日山
品川宿の最北端にあった丘陵。明和91772)年刊の『江戸砂子』によれば名前の由来は以前ここに「8つの岬があったため」「8つの大名屋敷があったため」など諸説ある。また別名の「大日山」は1700年代初め頃までこの地に大日堂があったことに由来する。麓の海岸には長さと幅がそれぞれ約18mの船繋場があり旅客や往来者が利用した。なおこの山の土は八ツ山下の海辺の石垣整備、目黒川洪水の復旧など土木普請用に使われ、現在では坂があるがほぼ平地となっている。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立図書館)

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開東閣
港区高輪にある建築物、旧岩崎家高輪別邸である。高輪台の東にあり11200坪の広大な敷地面積を有する。一般公開はされておらず現在は三菱グループの倶楽部として使われている。周りに鬱蒼と木々を茂らせ外部からは建物自体が視認出来ないようにしてある(Wikipedia)

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街道の風景⑦ 右手が開東郭(八ツ山)奥が御殿山トラストシティ、下ると品川駅です/八山入口

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八ツ山橋
初代の八ツ山橋は1872年(明治5年)に架けられた日本初跨線橋である(この橋は木造橋)。1914年(大正3年)にアーチ形の鉄橋に架け替えられ、1924年(大正13年に東京電車鉄道が省線品川駅前から京浜電気鉄道旧品川駅前まで延伸により八ツ山橋上軌道を敷き、1925年(大正14年)に京浜電気鉄道本線が高輪駅までの延伸に伴いこの軌道線の一部に乗り入れをした。1930年(昭和5年)に既設アーチ橋(2代目)の西側に併設する形でアーチ橋(3代目)を架設し「2つの橋」となる。その後、京浜電気鉄道本線が現在の品川駅に延伸・軌道線廃止により1933年(昭和8年)供用した「八ツ山跨線橋」へ移り、東京電車鉄道の品川駅前から北品川駅前までの廃止により八ツ山橋は道路専用橋となる。1985年(昭和60年)に4代目の橋に架け替え現在に至る(Wikipedia
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街道の風景⑧ 八ツ山橋を渡ると東海道・品川宿の入口です/八ツ山口

東海道品川宿(北品川)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25825171/

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御殿山周辺地図(90°回転)
(橙:歩行ルート 赤:東海道 青:目黒川)

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御殿山周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 紫:中原街道 緑:中世古道 橙:八ツ山の坂 青:目黒川) 


・・・・
資料ファイル

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品川の霊場・御殿山
御殿山はかつて海を一望できる小高い丘陵でした。幕末の台場築造に伴う土取りの際に、14世紀初頭~15世紀末にかけて造立された大量の碑や宝輪塔、宝篋印塔が人骨とともに見つかりました。中世の御殿山は極楽往生を願って供養や葬送が行われた霊場であったことが想定されます。また、船の航行する目印となる「当て山」であったと考えられます。(品川歴史館)
写真:「浜御殿山より品川新宿迄江戸街道絵巻(部分)」/東京都江戸東京博物館蔵

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品川御殿
中世においては墓石や供養塔が立てられた霊場であり、船が航行するときの目印にしたとされる御殿山は、江戸中期に桜の名所となったが、徳川将軍家の別邸「品川御殿」にその名の由来をもつ。品川には鷹狩場(品川筋 のち目黒筋と改称)があったことから歴代将軍がよく訪れており、御殿はその休憩所として使用された。また、海を一望できるその立地から品川御殿は軍事的な意味を持ち、江戸の防衛上重要な位置にあったと想定される。(品川歴史館解説シート抜粋)

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寛永期の御殿山(ジオラマ)/品川歴史館
(右上:品川御殿 中:品川神社 左:東海寺)

by Twalking | 2017-10-15 23:29 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 城南五山01-花房山&池田山   

日時 2017.10.9(月)
天気 晴れ


八ツ山や御殿山は街道筋なので知ってますが、
「城南五山」というのは知りませんでした。
目黒から北品川へ続く丘陵のピークを言います。

目黒川低地の東側、山手線の内側の高台ですが、
江戸の頃は大名の下屋敷で、名の謂れとなっています。
閑静な住宅地、坂も面白そうなので訪ねてみました。


・・・下目黒/目黒区


目黒区東部地区に属する。北で目黒一~四丁目、東で品川区上大崎四丁目、南で品川区西五反田三・四丁目、南西で品川区小山台一・二丁目、西で目黒本町一丁目、北西で中町一丁目と接する。町域の東部には平安時代前期の創建とされる瀧泉寺目黒不動)があり、毎月28日の縁日には多くの人出で賑わいを見せる。一丁目と三丁目は坂が多く、なかでも行人坂は都内屈指の急坂である
Wikipedia

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街道の風景① 行人坂を目黒川へ下ります/大円寺前

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行人坂
行人坂は下目黒一丁目8番の雅叙園西わきを北東へ、目黒川の太鼓橋から目黒駅の東方に上る急坂である。この坂は江戸時代に権之助坂が開かれる前は二子道として江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。「江戸名所図会」には『目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す』とある。行人坂という名称は湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ「行人坂火事」とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったのでだれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。現在、雅叙園のある付近一帯はかつて「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉が夕陽に映えるさまは実に見事で、品川の海晏寺とともに江戸中に知れわたっていたところである。(『明王院の後ろの方、西に向かへる岡をいへり。古へは楓樹数株梢を交へ、晩秋の頃は紅葉夕日に映じ、奇観たりしとなり。されどいまは楓樹少なく、ただ名のみを存せり』「江戸名所図会」)。行人坂が急坂であることは権之助坂を下ったところにある「新橋」よりも「太鼓橋」が低い位置にあることからうかがえる。(目黒区)

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大円寺本堂

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大円寺/下目黒
天台宗。この寺は「松林山大円寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切り開き、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりであると伝えられています。本寺には「生身の釈迦如来」と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)「木造十一面観音立像」(区指定文化財)徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。

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明和92月(1772)本堂から出火、江戸六百余町を焼き多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀如来三尊像」(区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。境内には「行人坂敷石石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。(目黒区教育委員会)

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川の風景 上流の新大橋(権之助坂)の景観です」/太鼓橋

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太鼓橋
太鼓橋は行人坂から目黒不動へ向かう道筋の目黒川にかかる橋です。明和61769年)に完成し、長さ83尺(約15.3m)幅2m間(約3.6m)太鼓の胴のような形をした石橋でした。広重の『名所江戸百景』の中にも描かれた橋でしたが大正991日の豪雨で崩落しました。翌年、木橋が架けられ、昭和7年に東京市編入記念事業として鉄橋に架け替えられ、平成3年の目黒川改修工事に伴い現在の橋になりなした。太鼓形ではありませんが橋名は昔のまま受け継がれています。(目黒区)

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江戸名所図会 夕日岡 行人坂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大鳥神社鳥居/下目黒

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大鳥神社
かつての目黒村(それ以前は下目黒村)の鎮守。11月に行われる酉の市でも知られる。言い伝えによると景行天皇の時代に当地に国常立尊を祀った社があり、日本武尊東夷平定の折に当社に立ち寄って祈願した。その後日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降り鳥明神として祀られ、大同元年(806)に社殿が完成したという。この年を大鳥神社では創建の年としておりこれは目黒区最古である。江戸図における最古のものとされている室町時代の長禄の江戸図には「鳥明神」として当神社が描かれており、当時の江戸図には9つの神社しか描かれていないため、大鳥神社は江戸九社のひとつとして知られている。

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また江戸名所図会では「大鳥大明神社」として描かれている。当神社の酉の市は江戸時代の天保6年(1835)に当地の農家が浅草から取り寄せて売ったことから始まったといわれている。現在でも11月の酉の日には境内には熊手を扱う店が軒を連ね賑わいを見せる。現在の社殿は昭和37年(1962)に完成したもの。平成18年(2006)には鎮座1200年祭が行われた。隣接する目黒通りと山手通りの交差点は大鳥神社の名前が冠せられており、交通の要所となっているWikipedia

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織部式燈籠(切支丹燈籠)
下目黒の大鳥神社所蔵で昭和38年守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示されていたものです。もとは千代が崎(東京都教職員研修センター附近)の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて造られたものと考えられます。(境内掲示)

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大鳥神社のオオアカガシ
大鳥神社境内に生育していたオオアカガシは、基本種のアカガシに比べ非常に大きく薄い葉を繁らせ、また、雄花穂の花軸はアカガシより太く長く、苞や果実も大きいという特徴からアカガシの変種とみなされました。新変種命名の基準となった本樹は、学術上貴重な樹木として昭和38年に東京都の天然記念物に指定されました。本樹の枝葉は現在でもオオアカガシのタイプ標本として、国立科学博物館筑波実験植物園に保管されています。指定時に樹高約16m、幹周り1.6mあった本樹は、生育環境の変化等により昭和50年代初め頃から樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されましたが平成14年枯死が確認されました。また、後継樹育成のため挿し木による増殖も試みましたが成功せず、平成24年に指定解除となりました。ここに説明板を設置し都内でも学術上貴重な名木が存在したことを後世に伝えるものです。(東京都教育委員会)

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江戸名所図会 大鳥明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景② 権之助坂(目黒通り)を目黒駅に上ります/大鳥神社先

目黒不動尊の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22246396/



・・・上大崎/品川区


品川区の北部に位置し港区・目黒区・渋谷区との区境に接する。北部は目黒区三田・渋谷区恵比寿に、東部は港区白金台に、南東部は品川区東五反田に接する。南西部は品川区西五反田に、西部は目黒区・下目黒にそれぞれ接する。山手線の線路が縦断しており目黒駅がある。また地域内を東西に目黒通りが通っている。目黒駅周辺には商業施設が見られる。上大崎一丁目付近は白金台や池田山に隣接し、上大崎二丁目付近は高速道路脇の通称「(白金)長者丸」、上大崎三丁目付近は大使館が多く集まり通称「花房山」と呼ばれ高級住宅地としても知られる。
Wikipedia

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街道の風景③ 右手がJR目黒駅、目黒区だと思ったら品川区なんですね/駅前

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江戸名所図会 富士見茶亭 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

夕日の岡
目黒駅のあたりは高台の地で目黒川に続く荏原台の方角に沈む夕日が趣深く「夕日の岡」と呼ばれていました。江戸後期に刊行された『江戸名所図会』には挿絵入りで紹介されていますが『昔は紅葉が一面に生い茂り、晩秋の頃は夕日が照り映え見事であったが、今は紅葉も少なく、その名だけが伝わっている』と書かれていて、当時、既に様子が変わっていたことがわかります。しかし、はるか西南に富士山を望む景勝地であったことに変わりはなく『江戸名所図会』には行人坂上富士見茶屋で人々が休憩する様子も描かれています。(文化財めぐり/目黒区)

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生誕八幡神社
鳥居/上大崎


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生誕八幡神社
当神社は文明年中(1469-87
太田道濯公の勧請により創立され、明治維新前は誕生八幡宮と称し高福院別当であったが、維新後、下大崎村鎮座の雉子神社の摂社として八幡神社と称して永峯町、六軒茶屋町二力町の崇敬者によって維持奉祀されてきた。明治42614日、六軒茶屋町551番地の稲荷神社を合祀した。戦後社号を誕生八幡神社と改称して現在におよんでいる。(東京都神社名鑑)

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高福院山門/上大崎

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高福院
高野山真言宗。寛永年間(1624年から1644年)に香川の高松藩主松平讃岐守が現在の国立自然教育園一帯に下屋敷を拝領した折に創建したといわれています。墓地には大正から昭和期にかけて活躍した劇作家・小説家の長谷川伸、版画家の恩地孝四郎、江戸時代後期の蘭学医石井宗謙の墓があります。石井宗謙はシーボルトの鳴滝塾に学んだ人物で、シーボルトの娘いねに産科の技術と知識を指導しました。(文化財めぐり/目黒区)


・・・花房山

城南五山
東京の城南地区にある高台5ヶ所の総称である。いずれも山手線の内側、目黒駅から品川駅にかけての地域にあり、古くからの高級住宅街として知られる。島津山 池田山 花房山 御殿山 八ツ山で構成されるWikipedia

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この辺りがちょっと小高い感じがします/花房山通り

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花房山
花房山の桜並木。周辺は静かな住宅街。そばにはJR山手線が通る(写真:コロンビア大使館)

「花房山」の由来
住所は上大崎3丁目山手線に沿った地域。目黒駅の東側、目黒通りをはさんで南側に位置するのが花房山。明治末、花房子爵が屋敷を構えたことによる呼称で、現在も山手線沿いの道路に「花房山通り」の名称がつけられている。花房子爵とは花房義質という明治、大正期の高名な外交官。爵位授爵の際にこの高台に邸を構えた。(品川観光協会)

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街道の風景④ 山手線に沿って五反田へ下ります/花房山通り

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旧・播磨三日月藩森家上屋敷跡/上大崎3丁目播磨国
(現・兵庫県)森家上屋敷は品川区内の大名屋敷の中で唯一の上屋敷である。三日月藩は1万5千石の大名で、上屋敷と地続きの抱屋敷を含めて約1万坪余の広さがあった。屋敷一帯の字は「森ヶ崎」と呼ばれているが、森家の「森」と舌状台地の先端を示す「崎」から名付けられたとされている。安政3年(1856)頃の三日月藩主は森伊豆守俊滋。(品川区教育委員会)


・・・東五反田/品川区


品川区の北部に位置する。町域北部は品川区上大崎・港区白金台に接する。東部は港区高輪、南東部は品川区北品川に、南部は目黒川に接しこれを境に品川区大崎に接する。西部は山手線の線路に接しこれを境に品川区西五反田に接する。東五反田三丁目付近は通称「島津山」、東五反田五丁目付近は通称「池田山」と呼ばれておりこれらの付近は高級マンション、邸宅などが見られ山の手を代表する高級住宅地としても知られる。皇后美智子も当地(東五反田五丁目)の出身であるWikipedia

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街道の風景⑤ 坂下の外苑西通りを上り返して先を右折、池田山に向かいます

外苑西通り

東京都道418号北品川四谷線のうち富久町西交差点から四谷四丁目、南青山三丁目、西麻布、天現寺橋を経由し、白金六丁目で左折して白金台交差点に至る区間には「外苑西通り」の名称がついており、これは1984年(昭和59年)の「東京都通称道路名設定」にも含まれている。外苑西通りは1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックに向けて着工された通りであるWikipedia


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インドネシア大使館先にねむの木の庭  この先が池田山公園入口です


・・・池田山


品川区東五反田45丁目付近の高台に相当する。名称は備前岡山藩・池田家の下屋敷があったことに因む。池田山には池田山公園やねむの木の庭といった公園も整備されている。


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ねむの木の庭/東五反田

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ねむの木の庭
品川区東五反田五丁目にある品川区立の公園である。当地にはもともと皇后美智子生家として知られる正田家の邸宅があった。1933年(昭和8年)に日清製粉正田英三郎社長邸として当時の清水組が設計施工した。趣きのある建物だが故正田英三郎の遺産にかかる相続税の一部として2001年(平成13年)に国に物納された。建物の老朽化が激しく、建物の保存を求める要望書の提出のほか、署名や募金を呼びかけたり長野県軽井沢町への移築も検討されたりしたが、建物は2002年(平成14年)に解体された。その後、品川区が国から公園用地として跡地を取得して整備、2004年(平成16年)「ねむの木の庭」として開園した。名前の由来は皇后が高校時代に自身で作った詩「ねむの木の子守歌」に因む(Wikipedia)

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眩いばかりの緑、これが紅葉したら美しいでしょう
ね~/池田山公園

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池田山公園
品川区東五反田にある品川区立の都市公園である。当地一帯は江戸時代、岡山城主・池田氏下屋敷があったところであり、付近一体の高台は「池田山」という名称で呼ばれた。廃藩置県以降も池田氏の屋敷として使われていた。やがて池田山付近は宅地化され邸宅が立ち並び、池田山は山の手有数の高級住宅街として知られるようになった(そのなかの邸宅のひとつに皇后美智子実家である正田家の邸宅があった。現在建物はなく跡地はねむの木の庭という小さな区立公園になって一般に公開されている)。

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また、池田山公園のあるところは池田家の下屋敷の奥庭の部分であった。戦後しばらく私人の邸宅があったところであったが品川区が庭園を保存すべく土地を取得し公園として整備し、1985年に区立公園として開園されたものである。現在でも江戸時代回遊式庭園が良好に整備・保存されており一般に公開されている
Wikipedia
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谷戸にひっそりと佇む大池、オアシスですね、美しい

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街道の風景⑥ 池田山を下ると中原街道、南側の丘が島津山になります/東五反田

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目黒駅周辺地図(180°回転)
(赤:歩行ルート 青:目黒川 緑:目黒通り・山手通り・外苑西通り)

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目黒駅周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:目黒道 紫:中原街道 青:目黒川)


・・・・
資料ファイル


江戸の大名屋敷
大名屋敷に上屋敷・中屋敷・下屋敷の制が整えられたのは明和31657)の大火以後のことである。上屋敷は藩主やその家族が住む居屋敷として江戸城周辺に、中屋敷は隠居や嗣子(しし)の住む屋敷として主に江戸城の外堀の内側に営まれ、上屋敷罹災の折予備の邸宅にあてられた。下屋敷のうち海浜、川辺のものは国許から送られてくる物資の荷揚場・蔵屋敷として、また江戸近郊に設けられてものは避難用の屋敷として位置づけられたが、いずれも築山や園池を配し休息用の別荘としても利用されていた。これらは、幕府から大名が拝領するもので(拝領屋敷)、大名自ら土地を買い上げて屋敷にする抱地・抱屋敷とは異なる。
当時江戸近郊に位置した品川地区には大名・旗本などの下屋敷・抱屋敷が多くみられた。大井村の島津(薩摩藩)、山内(土佐藩)、上大崎村の一橋、真田(松代藩)、下大崎村の伊達(仙台藩)、北品川の細川(肥後宇土藩・熊本藩支藩)の屋敷などである。(品川歴史館解説シート抜粋)

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品川区域の武家地一覧(安政3年・1856頃)/品川歴史館


目黒道

江戸市中から品川宿を経由しない主な道筋をみてみましょう。今の港区二本榎から中原街道を利用して東五反田一丁目付近から西に入り、徳蔵寺・谷山橋・安楽寺を経て目黒不動へ、もしくは徳蔵寺に向かわず直進し今の本村橋を渡ってから安楽寺方向へ行く道筋でした。また今の港区白金(江戸時代の白金大通り)から六軒茶屋町、今の誕生八幡神社付近から目黒駅近くの行人坂を経て目黒川に架かる太鼓橋を渡って目黒不動に至る道筋がありました。さらに港区赤坂・麻布付近からは広尾を経て爺ヶ茶屋 (じいがじゃや)(目黒区三田2丁目)を通って茶屋坂から目黒川に架かる田道橋などを渡り、大鳥神社から目黒不動へゆく道などもありました。 このように目黒不動尊へは江戸からも周辺の村々からも多くの道筋がありました。当然、参詣者も多く目黒駅近くの上大崎4丁目から下目黒2丁目に下る行人坂をすぎるあたりから竜泉寺門前まで酒食の茶屋や土産物屋が連なっていたといいます。(江戸時代の道/品川区より抜粋)



by Twalking | 2017-10-13 12:39 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)06-品川猟師町   

日時 2017.9.29(金)
天気 晴れ


「五街道」ということでは八ッ山口から青物横丁辺りの旧道を
街道筋にある案内で史跡や幾つかのお寺などを訪ねられますが、
やはり品川湊、旧目黒川の河口は外せないポイントだと思います。

品川湊は武蔵国府の国府津との説もありますし、鎌倉幕府、
執権北条一門、上杉氏(大田道灌)、後北条氏と古くから
拠点として重要視した湊、古刹が多いのもこれに関連しています。
久し振りに歩きましたが、じっくり見て歩くと面白いですね。



・・・東品川


品川区東部に位置する。北部は港区港南に、東部は東京港になり品川区東八潮に、南東部一体は京浜運河に接し品川区八潮になる。南部は都道420号鮫洲大山線に接し品川区東大井に、西部は元なぎさ通り・八ツ山通りに接しこれを境に品川区南品川・北品川になる。
Wikipedia

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南品川猟師町と利田新地
南品川猟師町は洲崎(すさき)(冽崎)とも呼ばれ、現在の東品川1丁目の一部で目黒川河口砂洲(寄洲・よりす)にできた町です。この町の誕生は江戸時代の明暦の頃(1655年頃)で、その昔は兜島と呼ばれ人家は無かったといいます。漁業を生業として幕府に対して魚介類を納める御菜肴八ヶ浦のひとつでした。また猟師町の地先は江戸時代中頃から埋立が行われ、新しく開かれた土地ということで「南品川新開場(しんかいば)」といい、この開墾に着手した南品川宿の名主利田吉左衛門(かがた)の姓をとって「利田新地」と呼ばれていました。幕末、この地の東側に「御殿山下砲台」が築造されました。現在の台場小学校周辺です。『江戸名所図会』には南品川猟師町と利田新地の名所として洲崎弁天寄木明神社2ヵ所が挿し絵とともに紹介されています。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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旧河道の風景① 元なぎさ通りは旧目黒川の流路でした、右手が寄木神社です/新品川橋先

元なぎさ通り

かつて旧東海道のすぐ東側は潮の香りとさざ波の寄せるきれいな海が広がっていた。この通りは埋め立て前さざ波が寄せたなぎさの場所にあたる。このことにちなんで元なぎさ通りとした。(品川区)

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北浜三社稲荷とイチョウ
推定樹齢400年以上の大銀杏と稲荷大明神の社。このイチョウは品川浦を航行する舟の目印となった由緒ある木のひとつ。海辺のまちの面影をとどめる貴重な風景。地元で北浜(北品川宿浜通りの略)と呼ばれる地域にある稲荷社。大きないちょうと赤い鳥居のコントラストがとても美しい。(しながわ観光協会)

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寄木神社鳥居/東品川

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寄木神社
日本武尊東夷御征伐のみぎり、相模国の海中にて南風烈しく吹き、御船が沈まんとする時、弟橘姫命は御船を救わんと、海神の怒りを鎮めるために御入水せられた。そのみぎり当品川浦へ船木流れ寄りそのところに神霊を勧請したという。また兜島伝説として源義家朝臣、奥州征伐の時、この地に馬をとめ寄木明神の由来を漁人に問いしに、漁人当社の神伝を答え奉れば、義家朝臣白から奉幣ありて軍の勝利を祈り給う。奥羽平定ののち、帰路再び当社に詣でられを奉納した。以後この地を兜島といった。亀の甲社の由来として、明治末品川浦に大海亀迷いこみ、猟師大勢にてこれを捕え村民に披露した。この大亀不幸にも独り鎖を首に巻き付けて死亡した。この甲は当時の小学生音楽隊を先頭に上野まで行進し博物館へ寄贈した。後、その霊を末社に祀った。(東京都神社名鑑)

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鏝絵天鈿女命(あまのうずめのみこと)功績図
本殿正面奥の二枚扉の内面にある鏝絵(こてえ)は、幕末から明治にかけて活躍した左官の名工・伊豆の長八(本名入江長八:181589)の手になるもので、向かって左扉には上の方に天照大神、下の方に天鈿女命を描き、右扉の方には猿田彦命を描いている。これは天照大神が素戔嗚命の乱暴によって岩戸に隠れて世の中が暗くなった時、天鈿女命が滑稽な踊りをして神々を笑わせ、それに誘われて天照大神が岩戸を開き、世の中が再び明るくなったことと天照大神の子孫が地上に降った際、天鈿女命はこれを妨害した猿田彦命を服従させて道案内をさせたという神話に基づいている。共に漆喰の壁面に鏝で像を盛り上げ浮彫風に彩色したもので、製作者の独自の発想と創造による技法である。品川区指定有形文化財(品川区教育委員会)写真は手水舎です

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寄木神社付近                横町の風景

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江戸名所図会 寄木明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

南品川猟師町のもうひとつの名所「寄木明神社」現在の寄木神社で日本武尊と弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が祀られています。挿し絵では海岸に漁師の舟のほか魚を取る網や海苔養殖に使う「粗朶(そだ)ひび」という木の枝も描かれ漁師町の様子がわかります。『江戸名所図会』にはこの寄木明神社の由来について「土地の人たちが弟橘姫の霊を祀るために社を建て寄木明神とした」とあります。この弟橘姫の伝説は日本武尊が東征の途中、海上が荒れて船が転覆しそうになり海を鎮めるために妃の弟橘姫が海神に祈願して入水したという、その時の船の残り木が流れ着いたので祀った、または弟橘姫の御衣(ぎょい)が流れ着いたので祀ったといった伝承です。このほかに源義家が奥州出兵のときにこの寄木明神に立ち寄り戦勝祈願をしたといいます。奥州平定後の帰路に再び立ち寄り、兜をこの社に納めたのでこの地を兜島と名付けたなどこの地の伝承を紹介しています。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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旧河道の風景② 柳ですね~、本陣が置かれた聖蹟公園の付近です

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利田神社鳥居(かがたじんじゃ)

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利田神社
当社は元洲崎弁財天と称せられ、由緒不詳であるが寛永3年(163696日東海寺の沢庵禅師これを祀り、弁天社と号したといういい伝えがある。福徳智恵の神として信仰され、近来福寿弁財天とも尊称せられている。(東京都神社名鑑)


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鯨塚
この鯨碑(鯨塚)は寛政10年(179851日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約16.5m)高さ六尺八寸(約2m)の大鯨で江戸中の評判となった。ついには11代将軍家斉(いえなり)が浜御殿(現浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。(品川区教育委員会)写真は品川浦公園です

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旧河道の風景③この辺りが目黒川の河口でしょうか、船溜まりに面影が残ります/品川浦 

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天王洲運河に繋がります        北品川橋の風景
 
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江戸名所図会 洲崎弁天 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


洲崎弁天は現在の利田神社で弁財天を祀っています。「洲崎弁天」の挿し絵には鯨塚も描かれています。この鯨塚の由来は寛政10年(17985月に品川沖に大鯨が迷い込み、地元の漁師によって浅瀬に追い込み捕らえたのです。捕獲された鯨は評判となり浜御殿で11代将軍徳川家斉(いえなり)が上覧するほどでした。その後、この鯨の骨を埋めて塚の上に碑を建てたのです。これが今も利田神社脇にある鯨塚(鯨碑)で品川区の文化財に指定されています。明治後期の『風俗画報』では利田新地の様子を「人家が連なっていて、北には中央気象台の出張所などもあるが、広っぱは網干場でうまり東側の海岸は夏になると海水浴場が開かれたところ」と書いています。
(江戸から明治の品川名所/品川区)

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御殿山下砲台
(台場)跡

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御殿山下砲台(台場)
嘉永6年(1853)アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守る為急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導にあたり、第一から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第八以下は着工にも至らなかったのです。その代りとして陸続き五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。

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明治になると埋立てられ姿を消しましたが、幸いな事に台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることが出来ます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。台場跡からは石垣が発見され小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は明治3年(1870)日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。現在、品川灯台は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。(品川区教育委員会)

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旧東海道品川宿・宿場マップ/案内板
(赤:東海道 緑:品川道 青:目黒川・立会川)


・・・大崎/品川区


品川区
の北部に所在し大崎駅を中心とした地域である。北東側には目黒川が流れていて北品川地区との自然境界を形成している。また北西側には東急池上線があり西五反田地区との境界を成している。現在の大崎二丁目・大崎三丁目に相当する地域は目黒川を望む高台であり、古くから栄えていたと考えられている。西品川三丁目付近を含むこれらの地域は居木橋遺跡と呼ばれ、縄文時代の土器や貝塚などが出土している。室町時代には品川宿から多摩地域への街道のため、目黒川に居木橋(いるきばし)がかけられた。大崎という地名が現れたのは江戸時代という説が有力である。地名は秩父から続く尾崎であることに由来し、これが転訛して大崎となったとする説、および過去に大きな崎(岬)として東京湾に突き出ていたためとする説が知られている。ただし当時大崎と呼ばれていた地域は、現在のJR目黒駅近辺(上大崎村)から五反田駅北側(下大崎村)にかけてであるWikipedia


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街道の風景① 折角なので御殿山通りから「品川氏館跡」(推定)へ向かいます/御殿山橋

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御殿山通り              閑静な住宅街です/坂上

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街道の風景② 山手通りからJRを越え、百反通りを上ります/居木橋(目黒川)

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貴船神社鳥居/西品川 


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貴船神社
祭神:高龗神、素盞嗚尊
当神社の御創建の年月は『新編武蔵国風土記稿』『品川町史』等の記述によると、人皇43代元明天皇の御年、和銅2年(70999藤原伊勢人の御勧請によるもので、貴布禰大明神と号し、旧地名東京府荏原郡南品川三ッ木の地に御鎮座された。当社の社号は貴布禰大明神と号していたが、口碑によれば享和3年(1803)に貴船神社と書くように改められたと伝えられる。(東京都神社名鑑)

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祖霊社                三本稲荷社

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品川氏(紀氏)
紀氏長谷雄流品川氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国荏原郡品川郷を中心に活動した武家の一族。品河氏とも表記される。家祖は紀実直(大井実直)の子・品川清実。平安時代末期、紀実直は国衙の関係者として武蔵国に土着し、荏原郡大井郷の地名から大井氏を称した。大井氏は次男の大井実春が継ぎ、一族は周辺地域に所領を得て広がった。実直の子から分かれた一族には品川氏のほかに春日部氏・堤氏・潮田氏がある。1184年(元歴元年)8月、実直の三男清実は源頼朝から品川郷の雑公事を免除されている(田代文書)。この文書が「品川」の地名が登場する現存最古の史料である。1185年(文治元年)2月、清実は源範頼の下で豊後上陸に関わる水軍の「先登」に選ばれている。その後も品川氏は大井氏と共に頼朝の「随兵」に選ばれるなど厚遇された。品川氏の重要な役割として、武蔵国の国府津である品川湊の管理があげられる。紀氏伊勢国との関係の深い氏族で、品川氏の所領は伊勢国員弁郡曾原御厨にもあった。1242年(仁治3年)頃には伊豆国の田代氏と婚姻関係があることが記録されており、品川氏は伊勢から品川までの太平洋航路にも関わっていたと考えられる。品川氏のの所在地については貴船神社(品川区西品川3丁目)周辺の台地上が有力とされている。ほかに現在の戸越公園(品川区豊町2丁目)とする説もある。(中略)1424年(応永31年)鎌倉公方足利持氏によって品川氏はわずかに館とその周辺のみを残し、品川郷を没収された。これには、品川氏が上杉弾正の乱に関与したためという説がある。以後史料において品川氏の宗家の姿は見られず没落したものと思われる。Wikipedia

大井氏の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25679688/

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街道の風景③ 百反通り坂上から下ると大崎駅の西側、谷間になってます/居木神社手前

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居木神社鳥居/大崎

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居木神社
当神社の御創建の年代は詳らかではないが、古い記録によると往古鎮座の地は武蔵国荏原郡居木橋村(現在の居木橋付近)に位置し、「雉子の宮」と称され境内に「ゆるぎの松」と呼ばれた大木があったと伝えられる。江戸の初期、目黒川溢水の難を避け現在の社地に御動座された。そのおり村内に鎮座の「貴船明神」「春日明神」「子権現」「稲荷明神」の四社を配祀「五社明神」とも称した。元禄郷帳には居木橋村の石高は230石余72戸で、頭屋(年番)による運営がなされ郷土の崇敬は篤く祭事は盛んで、特に里神楽を催し秋の大祭には他村よりの参拝も多く御社頭は賑わったという。

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明治5年御社号を「居木神社」と改め、同29年および同42年には村内鎮座の「稲荷神社」「川上神社」「本部神社」の36座が合祀された。昭和5年には氏子内の崇敬熱意により御本殿改築、境内整備の議が起こり、同89月に4年の歳月と赤誠、奉賛によって総坪数36坪余の木造銅板茸の御社殿が竣工、境内整備も正面階段、御影鳥居、玉垣、同富士講塚の築庭、手水合の新設、参道敷石の布設等すべてが荘厳に完成したが、先の大戦末に戦火によって炎上し、その後は災禍をまぬかれたもとの本殿建物であった境内末社に御祭神をお遷し申し上げ祭祀につとめた。(東京都神社名鑑)

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居木橋遺跡
居木橋遺跡は居木神社の南方に位置する台地上にあり、縄文時代前期(約6-5千年前)の貝塚を伴う遺跡で、竪穴住居も多数確認されています。貝塚は食用にした貝の殻や魚・獣の骨のほか、土器片などが堆積したもので、当時の生活を知る重要な手がかりを現在の私たちに提供してくれています。これまでの調査から多くの縄文土器、石器などが出土していますが、貝類では海でとれるものの他に陸でとれるヒダリマキマイイマイ(かたつむり)も発見され注目されました。(品川区教育委員会)

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観音寺山門/大崎

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観音寺
弘治年間(1555558)の創建といわれ開山は光海和尚。当初は目黒川居木橋の南に所在していたのが、数度の水害を被り、これを避ける為に元禄年間一村挙げ現在の高台の地に移転をしたとされます。本尊仏は如意輪観世音菩薩でありましたが、滅罪と祈願と分つに至って別堂を設け現本尊仏の釈迦如来を安置、鎮守五社明神の本地仏として歴代の住職が其の別当職ということであります。中興開山第13世知淵(享保年間)の時に麹町山王別当城琳寺の末寺になりましたが、明治のご維新以来復飾され之に依って芝町三田の西藏院の末寺になりました。本尊の釈迦如来坐像は像高51.6(一尺七寸)木造・漆箔。玉眼嵌入、肉髻珠と白毫・水晶製。(天台宗東京教区)

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大崎駅周辺マップ
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品川周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 紫:中原街道 青:目黒川)


・・・・
資料ファイル

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品川湊(品河湊)
武蔵国荏原郡品川(現在の品川区)の目黒川河口付近にあった港。狭義には中世の港町を指す。品川湊は河口の砂洲によって流れが湾曲し緩やかとなり、砂洲を見渡すテラス状の高台があるという、古来から好まれた形状の港だった。1937年(昭和12年)に目黒川の流れが直線化されるまでは河口は現在より北の品川浦付近にあった。突端は洲崎と呼ばれ利田神社が建っていた。品川湊のあった品川湾は遠浅で、品川湊の沖合いでは、東京湾内の小型廻船(瀬取船など)と太平洋航路の大型廻船(弁財船など)の積み替えが行われた。現在の東京港品川埠頭から天王洲にかけての一帯がこれにあたる。積み替えが行われた理由は、品川以北には浅瀬が広がっており、北に向かって航行可能なのは2つの細い水路だけだったことや北上する為には、川の流れに逆らって進まなければならなかったことが考えられる。

古代

荷物を受け取った小型廻船は河川を通じて北関東香取海にまで至り、西国との流通路を形成した。品川湊は内陸部にあった武蔵国国府(現府中市)の外港(国府津)だったという説がある。品川と府中は品川道によって結ばれていた。品川にある荏原神社は府中の大國魂神社との関係が深い。品川海上禊祓式(汐汲み・お浜降り)が行われる。

中世

鎌倉時代には鎌倉との関係が深くなった。御家人として品川氏が置かれた。北条氏得宗が掌握する武蔵国の国庫の納物を鎌倉に運ぶ港として使われた可能性も指摘されている。室町時代には六浦に代わり、神奈川湊(横浜港)と共に東京湾有数の湊へと成長した。浅草や江戸湊と並ぶ武蔵国の代表的な湊であった。品川湊は伊勢・熊野と結ぶ太平洋航路で栄えた。中世の太平洋水運を担っていた伊勢神宮(伊勢大湊)や熊野三山とのつながりが強い。金沢文庫の「湊船帳」によると、南北朝時代末期の明徳3年(13921月から9月までの間に伊勢神宮配下の「神船」(免税船)が30隻入港したとされる。これらの物流は、鈴木道胤榎本道琳などの熊野出身の商人(有徳人・うとくにん・中世の富裕層)が担っていた。品川湊の問屋(土倉)は鎌倉府の財政基盤の1つであった。称名寺や円覚寺の造営料も徴収された。鎌倉府は直轄地化を進めた。領主であった品川氏1424(応永31年)鎌倉公方足利持氏に所領を没収された。
Wikipedia抜粋


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中世東国江戸湾図

品川の湊と商人
南北朝・室町二台の品川は六浦、神奈川(横浜)と並ぶ重要な港町として発展し、太平洋を運ばれた西国からの物資は品川を経由して武蔵野平野の各地へ届けられました。品川には人々が往来し、物資が流通して湾内の交易も盛んに行われ東国の都市として繁栄しました。15世紀半ばには熊野地方出身の海運商人鈴木道胤、榎本道琳などの有徳人が活躍しました。(品川歴史館)

by Twalking | 2017-10-10 13:45 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)05-北品川   

日時 2017.9.29(金)
天気 晴れ


南品川宿から目黒川を渡ると北品川宿になります。
川の袂には大国魂神社と縁の深い荏原神社、
御殿山西麓には東海寺と鬼門にあたる品川神社があります。

下流には寄木神社、品川猟師町、船溜まりに面影が。
賑やかな商店街を徒歩新宿に向かいますが、
寺社の横町がなんだか面白そうですね~・・・。


・・・
北品川


品川区の北部に位置する。町域北部は港区高輪・港南に接する。東部は概ね八ツ山通りに接しこれを境に品川区東品川に接する。南部から南西部にかけては目黒川に接しこれを境に南品川・広町・大崎にそれぞれ接する。西部は東五反田に接する。一丁目・二丁目内には旧東海道があり、かつての品川宿の名残を見ることができる。三丁目・四丁目・五丁目には高級住宅地として知られる御殿山がある
Wikipedia

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街道の風景① 目黒川手前に脇本陣、役所問屋場などがありました/南品川

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東海道品川宿 是より南 南品川宿
日本橋から東海道を上り目黒川を渡ると南品川宿に入ります。この高札の場所は脇本陣跡(現、城南信用金庫)で、百足屋(広瀬)浜兵衛が営んでいました。品川宿を南北にわけていた目黒川は大正時代末頃まで大きく蛇行し、荏原神社の北側を流れていました。東海道から神社への道を天王横町といい、今の鳥居の向きから往時が推定できます。東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継立業務等を行なう宿場の役所問屋場跡(現、製菓実験社)で、その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられました。(品川宿場通り商会、城南信用金庫品川支店)

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川の風景① 目黒川はこの先から左にカーブし江戸湾に注いでいました/品川橋

南品川宿河岸(俗に百足河岸)
江戸時代、品川領の村々では年貢米を目黒川や陸路をつかってこの河岸まで運び、幕府の浅草御殿に送っていました。この南品川宿河原のことを俗に百足河岸と呼んでいました。百足河岸と呼んだのは南品川宿河岸のそばに百足屋という大きな旅籠屋があったからだといいます。(案内板)

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品川橋の今昔/目黒川
この辺りは海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く当時の面影がしのばれます。「品川橋」は旧東海道の北品川宿と南品川宿のを流れる目黒川に架けられ、江戸時代には「境橋」と呼ばれていました。また別に「行合橋」「中の橋」とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたがその後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともにその姿を川面に映してきました。上流の鎮守橋をみる(品川区)

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目黒川
氾濫の多かった目黒川は大正から昭和のはじめにかけて川幅や川筋を替える大改修が行われました。とくに第一京浜国道に架かる東海橋より下流は、東京湾まで直線の川筋となり、荏原神社の北側を流れていたものが南側になりましたが、品川橋よりやや下ったところから大きく曲がり北向きに流れる部分は、本流から分かれて猟師町の漁船を繋留するために残されていました。この旧川筋部分は現在、埋め立てられて「八ツ山通り」になっています。(品川区)

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荏原神社鳥居/北品川

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荏原神社
南品川の鎮守である。社伝によれば和銅2年(70999日、藤原伊勢人が武蔵国荏原郡荏原川(目黒川)のほとりに勧請して当所の鎮守となした。一説には天長年間のこととも云、此神は大和国丹生神社と御同体で祈雨止雨の守護神である。当社の旧地は枝郷三ッ木の地であるとも伝えており、現在旧地貴船神社がある。康平5619源頼義義家両朝臣が勅命により陸奥の安倍貞任、宗任を征伐の為下向の節、武蔵国府総社六所宮(府中市大国魂神社)に祈願し、又当社にも参詣し社頭の海浜に身を浄め一心に祈願奉幣して出陣した。勝利を治めて無事帰途の際に六所宮ならびに当社に御礼を奉幣された

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此吉例によって以来総社の大祭である55日の前、430日に神主社家一同が神馬をひきいて当社に来たり、社頭の浜に各自が身を浄め塩水を汲み取って持ち帰り55日までの間毎日潔斉し5日の祭典を奉祀するのを管領とする様になった。天正18徳川家康関東に下向の節当社に立寄り由緒故実等を尋ねられた。当寺の神主鈴木正根が参上し由緒等を差出した処、古社であることによって左文字の太刀一振りを納められた。ついで翌1911月神主正根が召出され家康より5石の朱印状を賜った。以来代々この将軍より判状を受けてきたのであるが、途中北の稲荷社(品川神社)との間で争論が起こり、結果としては二分して25斗づつに分割されるようになったのである。(品川区の文化財)

武蔵国府・大国魂神社の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23803641/

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鎮守橋
北品川二丁目荏原神社鳥居前より南品川一丁目旧後地町の入口に至る間の目黒川に架けられた橋。目黒川の川筋が変わったため、南品川より荏原神社への参道が必要になり昭和3年(19289月完成した。この橋は荏原神社の氏子の拠出によって架けられた橋で、南品川の鎮守ということで鎮守橋と名づけられたもので、コンクリートの橋ではあるが神社の橋らしく左右各々に6本、計12本の橋柱には青銅の擬宝珠がつけられている(品川区教育委員会)

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江戸名所図会 
貴船明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

貴船明神社
(きふねみょうじんしゃ)
『江戸名所図会』で南品川宿の最初に出てくる挿絵は貴船明神社(貴布祢社)で現在の荏原神社です。挿絵では目黒川の南側に描かれていますが、現在は目黒川の北側にあります。これは蛇行していた川筋を大正から昭和初期にかけて川の改修工事によって流れを変えたためです。『江戸名所図会』の説明では「貴船明神社は神明(しんめい)牛頭天王をあわせて祀り、南品川の産土神(鎮守)なり。毎年67日は祭礼で、その前日神輿を海中にかつぎ入れ、後に宿内にお仮屋(御旅所)を設けて神輿を駐め、宿内を巡幸した」と記されています。さらに貴布祢の祭礼は99日で神明は同じ月の15日とあります。江戸時代の天王祭は『品川町史』によると、祭礼はいつの頃からか67日から19日まで執行されるようになったと記されています。現在は67日に近い土曜・日曜を含む3日間です。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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川の風景② 目黒川沿いに上流へ行くと東海寺(左)があります/要津橋

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東海寺山門/北品川


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東海寺
品川区北品川三丁目にある臨済宗大徳寺派。山号は万松山。徳川幕府3代将軍家光により創建され、元禄7年の全焼後にはすぐに5代将軍綱吉によって再建されるなど幕府による手厚い保護を受けていた。500石の朱印領と47666坪に及ぶ広大な寺域を有していた。寛永16年(1639) 徳川家光が但馬国出石(いずし)の沢庵宗彭(たくあんそうほう)を招聘して創建。沢庵を住職とする。寛永21年(1644)土岐頼行が出羽国上山の春雨庵を模した塔中を沢庵宗彭のために建立する。元禄7年(1694)品川宿から出火した火災で全焼。すぐに徳川綱吉と生母桂昌院によって再建され大伽藍となる。明治6年 寺領が新政府に接収され、衰退。現在の寺域は旧塔頭玄性院(元・臨川院)にあたるWikipedia

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東海寺梵鐘
東海寺は寛永15年(1638)に三代将軍徳川家光の信任をうけていた沢庵禅師のために建立されたものである。本鐘は元禄5年(1692)住持天倫宗忽が撰文し、名工といわれた幕府の御用鋳物師である椎名伊予守良寛によって造られたものである。総高198cm、口径106cm、撞座は竜頭の側面方向に2ヶ所、乳は乳の間ごとに縦横5箇ずつ配列されている。(品川区教育委員会)

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沢庵墓/東海寺墓地

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国指定史跡沢庵墓/東海寺墓地
沢庵(15731645)は江戸時代初期に活躍した禅僧で、名は宗彭(そうほう)、沢庵は。但馬国出石(いずいし:現兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少のころ出家して禅を学び、各地を修行して信望を集め、慶長14年(1609大徳寺153世住持となった。寛永6年(1629紫衣事件で流罪となり出羽国上山(現山形県上山市)藩主土岐頼行に御預けとなる。3年後許され、その後は三代将軍徳川家光に重用される。寛永16年(1639)家光によって創建された品川・東海寺の開山に迎えられ晩年を送った。正保2年(164512月没、73歳。沢庵は禅僧として大成しただけでなく兵法、儒学に通じ書画、詩歌にもすぐれ茶道に造詣が深かった。(品川区教育委員会

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渋川春海墓
渋川春海は寛永16年(1639)に京都で生れ、14歳で父の跡をついで幕府の碁所となり安井算哲(二代)と称した。囲碁の研鑽の一方で天文・数学・暦学を学び暦学者となった。その頃、日本では中国の宣明暦を使っていたが、2日の誤差があったので春海はみずから計算して新しい暦を作った。これが貞享元年(1648)に官暦となり翌年から用いられ、貞享暦として後の太陽暦の基本となったのである。貞享暦は日本人の手で作られた初めての和暦であり、春海はこの功によって幕府最初の天文方に任ぜられ本所(墨田区)に宅地を拝領した。春海は屋敷内司天台(天文台)を設けて天体の観測にあたった。これが江戸で最初の天文台である。春海は正徳5年(1715106日に77歳で亡くなりこの地に葬られた。(品川区教育委員会

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初代鉄道頭 井上勝
「鉄道の父」と称される井上勝は萩藩士の三男として生れた。15才から長崎、江戸で学び1863(文久3)年井上薫、伊藤博文らとともにイギリスに密航し鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓地は東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている(説明板)

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官営品川硝子製造所跡/東海寺墓地入口
日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは明治6年(1873)に東海寺境内に創設された興業社である。興業社は明治9年(1876)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり全国のガラス工業の発展に貢献した。明治18年(1885)には西村勝三らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため明治25年(1892)に解散した。昭和36年1961)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は明治初期の貴重な建築物として愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。品川区指定史跡(品川区教育委員会)

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東海寺想絵図万治3年(1660)
東海寺境内
家光が建立した東海寺は朱印領500石を有し、4766(1570002)に及ぶ広大な寺域をもつ大禅寺であった。創建にあたっては品川(目黒川)に橋(要津橋)を渡し、橋の向こうに門前町が作られた。寺内には最盛期に17の塔頭寺院が営まれた。なかには信濃松本城主堀田正盛の臨川院、若狭小浜藩主細川光尚の妙解院、丹波園部藩主小出吉親の雲龍院、出羽藩主土岐頼行の春雨庵などの大名創建の塔頭もあった。元禄7年(16943月品川宿から出火した火災で全焼したが、すぐに5代将軍綱吉と桂昌院によって再建された。現在の東海寺は旧塔頭の玄性院(元の臨川院)が東海寺の名称を引き継いでいる。(品川歴史館解説シート抜粋)

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江戸名所図会 牛頭天王 東海禅寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

『江戸名所図会』に北品川宿の名所として大きくとりあげられているのは東海寺周辺です。挿し絵も6頁にわたる鳥瞰図で、御殿山から牛頭天王社(現在の品川神社)、清徳寺と東海寺の本堂や山門、目黒川両岸の塔頭寺院をも描いた境内パノラマ絵図です。東海寺は寛永15年(1638年)に三代将軍徳川家光の命によって、沢庵和尚を開山として建てた寺院です。東海寺は品川海晏寺とともに紅葉の名所として江戸庶民に知られていました。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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街道の風景② 街道に戻り北品川商店街を東へ向かいます/品川橋先

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北馬場
東海道から品川神社へ向かう道の両側一帯を北馬場と呼んでいる。品川宿には幕府公用の旅人に対して1日当たり馬百匹、人足百人を無償で提供する義務があり、従事する馬小屋があったためつけられた地名です。南北品川宿に馬場町があり、北品川宿ということで北馬場といったのです。(案内板)

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品川神社鳥居/北品川

境内入り口の階段前に門柱に龍の細工が施された石鳥居「双龍鳥居」がある。左の柱に昇り龍、右の柱に降り龍が彫刻されている。双龍鳥居は杉並区の高円寺と馬場稲荷神社(阿佐ヶ谷)にもあり、当社のものと合わせて「東京三鳥居」ともいわれている。品川区指定文化財Wikipedia)

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品川神社
社伝によれば後鳥羽天皇の文治3年(1185)に源頼朝安房国州崎明神を勧請した。元応(1319)当国の守護二階堂出羽入道道蘊が当社の神威を感じて本社を新たに造立した。応永年中(1394)当郷の住人鈴木正清入道幸純が当社を深く崇敬して永享4年(1429)社殿の造営を行った。長禄年中(1457太田道灌が江戸城に入り、文明10年(14786月に自ら牛頭天王を勧請して神事を怠慢なくつづけた。後北条氏も崇敬し数度にわたり修理を加えられた。天正18年(159081日徳川家康が江戸城に入り、翌1911月品川大明神へ5石の朱印社領地を賜った。後に南貴船社(荏原神社)と朱印争いをおこし25斗ずつに分けたのである。寛永14年(1637)に東海寺建立のとき、当社地の内南の方が御用地となり代替地1813坪を門前地として賜った。其の時、東海寺の鬼門にあたる為同寺鎮守となり、以来本社以下神主宅まで幕府によって修造され幕末に至った。現在元禄7年焼失の時、造営奉行戸田能登守忠直が社伝等悉く造営した。社前に建てた制札が残されている。(品川区の文化財)

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神楽殿                   水盤(慶安元年)

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浅間神社               品川富士

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品川富士より品川宿を望む

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江戸名所図会 品川牛頭天王神輿洗の図 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

牛頭天王社
とあるのは今の品川神社のことで、東海寺の開創にともなって境内地が鬼門(北東方向)にあたることから明治維新まで東海寺鎮守となっていました。品川神社は古くは品川大明神といわれ、江戸時代には北品川稲荷社と呼ばれていました。牛頭天王を勧請したのは室町時代と考えられています。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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街道の風景③ 北品川宿の中心部、右が本陣跡になります/聖蹟公園前

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品川宿本陣跡/聖蹟公園
江戸時代の本陣は宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には初め南北品川宿一軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札を立て、紋の入った幕をめぐらしました。明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇宿舎(行在所)にもなったところです。(説明板)

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虚空蔵横町
東海道から養願寺へ入る横町をいいます。養願寺の本尊はかつては阿弥陀如来でしたが、現在は虚空蔵菩薩で品川の虚空蔵さまとして親しまれています。江戸時代には毎月13日にお参りをしていました。今は毎年47日と117日の大祭に開帳され、七の付く日が縁日で新馬場北口の通りには露店が出店しています。(案内板)

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養願寺山門

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養願寺虚空蔵尊
養願寺は正安元年(1299)創建の(山号)明鏡山善行院、天台宗の寺。丑年、寅年の守り本尊である虚空蔵様で知られる。養願寺の虚空蔵菩薩は昔から子供が13歳より15歳までにお参りすると福・徳・智慧が授かると言われる「十三参り」が盛んで、また丑年・寅年生まれの守り本尊ということもあり、大護摩供厳修が行われた4月と11月の大祭には「十三参り」の親子連れや参拝の人たちが次々と訪れている。銅造阿弥陀如来立像:像高47.5cm。もと本尊で鎌倉時代の制作と推定される。長野市の善光寺本尊の模作。善光寺本尊に対する信仰は鎌倉時代から盛んになり各地で模造された。木造不動三尊像:彩色、像高112cmの不動明王立像と像高37cm前後の両脇侍像から成る。万治元年(1658)の造立。(しながわ観光協会)

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一心寺


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一心寺之由来
安政2年(1854)日本開国之気運高まり国運の境目に接面し時、大老師にある井伊直弼公が縁起に依り、江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄安泰の願へとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に依って建立されたと伝えられております。当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、豊盛山延命院一心寺と云う寺格を拝受し、成田山分身の不動明王を本尊とし延命、商売の護りとして今日に続いております。昭和61年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く亦、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称せられており、内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光霊作観音像、寿老人等が祀られおります。(一心寺僧正照幸代)
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法禅寺山門

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法禅寺
寺伝によれば明徳元年(1390)に開山言誉上人が没してから、それ以前は草庵であったものと思われる。以後時代が下って宝永年間1704-171013世一誉上人の代に寺院として内外共に充実したものであろう。これは宝永4年(1707)付の知恩院43世応誉上人授与の文書にも「法禅寺奉安置元祖円光大師者即大師自彫之霊像及墨跡大字宝号也…」「東照神宮及び桂昌院殿帰依不浅之意趣…」とみえ、本山に認証を求めたりして寺の由緒、格式を高めようとしているところなどにもうかがわれるのである。(品川区の文化財)

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流民叢塚碑(品川区指定史跡)
この碑は天保の大飢饉でなくなった人たちを祀る供養塔である。天保4年(1833)に始まった天候不順はその後数年におよび多数の餓死者を出した。品川宿には農村などから流浪してくる者が多く、この附近で病や飢餓でたおれる人が891人を数えるに至った。これらの死者は法禅寺と海蔵寺に葬られた。本寺には五百余人が埋葬されたという。初めは円墳状の塚で、この塚の上に明治4年(1871)に造立の流民叢塚碑が建てられていた。昭和9年に境内が整備された折、同じ場所にコンクリート製の納骨堂が建てられ、上にこの碑が置かれた。碑の正面には当時の惨状が刻まれており、天保の飢饉の悲惨さを伝えるとともに名もない庶民の存在を伝えている。(品川区教育委員会)

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街道の風景④ 賑やかな商店街を進みます、徒歩新宿になるのでしょうか

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善福寺山門

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善福寺
伊豆長八は幕末から明治初期に活躍した左官工、その漆喰こて絵は「東洋のフレスコ」として名高い。寄木神社本殿の内扉にはユーモアたっぷりな作品が、善福寺本堂正面の上部には力強い龍の作品が残る。(まち歩きマップ)


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歩行新宿字裏町(善福寺裏付近)
歩行新宿字裏町は元善福寺門前と同寺境内をいいました。裏町という名称は明治8年(1875)に地租改正の時から用いられていました。北品川宿字裏町の地域とは異なります。その由来は、東海道に面した歩行新宿の裏側にある町ということで名付けられました。(案内板)

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土蔵相模跡/徒歩新宿 
旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので「土蔵相模」と呼ばれていました。1862年(文久2)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らはこの土蔵相模で密議をこらし、同年1212日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台となったところです。(案内板)

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街道の風景⑤ 右手に問答河岸の碑、先が八ツ山口になります

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問答河岸跡/徒歩新宿
寛永の昔、徳川三代家光将軍、勇壮活達の明君也。宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ。寺域五萬坪寺領五百石。殿閣僧坊相連つて輪・美を極む。・・・将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し、喫茶法話薄暮に至って江戸城に還らんとす。禅師河畔に立って是を送る。将軍乗船に臨んで禅師に問して曰ク海近くして如何が是れ東海寺と。禅師答而曰ク大軍を指揮して将軍と言が如しと。将軍一笑。_を解いて而て還る。時移りて三百年地勢・変し河海遠し。然れ共市人傳えて問答河岸と称す。一世の英主一代の名僧諧譫談笑の蹟。菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永に芳を傳えんとす。亦可しからすや。(案内板)

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江戸名所図会 磯の清水 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

歩行新宿
八ッ山から品川宿に入ったところが歩行新宿です。歩行新宿は北品川宿の北側に発展してできた町場で、享保71722)に新たに品川宿に加わったところです。『江戸名所図会』で歩行新宿の様子を描いた挿し絵に「磯の清水」と題した井戸があります。「この井戸、清泉にして旱魃にも涸れることがなかった」とあり、清水横町の名称の由来となっています。今の京浜急行北品川駅南側付近にありました。この清水井戸の水は自由に汲むことはできず水屋から買い入れて使用していました。明治末期の『風俗画報』では歩行新宿について北は東海道本線品川駅に接し、西側は京浜電車(京浜急行)の停留場を控えていたので最も繁華なところと書いています。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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北品川地図/東海道品川宿まち歩きマップ

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北品川周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 青:旧目黒川)


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資料ファイル

品川宿

東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。慶長6年(1601年)に中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は北は京急の北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。目黒川に北品川宿、南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿といった(現在の北品川本通り商店街から北品川の法善寺辺りまで)。歩行新宿は品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が享保71722年)に宿場としてみとめられたもので、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足のうち歩行人足だけを負担する新しい宿であることに由来する。品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、旅籠屋数や参勤交代の大名通過数において他の江戸四宿と比べ数多いというWikipedia


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江戸名所図会 品川駅 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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品川宿の名主
品川宿にも名主が置かれ、南品川宿の利田家(かがた)、北品川宿の宇田川家、南品川宿に属した南品川猟師町の大島家がそれぞれ単独で世襲した。歩行新宿は飯田家と名村家が相名主の形態をとっていたが、後に飯田家の単独世襲となった。宇田川家は太田道灌の江戸城築城に伴い長禄元年(1457)に日比谷郷から移って館を構えたとされ、飯田家と北品川宿の鎮守・北品川稲荷社(現品川神社)の神主小泉家とは親戚筋にあたる。利田家は戦国期の中頃に港町品川で活躍した鳥海氏の一族とされ、のちに利田と改姓したといわれている。(品川歴史館解説シート抜粋)


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品川区域の江戸名所一覧/品川歴史館


by Twalking | 2017-10-06 17:01 | 東京散歩(新規)