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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり入間03-金子氏館跡&入間市博物館   

日時 2018.2.6(火)
天気 晴れ


金子氏の館跡は加地丘陵の瑞泉院一帯とされますが、
館跡の遺構はなく、広大な墓苑の一角にひっそりと
6基の宝篋印塔が佇むのみ・・・、でした。

最後に博物館に寄りましたが、丘から見る景観は
まさに「生きた資料」、古多摩川の足跡がよく分かります。
訪ねた甲斐あり!、ありがとうございました。



・・・木蓮寺


鎌倉武士・
金子十郎家忠の諡(戒名)「木蓮院」あるいは「木蓮寺殿」にちなんで、この地にある曹洞宗瑞泉寺を「木蓮院」「木蓮寺」と呼んだことからそれが村の名前になったという(新編武蔵風土記稿)/入間市HP

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金子氏館跡の最寄駅は八高線の金子駅、北側の丘陵地にあります。

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金子駅
入間市大字南峯にあるJR東日本八高線の駅である。(入間市内で唯一のJRの駅)同市の西部に存在し、駅の周辺は住宅街。日本三大緑茶である狭山茶の最大生産地であり、駅の南側には広大な茶畑が広がる。高麗川方面のホームに渡る橋の上からはきれいに茶畑が見渡せる。また、駅周辺には多くの桜の木がある事で知られ、駅前の桜並木は春になると満開の桜がトンネルのように続き、多くの写真家や絵描きが訪れるスポットでもある。Wikipedia


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桂川神社鳥居/木蓮寺

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桂川神社
当地は水田は少なく陸田が多い干損の地で、村名の由来は地内の曹洞宗瑞泉院をかつて木蓮寺と号していたことによる。この村は北に向かって勾配が増し南は比較的平坦な地形をしている。北側の加治丘陵の麓には草分けの家が点在し、当社もここに鎮座している。創立については、豊かな水を望む村人の発願により上州の赤城神社から勧請したものといわれる。また、別当瑞泉院でその開基が時の地頭金子十郎家忠であることから、家忠の屋敷の鬼門に当社を建立したともいわれている。祭神は豊城入彦命・豊城入姫命・大己貴命・彦狭島命である。

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本殿は一間社流造りであり社記によると造営は享保年中である。明治初めの神仏分離により社名を赤城明神社から赤城神社に改めた。また、明治5年には永く村鎮守であったことによって村社となった。大正4年には大字南峯の雷電社を合祀しさらに社名を村の中央を流れる川にちなんで桂川神社と改めた。ちなみに桂川の名は当地方の古い呼び名が「かつらのさと」であったことによる。雷電社は、通称官林山の辺りから雷雲がわき上がることから雨をもたらす神として、更には雷除けの神として信仰される。旧社地は泉蔵院の上の山にあり神仏分離によって西金子に移転し、更に当社に合祀されたものである。(埼玉の神社)


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瑞泉院山門/木蓮寺 右に「金龍山木蓮寺瑞泉禅院」左に「金子十郎家忠公之墓所」の石標が立ちます。参道を登ると一帯は広大な「墓苑」、仮本堂があるだけのようです

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瑞泉院/木蓮寺
『御朱印十五石曹洞宗、初め臨済なりしが後改めしと云、その改めし年歴は詳ならず、甲斐國山梨郡落合村永昌院の末、金龍山と號す、開山は神嶽通龍禅師は中興せしなるべし、夫をいかにと云に、當寺は金子十郎家忠開基にて、家忠は建保4217日卒す、法謚を瑞泉院雄翁道英と云、これ此院號の起りし故なり、さて建保と永正とは中間290年の星霜をへたり、又寺傳に家忠が妻畠山氏建仁元年323日家忠に先て歿せしとて、その石碑も境内に立り、法謚を木蓮院或は寺とも標室奇榜と云、されば當寺始は木蓮寺と號せしを、後に家忠が法謚をもて寺號をも改て、瑞泉院と號するは、通龍禅師中興の時などにや、又按に「讒語集」に菊隠禅師諱瑞潭、字菊隠、嗣法一華云々、開甲之善應、興武之瑞泉兼帶、住持法化大行、大永412月示寂とあり、是によれば當寺をば菊隠禅師開山し、己が師神嶽通龍をもて勧請開山とせしは論なし、されど神嶽通龍及び菊隠等は、永正・大永の示寂と云は、前にもいへるごとく年代たがへり、又この文によるに、永正・大永の比は、已に院號を改めしことしるべし、又過去帳に金子氏代々の法名卒年もありて、甚明備なれど疑ふべし、金子氏の子孫今松平大膳大夫の家に殘れり、則金子十郎左衛門忠義・同六郎左衛門忠行より當寺へ贈りし書を蔵せり、其内に金子氏の由来及び此地を草創せしことをのせたれども、此人のことは爰のみに非ず、多磨郡金子村の條に辨じたれば、ここにはのせず。鐘楼。文化年中の銘あり、取るべきものなし』(新編武蔵風土記稿)

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千体地藏塔

開運をよぶ千体地藏塔
この千体地藏塔は中国ピラミッド方式で、東西南北の四面からなり天より地より強く開運をよぶものと言い伝えられております。各種の願いをこめて個人法人を問わずご奉納することができます。(案内板)

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案内標識に従い墓所へ         階段上の左手が墓所です

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墓所参道

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どなたの供養塔でしょうか?      金子十郎位牌堂

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金子氏一族の宝篋印塔

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金子氏一族の宝篋印塔 付位牌(市指定史跡)
瑞泉院を開祖した金子十郎家忠は武蔵七党の村山党に属し、保元の乱より壇ノ浦に至る源平合戦に加わり数々の戦功をたてた。瑞泉院には6宝篋印塔と家忠の印号法名の記された位牌が残されている。この宝篋印塔は造立年代、造立者、供養を受けた人など明確ではないが、家忠とその一族を偲んで造立されたと考えられる。位牌は銘文が上下2段に金泥で書かれている。上段中央に金子十郎家忠の印号法名、右に弟親範、三男高範、左に長男家広、嫡男家繁、下段には家忠の妹のほか高範を除く4人の夫人の法名が記されている。またそれぞれの名の右には没年と俗名と続柄が記されている。この位牌の製作年代は不明であるが、形式からみて江戸時代のものと考えられる。(入間市教育委員会 入間市文化財保護審議委員会)

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金子一族の位牌(瑞泉院蔵)/入間市博物館展示パネル


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墓所より狭山丘陵を望む

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元気な入間『ふれあい茶ん歩道』案内図


・・・・
資料ファイル

入間市博物館(2)

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入間市博物館/二本木
入間市にある博物館、愛称は「アリット」(Art-Archives-Library-Information-Tea)。狭山茶の生産地として日本及び世界各地の茶の文化に関する研究活動と情報提供を行っている。館所蔵の「狭山茶の生産用具」は国の登録有形民俗文化財となっている。常設展示は「こども科学室」「入間の自然」「入間の歴史」「茶の世界」の4部からなる。常設展示のほかに特別展を開催しており毎年1月・2月に「むかしのくらしと道具展」を開催している。館内には常設展示室、特別展示室のほか市民ギャラリー、情報センター室、資料閲覧室、体験学習室、講座室などがある。また、館の敷地内にはレストラン「お茶っこサロン一煎」茶室「青丘庵」、市民広場などがある。(Wikipedia)
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中世関連の展示風景

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宮寺氏関連展示物           金子氏関連展示物

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入間市周辺の武蔵武士分布(「新編埼玉県史図録」より作成)

入間川を境に南側村山党北側丹党が分布する。「姓」は一族の本姓で、各党の祖が称した名である。さらに自分の領地の地名を「名字」とする。このように武士の名は「姓」と「名字」があり、板碑には俗名を記す場合は通常「姓」を用いる。(入間市博物館展示パネル)

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板碑の分布
埼玉県では27千基を超える板碑が確認されており全国で最多となっています。その理由の一つは鎌倉に武家政権(鎌倉幕府)が創設されたことです。鎌倉幕府を支えたのは武蔵七党などの東国武士です。丁度その頃阿弥陀仏にすがって極楽往生を願う浄土教が隆盛しており、武士達は極楽往生を願って盛んに塔婆を立てたのでした。その塔婆を作るのに最適な石材である緑泥片岩が武蔵国の秩父山地から産出したのです。需要と供給を満たす条件が揃って存在したため埼玉県は日本一の板碑大国になったのです。入間市内には約400基の板碑が確認されています。(入間市博物館展示パネル)

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宝篋印塔の時代変化
宝篋印塔は中国栄代に現在の福建省辺りから伝わった石塔で、鎌倉時代前半から日本でも造られはじめます。時代ごとの形式変化が知られ、紀年銘がなくても形式からおおよその時代が推定できます。時代が下るにつれ、笠の四隅にある「隅飾突起」が垂直から外側へ開くことや、最上部の「相輪」が大型化して彫刻過剰になっていくことが見分け方のポイントです。(入間市博物館展示パネル)
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鎌倉街道と古戦場

中世、武家の都・鎌倉をめぐる攻防戦では常に鎌倉街道「上道」がその戦いの舞台となりました。このため上道が南北を縦断する武蔵野台地とその周辺には多くの古戦場跡が残されています。

元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻め、建武2年(1335)中先代の乱、観応3年(1352)武蔵野合戦における主な古戦場/入間市博物館展示パネル

・・・
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入間博物館から見る狭山丘陵

博物館前からの展望

当館がほこる最大の実物資料といえるのが博物館周辺の地形である。足元の地面が武蔵野台地で、最も高い段丘『下末吉面(金子台)』、家並みが広がる一段低い土地が『立川面』で2万年前の氷期にはここを多摩川流れていた。その向こうに見える一段と高い丘が『狭山丘陵』で約85万年前にできた古い台地の名残りである。(入間市博物館展示パネル)


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地形解説(模型:1/25000

正面に見える平らな丘は狭山丘陵です。現在地(博物館・金子台)から狭山丘陵までの間の低い土地は、今から32万年前に大昔の多摩川『古多摩川』が流れていた場所です。現在、東京都を流れる多摩川はかつて青梅から川越方面へ流れていました。秩父・多摩の山々(関東山地)に深い谷を刻んで流れる多摩川は、青梅関東平野に流れ出ると、そこから様々な方向へ流れを変えながら、山から流れ出た大量の石ころや砂を滞積させ広大な扇状地をつくりました。この扇状地が武蔵野台地となったのです。台地の上には富士山や箱根などの火山灰が幾度も積り関東ローム層になりました。武蔵の台地には古多摩川によって削られてできたが各地に残されています。この崖を『段丘崖』『崖線』または『ハケ』といいます。ハケによって武蔵野台地はいくつかの台地面(段丘面)に分けられます。博物館の館庭はハケによって上段の『下末吉面(金子台)下段の『立川面』に分かれています。武蔵野台地の真ん中にある狭山丘陵は古多摩川が削り残した古い台地です。また、加治丘陵の北側には入間川がつくった扇状地があり飯能(入間)台地となっています。(入間市博物館展示模型解説)

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地形区分

山地(関東山地)古生代~中生代の地層からなる固い岩盤がおよそ200万円前ころから隆起してできた山々
丘陵(多摩面)およそ7060万年前よりも前に川の流れによって土砂がつもってできた古い台地面の残り
台地(段丘面)
 下末吉面
13万年ころまでに川の流れによって石ころや砂がつもってできた台地面
 立川面42万年前ころまでに川の流れによってできた台地面
低地(沖積面)1万年前ころから現在までに川の流れによってできた低地河原(立川面より新しい段丘面を含む)
(入間市博物館展示模型解説)

by Twalking | 2018-02-11 19:27 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり入間02-さいたま緑の森博物館   

日時 2018.2.6(火)
天気 晴れ

狭山丘陵周辺の地図を見ていたら
北麓に「緑の森博物館」が大きく載っています。
ちょっと気になっていたので訪ねてみました。

案内所で大谷戸・西久保・八幡の湿地を紹介されましたが、
いや、いい谷戸ですね~!ありがとうございました。
今回は車でしたがここは歩いて散策するのがいいですね。
尾根上の外周路を絡めてまた訪ねてみたいと思います。


・・・宮寺

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谷戸の風景① 大谷戸湿地入口にある「水鳥の池」凍ってます/大谷戸湿地

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さいたま緑の森博物館
入間市宮寺地区(65ha)所沢市糀谷堀之内地区(20.5ha)にある県立の博物館 (合計面積85.5ha)狭山湖北岸、狭山丘陵の一角に位置し埼玉県立狭山自然公園の中にある。狭山丘陵の自然や雑木林そのものを野外展示物として自然観察の場として活用する場を目的とした博物館である。博物館の大部分を占める樹林地は代償植生としてのコナラ林であり全域にわたって分布している。コナラ林は狭山丘陵の代表的な木本群落であり丘陵の尾根筋から斜面、谷沿いに広がり入間市域および所沢市域まで見られる。また代表的な谷戸には休耕田に起因する湿地が広がっている。

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入間市域には大谷戸湿地西久保湿地、小ケ谷戸湿地、所沢市域には八幡湿地がある。大谷戸湿地と西久保湿地では谷戸地形の谷戸頭から谷戸尻までの距離が長く、特に湿性植物群落が分布している。湿地の植生ではミゾソバ群落、ヨシ群落、ミヤマシラスゲ群落が分布している。湿地のうち水田して活用しているのは西久保湿地と八幡湿地の谷戸尻部分である。(Wikipedia


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谷戸の風景② 谷戸の奥、ヨシが群落しています/大谷戸湿原

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トンボの湿地             散策路

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谷戸の風景③ 雪の残る展望広場から宮寺方向(北)の景観です/大谷戸湿原


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出雲祝神社鳥居/宮寺


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出雲祝神社(いずもいわいじんじゃ)
当社は狭山丘陵の北麓、不老川の流域にある。氏子区域宮寺は古くから人々の居住した所で、縄文中期の石塚遺跡、古墳後期の元狭山久保地坑遺跡がある。当社創建を語る社伝も古く景行天皇の代、日本武尊が東夷征伐のとき、当地小手指ヶ原に至り天穂日命、天夷鳥命を祭祀して出雲伊波比神社としたという。所蔵の棟札(62.8cm)に「伊都毛伊波比再造 牟射志入間臣宇助 大寶二年壬寅九月廿九日」がある。当社は式内社、出雲伊波比神社の論社とされているが、他に毛呂の出雲伊波比神社、北野物部天神社、川越の氷川神社などの論社がある。

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風土記稿』に寄木明神社とあるのが当社で「御朱印社領十石を賜はる神明帳に載たる国渭地祇神社是なりと、口碑に伝へたれど、よせる証跡はなし、祭神は素盞鳴尊を祀ると云、本社幣殿拝殿等備りて前に木の鳥居を建、矢寺・荻原・小谷戸・大森・中野・坊・二本木等七村の鎮守なり、此辺を宮寺郷と号することも、当社に権与せしならんと云」とあり、また『武蔵野話』に「寄木宮とて素盞鳴尊を祀る、恐らくは出雲伊波比神祠ならんか、此に依て此地を宮寺といえるなるべし」とある。これによって江戸期当社を寄木宮、祭神を素盞鳴尊としていたと思われるが、社蔵文書の北条氏康朱印状には「出雲祝神社中、棟別之事、指置之畢横合之儀不可有候、依如件、弘治3年丁已1127日、狩野大膳亮、庄式部少輔奉之」とあり、天正19年徳川家康朱印状は「大明神」名であり様々な名称で呼ばれたことがわかる。

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地名にも残る「寄木」については、社記に「この辺の氏族は出雲系で、出雲の国杵築湾に漂う木を取りあげ造られたのが出雲大社であり、天穂日命が東国に下ったとき杵築湾に漂い寄った樹種を携えてきて播種したのが当寄木の森」と伝えている。現在、祭神は天穂日命・天夷鳥命・兄多毛比命の三柱を主神に菅原道真公を始め11柱を相殿に奉斎している。道真公については三男道武が全国行脚の途次、当社に参詣、持参の菅原像を再拝して社の牛寅の方向に祀り松・梅・桜を植えたという古記録があり「松ノ木ヶ谷」「梅ノ木ヶ谷」「三本桜」の地名が現存している。当社には石棒があり、社記に「当社の神体は(以前)一個の石であった。長さ七寸(23cm)ほどの石棒の断片で、上半分は出雲大社に下半分は当社に天穂日命が持参されたもの」とある。大宝2年の棟札のほかに「正安三歳辛丑三月再開 武蔵入間郡宮寺郷入間重太度利宮寺中」とある鳥居棟札(70cm)も保存され古社であることを物語っている。明治2出雲祝神社と社名を一定し、同5年に村社となる。(埼玉の神社)

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拝殿の扁額              神楽殿


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重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうひ)
この碑は天保31832)の撰文銘をもつ碑で狭山茶の由来が記されている。題額は鳥取県若櫻藩主前縫殿頭松平定常、碑文は後の大学頭林韑があたり、当時の一流書家であった巻大任(菱湖)が筆をとったものである。鎌倉時代栄西によってもたらされた茶は各地に広まり、この地方にも川越茶がつくられた。その後戦国の乱をへて衰微したが、江戸時代の後期に狭山茶復興の機運が起り、地元の吉川温恭村野盛政の努力で再興され、文化・文政時代に至って茶の復興全くなり、茶戸50有余におよび江戸との取引も盛んに行われた。そこで天保元年に建碑の議がまとまり同7年に建立された(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会)

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「重闢茶場碑」碑文の訓読分
『州の北、河越の野に狭山あり、多磨入間二郡に預かり、古銘茶を出す(中略)然り而して歳月の久しく茶戸(ちゃこ)衰替して佳種灌茶深前の間に蕪没する。其他 各他各場培養の法の失い、矩また精からず。惟(たに)宇治は其の名を壇にして諸州の冠たるのみ。文政中に逮(およ)んで郷の著姓、村野氏盛政、吉川温恭、江戸山本氏徳潤と胥(あい)議り、重ねて場を狭山の麓に開き、以って数百年の廃を興さんと欲す。製益に精絶、而して狭山の産 後再び今に彰れるという。(中略)今より以後、郷の子孫継承して堕さず、益々共産を殖(ふや)さば則ち狭山の種、将に宇治に譲らず。(中略)吾未だ今日の挙、果して永伝たるかは知らざるや。若しそれ必ずや永伝なることを欲せば、則ち蓋けだしその子孫たる者の人力を以って、これを保つに在るや。しば姑(しばら)才月を識して以って竣つ』(入間市博物館展示パネル)

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狭山茶
始まりは鎌倉時代で武蔵国の狭山丘陵一帯、特に現在の埼玉県入間市を中心に栽培された。江戸時代には狭山丘陵一帯の村々が川越藩領であったことから「河越茶」と呼ばれていた。江戸中期に行われた武蔵野の新田開発により地域の特産物として栽培が普及し産地も拡大したが、現在その多くは入間市で生産されている。(製法)丹念に選りすぐられた新茶葉と「狭山火入」という伝統の火入れが江戸時代から変わらぬ美味しさの秘訣である。この火入れにより狭山茶特有の濃厚な甘味を得ることが出来る。手揉み茶の製法は「茶葉を蒸して焙烙に和紙を敷き、揉み乾かす」というものである。これは、享和21802)に吉川温恭村野盛政指田半右衛門らが編み出したもので、現在では主に手もみ狭山茶保存会によって保存活動が展開されている(Wikipedia抜粋)

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谷戸の風景④ 神社境内から狭山丘陵を望みます

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西久保観音堂境内/宮寺

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西久保観音堂
この観音堂は『清水山観音堂』とも呼ばれ安産祈願で有名である。腹帯授与によって無垢な子供が生まれるといわれ、清泰寺が管理している。本尊の正観音は神亀5年(728壬春行基が清水観音の霊夢によって、神木三の木を以って四十四糎(センチ)の像を作ったものである。宝亀年間(770780)に沙彌延鎮行基が正観音を向う山に安置したことを聞いて清水山観音寺と名づけられた。西久保観音はもと狭山丘陵の中腹飛入という所にあったものを明暦年間に現在の地移転したもので、出雲祝神社と隣りあっている(入間市博物館資料)

西久保観音堂とカヤの木
陽射しをいっぱいに浴びた西久保観音堂。神亀5年(728)春、行基が全国行脚の途中、堂を開いたのが始まりといわれています。また、樹齢1000年を越すといわれるカヤの木は市内第一の古木で、自然界の持つ悠久の時の流れを感じさせてくれます(入間市教育委員会)

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西久保観音の鉦(かね)はり
鉦はりは毎年117日、817日に見子久保観音堂で行われる。期限は定かではないが江戸時代に始まったと考えられる。鉦はりは太鼓1名、鉦4名を持って構成され、念仏に節をつけて歌のことく唱えこれに太鼓、鉦を打ち込むものである。打ち鳴らす双盤鉦と太鼓の音がリズミカルに調和し、念仏の唱和と相まって独特の境地に誘い込むものである。鉦はりは一般に双盤念仏と呼ばれ、双盤鉦を打ち込みながら特殊な節をつけて唱える引声念仏(いんぜい)のことである。念仏は比叡山真如堂、鎌倉光明寺で行われるようになり、その後民間に広まり双盤念仏として定着したものと考えられている。(入間市教育委員会)


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谷戸の風景 春霞かと思ったたら焚火の煙でした/西久保湿地

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谷戸の風 出雲祝神社の奥には田畑と湿地が広がります/西久保湿地

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たんぽも凍ってます          散策にはいい所ですね~

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さいたま緑の森博物館マップ

by Twalking | 2018-02-10 09:50 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり入間01-宮寺氏館跡   

日時 2018.2.6(火)
天気 晴れ

思わぬ降雪でしばし出歩きを止めてましたが、
余りの好天に誘われて車で入間市を訪ねました。

東村山から所沢へ鎌倉街道を山越えしましたし、
村山党の根拠地・狭山丘陵南麓も歩いてみましたが、
丘陵の北鹿には同党の宮寺氏、金子氏の館跡があります。

また、この丘陵低地はかつての古多摩川の流路、
入間市博物館に関連の展示物もあると知りましたので
要所を繋ぎながら散策してみました。


・・・宮寺

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丘陵の風景① 狭山丘陵の北鹿、中央辺りが宮寺になります/入間市博物館

地名の由来
.「宮」と「寺」の文字から考えて矢寺の西勝院と西久保の寄木宮(出雲祝神社)がこの地にあったことから付いた地名であるという(埼玉県地名誌) 2.西勝院が寄木宮の神宮寺(神社に付属してたてられた寺のこと)であると考え「神宮寺」が略されて「宮寺」になったという(埼玉県地名誌) 3.狭山丘陵の平坦地に宮があったため「宮平」と称したものが変化して「宮寺」になったという(埼玉県地名誌)/入間市HP


・・・宮寺氏館跡/西勝院周辺

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西勝院山門 真言宗豊山派のお寺、
狭山観音霊場第29番になります

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山門(黒門)左手に「宮寺氏館跡」の標柱が立ちます

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(荻原村)西勝院
宮寺山無量壽寺と號す 新義真言宗、多磨郡中藤村真福寺末なり 中興開山智養元和51115日寂す 相傳ふ此寺に昔宮寺西勝と云もの住すと 西勝がことは記録なければ知べからず されど「東鑑」にも正嘉の頃の人に宮寺蔵人政員など云人見えたれば 西勝も彼人の族などにやありけん 又傳ふ加納下野守と云者住せり 其頃までは當寺矢寺村の内に在しを 下野守が計ひにてここに移せしと云 本尊は薬師なり』(新編武蔵風土記稿)


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宮寺氏館跡
(市指定史跡)
平安時代末に武蔵七党のひとつである村山党村山家平(いえひら)が、宮寺の領主となって宮寺五郎家平と称しこの地に居館を構えた。現在西勝院とある場所がこの宮寺氏館跡である。村山党は桓武天皇九代の孫で今から約九百年前、村山(東京都武蔵村山市)に住み着いた村山(平)頼任(よりとう)をとする、頼任の子頼家には四子があり家平は次男である。宮寺氏の菩提寺西勝院は元は宮寺の大御堂(おおみどう)にあったが、慶長10年(1605)に現在の地に移転したと伝わっている。現在ではこの居館跡の全体遺講を見ることはできないが、西勝院内の南側・東側に土塁空堀、また山門手前左側に土塁の一部が見られる。さらに西側を流れる水路が館の水堀であったと推測され、その内側には土塁が構築されていたと考えられる。この水路は現在西勝院の境内を囲むように西側から北側に流れている。(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会)

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境内南側・東側に土塁と空堀が残ります

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土塁の様子              山門左手の土塁

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西側からみる西勝寺の全景

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「水堀」と推測される西側の水路の様子

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北側からみる西勝寺の全景

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史跡宮寺館跡/境内北側
桓武天皇9代の孫・平頼任は、今からおよそ900年前村山に住んで武蔵七党の一つである村山党の祖となった。その子孫は枝葉のように入間郡を中心にひろがって大武士団をなり、源頼朝の鎌倉幕府の成立に大きな力となったことは広く知られているところである。村山(平)頼任の子・頼家四子があった。長男家綱は入間郡大井町に住んで大井氏を名乗り、三男家範は入間市に住んで金子氏となり、四男家継は所沢山口に住んで山口氏をとなえ、そして二男の家平は宮寺の領主となって宮寺五郎と称してこの地に居館を構えたのである。源頼朝、同義経の家来で源平合戦で名高い金子十郎家忠は、宮寺五郎家平の弟家範の子である。家平の一族と思われる宮寺三郎や宮寺蔵人の名が当時の史書に見えるから十郎家忠らとともに活躍したのであろう。

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すでに800年以上も昔のことであるからこの居館跡の全体の姿を知ることは難しいが、西勝寺境内の東部に残る長さ30m、高さ2mの土塁空堀は明らかに当時の遺構の一部で、北隣の荻野家の屋敷の北側約120mにわたって残っていたのである。元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅びたころは加納下野守なるものがここにいたと伝えられ、江戸時代から狩尾氏、のちに伊濃(猪尾、井野尾、伊野尾とも書いた)がいたが、この間の詳しい事情はよくわからない。以上宮寺館跡の概略を記して見学者の参考に資するものである。昭和58919日(入間市教育委員会、宮寺郷土を知る会、入間市文化財研究同好会)

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入間周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道 橙:日光脇往還 紫:青梅街道 緑:江戸秩父往還 青:多摩川・入間川 赤丸:宮寺・金子・中村)

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資料ファイル

入間市の歴史

入間市の古代における遺跡のうち代表的なものとして東金子窯跡群があり、ここでは主に国分寺瓦が造られた。聖武天皇時代、全国に設けられた国分寺に奉献された瓦のなかには入間の郡名を見ることができる。中世においては、武士団が勢力をもち入間市でも村山党金子氏宮寺氏及び丹党加治氏などが武蔵武士団の一員として活躍した。この時代の史跡として瑞泉院には金子氏一族宝篋印塔がみられ、高正寺にも巨大な板碑が遺されている。また、入間市を初めとする周辺地域に遺された板碑は、数多く中世期における当地方の活動状況を表すものであり、特に円照寺加治氏板碑は同氏が政治的にも深く係わりをもっていたことを示している。江戸時代当地方は天領、藩領、旗本領と支配が入り混じっていたものの経済活動は活発化していった。特に江戸末期において扇町屋は穀物市や木綿市が立ち、地域経済の拠点として栄えた。明治期に入り、現在の入間市の原型ともいえる町村(豊岡町、金子村、宮寺村、藤沢村、東金子村、元加治村、元狭山村)が成立し、また繊維工業のめざましい発展がみられた。(入間市HP)

入間市博物館(1)


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宮寺氏館跡
宮寺氏は武蔵七党のひとつ村山党の武士で、村山頼家の二男・家平が鎌倉時代に宮寺郷の領主となって宮寺氏と称し、この地に居館を構えたとされます。外郭130m四方で、内部の堀跡・土塁の一部が残存しています。土塁の外側に沿って狭山丘陵からの沢水を利用した水堀が館を囲っていました。周辺には「城ノ腰」「城東」「的場」「的場後」という小字があり、館に関連のある地名と考えられます。また、境内より鎌倉期から室町期にかけての板碑宝篋印塔が出土しています。(入間市博物館展示パネル)

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宮寺館跡から出土した宝篋印塔
康応元年(138910月日銘
複数の人々が集まって十三部経を書写、誦して奉納した結衆の石塔です。宮寺氏一族の信仰に関する石塔として貴重です。(入間市博物館展示パネル)

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宮寺氏の館跡(現西勝院)「武蔵野話」国立国会図書館蔵/入間市博物館展示パネル

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江戸時代の主要な道/入間市博物館展示パネル
(赤:日光脇往還道 橙:江戸秩父街道 赤角:扇町屋宿・二本木宿 赤丸:博物館・根岸の渡し・笹井の渡し)

扇町屋
(おうぎまちや)
旧入間郡扇町屋村。古くは金子郷、山口領に属し鎌倉時代には旧鎌倉街道のひとつ狭山路が通っていた。また室町時代には大火がありこの時から愛宕神社に火産霊命、別雷命を合祀して愛宕権現と呼ばれるようになった。江戸時代初期の正保年間には石高70石の小村だったが、青梅から川越に至る街道と八王子から日光へ向かう街道の交点にあたり伝馬が整備され宿場が発達した。江戸時代の扇町屋宿は長さ6町ほど、道幅8間余り、戸数90軒、三と八のつく日に穀物などを売る市が立ったと言われる。米穀商が多く八王子千人同心日光行では往還の際に利用されていた。また大山詣で(大山阿夫利神社)に使われた八王子通り大山道(熊谷-丹沢・大山)の宿場町としても使われた。正保期には旗本・朝比奈源六郎領と愛宕社領の入会地が混在したが、1843年(天保14)、天保の改革の一環で上知令により朝比奈領は上地(天領)となり、上知令を含む天保の改革自体が頓挫した後は田安徳川家の領地となった。この時代の地名に上、中、下、大水久保、山王塚、古塚、金堀澤、神名久保、本宿が挙げられる。また東南方78町離れた場所に扇町屋新田と呼ばれる新田があり本村の持添であった。元禄6年(1693)に本村の検地が近山与左衛門・瀧野十右衛門により、宝暦8年(1758)に新田の検地が伊那半左衛門によって行われた。地名は愛宕神社の神体が五本骨のであることからこの名がつけられたといわれるWikipedia

by Twalking | 2018-02-09 13:40 | たまのさんぽ道(新規)

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日時 2018.1.3(水)
天気 晴れ

巡礼道からひとつ西側の尾根筋が常盤道、
上小山田へ下り、多摩丘陵の西端部へ上り返し、
境川へ下っていきます。

道としては巡礼道の方にやや分がありますが、
こちらは郷の風景や古い寺社もありますので
見所は豊富、変化があって面白いですよ。


・・・忠生村


かつて東京都南多摩郡に存在した村である。1958年(昭和33)隣接する12村との合併により町田市となり廃止された。現在の町田市の町名では山崎町、山崎、木曽町、木曽東、木曽西、忠生、根岸、根岸町、矢部町、常磐町、図師町、上小山田町、下小山田町、小山田桜台にほぼ相当する。名称は小山田高家という忠臣が生まれた土地であることから。高家は『太平記』に新田義貞の身代わりとして湊川の戦いで討ち死にしたという記述がある。
町田市下小山田町にある大泉寺小山田氏居城跡といわれる(Wikipedia

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街道の風景① 巡礼道の辻の先から上小山田へ下ります。この道はすれ違いできませんが、都道なんですね/よこやまの道(市境)

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都道155号町田平山八王子線
町田市から多摩市、日野市を経て八王子市に至る一般都道である。(起点:町田市図師町図師大橋交差点 終点:八王子市大和田町・国道20号石川入口交差点)町田市の小山田バス停留所付近-尾根幹線道路交点手前までは幅員1.9 - 2.1mの狭隘路であり、2トン以上の自動車は通れず車両の離合は不可能。八王子市堀之内の堀之内芝原公園- 多摩テック付近までは、上記と同じ程度の狭隘路であるため離合は難しい上、抜け道として利用されており交通量が多く見通しも悪い。Wikipedia

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鎌倉時代の蓮生寺と鎌倉道
この峠から北は、現在は崖ですが近年まで鎌倉時代の伝説に関わる古道がこの先北方900m先の蓮生寺という寺の前へ続いていました。鎌倉時代の公式記録である吾妻鏡の寿永元年(1182)420日条には「源頼朝の父・義朝の護持僧であった円浄坊という僧侶は、頼朝が母の胎内に居る時から祈祷をしていたが、平治の乱以降、京都を出て武蔵野国に蓮生寺創建し、頼朝も土地を寄付してこの寺を保護した」とあります。この僧は天台宗比叡山に属したことからこの近くの山王塚(多摩市の西の境界点付近にあった)や日枝神社もそのことと無縁ではなさそうです。寺の前からこの峠に続く道には鎌倉道伝承があり、多摩ニュータウンに伴う発掘調査では鎌倉時代頃の建物跡鍛冶場跡、土器や陶器、中国製の舶載陶磁器などが出土しています。また本尊の木造羅遮那仏坐像は円浄坊が京から持参した仏像で藤原様式のものとみられ、また近くの別所長池から出現したという薬師如来像も平安時代末期の地方仏とみられています。(案内板)

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・・・上小山田町/町田市

中世、坂東八平氏
の一つ秩父氏の一族有重が武蔵国小山田荘に移り住み小山田氏を名乗る。1447年には長尾景春によって小山田城が落城している。その後、後北条氏の支配下に入っているがその頃には上小山田村、下小山田村の名が見える。Wikipedia

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街道の風景② 左手の尾根筋が巡礼道になります

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急坂のヘアピンカーブ         里道に下りました
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街道の風景③ 振り返ると谷戸の奥に下り口(よこやまの道)が望めます

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正山寺山門(しょうさんじ)/
上小山田

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正山寺
寺記によると開基祐玄は西本願寺12世准如法主に帰依し門末となり、元和元年9月朔日、本尊阿弥陀如来御木像を賜り、寺号を許されました。その後、第4世意的が貞享339日に東本願寺に転派して今日に至っています。また、口碑によると戦国争乱の世、小田原の北条氏が関東を支配していた時、甲斐の武田信玄が北条の隙をうかがって鎌倉に出陣の折、三浦郡にあった某寺に宿を請い、同寺の住僧は甲斐に縁故があったことからこの申し入れを受け入れました。しかし武田氏は目的を遂げられずに退去しました。このことが北条氏に密告され、北条氏はこれを怒り同寺及びその近傍の同宗の僧徒を駆逐し、または処刑しました。正山寺以前の当寺の住職もその被害を蒙り、相州小山(現在の町田市小山町馬場)にを逃れました。祐玄の時まで小山に在り小山寺と称していましたが、その後上小山田野中谷戸に移築して正山寺に改めたと言われています。尚、忠生村誌には江戸末期の上小山田出身の国学者小山田与清の考証として次のようなくだりが引用されています。西本願寺の古文章には「武州多西郡小山田村伯耆(ほうき)沢小山寺といふ。さては伯耆が谷とも伯耆沢ともいへり。小山寺といふも小山田の田をはぶけるにや。今はもじを改めて正山寺となんかける」(正山寺H)
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街道は左手の尾根に向かって上ります/正山寺境内

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石仏群/田中谷戸倶楽部         右手へ行くと鶴見川源流広場です

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街道の風景④ 小山田十字路を右折して「尾根緑道」へ上ります

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直進すると大泉寺(小山田城址)    鶴見川を渡ります 

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バス通りと別れ旧道へ          街道は右へ、養樹寺に寄ります

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養樹院山門
(じょうじゅいん)/上小山田

富亀山養樹院
大泉寺11世で図師の圓福寺を開いた聖翁存祝和尚が、もとは密教の寺院だったが荒廃していたところを慶長19年(1614)曹洞禅寺として再興した(フットパス案内版)

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本堂                 横額

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養樹院曹洞宗 
下小山田町大泉寺末。山寺号:富亀山養樹院。開山:存祝、寛永7年(1630126日示寂。本尊:釈迦木座像、蓮台とも三尺。本堂:間口八間 奥行五間 ほかに三間四面の開山堂が付属する 寄棟亜鉛葺 三間に二間の向拝があり、正面唐破風 総持寺管長書「養樹院」の横額を掲ぐ。鐘楼:九尺四面総欅。梵鐘なし。明治43年一成建造。円通庵:観音堂なり。二間に二間半御堂造り。本尊ジンテイ観音長一尺二寸。庫裡:三間半に八問、寄棟瓦葺木造平屋。玄関 本堂と庫裡の間を結ぶ。三間の式台あり。山門:間口九尺、奥行一間の組門。総門 石柱。 庭内:彦根緑山の句を中村汀女の筆にした『松山も榛の木山も春の声』の句碑がある。(町田市史)

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円通庵(武相観音霊場第36番札所)

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街道の風景⑤ 旧道を直進すると平薬師堂、神明神社があります。尾根の白い建物が下り口(よこやまの道)です/神明神社

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平薬師堂               薬師堂前の旧道

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神明神社鳥居/上小山田

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神明神社
由緒書によれば、当神明神社は鎌倉幕府の御家人として活躍した小山田一族で小野路城の城主であった小山田次郎重義が、伊勢の伊鈴川の面影が色濃い場所として上小山田の田中谷戸を選んで天照大神を勧請したのが始まりといい、明治に入って村内の神社六社を合祀してこの地に遷座したという。ちなみに神明とは天照大神のことで伊勢神宮を勧請した神社を神明神社と称する。

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北側の参道              鳥居に「山王社」の扁額

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街道の風景⑥「尾根緑道」東側の景観です。養樹院先からの道と合わせます/神明神社先

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小山田付近MAP/まちだフットパス
(橙:奥州古道常盤道 赤:武相観音巡礼道 紫:奥州廃道(長坂道)青:鶴見川)


・・・常盤町(ときわまち)/町田市

町田市の西部に位置する。東で下小山田・忠生、南で矢部町・相模原市中央区上矢部、西で小山町、北で上小山田と隣接する。相模原市との都県境付近を境川が流れる。永禄の頃には既にこの地名が使われていたが地名の詳しい由来についてはわかっていない
Wikipedia

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街道の風景⑦ 「尾根緑道」西側の景観、相州大山がくっきり望めます/種入

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尾根緑道を南へ            公園先から下ります

尾根緑道の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23515579/

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持宝院山門/
常盤町

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持宝院
宗派:本山修験。木曾町覚円坊配下。山寺号 玉郡山持宝院。『風土記稿』には玉郡山田沢寺連蔵坊とあり。開山:持宝院縁起には鎌倉時代とあるがこれは明確でない。『風土記稿』には上記のように載録されているので文政年間にはすでにあった。明治維新の修験廃止に逢い同62天台宗寺門派となり常盤不動尊として今日に至る。本堂:間口三間半、奥行三間半、向拝あり。寄棟亜鉛葺木造平家。庫裡:六間半に五間の草屋。本尊:不動。(町田市史)

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日枝神社鳥居/常盤町

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日枝神社
日枝神社(祭神 大山咋神・おおやまくいのかみ)は永禄元年1558)今から441年前には常盤の集落に鎮座されていたといわれます。永い歴史の中で集落の守護神日枝神社には消長流転を経ながら氏子や崇敬者に支えられてきました。とりわけ明治39年から昭和32年までの51年間、日枝神社は神明神社(上小山田鎮守)に移され、境内社に過ごされておりました。町田市制に伴う町名分割(上小山田町と常盤町)により日枝神社は常磐の鎮守としてこの地に再び還ってきました。漸く諸般の情勢が整い平成55月神社本庁の承認を得、平成83月東京都から宗教法人の認証を得る事ができました。これを機会に平成92月社殿造営計画をを開示しましたところ氏子、崇敬者の篤い理解に支えられて資金の目途も立ち、建設も順調に推移し平成117月社殿完成するに至りました。壮麗な社殿の造形は常磐の里の鎮守にふさわしく信仰の心とともに後世に伝えられると信じます(碑文)


・・・上矢部/相模原市

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街道の風景⑧ 境川を渡ると相模原市、河岸段丘を上り矢部駅へ

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町田街道常盤交差点を左折       常矢橋を渡ります

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上矢部御嶽神社鳥居/上矢部

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上矢部御嶽神社
上矢部御嶽神社は旧上矢部村の鎮守として境川を背にしたところにあります。創建は明確ではありませんが、建久年間(119099)にこの地に居城を構えていた矢部義兼によって「三嶽社」として勧請され、その後、矢部氏滅亡後は建武年間133438)に正覚院浄因によって「御嶽大権現」として再建されたと伝えられています。

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広く静かな境内には弁天社・第六天社・八坂社・蚕影社・日枝社などがありますが、この日枝社の社殿は境内地にあったものが焼失してしまったために、大正初期に柚木村(現在の八王子市)より譲り受けたものです。この神社の例大祭では、市内でも珍しい「笹湯の湯花神事(湯立神事)」が行われます。これは境内に竹を四方に立ててしめ縄を張り、その中央に3本の丸太を組み合わせてかまどを作り、その上に釜をのせて火を炊いて湯を沸かし、神職がそれを笹の葉で左右に散らすという厄除けの神事です。この丸太によるかまどはもちろんのこと、神前に初湯を供える青竹の棚にいたるまですべてをの場の手作業で作らなければならず古式ゆかしい神事として注目を浴びながらも、その継承には難しいものが感じられます。(さがみはら風土記稿)

矢部氏館跡の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23550016/

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常磐周辺マップ 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(橙:常盤道 紫:町田街道 青:境川)


・・・・
資料ファイル

神明神社
(しんめいじんじゃ)

天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(伊勢市)を総本社とする神社である。神明社(しんめいしゃ)、神明宮皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社などともいい通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされているが、一説には約18,000社ともいう。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば伊勢信仰に分類される神社は全国2位(4425社)であるという。祭神の天照大御神太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき広く信仰を集めた。古代においては皇祖神として天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は禁止されたが、中世に入り朝廷が衰微するに伴い、伊勢神宮の信者を獲得し各地の講を組織させる御師が活躍し、皇室のためだけの存在から日本全体の氏神・鎮守としての存在へと神社の性格は大きく変わった。また、布教とともに各地の有力者による神領(御厨)の寄進が行われ、その地に伊勢神宮の祭神が分霊され、神明神社が広範囲に分布することとなった。特に神仏習合の教説において神道側の最高神とされたことなどにより近世に至り一般民衆の間にも伊勢信仰が盛んになると、新田開発の際に神明神社を創建することが盛んになった。その祭事はほぼ伊勢神宮と同じであり、神使もである。鳥居の形は主に「神明鳥居」であり素朴な形式で全体的に直線的である。建築様式は神明造であることが多い。なお、「神明」という言葉は天照大御神のことを指すほか、単に「神」という意味でも用いられる(Wikipedia


山王信仰(さんのうしんこう)

比叡山麓の日吉神社(大津市)より生じた神道の信仰である。山王とは滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を指したものである。日吉神社日枝神社あるいは山王神社などという社名の神社は、山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山咋神(おおやまくいのかみ)と大物主神(おおものぬし)(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。神仏習合期には「山王権現」や「日吉山王」とも称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。なお、日吉大社では猿を神使とするが、猿との関連性についてはよく分かっていない。おそらくは原始信仰の名残りではないかと推測されている。(Wikipedia


by Twalking | 2018-01-08 22:01 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の古道01-武相観音巡礼道(改定)   

日時 2018.1.3(木)
天気 晴れ

お天気に誘われて足慣らしに出かけました。
やはり、足が向くのは近場の多摩丘陵、
唐木田から矢部へ歩いてみました。

尾根上のよこやま道から武相観音巡礼道、
上り返して奥州古道・常盤道で矢部へ、
ワクワクするいい道ですね~、楽しみました。


・・・唐木田/多摩市


多摩市の南部に位置する、同市最西端の町である。当地域は1991年(平成3年)に入居が開始された多摩ニュータウン第11住区の西部で構成された多摩市内でも新しい街である。元は落合村の一部であった。地名は乞田川の支流の一つである唐木田川より
Wikipedia

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街道の風景① 左が市境の尾根、正面が松が谷の尾根、すぐが小田急の唐木田駅になります/大妻裏

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棚原の館跡/唐木田(よこやまの道)
ここから左側(東側)に見える操車場付近にはかつて小高い丘がありました。江戸時代の地誌には戦国時代に八王子城で討死した島崎二郎某館跡があって、鎮守の森や馬場跡もあったと記されています。島崎氏の先祖は鹿島神宮や香取神宮に近い常陸国(茨城県)行方群(なめかた)の島崎城付近から来たとも伝えられていますが詳細は不明です。(案内版)

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馬頭観音の道標と古道交差点/唐木田(展望台)
遠く武蔵野を望むこの高台にはかつて鎌倉道奥州古道の十字路がありました。東側崖下の道は昭和9にできた切通しで、その後の開発の時に東側斜面がなくなり新たな車道も一段下にできました。また明治40年建立の馬頭観音が平成10年頃までここにあり「除馬頭観音」「溝 橋本道」や「原町田道」「八王子道」「府中道」と刻まれていましたが、今は近くの民家の庭先に移動し大切にお守りされてます。(案内版)

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街道の風景② 尾根上を行くよこやまの道、左手を奥州古道が通っていたようです/大妻裏

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京と東北を結んだ奥州古道と影取池伝説
多摩よこやまの道に平行して残る山道はかつて京都と東北地方(奥州)を結んだ奥州古道痕跡です。(奥州古道常盤ルート、国府街道とも)京都や奈良から関東諸国の国司として赴任してきた有力貴族や都の警護にあたる衛司の往来、また防人の帰郷の道ともなりました。また江戸時代には巡礼の道(武相観音霊場道、東西領国巡礼道)として振る舞いました。(案内版)

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影取池伝説
その昔、この北側には深い森と影取池がありました。旅人が水面に影を映すと姿を消してしまうので大蛇のしわざではないかとか、また南北朝の時代に落城した小山田城を抜けだした奥方の浄瑠璃姫13人の侍女と共にここへ来て、昔話に花を咲かせた後入水したことの祟りではないかと噂されました。江戸時代にお坊さんを呼んで供養すると水面に雲がわき立ち、笑みをたたえた姫と侍女たちは昇天し、村には平安が戻ったといわれます。八王子市別所の長池にも同様の言い伝えがあります。(案内版)

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街道の風景③ 左折する尾根筋が巡礼道、この先の尾根が常盤道です/古道の辻

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巡礼古道
この付近には昔から旅の巡礼者たちにまつわる言い伝えが多くあります。それは江戸時代の宝暦年間1759)頃から始まった武相観音巡礼道やそれ以前から東日本と西日本の霊場・札所を行き来する旅人が通過した巡礼道(奥州古道・国府街道)があったからと考えられます。この案内版かの西隣りには二つの古道がT字型に交差するであり、畑と多摩よこやまの道に沿って東西に続く緩やかな窪地(山道)奥州古道、南に分かれて下っていく代官坂武相観音巡礼道です。(案内板)
入口には「嘉永2(1849)の地神塔」が建っています。

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・・・町田市

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街道の風景④ 左に石地蔵さん、ほぼ一直線に尾根を下ります。道はこの先で二差路になりますがどちらも集落へ下ります/代官坂

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代官坂
この近くにある地神塔は江戸時代末期の嘉永年間のもので、ここから南方の小山田大泉寺方面に続く武相観音巡礼道は、いつ頃からか「代官坂」と呼ばれていました。名前の由来は不明ですが、道は昔からよく整備されてきた痕跡があり、普通の生活道ではなく計画的な往還道の一つであったことが分かります。途中には行き倒れになった旅人を祀ったという巡礼地蔵石仏が今でもみられます。(案内版)

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街道の風景④ 直進すると耕作地が広がり、それを過ぎると雑木林の下り道になります

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細尾根になってます          掘割状の道が残っています

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街道の風景⑤ 右手が下ってきた道です、ここから大泉寺へはすぐです

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大妻大からの下りと合流        バス通りにお地蔵さん/山の端バス停

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古来より一丁田の辻に鎮座し、地域は基より道行く人々の安全を見守っていた薄山講中の道祖神、延命地蔵尊が何時の日か消滅してしまい、昭和57年に再建いたしましたがこの度の市道の拡張により移転となり、この地に遷座となりました。(薄山講中)


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周辺地図/巡礼古道案内板(180°回転)
(橙:巡礼古道 赤:奥州古道常盤R 紫:長坂道 緑:よこやまの道 茶:現在の道路 赤角:唐木田駅)

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・・・・
資料ファイル

武相卯歳観世音札所
武相卯歳観世音札所は武蔵国と相模国にかけて開かれた48の札所からなります。第一回の御開扉(おかいひ)は宝暦9(1759)12年に一度卯歳の春だけ普段は秘仏の観音様のお厨子の扉が一斉に開きます。平成23年卯歳(2011)の御開扉は22回目で第一回御開扉から252年でした。武相卯歳観世音札所は武蔵の国(東京都:八王子市、日野市、多摩市、町田市)と相模の国(神奈川県:横浜市緑区、横浜市青葉区、相模原市、大和市)に所在する48の札所で構成されています(鶴間山 観音寺)

1番 観音寺(大和市下鶴間2240

2番 随流院(横浜市緑区長津田5-4-30
3番 松岳院(横浜市青葉区奈良2-4-7
4番 観性寺(かんしょうじ)町田市成瀬2741-9 
第5番 養運寺(町田市本町田3654
第6番 千手院(せんじゅいん)町田市小野路町2057
第7番 観音寺(多摩市関5-31-11

第8番 真照寺(しんしょうじ)日野市落川1113
 
9番 松連寺(百草観音堂) 日野市百草849-1
10番 清鏡寺(せいきょうじ)八王子市大塚378
11番 大泉寺(だいせんじ)町田市下小山田332 
12番 保井寺(ほうせいじ)八王子市堀之内547
13番 玉泉寺(ぎょくせんじ)八王子市越野726
14番 永泉寺(八王子市鑓水80
15番 福傳寺(八王子市明神町4-10-6
16番 金剛院(八王子市上野町39-2
17番 泉龍寺(相模原市南区上鶴間本町8-54-21
18番 高乗寺(こうじょうじ)八王子市初沢町1425 
19番 福昌寺(ふくしょうじ)横浜市青葉区恩田町1021-1
20番 喜福寺(八王子市中野山王2-11-6
21番 長安寺(八王子市並木町7-1
22番 真覺寺(しんかくじ)八王子市散田町5-36-10
23番 興福寺(八王子市東浅川町754
24番 祐照庵(大戸観音堂) 町田市相原町4643
25番 普門寺(相模原市緑区中沢200
26番 長徳寺相模原市緑区大島756
27番 清水寺(せいすいじ)町田市相原町701 
28 29番福生寺(ふくしょうじ)町田市小山町2524
30番 高巌寺(こうがんじ)相模原市中央区上溝6-18-4
31番 観心寺(かんしんじ)相模原市南区当麻774 
32番 清水寺(せいすいじ)相模原市南区下溝1457
33番 覺圓坊(かくえんぼう)町田市木曽西4-7-33
34番 泉蔵寺(せんぞうじ)町田市下小山田町1391
35番 上柚木観音堂(八王子市上柚木402-2
36番 圓通庵(養樹院内ようじゅいん)町田市上小山田町2536
37番 祥雲寺(町田市高ヶ坂1290
39番 慈眼寺(じげんじ)相模原市緑区城山4-367
39番 宗保院(そうほいん)町田市原町田1-18-13
40番 永昌院(えいしょういん)八王子市中山452-2 
41番 永林寺(八王子市下柚木4
42番 慈眼寺(じげんじ)八王子市片倉町944
43番 信松寺(しんしょうじ)八王子市台町3-18-28
44番 宗印寺(そういんじ)日野市平山6-15-11
45番 観泉寺(かんせんじ)町田市真光寺町1210
46番 吉祥院(八王子市長房町58-3
47番 定方寺(じょうほうじ)大和市下鶴間145
48番 龍像寺(りゅうぞうじ)相模原市中央区東淵野辺3-25-1

by Twalking | 2018-01-06 09:32 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり箱根ヶ崎02-六道山   

日時 2017.12.22(金)
天気 晴れ

歴史資料館を訪ねたら移転、ありゃ~、でしたが、
図書館の方から地図とルートの説明を伺い、
車を駐車して六道山&麓の寺社散策に向かいました。

狭山谷戸から尾根伝いにひと上り、六道山は平坦です。
三角点、狭山懸橋、遺跡広場、六道の辻と見所一杯、
メインの道なんでしょうね・・・、きっと。

下りは古刹を見たかったので伺った尾引山遊歩道へ、
この尾根道は緩やかで気持ちいいですよ。
狭山湖へも行けようなのでいつか歩いてみたいですね。



・・・石畑村


耕地に多数石が含まれていたことを想定させるような地名ですが正確な由来は不明。江戸時代前期の古地図には石畑の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。そのため、中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷一部だったと思われますが、江戸時代前期に現箱根ケ崎地区に箱根宿が成立して村山村の人口が増加したため、寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。もともと石畑とは石畑村の小字名であったがのちに村名となりました。(地名に残る瑞穂の歴史/瑞穂町)


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お伊勢山遊歩道」から振り返って町中心部を望む

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落葉を踏んで・・・、いい道ですね~、気持いい

お伊勢山遊歩道

六道山公園に向かうコースとして7つの遊歩道が整備されています。お伊勢山遊歩道には標高194mの一等三角点があり、7つの遊歩道随一の高さです。(1448m)


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標識はしっかりしてます           途中のお地蔵さん

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尾根道をひと上りすると三角点広場、あとはほぼ平坦な遊歩道です

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三角点広場
この広場は「三角点」があることから野山北・六道山公園三角点広場として整備しました。この広場を起点にして北狭山、田の入方面、御伊勢山遊歩道を経由して狭山池公園(瑞穂町)方面、また町道2号線を跨ぐ橋を渡り出会いの辻を経由して里山民家や野上北・六道山公園の最東の遊びの森、冒険の森カタクリの広場へ尾根道を利用して散策できます。野山北・六道山公園縦断の散歩道の起点として覚えてください。(案内板)写真:一等三角点「高根」

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町道に架かる「狭山懸橋」を渡り右へ、下の道は車でよく通りました

狭山懸橋広場
狭山懸橋の周辺は狭山丘陵の西側に面し、狭山丘陵の中では標高が一番高いところです。現在橋の下を通る道路が出来るまでは、山深い場所でした。狭山懸橋の南はかつて狭山谷という谷戸が広がっており、この渓は天狗に関する昔話が伝わっています。学校通り(町道2号線)で分断されていた場所が狭山懸橋の完成(平成23年)で尾根道がつながりました。(案内板抜粋)


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狭山懸橋               学校通り

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すぐ先は遺跡広場です

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都立野山北・六道山公園の遺跡遺跡
広場の真下には六道山西北遺跡があります。そして周辺には東隣に石畑狭山嶺遺跡、南東には六道山遺跡、南西には瑞穂町NO6遺跡やNO19遺跡があります。これれは主に縄文時代早期から中期(今から約9000年~3500年前)にかけての営まれた遺跡で、遺跡広場の周囲約400mの範囲内に隣接してあることから互いに関連する一連の遺跡群を形成していると思われます。

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これまでに行われた発掘調査ではまだ遺跡群の全貌を明らかにしておりませんが、縄文時代の土器、打製石斧、磨石、石皿、石鏃、搔器(獲物の解体具)など当時の調理や狩猟に関する生活道具が多数発見されました。また、今のところ堅穴住居は発見されておりまえんが、陥穴が多数発見されています。こうしたことから当時この辺り一帯は狩猟・採集を生業とした縄文人の狩猟場であり、住居地であった可能性が高いと思われます。このほかごくわずかですが旧石器時代の尖頭器(槍先)や古代(奈良・平安時代)の須恵器なども発見されており、大昔から人々がこの地を行き交っていたことがうかがえます。(瑞穂町教育委員会)
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六道山の謂れとなった「六道の辻」、車でも来られますが歩く方がずっといいですね

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「六道庚申塔」と「六道の辻」
この庚申塔は江戸時代後期の文化10発酉(1813)に武州多磨郡石畑村下組(瑞穂町石畑地区)の人々によって造立されたものです。江戸時代になると「庚申待」という庚申の日に皆で徹夜して長寿を願う行事が盛んとなります。庚申塔はこうした人々の庚申信仰を碑石に現したものです。また、庚申塔は庚申塚ともいわれ村の辻や隣村との境に設置されました。当時この場所は旧石畑村と隣村の境界にあたり、村境の「サエの神」(守り神)を祀るのにふさわしいところでした。

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また、この場所は古くから交通の要衝で幾筋もの道が開かれ交差しています。塔の台座には四つの地名道名が記されています。これに加え南西方向の狭山谷方面の道を五ヶ市道とし「南」から独立させ、さらに現在通行不可能となっている北東の金堀沢・旧勝楽寺(現在の山口貯水池)方面の道を加えるとここで六つの道が交差します。そのためここは昔から「六道の辻」といわれていました。「六道山」の名称もこれに由来します。

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通常、庚申塔は村のある方向に正面を向けて造立されます。石畑村は庚申塚の南側に位置するため当初南向きだったと思われますが、現在塔の正面は東向きであり、何らかの事情により向きを変更されたようです。当初庚申塔の脇には榎が植えられ茂っていましたが、枯死し現在はその後植えられた2代目の榎が大きく茂っています。(瑞穂町教育委員会)
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尾根上に造られた公園、丘陵西端ではここが一つの名所になります

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六道山公園
標高192mの地点にある高さ13mの展望台は富士山、秩父連山、新宿の高層ビル群などが見渡せ、眼下には四季折々の狭山丘陵の風景が楽しめます。また古くからの桜の名所として親しまれています。新東京百景のひとつ。(みずほDE歩こう)

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南:西立川・中上・昭島方面を望む

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南東:新宿副都心・武蔵小杉方面を望む

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西:高尾・富士山・奥多摩の山並みを望む

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尾引山遊歩道」を麓の殿ヶ谷へ下ります、緩やかな道いいですね

尾引山遊歩道

新緑から紅葉まで楽しめる山間コース(930m)



・・・殿ケ谷村(現殿ケ谷地区)


江戸時代前期の古地図には殿ケ谷の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。そのため中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷の一部だったと思われますが、江戸時代前期に現箱根ケ崎地区に箱根宿が成立して村山村の人口が増加したため、寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。現殿ケ谷地区の瀧田谷津・尾引谷一帯に戦国時代末期、北条氏照に仕えたという村山党金子氏の一派村山土佐守義光がこの辺り一帯を治め居館を構えたという伝承が残っています。そのため殿ケ谷と呼ばれるようになったといわれています。(地名に残る瑞穂の歴史/瑞穂町)

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麓の遊歩道入口近くに王林寺公園があります、奥に王林寺跡の石碑が建ちます

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殿ヶ谷の神輿
殿ヶ谷の神輿は瑞穂町殿ヶ谷地区に伝わる神輿で、毎年7月初旬に行われる瑞穂の夏祭りにおいて殿ヶ谷地区の鎮守である須賀神社祭礼より御霊代を受け、渡御に使用されている。製作者及び製作年代は神輿の台輪旧梁に残されている「江戸大門小伝馬3丁目海老屋忠蔵藤原陸和」神輿道具箱側面に残されている「慶応寅年」の墨書が記されていることから慶応2年(1866)海老屋忠蔵屋藤原陸和により製作されたものと分かる。地区の伝承では当時95円で購入したという説があり、この説により明治4年(1871)新貨条例制定以降に購入されたと思われるが確証するものはない。本神輿は江戸中期から末期の宮大工全盛時代に制作されたもので、大規模な補修・改築歴がなく建造時の概観構造・材質・施行が残されている。(瑞穂町教育委員会)

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村山土佐守像
平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野・上野・相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団を「武蔵七党」といいます。そのなかの「村山党」は武蔵国村山郷に住み、村山氏を名乗った平頼任を始祖としています。金子氏宮寺氏山口氏仙波氏などは村山党の一族です。村山土佐守は中世豪族としての村山氏最後の人物で、瑞穂町(殿ケ谷)に居館があったと伝えられています。その実像に関する資料はありませんが、信心堅固の武士として村山郷の人々の伝承の人物となり、後世に言い伝えられてきました。(説明板)

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阿豆佐味天神社鳥居/殿ヶ谷

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阿豆佐味天神社の参道
延喜式内の古社で、村山郷の総社であり社伝によると890年ごろに上総介高望王が再建したとされます。江戸時代には幕府より朱印12石が与えられた由緒正しい神社。春になると参道には桜のトンネルができます。(みずほDE歩こう)


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阿豆佐味天神社
延喜式内多摩八座の一つで、寛平4年(892)従五位下、上総介高望王の創建と伝う。その後、天正12年(1584)、慶長3年(1599)の修復を経て、享保年間(1716-36)当地方の豪族村山土佐守により社殿の修復が行われた。また、北条、徳川氏の崇敬も厚く多くの神領地を寄進、北条氏照より十五貫文の地を、また徳川幕府は累代十二石の朱印地を寄せた。現社殿は明治27年に改修。(東京都神社名鑑)


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福正寺総門/殿ヶ谷

福正寺

金龍山福正寺派。開基は六百数十年前の禅宗臨済宗の古い寺。本山は鎌倉建長寺。中腹にある観音堂はこの地方の豪族村山土佐守が堂を再興したもので、現在のものは天保121841)年頃の再建と伝えられえる。橦木造という珍しい構造で、格天井に花・卉・鳥・獣などの絵、淡彩の龍の図も描かれている。(みずほDE歩こう)

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福正寺山門


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福正寺
天照林和尚(天台宗の僧)の開基にして、文禄23月(1318臨済宗として通翁鏡円禅師を勧請し、開山とした。晩年京都万寿寺に出世(花園法皇の綸言による)更に五山上位南禅寺八世に正住さる(後醍醐天皇の詔命による)かくて両帝の帰依厚く、時に正中2年(1324)正月21日より27日の間、勅命により教家対禅家の一大宗論が清涼殿において展開された。その時禅家の大将として通翁鏡円禅師・副将として宗峰妙超禅師が出場して八宗の講師を負堕せしめて、その功により帝より興駕を下賜され一国の師翁なりと讃えられ、更に普照大光の国師号を勅諡される。以来十六菊花紋を寺紋として、法灯連綿28世の今日に至る。尚昔日当山に五塔頭有りと虞弁録にある。その間・8世雲峰和尚正眼寺を開く・9世梅室和尚円福寺を開く・13世月叟和尚三百五十遠年諱厳修(中興開山なり)・14世東林和尚砂川流泉寺を開く・22世法谷和尚五百年年大遠年諱厳修(1823)全国より法縁の和尚禅士参加記録法堂にあり。27世現住昭和41年六百五十遠年諱厳修。その折如来相設置する。昭和58年五重塔、16大阿羅漢建立・昭和59年鎮守大弁財天再興金龍瀑築庭、平成2年開山堂再興、平成10年三解脱門、平成13年邦寧観音建立。(境内掲示)

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福正寺観音堂
総ケヤキ材、柱真々間口6.75m、奥行8.45m、手前一間は板敷、吹放で建具なく、次の二間は畳一六畳敷で、正面中央間には左右各二枚の桟戸、他はすべて舞良戸をたてる。奥の一間は板敷で、手毎中央に来迎柱があり、その柱間に仏壇を設け本尊の観音坐像を安置し、背面の中央間は板戸他はみな板壁である。周囲には勾欄付の濡縁をめぐらす。建築細部の手法は唐様を主とし少しく和様を混えている。吹放の間の鏡天井には淡彩の竜の図、畳敷の間の格天井には彩色の花卉鳥獣等の絵がありともに入間市宮寺の人、吉川緑峰(18081884)の筆である。(瑞穂町教育委員会)


・・・箱根ヶ崎

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街道の風景① 青梅街道旧道

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昔のままの青梅街道
着色したこの街道は、昭和の始めまで青梅街道として人々の行き交う生活道路でありました。道路の巾は4.5m(二間半)で今では町内を通る青梅街道の昔の姿を止める唯一の道です。村の頃、青梅から村に入った街道は南北を走る日光街道に突き当たって右折し、50ばかり進んだところで左折してに向かっています。この方向には石畑や殿ヶ谷の村落が控えているので下街道と名付けられていたのです。この角の家が古くからある根岸屋という旅籠で、後に菓子屋になり今も続いています。それで街道のこの位置の両側にはいろいろな商店が並んでいたことで根岸横丁の名で呼ばれています。道路を歩いてみるとこの道は一方通行に指定されているのです。それで他の拡幅されている青梅街道と比較して狭いのです。昭和初期から始まった道路整備の大工事で、青梅街道は日光街道と交差し真っすぐこの時計台の所まで抜け新道完成させているのです。(瑞穂町)

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街道の風景② 南北が日光街道、信号の東西が青梅街道です


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都立の山北・六道山公園マップ(赤:歩行ルート 紫:青梅街道・日光街道)

野山北六道山公園
武蔵村山市から瑞穂町にかけての狭山丘陵にある都立公園である。面積13239001,323,9002で都立公園としては最大級の広さを誇る。Wikipedia

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箱根ヶ崎周辺マップ 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(橙:日光街道 紫:青梅街道 青:残堀川)

by Twalking | 2017-12-27 17:24 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり箱根ヶ崎01-狭山池   

日時 2017.12.22(金)
天気 晴れ


色がなくなる季節、少しでも明るくと、
シクラメンを買いにいつもの瑞穂町へ、
ここのシクラメンはしっかりしていて楽しめます。

箱根ヶ崎といえば、青梅街道と日光街道が交差する
宿場町、そして狭山丘陵の西端です。
天気もいいので、車を止めて周辺を歩いてみました。
いつもは素通りしてましたが、いい所ですね~!



・・・箱根ケ崎村

語源は古語で「ハコ」は神の棲む「ネ」は山を意味するという説があります。この地区にある狭山池は中世までは今よりもずっと広大で面積は10町(10万m2)以上もあったといわれ、狭山丘陵の西端に位置することから後世鎌倉街道と呼ばれるようになった古街道が通っていました。箱根ケ崎の名称が古文献に現れるのは、戦国時代後期の天文年に北条氏照が発したに「筥根賀崎」と書かれています。しかし、江戸時代前期の古地図には箱根ケ崎の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。そのため、中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷一部だったと思われます。慶安5年(1652年)に八王子千人同心の日光勤番が始まると、同心達が日光へ往来するための勤番経路として日光街道が整備され、その沿線上に位置した箱根ケ崎村は幕府より人馬の継立てを命じられ日光街道の旅人の往来が活発となり箱根宿として発展しました。このため、村山村の現箱根ケ崎地区に人口が増加し寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。(地名に残る瑞穂の歴史/瑞穂町)

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池の風景① 小さな公園ですが「残堀川」の源流になります/あめんぼうの池(狭山池公園)

狭山池公園

タマガワ50景にも選ばれた狭山池公園は町内随一の親水公園、約1.5haの園内には自然観察池、庭園風鑑賞池、釣り池という3つの池があります。カワセミ、カルガモなど数多くの野鳥が観察できます。(みずほDE歩こう)


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狭山池/筥の池(はこ)
この辺一帯は古多摩川が流れていた頃、深くえぐられ窪地となった所である。大雨が降ると周辺の水が集まり、丸池を中心とした約18haは水びたしになり、粘土質のため水はけが悪く耕作できず芝地になっていた。鎌倉時代の歌集八雲御抄に「筥の池、武蔵国」とあり、同時代の夫木集に『冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき』と詠まれ古くから世に知られた池であった。農耕不適の広い芝原は天明の打ちこわしの集合場所や、幕末の農兵訓練の場所ともなった。江戸時代のはじめ狭山丘陵から流れ出す残堀川に狭山池の水を流し、玉川上水助水とした。その後、文化41807)に大がかりな池さらいをした記録がある。そのため池の水位が下がり現在の規模となった。蛇喰次右衛門の伝説もこのような事情から生まれたものであろう。明治から昭和にかけて芝地の大部分は農民に払い下げられたが、のこった池及びその周辺は昭和26年に都立狭山自然公園に指定された。その後、昭和58年箱根ヶ崎より町が譲りうけ公園として生まれ変わり町民の憩いの場所となった。(瑞穂町教育委員会)


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蛇喰治い次右衛門伝説
昔、狭山池は「筥ノ池(はこのいけ)と呼ばれ、18町歩(17.88ha)もある大きな池でした。とても暑いある日、百姓の次右衛門が「筥ノ池」で水浴びをしました。すると小さな蛇が絡みついてきました。必死で放そうとしますがさらに体を締め付けてきます。力持ちの次右衛門はその蛇をつかみ噛みつきました。途端に空は大荒れとなり、小さな蛇はたちまち大蛇となり傷口からは血が七日七夜流れ続けました。退治された蛇とともに池の水は枯れ小さな池となりました。その時の水の流れがさながら大蛇のようであった様子から「蛇堀川」と呼ばれ、後に「残堀川」となりました。このおはなしは狭山池(筥ノ池)から残堀川へ堀をつなぎ、池の水を玉川上水助水としたことを反映して生まれました。(瑞穂町)

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弁財天の赤鳥居


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筥の池弁財天
『狭山池の中州にあり由緒不詳。狭山池の水を玉川助水として江戸幕府が活用した際、本来出口のなかった池に掘割を通じて水を取ったので池水極度に減少。そのため地下よりの湧泉の場所を掘り広めて池を造ったが、その時掘り上げた土を盛って中州をつくり、弁財天を祭ったのが始まりであるという』と瑞穂町の資料にあるそうです。

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常夜燈
この常夜燈は、慶応元年(1865)に日光街道残堀川が交わる地点にかけられた石橋の袂(村野家)に建てられたもので、引又(埼玉県志木市)の石工弥十良の作という。この頃は狭山池周辺で農民の調練があり百姓一揆が押し寄せるなど不安の多い時代だった。また、幕末のあわただしさを反映して人馬の通行も多かった。このような状況の中で、燈明をともし通行人の道しるべにするとともに天下泰平、村内安全を祈ったものである。総高5で台座には有名な中国の故事などの豊かな彫刻があり近村でも珍しい大燈籠であった。その後、関東大震災で倒壊したため狭山神社境内に置かれ、昭和61年狭山池公園の整備に際し火袋破損箇所を修復し、現在地に再建した。(瑞穂町教育委員会)

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池の風景② 丸池、こちらも「残堀川」の水源になります

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小川沿いにの遊歩道          調練橋で狭山池に注ぎます

調練橋
箱根ヶ崎村、石畑村、殿ヶ谷村は天領で西洋式戦術の研究家として有名な江川太郎左衛門が代官として支配していた。そのような関係でこの地が調練場として選ばれたのかもしれない。参加者は近隣周辺村々の役人層の子弟が大部分で総勢79人、そのうち箱根ヶ崎村4人、石畑村4人、殿ヶ谷村2名であった。この訓練は武士階級の崩壊や徴兵制につながる我が国の近代化への第一歩を示すものとして意義深いもの。(説明板)

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川の風景① ここが「残堀川」の源流域です、遊歩道が付いています/狭山橋

残堀川
(ざんぼりがわ)
狭山丘陵西端付近にある狭山池(西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎)に源を発し、立川断層に沿って南東に流れ、武蔵村山市の旧日産村山工場の敷地に突きあたってから南に流れを変える。ここから下流河道付替工事による人工の流路である。立川市一番町付近で玉川上水を乗り越え、昭和記念公園の西辺に添いながら昭島市に入る。公園内で再び南に向きを変え立川市富士見町でほぼ直角に曲がり立川市柴崎町で多摩川に合流する。元々は狭山丘陵の小河川の水を集めて南東に流れ矢川に注いでいたと考えられている。1654(承応3年)玉川上水開通の際繋げられ、さらに孤立していた狭山池まで掘割で繋げた。その後1893年(明治26年)から1908年(明治41年)にかけて玉川上水の下を通って立川市富士見町へ至る工事が施され上水から切り離された。富士見町から先は段丘沿いに流れていた根川(立川市)に注いでいた。Wikipedia

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「残堀川源流狭山池」の標柱      「残堀川上流端」の標識

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狭山池公園案内図

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圓福寺総門/青梅街道(箱根ヶ崎)

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圓福寺総門山門

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圓福寺
当山は臨済宗建長寺派に属し山号を北小山(ほってさん)、寺名を圓福寺と号している。本尊は薬師瑠璃光如来、脇侍と神将とから成り、厨子に安置されている。天正元年(1573)当地の豪族村山土佐守が梅室慶香祥師を開山として創建した。当寺は、創建以来は石畑にあったようで、その後幾度かの火災、復興を繰り返しながら、江戸時代には幕府の保護を受け朱印も10石を頂いている。(圓福寺HP抜粋)

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観音堂                六地蔵

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狭山神社鳥居/日光街道(箱根ヶ崎)

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急階段を登ります

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狭山神社/箱根ヶ崎
御祭神:伊邪那岐尊 伊邪那美尊 泉津事解男命 箱根大神 木花咲耶姫命 大山祇命 厳永姫命
由緒:創建年代不詳。箱根大神は永承年間(1046-53源義家の奥州征伐の折、筥の池(狭山池)辺に陣営、箱根権現の霊夢を感じ当地に勧請、凱旋の時に奉賽したといわれる。木花咲耶姫命ほか二柱は源頼朝の関東五百社勧請の一社と思われる。主祭神の伊邪那岐尊・伊邪那美尊と泉津事解男命(よもつことさかのおの)はそれ以前の奉斎と思われる。幕末に雷火、明治9年と19年に類焼、その後、昭和26年拝殿、幣殿を完成。(案内板)

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川の風景② 166号(瑞穂あきる野八王子線)から町の中心部の景観です

by Twalking | 2017-12-25 19:17 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり狭山丘陵・山口地区   

日時 2017.10.23(月)
天気 晴れ


台風一過、あれよあれよという間に天気が回復、
久し振りの青空に誘われてちょっとドライブ、
昼近くでしたが、狭山丘陵に向かいました。

ここは鎌倉道の上道からは外れていますが、
山口城址や名所図会にも載る古刹があるので
訪ねてみたいと思っていました。

小手指古戦場跡にも寄りたかったんですが、
北野天神で時間切れ、又の機会としたいと思います。



・・・山口地区


狭山丘陵の間を西から東に柳瀬川が流れています。水の便のよいこの場所は古くから人が住み、中世には山口氏という武士が館を構えていました。江戸時代には勝楽寺、堀口、大鐘、新堀、川辺、菩提木、氷川、打越、町谷、山口堀之内、岩崎という11もの村が密集し、これらの村は明治8年に山口村、上山口村、勝楽寺村という3つの村にまとまりました。さらにこれらがひとつの「山口村」となるのは明治35年のことです。その後昭和18年に所沢町などと合併し「山口」「上山口」「勝楽寺」の名が大字として今に残りました。(所沢市)

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街道の風景① 近くに車を置かしていただきぶらりと歩きてみました/山口

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参道から見る街道の風景です/中氷川神社

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街道側参道入口            東側参道入口

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中氷川神社/山口
所沢市山口にある氷川信仰の神社である。旧入間郡多摩郡92総鎮守で旧県社。式内社・中氷川社の論社であり、大宮氷川神社同様、須佐之男命(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)の3神を祀る。中氷川神社の「」の意味は、大宮氷川神社奥氷川神社(東京都西多摩郡奥多摩町)の中間、大宮氷川神社と武蔵国の国府(府中市)の中間などの説がある。地元では古くから「氷川様」と呼ばれている。Wikipedia)

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街道の風景② 右手が山口城址跡です、標柱が立ちます/山口城交差点

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山口城跡交差点
山口城は平安時代末期から室町時代にかけて活躍した山口氏の居城です。この城は現在は大型店舗が建った正面木立のあたりを中心に、付近の住宅地にかけてかなり広範囲に広がっていたと考えられています。手前の畑には今はファーストフード店があります。(所沢市)

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西武線側からみる土塁跡

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埼玉県指定史跡・山口城跡
山口城は平安時代末から鎌倉・室町時代にこの一帯を本拠とした武蔵武士の山口氏によって築かれました。この場所は北に椿峰の丘陵がせまり、南は柳瀬川と湿地に囲まれた要害の地で、西側には鎌倉街道が通っていました。城跡の規模は東西約400m、南北約200mと推定され埼玉県の旧跡に指定されています。築かれた頃の大きさは不明ですが、戦乱の時代に館を囲む土塁(土手)や堀は徐々に広げられました。室町時代の終わりには複数の郭がつながった姿となりました。この城跡には石垣がなく、土塁の上に木や竹の柵を造り幅が広く深い堀をめぐらせて敵が入るのを防いでいました。戦国時代の戦乱によって落城し、江戸時代に入ると城跡は畑や宅地として拓かれ、堀跡は溜め池に利用されました。その後、道路や鉄道が開通し元の姿は一部を除いて失われました。現在、周辺には「堀の内」「城上」「梨の木戸」といった城跡に関係する地名が残されています。

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土塁と空堀
現在、敷地内には3基の土塁があり、土塁の規模はそれぞれ異なりますが幅10m前後、長さ2030m、高さ3m前後です。第1号土塁と第2号土塁は互いに向かい合い、第3号土塁L時型で東側に張り出しています。さらに発掘調査によって第12号土塁の間に南北方向に伸びる第45号土塁が新たに確認されました。土塁の外側には堀がめぐり、上部幅約4m、底部幅約2m、深さ1.52mの逆台形で底から水が湧き出して沼地のような状態でした。これらの築造と掘削の年代は戦国時代に入った頃と考えられます。土手の下から永楽通宝が、堀跡の底近くからは木製の椀や塔婆が出土しています。

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2号土塁                 3号土塁

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郭・曲輪
土塁に囲まれた内部は東側より一段高く東西約20m、南北約32mの長方形の平地となっていました。これを「くるわ」と呼び何回か繰り返し整地を行っています。多数の柱穴や焼土とともに井戸跡6基が発見され、建物があったと推測できます。また、鎌倉・室町時代の灯明皿や、常滑焼の壷や甕の破片、年号のわかる板碑等が出土しました。(所沢市教育委員会)

武蔵山口氏

桓武平氏の流れをくむ武蔵七党村山党から派生した支族であり、平安時代末期から戦国時代にかけて武蔵国入間郡山口(現在の所沢市山口)を領した。なお、武蔵国には横山党から派生した山口氏もある。
武蔵国多摩郡村山(現在の武蔵村山市)を領した平頼任が村山党のとなり、その孫の家継が入間郡山口に住み山口を名乗ったのが始まりである。代々山口城に在した。保元の乱では村山党の金子家忠・仙波家信らと共に山口六郎源頼朝に従う。承久の乱では山口兵衛太郎が負傷を負っている。山口高清の代に武蔵平一揆で河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城。その後永徳3年(1383)、南朝の力を得た高清の子・山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。高治の子・山口高忠は上杉氏に仕え、その後上杉氏が没落すると後北条氏に仕えた。後北条氏の滅亡後、子孫の山口大善は徳川氏に仕えた。Wikipedia)

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すぐ南側を柳瀬川が流れています

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海蔵寺本堂 柳瀬川対岸にある真言宗豊山派のお寺さんです/山口

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街道の風景③勝光寺、来迎寺と続くこの辺りが中心部でしょうか/下山口駅先

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参道入口に「坂東西国秩父四国供養塔」が建ちます/勝光寺

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勝光寺
抑々當山は弘安4辛己年鎌倉建長寺派第一世石門和尚が開山せられ、北条時宗公を開基として創建せられましたが、元弘の乱に屢々兵馬の巷となり堂宇悉く灰燼となり、其の後正平11年慈眼庵次で慈光庵其の他諸堂宇が再建せられ、門風大いに賑いましたが、永正年間に再び回禄の災に遭い堂宇烏有に帰し頗る衰微するに至り天文17年に不動尊を安置し、信者を募り復を期すべく檀徒相計り寺門の復興につとめたが、元亀3年時の住持が没し圓覚寺派の僧を住持として迎え自来圓覚寺派となり、天正19年に京都より慶叟和尚来山入寺し、徳川家康公より寺領として境内地壹万坪御朱印貳拾石を下附せられ、速禅和尚の時客殿及び山門等の諸堂宇共に再建せられ、當山の門風大いに賑い太平の幕末の世まで続き今日に至った。(境内説明板)

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山門

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勝光寺山門(所沢市指定文化財)
瑞幡山と号し臨済宗妙心寺派の寺である。同宗の野火止の平林寺、上富の多福寺と共に美しい楼門造りの山門を有することが特徴である。弘安元年(1278北条時宗の創建と伝えられ、中興・東山天皇より賜わる綸旨を寺宝としている。山門は元禄7年より堂々たる楼門で市内における唐様の白眉ともいえる美しい建築である。粽(ちまき)を有する太い円柱、花頭窓、組子入りの桟唐戸など年輪の美しさに酔うばかりで、十六羅漢を奉安している楼上より望む狭山丘陵の風光は心を洗うながめである。

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本堂は延宝5年(1677)の建立、鐘楼は享保161731)の建立で、本堂外陣に安置する不動明王は天文17年(15482月相州大山住、若狭法眼賀竹の32才の作である。(所沢市教育委員会)



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勝光寺本堂(所沢市指定文化財)
勝光寺本堂は「京都龍安寺塔頭方丈を延宝5年(1677)に移築、行田の宮大工が建築した」との伝承をもちます。現在、本堂は入母屋造の桟瓦葺ですがこの形式は昭和34年(1959)に改められたもので、それ以前は寄棟造の茅葺でした。平面構成はともに両側に脇間を備えた内陣、外陣からなる六間取り形式をとっており、外陣の南側には広縁が設けられています。また、意匠的特徴としては内陣の全面に仏壇を設け、丸柱や組物を用いない簡素なつくりであり、外陣とその両脇の三室全体を一つ天井で覆い天井が浮遊するように見える蟻壁を設けています。このような建築形式や意匠や、江戸時代初期における京都の臨済宗系寺院の方丈建築の特色をよくあらわし、京都からの移築の可能性をうかがわせます。しかし、建物調査によると柱間は京間の寸法基準とは異なり、江戸時代の関東間の寸法基準ととっています。また、製作時期が異なると思われるヒノキ柱とケヤキ柱が混在し、ヒノキ柱の多くに新しい材で継ぎ足した根継ぎが見られました。以上の調査結果から推測するとこの建物は京都で解体され運び込まれた前身建物の部材を用い、行田の宮大工が関東間として建築したものと考えられます。関東地方では稀な建築形式を受け継ぐ建造物として大変貴重です。(所沢市教育委員会)

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中には入れないんですね・・・/来迎寺山門

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来迎寺
来迎寺は大光山無量寿院といい、詳しい歴史はわからないが鎌倉時代初期に創立されたと考えられ、本尊は阿弥陀三尊であり「車返しの弥陀」の伝説がある。昔、奥州平泉、藤原秀衡の守護仏であった阿弥陀三尊を源頼朝の所望により鎌倉に運ぶ途中、東京都府中市車返まで来たところ、車が急に動かなくなりやむなく引き返してこの地まで来たが、再び車が停ったので草堂を建てて三尊を安置したと伝えられています。

板碑
この碑は高さ155cm・幅50cm・厚さ8cmあり、建長8年(1256223日に武蔵七党丹党の加治左衛門尉丹治泰家が建てたものである。碑には梵字「キリク」(弥陀)のほか観無量寿経の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の文字が刻まれている。(所沢市教育委員)

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江戸名所図会 
来迎寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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仏蔵院山門


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仏蔵院
真言宗豊山派の寺院。かつては埼玉県入間郡勝楽寺村、その後山口村にあたる。1927年に山口貯水池(狭山湖)の建設が始まって以降、ほぼ全域が山口貯水池(狭山湖)もしくは保安林となっており、現在、同所を住所としている建物は東京都水道局の貯水池管理事務所のみである。水没前、勝楽寺と呼ばれる寺院があったが貯水池の工事に伴い、そのまま建造物を解体・移転移築し、現在の所沢市大字山口1119仏蔵院と名前を変えて存在している。Wikipedia
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(参考)江戸名所図会 勝楽寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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瑞岩寺は祥雲山と号する曹洞宗のお寺です

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本堂                 無量堂・鐘楼

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山口氏の墓塔

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山口氏の墓塔(所沢市指定文化財)
山口氏は平安時代の末期、武蔵七党の一つ村山党から分かれ山口城に居住し、その後戦国時代にかけて武蔵武士の一員として活躍したことが知られています。室町時代の初期に山口氏菩提寺として創建されたと伝えられる瑞岩寺には、山口氏の墓塔が本堂西側に三基あり、いずれも五輪塔・宝篋印塔などの残欠部分で構成されています。特に向かって左側の塔の基礎部分には「帰実禅門永徳3癸亥613日」と彫られており、これは足利氏満と戦って永徳31383613日に討ち死にしたという瑞岩寺に伝わる山口城主・山口高実の位牌の紀年銘と一致しています。中世山口氏の消息を知る資料として貴重です。(所沢市教育委員会)


・・・北野

所沢市中西部に位置し小手指地区に所属する。かつては埼玉県入間郡小手指村であった。小手指村が所沢町と合併した頃には大字北野として現在の青葉台・北野新町・北野南・小手指町・小手指元町・小手指南を含む広大な範囲であったが、昭和52年から平成17年までに区画整理や町名・地番変更により現在の範囲になった。現在の町域一帯は小手指原と呼ばれ緑豊かな原野や畑が広がっている。
Wikipedia

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北野天神社鳥居(南側)

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境内


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北野天神社
物部天神社国渭地祇神社(くにいちぎ)天満天神社」の総称として「北野天神社」と呼称される。旧社格は県社。この神社は社伝によれば日本武尊が東征の折に創祀したのに始まるとされる。物部天神社は物部(无邪志国造・むさしのくにのみやつこの一族)氏神であった。今もその物部氏の祖神の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が祭神である。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられた。天神社としては長徳元年(995)に菅原道真の5世の子孫菅原修成が武蔵守として京都北野神社より勧請し、その後は源義家、源頼朝、足利尊氏、前田利家により社殿が造営された。江戸出開帳7年(172241日〜61日、江戸の旧目白不動院長谷寺にて、当社の御神体の出開帳が行われ、また期間中424日に社宝の掛幅や文書などが将軍の意向により江戸城内に提出された。境内の西・南側に鳥居と石灯篭が立ち並ぶ参道があり、西側は南北に通る旧鎌倉街道に面し、県道179号線沿いの南側からは複数の階段と鳥居を経て拝殿前に至る。(Wikipedia

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西側参道                神楽殿

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江戸名所図会 北野天神 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


小手指ヶ原古戦場
小手指地区北野の埋蔵文化財調査センターのある一帯は「小手指ヶ原」と呼ばれ、今から650年以上前たびたび合戦が繰り広げられました。中でも新田義貞による鎌倉攻めの戦いは、印象的であったことを地名や伝承地などからうかがうことができます。上野国(現在の群馬県)を本拠とする新田義貞は鎌倉幕府を倒すため兵を挙げ、元弘31333年)58に新田荘を出ます。初め150騎ほどであった一行は、兵を進めるに連れて沿道の武士が加勢し数を増やしていきました。鎌倉を発った幕府軍との合戦の火蓋は511小手指ヶ原で切って落されます。戦いは一進一退を繰り広げる激戦となりましたが、幕府軍は徐々に新田軍の進軍を許すところとなり522に陥落、鎌倉幕府は滅びました。所在地:所沢市北野二丁目12番地の4(石碑の所在地)(所沢市)

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『山口文化財あんない』マップ

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狭山丘陵周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:鎌倉街道上道 緑:青梅街道 紫:五日市街道 紺:玉川上水)


・・・・・・
資料ファイル

村山党

平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国多摩郡村山郷(現在の入間川付近)に勢力のあった武士団、武蔵七党の一つ。野与党と同族である。平頼任が北多摩郡村山に住み村山氏と名乗ったと言う。村山頼任の子孫とされる一族を村山党と呼ぶ。主な一族には金子氏宮寺氏山口氏仙波氏などがある。子孫は狭山丘陵北部の武蔵野の台地上に広がっている。金子十郎・山口六郎は共に台地上の畑地を占め、仙波七郎の居も川越市仙波で台地上で前面には荒川の低地の水田が広がっている。三条町の条里地域の西北方約10kmの地点である。(条里の遺構は不明瞭である)。彼らの名字の地(本貫)は現在でも地名として入間市金子入間市宮寺川越市仙波所沢市山口などに残っている。

平安時代、保元の乱では後白河天皇方として金子家忠や仙波家信が活躍した。治承・寿永の乱では当初村山党は他の武蔵の武士団のほとんどと同じく平家方だった。吾妻鏡によれば治承4年武蔵の平氏方の中心的存在である秩父党畠山氏の畠山重忠に従い、村山・金子氏の一党も相模国の三浦氏を攻撃している(衣笠合戦)。その後畠山氏と同じく源頼朝の傘下に入った。
鎌倉時代以降、村山党には金子氏や仙波氏など伊予国を初めとする西国に所領を得たものも多かったが、武蔵では秩父党棟梁の河越氏に従っていた。鎌倉時代末期には河越高重に従い新田義貞の倒幕軍に加わり分倍河原の戦いなど倒幕の原動力になった。
室町幕府が成立すると鎌倉公方や関東管領の支配が強くなり、応安元年(13681月河越直重を中心に武蔵平一揆を起こすがあえなく鎮圧される。山口高清などは自害し村山党諸氏没落した。以降村山党諸氏は関東管領上杉氏家臣の大石氏に従う。
戦国時代になり上杉氏が後北条氏に敗れ没落すると、主家を失った大石定久は北条氏康の三男・北条氏照を娘婿に迎えて家督を譲った。以降、後北条氏の支配下となった。小田原征伐で後北条氏が滅亡し徳川家康が関東に入ると、その支配体制に組み込まれた。村山党の子孫の一部は徳川氏の旗本となって存続した。Wikipedia

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武蔵国七党之系図/ふれあい歴史館


武蔵国七党之系図

東村山の地名のもととなる村山党は平安時代後期から活躍した武士団である武蔵七党のひとつです。この系図によれば桓武平氏平良文の子孫・村山頼任を始祖としていますが、さだかではありません13世紀なかばには村山党のまとまりはなくなりますが金子氏山口氏は武士団として南北朝時代にまで活躍します。(ふるさと歴史館展示資料/東村山市)

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村山党の根拠地
狭山丘陵周辺に勢力のあった村山党は次第にその勢力をに拡げました。そして大井・宮寺・金子・山口・難波田・仙波・久米・荒幡などの場所にちらばり居館(住居)を構えた土地の名を名乗りました。また、なかには源氏と主従関係を結び保元・平治の乱で戦功をあげた金子十郎家忠のような武士もいました。(ふるさと歴史館展示資料/東村山市)


平頼任
(よりとう 生年不詳)
村山 頼任(よりとう)は平安時代後期の武蔵国多摩郡の武将である。平基宗の子。村山頼家の父。野与元永の弟。武蔵国多摩郡村山(現在の武蔵村山市)に住み村山氏を名乗り村山党の始祖となった。子孫は金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などと名乗り武蔵七党として活躍した(Wikipedia

by Twalking | 2017-10-25 20:40 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「三増峠合戦の道」02-三増   

日時 2017.3.17(金)
天気 晴れ


志田峠をくだり三増合戦跡の周辺を散策しました。
陣立図をみると逆のような気もしますが、
素早く反転して高位を確保したんでしね?

それを追う形で戦った北条勢ですが、別働隊に背後を
つかれて総崩れしたと解説されています。
詳しくは分かりませんが感慨深いものがありました。
違うルートでいつかまた訪ねてみたいと思います。



・・・志田峠

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峠の風景① 南から志田峠を振り返ります

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街道の風景① 左の谷を志田川が流れています。静かないい道です

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相模原側は舗装されてます           ケート辺りが境、愛川町に戻ります



・・・旗立ての松


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玄関にお地蔵さん/志田山ホーム        旗立松の案内板を左折

d0183387_11423038.jpg三増合戦場旗立ての松の由来/東名厚木CC
永禄12年(1569106日三増の山野で甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康とが戦った。旗立て松はこの三増合戦のおり、信玄が大将旗を立てた跡である。北から西へ連なる三増の山並みを越えて甲州に通ずる道には、三増・中・志田の三峠があるがそのうちで最も高く嶮しいのが中峠であった。信玄は相模の原を一望するこの高台を中心にして鶴翼の陣を張り追撃する北条軍に備えた。中峠近く高く聳える松に旗を翻し、自らは麓の桶尻本陣を置き合戦の指揮をとったのである。往時を知らす緑の松は小学生が56人でとり囲むほどの太さであった。惜しいかな大正12年の失火により枯れて今はなく、ただ記念碑と旗立て松二世に戦の跡をしのぶのみである。(愛川町教育委員会)

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ここから更に登ると中峠になります

d0183387_11470015.jpg武田信玄立松の趾碑の解説文

右手に立っている「武田信玄旗立松之趾碑」文は日本紋章学の権威沼田頼輔氏によるもので、概略次のようなことが書かれています。高峰村が津久井と接する北の境の山脈は延々と東西に広がっています。その中で最も険しいものを「中峠」と呼んでいます。くっきりと四方の展望が開け、麓の村に行き来する人馬は豆粒ほどにしか見えません。山の峰に一本の老いた松が青々と茂り天に伸びています。里の人はこれを「武田信玄旗立松」と呼んでいます。言い伝えでは永禄12108日信玄が北条氏政の軍と当地で戦った折、本陣をこの峰に張り旗をこの松の上に掲げたという由来により、こうした名称になったということです。つまりこの地こそは信玄が足跡を印した所であって松の樹もまた信玄の心に触れたものということができます。

d0183387_14503867.pngそれから350余年を経て、松に吹く風は今なおその余韻を伝え人々にその当時を偲ばせていたのですが、近年の火災により惜しいことに昔からある老松をもう一度見ることはできなくなりました。高峰村青年団諸君はここに一見の価値のある史跡が空しく消えてしまうことを惜しみ、石碑をたてて何時までも伝えようと考えその碑文を私(沼田頼輔)に依頼してきました。この地は私が以前からよく遊んでいた所です。老いた松の姿もなお心に刻まれています。これまでのことを聞いて感慨も更に切なるものがありよって拙さをも顧みずこの文を作りました。昭和39月中旬 沼田頼輔撰、高梨貞義書 (愛川町教育委員会)

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峠の風景② 相模川(左)と中津川(右)に挟まれた中津台地、南に3段で下っています。/中峠

中津原
神奈川県中央部、相模川とその支流の中津川にはさまれた台地で北半は愛甲郡愛川町、南半は厚木市に属する。台地の東西両側が2河川に臨むところは急崖であるが、表面はおおむね平たんで高度は北端部で約180南端部では約50である。相模川東岸の相模原台地と同じ地質で表面は厚さ1014mの関東ローム層におおわれその下に段丘礫層があり地下水面は深い。台地は一面が桑園であったが第2次大戦末期に中央部の中津に陸軍飛行場が設けられ、その跡地に1966年神奈川県企業庁によって内陸工業団地が造成された。(コトバンク)



・・・三増合戦場跡


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麓へ下ります             右折して合戦碑へ/中原


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史跡三増合戦場跡

d0183387_15353021.jpg三増合戦のあらまし
永禄12年(156910月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は2万の将兵を従えて小田原城の北条氏康らを攻めその帰り道に三増峠をえらんだ。これを察した氏康は息子の氏照氏那、娘の夫綱成らを初めとする2万の将兵で三増峠で迎え討つことにした。ところが武田軍の近づくのをみた北条軍は半原の台地上に移り態勢をととのえようとした。信玄はその間に三増峠のふもと桶尻の高地に自分から進み出てその左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いていつでも参戦できるようにした。北条方はそれに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき山県の一隊は志田峠を越え北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は北条軍の鉄砲にうたれて戦死した。北条氏康、氏政の親子は助けの兵を連れて萩野まで駆けつけてきたがすでに味方が負けてしまったことを知り空しく帰っていった。信玄は勝ち戦となるやすぐ兵をまとめ反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式をとりおこない甲府へ引きあげたという。(愛川町教育委員会)

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あいかわ景勝10選三増合戦碑と志田峠(左鞍部が志田峠 中央奥が中峠・旗立松)

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三増合戦場陣立図

d0183387_15270577.jpg志田南遺跡出土遺物について
平成10年正月5日、ここから東へ130m程の桑畑の中「塚場」と呼ばれる地点で人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は武田・北条の二大戦国大名が戦った三増合戦主戦場ということもあり戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分りました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では相模国風土記稿に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとののあり三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました。(愛川町教育委員会)


d0183387_16021694.jpg首塚

不動明王を祀る小高い所を首塚という。 宝永3年(1706)建立の供養塔がある。このあたりは三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て、それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。この戦いのあと戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、道をへだてた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。なお、三増合戦での戦死者は北条方3269人、武田方900人と伝えられる。(愛川町教育委員会)

d0183387_16034498.jpg胴塚
永禄12年(156910月当町三増の原で行われた「三増合戦」は甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようでともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級はここから150mほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸はすぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され塚を築いてそのしるしとした。この地ではそれを「胴塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている。(愛川町教育委員会)


・・・田代上原

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街道の風景② 田代へ下る甲州みちです。陣立図にある志田沢が横断しています/上志田バス停

d0183387_16251544.jpg上原の庚申塔

田代上原の庚申塔は数ある町内の庚申塔の中でも最も古く寛文8年(1668)の造立である。碑面には神像とも仏像ともいわれる珍しい異形像が浮き彫りされており、初期庚申塔の一形態を示している。下部には三猿が刻まれ「相州愛光郡上川入田代村」とある。庚申とは干支のうち庚(かなえ)と申(さる)の組合さった日で、この日を特別な日として信仰行事が行われていた。これを庚申待ちといい塔を建てる習慣があっつた。(愛川町)

d0183387_16251967.jpg田代上原道標

この道はかつての甲州みちであった。厚木市上荻野の打越から当町の海底(おぞこ)を経て中津川を渡り関場坂からここに至り、それから志田峠を越え津久井の鼠坂(ねんざか)の関所を過ぎて吉野宿へと通じる小田原から甲州への通路であった。道標には「甲州道中」「左吉野ねんさか」とあり江戸中期ころの建立とされている。また近世には領主の使臣が村々を巡視する道筋であったことから「巡見道」よも呼ばれ、ほかに「津久井道」「志田道」の名もあった。(愛川町教育委員会)


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バス停に田代城の案内板        愛川中学校

田代城址/愛川中学
田代城は室町時代の山城で自然の地形をそのまま要害とした武士の居館であった。築城の年月は不詳。城域は230002ほどの広さをもち南の方を表口としていた。城主は小田原北条氏の幕下にあった内藤氏下野守秀勝とその子三郎兵衛秀行2代が在城し、田代・半原・小曽郷(海底)・隅田(角田)・箕輪下村・坂本・五坊(北原)・磯辺を領地としていた。永禄12年(156910月、武田信玄小田原攻めのおりにこの城は落城したと伝えられる。城址には石塁跡と守護の八幡社があり位置場、うまやなどの地名を残している。(愛川町教育委員会)

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愛川中裏側に八幡神社がありますが、遺跡らしきものはないようです
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街道の風景③ 経ヶ岳でしょうか、下ると田代ですが戻ります/愛川中学バス停

経ヶ岳
丹沢山地の東部にある標高633mの山。厚木市、清川村、愛川町の境界に位置し、神奈川県立丹沢大山自然公園に属する。郷土富士のひとつで荻野富士ともいう。(Wikipedia



・・・三増

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街道の風景④ 「三増合戦みち」の名がついてます。平だと思ったら意外とアップダウンがあります

d0183387_20252595.jpg三増中原辻の神仏/中原
辻(岐路)はそれぞれの地域への分かれ道であるため村や集落(最寄)の境界となっていることが多い。そのうえこの境い目は民間信仰において季節ごとに訪れる神々を迎える場所でもあり、村落へ入ってくる悪霊や邪鬼を追い払うところでもあった。そのためいつしか祭の場所として特殊な考え方が生じ、いろいろな神仏をここへ祀るようになった。この辻にあるのは「馬頭観音像」「如意輪観音像」「観音地蔵供養塔」「聖徳太子講供養塔」「庚申供養塔」「弁財天浮彫座像」「舟形浮彫地蔵像」等である。(愛川町教育委員会)

d0183387_20261765.jpg深堀沢

三増桶尻の奥を水源とし南に流れる沢。戸倉地区で志田沢と合流し中津川に注いでいます。三増合戦の記録にも見られます。(標柱)


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三増諏訪神社鳥居祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)です

d0183387_22191167.jpg三増の獅子舞(神奈川県指定無形民俗文化財)
三増は甲州街道宿場として中世から知られているところで、伝統の獅子舞はこの宿場の諏訪神社(伝1235年創建)の摂社である八坂神社のお祭に行われます。これは一人立ち三頭獅子舞で関東一円に分布するものと同じ系統に属し、約300年の星霜を舞い継いできています。またこの獅子舞は古くから諏訪神社を中心に一町(約110m)以外の土地に踏み出さない掟がありました。獅子がしらは父・母・子の三頭で父を老獅子、母を玉獅子、子を剣獅子といい祭り当番の家から「道行きの渡り拍子」で神社まで行進し、忌竹をめぐらせた舞場の中で舞います。この他、天狗、教導役としてバンバささら摺り役などがつきその舞ぶりは大きく優雅で他に類のないものといわれています。(愛川町教育委員会)


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街道の風景⑤ 三増の町並みです、ここを左折して三増峠に向かいます/三増バス停

県道65号厚木愛川津久井線
厚木市(129号山際交差点)相模原市(大沢交差点)に至る県道(主要地方道)である。日赤前交差-大沢交差点は旧津久井街道で国道413号(津久井-橋本)の前身である県道55号(国道昇格で現在は欠番扱い)の旧道である。Wikipedia


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軒岩院山門


d0183387_22302020.jpg軒岩院(とうがんいん)

曹洞宗。本尊の薬師如来は今から410年前(1597)に祀られたものである。慶長年間(1596-1615)に入る頃流行病に悩む者が溢れ、時の本寺である勝楽寺四世棟岩宗梁禅師がこの三増地区に寺を作り本尊として薬師如来を祀りこの地の人々を病から救ったことが棟岩院の縁起。(いいお墓)


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清徳寺山門

d0183387_22333436.jpg清徳寺

真言宗大師派。石段を登ると入母屋造り銅葺、間口9間、堂々とした本堂がある。本尊は弘法大師作と伝える大日如来(秘仏)、脇士に僧・行基作の十一面観世音と弘法大師(融通大師)が奉安されている。応徳元年(1084)高野山の僧・真海によって開創され、文亀2(1502)僧・珍算により再興された。かつては古義真言宗の関東法談所36院の一つに数えられ別格本山である。この寺は一般に「融通大師」で知られ、お大師さんがどんな願い事でも融通して必ず叶えてくださることから庶民が信仰することになった。(関東88ヶ所霊場)


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街道の風景⑥ 前方の鞍部が三増峠でしょうか/上三増

d0183387_23411725.jpg勝負谷戸(庄兵衛谷戸)

この道を北に進むと現在は開発されているが昔は狭い谷戸道であった。三増には三栗山系を越え津久井郡の葉山島に通じる古道が三筋ある。そのうち最も上手に位置したのがこの谷戸道で、道沿いのあたり一帯を「勝負谷戸」または「庄兵衛谷戸」と呼んでいる。勝負谷戸の名の由来は永禄12年(1569)の三増合戦のときこの谷戸でも戦闘があって武田勢を勝利に終わったという伝承からである。また別の説ではむかし庄兵衛という人がこの谷戸を開墾したので庄兵衛谷戸の名が起こったのだとも伝えられる。(愛川町教育委員会)

d0183387_23453544.jpg三増峠

三増峠は志田山塊の東端「下の峰」にかかる峠路で、三増峠越えまたは三増通りの名がある。中世の頃は信濃(長野)・甲斐(山梨)から鎌倉へ向かう古街道であった。永禄12年(1569)北条・武田両軍が戦った三増合戦の折、武田方小荷駄隊が通行したといわれる道で信玄道の名を残している。皇国地誌殘稿に「松ヶ平より西北へ上ること5673尺(約1km)にして嶺上に達し是より津久井郡根古屋村に連なる険にして近便なり」とある。(愛川町教育委員会)

d0183387_23531120.jpg三増トンネル(トンネル上の左手が峠)

愛川町三増と相模原市緑区根小屋を結ぶ県道65号愛川津久井線のトンネルである。トンネルが貫通する山塊には三増峠があり戦国時代、武田信玄軍と北条氏康軍が激戦を繰り広げた三増す峠の戦いの古戦場でもある。1992年(平成4年)竣工。全長462m。元々、古道・歩道しか存在しない僻地であったが津久井方面と愛川方面を繋げる道路として開発された。周囲に神奈川県愛甲郡愛川町三増新宿、上宿、下宿といった大字が残っているとおり中世から江戸時代に亘って甲斐国より相模国小田原大山への街道として宿場が設けられた地方であり古く交通の要衝であったということができる。(Wikipedia

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街道の風景⑦ 林道がありますが通行止めになっていました/三増峠 

d0183387_00130521.jpg三増峠登り口
この峠は三増合戦のおり武田勢が帰陣に用いたと伝えられるなど愛甲と津久井・山梨方面とを結ぶ道筋の要衝であった。(標柱)




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つづらに上ります           峠のお地蔵さん

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愛川町イラストマップ

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津久井地域の古道/津久井湖城山公園パークセンター
(赤:津久井道 橙八王子道 茶:津久井往還 紫:甲州街道 緑:矢倉沢往還)

津久井城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23941501/


by Twalking | 2017-03-24 14:15 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「三増峠合戦の道」01-半原   

日時 2017.3.17(金)
天気 晴れ


滝山城や津久井城などを歩いてみて
「志田峠」「三増峠」など三増合戦の現地を
実際に見て肌で感じてみたいと思っていました。

初めてなのでひとまず半原から志田峠越て三増原、
三増峠辺りを歩いてみました。
中津川や中津原台地からの景観は素晴らしいですね。


・・・半原

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街道の風景① この辺りが町の中心でしょうか/撚糸組合前

愛甲郡
愛川町、清川村。相模国に属し、元は同国最北部にあたる相模川・道志川流域の山間部も領域に含んだ。郡衙は厚木市内にあったとされるも不詳。古くは「あゆかは」と読んだ。この地名は後に「鮎川」「愛川」の地名が派生する源となった。中世、現在の厚木市付近に毛利荘が成立し、鎌倉時代初期に幕府の創立に貢献した大江広元の所領となった。彼の子孫は毛利氏を名乗り、後に安芸国に移転して戦国大名・近世大名に成長した。北部の山間部は「奥三保」と呼ばれていたが、鎌倉時代に三浦氏支族の津久井氏(津久井は三浦半島の地名、後に大江氏の血統に置換したとも言われる)が城山(相模原市緑区)に城郭(津久井城・築井城)を築いて以降「津久井」と呼ばれるようになった。戦国時代には小田原の後北条氏の支配下に入った。半支配と呼ばれる武田の飛び地を抱えたが、城代内藤氏以下の苦心の統治によって甲斐国の武田氏に対する前線となった。1569年(永禄12年)現在の愛川町で両軍による三増(みませ)合戦が起きている。Wikipedia

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半原神社鳥居

まず半原の鎮守にご挨拶、祭神は建御名方命 ( たけみなかたのみこと )です。

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二の鳥居               拝殿 

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仏果山登山道入口/宮沢川        鳥居坂

鳥居坂

馬坂から分かれて下ってきたこの坂のことで、沢向うにあった鳥居に由来する(標柱)


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顕妙寺は日蓮宗のお寺さんです

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中津台地と丹沢東麓の間を中津川が流れ、川沿いに県道54号(相模原愛川線・相模原市と愛川町を結ぶ県道)が通ります/顕妙寺

愛川町

町の中央を中津川が流れ西部は丹沢山地となっている。愛名・愛甲・鮎川・愛川といった地名を一連のものと考えると大化の改新以前の記録がある相模国最古の地名のひとつである。戦国時代最初期、長尾景春の乱では反乱軍の景春・豊島氏方の有力拠点であった小沢城(こさわ)が太田道灌によって攻略されている。武田信玄が小田原侵攻に関連して北条氏康と戦った三増の戦い(みませ)は愛川町の三増周辺だったと考えられており、史跡三増合戦場跡が存在する。西部の半原盆地を中心として、元来米の生産に向かない地形から養蚕、製糸・撚糸などの軽工業、宮大工などの出稼ぎ職人の本貫として知られていた。半原宮大工は江戸城修復にかかわるなど飛騨の大工と並びその腕を称えられていた。撚糸業では群馬県富岡の機械を模倣して水力を補助動力とした軽工業が盛んだった。Wikipedia


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若宮神社              八幡坂 

八幡坂
若宮神社のわきから和平の台地のはしに至る坂をいいます。(標柱)

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横須賀市水道局半原水源地

半原水源系統(旧軍港水道施設)は大正10年に完成し、これまで長い間横須賀市民の生活を支える貴重な水源として活躍してきました。しかし、水需要の減少、水源水質の悪化、施設の老朽化により平成19年度からは取水を休止していましたが 平成27228日をもって廃止しました。(横須賀市HP)

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中津川の風景① 日向橋を渡り向かいの鞍部に上ります/日向橋上流


d0183387_19243423.jpg撚り糸発祥の地半原

半原の撚糸業は江戸時代後期から始まり、撚糸機を作る大工の存在、中津川の水車動力によって発展しました。(標柱)

撚糸
漢字で書くと「撚糸(ねんし)」。糸に撚り(より)をかけること、または撚りをかけた糸のことです。「撚る(よる)」とはねじりあわせること。“腕によりをかける”とか、“よりを戻す”って言葉、ご存知ですよね。撚り(縒りとも書きます)は日常会話の中で使われていますが、「糸の撚り」を語源として出てきた言葉なんです。(日本撚糸工業組合連合)

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中津川の風景② 正面は高取山(705m)左は仏果山(半原富士・747m)、奥が宮沢湖になります/
日向橋

仏果山

丹沢山地の東部に位置する標高747mの山。愛川町と清川村の境界線上にあり、清川村側は神奈川県立丹沢大山自然公園に指定されている。郷土富士のひとつで半原富士ともいう。Wikipedia


d0183387_19305151.jpg日向橋

神奈川県愛甲郡愛川町の中津川に架かるトラス橋である。現在の橋は1930年(昭和5年)に開通したトラス橋で、河川内に橋脚を設けず洪水時の水流の妨げとならない構造とした。1991年(平成3年)には、同じ愛川町内の中津川の平山橋とともにかながわの橋100選に選定された。本橋開通以前の大正時代時代には吊り橋が架けられていた。Wikipedia

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街道の風景② 中津川左岸の山並み、手前が大峰、向山、富士居山と連なります/真名倉坂

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街道の風景③ こちらは右岸の山並み、仏果山&経ヶ岳になります/真名倉坂

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街道の風景④ 右手が大峰、半原川に深く谷が切り込んでいます/真名倉坂

d0183387_22004748.jpg真名倉坂
国道412号線愛川大橋北側信号辺りから津久井町韮尾根清正公入口近くまでの坂道をいう(標柱)

国道412

平塚市より相模原市へ至る一般国道であるが、始点より厚木市まで国道129号と重複しているため実質的には厚木市より相模原市への道路である。(Wikipedia


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桜沢
日々良野奥を発し中津川左岸に達するまでの沢をいう。真名倉沢は地名に瀬無し沢とは流れの姿による。(標柱)

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宮ケ瀬ダム下流行観光案内図



・・・志田峠へ

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街道の風景⑤ 中津原台地の上にでました。右手鞍部の志田峠へ向かいます/清正公入口(相模原市・長竹)

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「丹沢あんぱん」お勧めです      清正公大権現の石碑を右折


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街道の風景⑥ 正面に津久井城址が見えます。街道は緩やかに長竹へ下ります


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街道の風景⑦ 韮尾根(にろうね)へ下る「関東ふれあいの道」と合流します/東京農工大フィールドミュジアム


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「喜見梯」と書いてあるでしょうか、急階段の上りです/朝日寺参道

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参道                 小さな祠

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清正光
寺号:志田山朝日寺(ちょうにちじ) 正安元年(1299)鎌倉に実成庵として中老日実が開基、昭和9年鎌倉より移転し 旧号実成庵を志田山朝日寺と改める。昭和27年「清正光」として単独の宗教法人となる。本尊:清正光大菩薩  明治10年(1877)志田山に勧請する。その神体は天の三光(太陽・月・星)で、清正光の名は三光天子(日天子、月天子、明星天子)の教えを象徴して神格としたもので「清」は清らかな汚れない光ですべての物を平等に照らしてくれる太陽の教えを「正」は不正を破り正しい道を明らかにする明星の教えを「光」は優しく愛する月の光の教えを顕しています。(環境庁・神奈川県)

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本堂                 清正光別院


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街道の風景⑦ 緩やかないい道ですが林道のようですね、この先が峠です


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相模原市なんですね、右手は残土処分場、ちょっと残念ですね/志田峠

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峠の標識               馬頭観音

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三増へ下ります


d0183387_16542300.jpg志田峠

志田峠は志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり津久井町韮尾根にぬける道である。かつては切通し越え、志田峠越えの名があった。ここは永禄12年(1569)北条・武田両軍の古戦場で、武田方の山県三郎兵衛の 率いる遊軍がこの道を韮尾根から下志田へひそかにかけ下り、北条方の背後にでて武田方勝利の因をつくった由緒の地と伝えられる。江戸中期以降は厚木・津久井を結ぶ道として、志田山塊東端の三増峠越をしのぐ大街道となった。なお志田山の地名の起こりはこの山が芝山であったことによるという。(愛川町教育委員会)


by Twalking | 2017-03-23 17:12 | たまのさんぽ道(新規)