無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:鎌倉街道(新規)( 50 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の古道03-鎌倉裏街道(小野路~一の宮)-02一の宮   

日時 2018.2.27(火)
天気 晴れ

愛宕の尾根はトウカエデの街路樹が見事な所で
散歩道でよく歩きます。この尾根を切り通した
「愛宕の切通し」いつ頃かな?と宿題が残ります。

尾根を越えると大栗川沿いに多摩川の渡河地点
一ノ宮へ下りますが、ここは多摩川の氾濫原でしょうか。
対岸の四谷か本路の関戸の渡しへ向かったものと思われます。

開発前のジオラマを見ると、街道は多摩の横山から舌状に
伸びる尾根筋か、あるいは谷戸を繋いだろうと思われます。
道は消えても多摩の自然が残る遊歩道は味わがありますよ~。



・・・愛宕/多摩市

1972
年(昭和47年)入居開始した第17住区を構成し、西隣に位置する八王子市鹿島とは同一住区をなしている。愛宕という地名は現存の愛宕神社に由来している。区域にはテニスコートなどのある愛宕東公園や里山を保全した愛宕山緑地があり、尾根筋の高台に沿って見晴らしを良好にしたマンモス団地が立ち並ぶ(Wikipedia


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街道の風景① 乞田川から愛宕の尾根を越えて東寺方へ下ります/愛宕

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愛宕切通り通り入口                入口の右先にある石造群

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尾根上の東愛宕公園               愛宕北通りを直進
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谷戸根緑地付近からニュータウン通り・乞田川を挟んで豊ヶ丘北公園を望みます/愛宕

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多摩ニュータウン通り南
多摩尾根幹線を含めた正式名称は都道158号小山乞田線。西は町田街道に接する町田市小山町の多摩ニュータウン入口交差点を起点に、東は鎌倉街道と交わる多摩市乞田の乞田新大橋交差点までの区間。中央分離帯がある全線片側2車線で文字通り背骨になる幹線道路として多摩ニュータウンを東西に結ぶ大動脈。旧谷戸部筋を通し丘陵地を貫いているため途中2箇所にトンネル区間がある。(Wikipedia

愛宕・和田周辺の寺社関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23335993/



・・・百草


元は日野百草の飛び地である。多摩市の北東部に位置して、隣接する町名は和田、愛宕などがある。稲荷塚古墳の所在地としても知られる。
Wikipedia

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街道の風景② 「恋路原通り」を行きます、所々に畑が残ります/百草 

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「恋路原通り」の標識         途中の庚申塔/
後原通り

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稲荷塚古墳/百草

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稲荷塚古墳
多摩市百草にある古墳時代後期(7世紀前半)の古墳。江戸時代、稲荷塚古墳の東側に資福院という寺院があったが、明治初年に神仏分離令などの廃仏毀釈により墳丘上に恋路稲荷神社という稲荷神社が建てられた。その際に古墳上部が著しく削平され、天井石もほとんど取り去られて遺跡とその周囲はかなり改変をうけた。石室も盗掘され遺物なども持ち去られたと伝えられる。1952年(昭和27年)11月に多摩中学校の教諭が中心となって東京国立博物館の技官も加わって発掘調査がおこなわれた。


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当時、石室の天井石は露出していたが、墳丘や石室が遺存していることや石室の構造が解明されたため、翌1953年東京都指定文化財に指定された。1950年代の調査以来円墳とみなされてきたが、1980年代から90年代前半にかけて行われた再調査の結果、従来東日本では確認されていなかった八角墳であることが判明した。築造時期は7世紀前半(古墳時代後期)と推測されている。石室は既に盗掘されていたため被葬者は不明である。Wikipedia

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資福院跡/稲荷山児童遊園
この付近には江戸時代(18世紀)黄檗宗の寺があった。稲荷塚古墳脇にある卵塔2代目住職の墓で、享保151730)年のもの。また深さ8mの井戸が発見され、近畿産の陶磁器等都内では珍しい遺物が出土した。(多摩市教育委員会/標柱)

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無縫塔(むほうとう)
主に僧侶墓塔として使われる石塔(仏塔)。塔身が卵形という特徴があり別に「卵塔」とも呼ばれる。また墓場のことを「卵塔場」という。形式としては二種類あり一つは基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせるものである。もう一つは基礎の上に六角または八角の竿と呼ばれる台座の上に中台、請花、卵形塔身がのる。卵形塔身は前者のほうが長く、後者は低い。基礎の下には脚、返花座(かえりばなざ)が据えられることが多い。卵形塔身は時代によってが微妙に変化する。なおこの卵形塔身に縫い目がない(一つの石だけで構成されている)ことから無縫塔の名がある。Wikipedia



・・・東寺方


17住区の北東端のわずか2haの部分を構成。寺方という地名は付近に寺が多いことに由来し、八王子市恩方地区に同じく寺方があることからがついた。区域にはわずか団地6棟が立っている。東寺方団地と呼ばれている(Wikipedia

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街道の風景③ バス通りですが野猿街道まで旧道が続いています/東寺方

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旧道入口               辻にある庚申塔

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宝泉院/
東寺方

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宝泉院
山号を慈限山と称し、本尊は釈迦如来。所在は寺方村だが『風土記稿』には関戸村小名原関戸とある。文久3年(1863)に一ノ宮村の万平が地蔵尊一体を境内に建立寄進している(多摩市史)



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萬平地蔵
刺客杉本萬平が供養のために建立したと言い伝えられています。(宝泉寺HP)

贔屓(ひき・びし)
中国における伝説上の生物。石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と言う。中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿はに似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。日本の諺「贔屓の引き倒し」とは「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味だが、その由来は柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるからに他ならない。(Wikipedia

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お化け坂
東寺方地区の宝泉院の下の坂はおばけがでるといいおばけ坂とよんだ。また、この坂はもともとグミの坂といったが、坂の下にすむ老婆が若者を脅したため、おばけ坂とよばれるようになったという。この老婆は身の丈六尺もあり、口が耳まで裂けておりいつも笊に小豆をいれてといでおり、人が通ると笊を頭からかぶせて捕らえ食べてしまったという。それでこの坂は「山の婆坂」とよんだという(多摩市史民俗編)

東寺方・桜ヶ丘の寺社関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23338341/

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街道の風景④坂を下ると大栗川、上流は七生丘陵の百草です。上流の明神橋を経由していたようです/東寺方橋

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下流側、尾根上には関戸城(砦)本路には関所が置かれていました/東寺方橋

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・・・一ノ宮(いちのみや)

野猿街道
を中心に発展してきた。地名は所在する小野神社が武蔵国の一宮である事から。総社は大國魂神社。(Wikipedia

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小野神社鳥居/一ノ宮

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小野神社境内

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小野神社
『延喜式神名帳』に記載されている式内社「武蔵国多磨郡小野神社」の論社の1つ。論社には他に府中市小野神社がある。多摩川の氾濫にともない遷座を繰り返した結果2社になったとも、どちらかが本社でもう一方は分祠であるともいわれる。また、当社は武蔵国の一宮とされた。社殿、鳥居、隋神門、賽銭箱、神輿などには菊花紋章(十六菊の紋章)が取り付けられている。後北条氏、太田道灌らの崇敬を受けて栄えた。江戸時代には一宮大明神と称され江戸幕府より朱印地15石を寄進されている。主祭神は以下の8柱。天下春命(ウワハル・シタハル)・瀬織津比咩(せおりつひめ)・伊弉諾神(イザナギ)・素盞鳴尊・大己貴大神・彦火火出見尊・倉稲魂命。古くは小野氏祖の天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)を祀っていたという説がある。中世には近在に武蔵国府が存在し、武蔵国一宮であったとされている。武州六大明神の一つとされ、これらを祀る武蔵国総社の大國魂神社(六所宮)には「一宮」として祀られている。なお、祀られているのは当社のみで府中市の方は外れている。ただし、室町時代以降の武蔵国の一宮に関してはさいたま市大宮区の氷川神社であるとする説もある(Wikipedia

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街道の風景⑤ 小野神社脇を通る神南せせらぎ通り、なかなかの風情です

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途中の庚申塔港南           せせらぎ通りの標柱

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一ノ宮の渡し」のモニュメントが立ちます/せせらぎ通り入口

鳥鳥居

この付近は昔、「鳥鳥居」あるいは「鳥居道」という地名があったといわれ、その名のとおりここにある2本の大きなケヤキは小野神社の御神木で、以前はこの附近に一の鳥居があったと伝えられています。またこのあたりから北の方向に「一ノ宮の渡し」があったと言われています(説明板)

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一ノ宮
「一ノ宮」の町名は地内にある「武蔵国一宮 小野神社」に由来しています。小野神社が創設された年代は定かではありまえんが、奈良時代772(宝亀3)の太政官符に小野神社という名前が記されており、古くからあったことがうかがえ、武蔵国の大國魂神社(武蔵国総社六所宮)の一宮とされています。一ノ宮の神輿は近世以降、大國魂神社の祭礼「くらやみ祭り」に渡御参加しており、道路事情により取りやめとなった昭和34年まで続いていました。今も地域文化として「祭り」が継承されています。このモニュメントはこのような由来にちなみ「祭り」をテーマとしています(多摩市)

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神奈川県水量標識の由来
この水量標識は明治54月に神奈川県が設置したもので、当時この多摩市も三多摩の各市とともに100年前は神奈川県に属していた資料として貴重なものです。判読は不明な部分はありますが「水量標零点ヨリ」拾尺□□」「明治254月」神奈川県縣廳」と刻まれています。また「水量標零点ヨリ」と刻まている部分の前にも、さらに一行刻まれていたと思われます。当時、氾濫を繰り返していた多摩川の水位を測る目安としていたと考えられます。この水量標識がある場所は、当初設置されていた位置ではなく多少移動しています。今回、三多摩地域が神奈川県から東京都(当時の東京府)に移管されてから100年を記念したTAMAらいぶ21事業の一環として、この水量標識をみなさんに知っていただき、親しんでいただくためこの由来板を設置しました(説明板)

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一ノ宮の渡し/府中市
一の宮渡しは 四谷と対岸の一の宮(現多摩市)との往来のために設けられていた渡しで、一の宮村が管理していたことからその名があります。この渡しは 明治13に一の宮村の作場渡し(農耕渡し)として開設されたようです。その後、一般往来者にも供されるようになり昭和12年の関戸橋の開通まで細々と続いていたそうです。『新編武蔵風土記稿』(幕末の地誌)の「一之宮村」の項には「渡当村より中河原村へかよふ船渡なり よりて一宮ノ渡と呼べり」と誌されています。幕末頃には一の宮と中河原とを結ぶ渡しであったようです(府中市)
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街道の風景⑥ 京王線聖蹟桜ヶ丘駅へ向かいます

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一ノ宮周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(橙:鎌倉裏街道 赤:鎌倉街道上道 青:乞田川・大栗川)

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コース図(橙:鎌倉裏街道 赤:鎌倉街道上道)

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多摩市ジオラマ(昭和37年・1962)/パルテノン多摩歴史ミュージアム
(赤:鎌倉街道上道 橙:鎌倉裏街道 緑:現鎌倉街道 青:乞田川・大栗川)

by Twalking | 2018-03-04 08:48 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の古道03-鎌倉裏街道(小野路~一の宮)01-豊ヶ丘   

日時 2018.2.27(火)
天気 晴れ

一本杉公園に残る通称「鎌倉裏街道」と推定される古道跡、
標柱に部分ですが「鎌倉道ルート」が図示されています。
このルートを辿って小野路から一の宮まで歩いてみました。

この道筋は一本杉公園から豊ヶ丘の尾根を下る道です。
ここには「スクールロード」あるのでよく歩く道、
公園もありますし、緑も多いので散策にはお勧めです。
古道跡はありませんが感じは掴めると思います。



・・・小野路町/町田市

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街道の風景① 小野路宿の「里山交流館」に寄ってからスタートです/小野路中宿

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小野路の辻を右折                坂の途中に庚申塔があります

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街道の風景② 一本杉公園へ上ります、『ショパン坂』愛称としてはいい名前ですね

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こちらが標柱を立てられたのかな        辻で分かれた「八王子道」を望む

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二差路を直進                    公園内に入ります


・・・一本杉公園/多摩市南野

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街道の風景③ 園路に残る古道跡

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小野路道と鎌倉裏街道/一本杉公園
ここに残る杉並木の存在から、崖上に残る古道跡=通称「鎌倉裏街道」が確認されました。この道は多摩市一ノ宮にあった渡河点(多摩川の渡し場)から愛宕団地の愛宕の切通し、豊ヶ丘北公園を通って小野路の宿に続く中世の鎌倉街道の一つで、 関戸にあった関所を通る煩わしさを避けた道とも考えられます。江戸時代には日野往還小野路道ともいわれ、後に新撰組となる土方歳三や沖田総司らが小野路での出稽古に日野宿方面から通った道でもありました。(よこやまの道標柱)

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鎌倉道/一本杉公園
本道途中の多摩市和田百草に鎌倉時代の遊廊伝承(恋路ヶ原、女沢、鎌倉沢)や、新田義興(義貞の子)らの軍勢が笛を吹きながら豊ヶ丘(笛吹峠)から一本杉の尾根を通ったという行軍伝承などが残されています。また、幕末に新撰組の土方歳三らが小野路の小島家(現在の小島資料館)へ出稽古に通った道でもあります。(多摩市教育委員会・標柱表)

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鎌倉道
多摩市の関戸にあった軍事上の関所「霞ノ関」を通らずに鎌倉へ向かう、本道の鎌倉街道よりやや西脇街道的な道路です。府中市四谷付近から多摩川を渡り、多摩市一ノ宮小野神社から和田、「愛宕の切通し」を通り、豊ヶ丘北公園(笛吹峠)付近から一本杉公園、町田市小野路へと続くルートです。(標柱裏)

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鎌倉道ルート図(左:大正10年側図 右:平成12年発行図/案内標柱)
(赤:鎌倉裏街道 橙:鎌倉街道上道 緑:現鎌倉街道 青:乞田川・青木葉川・貝取川 茶:尾根幹線・ニュータウン通り)

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南野
「南野」の町名は、多摩市の「」にあり、旧小野路町の「」を採って命名したものです。この区域は町田市から編入した小野路と下小山田町の各一部で、町田市に同じ町名があることなどから語調の良い新しい町名に変更したものです。この付近は村境に近い所で、その昔は武蔵国の国府(府中)から多摩川を渡り、関戸の宿から小野路の宿を経て、相模あるいは鎌倉などへの往来で多くの人々が利用していた道がありました。また、この辺りに大きな杉の大木があったと言われ一本杉という地名にもなっています。 この一本杉に関する言い伝えや物語に、美しい女性に化けた狐にだまされたり、通る人に天狗が悪戯や難問を出して困らせたりする話があります。なお、この彫刻は、一本杉公園にちなんで杉をテーマとしたものです。(案内版)

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街道の風景④ 一本杉公園を通って豊ヶ丘の尾根に向かったようです/石の広場

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多摩よこやまの道
万葉集に「多摩の横山」と詠まれた多摩丘陵の尾根部に位置し、全長は約10kmに及びます。平成27年には新日本あるく道紀行100歴史の道」にも選定されました。道の途中には多摩市域を一望でき、天候が良ければ富士山まで望める「防人見返りの峠」や多摩NTの街並みを見渡せる「展望広場」などの展望ポイントのほか、随所に四季折々の自然を楽しむことができる自然観察ポイント、史跡や伝説などの歴史ポイントなどがある見所満載の散策コースです。(案内板)
(橙:鎌倉裏街道 赤:鎌倉街道上道 黄:よこやまの道 茶:尾根幹線)

よこやまの道

現在、よこやまの道が通っているのは南多摩尾根幹線のすぐ南を走る多摩丘陵尾根筋の上である。この尾根筋は古代幹線道路が通っていたルートであり、また、多摩丘陵が万葉集で「多摩の横山」(赤駒を山野に放し捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ/宇遅部黒女・万葉集 204417)と呼ばれていたことから「よこやまの道」と名付けられたWikipedia

よこやまの道関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/19491695/


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遊歩道
多摩NTの街に網の目のように張り巡らされた遊歩道は全長で約41kmにおよびます。市域の東西(大谷戸公園から鶴巻西公園まで)を結ぶモデルコースは車道を一切横断することなく約8km歩き続けられます。特色のある公園や遊歩道と遊歩道を結ぶおもしろい名前の橋、展望ポイントや文化財、団地の移り変わりなど見所スポット・立寄りスポットが満載です。「多摩よこやまの道」とは違った魅力をお楽しみください。(案内板)
写真:案内板&一本杉橋(東落合遊歩道)

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街道の風景⑤ 尾根幹線の先の交差点が豊ヶ丘の東の谷を通る「上之根通り」、この方向に向かいます/一本杉橋

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南多摩尾根幹線
多摩ニュータウンの南端の道路で、北端にある多摩ニュータウン通りとともに、多摩ニュータウンを東西に通る総延長約17km弱の幹線道路である。多摩地区における広域交通ネットワークの東西の交通網となるべく計画された。調布市の多摩河原橋(川崎街道)の交点から町田市小山町の町田街道の交点を結んでいる。尾根幹線のすぐ南の尾根筋には「よこやまの道」と名付けられた全長10kmの遊歩道も整備されているWikipedia


・・・豊ヶ丘

旧南多摩郡多摩村大字落合の純農村、小字豊ヶ岡(今とおかの文字が異なる)付近にあった南北に延びる二つの谷戸筋に囲まれた丘陵地の山林が、多摩ニュータウンの8住区として旧住都公団が開発主体となり造成された。旧谷戸筋幹線道路配道筋として利用され、これら道路に囲まれた区域が新生豊ヶ丘になっている。街全体としては南部方面ほど標高が高くなるが、反面北部に部分的に標高の高い旧来からの山間地形が残っている。
Wikipedia

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尾根部から西側の豊ヶ丘南公園を展望しています/豊ヶ丘5丁目

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新住区域で、大池のある「豊ヶ丘南公園」を中心として旧住都公団が建設した中層の分譲集合住宅主体で構成されている。この公園は非常時の貯水槽を具備しており同街区には市立の図書館や児童館、老人福祉館、医療団地が設けられているWikipedia

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とちのき公園の東側が貝取の谷部(貝取大通り)になります/スクールロード

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とちのき公園(豊ヶ丘2丁目)
同街区の中央には歩行者専用道路(豊ヶ岡スクールロード)が貫通しており特徴である起伏のある地形には樹林が多く、住民が公園整備に参画した「とちのき公園」などの公園が配置されており自然さを享受できる環境が整っているWikipedia

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吉祥院裏山の「唐沢山」はこの辺りでしょうか/第一公園(豊ヶ丘)

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笛吹峠
乞田(現・豊ヶ岡)の吉祥院の裏山を唐沢山といい、義興(義貞とする説もある)がこの山の尾根道を笛を吹きながら通ったことから笛吹峠ともいうWikipedia)
写真は吉祥院墓地から北側の景観です

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豊ヶ丘北公園から愛宕の尾根を見ます、右端が「愛宕の切通し」です/跨線橋

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豊ヶ丘北公園(豊ヶ丘1丁目)
線路(京王・小田急線)に面した南側は旧来の里山を再生し、森のある憩いの場「豊ヶ丘北公園」が整備されている。区画整理区域は旧来からの地権者らが再建した「乞田農住団地」などの戸建て住宅が主体をなし、古来からの寺社「吉祥院」や付帯する墓地もあるWikipedia

吉祥院・落合周辺の寺社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23325245/

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豊ヶ丘北公園から下ると乞田川、この辺りを渡ったんでしょうか、この少し下流が鎌倉道の大橋になります/平沼橋(乞田)

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遊歩道・多摩よこやまの道総合案内板(90°回転)
(紫:鎌倉裏街道 赤:鎌倉街道上道 緑:現鎌倉街道 青:乞田川)

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多摩市ジオラマ(昭和37年・1962)/パルテノン多摩歴史ミュージアム
(赤:鎌倉街道上道 橙:鎌倉裏街道 緑:現鎌倉街道 青:乞田川)

鎌倉街道上道(貝取~小野路)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26487212/

by Twalking | 2018-03-02 10:28 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(多摩~町田)04-本町田   

日時 2018.2.18(日)
天気 晴れ


今井谷戸入口からは恩田川に沿って進みます。
養運寺、鶴川街道辺りが本町田宿、かつての中心部です。
恩田川沿いの道は成瀬へ、本路は台地へ登ります。

菅原神社の一体は中先代の乱の古戦場、境内に碑が建ちます。
原町田へは台地上を行ったようですが道は消えてますので、
鶴川街道を通って小田急線の町田駅に向かいます。

久し振りに歩きましたが、ここは古道跡がよく残っていますし、
自然も豊か、変化のある歩きが楽しめるコースですね。
また、季節を変えて歩いてみたいと思います。


・・・
本町田

町田市中部に位置する面積の広い町域で、大規模な集合住宅も集中するため市内で最も人口が多い。多摩丘陵の南西縁に接し、近隣の中町・原町田などが多摩丘陵相模原台地境界部となる。江戸時代以前の町田とはこの地域を指し町田村中心地であった。(Wikipedia

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街道の風景① 現鎌倉街道から七国山を望みます。右手が今井谷戸、恩田川の源流域です/今井谷戸入口

本町田の旧字-今井(今井谷戸)
町田川の源流付近であり、深い谷戸沿いに広がる地区。鎌倉街道は向村及び宿より一色後田を経由し、今井から七国山方面・薬師池方面へと抜けていた。現在の今井谷戸交差点付近。(Wikipedia

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街道の風景② 現道の西側を南へ、恩田川は暗渠になっています/今井谷戸入口

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なかよし散歩道
この「なかよし散歩道」の地下には大雨による「湧水」から地域を守る公共下水道本町田2号雨水幹線を備え、地上の約600m区間はひなた村から薬師池公園へと散策できる「親水」緑道の二層構造になっています。(案内板)


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恩田川はここから開削です       なた村入口

ひなた村
ひなた村は町田市のほぼ中央に位置する緑豊かな小高い丘(標高105.8m)にあり、公園(野球場、テニスコート、本町田遺跡)、博物館、住宅、団地に囲まれ、面積は67千m2林の中の広場やホール、レクレーションルームなどを備えた青少年施設です。ここでは自分たちで考え作り、思いっきり遊ぶところです。自然の中でカレー作りやお餅つきをしたり、チャレンジ教室などに応募してさまざまな体験ができます。(町田市)

恩田川(源流域)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23231735/

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宏善寺山門/本町田

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宏善寺宗派 
日蓮宗(法華宗)身延山久遠寺末。山寺号 久住山善立院宏善寺。開山 日海。文永8年(12711018日とあるが『風土起稿』は「その年代を伝へず」と記している。もと井手の沢に所在したが、暦応元年(1338)現在地に移るともいう。日蓮竜ノ口の法難が文永8912日で一時相模国愛甲郡依知に配置され、依知よりさらに佐渡に送られたのがその年の10月で、そのおり井手の沢の真言小庵に休息して日蓮宗に改宗させた伝説があるところより、文永81018日の開山としたものとも推考できる。朱印 寺領七石。本尊 三宝祖師。ただし明治311月の「村明細帳」には「本尊釈迦牟尼仏」とある。

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本堂 昭和425月落慶の鉄骨鉄筋コンクリート造り、室町風の入母屋造。客殿 50坪、木造瓦葺。庫裡 116坪、木造二階建瓦葺。日朝堂 間口3間、奥行四間12坪。中老僧日朝と七面天女とを合祀し、木造入母屋、建築年代は不明。鐘楼 大正4年(1915)建立、二間四方木造欅造り瓦葺。梵鐘 前梵鐘、昭和203月供出し昭和28年鋳。銘天野佐一郎。仁王門 明治18年(1885)再建、入母屋木造瓦葺105合、総欅、四方タル木である。金剛力士、江戸中期と伝う。総門 昭和47年再建、冠木門。正面入口2間、両袖一間ずつ、奥行2間白木造り瓦葺。

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総括 宏善寺は町田市内の古寺で、堂塔の整備している小山田大泉三輪妙福寺と併称される大寺で、戦後畑28町、田12町余りを開放し、なお山林をひなた村の青少年社会教育施設として町田市に提供しており、古い時代の2間に3間の土蔵なども残されている。そして、旧鎌倉道沿いにあったため隣寺養運寺などとともにしばしば戦火のため焼亡した歴史も秘められている。什宝 祖師日蓮の二行切、一行切の二幅は真筆である。(町田市史)

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街道の風景③ 養運寺山門付近です、この先で鶴川街道と交差します

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養運寺/本町田

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養運寺浄土宗、
鶏足山智光院養運寺と称す。開山 永禄10年(1567)光蓮社伝誉上人。本尊 阿弥陀三尊、養運寺本堂におまつりされている仏様は、阿弥陀様を中尊に向かって右側に観音菩薩様、左側に勢至菩薩様の弥陀三尊です。それぞれ木造で室町時代中期の作と考えられます。阿弥陀様は西方極楽浄土におられ、教えを説き無量の光で衆生を救済してくださる仏様です。臨終のときには自ら来迎して我々を極楽浄土へ導いてくださります。観音様は人々の救いを求める声を見聞きし、それぞれの苦悩や願いに応じて救いを差し伸べる慈悲の菩薩様です。勢至菩薩様は智慧の力で人々の迷いを取り除いてくださる智慧の菩薩様です。(養運寺HP)

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山門                 鐘楼

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境内から南を望みます、右手が菅原神社になります

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鶴川街道を横断            成瀬Rとの分岐になります

本町田の旧字-宿
町田村中心地で、鎌倉街道の宿場として栄えた。近年までかつての雰囲気を残す街並みがあったが、鶴川街道の拡幅や宅地化に伴い姿を変えつつある。現在の日向台住宅南部日向台交差点養運寺付近。(Wikipedia

成瀬Rの関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23236303/

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街道の風景④ 川らしくなって流れる恩田川を渡ります/稲荷坂橋

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街道の風景⑤ 稲荷坂を菅原神社の南側へ上ります

本町田の旧字-向村
菅原神社が置かれている。かつては湧水地があったことから、付近は井出の沢(井手の沢)と称されることもあった。現在の菅原神社交差点付近
Wikipedia

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菅原神社参道/本町田

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菅原神社
寛永7年(1630)に、神奈川県の青木山西向寺の開山である寒江和尚作の渡唐の天神の像とともに大沢玄蕃が境内地を寄進して一宇を建立したのである。その天神像は先祖の大沢七郎正純の守り本尊である。寛文5年(1665)には「天神宮寺」とあり、享保8年(17234月と天明5年(17854月に社殿の再建をしたことが社宝の棟札にある。社宝に作者不明の右大臣・左大臣の座像があり本殿の左右におかれている。町田の三天神の一社である。境内末社に防火の守り神である愛宕社が奉斎してある。天野佐一郎先生の筆になる「史蹟井出ノ沢」の記念碑は昭和30年(1955612日の建立である。昔は神事相撲があり祭礼の時に奉納されたのである。祭神は菅原道真公を奉斎してある。例祭日は毎年825日である。境内地坪数1740坪、境外山林840坪余りあり。町田市内の神社では広大である。町田市本町田802番地に鎮座している。

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菅原大神のこと
大宰府の道真公は延喜3年(903225日、おのれの不幸をなげきつつ病死したのである。その後、京都では落雷がしきりにあり菅公の怨霊による崇だといわれた。北野の雷神ないし天神と、菅公の怨霊と結びつき村上天皇の天暦元年(917)に天満天神の号をつけて神として祀られたのである。また、南北朝時代以来、渡唐天神の伝説とともに学芸の神として崇敬するようになったのである。(町田市史)

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拝殿南側の社叢

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井出の沢の古戦場/菅原神社
井出の沢古戦場は南北朝時代に発生した中先代の乱の古戦場です。元寇年(1333)にはじまった後醍醐天皇による建武の新政は武家を軽んじたため各地で武家の不満が高まりました。そのような中かつて鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の得宗である高時の子・時行が建武2年(1335)反乱の兵をあげました。これが中先代の乱です。信濃から鎌倉奪還を目指し南下した時行は、この井出の沢の地で足利尊氏弟・義直によって迎撃されました。激戦の末時行の軍は足利勢を破り鎌倉占領しましたが、わずか20日余りで足利尊氏・直義の軍に鎮定されました。現在菅原神社、町田市立体育館及び市営グランドのある場所が井出の沢古戦場跡と伝えられています。(東京都教育委員会)

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境内から北側の七国山を望む、下の道が鶴川街道になります

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菅原神社裏の道            町田中央公園付近

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街道の風景⑥ 菅原神社からは鶴川街道の右手を原町田に向かったようです/町田高校前(鶴川街道)

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小田急線を横断            二番街を町田の辻へ

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ルート地図(成瀬から本町田へ)/旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照
(赤:鎌倉街道 橙:同成瀬ルート 緑:現鎌倉街道 紫:鶴川街道 青:恩田川・境川)

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多摩貝取~原町田ルート地図
(赤:鎌倉街道 緑:現鎌倉街道 紫:大山道 黄:芝溝街道 茶:鶴川街道・町田街道 青:鶴見川・恩田川:境川)

by Twalking | 2018-02-24 09:10 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(多摩~町田)03-野津田&七国山   

日時 2018.2.18(日)
天気 晴れ


前回は出るのが遅く途中で時間切れにになりましたので、
その続きを小野路から野津田、七国山、本町田を経由して
町田まで歩いてみました。

この道は何度か歩いていますが、野津田の遺構の場所が
よく分かりませんでした。今回、上の原広場先に
綺麗に草刈された掘割遺構を確認することができました。

「華厳坂」と言うそうですが、七国山を見通した坂に
残された見事な古道跡、感激しました。
歩くたびに何かに出会う道、このルートは面白いですね。



・・・野津田/町田市

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街道の風景① 小野路交差点から直進し、この先の旧道へ入ります/新屋敷

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旧道風景                       道は行き止まり、右折して公園内へ


・・・野津田公園

町田市野津田町にある都市公園(総合公園)。1990年(平成2年)に陸上競技場を中心とした公園西側の第1期区域(面積約15.4ha)が開園。その後は公園東側の拡張整備を行い2001年(平成13年)に第2期区域が開園し現在に近い形となる。広さは約39.8haで町田市立の公園としては最大規模である。園内には市立陸上競技場、野津田球場、上の原グランド、野津田公園テニスコートなどのスポーツ施設がある。Wikipedia

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湿性植物園から「こもれびの道」を通り「上の原広場」へ/湿性植物園

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こもれびの道             上の原広場にでます

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尾根側の散策路に遺構らしき跡が残ります/上の原広場

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「華厳院坂」の掘割遺構01(坂下方向)
通ったことはあるんですが、きれいに草刈されていたので気が付きました。鎌倉道の掘割遺構、素晴らしいですね!感激しました。

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「華厳院坂」の掘割遺構02(坂上方向)

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坂上は上の原広場へ           坂下は舗装路へ続ています
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街道の風景② 「鎌倉古道」の標柱が立ちます。街道は鶴見川を渡り前方の七国山・右手ピークへ上ります

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坂下の地神塔             芝溝街道を横断

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華厳院山門/野津田町

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華厳院
宗派:古義真言宗 都筑郡恩田徳恩寺末。山寺号:普光山華厳院明王寺(朱印八石あった)。本尊:不動(智證大師の作と伝える)開山:草創年代を天平と伝えるが今は全く不明である。しかし隣地を鎌倉古道が通っており、奥州への古道にも近いので古寺成立の条件にかなっている。もと福王といったのを室町時代末、僧満興、衰微して廃せんとするに当たり、これを明王寺の廃跡である現地に移して再興したのが華厳院である。僧満興は天正4年(157651日示寂。本堂:間口12間、奥行7間半。三方に五尺の廊があり、寄棟草屋根木造建築。272枚ずつ花丸の格天井と吉祥天女および竜と雲の欄間彫刻は注目して良い。庫裡:昭和465月改築。75坪。墓地:古い五輪塔5、宝篋印塔6がある。(町田市史)

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野津田公園園内マップ
(橙:鎌倉街道 赤:同西ルート 紫:大山街道 黄:神奈川往還 緑:現鎌倉街道)


・・・七国山

七国山(ななくにやま)
町田市山崎町にある標高128.5の山である。鎌倉時代頃に鎌倉と上州方面を結んだ鎌倉上道古道跡が現在も残っており、近隣の本町田小野路は古くから宿場として栄えたとされる。昔は頂上付近から相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野の7つの国を見ることができたためそのように呼ばれた。(Wikipedia


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街道の風景③ 鶴見川を渡ります/丸山橋

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野津田公園を望みます         左折はダリア園、これも古道のようです

鶴見川(源流域)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/20626978/

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街道の風景④ 七国山南麓を西へ進みます

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鎌倉古道入口             竹林を上ります

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七国山の鎌倉古道01 竹林を抜けると雑木林の緩やかな登りです

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七国山の鎌倉古道02 左から西ルートが合流します

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中腹の二又路             「鎌倉街道上道」の標識が立っています

野津田西ルートの関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26502491/

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七国山の鎌倉古道03 掘割状の道路跡が見受けられます

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七国山緑地保全地域
昔この山頂から7つの国が見えたことから七国山と呼ばれるようになりました。なだらかな起伏の続く丘陵の中でも一段と小高い地域です。数条の尾根と谷戸が入り組んで変化に富んだ地形を成し、区域内の西部には鎌倉古道が遺構が南北に縦貫し、鎌倉井戸の遺構があります。ほぼ全域にコナラ・クヌギが分布し、中央部及び周辺部の緩斜面の一部二耕作地、果樹園、竹林等が散在する変化の多い植生です。東京都ではこの自然を守り次世代へ伝えていくために「東京における自然の保護と回復に関する条例」に基づき緑地保全地域に指定しました。(東京都)

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七国山の鎌倉古道04 尾根上の道と合流する切通に「七国山鎌倉街道の碑」と「鎌倉井戸」、この先の二又を直進します。

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鎌倉井戸
鎌倉時代に掘られたものといわれ、新田義貞が鎌倉攻めの軍を進める途中ここに井戸を掘りこの水を軍馬に与えたと語りつがれている。井戸の深さは約4mであり表土の部分は永い年月の間に崩れ落ちているが 、地表から約1.5m下のローム層の部分は下方に直径70cm程の円筒形の井戸が原型のまま保存されている。(町田市教育委員会)

・・・

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七国山から南側の景観 左が鶴川、正面がたまプラザ・あざみ野方向になります

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ピークが七国山でしょうか       旧汎蒼庵跡(はんそうあん)

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尾根上から見る今井谷戸です、左へ下ると薬師池になります

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「ぼたん園」からの道です       谷戸の東側の道も旧道のようです

薬師池の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23239343/

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ダリア園の上から七国山を望みます。この道も鎌倉道のようです

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多摩丘陵散歩道(野津田町周辺コース)マップ(90°回転)
(赤:鎌倉街道 緑:現鎌倉街道 紫:大山街道 橙:芝溝街道 青:鶴見川)


・・・

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街道の風景⑤ 左カーブしてダリア園前を通ってくだります。

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一帯は住宅地です           現鎌倉街道に合流/今井谷戸入口

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ルート地図(本町田から小野路へ)/旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照
(赤:鎌倉街道 緑:現鎌倉街道 紫:大山道 橙:芝溝街道 青:鶴見川・恩田川)

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野津田・七国山周辺地図
(赤:鎌倉街道 緑:現鎌倉街道 紫:大山道 橙:芝溝街道 青:鶴見川・小野路川)

by Twalking | 2018-02-22 20:21 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(多摩~町田)02-小野路   

日時 2018.2.14(水)
天気 晴れ

七国山の古道は途中で二又に分かれていますが、
芳賀善次郎さんの本を読むと、野津田越えのルート
として西回りがあることを知りました。

どちらも野津田公園内を通ったものと思われますが、
ひとまず大山街道の分岐から鎧橋へ下り、七国山へ
の西ルートを歩いてみました。


・・・小野路/町田市


町田市北部に位置する。地域内は多摩丘陵内の緑豊かな地域となっており都内有数の里山地域であるほか、江戸時代には大山街道宿場町として栄え、小野路宿通りは当時の雰囲気を現在に残している。また、地域内には中世前期のものと推定される小野路址があり周辺は図師小野路歴史環境保全地域に指定されている。
Wikipedia

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街道の風景① 小野路宿の風景です、落ち着いた家並みに歴史が詰まります/小野路宿通り

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(歴史)室町時代より小野路(小野地小野池とも)の名が見られかつては武蔵国多摩郡に属していた。世阿弥による古謡曲「横山」にも「小野路庄」の名が見られ当地を指していると考えられる。中世には小山田庄内の郷村であり「役帳」において「50貫文小山田庄内小野地」と記され、戦国期には北条氏照領である小山田庄に属した。また、地域内にある小野神社の梵鐘の銘によると1403年(応永10年)には小野路は宿駅の機能を有していた。「廻国雑記」によると1486年(文明18年)の冬に小野の記載があり当地と考えられる。後北条氏の治下では滝山城城主大石氏の知行分を経て北条氏照の支配となり、1585年(天正13年)721日には清浄院(福田寺)の曼荼羅供大法会への妨害を厳禁とする制札が北条氏照によって出されている。

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中世には滝山城主大石氏の頃に整備されたと考えられている小野路街道(子安、北野、下柚木、越野を経由して当地で鎌倉街道・上道と合流)が整備され、近世には小野路道小野路往還とも呼ばれた。1617(元和3年)には徳川家康遺櫃を駿河国久能山から下野国日光へ移す際の行列が通過したが、この時に大規模な継立が行われ、地域内にあった鎌倉古道は相模国平塚宿や矢倉沢関等から武蔵府中へ至る脇往還となった。1827年(文政10年)には小野路村外三五ヶ村組合村を組織し、江戸時代後期には名主小島家により天然理心流撃剣道場が村内に置かれ、幕末には近藤周助や近藤勇が当時の小野路村の小島為政と親しくしていたことから剣術の稽古のためにこの地を度々訪れていた。Wikipedia

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小島資料館
小野路村の名主小島家や橋本家は自宅を道場として解放、近藤勇や土方歳三、沖田総司などが村人に剣術を教えるために通ったところ。新撰組の書簡や小野路農兵隊などの資料が展示公開されている(フットパスガイド)


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小野路宿里山交流館
多摩丘陵の原風景を残す町田市北部の小野路地域には、江戸時代に宿場としてにぎわった小野路宿があり、そこにあった一軒の旅籠・旧「角屋」を改修し観光交流の拠点として再整備した施設が「小野路宿里山交流館」です(町田市)

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小野神社鳥居


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小野神社
町田市小野路町にある神社である。現在小野篁を祭神とするが、1888年(明治21年)の小野路村誌では天下春命(あめのしたはるのみこと)あるいは小野篁としている。小野路の地は古代から鎌倉街道の重要な中継点の一つとして知られていたが、天禄年間(972年頃)に武蔵国司として赴任した小野孝泰(小野篁の7代後の子孫)がこの地に祖先の小野篁を祀ったのが始まりとされる。かつてこの神社にあったは、文明年間に山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った際、山内上杉氏の兵によって陣鐘として持ち去られ、現在は逗子市沼間の海宝院にて梵鐘として使用されている。参道脇には「地神」を祀った石塔も建っている。(Wikipedia

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地神塔                   梵鐘

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萬松寺の縁起
開山様は第52代嵯峨天皇第12皇子源融の後胤にあたる中島蔵人の子息である。幼にして薙髪、鎌倉建長寺にて修行、一旦帰省し父母への報恩のため妙興寺創建に着工、後に再び関東に遊歴して八禅刹を建立、当山はその中の一寺である。父・中島蔵人は尾州中島村(愛知県一ノ宮市萩原町中島)にある中島城の城主を勤めていた。開山滅宗興和尚はよく衆生を済度し民衆のため種々尽力された高僧である。永徳2年(1383711日示寂、73歳。示寂後40余年を経て第101代稱光天皇より(應永331426年)圓光大照禅師号を追贈されている。当山萬松寺は徳川時代慶安元年(1648)将軍家光公依頼代々御朱印七石を賜わる。徳川寛文年間第11世祥翁喜和尚のとき全焼。降って昭和20年(1945525日夜半今次大戦にあたり米國機の東京空襲の際焼夷弾攻撃を受け本堂玄関附属建物および過去帳仏具仏典類すべて焼亡、当時集団疎開していた品川区鈴ヶ森國民学校児童職員ら無事全員隣寺に避難した。(掲示板)

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小野路宿場図(江戸後期)/里山交流館
(赤:鎌倉道 紫:大山道 黄:八王子道 青:小野路川)

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小野路宿周辺航空写真/小野路宿里山交流館
(赤:鎌倉街道 緑:現鎌倉街道 紫:大山道 橙:布田道 黄:八王子道 赤角:一本杉公園・小野路宿・野津田公園)

府中通り大山街道(小野路~図師)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23519619/


・・・野津田

町田市の中北部に位置する。東西に鶴見川が流れ、北東の町境には小野路川が流れる。北部と南東部と南西部は丘陵地帯となっている。主に参道橋以西の鶴見川周辺と薬師池公園の西で七国山の北と野津田公園の東で綾部原トンネルの上辺りには畑が多く残っている。(Wikipedia

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街道の風景②野津田の丘を越えは2ルート、「西ルート」を行ってみます/小野神社

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街道の風景③「西ルート」は向坂を上り西に向かいます/向坂

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途中の切通し             小野路一里塚/野津田公園入口

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小野路の一里塚
古来、鎌倉みちは幕府のあった鎌倉から武蔵の国府である府中を抜けて上州の高崎方面に続いていた。府中の手前にある小野路の宿は鎌倉時代にできたと考えられる。駿河の久能山に埋葬された徳川家康の遺骨を江戸時代の初期の元和(げんな)3年(16173月に日光東照宮に移したときに街道の整備と共に小野路の一里塚は造られた。伝承によると御尊櫃(ごそんひつ)を乗せた輿が向阪を下ったとき壊れ、一行が難儀し鍛冶屋を呼んで修理した。この時の小野路村の労苦に対して幕府は以後助郷を免除した。この街道は御尊櫃御成道、また矢倉沢往還として利用され、東海道平塚宿と甲州道府中宿を結ぶ脇往還として賑わった。江戸期に盛んになった大山詣での道として小野路宿は賑わい幕末頃は旅籠が6軒あった。東海道一里塚は五間四方あったというが小野路の一里塚は一回り小さかった。榎の木が植えられておりここで旅人は一服つけたのではなかろうか。町田市では他に木曾の一っているが、多摩市貝塚にあった塚は現在残っていない。(小島政孝稿・説明板)

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街道の風景④ 大山道と分かれて鶴見川へ下ります

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大山道分岐                 凄い急坂です

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街道の風景⑤ 七国山に向かって直線的な下り・上りの道です/野津田高校分岐 

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登り口の石造群            芝溝街道を横断します


・・・山崎町


町田市の中部に位置する。東には七国山があり東側の町境は薬師池公園に接する。野津田町との町境付近を鶴見川が流れる。地名は鎌倉時代に横山党の一族である山崎兼光等が住んだ地とされているが、地名の詳しい由来についてはわかっていない
Wikipedia

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街道の風景⑥ この辺りで鶴見川を渡ったんでしょうか/新鎧橋

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すぐ上流に鎧堰があります

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鎧堰の歴史
鎧堰は永禄8年(1565年)に八王子城主・北条氏照候の印版状を得て武藤半六郎構築した。北条氏照は天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻略による落城で秀吉から切腹を命ぜられた。しかしこの鎧堰はその後、長い間地域の人々に守られ今日まで400年以上にわたって野津田地区で八町八反歩(約870002)の水田に豊かな農業用水を供給して人々の生活を支え、親しまれてきた。河川整備に伴う鎧堰の撤去に際し、歴史を記す。北条氏照印判状 野蔦(野津田)之郷本堰口、川二崩、当年水不上之間、新堰可鑿歟之旨、得御意候、 以彼堰過分之田地可荒義如可候間、小分之年貢引候義者不苦候、 尤新堰可為鑿旨被仰出状如件、丑(永禄8年)三月廿日 一雲奉 武藤半六郎殿 専正軒/町田市史資料集第四集

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「鎧の名の由来」
元弘3年(133358日、上野国新田庄(群馬県新田郡)の武将新田義貞は後醍醐天皇側からの命を受け、鎌倉幕府を倒すための兵を挙げました。新田軍は上野国から武蔵国に入り鎌倉街道上道に沿って兵を進めます。対する鎌倉幕府軍59日に鎌倉を出発します。両軍は小手指原(入間市)久米河(東村山市)にて衝突し、515日には武蔵国府の有る府中に至ります。1516日の2日間にわたって分倍河原(府中市)では激しい戦いが繰り広げられました。多摩川を越えた関戸付近では敗走する幕府軍を追って激しい掃討戦(関戸合戦)がおこなわれました。(「多摩川市関戸に残る中世の伝承とその背景」より) この関戸合戦の末端で戦い犠牲になった兵の屍が鶴見川を流れ折り重なってをなり、その状況を見て「鎧堰」(当時は鎧ヶ淵)と呼ぶようになったとの伝承があります。また、堰の模様がに見えたことから鎧堰を呼ぶ説もあります。この鎧堰の北側の小高い畑に兵の亡骸を手厚く葬り神聖な場所と言われた「兜塚」がありました。また、並木前の畑にはヤバ(矢場)畑、カ(柄)畑の通称もありこの地が合戦場であったことを思わせます。平成21年の河川整備に伴いこの伝承を記す。(東京都南多摩東部建設事務所)

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山崎稲荷神社/山崎


・・・七国山の鎌倉古道

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街道の風景⑦ 入口が分かりずらいですが、この畑地が古道のようです/山崎

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この先が入口です              その手前に
庚申塔

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街道の風景⑧雑木林の残る凹状の道路跡、この先で丸山橋からの道と合流します。

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野津田公園周・七国山周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道 緑:現鎌倉街道 紫:大山道 橙:芝溝街道 青:鶴見川)

鎌倉街道本路(野津田公園)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26507928/)




by Twalking | 2018-02-20 13:44 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(多摩~町田)01-貝取   

日時 2018.2.14(水)
天気 晴れ


貝取とか豊ヶ丘の遊歩道は散歩でよく歩きます。
芳賀善次郎さんの著書には鎌倉道は「小野路から貝取谷戸を下り、
乞田川を直角にわたり古道を経て関戸へ」とあります。

この辺りはニュータウンの造成で全く新らしい道ですが、
谷を通るのは貝取大通り、東側に貝取川が流れていいます。
今回はこの谷道に沿って歩いてみました。


・・・貝取/多摩市


古くより貝取村として村を形成していた。貝取は後に南多摩郡多摩村の大字となり、現在よりも広い領域を示す地名であったが、急激な人口増加により多摩村から多摩町を経て多摩市となり、多摩ニュータウン開発以降の地番整理施行後も名称が継承されている。元は純農村であり、現在は山林が主体の丘陵部に第7住区として造成された新住区域と谷戸部に土地区画整理事業地区として造成された区域とで構成されている。
Wikipedia

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街道の風景① 貝取川が乞田川に合流します、先の橋が旧鎌倉街道の「大橋」になります/釜沼橋

小字-釜沼(かまぬま)
乞田の地名、字名。貝取谷戸の出口付近、乞田川沿いの地名。昔釜沼なる池があったらしい。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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ニュータウン通り愛宕交番前      愛宕の尾根を望みます/貝取大通り

乞田川(落合周辺)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23395070/


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街道の風景② 谷間であればこの貝取川沿いを上ったのでしょうか/合流点より 

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貝取山への上り口           貝取山の西麓の谷を流れています

小字-貝取山(かいどりやま)
貝取の地名、山名。貝取谷戸と瓜生谷戸の間の尾根の北端部の山の名。現在も残され、貝取山緑地として親しまれている。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

貝取山緑地の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23307489/

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大福寺山門/貝取

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大福寺(曹洞宗)/多摩市貝取1丁目
貝取にあるため山号も貝取山といい、本堂よりも古い地蔵堂には等身大の地蔵菩薩がまつられている。境内全体の雰囲気がここちよい。御本尊は華厳釈迦牟尼物。(多摩仏教会)

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地蔵堂                    境内のお地蔵さん

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境内の裏山から乞田川方向の景観、右が貝取山、左が豊ヶ丘の尾根になります

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貝取大通りを挟んだ向かいには貝取神社があります/豊ヶ岡

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貝取神社
弟橘媛命 (おとたちばなひめ)品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)素戔嗚尊/須佐之男命(すさのお)
多摩ニュータウンの造成により貝取村で個々に祀られていた神社を合祀した神社で、吾妻神社八幡宮牛頭天王社を集め、三柱の祭神を相殿で祀り社名を貝取神社とした。(神社人)

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貝取神社の石造群              倶利伽羅不動さんです

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貝取神社裏からの景観、豊ヶ丘になります
 

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街道の風景③ 貝取川はこの先で暗渠になります

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街道の風景④ いい街なんですが、古道の面影は全くありません/貝取

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尾根道だとこの辺り?/貝取南公園    尾根幹線を渡ります


・・・南野/多摩市

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街道の風景⑤ この先を左折し道路遺構の残る尾根を小野路へくだります


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南野/一本杉公園
「南野」の町名は多摩市の「」にあり、旧小野路町の「」を採って命名したものです。この区域は町田市から編入した小野路と下小山田町の各一部で、町田市に同じ町名があることなどから語調の良い新しい町名に変更したものです。この付近は村境に近い所でその昔は武蔵国の国府(府中)から多摩川を渡り、関戸の宿から小野路の宿を経て、相模あるいは鎌倉などへの往来で多くの人々が利用していた道がありました。また、この辺りに大きな杉の大木があったと言われ一本杉という地名にもなっています。この一本杉に関する言い伝えや物語に、美しい女性に化けた狐にだまされたり通る人に天狗が悪戯や難問を出して困らせたりする話があります。なお、この彫刻は一本杉公園にちなんで杉をテーマとしたものです。(案内版)

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妙櫻寺/南野

「日本一の智者となし給え」と日蓮大聖人出家、幼少の頃願かけの虚空蔵菩薩。大願成就の大平山三吉坊を安置し、山号を大平山と号す。祈祷本尊鬼子母尊神、開運大黒天喜尊天等。昭和5348日開山。御本尊は日蓮宗尊定の大曼荼羅。(多摩仏教会・多摩寺院ガイド)

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鎌倉古道(鎌倉街道上ノ道本路)跡
わが国初の武家政権である鎌倉幕府が開かれた鎌倉と、各地の武士(御家人)たちの拠点を結んだ道が「鎌倉街道(関東の主要七道)」でした。その中で武蔵国府(府中)近くを通る上ノ道は上野国(群馬県)から続き、武蔵国を南北に走る最重要路でありました。この近くに見える山道は貝取団地の尾根へとつながり、地中や地表に残された道の跡などから、本来の鎌倉古道本路跡ではないかと考えられます。(よこやまの道標柱)


・・・鎌倉古道/町田市

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街道の風景⑥ 標柱先を左折、右手が恵泉女子大、先の森が一本杉公園です

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二差路を左へ             栗林が広がります

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街道の風景⑦ 小野路まで約1km、ほれぼれする道です

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街道の風景⑧ 直線的に下る凹状の道、鎌倉道の特徴がよく残されています

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街道の風景⑧ 竹林の道、変化があって面白いですね

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街道の風景⑨ 尾根の林を抜けて舗装路を小野路へ下ります

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石久保子育て地蔵尊          布田道分岐

布田道の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23534910/

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街道の風景⑩ 小野路宿の奥、いい谷戸ですね~、前方の尾根が小野路城址になります
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小路宿通りを左折           小野路宿です

小野路城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22740847/

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ルート地図(小野路から乞田へ)/旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照
(赤:鎌倉街道上道 緑:現鎌倉街道 青:乞田川・貝取川)

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貝取周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道上道 緑:現鎌倉街道 青:乞田川・貝取川 赤角:地点ポイント対照)


by Twalking | 2018-02-17 19:01 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(10)嵐山~赤浜03-今市   

日時 2018.1.19(金)
天気 晴れ


市場川と別れ今市の辻へ、ここは寄居町になります。
県道ですが、町並みに昔の宿場の面影が残りまし、
兒泉神社脇の「古道跡」と思われる道もいいですね。

今市からは改良された道でしたが、塚田の三島神社から
普光寺
周辺は古道跡が残っています。
案内図に従って山王坂を荒川に下りました。

荒川橋、花園橋は思い出深い所、懐かしいです。
暗くて渡しの位置は確認できませんでしたが、
次回の宿題、交通の便を考えて男衾駅に向かいました。


・・・今市(寄居町)

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街道の風景① 市野川沿いに前方の森(兒泉神社)方向へ向かいますが、道は消えているようです/稲荷橋手前

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稲荷橋を右折して県道へ             坂下に庚申塔

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街道の風景② 坂上の「今市の辻」を左折、この辺りから「今市宿」でしょうか/今市地蔵前

今市宿

川越・児玉往還にあった宿場。現在の埼玉県大里郡寄居町大字今市の今市交差点周辺が該当する。Wikipedia


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今市地蔵堂
北条政子ゆかりの地蔵尊で、鎌倉時代政子の願いにより当地の桜の木で彫刻された一体地蔵尊(関東一)として、病の平癒や子育て安産などの信仰が昔から伝えられています。(男衾の見どころ)

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木造地蔵菩薩立像
像高3.14m、室町時代の作と推定され、寄木造で玉眼を施してあります。頭の部分がなめらかに仕上げられていますが、これは地蔵菩薩像に特有なもので「円頂」という形状です。木造の地蔵菩薩像の中でもこれほど大型の物は珍しく県内でもあまり例がありません。また、現在は子育て地蔵として厚い信仰を受けており遠方からの参拝者も数多くみられます。(寄居町教育委員会)



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外側の板碑              「鎌倉街道」の案内板(内容は同じ)
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高蔵寺山門/今市

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高蔵寺
天台宗比叡山延暦寺の末寺。ご本尊は阿弥陀如来。開基は江戸時代、柳沢兵部丞信俊による。柳沢吉保の祖父。武蔵十三仏霊場第11番札所になる。山門の赤色は延暦寺と同じで特別の門となります。春は桜が見事です。(男衾の見どころ)


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十三仏                閻魔堂

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兒泉神社鳥居/今市

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兒泉神社(こいずみじんじゃ)
社伝によると当社は、物見山の尾根続きの地にこんこんと湧き出る泉に坐す神を児泉明神として祀ったことに始まる。また、口碑によれば鎮座地は初め明神台という地であったが、江戸期別当を努める天台宗高蔵寺住職が祭祀及び氏子の参拝の便を図り、寺の西100mほど離れた現在地に社を移したという。明神台の地については現在どこを示すのか明らかでないが、物見山の麓の泉立寺近辺が、かつて湧き水がよく出た地であったことからこの辺りにあったことが考えられる。当社には児泉明神の本地仏として十一面観音菩薩像が祀られていたが化政期(180430)高蔵寺に移されている。現在、本殿には白幣を奉安している。「明細帳」によると明治455月に字冬住の冬住神社、字富士山の浅間神社、字天神原の天神社の無格社三社を合祀している。(埼玉の神社)

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境内の脇に残る「旧道跡」稲荷橋からここへ繋がっていたようです。この先は消えています

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川の風景① 市野川は上流の小丘に沿って大きく蛇行して流れます/兒泉神社先

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この原を薬師堂へでしょうか       八阪浅間神社

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街道の風景③ 県道に戻った右手に「高見原古戦場跡」の標柱が立ちます/今市

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「高見原古戦場跡 慰霊首塚 長享2年(1458)」の標柱とお堂

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薬師堂/今市
小さな薬師堂には室町時代の薬師如来像が祀られています。石塔群は「百万遍供養塔(寛政2年・1790などの石塔と如意輪観音です。

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交差する道も古い道です        観音堂を右折します


・・・塚田/寄居町

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街道の風景④ 改良された道ですが左手の森が三島神社になります/塚田

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左手の森に古道跡があるようです    右手に庚申塔

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三嶋神社鳥居/塚田

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三嶋神社
この神社に伝わる鰐口は「武蔵国男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口応永2年(1395)乙亥327日」とあります。塚田は金井(坂戸市)小用(鳩山町)と並んで中世に鋳物業が盛んであったと伝え、この鰐口も地元在住の鋳物師によって造られたものだそうです。ところで鰐口とはどんなものかご存知でしょうか。神社の社殿やお寺のお堂の前の参拝所の軒下に吊る綱を振って打ち鳴らす円盤状の金鼓です。(男衾の見どころ)

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県指定文化財 鰐口
この鰐口は鋳銅製で直径19.9cm、厚さ6.9cmを測り、上部左右に耳(釣手)中央両脇に目を配置し、下半部側面には唇状の張り出しがめぐる。また鼓面の膨らみが低平で肩の張りも水平に近く、目や唇も薄く造られており総じて古格を示している。鼓面外区の左右に「武蔵国男衾郡塚田宿 三嶋宮鰐口 應永2乙亥327日」の銘文が刻まれており、この銘文から中世の鎌倉街道上道の宿駅であった塚田宿の三嶋神社に伝来したもので、応永2年(1395)に奉納されたこと、当時すでに塚田が「宿」と呼ばれる集落を形成していたことなどが分かる。さらに、当時この地に「道禅」を代表する塚田鋳物師の存在が知られており、この鰐口も様式・技法などから道禅もしくはその工房によるものと考えられる。この鰐口は県内にある室町初期の稀少なものの一つであり、室町期の形成を確立しようとした基準的作例といえる。(埼玉県教育委員会・寄居町教育委員会)

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川の風景② 前方は男衾駅あたりでしょうか、橋を渡って左折すると普光寺です

吉野川

埼玉県大里郡寄居町・深谷市を流れる荒川水系の一級河川。寄居町富田の丘陵に源を発し、荒川右岸河岸段丘上を比企丘陵の北斜面より流れる小河川を合流して次第に流量を増しながら東へ流れる。途中寄居町赤浜新吉野川を分流する。深谷市本田で向きを東向きから北向きに変えて荒川右岸に自然合流する。明治初期まではそのまま東へ流れ、現在の和田吉野川へと続いていた。Wikipedia


・・・赤浜

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普光寺山門/赤浜

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普光寺
当山は天台宗に属し当町内50数寺中最古の寺である。享保4年の記録に山王社、稲荷社、鬼子母神、観音堂再建とあるも、神仏分離により観音堂を除き三嶋神社に移される。山門は天保3年、玄関は同121841)年建立。同余村で大衝立が作られたものと思われる。(説明板)

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境内の石碑群

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中央の古塔は明治23年中庭を造成中に発掘されたもので「大同4809)年 開山慈門」とかすかに読むことができる(説明板)

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この板碑は昭和8年畑造営のため旧境内地であった鬼子母神塚、前塚田兜塚より出土したもので、最古の板碑は文永21265)年に造られており町内では「谷津大日堂板碑」に次ぐ古いものである。鎌倉街道往来中、病没した行路者を埋葬供養したものと思われる(説明板)

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鎌倉街道
当寺境内東端に鎌倉街道の遺蹟が現存する。この街道は「上の道」と称され、上州信州を結ぶ要衝で境内を通ったため旧来の道幅で遺されている。これを北行すれば荒川に至る。この坂を山王坂と称し、その昔伝教大師が開かれた比叡山に倣い山王権現を祀った名残である。荒川の渡しを「山王の渡し」と称し、大沢半左衛門が関守をしていたので「半左の渡し」とも称されている。
六大塚:伝六大御前(平維盛の子)の塚 
川越岩:渡川の目安とした岩(説明板)

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普光寺東側に史跡「鎌倉街道」上道の標柱が立っています。この先が県道です。

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県道の先の道跡            迂回して山王坂を下ります

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山王坂                河原の道を左折して赤浜の渡しへ

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川の風景③ 直進すると「山王の渡し」でしょうか、関越道の荒川橋が真近に。

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川の風景④ 「赤浜の渡し」はこの辺りでしょうか。次回に確認することにして男衾駅に向かいます。

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今市周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道 橙:川越・児玉往還 青:市場川・吉野川・荒川)

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男衾マップ
(赤:鎌倉街道 橙:川越・児玉往還 青:市野川・吉野川・荒川)

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鎌倉街道上道(嵐山~赤浜)ルート図
(赤:鎌倉街道 橙:川越・児玉往還 緑角:杉山城址・高見城跡)


by Twalking | 2018-01-28 15:09 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(10)嵐山~赤浜02-奈良梨   

日時 2018.1.19(金)
天気 晴れ


奈良梨は街道の宿場があった所、
県道から左側の旧道筋は雰囲気がのこります。
鎌倉道の遺構が残るようですが見つかりませんでした。

県道を四津山を見ながら北へ向かう途中、
「神社入口」の標柱に誘われて寄り道しました。
高見城跡からは歩いて来た道筋が手に取るよう・・・、
小振りですが遺構がよく保存されています。



・・・上横田/小川町

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街道の風景① 新川を渡ります。広い原を右手へカーブして奈良梨へ向かいます/高橋(新川)

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道祖神                        高橋(新川)


・・・奈良梨

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街道の風景② 右手が八和田神社への参道、街道はこの先左へ上ります/奈良梨交差点

奈良梨宿
(ならなしじゅく)
川越・児玉往還
にあった宿場。現在の比企郡小川町大字奈良梨の奈良梨交差点周辺が該当する。この地はかつての鎌倉街道上道の拠点として、戦国時代には平時に馬3頭、戦時に馬10頭を置く伝馬宿であった。Wikipedia


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八和田村道路元標/奈良梨交差点
道路元標とは大正8(1919)の道路法・道路法施行令により各市町村に一個設置されたもので、同11年の内務省令で材質や大きさなどの様式が定められました。道路の起点・終点を表示するものでこれを基に近代的な道路網の整備が行われました。戦後は法的・機能的な意味を失い多くが忘れられた存在となっています。八和田村道路元標は当所から奈良梨交差点(字鳥居前90番地)に設置されました。国の道路行政の歴史を伝える資料としてここに移設して保存することにしました。(小川町教育委員会)

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八和田神社参道

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お諏訪様
1.昔伝馬の駅として鎌倉街道十字路に旧八村に住む人の心あつめるお諏訪さま 2.奈良梨宿は今の世も人馬の馳せた夢に似て熊谷街道、深谷みち車の往来絶ゆるなし 3.諏訪大神は信濃より農耕、狩猟、武の神と氏子を護りこの郷に鎮守し給い六百年 4.御神体なる御鏡は詣る男女をそのままに写して身われを指し給う 5.鎮守の森は広くして拝殿の奥老杉は伊勢湾台風にもめげず町の記念樹御神木 6.弁天様は神池に音楽芸道福の神暮らしの中にゆとり持ち一円融合図れとや 7.御神徳なる天の声剣は怪道にて文武不帰岐天下和せざる莫き道は文化国家の礎と 8.参道溢れる人波は大御宝の頼母しさ露店のあかり天に映えお神楽殿も浮かぶなり 9.例大祭を境にし西風吹けば空は澄み豊かな稔年の瀬と稲刈麦蒔皆励む 10.御国栄ゆく大綱に村の総力一筋を固く結ばん合祀して八和田神社と明治時代(可唱鉄道唱歌の曲)

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八和田神社鳥居/奈良梨

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八和田神社(やわた)
昔、信州諏訪の大祝諏訪小太郎頼水が東国に下る折「神木の刺さった所を住居にせよ」との氏神(諏訪神社)の託宣によって、神木の枝をちぎって東方に投げたところ、奈良梨に飛来して逆さに突き刺さりそのまま根を下ろして成長したという。この大杉は水を呼ぶといわれ、奈良梨の耕地は余程の日照りが続いても田植えの水に困ることがないという言い伝えがあり、氏子の人たちの信仰を集めている。当地では「蛇はお諏訪様の使いである」との言い伝えがあり、特に白蛇を見ると吉兆であるといわれている。現に神木の割れ目から白蛇が顔を出した時には氏子中が大騒ぎになったという。また、当地の境内にある弁天池と普賢寺は堀でつながり、弁天池に棲む白蛇と普賢寺の本尊である普賢菩薩が夜な夜な行き来をするという興味深い伝説も残されている。
(埼玉の神-社埼玉県神社庁)

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八和田神社の大杉 諏訪神社の鰐口
大スギは目通り5.67m、樹高30mを測り形状から「逆さスギ」とも呼ばれています。天正18年(1590)に奈良梨に入った諏訪頼水が所領を定める際に信州諏訪(長野県)から投げたスギがこの地に刺さったという伝説があります。

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鰐口(わにくち・金属製梵音具の一種)は直径32.5cm、厚さ12cm。陰刻された銘文には延徳3年(1491)に高坂郷(東松山市)常安寺に奉納されたもので、綿入(寄居町西ノ入)の新井佐渡守によって諏訪神社に再寄進されました。裏面には「薬師経」を出典とする偈(げ・詩句)が刻まれています。諏訪神社は明治40年(1907)に八和田神社改称されました。(小川町教育委員会)

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奈良梨陣屋跡/八和田神社


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奈良梨陣屋跡(町指定史跡)
八和田神社東側に残る堀と土塁の一部は、戦国時代から江戸時代にかけて築かれたものと思われます。当時、鎌倉街道上道宿駅として栄えた奈良梨において、現在の八和田神社の境内になんらかの施設がおかれていた可能性があります。平成8年に実施した試掘調査の結果、この堀と土塁はほぼ平行して一直線に走っていることがわかりました。堀の断面形は箱薬研と呼ばれる中世の城や館を取り巻く溝に非常によく似ていました。土塁には、幾層にも丁寧に積み上げた状況が確認されました。あいにく時代を決定する遺物は出土しませんでしたが、以上のことから周辺文化財・史跡等の総合的な見地で広義の陣屋跡として指定されたものです。(小川町教育委員会)

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街道の風景③ 奈良梨交差点の先・二又路を左折するのが旧道、正面が普賢寺です/奈良梨二差路

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普賢寺前の切通            山門のお地蔵さん


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正福寺山門 時宗のお寺さんです

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本堂                 放生池と板碑

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普賢寺本堂

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普賢寺
当山は多宝山止観院普賢寺と号し天台宗総本山比叡山延暦寺の直末なり。慈覚大師ご開山との伝あれど縁起、年代共に詳しからず。慶長8年亮光法印これを中興し爾来法華一乗の教えに基づき法灯不断、普く人心の開導教化に努めて来たり。しかるに明治553日不慮の火災に遭い本堂その他堂宇宝財を悉く焼失せり。(中略)明治16年篤信者家屋を移築してこれをもって仏刹となす。昭和410月寄進する檀徒ありて仮堂を造作、昭和812月本堂を再建す。昭和末年檀信徒相談じて本堂の復興を発願、真実信心の実を現し堂宇を復興す。(石碑文)

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板碑
この阿弥陀三尊碑は今から約610年ほど前、北朝・明徳元年(139)に建立された石塔です。種字の下に造立年月日、梵字で天明真言が刻まれています。当山に現存する最古の板碑です。(説明板)

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街道の風景④ 普賢寺先より県道へくだります

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途中にある馬頭観音          県道を左折


・・・能増

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街道の風景⑤ 左は小川、右手河岸に八宮大神神社があります/能増交差点

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高見城のある四津山           交差点手前にお地蔵さん

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八宮大神神社鳥居
/能増


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八宮大神神社
当社の創建年代は明らかではないが当地を治めた豪族を祀った社であると伝える。鎮座立地から推して当地一帯の開拓者であったと考えられ、北殿・南殿という小名の地が周辺にあることから有力者が存在したことは間違いない。中世にはかなり信仰を集めており『風土記稿』によれば、万治元年(1658)の縁起に戦国時代の松山城主、上田安独斎も当社を崇敬し、社殿の再建や神領の寄進を行ったことがあると記されていたと見える。社号は「八宮明神社」と記載があり別当は本山派修験の南光院である。(埼玉の神社 埼玉県神社庁)


・・・高見

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街道の風景⑥ 四津山神社入口の標柱、う~ん、高見城か、寄ってみましょう

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麓から望む四津山の景観です

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四津山神社参道入口

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四津山神社再建記念碑
秀峰四ツ山山頂に鎮座する四津山神社は、火遇突智命を始め十七神を祭神とし、御神体は勝軍地蔵なり。古来より火防の神としてその信仰厚く信者は関八州に及ぶ。四ツ山はかつて鎌倉街道上道を押さうる軍事上の要所にして戦国の世には城築かれ、長享2(1488)高見原合戦を始め数度にわたり戦場となる。天正18(1590)豊臣秀吉関東平定の際近隣諸城とともに、城としての役割を終え徳川家康の関東入国によりて泰平の世となる。降って宝暦9(1759)山麓の古刹真言宗高見山明王寺第7世住職権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られし寺の氏神愛宕神社324山頂遷座す。以来重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて登頂し神事を執行せられたといえり。

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明治の世となりて39(1906)神社寺院仏堂合併跡地譲与に関する勅令により、翌40430日山麓高見の村社邊取神社及び能増の村社八幡神社を始め小社11合祀し、山容地名に因み四津山神社改称す。時に氏子数高見65五戸・能増西地区19戸なり。翌4111月神殿竣工以来益々氏子信者の崇敬の念厚く、事あるごとに神前に額づき苦楽を分かちあいつつ、由緒ある郷土の歴史の中に多くの人材を育み来たれり。合祀以来大正8(1919)神楽殿の竣工、同14年峻険なりし参道を整然たる磴道に整備。昭和24(1949)石鳥居の竣工。同58年参道の舗装等、氏子先人は一致協力して神域の保全に努め来たれり。

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しかるに、神殿は合祀以来90年にも及ぶ星霜を経て、近年特に老朽化著しく氏子一同は神霊の安らけきを願い、平成4(1994)元旦祭に神殿改築を発願。同年59日氏子(103名)総常会において再建を決議、建設委員会を設立せり。以来5年広く信者に奉賛を願いつつ、建立に関する討議を重ね、平成8428日宮司より御神々の遷座の儀を執り行う後県重要遺跡たる城址の発掘調査を経、1130日初冬の紺碧の天空に三本の幟を立てめでたく上棟祭。翌9(1997)330日山麓に在りし神々の神霊を宮司祭主のもと関係各位列席し、荘厳の内にも盛大に遷御の儀を挙行す。氏子の慶事ここに極まれり。これ偏に神々の御神徳と三百数十名にも及ぶ奉賛者及び関係各位氏子一同の努力の賜なり。この崇神の念に心より敬意と感謝を表すると共に奉賛者名簿を神前に献じ、神々に幾久しき御加護を願い、爰に御芳名を刻し其の徳行を後世に伝えんとす。(石碑文)

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四津山神社/本郭跡

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東側の景観、上州の山並みが望めます

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街道の風景⑦ 四津山を下ると県道との分岐にでます、この農道を市野川に沿って今泉へ

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高橋                 市野川

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奈良梨周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道
 青:市場川 赤丸:杉山城址・腰畑城址・奈良梨・高見城址)



・・・・
資料ファイル

四津山(高見)城址 

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四ツ山城縄張り図

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県指定史跡・四ツ山城跡/高見
四ツ山城跡は周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域一帯、南は市野川流域を一望できる要害の地に築かれています。市野川筋にはいわゆる鎌倉街道上道が走り、戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあって交通路を押さえる重要な役割を果たしていたと考えられます。城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本廓と北に連なる三つの主要なによって構成され、それぞれ土塁と堀切によって画されています。文明12(1480)の太田道灌書状写に「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころに城が整備された可能性があります。長享2(1488)に山内・扇谷両上杉氏の対立により激戦が繰り広げられた高見山合戦はこの麓の高見・今市付近で行われたと考えられています。また、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」は長享元年に没した増田四郎重富居城と伝えています。「関八州古戦録」によると、天正18(1590)豊臣秀吉による関東平定の際に鉢形城主北条氏邦家人が籠ったものの、戦わずして鉢形城へ逃げたといいます。(小川町教育委員会)写真:本郭

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二の郭跡

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二の郭への尾根            堀切跡

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三の郭跡

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二の郭跡から腰郭への下り        越郭跡(女坂にあたります)

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参道から犬走りへ           犬走り跡

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本郭から南・鎌倉街道を望む。眼下が高見原でしょうか

高見原合戦

長享2年(14886月の須賀谷原合戦が行われてから約4ヶ月後、11月に両上杉氏が鎌倉街道に沿ったこの高見原3度目の激突をします、この合戦は扇谷上杉氏方の勝利に終わり、山内上杉方は鉢形城に敗走しました。この合戦の後、明応314947月に扇谷上杉氏は再度高見原に出陣し、荒川を挟んで山内上杉方と対峙しましたが、扇谷の大将・上杉定正が落馬して頓死し、扇谷上杉方は河越城に敗走しています。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)

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比企地区を中心とした主な城郭分布図/埼玉県立嵐山歴史の博物館

比企城郭群(国指定)菅谷館跡の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/26362145/
  同      杉山城址跡の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/26377852/

by Twalking | 2018-01-26 21:27 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(10)嵐山~赤浜01-杉山   

日時 2018.1.19(金)
天気 晴れ


風は少しありますが天気がいいので出掛けました。
嵐山から奈良梨、今宿を通り荒川の渡し・赤浜に向かいます。
帰りの便を考えると東上線男衾駅がよさそうですね。

資料等を見ますと嵐山から中爪へは市野川沿いと丘陵越えの
2ルートがあるようですが、ひとまず川沿いの道を行きます。
旧道の跡が残るようなので現地ですり合わせできれば幸いです。



・・・菅谷/嵐山町

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街道の風景① 都幾川左岸の段丘上、菅谷宿の中心部でしょうか/武蔵嵐山駅先

菅谷宿
川越・児玉往還
あった宿場。現在の埼玉県比企郡嵐山町の武蔵嵐山駅周辺市街地が該当する。東京方面からくると国道254号(旧道)は菅谷交差点で左折して小川町へ向かうが、川越・児玉往還は直進でありかつてはこのルートが正統なルートであったことを示しているWikipedia

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嵐山三差路を直進して下ります     東武線の踏切を横断します

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東昌寺山門 下り口の左手にある曹洞宗のお寺です/菅谷

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本堂                 鐘楼

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観音堂の由来
当寺観音堂は本尊に千手眼観瀬音菩薩を祭る。その初期は徳川家2代将軍秀忠公の乳母を務めた正心院日幸大姉(慶長151126日江戸城内にて没した)の持仏であった千手観音をその子岡部主水が所領の地であった菅谷の地に一宇を建立し持仏の千手観音を祭り、母の菩提を行い以後家臣の多田家守護を任せてきたものである。昭和3年菅谷大火により堂宇本尊ともに悉く焼失せり。その後昭和22年に仮堂に千手観音を拝請し昭和62年に現在の堂を建立し、新たに本尊千手観音龍頭観音一葉を寺族長谷川澄子が寄附、並びに西国坂東秩父の百体観音を中島標夫夫婦が寄附されている。天井には住職の希望により36体の観音像を描く(説明板)


・・・志賀/嵐山町

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街道の風景② 旧道を抜ると志賀の堂沼があります。

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旧道入口               左に堂沼、右手が観音堂です

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志賀の観音堂

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志賀観音堂の石仏群
近世の志賀は「川越児玉往還」の宿駅として知られ、志賀観音堂は「比企西国観音霊場28」の札所として賑わいをみせた。境内には多くの石仏があり近年においての建立も盛んである7種類、11点について町指定となっている。内訳は庚申塔3、馬頭観音1、地蔵菩薩2、名塔1、大黒天1、宝塔1、聖徳皇太子2であり造立年代は貞享5年(1688)を初出とし明治8年(1873)とまでの185年間である。

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いくつかの特色をあげると2基の聖徳皇太子は近郷の大工職による「聖徳太子講」による建立、寛保元年(1741)の宝塔は高さ224cmで町内最大、安政7年(1860)の庚申塔は「志賀駅」、元治元年(1864)の飽海地蔵菩薩には「左鬼神道」とあり道標を兼ねている。これらの石部群は造形的に優れているのはもとより信仰の拠点、交通の要衝という観音堂の歴史的背景を知ることができる貴重な資料である(嵐山町教育委員会)

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街道の風景③ 296号を北へ向かいます、志賀の町並みです。

埼玉県道296号菅谷寄居線

埼玉県比企郡嵐山町と大里郡寄居町を結ぶ一般県道である。途中、深谷市(旧大里郡花園町)荒川から大里郡寄居町までは国道140号と重複している。旧花園町から嵐山町に掛けてはかつての鎌倉街道上道の街道筋を辿っている。Wikipedia

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宝城寺山門 曹洞宗のお寺さんです/志賀

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本堂                 門前から南の景観です


・・・杉山

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街道の風景④ 街道の東側、杉山城址へ寄り道します/相生橋(市野川)

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積善寺山門/杉山

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天台宗積善寺(しゃくぜんじ)
当寺は正式には福王山泉明院積善寺と称し、その神通力で日本各地に伝説の残る役小角(えんのおずね)の創建と伝えられています。(西暦600年代)小角亡き後、その弟子で積善という行者がおり、慶雲3年(706)夏、諸国が日照りに悩まされていた時、積善が当寺裏山「杉山城」中腹に泉わきでる大岩を見て仏心を感得し、その水を汲み閼伽水としたところ直ぐに天から慈雨が降り注いだと伝われます。その後、天慶9年の兵乱で本堂を焼失した後、応永181411比企・小高の両氏が檀主となり再興されましたが、再び戦に巻き込まれ寺は荒廃しました。

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そこへ伯耆の国(鳥取県)の大山寺祐源和尚が回国修行の折、当山に留まり(1573中興の祖となりました。以来現在に至るまで歴代住職、檀信徒の厚き信仰により法灯は守られています。本尊は西方浄土より万民を救済する身心平穏の仏様阿弥陀如来です。この歴史と自然に囲まれた積善寺を参拝いただき今日生きていることの幸せを心に感じていただければ幸いです(住職)

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苦悲(くび)なし地蔵
昔、杉山に金子屋という団子屋があり親切できれいな娘がいて繁昌していました。ある晩、泥棒が店の金、そして娘をさらい逃げました。娘は途中多右衛門の家の前で助けを求めました。昔侍だった多右衛門は追いましたが娘は斬られ、探すと首と胴は別々になり変わり果てた姿になっていました。多右衛門は娘の供養にと娘に似たお地蔵さんを作り毎月命日の24日にはお花やお線香をあげました。ところがある晩、お地蔵さんの首が誰かが取り幾度続けても首だけがない不思議なことが続きました。今も首のないお地蔵さんはお参りの人々の「苦悲や悲しみがなくなる」のでその後利益から「苦悲なし地蔵」と呼ばれています。(説明板)

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積善寺の裏手の「杉山」に国指定史跡・杉山城址があります(別掲)

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国指定史跡杉山城跡
この城は室町~戦国時代の築城と推定される典型的な山城である。総面積は7.6haにも及び、急峻な丘陵を巧みに利用して十余を理想的に配している。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも有数の城である。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えに当時の高度な築城技術が偲ばれる。また、城の立地についても北方で四津山城(高見城)越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して松山城鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。築城年代や城主名等に不明な点も多いが、一説には松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えられている。(埼玉県教育委員会 嵐山町教育委員会)

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本郭下から南側の景観です、街道は右下を通ります

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本郭から北側へくだり、街道に戻ります/六万坂

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杉山六万坂の石仏群
石仏群が位置する道路は西の市野川筋から東の粕川筋へと通じる古道で、地元では通称「六万坂」と呼ばれている。道路脇に石仏が散在し、このうち江戸期の類別には庚申塔8、馬頭観音4、地蔵菩薩2、加意輪観音1、六十六部経塔1であり、造立年代は貞淳2年(1685)を初出として慶応3年(1867)までの182年間である。杉山地区で確認されている石仏は38基あり、そのうち15基がここに集中している。造立者は個人基に馬持講や庚申講といった講中などの集団によるものが12基と半数以上を占めている。この場所が当時の杉山村の中では特別な場所であり、村でどのような信仰が行われていたのかという特色を示す貴重な資料となっている。(嵐山町教育委員会)

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川の風景① 杉山城の先には越畑城(跡)がありました、街道は市野川に沿って北へ向かいます/六万橋(市野川)

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市野川
荒川水系の支流で流路延長は38.1 km。埼玉県大里郡寄居町大字牟礼字下金井の丘陵地帯北斜面の溜池に源を発する。流路を北から徐々に南東に向きを変え、田園地帯の中いくつもの小河川や沢を合流し次第に流量を増す。また、左岸の丘陵地帯沿いに関越自動車道が並行する。嵐山町役場付近で流路を東向きに転じ、東武東上線の北側を平行して流れる。滑川が左岸に合流し比企丘陵を抜けた辺りから流路を南から次第に東に向きを変える。市野川大橋が架かる富貴ゴルフ場付近では川幅は600mと最大になる。かつての荒川の旧堤防であったさくら堤公園付近で流路を南東に向きを変え、比企郡川島町三保谷宿と北本市石戸宿の境界付近で荒川右岸に合流するWikipedia)写真:六万橋

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越畑城跡/越畑(おっぱた)
越畑城跡は丘陵の頂きに築かれた本郭と二の郭、三の郭の小規模な城です。本郭は頂部縁辺に上幅2m、深さ1mの小規模な空堀を回し、虎口は折りをつけ食違いに作られていました。出土遺物の年代は15世紀後半で杉山城と同時期です。城の規模や構造、本郭から検出された狼煙を上げた土抗などから、鎌倉街道を見下ろす位置に置かれ、砦の役割を果たしていた城と考えられます。現在は関越自動車道により大半が消滅し、二の郭の一部と「越畑城址之跡」が残っています。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)


・・・中爪/小川町

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街道の風景⑤ 市野川の左岸は小川町になります、左折して普光寺へ寄り道します/嵐山小川IC

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普光寺山門 山門に茅の輪が掛ってました

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普光寺
薬王山瑠璃光院普光寺(中爪の大師様、小川厄除大師)比企郡小川町中爪にある天台宗の寺院。小川七福神。小川町小川990 の八宮神社(やみやじんじゃ)の北隣に神宮寺として移転・中興したものWikipedia


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絹本着色徳川家康画像
この画像は中爪村を治めていた旗本高木甚左衛門正則が三代将軍徳川家光に懇願し拝領したものです。正保2(1645)正則はこの画像を安置するため、中爪村の鎮守である八宮明神の近くに普光寺を中興開基しました。開山にはもともと村内にあった毘沙門堂に隠居していた男衾郡赤浜村塚田(寄居町)の普光寺の僧尊栄を迎え、普光寺の寺号を襲用しました。像はやや右を向き衣冠束帯で敷畳の上に座り、右手に笏を持ち左手は太刀に添えています。頭上の御簾に葵巴文、背障に山水画、手前の板敷に一対の狛犬が描かれており、神格化された家康像として典型的なものです。軸木の銘から慶安4(1651)に奉納されたことが分ります。この画像は毎年417日に普光寺で公開されています。(説明板)

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八宮神社(やみやじんじゃ)鳥居/中爪

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八宮神社
中爪の善光寺は「大師様」もしくは「厄除け大師」の通称で知られる天台宗の寺院である。当社はこの善光寺の西に隣接している。中爪の鎮守として祀られてきた社で江戸時代には善光寺別当であった。創建の時期は明らかではないが、善光寺の創建が元和21616)と伝えられることから、当社もその前後に勧請されたものではないかと考えられている。(埼玉の神社/埼玉県神社庁)

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杉山(城)周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道 橙:同別ルート 青:市野川 緑:歩行ルート)


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資料ファイル

杉山城址

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比企城館跡群・杉山城址
杉山城址は鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に作られています。傾斜の急な切岸、大規模な横堀と屏風のように連続する折れ、枡形虎口や馬出部などを複合的に持つさまざまな虎口の形態など高度な築城技術の粋を集めたこの城は、戦国期城郭の最高傑作の一つと高い評価を得ています。今まで築城年代が不明でしたが、近年の発掘調査によって15世紀末から16世紀前葉の土器や陶磁器が出土したことから、長淳の大乱のあと山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗するために造った可能性が高いと考えられるようになりました。

発掘調査

本郭の東虎口は方形に区画されており、その内側にはハの字形に広がる石積みのあることがわかりました。このほか本郭南虎口、南二の郭南虎口などにも石組みが確認されたことから、小倉城とおなじく石組みで装飾された城であったことが明らかになりました。また、本郭からは焼けた壁土とコマイとして使用されていた竹の炭化材が大量に出土しました。南二の郭と南三郭からも少量の炭化材の出土があったため杉山城は城の広い範囲火災があった後に廃絶されたことがわかります。

出土品

染付・白磁・青磁・褐釉(かつゆう)などの中国から輸入された陶磁器、瀬戸美濃・常滑などの国産陶器、地元産のかわらけ(出土物の大半を占めています。武士の儀式や宴で用いられたった1回使うと捨てられました)や火鉢、硯・砥石・臼などの石製品、中国の貨幣、釘、はかりの錘、鍛冶滓(さい)など多彩な遺物が出土しました。年代は15世紀末から16世紀初頭に近い前半の限られた時期とみられます。(県立嵐山史跡の博物館リーフレット)

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大手(出口)

出郭 
大手の前に配置されている部をいい、北側には低い土塁が見られます。一見無防備な広い空間に見えますが、この説明板の部分には発掘調査によって溝が掘られていることが分かり、大手には直線的に侵入できないような工夫がされています。(案内板)

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南三の郭

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南三の郭 西虎口
二の虎口から西へ下ると細長い帯状(帯郭)が続きます。右(北)に進むと井戸跡に向かい途中の斜面には市野川沿い(城郭西側)から登ってくる敵にた対して横方向への動きを防ぐため竪堀が数本ご覧いただけます。

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左(南)に進むと南三の郭を一周するように馬出部に向かい、南三の郭南側の屏風状に造られた屏風折り(土塁)をご覧いただけます(案内板)




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馬出部
馬出部は南三の郭と大手の間に位置する堀で囲まれた小さな空間です。南三の郭南虎口に向かい登って行くと左側に土塁が張り出しており、横矢掛りが設置され防御の工夫を見ることが出来ます(案内板)


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南の二郭               食違い虎口

食違い虎口
南三の郭と南二の郭の間に設けられてある虎口は左右の土塁が平行にずれている虎口(食違い虎口といいます)になっています(案内板)

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三の郭から本郭へ           東の二郭・東の三の郭

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本郭

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杉山城跡(国指定史跡)/本郭
この城は戦国時代の築城と推定される典型的な山城です。総面積は8haに及び、山の高低差を利用して巧みに10あまりの郭(くるわ)を理想的に配置しています。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい埼玉県でも屈指の名城と評価されています。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が偲ばれます。「馬出し」や「桝形」の塁線を屈曲させて構える「横矢掛り」の多用は、その典型とされるものです。また、城の立地についても北方越畑城高見城と連絡し、西方全体に鎌倉街道を見下ろすという絶好の条件を備えています。当時の社会情勢から判断して松山城鉢形城とを繋ぐ軍事上の重要拠点の一つであったと考えられます。築城年代や城主名等に不明な点も多いですが、地元では松山城主上田氏の家臣・杉山(庄)主水の居城と伝えています。この城跡はすべて私有地であり地権者のご理解とご協力によって公開されているものです。文化財保護にご理解いただき利用、見学をしていただくようお願いいたします。(嵐山町教育委員会)

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本郭北虎口
北方面の虎口は強力な横矢掛りに守られています。南西の井戸跡方面から帯郭を登り進んできた敵は大きく廻りこまなければ本郭に侵入できないよう工夫されています。虎口の前は小さな平場(虎口受けと言います)が見られます(案内板)


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北二の郭               北三の郭

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北二の郭先から望む北側の景観です

by Twalking | 2018-01-23 13:37 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(9)鳩山~嵐山03-菅谷   

日時 2018.1.10(水)
天気 晴れ


街道を後にして畠山重忠の居館と伝わる「菅谷館跡」と
歴史の資料館を訪ね、その足で鎌形へ行ってみました。

館跡の現在の形は戦国時代に整備・改築されたものですが、
保存状態もよく、見応えのある一級の中世城郭遺構です。
伝承を裏付けるものや後北条氏関連の出土があるといいですね。


・・・菅谷

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街道の風景① 左岸の河岸段丘をのぼります、あの尾根を越えてきたんですね/蛇坂

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254号BP手前を左折               横断して台地上へ

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蛇坂の水神塔
時代:江戸時代 規模:高さ110cm
水神塔は水源や溜池、水路、川の堤などの水辺に建てられ、湧水の安定、利水や水路の保護、水難除けや洪水防護など水に関わる様々な目的により造られる。この水神塔は表面に「水神塔」と篆書体(てんしょ)で刻字されている。造立年代は裏面の碑文に文化51808)とあり、杉山・太郎丸・川島・志賀・広野・越畑・菅谷(現嵐山町)水房・和泉・中尾(現滑川町)の10ヶ村30数名の人名が記されている。ここから約600m下流の東松山市上唐子(月田橋畔)にも水神塔があり、碑文名には「筏連中」と刻まれ、千手堂・遠山(現嵐山町)と都幾川右岸の村々17ヶ村の筏師名が記されている。江戸時代の比企丘陵はが多く繁っており、農閑期には農家の副業として伐られた赤松がに組まれ建築・土木用材として都幾川水運により大都市江戸へと送られていた。蛇坂の水神塔もこうした都幾川の水運に関係した人々によって安全祈願の目的で造立されたものとみられ、町の近世史あ民俗史の一端を知る資料である。(嵐山町教育委員会)

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街道の風景② 宅地化されていますが一帯が菅谷原でしょうか?左手に覆屋があります(後で調べたら五輪塔が置かれている所でした)/菅谷

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須賀谷原遺跡
遺跡は国立女性教育観の国道254バイパスを挟んだ北側にありました。平成12年の発掘調査では鎌倉時代道路遺跡とともに戦国時代250基はど発見されています。出土した五輪塔や土器から15世紀後半から16世紀前半にかけての遺跡であることがわかりました。墓域であった処を一度片づけて塚を作り、塚の周りに新たに墓を作っていました。遺跡の年代が長享2年(1488)の須賀谷原合戦の時期と重なり、遺跡の位置からこの合戦との関連性が推測できます。なお、遺跡は工事によりなくなりましたが、出土した五輪塔が現地の覆屋に安置され見ることができます。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)

須賀谷原合戦

関東における15世紀後半の戦国時代では、関東管領上杉氏扇谷家山内家に分かれて対立しこれに古河公方を交えて三つ巴の抗争を深めていました。鎌形城の山内上杉氏とそれに対立する扇谷上杉氏の抗争は長淳2148825日に相模の実蒔合戦(神奈川県厚木市・伊勢原市)で幕を開け、618日に須賀谷原合戦に至っています。このとき主家の扇谷上杉氏に誅殺された太田道灌の子大田資康は山内上杉氏につき平沢寺に陣を張りました。合戦は死者七百余、馬亦数百匹倒れるという激戦でした。戦は当初優勢であった山内方を、古河公方を味方につけた扇谷方が押し返し、勝敗がつかないまま山内方が退いたとされています。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)

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街道の風景③ この辺りから先が菅谷宿でしょうか、資料館&鎌形(前掲)へ寄り道します/武蔵嵐山駅東

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菅谷神社鳥居/菅谷

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菅谷神社
祭神 大山咋命 保食命 菅原朝臣道真公命 須佐之男命 畠山重忠命
由緒 
本社大山咋命は元日枝神社なり、是は畠山重忠年17才にして治承410月武蔵国長井の渡しの頼朝の御陣所に参し、頼朝公に属して先鋒の将となり各地の戦争に大に軍功あって此の菅谷の地を賜り依て、此に新城を築き居住となし、武運長久の守護神として近江国日吉山に鎮座なす(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此の御分霊は日本国中、即ち三府弐拾県の内に五百社之あり其の一社の内の御分社)日吉山王権現の御分霊を畠山重忠請願に依建久元年919日に奉遷勧請す、故に日吉山王大権現と称せしを、明治4年神社取調の節村社に列せられ社号を日枝神社と改称す。是より本社境内に須賀神社及秩父神社の二社ありしを以て左に列記す。須佐之男命は須賀神社と称して創立不詳なれども本村成立と同時に勧請せしものと伝う(説明板)

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嵐山町菅谷神社社叢ふるさとの森
身近な緑が姿を消しつつあるなかで埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り次代に伝えようと、四季折々の風情に富んだ菅谷神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。この神社は源頼朝公に菅谷の地を賜った畠山重忠公が、武運長久の守護神として近江国日吉山の日吉山王権現の御分霊を請願して、建久元年(1190)に日吉山王大権現として奉還勧請し、明治期になって日枝神社さらには菅谷神社と改称されたものです。社の周囲はスギ林で、四季をとおして人々の憩いの場として親しまれていますがこの中でもひときわ大きなスギの御神木は町の保護樹木にも指定されています。(埼玉県・嵐山町)

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神社の向いは菅谷公園、厳島神社が祀られていますが


・・・菅谷館跡/菅谷

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国指定史跡・菅谷館跡測量図/ガイドブック「菅谷館跡」(埼玉県立嵐山歴史の博物館)

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国指定史跡・菅谷館跡
菅谷館は鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が文治2年(1187)までには住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。文久2年(1205)武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」に書かれています。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると長淳2年(1488)に山内上杉氏と扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、戦死者700人、馬は数百匹倒れたと記されこの菅谷城付近で激しい戦いがあったことを伝えています。現在の遺構は本郭・二ノ郭・三ノ郭などとそれらを防御する土塁・空堀などからなり、このような姿になったのは戦国時代のことと考えられます。昭和48年(19735月、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ城館跡として国の史跡に指定され、平成20年(20083月に比企城館跡菅谷館跡と名称が変更されました。(埼玉県教育委員会)

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搦手門跡(二重土塁と泥田堀)
目の前にあるわずかな高まりは発掘調査によって土塁であることがわかりました。この土塁は後の高い土塁と合わせて二重の土塁となっています。また現在バイパスの敷地となっている部分は自然の谷を利用してつくった泥田堀で、菅谷館跡の外堀の役目をしていたと考えられます(説明板)

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二ノ郭
二ノ郭は本郭の北側と西側を本郭を囲むように配置されています。三ノ郭とは堀と高さ3.5m~6mもある土塁によって隔てられています(説明板)

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二ノ郭・本郭の土塁          二ノ郭・三ノ郭の土塁

出枡形土塁(本郭)
出枡形土塁は本郭を取り巻く土塁の一部を枡形に飛び出させたものです。本郭に入る敵に「横矢」をかける構造となっています。(菅谷城館跡見て歩きガイド)


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復元建物跡              菅谷館ジオラマ

建物跡(三ノ郭/歴史の博物館前)発掘調査で確認された柱穴をもとに復元しています。椅子のように見える杭は柱を表現しています。少し離れて見える穴は井戸跡を表しています。(菅谷城館跡見て歩きガイド)

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畠山重忠像(二ノ郭)
昭和4年に地元の有志の方々が作りました。竹を芯にした「竹筋コンクリート」製です。直垂をまとい烏帽子をつけた重忠像は鎌倉の方を向い立っています(菅谷城館跡見て歩きガイド)

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本郭
本郭は東西約150m、南北約60mの長方形をしています。四方を深い堀と土塁に囲まれ、出入り口も狭く容易に郭内に侵入できないように工夫されています。地元の伝承ではここに畠山重忠の館があったと伝えられています。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)

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生門跡(本郭/写真正面)
本郭は東西150m、南北60mの長方形をしており、約9千m2の広さがあります。東側の土塁は一部切れており、生門と伝えられ本郭の出入り口のひとつです(菅谷城館跡見て歩きガイド)

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三ノ郭
三ノ郭は東西約260m、南北約130mの長方形をしています。館の北端に位置し5つの郭の中で一番広い面積を占めています。この郭は外からの侵入を防ぐため「折」や「出枡形土塁」などを多用し防備を厳重にしています。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)


正坫門跡(蔀土塁・三ノ郭 写真左)
蔀(しとみ)とはついたてのことで、蔀土塁は目隠しのための土塁です。蔀土塁は形や周辺の遺跡の状況(古墳群が周囲にあること)から円墳を利用している可能性があります。(菅谷城館跡見て歩きガイド)

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正坫門(しょうてん)と木橋
ここは三ノ郭の出入り口で正坫門と呼ばれ幅が約5間(9m)あります。発掘調査で結果、西ノ郭より1m高く盛土されていたことがわかりました。この盛土は西ノ郭へ渡した木橋に傾斜をつけ、敵軍の侵入を困難にするよう工夫したものと思われます。調査によって堀の中段から木橋の橋脚を立てたと思われる石積みが検出されましたが、現在の橋はそれを基に推定復元したものです。しかし、実際の橋がどのようなものであったかはわかりません。(説明板)

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西ノ郭

西ノ郭は東西約130m、南北約70mの長方形をしています。館の北西部に位置し、北から南にかけてゆるくわずかに傾斜しています。ここは大手門と伝えられる虎口跡があり、館の玄関にあたる場所であったと考えられます。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)

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南ノ郭
南ノ郭は東西約110m、南北約30mの長方形をしています。館の南部に位置し、都幾川の崖上に造られた小さな郭です。この郭は対岸から敵の侵入を防ぐための役割をしていたと考えられます。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)


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館跡の南側に「蝶の里公園」がありますがここもいいですね~ 

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古道のような散策路           県道を二瀬橋へ

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川の風景① 下流側です、左岸が「菅谷館跡」のある段丘涯になります/二瀬橋

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川の風景② 上流側、大平山の麓(嵐山渓谷)から槻川が合わせます。都幾川は左から大きく蛇行して流れますが、上流が鎌形八幡神社(前掲)になります/二瀬橋

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二瀬橋                 右岸の桜堤

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右岸・鎌形の田園風景/千騎沢橋

鎌形の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/26353632/


・・・嵐山渓谷


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川の風景③ 散策したかったんですが時間切れ、折よくバスが来たのでの嵐山駅へ向かいました/槻川橋

槻川
(つきかわ)

埼玉県西部を流れる荒川水系の一級河川で都幾川最大の支流である。支流の兜川と共に入間川流域では最も北側を流れる。東秩父村白石地区堂平山付近に源を発する。「新編武蔵」によると源流点に欅(槻)の大木があったのでこの名がある。外秩父山地に平行して北流、坂本地区で支流の大内沢川を合流する辺りより流れを東南東方向から東方向に向きを変える。小川町腰越地区へ入り南から北へヘアピンカーブ状に穿入蛇行しながら小川盆地へ、兜川と合流し次第に狭窄な地形となり谷底平野を大きく蛇行する。太平山の麓では南へ北へヘアピンカーブを描くように曲流し、長瀞の様な結晶片岩の岩畳を縫って流れる渓谷の様相を見せる。この付近の槻川は嵐山渓谷と呼ばれる景勝地、渓谷を抜けると東へ直線的に流れ嵐山町鎌形都幾川の左岸に合流する。Wikipedia


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嵐山渓谷
埼玉県を代表する景勝地のひとつ『武蔵嵐山渓谷』は岩畳と槻川の清流・周囲の木々が織り成すみごとな景観と豊かな自然環境をもった嵐山町の宝です。槻川は外秩父山地の堂平山中にある自然林に端を発し、東秩父の山間を抜け小川町を経て嵐山町の遠山地区に流れ込みます。ここで岩場によって流路を狭められ都幾川と合流する二瀬の手前までが渓谷となっています。また大平山から伸びた細原と呼ばれる部分では流路が大きく180度転じて半島状の独特な地形をつくりだしています。

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地名の由来
武蔵嵐山渓谷はその地形的な特徴から秩父の長瀞岩畳に例えて「武蔵長瀞」と呼ばれていたこともあるようです。現在使われている「武蔵嵐山」は昭和3年に当地を訪れた本多静六林学博士により名付けられたものです。本多博士は渓谷の最下流部にある槻川橋より渓谷と周囲の赤松林の美しい景観を眺め、その様子が京都の「嵐山(あらしやま)」に大変よく似ているということで「武蔵国の嵐山」という意味で命名されたということです。この地名は後に当町の町名にも採用され「嵐山町(らんざんまち)」となりました。渓谷の半島部分にはそのことを記念する「嵐山町名発祥之地」が建立されています。(嵐山町HP)

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鎌倉街道上道(鳩山~嵐山)ルート図
(赤:鎌倉街道 青:都幾川・槻川 赤丸:笛吹峠・将軍沢・大蔵館・菅谷館・鎌形)


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資料ファイル


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「菅谷館跡」の位置と歴史
現在の菅谷館跡の構造は約13万m2の広大な面積を持つ戦国時代複郭式平城です。菅谷館跡が造られた台地は南側に都幾川の浸食によりできた崖、東側と西側には台地に直行する深い浸食谷が入り、城は地形を巧みに利用した複雑な縄張りになっています。鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」には畠山重忠が文治3年(1187)に武蔵国菅谷館に引きこもったことや、元久2年(1205)に「小衾郡菅谷館」を出立して二俣川(横浜市鶴見区)で討ち取られたことなどが記録されています。この「菅谷館」は菅谷館跡のことと考えられています。現時点では菅谷館跡を畠山重忠の館と断定できる明確な根拠はありませんが、南を流れる都幾川の対岸の大倉地区や菅谷館跡から2kmほど西にある平沢寺など、重忠の祖である秩父平氏ゆかりの遺跡が周辺に出土するなど周辺遺跡の状況は菅谷館跡に重忠が居住していた可能性を示唆しています。
長享2年(14886月、関東管領山内上杉顕定と扇谷上杉定正の対立から、菅谷館跡周辺(今の嵐山町菅谷から平沢あたり)で須賀谷原合戦がおきます。この時山内上杉方の大田資康陣営を訪問した僧侶万里集九は「梅花無尽蔵」の中で『618日、須賀谷原で両上杉氏が戦い死者700人余り、馬もまた数百匹死んだ』と激しい戦いであったことを記しています。さらに同じ頃に僧侶松陰によって書かれた「松陰私語」には『河越(城)に対し須賀谷旧城(菅谷館跡のことか)を再興せよ』や『須賀谷(城)を堅固に再興せよ』と主君に進言したことが書かれています。発掘調査では15世紀後半から16世紀前半の遺物がまとまって出土しており、合戦同じ時期の遺物です。当時の城主が誰なのかは明らかではありまえんが、江戸時代初めに作られた菅谷館の城絵図の中に『上杉管領居城由』という記述がみられることから『上杉管領』すなわち関東管領山内上杉氏が城主であったと思われます。このようなことから合戦が繰り返された15世紀後半山内上杉氏によって改修され、今のような姿になった可能性が高いと考えられます。(ガイドブック「菅谷館跡」/埼玉県立歴史の資料館より抜粋)


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畠山氏(平姓)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国で勢力を張った豪族。秩父氏の一族で『平家物語』にもその活躍が描かれている。畠山重忠の代に最盛期を築いたが、鎌倉幕府の内部抗争で北条時政の策謀により滅ぼされた。その後、足利義純が畠山姓の名跡を継いだが、これが三管領家として名を連ねる家柄となった源姓畠山氏である。
秩父重綱
の息子・重弘は長男であるにもかかわらず秩父氏の家督を継ぐことはなく、である重隆が継いだ。重弘の長男・重能は武蔵国男衾郡畠山郷にて畠山氏を称したが、これが平姓畠山氏の始まりである。有重小山田氏を称し、妹は千葉常胤(つねたね)に嫁いでいる。本来ならば嫡流であるはずなのに、惣領の地位が叔父の重隆に握られていることに重能は不満を感じていたらしく、大蔵合戦源義平の軍勢に従い叔父重隆を滅ぼす。この時、重能は重隆の娘婿である源義賢の遺児駒王丸(のちの木曽義仲)の命を救っている。惣領を巡る争いは後々まで尾を引き結果的には秩父氏衰退の遠因となった。
1180年に源頼朝が挙兵すると重能の息子・重忠は本家の河越重頼に従って頼朝追討軍に参加したが、後に服属した。そして、重忠の代に畠山氏は大躍進を遂げることとなる。即ち、重忠は頼朝の平家討伐、奥州合戦で功を立てたばかりではなく、本家の河越重頼・重房が粛清された後、秩父氏惣領の座も得たのである。かくして重忠は武士の鑑と称えられることとなった。重忠は正室に北条時政の六女を迎えている。しかし、重忠の名声を北条時政及びその妻である牧の方は妬ましく思い潰そうとした。1205年に重忠の従兄弟である稲毛重成・
榛谷 重朝を抱き込み、最初に重忠の嫡男重保を血祭りに挙げた。重忠も息子の重秀と共に武蔵国二俣川で討ち死にした(畠山重忠の乱)。稲毛・榛谷一族も後に滅ぼされ平姓畠山氏嫡流滅亡した。重忠の遺児・重慶も後に粛清された。畠山の姓は足利義純が継承している。Wikipedia
系図:
ガイドブック「菅谷館跡」/埼玉県立歴史の資料館より抜粋)

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by Twalking | 2018-01-18 19:57 | 鎌倉街道(新規)