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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:鎌倉街道(新規)( 72 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(3)西板橋~岩淵02-赤羽台   

日時 2019.5.30(木)
天気 晴れ


北区に入ると大きな団地群になります。
街道の面影はありませんが、この一帯は古墳があり、
また、緑道に「軍都・赤羽」の歴史が垣間見れます。

基本的には平坦な台地ですが所々にスリバチ地形が
見られ、地形的には面白いと思います。
宝幢院前で東回りとの合流を確認し、志茂へ寄ってみました。



・・・桐が丘/北区


北区の北西部に位置し、北は赤羽北、東は赤羽台、南は赤羽西、西は板橋区小豆沢と接している。桐ヶ丘の大半に都営住宅が建設されており「マンモス団地」の様相を呈している(Wikipedia

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街道の風景① 北区に入ります、環七先で消えた道はここに出てくるようです/赤羽西

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直進が「板橋街道」のようです     福寿通り都道445号)に合流します

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広稲荷鳥居/桐が丘

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末廣稲荷大明神の歴史
末廣稲荷大明神は明治中期の頃より旧陸軍の用地であった当地に鎮座され、火薬庫の火防稲荷として敬われ、戦後引揚者、戦災者の皆さんが寮として改造された赤羽郷に入居、愈々住民が敬神の念を集めて毎年春、秋2回有志の人達が祭事を行っており、たまたま都の住宅局の用地計画に伴いその境内を狭められました。昭和489月都議会議員のあびこ清水先生のご協力を得て、都から助成金を頂き当時E地区自治会や地元の皆さんのご協力に依り現在の地に鎮座されました。(石碑文)

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街道の風景② 改良された道ですが緩やかに上っています/福寿通り

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富士見坂標柱             団地群/善徳寺前

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富士見坂
この坂を富士見坂という。このあたり昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊暦雑記」には『左右只渺茫(ただびょうぼう)たる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る、比景望又いうべき様なし』と記されている。かつてこの近くに周囲500余mといわれる大塚古墳(円墳)があったがいまは見られない。(案内板)(写真:案内版にある大塚古墳のスケッチですが、古墳の詳細は分りません)

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大恩寺山門/赤羽西

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大恩寺
寛永61629)に現在の文京区向丘に創建されましたが、関東大震災による被害のため大正145月、現在の場所に移りました。境内は石造りを基調として屋内に墓所を設けるなど整然とした造りの都市型寺院です。中国の自然石で作られた三十三観音、山門の仁王像、自動車供養ができる人動車観音、日本最大の木彫水子観音や琵琶を持った美しいブロンズ製の弁財天など数多くの仏像がきれいにまつられています。北区景観百選にも選定されています。(歩きたくなるまち-北区)

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善徳寺山門/赤羽西

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善徳寺
善徳寺は関東大震災のあと浅草よりこの地に移転してきました。この寺には「お竹如来」の墓があります。この墓は江戸大伝馬町の佐久間家のお屋敷にいた「お竹さん」という女中さんを供養したものです。「お竹さん」は大変情に厚い人で人々から「生き仏様」といわれていました。

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ある日、一人の行者が夢のお告げを受けて「生身の大日如来にあいたい」とお竹さんのもとを訪ね拝んだところ、お竹さんから後光がさしました。佐久間家ではお竹さんに庵を造り庵主にすえました。徳川五代将軍綱吉の母がこの話に感動し女性の鑑(かがみ)としてほめたたえたということです。また、江戸時代、御伝馬役を代々引き継いだ馬込家の墓もあります。(歩きたくなるまち-北区)

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馬込家墓
善徳寺の墓域内には江戸時代、大伝馬町御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があります。御伝馬役とは江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が5街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にあたる名主家とともに名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見が許されていました。馬込家は遠江国敷地郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由と称していました。馬込という家名は元和元年(16155月、大坂落城の後、浜松宿馬込橋まで徳川家康を迎えた時500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため昭和219274月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。(北区教育委員会)

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街道の風景③ 地元では「トロッコ道」と呼んでいるそうですが、貨物線跡の緑道です/赤羽緑道公園

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赤羽緑道公園
赤羽駅西口方面から赤羽自然観察公園方面へと続く細長い公園です。廃線となった軍用貨物の線路跡を利用して作られました。線路にちなみ赤羽保健所通りに架かる橋の欄干には車輪のデザインがほどこされています。(北区HP)

貨物線(
陸軍兵器補給廠専用線)
軍用貨物を赤羽駅に運ぶための貨物線があった。現在、赤羽自然観察公園から赤羽駅の近くまでの間は、赤羽緑道公園として、線路の柄のタイルを敷き詰めて維持されている。(Wikipedia

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東京兵器補給廠(TOD
東京都北部(北区・板橋区)の板橋・十条・王子・赤羽近辺のアメリカ軍によって接収された旧軍用地である。東京兵器補給廠地区及び東京造兵廠地区、また各地区はさらに複数の地区に分かれる。東京兵器補給廠地区は1958陸上自衛隊十条駐屯地に、東京造兵廠地区は1971年に返還された。TOD 3地区:赤羽ハイツ(米軍住宅)が設置された。戦前の陸軍被服本返還後、公団赤羽台団地、赤羽台中学校、赤羽台西小、赤羽台東小となった。(Wikipedia


・・・赤羽台


北区の北西部に位置する。北で赤羽北、東で赤羽、南で赤羽西、西で桐ヶ丘と接する。北区北部を流れる新河岸川の河岸段丘上に位置しており、町域の北部と南部とで高低差がある。東辺をJRの鉄道路線が南北に走り、赤羽台三・四丁目付近で宇都宮線・高崎線・京浜東北線と埼京線・上越・東北新幹線の路線が分岐している(Wikipedia


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街道の風景④ バス通りは八幡神社へ出ますので、信号を右折し団地内道路へ向かいます

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法善寺山門/赤羽台

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法善寺
浄土真宗東本願寺派赤羽山法善寺。法善寺の由来は佐々木六角刑部少輔久綱3世の孫・野村越中守高勝の2男・次郎高就慶長41599)に三河の国の真宗有力寺院であった佐々木上宮寺の弟子となり了賢と称し、同14年江戸に出府し法善寺の前身寛慶山常福寺を建立したことに始まる。寛永10年(1633)には了賢師の嫡子浄賢師が本願寺より法善寺の寺号を授かり神田に寺所を定める。明暦31657)通称ふりそで大火で類焼。同じく類焼した神田明神下にあった本願寺別院が幕府より浅草の土地を寄進され再建されたのに伴い同敷地内に法善寺を移転。明和9年類焼。文化3年類焼。文化9年(1812)大火災を避けるため本願寺から離れ寺所を浅草清島町(現東上野6丁目、龍飛山法善寺の現在地)に移転する。

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16世理賢師(当山開基)の時、東京市(当時)の市区改正計画のため浅草からの移転を余儀なくされ大正10年(1921)に赤羽に土地を求めた(現北中学校の一部)ところ、同12年の関東大震災で市区改正計画は変更され浅草法善寺はその地に残ることとなる。赤羽の寺所は昭和3年(1928)に陸軍弾薬庫の拡張のため陸軍被服廠の土地であった現在地に再度移転。仮本堂を設け赤羽法善寺が始まる。昭和34年真宗大谷派に加盟。昭和47年現本堂落成。昭和58年真宗大谷派から独立。昭和63年東京本願寺を本寺とする浄土真宗東本願寺派設立に伴い同派に加盟。現在に至る。(境内掲示板)

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街道の風景⑤ 赤羽団地内に「道合遺跡」の説明板があります

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道合遺跡
ここは平成191月から平成205月までの期間、既存棟物解体と平行して下図の全面発掘調査が行われました。「道合」の由来はこの場所の旧い小字名にちなんだものです。周辺にはこの遺跡以外にも「赤羽上ノ台」「ミタマ古墳」「天王塚古墳」「大六天」の遺跡があります。(写真:道合遺跡各時代の住居跡分布)

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縄文時代
前期前半(約6000年前)の住居跡10がみつかりました。覆土中の貝層ブロック、陥穴土杭(おとしあなどこう)、墓墳(ぼこう)等があります。遺物は早期~後期の土器・石器が出土、前期が主体です。(写真:縄文時代の前期貝塚)


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弥生時代
本遺構の主体となる時期です。後期~後半(約1800年前)の集落で、148住居跡がみつかっています。中葉期では楕円形で67mの大形のものと34m小形のものがあります。後半では偶丸方形で34mのものが主体となります。(写真:弥生時代の住居跡)

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古墳時代
後期(約1500年前)の住居跡が調査区東側に6みつかっています。住居跡は正方形で北側にカマド、南側に張り出しの貯蔵穴があります。一辺8mの大形のものが3軒みつかっています。遺物は貯蔵庵穴を中心に須恵器、土師器が出土しています。(写真:古墳時代の住居跡)

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街道の風景⑥ うつり坂を赤羽へ下ります、左手は東洋大赤羽台Cです

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うつり坂
赤羽台東小学校の北にあるこの坂は旧板橋街道の坂道の一つです。大正8(1919)旧陸軍被服本廠(ほんしょう)が赤羽に移転すると、被服本廠通用門への坂となり、関係者以外の通行は出来なくなってしまいましたが、戦後、被服本廠の跡地に赤羽台団地が出来たため、元の坂道となりました。かつて坂の上には道祖神(どうそじん)、庚申塔(こうしんとう)がありましたが、現在は団地内に移され、祀られています。(標柱)

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坂下の庚申堂              JRを潜ります

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街道の風景⑦宝幢院(ほうどういん)門前で中道・東回りと合流し、岩淵宿へ向かいます/赤羽

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宝幢院前の道標
門に向かって右側の道標は江戸時代の中期、元文5174012月に了運という僧侶によって造立されたものです。宝幢院の前は板橋道日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道日光岩槻道」・「西 西国富士道板橋道」・「南江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は岩淵宿から川口へと船で渡り鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光のある日光に社参するための専用の道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は西国へと向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口へと向かう富士道へ通じていました。道標は各々の方向からきた人々がまず自分の歩いてきた道を確認し、つぎにこれから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。(北区教育委員会)

鎌倉道中道(東)-岩淵の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27569378/


・・・志茂/北区

北区の北東部北東端にあたり隅田川西岸低地に位置する。町域北部に岩淵水門がありその付近で荒川から隅田川が分流し、また新河岸川が隅田川に合流する。町域の北は東京都・埼玉県境をなし、東は隅田川が北区・足立区の区境をなす。江戸時代は豊島郡岩淵領下村。(Wikipedia

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街道の風景⑧ 前回寄れなかったので、岩淵から隅田川沿いに志茂へ行ってみました/熊野神社前

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熊野神社鳥居/志茂

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熊野神社
御祭神:伊邪那岐神(いざなぎのかみ)伊邪那美神(いざなみのかみ)事解之男神(ことさかのおのかみ)
当社の創建については明らかではありませんが、別当寺である西蓮寺鐘銘に「正和壬子年八月先師淳慶阿闍梨従紀州奉勤請熊野三社権現為郷鎮守」とした旨が彫られています。当時の西蓮寺住職・淳慶阿闍梨(じゅんけいあじゃり)が紀州(和歌山県及び三重県の一部)より熊野三社権現を勧請して正和元年1312年)8月に下村(現在の志茂)の鎮守としたと記されています。

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毎年27日には全国でも珍しい白酒祭りが行われます。なお、現在の社殿は明治百年記念事業として昭和43年に改築竣工したものです。(末社)阿夫利神社 御祭神:大山津見神 (おおやまつみのかみ) 浅間神社 御祭神:木花之佐久夜毘賣神 (このはなのさくやびめのかみ) 大六天神社 御祭神:於母陀流神 (おもだるのかみ) 十二社神社 御祭神:速玉之男神 (はやたまのおのかみ)(境内掲示板)

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阿夫利神社社殿(熊野神社旧本殿)
今では阿夫利神社社として多くの人が参拝に訪れるこの社殿は、元は熊野神社本殿として使われていたものです。熊野神社は正和元年(1212)に和歌山の熊野からこの地に熊野三社権現を勧請したことが創建と伝わっています。昭和43(1968)に熊野神社の社殿が建て替えられる際に、本殿の社をここに移したもので、現在、この社殿には阿夫利神社の他、浅間神社・大六天神社・十二社神社が併せて祀られています。社殿の建築材には年輪の詰んだ良質の檜と欅とが用いられ、蟇股(かえるまた)や木鼻など、部材の各所の彫刻には江戸時代後期の様式の特徴もみられます。高欄の擬宝珠金物に「文政五年壬午歳五月」の印刻も確認できることから、成熟した規矩術に則って建立された近世社寺建築であることがわかります。

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阿夫利神社の由来は定かではありませんが、元は橋戸子育地蔵の裏手(現志茂三・四丁目の境)に祀られていたものが、昭和に入り熊野神社境内に移されたものです。かつてこの辺りでは、毎年57日に旧下村の若い衆が集まって万垢離あるいは祈祷垢離などと呼ばれる行事行していました。数百本もの御幣をした竹柱(ボンデンまたはボンゼンといわれました)を作り、これを担いで「阿夫利権現六根清浄」と唱えながら荒川で水垢離した後、村内を練り歩き、氏子挿してある御幣を配りました。『北豊島郡神社誌』(昭和六年)より熊野神社 北区有形文化財(北区教育委員会)


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熊野神社の白酒祭
熊野神社境内で行われる「白酒祭」は大きく「鬼」と書かれた的に弓矢を射てその年の厄を払う行事です。もともとは正月7
日の行事として行われていましたが、現在は毎年27日に行われています。祭りの名前はこの行事に合わせて白酒を造り祭礼日にふるまったことに由来します。弓を射るときは最初の一本を捨て矢として、わざと的からはずす慣わしになっています。以前は、行事で使う弓と矢は竹と桃の木で毎年自作し、終わった後に縁起物として持ち帰っていましたが、現在は既成のものを使っています。また、白酒ではなく甘酒などがふるまわれます。(北区の歴史と文化財)


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西蓮寺山門/志茂

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西蓮寺
新義真言宗川口錫杖寺末寺『武州豊島郡岩淵之内下村・・・岩淵之内下村之鎮守熊野権現に而御座候・・・別当西蓮寺本尊太子之御作之阿弥陀尊に毘沙門雲慶之作・・・』(岩淵町郷土誌)これは貞享元年に西蓮寺および下村の名主、年寄、組頭の連名で寺社奉行宛に提出した朱印下附願状の一部です。貞享元年は西暦1684年、5代将軍綱吉が在職していた時にあたります。西蓮寺は真言宗智山派、本尊は聖徳太子作と伝える阿弥陀如来像、ほかに運慶作と伝える毘沙門天像(寺宝)、熊野神社の神体であった三体仏、付近にあって廃寺となった末寺三ヶ寺の本尊が安置されています。廃寺となった末寺は地蔵院、満願寺、観音寺で、本尊はそれぞれ地蔵菩薩、薬師如来、観音菩薩、いずれも下村内にありました(岩淵町郷土誌)この寺の創建年代は不詳ですが、中興第2世長慶の墓碑に文明2928日とありますので(岩淵町郷土誌)それ以前の創建と推定されます。文明2年は西暦1470年、戦国時代のはじめ頃にあたり京都では応仁の大乱が続いていました。境内には十余基の板碑があり、その最古のものは弘安9の銘をもったものです。弘安9年は西暦1286年、鎌倉時代、2度目の蒙古来襲(弘安の役)の5年後にあたります。板碑というのは供養塔の一種です。弘安9年の板碑は前述の満願寺跡にあったものが(岩淵町郷土誌)後、この寺に移されたものです。この寺には文久2年(1862年)寺子屋が開かれました。この寺子屋は明治8年現在男子生徒42名、女子生徒18名で、明治35年明和小学校に合併しました。明和小学校は同37年岩淵尋常高等小学校(現在の岩淵小学校の前身)の下分教場となりました。(北区文化財案内)

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西蓮寺の木造阿弥陀如来坐像
西蓮寺は弘安10(1287)に没した法印淳慶が開基とされる中世期創建の古刹で、阿弥陀如来坐像を本尊として安置しています。阿弥陀如来とは西方極楽浄土にあって往生を願う人々を浄土へと迎え入れる仏です。西蓮寺の木造阿弥陀如来坐像は高さ53.5cm、光背・台座を含めると総高約1.3mです。材質は檜材で本格的な寄木造の工法がとられています。像全体は漆箔仕上げで、頭部は群青彩に塗られ、頭部にある肉髻珠や額にある白毫および玉眼は水晶製のものが嵌め込まれています。像は右足を上にした結跏趺坐の座り方で、両手は衆生を浄土へ迎え入れるための来迎印を結んでいます。均整のとれた体躯や浅く控えめな衣文には平安時代後期の「定朝様」と呼ばれる仏像彫刻の作風がみられますが、引きしまった顔立ちと胸や腹の厚みのある肉取りからは鎌倉時代初期の新しい様式が感じられます。このことから区内でも数少ない鎌倉時代初期に製作されたものといえます。本像は江戸時代と大正時代に修復がなされていましたが、平成8年(1996)に保存のための解体修復が行われ造立当時の姿をよみがえらせています。(北区の歴史と文化財)(写真は門前の石仏群です)


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西蓮寺板碑群
板碑とは石で造られた供養塔の一種で、鎌倉から戦国時化に祖先の追善供養や来世の安穏を願って建立されたものです。西蓮寺には合計11の板碑があり、2基が本堂内に保管され1基が墓地内、残りの8基が本堂の前に並んで建てられています。11基の板碑の内、造立年代のわかるものは5基あり、鎌倉時代2、室町時代3です。最も大きな弘安91286)正月晦日銘阿弥陀一尊種字板碑は、二つに割れてはいますが鎌倉時代の特徴を備えた区内でも二番目に古いものです。もとは旧末寺の満願寺にあったもので、明治8年(187511月西蓮寺に合寺されたときに移されたものと考えられます。この他の板碑も昔から西蓮寺にあったものと、比較的最近付近から移されたものとがあるようです。また、墓地の中にある文明庚子(12年・1480)九月廿八日銘の板碑は、主尊に大日如来の真言と大日経の偈を刻んだもので、当時の住職であった長慶が自分と自分の周囲の人々の来世安穏を願って生前に建てたものです。これらは皆、阿弥陀如来や密教にかかわる信仰を表現しており当時の人々の信仰のあり方の一端を示しています。(北区の歴史と文化財)


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板橋戸の子育地蔵尊/志茂
ここに安置されている四体の石造は向かって右側から①地蔵菩薩石像:江戸時代の元文3(1738)の銘があり下村の人々が建てたものです。②地蔵菩薩石像:同じく元禄13(1700)の銘があり庚申塔として下村の人々が建てたものです。③大霊(りょう:正式表記は旧漢字)権現石像:同じく元禄14(1701)の銘があり修行者が庚申塔として建てたものです。 ④地蔵菩薩石像:銘はありません。現在、志茂銀座商店会が管理しています。

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現在の志茂は江戸時代は下村でした。これは岩淵本宿川下の村の意味といわれています。また、ここは小字志茂に当たりますが、現在の志茂の文字はこの小字の文字をとったものです。土地の人々はここを橋戸と呼んでいます。子育て地蔵尊は向かって右から二番目のものをいう場合と、この4体全部をさす場合とがあります。志茂銀座商店会の道は旧奥州街道で由緒ある道です。土地の人々は子育地蔵尊を守り今日に伝えています。下村の人々は村の安全を願って建て、以来、村の人々は諸々の願い事をしいつの頃からか母親を中心に子育地蔵尊と呼ばれるようになったものと思われます。(北区の歴史と文化財)


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街道の風景⑨ 熊野神社前の道も古い道のようです、ここで122号に合流します/志茂駅付近

北本通り(国道122号)
新荒川大橋からは北本通りと呼ばれ、北区の王子駅前交差点で北東側から明治通りが合流し、終点の西巣鴨交差点まで明治通りとなる。王子駅前から飛鳥山交差点付近までは都電荒川線(東京さくらトラム)との併用軌道区間となる。飛鳥山交差点から終点までの一部は首位高中央環状線との2層構造となっている。終点の西巣鴨交差点では国道17号(白山通り・中山道)と交差し、明治通りは直進していく。(Wikipedia

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赤羽周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照(緑:鎌倉道 赤:
陸軍兵器補給廠専用線跡)

鎌倉道中道(3)01-蓮沼の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27627492/

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鎌倉道中道(西)中板橋~赤羽ルート図(緑:鎌倉道 赤:中山道 紺:石神井川)

by Twalking | 2019-06-04 19:28 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(3)西板橋~岩淵01-蓮沼   

日時 2019.5.30(木)
天気 晴れ


カラッといい風吹いてますが、暑くなりそうです。
東回りとの合流地・赤羽へ向かいます。
ここは明治の地図でも既に道は消えています。

環七と赤羽台を結んで、近い所を歩いてみました。
蓮沼駅付近で中山道と交差し、氷川神社から北へ。
台地上ですが、地形は結構複雑です。
それらしき雰囲気はありますが、どうでしょうか???



・・・中板橋/板橋区


板橋区の南東部に位置する。北端で石神井川に接する。北で石神井川を隔てて二葉町、東で栄町、南で仲町、南西で弥生町、北西で石神井川を隔てて常盤台、西で石神井川を隔てて南常盤台と隣接する。南辺を東武東上線が通じている。主に商業地域で、中板橋駅周辺部を中心に商店街を形成しているが、近年はマンションの建設も進められている。武蔵野台地成増台の高台に属する。石神井川北側の双葉町は川に向かって緩い下り勾配をなしているのに対して、南側の中板橋はほぼ平坦である。(Wikipedia

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街道の風景① 福泉寺に寄ってここからスタートです/山中橋(石神井川)

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福泉寺/中板橋

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福泉寺
宗派は曹洞宗で、自保山福泉寺と号し本尊は釈迦牟尼仏です。即萬慧忍(そくまんえにん)大和尚が寛保年間(174144)に創建したとされますが詳細な沿革は明らかではありません。昭和17(1942)11月に埼玉県坂戸町関間新田より当地に移転して来ました。門前の地蔵堂には延享3(1746)に造立された延命子育地蔵が安置されています。このお地蔵さまは昭和20年代に一時期商店街に移転され、これをきっかけに縁日が始まるなど中板橋の復興にも大きな役割を果たしました。当寺が移転して来る前、この辺りには石神井川の水を利用したプール(遊泉園)があり、その利用者のために夏期には臨時の駅が開設されました。その後 昭和8(1933)に常設となり中板橋駅が誕生しました。(板橋区教育委員会)

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延命子育地蔵
錫杖と寶珠を持ったこの地蔵尊は江戸時代の延享310月に建立され、当時から子授け学問成就等の地蔵尊として親しまれていました。昭和1711月福泉寺移転と共に埼玉県坂戸から中板橋の当寺入口に移設安置されました。以来、近隣の人々から子授け安産育児受験祈願 及び街の繁栄祈願のお地蔵さまとして大いに親しまれ、以前は九の日には縁日が開かれていました。この由緒あるお地蔵様を街の地蔵尊として大切に保存したいと思います。高さ84cm。(説明板)

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石神井川縁を山中橋へ、木陰はいいですね~!/向屋敷橋


・・・双葉町

板橋区の南東部に位置し南端で石神井川と接する。武蔵野台地成増台の高台に属するが、石神井川へ向けておおむね北から南へ緩い下り勾配をなしている。町域の北辺を環七通りが東西に通じている。神社・小学校を除きほぼ全域が住宅地となっている。(Wikipedia

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街道の風景② 振り返ると石神井川へ向かって緩やかな下りです/坂上

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環七を横断/双葉町           この先から旧道は消えています


・・・泉町

板橋区の東部に位置する。北で大原町、東で蓮沼町、南東で清水町、南で宮本、西で前野町と隣接する。
Wikipedia

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街道の風景③ 直線路はないので住宅地の道を繋いで蓮沼駅へ向かいます/富士見町


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場所は分かりにくいですが出井の泉に寄り道、崖線のスリバチ地形になっています/
出井の泉公園

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出井の泉(でいのいずみ)
板橋区泉町24に所在する泉。現在全区間暗渠化されている出井川の最大の水源だった。武蔵野台地成増台の台地に属する。前野町から泉町にかけて形成されている志村地区崖線後背部谷戸地形の東端、頭部分に相当し、首都高速道路の高架橋は谷に沿って建設されている。志村・前野町地域では急峻な高低差が見られるが、当町域では谷が浅くゆるやかな勾配地形をなしていて、谷は中山道に突き当たる部分で台地に吸収される。出井の泉公園付近は窪地で急峻な高低差が見られる。出井の泉は江戸時代には薬師の泉(小豆沢村)、見次の泉(前野村)とともに志村の名泉と呼ばれ、茶の湯や大山詣講道中の禊ぎに用いられた(Wikipedia

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これが流路でしょうか??       首都高に出ました


・・・蓮沼町


板橋区の東部に位置する。北で小豆沢、東で北区西が丘、南で清水町、西で泉町および大原町と隣接する。東辺をもって板橋区-北区境を形成する。町域は狭小で、中小の工場と住宅が混在する。西辺で国道17号(中山道)が南北に通じている。武蔵野台地成増台の高台に属する。(Wikipedia)

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街道の風景④ 首都高沿いから中山道にでました/蓮沼駅

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南蔵院山門/蓮沼町

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南蔵院
真言宗、寶勝山蓮光寺と号する。本尊は十一面観音、弘法大師がお護摩の灰をもってご自作された自像、また行基菩薩作の阿弥陀像と伝えられる各像を安置する。当寺はもと荒川の近く志村坂下に創建され、開基を新井三郎盛久の一族が戦乱を避けてここに土着し建立したという。享保7年(17228代将軍吉宗戸田川(荒川)で鷹狩りを行った時、御膳所と定めた由緒ある寺であるが、度重なる荒川の氾濫のため寺宝の一切を失ってしまった。享保91724)この水禍を避けるため氏神と共に現地丘上に移った。神仏混交の時代、この寺が別当をしていた蓮沼氷川神社を俗に「十度の宮」と呼んでいた。出水の都度流失し社殿が移動した結果の呼称である。その後、隣寺金剛院を合併し現在に至る。(板橋区教育委員会)

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不動堂
当院にお祀りする不動尊はもともとは当院の末寺であり近隣に建っていた「命王山金剛院」の本尊であった。この不動尊は蓮沼村ばかりでなく志村庄をも代表する不動尊であったことから「志村不動尊」と称され、広く人々の参詣を集めていた。昭和21927)にこの金剛院を当院が合併したときに、その御本尊を本堂ごと境内に移築したのが現在の当院の不動堂である。(南蔵院HP)

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地蔵堂
地蔵堂の御本尊は地蔵菩薩でございます。俗に歯の痛みが治る「はいた地蔵」と称されて今なお多くの信仰を集めております。地蔵菩薩は大地にまいた種が成長し収穫できるように、地中に色々なたからものを蔵し人々の役に立ち繁栄できるように、そして死んでいった後の世までも慈悲の手をたれて下さると言う人々を慈しむ心を無限にもっておられます。お地蔵様は生まれた子供を護り、寿命をのばし、若死、病難等を除いて下さるという功徳がお経に説かれております。また、当院の山門内右側にある六体のお地蔵さまは「六地蔵」と申し上げ六種に身をかえて、それぞれ六道の人々を救って下さるお地蔵様たちです。(南蔵院HP)

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南蔵院の庚申地蔵
当像は承応21653)に蓮沼村の庚申講中10人によって建立された板橋区内で現在確認されている203基の庚申塔の中でも2番目に古いものです。庚申信仰は奈良時代に日本に入ってきた中国の道教で説く「三尸(さんし)説」をもとに、仏教や神道、修験道、呪術的な医学などのさまざまな民間信仰や習俗などが融合してできあがったものです。平安時代に貴族の間で流行し、その後室町時代になると本尊を掲げて宗教儀礼を伴う庚申待が行われるようになりました。江戸時代には、庶民に広く普及し庚申塔が数多く造立されました。当像は江戸時代に地蔵が庚申信仰の礼拝対象であったことを示す代表的な例としても貴重です(板橋区HP)

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蓮沼氷川神社T鳥居/蓮沼町

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蓮沼氷川神社
当社は古来蓮沼村の鎮守で御祭神は須佐之男命と奇稲田姫命です。慶長年間1596-1615)に現さいたま市の氷川神社から蓮沼村字前沼(現在の浮間舟渡駅の西側一帯)に勧請されたのが創建と伝えられています。蓮沼村は享保年間1716-1736)に荒川氾濫の被害を受け、高台にある現在地に移動しました。その時に当社も新井三郎衛門が村人とともに、前沼から現在地に移転したといいます。また、当社の別当寺であった南蔵院も同様に移転したと伝えられています。明治7年には村社に指定されました。彼岸前の日曜日に行われる秋祭の際には湯花神楽が奉納されています。(板橋区教育委員会)

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稲荷神社               御嶽神社・榛名神社・阿夫利神社

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街道の風景⑤ 鎌倉道かは分かりませんが、区境へ通じています/氷川神社前

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二俣を左へ              区境に出ました/福寿通り手前

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いたばしまちあるきマップ(赤:歩行ルート 緑:鎌倉道・推定 橙:中山道 紫:板橋道)


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蓮沼町周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照(緑:鎌倉道・推定 橙:中山道・川越街道 青:石神井川)

鎌倉道中道(西)(2)03-上板橋の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27614727/



・・・・
資料ファイル

板橋郷

奈良時代にはこの周辺は「武蔵国豊島郡広岡郷」と呼ばれていた。広岡郷は現在の板橋区、練馬区あたりを占めるかなり広大な地域であった。歴史的な地名として平安時代末期にはすでに板橋と呼ばれる地域が武蔵国豊島郡に存在したことがわかっている。『源平盛衰記』によれば1180年(治承4年)源頼朝が下総国から武蔵国に入った際に、滝野川(石神井川)の「松橋」に陣を張ったことが記述されており、長門本『平家物語』では「たきの川いたはし」とされているため、これを板橋区は「板橋」の誤りとしている。しかし、北区ではこれを北区内にある「松橋」だと主張している。また、源義経が兄を追って挙兵した際にも足立郡小川口から板橋を経由している。さらに、戦国時代には上杉謙信が鎌倉街道(現在の東京大仏通り赤塚駅前通り)を進軍した際に通過している。これらのことから、板橋が古くから交通の要所であったことがわかる。板橋村の成立時期は不明だが、江戸時代初期にはすでに上板橋と下板橋村に分けられており、上板橋村が現在の板橋区の南西地域、下板橋村が南東地域に相当する。Wikipedia

鎌倉道中道-滝野川「松橋」の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27555687/


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板橋区
(地形)
武蔵野台地の北端と東京低地の境目にあたり、概ね北部は低地、南部は台地となっている。北で荒川、北西で白子川によって埼玉県と接する。荒川に近い北部では新河岸川が西から東に流れる。南部では石神井川が西から東に横切る。武蔵野台地荒川低地の境をなす崖線(崖地が連なる地形)が小豆沢-志村-中台-西台-赤塚にかけて区の中央部をほぼ東西に貫き、付近は高低差に富み坂道が多く作られている。前野町・中台・西台地区では若木通り尾根筋とする形ですりばち状の谷戸地形が見られ、かつては各所で地下水が湧き出ており薬師の泉(小豆沢3丁目)、出井の泉跡(泉町)などにその名残が見られる。また、見次公園(前野町4丁目)の池は自然の湧水によって形成されたものである。

地質)現在の板橋区に相当する地域はおよそ12万年前の間氷期には海面上昇により海の底にあったと考えられている。武蔵野(成増)礫層の下の東京層と言われる地層から貝化石が発掘されているが、これはおよそ15万年前のものでこの地域が当時海底であったことを物語っている。およそ10万年前から気候の寒冷化により海面が後退、陸地化が起こり武蔵野台地(成増台)の原型が形成された。その当時の武蔵野台地は古荒川や古多摩川、後に古利根川などが流れる氾濫原であったと考えられている。武蔵野(成増)礫層の砂利は当時の川が積み残した川砂利である。その後さらに寒冷化・海面後退が進行したことにより川の流れが氾濫原を掘り下げ、およそ10万年前から氷河期最盛のおよそ2万年前までの間に連続した崖地が形成された。およそ1万年前に氷河期が終わると海面がやや上昇し、崖地の下部では川から運ばれてきた堆積物が今日の荒川・新河岸川沿いの低地を形成。一方、崖地の上部には富士山などから飛来した火山灰(関東ローム層)が堆積し、今日の武蔵野台地辺縁高台地域を形成するに至ったと考えられている。(Wikipedia
(地図:デジタル標高地形図-武蔵野台地赤羽付近/国土地理院)

by Twalking | 2019-06-02 15:44 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(2)笹塚~中板橋03-上板橋   

日時 2019.5.16(木)
天気 晴れ/曇り


妙正寺川から中野・新宿境を豊島区へ向かいます。
川沿いにある哲学堂公園は緑豊かで憩えますし、
野方配水塔は近代の歴史遺産として一見価値ありです。

その先は改良されたバス通り、道も途中で消えており、
ちょっと我慢の歩行となりますが、板橋区へ入ると
川越街道の上板橋宿や中板橋周辺は面白いと思います。


・・・西落合/新宿区


新宿区の最北西部に位置する。町域北部から東部は目白通りに接しこれを境に豊島区南長崎に接している。南東部から南部一帯は新宿区中落合に、南西部は概ね妙正寺川沿いに接し中野区上高田に、西部は中野区松が丘・江古田・江原町に接している。中央部を新青梅街道が横断している。
旧地名は「葛ヶ谷」(くずがや)である。Wikipedia

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街道の風景①
坂の右手は哲学堂公園、右手に御霊神社があります/哲学堂通り

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葛ヶ谷
葛ヶ谷は1559年(永禄2年)の「小田原衆所領役帳」にも見られる古い地名であり、桂(葛)大納言・源経信住地で葛ヶ谷と言われたとされる。もっともその他にも葛ヶ谷の「葛」は「国栖」とも書き、林野に住む人の意味とする説、葛の生えている原だったから名付いたとする説、自性院中興の祖といわれる鑑秀上人の詠歌に「あさひさし ゆうひかがやく かつらがや みだのじやうどや ぢぞうかんのん」とあり、葛ヶ谷は古くは「かつらがや」と読み、それが中期以降に「くずがや」と呼ぶようになったとする説等がある。(Wikipedia


哲学堂一帯の高台は和田山ともいう。源頼朝が上総国から隅田川を渡って武蔵国に入った時、和田義盛が陣屋を設けたとの伝説がある。しかし、和田とは地名学的にみると川が曲がる所、曲がって水の淀む所という意味である。この地名は妙正寺川がこの西で北にも南にも大きく曲がっている意味を持つものである。杉並区和田や新宿区和田も同じ意味を持つものである。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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葛谷御霊神社鳥居


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葛谷御霊神社
旧葛ヶ谷村の鎮守で、祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武内宿彌の4柱である。社伝によると平安時代の前九年の役で源義家が安倍頼時討伐に行く際、京都の桂(葛)の里一族が義家に従い、常に氏神の八幡宮に勝利を祈り無事頼時を征伐した。京への帰途この一族は地形・風土の似た落合のあたりにとどまった。このためかつてこのあたりを葛ヶ谷と呼んだ。その際、勧請した八幡が葛谷御霊神社となったという。

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当社にも中井御霊神社の項で紹介した備謝祭が伝わっている。備射祭は歩射、奉射などとも書く正月の弓神事で、当社では備謝の字をあてている。江戸時代には各地でさかんに行われていたが現在、東京23区内では新宿区のニヶ所(葛谷御霊神社と中井御霊神社)と大田区東六郷の六郷神社のわずか3ヶ所に伝わっているにすぎない。(新宿区の文化財)(写真:力石)

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哲学堂公園入口

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哲学堂公園
哲学堂公園は鎌倉時代、源頼朝の重臣・和田義盛居館跡と伝えられ、妙正寺川を望む丘陵地であったことから和田山と呼ばれていました。明治39年、東洋大学の前身・哲学館の創立者・井上円了博士が哲学教育の道場としてこの地に哲学堂を創設しました。園内の建物には孔子、釈迦、ソクラテス、カントを祀る四聖堂や聖徳太子、菅原道真、荘子など東洋の六賢人を祀る三層六角の六賢台、宇宙館、絶対城と哲学と仏教の名称が付けられています。建物の周囲は樹林に囲まれ武蔵野の面影が色濃く残り、地元の人々の散策の場となっています。また、井上円了博士の墓は公園の北側蓮華寺にあります。(歴史と文化の散歩道)

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哲理門
哲学堂の正門にあたる。天狗と幽霊が傍らにあり、天狗は物質界、幽霊は精神界の象徴であるという。





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四聖堂(哲学堂)
東洋の釈迦と孔子、西洋のソクラテスとカントの四聖人が祀られている。公園の中心的な建物といえる。




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六賢台
日本の聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、インドの龍樹、迦昆羅の東洋の六人の哲人が祀られている。





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宇宙館
当地における講義室。哲学は宇宙における真理を追究する学問であるからこの名になった。




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絶対城
当地における図書館のこと。絶対的な真理に到達せんと欲するならば、万巻の書物を読み尽くすことであるという教えから、絶対城と命名された。現在は、建物が遺構として残っているだけで図書館としての機能はない。(Wikipedia

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街道の風景② 新青梅街道の先左手に野方配水塔、これは一見の価値ありです。街道は中野・新宿境を北へ向かいます/哲学堂通り

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野方配水塔/中野区江古田
野方配水塔はみずのとう公園内にある荒玉水道の給水場につくられた塔です。荒玉水道は関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため13の町村が合同で設立しました。塔の高さは33.6m、基部の直径は約18mの鉄筋コンクリート造り。設計は「近代上水道の父」と呼ばれた中島鋭治博士によるものです。着工は昭和21927)で完成は同4年。昭和41年(1966)まで使われていました。解体計画もありましたが、災害用給水槽として平成17年(2005)まで使われ、現在は国の登録文化財として大切に保存されています。ドーム型の屋根が地域の特徴ある景観をかたちづくり、江古田の水道タンク・みずの塔・給水塔などと呼ばれ、地域のランドマークとして親しまれてきた東京近郊都市化のシンボルです。(中野の歴史-まるっと中野)

妙正寺川02-哲学堂周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24154853/


・・・長崎(町)/豊島区

かつて東京府北豊島郡に存在した町の一つ。
伝承によれば鎌倉時代末期長崎氏長崎高重知行となったため、長崎と呼ばれるようになったという。しかし長崎村は周辺の地域とは異なり文書を残さず口伝でのみ情報を残してきたため確証となる文書は存在しない。室町時代の「小田原衆所領役帳」には『太田新六朗知行江戸長崎」とあり、すでにこの地名が存在し江戸衆に組み込まれていたことがわかる。古くから清戸道(現在の目白通りなど)から長橋道(現在の山手通りなど)が分岐するあたりに道の駅として椎名町という小名があった。長らく農地であったが昭和に入ってから徐々に住宅地に変貌した。Wikipedia

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街道の風景
③ 目白通りを越えると豊島区に入ります/南長崎6丁目

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清戸道(きよとみち)
主に江戸時代に江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道である。『北豊島郡誌』には清戸道の経路について「清戸道 府費支弁道 小石川区江戸川(現:文京区)より起り、本郡高田村の南部を東西に貫きて長崎村(現豊島区)に入り、同村と豊多摩郡落合村(現新宿区)との境界を劃して、上板橋村の南端(以降現練馬区)を縫ひ、進んで下練馬村と中新井村との境界に沿うて上練馬村に入り、石神井村に於て富士街道を横ぎり、大泉村の中部を貫走して北多摩郡と埼玉県北足立郡との境界に進む」と記されている。(Wikipedia

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桜並木の千川通り           西武池袋線を越えます


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千早と要町境を北へ          要町通りを横断します/要町3


・・・大谷口
(おおやぐち)/板橋区


板橋区の南部南端部に位置する。北で大谷口上町、東で大山西町、南で豊島区千川、西で向原と隣接する。町域の南辺をもって板橋区-豊島区境を形成している。町域中央を南北に縦走する都道を境界に東側に大谷口一丁目、西側に大谷口二丁目が並ぶ。1559
(永禄2年)の『小田原衆所領役帳』に初出する。『新編武蔵風土記稿』では上板橋村小名として見える。1932年(昭和7年)板橋区大谷口町となる。地名は石神井川湾曲地点地形を表したものと考えられている。(Wikipedia

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街道の風景④ 要通り先の三差路を真ん中の細道へ入ります。道は消えいますが大谷口給水所にでます/板橋高校横

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旧街道は3本の道のうち中央の板橋高校西側の細道であるが、途中で消えて、その北方お板橋十小学校東側あたりから川越街道に出る。
川越街道を越えていくと、西側には徳川家康の乗馬の轡を祀ったという轡神社がある。その北は専称寺前を通り東上線踏切を越え、賑やかな商店街を通って石神井川の山中橋に出る。この橋は旧街道に架かる大切な橋で、板の橋であったことから生まれた板橋の名は、この地方一帯の地名になった。しかし、ここに中世の板橋宿があったかどうかは分からない。しかも、軍記物に出てくる板橋という地名はこの地ではなく、北区の石神井川に架かる「松橋」と間違えられたものと思われる。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

鎌倉道-滝野川・松橋周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27555687/

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街道の風景⑤ 住宅地の道ですが、直進すると大谷口配水塔へでます。

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大谷口配水塔
板橋区大谷口にある荒玉水道の大谷口給水場に作られた配水塔である。ドイツで衛生工学を学び近代水道の礎を築いた中島鋭治博士による設計。高さ約33mの鉄筋コンクリート造の円筒の上に大小二つのドームが載る意匠を特徴とする。1931に完成し、配水塔としては1972年まで使用された。完成当時の周辺は畑田圃が多く、近隣上板橋村各戸への給水ではなく王子・滝野川方面の製紙工場への給水が主であった。「大谷口水道タンク」として板橋区の景観百選に選定されるなど地域のランドマークとして親しまれてきた。しかし、老朽化のため2005に取り壊された。跡地は給水所として再整備され、2011に配水塔の意匠継承するデザインのポンプ棟が完成した。(Wikipedia

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その先板橋十小から川越街道へ     川越街道を横断します/日大病院入口


・・・仲町
(なかちょう)


板橋区南東部に位置する。北で中板橋、東で栄町、南で大山町、西で弥生町と隣接する。町域の北辺を東武鉄道が東西に走る。(Wikipedia

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街道の風景⑥ 川越街道から中板橋へ下ります

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坂下右側に庚申塔           その先が轡神社です

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轡神社鳥居(くつわじんじゃ)/仲町

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轡神社
御祭:神倭建命。もと轡権現社と呼ばれていました。名称の由来については、この地を訪れた徳川家康の乗馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれています。江戸時代から「百日ぜき」に霊験がある神として広く信仰を集め、遠方から参拝に来る信者で賑わったといいます。信者は病気の治癒を祈るとともに、当社に奉納されている馬わらじの片方と麻をいただいて帰り、全快すると新しい馬わらじと麻を当社に奉納しました。社前の道路は、俗に鎌倉街道といわれた古道で、この道が石神井川を渡るところが本来の「板橋」という説もあります。(板橋区教育委員会)

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専称院山門/仲町


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専称院宗派は浄土宗で亀嶋山地蔵寺専称院と号し、御本尊は阿弥陀如来です。むかし鎌倉時代の武将豊島清光行基7の地蔵を作らせたという伝説があり、専称院の前身は豊島村(現北区)でそのひとつを祀る地蔵堂でした。浄土宗の専称院となったのは、宝永年間1704-1711)に豊島村民臼倉四郎右衛門の要請を受けた祐天上人によって中興され、堂宇の整備が進んでからです。荒川沿いにあったため寛政12年(1800)水害の溺死者の供養塔が建てられるなど、水難者供養寺としても有名でした。専称院が都市計画道路建設によって豊島から当地に移ったのは昭和12ころのことです。もともと当地には江戸時代初頭まで乗蓮寺があり、その後も乗蓮寺に附属する香林庵が残っていました。香林庵は明治7年(1874)に区域で初めて公立の小学校が設置された場所ともされています。(板橋区教育委員会)

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門前にお地蔵さん           専称院石造群

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街道の風景⑦ 東武東上線を渡り中板橋商店街を北へ、賑やかな商店街です/中板橋

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商店街の外れに石神井川が流れます、いい風景ですね、中板橋駅へ戻ります/山中橋

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大谷口周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照(緑:鎌倉道 橙:目白通り・川越街道 青:石神井川)

鎌倉道中道(西回り)(2)02-上高田の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27611932/

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鎌倉道中道(西周り)笹塚~中板橋ルート図(緑:鎌倉道 橙:青梅街道・川越街道 紫:推定古東海道 赤:甲州街道・中山道 紺点線:石神井川)


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資料ファイル

川越街道上板橋宿

上板橋村

かつて武蔵国豊島郡、後に東京府北豊島郡に存在した村の一つ、江戸時代初期に誕生した。歴史的な板橋のうち西側の部分に相当する。現在の国道254号(川越街道)「日大病院入口」交差点から旧川越街道の石神井川に架かる「下頭橋」にかけての地域である。板橋の地名はすでに平安時代には存在しており、江戸時代初期に上板橋村と下板橋村に分割された。江戸時代となると大半が江戸幕府の天領となり野方領に属した。川越街道(川越・児玉往還)の宿場町としては「上板橋宿」と呼ばれていたが、下板橋宿と異なり正式な村名は「上板橋村」であった。江戸側から下宿中宿上宿に分かれていたが、規模としては小さなもので問屋場や本陣などは設置されず、名主屋敷がその代わりを果たしていた。Wikipedia


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街道の風景⑧ 川越開戸から分かれ「下頭通り(旧川越街道)」を行きます/日大病院入口交差点

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下宿辺り               豊敬稲荷神社前

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豊敬稲荷神社鳥居/弥生町

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豊敬稲荷神社
抑々豊敬稲荷の建設は江戸末期から明治の初期と思はれる。當時市神様として崇められていたが、時代の変ると共に一民家の隅に遷つされていたが、福本芳太大人が當地に赴任、爾来敬神の念に厚い大人が本稲荷を発見調査の結果、この様な地に存置すべきでないと自ら土地を境内地として購入、祠宇を始め附属建物を工築し現在の地に御遷座、名稱も豊敬稲荷と命名さる。

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併而昭和28621日芳太郎大人他界の後も福本倫三氏は大人の意思を承継し、其後神輿庫の新設に伴ない祠宇の見劣は勿論破損放置は亡父の意に反すつことを痛感し祠宇の改築を計画、弟博次氏並びに役員一同と協議し一般崇敬者の協力を得て施工を加瀬工務店に委ね、昭和361月起工、爾後卓越せる技術と努力にて昭和376月竣工、同年74日の吉日を撰び境内地を含め天祖神社総代稲荷神社役員参列のもとに竣工奉祝祭を執行、後工作物及び境内地を含め天祖神社に奉献、後昭和421021日倫三氏髙井松子夫人、稲荷神社奉賛会長となり副会長及び世話人と協力を計り境内整備に力を注ぐ。今回玉垣建設も会長崇敬者に依り完成するものなり、依而後世の為に記す。天祖神社宮司小林猛男(境内石碑)

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旧上板橋宿復元之図(昭和初期)/豊敬稲荷神社境内

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旧上板橋概要図
川越街道は江戸時代に川越郷中・川越往還とも称し川越江戸を結ぶ幹線でした。また、中山道脇往還としても利用され、信州や越後からも通じていました。この弥生町の旧街道沿いは宿(上板橋宿)と呼ばれ、川越口(下頭橋)から上・中・下の三宿に分かれ、文政6年(1823)の「上板橋村地誌改書上帳」には『宿内は640間(約730m)、道幅は3間(約5.5m)』と記されています。宿の中程には名主屋敷と称する建物があって、明治の初め頃までの遺っていたようです。名主の河原与右衛門家は明治期には転居していましたが、明治期副戸長を務めた榎本家には「上板橋宿副戸長」と刻まれた石碑が現存しています。上板橋村は町場(宿)と村方に分かれ、その村方の範囲には現在の板橋区の南西部地域と練馬区の小竹・江古田も含まれ、その地域からは人馬が提供され旅客や物資の継立てを担っていました。(板橋区教育委員会)

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街道の風景⑨ この辺りが中宿でしょうか/弥生小学校入口

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下宿付近               下頭橋

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下頭橋より下流側中板橋駅方向の景観です/石神井川

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六蔵祠

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下頭橋(げとうばし)
弥生町には江戸時代の川越街道が通っています。そのうち大山町から当地までの街道沿いは上板橋宿となっていました。石神井川に架かる下頭橋は寛政101798)近隣の村々の協力を得ることで石橋に掛け替えられています。境内にある「他力善根供養」の石碑はその時に建てられたものです。

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橋の名の由来については諸説があります。一つ目は旅僧が地面に突き刺した榎に杖が、やがて芽吹き大木に成長したという「逆榎」がこの地にあったという説。二つ目は川越街道を利用する川越藩主が江戸に出府の際に、江戸屋敷の家臣がここまで来て出迎え頭を下げたからという説。三つ目は橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたという説の三つが伝わります。ここにある六蔵祠は六蔵の遺徳を讃えて建てられたものです。下頭橋と六蔵祠は昭和61年度に区記念物(史跡)に登録されました。(板橋区教育委員会)


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川越街道
江戸時代の街道で、江戸日本橋より中山道を進み、江戸四宿の1板橋宿平尾追分で分岐して川越城下に至る街道で伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」では実測、103433間半(約43km)だった。歴史)室町時代の長禄元年1457)、上杉持朝の家臣・太田道灌江戸城(千代田城)と川越城(河越城)を築き、部分的にあった古道を繋ぎ2つの城を結ぶ道を作った。古河公方に対する扇谷上杉家防衛線であった。後に豊島泰経が道灌に対抗するために練馬城を築いて江戸と河越の間の道を封鎖しようとしたために両者は激しく対立した(『太田道灌状』)。戦国時代を通じ重要な役割を果たしたが、江戸時代に入って寛永161639)に川越藩主になった松平信綱と嫡男の松平輝綱が、中山道脇往還としてさらに整備したのが川越街道である。当時は「川越道中」「川越往還」などと呼ばれ、「川越街道」と呼ばれるようになったのは明治に入ってからである。この頃の川越街道は板橋宿・平尾追分より中山道を分かれ川越城西大手門に至る道であった(ほぼ現在の旧川越街道、県道109号新座和光線)。街道には上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6ヵ宿が設置され各宿には伝馬役が置かれた。(Wikipedia)(写真:254号日大病院入口交差点)

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上板橋宿周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照(橙:旧川越街道 緑:鎌倉道 青:石神井川)

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by Twalking | 2019-05-25 13:14 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(2)笹塚~中板橋02-上高田   

日時 2019.5.16(木)
天気 晴れ/曇り

青梅街道から現在の中心部、中野へ向かいます。
旧街道が通るのは中野駅の東側なので一帯は住宅地です。
台地だと思ってましたが、以外と起伏が多いですね。

上高田の旧街道は途中で途切れますが、細路地を行くと
昔ながらの武蔵野の風景も残って一息つけます。
折角なので新井薬師に寄り、妙正寺川へ下りました。


・・・中野

中野区役所・サンプラザ・サンモール・中野ブロードウエイ・中野駅前の繁華街などがある。現在の中野区一帯は武蔵野中央に位置することから「中野」と呼ばれるようになった。こうして誕生した中野村に1889年(明治22年)に中野駅(当時の甲武鉄道)が開業したことから「中野駅前」という町丁が誕生、住居表示の際周辺とともに「中野」に改められた。(Wikipedia

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街道の風景① 桃園川低地から北へ、左手に紅葉山公園、右手に城山城跡・城山公園があります/紅葉山公園下(大久保通り)

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城山
青梅街道を越えて北に行き宮園通り(大久保通り)との十字路を右折する。谷戸山小学校西側は、町名は中野一丁目であるが通称城山といわれている。城山は太田道灌室町末期にここにを築いた所という。「武蔵名勝図会」に『天慶の乱時(940)、平将門の弟・将頼がここで藤原秀郷の子・千晴と戦い、敗れて77日に討死した』とある。あるいは「北国紀行」に出ている平重俊の館跡ではなかろうか。今は、跡は何もなくその大部分は谷戸運動公園になっている。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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城山城跡/谷戸運動公園 案内板はありますが遺構はありませんがせん

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城山
延宝3年(1675)の村の記録には「中野村のうちに900坪ほど土手を築き空堀を掘ったところがあり、これを昔より城山と伝えている。そこは、元々名主・堀江卯右衛門の先祖からの屋敷地で、いまは年貢地になり代々卯右衛門が所持しているとみえている。堀江氏は天正4年(1576)後北条氏領・中野五郷を治める小代官をつとめ、次いで豊臣秀吉の指令を受けた中野の土豪であった為、戦国期の城山は小城砦を兼ねた土豪屋敷であったことが考えられる。城山は平忠常城砦跡、或いは豊島氏と戦った太田道灌の陣地「道灌とりで」跡などともいわれている。(中野区教育委員会)

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中野長者伝説と史実
15世紀の中野周辺の領主は江戸氏の一族であった「中野氏」「阿佐ヶ谷氏」でしたが、没落が早くその事績は伝わっていません。16世紀になると小田原北条氏の支配下になります。宝仙寺には北条氏直の「朱印状」が2通残されており中野区有形文化財に指定されています。この朱印状は小代官に宛てられたもので、小代官は後に中野村の名主になる「堀江氏」です。堀江氏は越前の土豪で朝倉氏との抗争に敗れ一族は各地に拡散したといわれています。その1人である堀江兵部弘治元年(1555)に従者18人とともに中野に到着し、開拓を進め成長しました。その後小田原北条氏から小代官の任命を受け地域の土豪としての地位を固めました。堀江氏の居館は中野1丁目の区立谷戸運動公園にあった「城山居館跡」です。城山居館は土塁と堀で囲まれた典型的な中世居館で、2回の発掘調査と3回の試掘調査によって、東西約130東西約120にわたって幅約8m・高さ約2.6mの土塁と幅約7m・深さ約3mのを持つことが明らかにされています。(中野区立歴史民俗資料館館長比田井克仁/中野の歴史-まるっと中野抜粋)

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旧街道の左手の紅葉山公園、静かで憩える公園です

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紅葉山公園/中野
中野区による東京百年記念事業の一環として造られた公園で1970年に開園した。大正期には一帯が私人の所有地で、高台で紅葉が多く植えられていたことから通称「紅葉山」(もみじ山)と呼ばれていたのがそのまま公園名として採用された。戦後中野区が取得し、跡地は公園のほか公会堂や図書館(もみじ山文化センター(通称:なかのZERO)になった(Wikipedia
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城山公園 丘の中腹にあります

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東京府立農業試験所の跡
このあたりから大久保通りにおよぶ約2.7k2の一帯は、東京府が明治33年に設立した最初の府立農事試験場がおかれていました。江戸時代末頃から、豊かな経験と技術をもつ各地の「老農」と呼ばれる人たちの相互交流にたよる農業改良が行われていましたが、この農事試験場では新しい農業技術の開発やその成果を見習生の養成・講習・実施指導に生かして普及する方法をとりました。試験場の活動は国の指定補助を受けて園芸部がおこなった野菜や草花の温室による促成栽培試験などもふくめ、多くの面で東京近郊の農業技術改良に少なからぬ影響を与えました。この新しい農業の象徴ともいえる農事試験場も都市化の波におされて大正13年には立川へ移転していきました。(中野区教育委員会)

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街道の風景② 中央線を潜ります、緩やかですが坂道が多いですね/中野

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中野の歴史
今から710万年前、西は青梅、南は現在の多摩川の辺りまで一面がでした。その頃から富士山・箱根山が盛んに噴火を続けて大量の火山灰を噴き出し、噴煙は偏西風に乗って東側に流れ、細かな火山灰(関東ローム層)がはらはらと降下していました。この噴火は約12,000年前まで数万年間続いていました。1週間1か月の単位ではありません、毎日毎日火山灰は降下を続けていますので少しずつ積っていき、そして現在のように台地が出来上がったのです。一方、青梅方面から流れてきた多摩川の水は火山灰によって埋められていきますが、主な水流は密度の荒い部分を選んで現在の多摩川の流路となります。しかし、一部の水流は火山灰の中をさまよい伏流水となり地下を毛細血管のように流れているのです。これが地上に顔を出したのが湧水となります。武蔵野の三大池といわれる石神井池善福寺池井の頭池はまさに湧水の代表的なものといえましょう。これらの池から流れ出た水は台地を削り、東方向へと流れて行き、平地と谷が織なす現在の武蔵野台地が出来上がったのです。神田川桃園川の近くに来ると坂があるのはこのためです。今から20,000ほど前には現在の地形になったと考えられています。(中野区立歴史民俗資料館館長比田井克仁/中野の歴史-/まるっと中野)


・・・上高田


中野区の東部に位置する。地域の東部は妙正寺川を境に新宿区中井・中落合に接し、南東部は新宿区上落合とも接する。北部も概ね妙正寺川を境として新宿区西落合に接する。南部は早稲田通りを境に中野区東中野・中野に接する。西部は中野区松が丘・新井に接している。町域内の多くは住宅地からなる。南部の早稲田通り沿いは寺院が多く寺町となっている。(Wikipedia

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街道の風景③ 大日橋通りを北へ向かいますが、右折して保善寺へ寄り道します/上高田2(早稲田通り)

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早稲田通り
千代田区九段北の田安門交差点(靖国通り)から新宿区西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草(青梅街道)に至る。旧早稲田通りは途中の杉並区上井草から北西へ行き、練馬区石神井台に至る。いずれの名称も東京都建設局によって付与されたものである。早稲田通りという通称はもともと「田安門〜保谷街道交点」について設定されていた。しかし、1984年(昭和59年)に「田安門~井草八幡前」に変更されると同時に、この改正で早稲田通りの指定から外れた「本天沼二丁目~保谷街道交点」の区間については、旧早稲田通りという通称が設定された。(Wikipedia
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保善寺山門/上高田


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保善寺
盛高山保善寺といい御本尊は釈迦牟尼佛をまつる。開山は勅特賜円明宝鑑禅師蟠翁門龍大和尚で武田信玄従弟にあたる。文禄21593)の創建、三代将軍家光公牛込酒井邸にあそびし折り当山に立寄られ獅子に似た犬を賜う。以後獅子寺と称す。明治39牛込通寺町より当地に移る。本堂正面に月舟禅師筆「獅子窟」の額をかかぐ。(境内掲示板

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中野公会堂の横の緩やかな坂を上り中央線ガードをくぐっていくと上高田二丁目交差点に出る。東西の道は早稲田通り、杉並区荻窪から来る旧街道である。北へ行くと旧道はT字路になって消える。右折して北へ辿ると西武線踏切となり、その手前を西に行くと新井薬師駅となる。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景④ 途中で道は消えますが細路地を北へ行くと「たきび」の歌発祥地碑がありました

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「たきび」の歌発祥の地
かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだおちばたき 「あたろうか」「あたろうよ」
きたかぜ ぴいぷう ふいている
今も人々に愛唱されている「たきび」のうた。この童謡の作詩者巽聖歌(たつみせいか:本名:野村七蔵19051973)は岩手県に生まれ、北原白秋に師事した詩人で多くの優れた児童詩を残しました。聖歌はこの詩が作られた昭和56年頃から約13年の間、萬昌院のすぐ近く現在の上高田4丁目に家を借りて住んでいました。朝な夕なにこのあたりを散歩しながら「たきび」のうたの詩情をわかせたといわれています。歳月が流れ、武蔵野の景観が次第に消えていくなかで、けやきの大木がそびえ垣根の続くこの一角は、今もほのかに当時の面影をしのぶことができる場所といえましょう。(中野区教育委員会)

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新井薬師梅照院山門/荒井


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新井薬師梅照院
目の薬師」として地元に愛される真言宗豊山派のお寺である新井薬師・梅照院。御府内八十八ヶ所霊場第71番札所となっています。ご本尊は薬師如来(表側)と如意輪観音(裏側)の二仏一体で、高さ一寸六分(約5.5cm)。寅年に限り御開帳される秘仏で、鎌倉時代に活躍した武将・新田家代々の守護仏であったと伝えられております。鎌倉時代から南北朝にかけての戦乱の最中ご尊像は消えてしまいますが、天正14年(1586)に梅の木の穴から発見されました。それを安置するために新たに建立されたのがこの寺院とされています。

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境内にある新井薬師再建供養塔は、新井薬師の再建に尽くした住職・運樹の業績と信徒の信仰心に応えるため、安永8年(1779年)に後継者の英俊が高野山延命院の引導地蔵尊を模して建立したものです。また、梅照院は徳川二代将軍秀忠の子・和子の方が失明した時、当薬師如来に祈願して治癒したことから治眼薬師(ちがんやくし)と呼ばれています。(中野の歴史-まるっと中野)

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薬師堂


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白龍権現水屋建立之記
新井の地名の由来は古文書「新井埜草別調べ」によれば『名水湧き出でたる故に村名を新井と名づく』とあり この地は名水随所に湧出せしが、時代と共に次第に減じ都市化の進展に伴い名井ことごとく枯渇し、新井の由来を知らすべき証し全て消失せり。当山梅照院の瓢箪池(新井薬師公園)もその昔冷泉滝の如く水坮り場として修行の道場となせり、故に「垢離不動明王」を安置し尊信す。白蛇常に不動明王のお傍にありて守護するが如し。

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しかるに公園造成以後は冷泉の涌出も絶えたるにより窪寺伝吉氏が昭和35年に境内に出世垢離不動明王堂を建立、霊験灼然として今に多くの信宗をあつむ。白蛇の霊を供養せんと貫主智英僧正発願せられ龍王のおすがたに三十三之宝珠を奉ずる石像を刻明王の使者白龍権現として不動堂に祀る。この度当大悲殿の建立のおり地下二米程の處に御影石の上蓋に保護されたる大井戸を発見す。涌き出ずる水清洌にして名井の出現を見たり、これぞ権現の導きなりと貫主その瑞祥を奉戴す。一夜夢枕に不動明王現れ「大悲殿に聖観観音菩薩を迎えて井戸の冷泉を閼伽水として衆生に施さば即ち利益増長、抜苦与楽せん」と告げ給。この霊示により同信を募り島根琴次郎、相原新吉両氏と共に双竜を鋳造して水屋を建立す。功徳の霊泉末永くあらんことを祈念する。昭和60年(19854月吉日 発願人窪寺克己 記

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梅照院境内

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街道の風景⑤ もとに戻り北へ、西武新宿線の踏切を渡り妙正寺川へくだります/新井薬師駅東

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踏切先右手の庚申塔          四村橋/妙正寺

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川街道の風景⑥ この上流の江古田川合流地付近が「江古田ヶ原沼袋古戦場」になります/妙正寺川

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江古田ヶ原沼袋古戦場
妙正寺川南岸沿いを西へ行くと北野神社がある。文明914774月、太田道灌が豊島氏を攻めた時この神社に戦勝を祈願した。江古田公園に江古田ヶ原沼袋古戦場碑がある。豊島氏は練馬・志村・板橋・滝野川・平塚の各城を東西に連絡して、道灌の川越・岩槻・江戸の生命線(岩槻城)を分断した。そこで道灌は先手を打って文明9413日、まず北区の平塚城下に火を放って引き上げた。豊島泰経(やすつね)は石神井・練馬の兵を率いて進撃しこの一帯で一大決戦となった。道灌は石神井城に退却した泰経を追って石神井上の南方道灌山に陣を敷き、包囲攻撃に出、暗夜に乗じて付近に火を放った。攻防は数日続いたが泰経は同月28日遂に降伏、石神井池に愛馬もろとも沈んで自害し、豊島氏は滅亡したのである。江古田から沼袋にかけては人馬を葬った塚が処々にある。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)(図:Wikipedia参照)

妙正寺川-江古田原沼袋合戦古戦場周辺の関連記事はこちらへhttps://teione.exblog.jp/24154853/

石神井城址周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27089411/

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上高田周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照

鎌倉道中道(西回り)(2)01-鍋谷横丁の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27606538/

by Twalking | 2019-05-22 22:56 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(2)笹塚~中板橋01-鍋屋横丁   

日時 2019.5.16(木)
天気 晴れ/曇り


笹塚から旧甲州街道を横断し、多田神社へ向かいます。
住宅地なので道は消えていますが、神社周辺は
旧街道の名残を感じる所です。

水道道路から中野富士見駅、十貫坂も同様ですが、
道を探しながら上ると富士見ハイム角で、大宮八幡からの
旧道と合流します。この坂が十貫坂、歩いてみて初めて知りました。


・・・南台/中野区

中野区の最南部に位置する。地域の東部は渋谷区本町に、南部は渋谷区笹塚と幡ヶ谷に、北部は方南通りに接し中野区弥生町との境になっている。(Wikipedia

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街道の風景① 駅西側の横断歩道橋を渡り細路地を繋いで多田神社をめざします/甲州街道(20号)

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水道道路を横断            階段から細路地へ

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一本松庚申塚

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一本松の庚申塚/南台
この庚申塚は、地元の言い伝えによれば明和年間17641771)に雑色村(現在の南台地域の旧村名)の人たちが共同で庚申塔と地蔵尊を祀ったことにはじまるといわれています。また『中野町誌』には数百年前、西国武士で原田七左衛門、同彦左衛門、増川八左衛門の3名がこの地で亡くなったので、その供養のためにがつくられたという言い伝えが記されています。第二次世界大戦の空襲で罹災し原形を失いましたが、昭和25(1950)に地域の人々の手で再建されました。干支の庚申(60日に一回めぐってくる)の夜、人間が眠っている間に体内に巣くう三尸(さんし)という虫がぬけ出して天に昇り、帝釈天にその人の罪を訴え生命を縮めるという庚申信仰は、長命安楽を願って三尸の虫に罪を訴えられないようにする、いわゆる民間信仰で中国の道教の守庚申に由来するものです。特に江戸時代に盛んに行われ青面金剛や、庚申に因んだ猿、庚申の文字などを刻んだ塔が建てられました。(中野区教育委員会)

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雑色について菊池山哉の「五百年前の東京」で『鎌倉幕府の雑色は街道の重要地点に置かれたもので、多くは守護職に属し街道を監視して不審の者を捉え、遊行の徒の審判がその起源であった。頼朝はこの雑色を大変信任し、院の御使も平家追討中の重要指令でも、奥州泰衡の隠密でも凡て直接雑色を使用している。しかし雑色は非人だったのでこのように重用しても非人は非人だったので身分を引き上げることはなかった・・・』と述べている。雑色地名のあった所は、川崎市多摩区(蔵敷)・港区麻布・大田区六郷・東大和市(蔵敷)にある。豊島区の雑司ヶ谷も雑色から転化したものだろう。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景② 住宅地の路地を繋いで多田神社への道にでました/南台3丁目公園


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多田神社鳥居/南台

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多田神社
多田満仲公は第56清和天皇の御曾孫多田源氏祖神である。幼少より文武両道に秀で、国家に貢献されたる偉勲功績は、わが国史に燦然として輝き武門の棟梁たる勅諚を賜わり、国家鎮護の大任を果たされたるのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、或は河川を改修して農村の拡大に寄与し、併せて源家興隆に確固たる基盤を築かれた。またその成功は関東に及び、特に雑色村の文化向上に尽された事蹟は(甚少)少ではない。仍って時の里人の敬慕浅からぬものがあった。

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その第二子は歴史上著名な頼光公であり第四子頼信公は平忠常を討ち関東を平定、続いて頼義・義家の父子二公は前九年・後三年の両役に大軍を率いて奥羽の地に赴きその凱旋の帰途、寛治6年(1092)祈願達成の報賽として大宮八幡宮神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に、大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に、日頃淑敬する満仲公の祠を建てたところ、雑色村の鎮守社として住民に崇敬されて来たということが「武蔵名勝図会」に記されている。新編武蔵風土記稿には「多田権現稲荷合社」と記されている。慶長2年社殿を再建、更に江戸後期の文政年間修復を加えた。明治14年改築し、また明治44年にも改築したと社史に記してあるが、太平洋戦争後、氏子の急増により昭和35年社殿を改築したのが現在の社である。(境内石碑)

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雑色村と多田神社
現在の南台の地域は古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在にいたっています。当社は約900年前、寛治61902源義家大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡宮とのつながりがとりわけ深く、天正19年(1591)の検地帳にも「多東郡大宮之内雑色村」と記され、大宮領に含まれていたことがわかります。また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社〜雑色地域の間に通じていたともいわれています。「雑色」とは皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起りであるとする説があります。(中野区教育委員会)

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源満仲(みつなか)
平安時代中期の武士。清和天皇の曾孫。父は経基。正四位下、鎮守府将軍。摂津国多田に住んで多田を称した。摂津、越前、武蔵、伊予、美濃、下野、陸奥などの国守を歴任した。安和2 (969) 年に為平親王擁立の陰謀を企てたと密告して源高明失脚の因をつくり、藤原氏政権の確立に奉仕し、並びなき武人との声望を得、藤原氏に随従して後代の清和源氏発展への遠因をつくった。子頼光の子孫にのちの守護大名土岐氏があり、子頼信の子孫にのちの将軍頼朝および新田、足利、佐竹、武田氏その他がある。(コトバンク)

多田神社

兵庫県川西市多田院多田所町にある神社。元は「多田院」という天台宗の寺院で、境内は「多田院」として国の史蹟に指定されている。六孫王神社(京都市南区)、壺井八幡宮(大坂府曳野市)とともに「源氏三神社」の1つ。 同地は摂津国に位置しており清和源氏や多田御家人発祥の地である。この地に館を構えた清和源氏の祖・摂津守源満仲によって天禄元年(970)に満仲の子に名元賢を開山とする天台宗寺院・多田院鷹尾山法華三昧堂(通称田院)が建立された。満仲は自らの館と多田院を中心として多田荘の開発に勤しんだ。平安時代の長徳3年(997827日に源満仲が亡くなると多田院に葬られ、新たに廟所と満仲像を祀る御影堂が建立された。(Wikipedia

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境内東側の鳥居

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宝福寺山門/南台

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宝福寺
宝福寺は真言宗のお寺でご本尊は聖徳太子です。聖徳太子が諸国を巡遊した時、この地を霊地として堂を建立し如意輪観音を安置して国家安穏を祈ったことに始まるといわれています。また、昭和新選江戸三十三観音札所の第17番札所にもなっています。境内にある「筆塚」と書かれた碑の文字は「筆塚」の字は戸村直衛が書いたもので、明治の初めに建てられたと考えられます。(中野の歴史/まるっと中野)

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筆塚碑
この「筆塚」の字は戸村直衛という人が書いたもので、明治の初めに建てられたと考えられています。戸村氏は明治3年、雑色村に「戸村塾」を開いた人で、中野区最初の公立校「桃園小学校」の教師も勤めました。身分・経歴は明らかではありませんが、家塾開業願や小学校設立伺書などによれば、若いころに幕府の関係者から数学・書道・洋学を学んだ知識人であったことがうかがえます。明治5年に学制が発布されるまで、庶民教育は江戸時代から民間の塾や寺子屋で行われていました。明治初め中野にも戸村塾など数カ所の私塾があったといいます。明治4年当時、戸村塾の生徒は25名で教場は宝福寺や村内の民家をあて、学制発布後も存続し私立戸村小学校から桃園小学校雑色分校へと引き継がれました。この筆塚は師弟の使用した毛筆を納めて供養し、学業上達を願ったものと考えられます。これは中野の初等教育を物語るゆかしい記念碑です。(中野区教育委員会)

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宝福寺境内 左は多田神社、神田川に向かって傾斜しています、台地の突端なんですね


・・・弥生町

中野区の南部に位置する。町域東部は渋谷区本町と新宿区西新宿に、南部は概ね方南通りに接し渋谷区本町と中野区南台に、北部は神田川善福寺川に接し中野区本町と杉並区和田に接している。善福寺川は町域内で神田川と合流している。地名の由来は弥生時代遺跡がいくつか見られることによっている。(Wikipedia

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街道の風景③ 前方が中野富士見町駅、左に神田川が流れます。道は消えていますが右手中野通りとの台地を北へ向かったようです/方南東リ多田小先


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方南通り
新宿区西新宿から渋谷区、中野区を経由して杉並区永福に至る都道である(都道14号新宿国立線)。当初は栄町通りと呼ばれていた。経路は東側から清水橋(山手通り))南台(中野通り)方南町(環七通り)西永福(井の頭通り)付近を経由する。Wikipedia

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都道420号鮫洲大山線
品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道である。狭隘区間が多く残るが、おおむね山手通り(環状6号線)と環七通りの中間を通りそれらを補完する役割を担っている。中野通り:南長崎六丁目交差点-笹塚交差点の通称。Wikipedia

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街道の風景④ 神田川下流新宿方向の景観です、旧街道は駅付近を渡ったと思われます/寿橋(中野通り)

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神田川を渡ります/寿橋         坂下の景観です/中野通り

神田川(2)01-中野本町周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24109546/)

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街道の風景⑤ 大宮八幡からの鎌倉道と合流します、この坂が十貫坂になります/富士見ハイム角

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中野通りの左手を上ります       細路地になり旧街道と合流します

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街道の風景⑥ 中野通りを横断します、右角に案内板が立っています

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十貫坂(じっかんざか)
これより 十貫坂
付近から十貫文の入った壷がでてきたという話と中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったためと記録にあります。(鍋横地域の文化座を守る会)


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旧街道は(多田)神社横から大地を直進したと思われるので、途中で消えたのであろう。そこで栄町通りに出て、地下鉄車庫東側のバス道を北進し善福寺川に沿って東行、中野通り一つ手前を北に行く。すると杉並区と中野区境に建つ富士見ハイム横の緩やかな坂の下に出る。坂を上るとハイム前から西への道は、大宮八幡に通じる旧街道である。富士見ハイム横の坂は南の方は消えたが、区境を通って南の台地に上り、多田神社東側に続いていたものだろう。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

善福寺川02-大宮八幡周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24090782/


・・・本町
(ほんちょう)

町域の東部と南部は神田川に接しており、東部は川を境に新宿区西新宿に接し、南部は中野区弥生町に、北部は青梅街道を境に中野区中央に、西部は杉並区和田に接している。町域内を中野通りと山手通りが縦貫している。青梅街道沿いは中野区内でも古くから人の往来があった場所でもあり、新中野駅には鍋屋横丁と呼ばれる古くからの商店街がある。中野区のほぼ中央部に位置するため本町とされる。(Wikipedia

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街道の風景⑦ 鍋屋横丁通りを新中野駅へ向かいます/十貫坂上

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街道の風景⑧ 左に「堀之内道」を分けます、お題目石が建っています/鍋屋横丁通り

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お題目石/鍋屋横丁通り
この石碑は杉並区堀之内にある妙法寺への参詣道に道しるべとして、享保31718)に建てられたものです。元の参詣道は新宿区との境界付近の本町一丁目から青梅街道をはずれて、この四つ角のところへ出る道が利用されていましたが、江戸時代後期鍋屋横丁からの道が整備されました。(中野区教育委員会)

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妙法寺参詣道(堀之内道)
この道は江戸(東京)から日蓮宗妙法寺へ向かう代表的な参詣道で「堀之内道」「妙法寺道」と呼ばれていました。青梅街道から鍋屋横丁(中野区)でわかれ、堀之内村の妙法寺へと続く道でした。「新編武蔵風土記稿」和田村の項には『北ハ堀之内妙法寺道ヲ界トシテ』と、この道が和田村高円寺村村境であったことがわかります。江戸の町医者が記した随筆「塵塚談」には「堀の内祖師」について、昔は『地名を知れる人もなかりしに、近頃にいたり祖師堂はもちろん堂宇の設けも伽藍の如くに造建し、新宿より寺の門前まで水茶屋、料理茶屋其外酒食の店、数百件簷(ひさし)をならぶ、日蓮宗にかぎらず、諸宗門の人も尊敬して、年々月々に賑わしく繁栄なり』と江戸時代後期「厄除け祖師」として江戸庶民の信仰を集めた妙法寺とその参詣道の繁栄ぶりが記されています。堀の内道から少し南に位置しますが平成19年に実施された本村原遺跡C地点(現女子美術大学)の発掘調査では「しがらき」とある茶碗が出土しました。江戸時代、妙法寺の参詣者で賑わった堀之内道の水茶屋・料理屋の中でものっぺい汁をだす「しがらき」は有名で、天保12年(1841 )には370人の客がいたと記されています(江戸見草)。明治に入り甲武鉄道(中央線)が開通すると、中野駅から妙法寺へ向かう道が開かれ(堀之内新道)、東京から歩いて向かう参詣道であったこの道の利用者は減少しました。現在、この道は「和田帝釈天通り」として、商店会通りの中程に位置する和田帝釈堂(ここより数10m先)を中心に地域の方々に親しまれています。(杉並区教育委員会)(写真:お題目石)

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街道の風景⑨ 青梅街道と交差します、旧街道は直進します/鍋屋横丁

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鍋横道しるべ /交差点角
此処に明治11建立された「ほりのうちへ1810」と妙法寺までの距離が刻まれた道標がありました。江戸時代後期(文化・文政)お祖師様として親しまれた妙法寺への参詣道入り口を示すとともに、裏側には鍋屋横丁の由来となった休み茶屋「鍋屋」の証しも刻まれており、中野区の歴史の資料にも載る程貴重なものでした。建立以来125年の永きにわたりまちの変遷を見つづけてきたこの道標が平成143月をもって、諸般の事情によりゆかりのある妙法寺移設されました。かつて道標が存在した証を記します。(鍋横道しるべ保存会)

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鍋屋横丁
中野通り(注:十貫坂上)を越えるとアーケードのある鍋屋横丁商店街となる。この旧街道は江戸時代には堀の内妙法寺への参道道として賑わった。「武蔵名勝図会」に『古街道、当村追分といふところなり。鎌倉より奥州街道の古道なり・・・ここより板橋へ三里余、それより岩槻へ出て奥州並に上野・下野へも行くなり』とある。また京の僧・堯景法印の文明19年(1487)「北国紀行」に『武蔵のうち中野という所に、平重俊いえるが催しによりて、眇々たる朝霧を分け入りて、朦望するになんの草ばの末にも、ただ白雲のみかかれるを限りと思ひて 露はらふ道は袖よりむらきえて 草ばかへるむさし野はら』と書いている。室町時代の中野は一面の草原だったのである。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)(緑:鎌倉道 橙・青梅街道 紫:堀之内道 黄:中野通り 青:神田川)

・・・中央


中野区のほぼ中央部に位置する。東部は神田川を境に新宿区北新宿に、南部は青梅街道を境に中野区本町に、北部は大久保通りを境に中野区東中野・中野に、西部は杉並区高円寺南に接している。地域内を中野通りと山手通りが縦貫している。(Wikipedia

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街道の風景⑩ 青梅街道を直進し北へ向かいます、下ると桃園川(緑道)です

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慈眼寺山門/中央
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慈眼寺(じげんじ)
慈眼寺は山号を「福王山」院号を「弥勒院」と称する真言宗豊山派の寺院です。慈眼寺は室町時代の天文131544)年に貞運大和尚によって開かれました。本堂に安置されている御本尊の聖観世音菩薩像も室町時代に造られたものです。創建当時の慈眼寺は中野区中央二丁目の堀越高等学校の間近にある「慈眼堂橋」の西方にありましたが、江戸時代に青梅街道添いに移転しました。かつて慈眼寺の住職は氷川神社(中野区東中野)の別当職を兼ねていました。別当とは神社の管理者を兼任する僧侶の役職名です。慶応4年・明治元(1868)に神仏判然令(神仏分離令)が布告されるまでは、仏教と神道は混ざり合って信仰されており、神社にて仏事を行うことが多々ありました。神仏分離令によって別当職が廃止されたのち氷川神社は当時の政府へ返還されました。

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慈眼寺の氷川堂には、氷川神社の別当職をしたことから「氷川坊さん」と称された慈眼寺第15代住職・覺順和尚(かくじゅん)の像が奉られています。また、明治維新期の慶応4年(1868)に江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の警護隊であった彰義隊が旧本堂に立てこもって秘密裏に会合を行い、その際に隊士によって付けられた刀傷が旧本堂の柱に残っていたことが伝えられています。この旧本堂は文政・天保(1800年代前半)の間に建造されたと伝えられていますが、昭和20年(19453月の東京大空襲によって消失してしまいました。(慈眼寺HP抜粋)

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慈眼寺の石仏群
慈眼寺は真言宗豊山派の寺院で福王山弥勒院と号し、天文131544)の創建と伝えられています。以前は現在地から北東の中央3丁目7番付近にありましたが、江戸時代にこの地に移転しました。ここにある石仏は馬頭観音や庚申塔などで、向って左側の文化131816)の馬頭観音は頭上に馬頭をつけ、角柱部分は道しるべになっています。「左あふめ(青梅)右いくさ道(井草)」と記されていて、もとは青梅街道と石神井街道とが分岐する追分の三叉路(中央四丁目)にありました。庚申塔は干支の庚申に由来するもので日月、青面金剛、邪鬼、三匹の猿、鶏などが彫られています。ここには元禄31690)から寛保21741)までのものが6基あります。このうち4基は上宿(中央二丁目付近)新町(本町六丁目)西町(中央五丁目)の青梅街道の沿道にありましたが、道路拡幅のため桃園第三小学校の大ケヤキの根元に移設され、さらに昭和30年(1955)に当寺境内に安置されたものです。(中野区教育委員会)

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天祖神社鳥居 住宅街の中の鎮守の森、詳しいことは分かりません

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本殿                 神輿蔵

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街道の風景⑪ 桃園川を渡ります、現在は緑道になっています/さみせん橋

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桃園川
杉並区および中野区を流れる河川。全区間暗渠化されている。中野区内では「中野川」とも呼ばれる。杉並区(現在は荻窪駅の北にあたる天沼弁天池公園付近)より東へ1.5kmほど流れ、阿佐ヶ谷駅の北・中杉通りを越えたあたりから周囲より谷を深くして南下。杉並区立けやき公園のところで中央線を南東にくぐってからは桃園川緑道となり、そこから東南東へ転じ環状7号線を越えたところからはほぼ大久保通りと併走する形で中野区を東へ横断する。東中野駅南側にある末広橋付近で中野区と新宿区の境界を流れる神田川に合流する。(Wikipedia

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中野富士見駅周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:鎌倉道 橙:甲州街道・青梅街道 黄:堀之内道 青:神田川・善福寺川)

鎌倉道中道(西回り)(1)-03羽根木の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27595066/

by Twalking | 2019-05-20 13:24 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(1)二玉川~笹塚-03羽根木   

日時 2019.5.3(金)
天気 晴れ

東松原商店街を抜けると住宅地になりますが、
笹塚に向かって直線路が続きます。
駅手前の区境で若林からの旧街道と合流します。

北沢川を歩いた時に「鎌倉通り」を知りましたが、
この通りは若林から下北沢を通り笹塚への中世?の道です。
歩いてみたいと思ってましたので足を延ばしました。



・・・羽根木

世田谷区の北東部に位置し、周囲を松原・大原・代田の各町に隣接する。同名の羽根木公園は世田谷区代田にある。町の東辺を環七通が通り、南辺は京王井の頭線が通る。北辺は水道局和田堀給水所と接する。旧・荏原郡世田ヶ谷村字羽根木。羽根木の由来には諸説ある。(Wikipedia


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街道の風景① 井の頭線の踏切を越えて北へ、笹塚を目指します/東松原駅

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東松原駅西から北へ、静かな住宅地を行くと羽根木の商店街となる。左側に子育地蔵尊4基の庚申塔があって古道らしさを示している。その先、環七通りを越え北に曲がると東西の道に出会う。その手前に若林から来る旧街道合流する。その北は細い道で中央に車止めの杭を打ってある。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)写真:東松原駅

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子育地蔵尊由来
今を去ること凡そ300年享保の頃、永年にわたり天候不順にして五穀稔らず悪疫流行して、里人大いに苦しみなすすべを知らず。この時、地蔵菩薩一古老の夢枕に立ち、里人の苦悩を見るに忍びず、吾を石橋のほとりに祀れ、必ず救いとらせんとのたもうこと毎夜なり。

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古老恐懼して里人達とはかり、当武蔵国荏原郡世田谷村字羽根木の在一里塚のそばに地蔵尊を勧請し、勧業を怠らざるに、いくばくもなく天候定まりて五穀豊穣、悪疫終息せり。これをみな地蔵尊のご利益なりと崇敬す。その後、代々由来を伝え崇敬変わらず。殊に若き母親生まれ出る子供のため、その乳の出ることを願いまた稚児のくさの平癒を願うに、その霊験あらたかなり。よって人々これを子育地蔵尊と尊称したてまつり今日に至る。地元羽根木世話人一同その尊像のご安泰を願い御堂を修復し、いつまでも霊験いやちさかなるを祈るものである(羽根木神社子育地蔵尊世話人一同)

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街道の風景② その先にケヤキ並木の参道があります、よく残りましたね・・・

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せたがや百景-羽根木神社の参道
都水道局和田堀給水場近くに羽根木神社の小さなお社がある。今は家が建て込んで、農村だったころの面影はほとんどないが、社まで続いた参道のケヤキ並木が地元住民の運動によって一部残されている。風景変遷のものいわぬ証人だ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

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羽根木神社鳥居/羽根木

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羽根木神社
祭神は宇迦能御魂神を祀った神社である。以前は羽根木稲荷神社と称していた。創建については判明せず、羽根木という名称は「新編武蔵風土記稿」に『小名羽根木東北ノ隅ニアリ』と記事あり、小名としてはよほど古きものと思われる。神社関係者の説によると最初は誰かの内宮であった。その後、細野嘉十郎、稲山新太郎の所有の土地となっていたがその特志によって寄附されたという。神社敷地249坪(821.72)祭礼は914日。神社入口に石碑があり表に「羽根木神社」裏に「祭神宇迦能御魂神、昭和255月戦災の為神社神木等焼失に付崇敬者一同の浄財により新築整備す。昭和239月氏子中、芦沢新平謹書」と彫刻してある。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景③ 特に案内板もないのでこの道が「鎌倉道」とは分からないかも知れませんね

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環七を横断します/羽根木        左手が「柳澤の杜」です/大原


・・・大原

大原は昔は代田村の一部で萩久保、西大原、東大原という三つのから成っていました。大原はその名のとおり「広い原っぱ」ということから付けられた名ですが、土地はだいたい海抜40mから45mほどの大地で、西側には50mほどの高所があります。(「ふるさと 世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」(平成93月発行)(地名由来/世田谷区HP)

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緑が多くていいお庭・・・、憩えます

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大原一丁目・柳澤の杜
名前の由来:個人の想いにより残されたことに由来
この緑地は地域の原風景や自然環境を保全しながら区民に憩いの場を提供することを目的に、土地所有者と契約を交わし地域の皆さまに公開しています。(説明板)

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柳澤家住宅主屋/国登録有形文化財(建造物)
建築年代:昭和26年(1951) 昭和54年(1979)改修 建築面積:52.282㎡ 設計者:伊東安兵衛柳
澤家住宅は玄関・ホール・四畳半に納戸(旧台所)と便所を配した小規模な住宅です。外観の特徴は庭に面し化粧貫を用いた妻を見せているところです。内部のホールは暖炉がある洋室でありながら床構えをもち、天井に民家風の梁を組んでいます。ホールと四畳半に設けられた段差、三枚戸の襖とガラス戸の仕切りなどは昭和20年代、戦後復興期小住宅によく見る間取りです。建物の内外に伝統民家の構成を引用した建物で、戦後に民家風住宅を多く手がけた伊東安兵衛の作風をよく現しています。(世田谷区教育委員会)

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街道の風景④ 世田谷と渋谷区の区界あたり、ここで若林からの旧道と合流します/大原

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その手前井の頭通りを横断       やがて笹塚のビル群が見えてきます


・・・・笹塚/渋谷区

渋谷区
北西部の地区、武蔵野台地に位置し中央を国道20号(甲州街道)が横断、1913(大正2年)調布~笹塚に京王電気軌道(現・京王線)が開業し住宅地化。1960年(昭和35年)の町名地番変更により住居表示は笹塚一丁目から三丁目まである。地形的には武蔵野台地上に位置し概ね平坦である。河川は本町四丁目から幡ヶ谷三丁目、笹塚三丁目にかけてかつてあった神田川の支流に沿って浅い谷になっていた。笹塚一丁目には嘗て玉川上水の流れが西から東に大原、北沢との境界を蛇行しながら縫うように流れていたが、笹塚駅周辺の一部は開渠のまま残されているが殆どは暗渠化されて遊歩道として整備され緑道(公園)として整備されている。(Wikipedia

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街道の風景⑤ 行けそうですね・・・、笹塚駅前へ通じています/笹塚

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笹塚駅前                流路跡です

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玉川上水の風景、この部分は開削、いいですね!

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街道の風景⑥ 甲州街道(20号)です、向に「笹塚跡」があります。分岐へ戻り「鎌倉通り」を若林方面へ行ってみます

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笹塚跡/笹塚二丁目昔、このあたりの甲州街道の南北両側に直径が1mほどの(盛土)がありました。その上に(または竹)が生い茂っていたことから笹塚と呼ばれていたようです。その塚が慶長9年(1604)に設置された一里塚であるかどうかははっきりしませんが、この塚に一里塚の印を記載している古図もあります。また、江戸時代の文書にも笹塚のことが簡単に述べられています。大正5(1916)に発刊された『豊多摩郡誌』には「甲州街道の北側に石塚があったが、今は見られない」と書いてあります。この塚があったことからこの地域一帯を昔から笹塚と呼び、今もそれが町名として残っているのです。(渋谷区教育委員会)



・・・若林への旧街道(鎌倉通り)

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街道の風景⑦ 右手が中道の本路、左の「鎌倉通り」を南へ向かいます/大原・北沢境

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合流点から南へ、若林までの旧道を行く。台地上を一直線に町の丁目境を行き、下北沢駅西側から目黒(暗渠で遊歩道になっている)に下ると鎌倉橋(注:北沢川)がある。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)






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井ノ頭通り
渋谷区宇田川町の渋谷駅前付近と武蔵野市関前にある境浄水場付近を結ぶ道路の通称。境浄水場から和田堀給水所までの間に水道管を敷設するための施設用地を道路に転用したために、以前は水道道路と呼ばれていたが、後に近衛文麿元首相によって井の頭街道と命名され、その後東京都によって井ノ頭通りと改められた。(Wikipedia

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街道の風景⑧ 中宅街の直線路、いい道です/大原・北沢境


・・・下北沢

世田谷区
の北東部に位置する地域名。この地域は東京府(武蔵国)荏原郡下北沢村であり、世田ヶ谷町への合併を経て世田谷区北沢代沢になった。概ね現在の北沢一丁目から五丁目および代沢二・三・五丁目並びに四丁目の北東部及び代田五・六丁目の東側のごく一部が旧下北沢村に該当する。元々の中心は現在の代沢三・五丁目付近、北沢八幡宮森厳寺・淡島神社分社や代沢小学校のある辺りであり、明治時代の旧版地図5万分1には「下北澤本村」の文字が見られる。現在も茶沢通り沿いに商業地域が形成されている。起伏のある地形からか「山谷」のつく字がいくつか見られた。1927下北沢駅開業後、元々水田地域であった同駅周辺に商業地が形成され地域の重心が移って行った。他の部分の宅地化は、帝都線(現:井の頭線)開通、池ノ上などの集落の形成を経て急速に進んでいった。(Wikipedia

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街道の風景⑨ 下北沢の北側、賑やかですね、井の頭線を渡ります

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井の頭線下北沢駅           越えると下りになります

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街道の風景⑩ 現在は地下になりましたが小田急の踏切があった所です/代田・代沢境

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閑静な住宅街です           北沢川へ下ります


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街道の風景⑪ 北沢川(緑道)に架かる鎌倉橋、ちょっとした渓谷の感じです

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街道の風景⑫ 淡島通り(滝坂道)を横断、ここまでが「鎌倉通り」のようです/代沢

滝坂道-淡島の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22846177/


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その先、東西に走るバス道(注:淡島通り)の南は細くなり、太子堂の八幡神社横から烏山川を直角に渡るため西南に向い、途中で消えるが世田谷通りに直角に交差する。(注:若林陸橋先)この旧街道は、鎌倉時代以後に開かれた道かと思われる。旧街道で、他の道から分岐したり合流したりする所が直角の場合は両方の道が古いが、鋭角の場合は室町以後の道であることが多い。代田で鋭角で分岐しているところをみると、典型的な室町期の道とみてよいと思う。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景⑬ 細くなりますが旧道らしい道が烏山川へ続いています/八幡神社横

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太子堂八幡神社拝殿/太子堂

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太子堂八幡神社
祭神:誉田別命 大祭:10月第2日曜日当社の鎮座年暦不詳なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間1592-1596)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。

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太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ、古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村121-122番地の辺を(5丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の号をとりて部落の村名とした。以上は古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。(境内掲示板)

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街道の風景⑭ 参道を南へ行くと烏山川、西太子堂の駅へでます。旧道は上流から若林陸橋方面へ向かったようです/烏山緑道

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北沢地域周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:鎌倉道 橙:甲州街道 紫:滝坂道 青:烏山川・北沢川)

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鎌倉道中道(西回り)(1)二子玉川~笹塚ルート図
(緑:鎌倉道 赤:大山道 紫:滝坂道 青:蛇崩川・烏山川・北沢川)

鎌倉道中道(西回り)(1)-02世田谷の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27591786/

by Twalking | 2019-05-11 22:39 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(1)二玉川~笹塚-02世田谷   

日時 2019.5.3(金)
天気 晴れ


用賀から弦巻追分へ向かいます。
上町周辺は昔住んでいた所ですし、
烏山川は高校への通学路、まだ流れていました。

上町から梅ヶ丘への道筋は消えていますので、
川沿いの細路地を繋いで杓子稲荷へ、この
前の道がもしかしたら旧道かもしれませんね~?
懐かしい所、じっくり味わいながら歩きました。


・・・弦巻


「弦巻」の由来は諸説ありこれと言った決め手に欠く。一説に武将(
源義家あるいは北条氏など)が弓弦をはずした、あるいは巻いた場所であるという。他には水流(つる)が渦巻く場所など。しかし、弦巻は世田谷区内でもほぼ最高地点に近い台地である。一方で土地に起伏もあり今は多くが暗渠となったが小さな川もある。弦巻という名は14世紀後半に初めて見える。永和2年(1376)吉良治家寄進状に「絃巻」(弦でなく絃の字)という地名が出てくる。江戸時代初期に荏原郡弦巻村として成立。Wikipedia

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街道の風景① 用賀の追分から大山道(上町線)を弦巻へ登ります

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大山街道案内板
江戸時代中期、雨乞いのため丹沢の大山に参詣する「大山詣」という習慣がありました。江戸の赤坂を起点とし青山、世田谷、伊勢原を経て大山に至るこの道は俗に「大山道」と呼ばれ、区内では三軒茶屋、弦巻を通り用賀、二子玉川に行っていました。信仰や物見遊見を目的とした旅人で大変賑わい、古典落語にも登場する歴史ある道です。(説明板)

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衛生材料廠跡碑            庚申塔

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街道の風景② かつては蛇崩川(暗渠)が流れ、名残の街道松が聳えています

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大山道旅人像             直進すると追分です

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街道の風景③ 左が登戸道、直進して右折が大山道、鎌倉道はこの先桜小学校で消えています/弦巻追分

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弦巻とは源義家がこの地で弓弦をはずしたところから名付けられたものという。しかし、豊島区の弦巻川や新宿区の早稲田鶴巻町のツルマキについて中島利一郎は次のように説明している。『ツルは朝鮮語の荒地とか原野、あるいは水路のある低地という意味であり、マキはであるからツルマキは水路のある原野の牧場の意味である』(日本地名学研究)昭和薬大を過ぎ蛇崩川(暗渠)の低地を越えると、次第に商店街になる。その先の西側に道標がありそこから西方に旧道の登戸道が通っている。往古の登戸道は東方にも伸びていたのが消えたのであろう。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景③ 代官屋敷は修復中、資料館は連休で休館・・・、でもここは外せないですね/ボロ市通り

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浄光寺山門 代官屋敷の裏側にあります、いつも寄りそびれていたので訪ねました

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浄光寺
九品山往生院浄光寺と称する浄土宗の寺で、寛政7年(1795)本堂の裏から出火したため資料となるべきものはほとんど消失してしまった。現在の本堂は寛政81796)の建立で茅茸であったが、昭和28年瓦茸に変えたままで今日に至っている。開山は専蓮社然誉上人称阿源公大和尚、文明7年(1475915日没で現住で26代を数えている。本尊は尺余りの阿弥陀如来像である。南側の墓地には世田谷代官の祖・大場越後守信久以下歴代代官の墓がある。(せたがや社寺と史跡)

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境内のお地蔵さん           大場家の墓

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・・・世田谷


「世田谷」の「世田」は「瀬田」に通じ、「瀬戸」の「戸」が訛ったものではないかということです。「瀬戸」若しくは「瀬門」というのは、多くの場合「狭小な海峡」と解されていますが、地名の場合には必ずしもそうではなく内陸部にも「瀬戸」なる地名を多くみかけます。そのことから「瀬戸」が訛って「瀬田」となり、「瀬田、勢田、勢多」という郷名となり、時の経過と共に「瀬田」の言葉がわからないまま勢田郷の一部で特にの多い所という区別をして「せたかい」と呼び、以後「狭(かい)」が同義語の「谷」に変り、発音も「せたがや」と変って「世田谷」若しくは「世田ヶ谷」と書くようになったと思われます。即ち「世田谷」は勢田郷谷地ということです。 (地名由来/世田谷区HP)

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街道の風景④ 昔は世田谷4丁目、現在は桜です。城山通りを前方の丘・世田谷城址へ向かいます/上町駅前


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旧街道は世田谷通りを越えて直進し桜小学校の西南端にでる。ここで旧道は消える。消えた旧道は北の世田谷城東側に続いていたと思われる。烏山川東側を北上し、を直角に渡ってこの道に続いていたものと思われ、城山小学校の横を北進するとT字路となって消える。その先は断続し、梅ヶ丘駅北から大地を上り羽根木公園から東松原駅へ行く。この道は世田谷城ができると桜小学校北から代田までがあまり城近くを通っているので廃され、その東側に新たな旧道を作ったものと思われる。また、登戸道は大山道との交差点以東を廃し大山道ボロ市通りを通って東行きするように変更されたのであろう。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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世田谷城址公園手前から烏山緑道を行ってみました、この辺りを渡ったんでしょうか??/稲荷下橋(烏山川緑道)

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旧道ぽい道です            城山小前を北へ

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街道の風景⑤ 滝山道を横断して杓子稲荷神社に向かいます

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上町周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:鎌倉道 橙:大山道青:烏山川)

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・・・梅丘

梅ヶ丘駅
ができこれは後の町名にもなりました。昭和94月になって新設された駅でした。駅名について小田急50年史の記録によると「この地は北沢窪という地名で、かつては麦畑の中に一基の古墳があり出土品もあった。したがって梅丘は古墳にちなむ埋ヶ丘に由来するとの説がある。またこの地の大地主旧家梅の古木があり、同家の家紋も梅をかたどったものであるところからこれをとって優雅な「梅ヶ丘」の駅名をつけたともいう」とあります。この大地主というのが相原家で、たまたま同家を訪れていた三人の間で新駅名のことが話題に上ったとき、相原家の土蔵の梅鉢の家紋を見てこれにちなんで梅ヶ丘にしてはとの提案がされ、小田急側にも異議なく採用されたということです。(地名由来/世田谷区HP)

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街道の風景⑦ 鎌倉道かは分かりませんが、真直ぐ行くと梅ヶ丘駅付近に通じています

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杓子稲荷神社鳥居/梅丘

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杓子稲荷神社
祭神:倉稲魂命。室町時代足利管領の旗下あって権勢関東に響いた吉良治部大輔治家は、当地世田谷に城を築き、その鬼門鎮護としてこの地に伏見稲荷を招請、奉斎し厚く信仰しました。その後およそ二百年を経た天正18、吉良氏は当時姻戚の間柄にあった小田原北条氏と運命を共にして豊臣秀吉の軍門に降り、当神社も又衰微に帰しましたが、後年松原宿の住民をはじめとする里人の再建、信仰するところとなり今日に至りました。なお、徳川幕府による元禄年間の検地水帳にも当神社の所在は記されており、その鎮座のいかに古きかを知ることができます。(杓子のいわれ)杓子の食物を掬うは救うに通じ、総ての病難・災難を払い、福徳円満、長寿開運、万福招来の象徴であります。(せたがや社寺と史跡より)

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滝坂道通信-世田谷の主要古道(世田谷の近代風景概史より)/豪徳寺駅周辺風景つくりの会(紫:滝坂道 赤:甲州街道 橙:大山道)

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街道の風景⑧ 駅北側で北沢川(暗渠)を渡り羽根木公園に沿って丘を北へ登ります/梅ヶ丘駅前

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梅ヶ丘駅側入口付近          丘に沿って緩やかにカーブしています

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梅の頃は勿論ですが、緑が多くて四季折々に憩える公園です/羽根木公園

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羽根木公園
世田谷区代田にある世田谷区立の都市公園である。全体として丘状の地形になっている。古くは一帯に「六郎次」という野鍛冶が住んでいたと伝えられ「六郎次山」と呼ばれていた。その後、根津財閥の所有地となったため「根津山」と呼ばれた。1956年に都立公園として開園し、1965年に世田谷区に移管され区立公園となった。また、現在の羽根木公園は代田四丁目の一部であり、住居表示としての「世田谷区羽根木」から離れている。これは両地が共に旧・世田ヶ谷村の飛地だったことによる。(Wikipedia

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松羽稲荷神社鳥居/松原

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松羽稲荷神社
商店街の手前、こんもりとした森にあります。松原と羽根木の境なので「松羽」なのでしょうか、案内板などなかったので詳しいことはわかりません

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街道の風景⑨ 街道は東松原商店街を通って北へ抜けています/松原

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梅丘周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:鎌倉道 紫:滝山街道 青:北沢川)

鎌倉道中道(西回り)(1)-01瀬田の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27587109/

by Twalking | 2019-05-09 20:41 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(1)二玉川~笹塚-01瀬田   

日時 2019.5.3(金)
天気 晴れ


大型連休の前半は不安定な空模様でしたが、
元号が変わって気分一新、天気も上々なので
令和の初歩きに出かけました。

鎌倉道中道の西回りで岩淵を目指そうと思います。
二子玉川から上町までは旧大山街道とルートは同じ、
今度は大山道を逆ルートで辿ります。


・・・玉川
(地域)/世田谷区


世田谷区の南部に位置し、南端に多摩川が流れ、対岸は川崎市である。江戸期にはこの地域に用賀村、瀬田村、上野毛村、下野毛村、等々力村、奥沢村、尾山村、野良田村(以上8ヶ村は後の玉川村)、深沢村、世田ヶ谷新町村(以上2ヶ村ほか4ヶ村は後の駒沢村)10ヶ村が存在した。現在の川崎市高津区・中原区の一部もこれに含まれる
。(Wikipedia)

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街道の風景① 野川と多摩川の合流する低湿地、この辺りにも渡し場があったようです/兵庫島公園

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丘として残る「兵庫島」、こんもりした森になっています

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兵庫島公園
「兵庫島」のある場所は古来は
多摩川野川デルタ地帯であり、兵庫島ももともとは完全にの形をしておりまた洪水のたびに何度か移動していたという。それが洪水によって他の河川敷と陸続きになり現在に至る。公園内には「兵庫島」がとして残っており「兵庫島」を中心として木々が生い茂り武蔵野の緑を今に残している。「兵庫島」の上流側には開放的な芝生広場もある。
Wikipedia

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兵庫島の由来
正平131358)に新田義貞の子・義興(よしおき)が足利基氏を討ち、新田家再興をめざして従者13人と上野(群馬)より兵を進めた。ところが、多摩川稲城矢口の渡しで、敵の策略とは知らずにさし向けられた船に乗ってしまう。この時、渡し守りはかねて仕掛けられた船底の栓を抜き逃げ去った。同時に両岸からは数百の軍勢が時の声をあげて矢を射かけた。兜、よろいの武士たちは身動きがとれない。もはやこれまでと義興は自害してしまうが、従者たちの中には対岸まで泳ぎつき、群がる敵兵と戦い自害して果てる者もあった。その中の一人でもある由良兵庫助が流れついたのが、兵庫島の名の起こりという。村人たちはわざわいが起こらないよう供養しそれ以降、不思議なことにこの中州はどんな洪水の時でも流されることがなかったと伝えられる(世田谷区)
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街道の風景② 筏道は野川沿いと丸子川沿いの2筋があったようです/多摩堤通り

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諏訪神社鳥居/玉川

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諏訪神社
祭神は建御名方命といわれ、神体は木彫に金箔、濃彩の座像とのみいい伝えられる。創立の年月を伝えず。一説に世田谷吉良家の家臣でこの地の開拓者なる者(川辺氏起立の大先祖 寛永916327月法名教顕院誓誉浄本居士)ある年の夏多摩川大洪水の時、現在地に流れ着いた像を後に至り神体とし、信州の諏訪明神をあがめ勧請したものとのみ伝承されている。

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この像多摩川上流より流れ着いたので、元の地の方位に向って神祠を西向に建てて祀ったといわれている。現在吉沢に後裔64家栄えており、元は同族の鎮守であった。祭礼は727日である。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景③兵庫島から弦巻追分なでは大山道・上町Rを行きます/二子玉川商店街通り

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大山道/治大夫橋
大山道とは大山詣りの道のことで、大山は神奈川県伊勢原市にあります。世田谷を通る大山道は江戸赤坂御門を起点とし、二子玉川で多摩川を経て伊勢原から大山まで続いています。二子玉川にはここ治大夫橋を渡る大山道と、行善寺の東側を通る大山道があります。次大夫堀は慶長年間、徳川家康が主として下流の六郷地方の米の増収をはかるため、代官小泉次大夫吉次に命じて切り開いた灌漑用水で、世田谷地方の人々は「治大夫堀」(同・六郷用水、現・丸子川)と呼んでいました。(世田谷区)

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大山道道標
「右むかし筏みち むかし大山みち」と刻まれています






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・・・瀬田


国分寺崖線
沿いにあり、崖線の上からは多摩川や富士山まで見渡せる場所がある。丸子川沿いなどに自然が程よく残されている閑静な地域である。戦前より多摩川や富士山を見晴らす景勝地のひとつとして知られ、玉川遊園などの園地が設けられていた。かつて多摩川は頻繁に洪水を起こし流路も度々変わっていたため、村が多摩川で分断されることが度々ありここ瀬田も多摩川により分断されていた。かつては全域が武蔵国荏原郡に属していたが、1912年(明治45年)に郡境多摩川上に設定され、以降右岸地域は橘樹郡(後に川崎市)に属すこととなり、以降現在まで両岸に地名が残っている。Wikipedia

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街道の風景③ 国分寺崖線を上ります/慈眼寺坂

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玉川寺(ぎょくせんじ)山門/瀬田

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玉川寺(身延山関東別院)
身延山関東別院玉川寺は多摩川の河原と台地の斜面の間にあり、都会では珍しく数十段の石段の奥に本堂がある。向って左側に基地、経王堂、右側に庫裡と書院、そして一段高いところに新書院と三段の建物が多摩川に面してたち眺望のきく位置にある。本尊開運日連大菩薩、宗派は日蓮宗に属する。開山は昭和7甲州身延山久遠寺法主望月上人、関東一円の布教の殿堂として建立した。当時(昭和初期)は寺社の建立はゆるされていなかったので、日暮里妙隆寺を移転して新たに身延山関東別院として開山した。昭和15年頃より玉川寺と称するようになった。第二次大戦後、基地を持つようになり檀家は関東一円にまたがるという。宝物としては荘厳具と勅額(立正)がある。(せたがや社寺と史跡)

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瀬田玉川神社 参道にはクイズ形式の解説版が立てられています

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瀬田玉川神社
祭神は大己貴命・日本式尊・少彦名命で、創立は永禄2155910月といわれている。境内には末社として祓戸神社、三峯神社を祭り、その祭神は祓戸4柱神・大己貴命である。神社の由緒書によれば「永禄年中155870)該村字下屋敷へ勧請す。その後、寛永3寅年(1626)字滝ケ谷辺の現在位置へ長崎四郎左衛門嘉国之を遷座す。口伝、同村真言宗慈眼寺権大僧都源長を始めて別当となし、明治742日村社に定められ、明治4054日神饌幣帛料供進指定社に列す。明治4141日前称御嶽神社を地名により玉川神社と改称し、現在に至ると」ある。祭礼は1020日の例大祭、1128日新嘗祭、220日祈年祭が行なわれている。(説明板)

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神明鳥居
鳥居の内は神様がお鎮まりになる御神域を示します。鳥居の形態は60種類以上もあるといわれています。代表的なものに鳥居上部の横柱が一直線になっている神明鳥居(しんめいとりい)、この横柱の両端が上向きに反っている明神鳥居、明神鳥居の横柱上部に合掌形の破風(はふ)のついた山王鳥居、朱塗りの稲荷鳥居などがあります。(解説板)

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狛犬
諸説ありますが狛犬の起源は古代メソポタミアで、神域を守る百獣の王・ライオンの像であるとされています。ここから西のエジプトに行くとピラミッドを守るスフィンクスになり、東へ行くと唐草模様が装飾されたり、高麗犬と呼ばれたり、沖縄ではシーサーになったりと地域の特徴を備え変化しながら日本に伝わってきたと考えられます。その役割は神様のお使いとして神域を守り、邪気を祓うことを担っています。また、狛犬の表情は実に多様です。一般に向って右側の狛犬が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、左側の狛犬が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じていて、右が雄、左が雌で子供を抱いていたりするものもあります。(解説板)

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境内風景

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慈眼寺(じげんじ)参道/瀬田

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庚申塔
慈眼寺の庚申塔は参堂入口の脇にひっそりとたたずんでいます。路傍の石仏の中でも最も親しまれ、当寺の庚申塔は「見ざる」「聞かざる」「言わざる」という謹慎態度を示す三猿の上に、三ツ目・腕六本の青面金剛が刻まれている典型的な江戸中期のもので、造立年月日が「元禄10丁丑年2月廿日」と判読されます。(慈眼寺HP)

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慈眼寺山門


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慈眼寺
喜楽山教令院慈眼寺という。新義真言宗で神奈川県小杉村西明寺の末寺で、京都の醍醐寺派に属する。徳治元年(1306法印定音が巡錫の途上この地を通ったとき里人が滝ケ谷戸崖の中段から降三世明王を発掘したのをゆずりうけ郷士長崎四郎左衛門に告げ、天の奇異なのを思い定音は小堂を建てこれをおまつりした。たまたま里人が障害をこうむったので再び像を地におさめ代りの像をきざんでおまつりした。里人その像をしたいくる者多く、仏堂(修験所)を改築した。定音は正中元年(132486日寂となっている。長崎四郎左衝門(長崎家初代の重光法名、行善の弟)がこの崖下にあった修験所を天文2年栄音外護等信の力をかり、崖の上にうつし東向7間の堂をたて本尊大日如乗を安置し慈眼寺と称し、またこの頃真言宗になったといわれている。

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長崎家の系図によると四代の嘉国(四郎衛門尉)がこの寺を修理していることが記録されているが、なお御嶽権現も鎮座されている。長崎家は菩提所として行書寺小田原から移しているので、この寺は祈願所にあてられた。明治維新後は墓所を設定するようになり、現在260位の壇家があり小説家甲賀三郎の墓がある。本尊大日如来の木坐像は嘉永6年(1853年)に大火災にあっている。寺伝に難をさけて来たとあるので確かなものと思われる。寺の過去帳には「花園天皇の御念詞仏を相伝せる祐宣僧正の系統により、当山は永世五七の桐を定紋となすことを知るべし、文化103月之を記す」とある。定紋は本堂の屋根の棟につけてある。なお、本尊の胎内には長崎家の系図があるという。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景⑤ 坂上を右にクランク状に曲がると用賀の高層ビルが見えてきます大空閣寺(だいくかくじ)

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大空閣寺山門/瀬田

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大空閣寺(だいくうかくじ)
如意山大
空閣寺は真言宗豊山派。祭神であり本尊は虚空蔵菩薩である。大空閣寺は大正天皇ご即位記念として、大正元年虚空蔵行者聖慶大僧正の開基で、昭和10年旧豊多摩郡戸塚町より現在地に移転した。現在の鉄筋コンクリート造りの本堂は昭和42年の建築であり、丑、寅年の守本尊として東都唯一の虚空蔵霊場である。本尊の作者、年代は不明である。名墓、宝物としては西蔵伝来釈迦像、紀州徳川家より寄贈の阿弥陀如来像、西蔵曼荼羅などがある。檀家や基地を持っていない。年間の主な行事としては正月、五月、九月の本尊大祭、節分会などである。境内には開山聖慶の碑、及び豊山能化小林正盛大僧正の開眼仏である円満地蔵像がありまた常施餓鬼観音は世田谷区内33ヶ所第23番の札所。堂内安置の弘法大師は玉川八十八ヶ所霊場第80番の札所である。(せたがや社寺と史跡)

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瘡守稲荷神社鳥居/瀬田

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瘡守稲荷神社(かさもりいなり)
境内には樹令百年余の大欅がある。その傍に小さい神社がある。祭神として老人の石像(全身2尺位)が安置されているが史実になるものは何もなく、したがって祭神、石像の作者、神社の創設ははっきりしない。以下の記述は神社世話人談『神社は江戸時代に出来たことは確かである。昔瘡ができたり病気になったとき当時医者がいなかった。近在の瀬田村、砧、遠く神奈川(川向う)方面の人たちは病気全快を祈り神社にお詣りした。その際、神社の階段におかれてあった多摩川のきれいなを持ちかえり、病気が全快すると多摩川から石を拾いにしてかえす習慣があった。また社内には絵馬がたくさんある。これも近郷近在の人が病気全快や五穀豊穣をねがい、願いがかなったとき絵馬をかい求めお礼にかえしたものらしい。絵馬はキツネが多い。昔の社は敷地130坪位に巾9尺、奥行2間位の小さい社であったが、4年前尾山台神社新築の際、古い建物をもらって建造したものである。年中行事としては正月初午の日、瀬田町中心の旧農家(氏子)の人々が集って赤飯・餅・油あげ等を供えお祭りをする。これが唯一の祭りである』(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景⑥環八は瀬田交差点に迂回して横断、左手が大山道・行善寺Rです/246号

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瀬田周辺案内図(緑:鎌倉道 橙:大山道行善寺R 紫:筏道 青:野川・丸子川)

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・・・用賀

用賀・上用田・玉川台

鎌倉時代の初期に勢田郷ユガ(梵語)の道場が開設されて、後にこの地が真福寺の所有する所となったことからこのユガヨーガになったのではないかと言われている。明治22年、それまでの奥沢・尾山・等々力・下野毛・上野毛・野良田・用賀・瀬田の8村が合併して玉川村が成立し、用賀村は大字用賀となった。昭和7世田谷区成立時に玉川用賀町13丁目に区画された。昭和4346年、住居表示の実施に伴う町区域の変更により上用賀16丁目、用賀14丁目、玉川台12丁目(約4割は玉川瀬田町から)に区画された。(地名由来/世田谷区HP)

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街道の風景⑦ 環八で途切れ道はここへ、この先で行善寺Rと合流します

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合流点に建つ延命地蔵尊        谷沢川田中橋を渡ります

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街道の風景⑧ 用賀駅の北側、用賀商店街に旧道の面影が残ります

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真福寺山門/用賀

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真福寺/用賀新義真言宗智山派に属し、総本山は京都智積院で、等々力の満願寺の末寺である。実相山真如院といったが、瑜伽山と改められ、古くから山門が朱塗りのため通称、赤門寺とも呼ばれている。本尊は大日如来、その坐像が本堂に安置され、九品仏の開山の珂碩上人の作といわれている。開山は法印宗円和尚で天正6(1578)620日示寂している。開基は用賀村を開いた飯田図書で、法名は花巌院法誉善慶居士といって天正元年3月に歿している。飯田帯刀・同図書の父子は小田原北条氏に仕えていたが、永禄・元亀年間(1558-1572)にこの用賀村にきて土着したといわれている。

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しかし用賀に土着してからは非常に勢力をもつようになり、苗字・帯万を許され彦根藩の代官職をつとめていた。その当時は2名の代官制をとり、その1名が飯田家であった。この代官も2代でやめ、つまり、宝暦(17511763)明和(17641771)の時代までで、それからは名主として重んじられていた。今も屋号を元名主の名で呼んでいる。享和3(1803)5月に本堂・庫裡とも焼失、古文書も失ったが後に再建された。昭和28年~29年に赤い山門を新築、昭和37年~41年にかけて本堂の修理、鉄筋2階建の庫裡が新築され、庫裡と本堂の聞には他の寺ではみられない太鼓橋、泉水がつくられている。行事は仏寺の一般な年中行事だけであるが、お盆の行事は壇家300戸の家族づれが多く、墓どうろうをたてる夏の風物詩としてにぎわっている。境内に芭蕉の句碑がある。なお、明治12年ごろ京西小学校の仮校舎として使用されたようである。(せたがや社寺と史跡)

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庚申堂・太子堂            芭蕉句碑

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用賀神社鳥居


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用賀神社
祭神は天照大御神で、誉田別命・足仲彦命・息長足姫命・市杵島命・菅原道真・倉稲魂命・大山祇命を合祀している。この神社はもと天祖神社といわれ、その創立・由緒などは不詳である。合祀社である宇佐神社は天正年間(1573-1591)鶴岡八幡宮よりその御分霊を勧請奉斎したといい伝えられている。宇佐神社は明治51127日村社に指定、明治41811日現在の地にあった天祖神社と宇佐神社・北野神社・巌島神社・稲荷神社・山際神社(何れも無格社)を合祀し、明治41117日地名をとり用賀神社と改めた。「東京府志料」に「此用賀村、永禄・元亀ノ頃、飯田帯万同図書ナド云ル人ノ開発ナリトイヘトモ(中路)。戸口戸数百五十四戸、内僧侶二戸、平民百五十二戸、人口七百四十人」とあり、また、天祖神社は社地五百坪、明治41年村社宇佐神社を合祀して用賀神社と改称した。例大祭は108日・9日、秋祭(新嘗祭)も行なわれている。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景⑨右手が桜新町R、鎌倉道は左手の細路地を弦巻へ向かいます/大山道分岐

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用賀駅周辺地図(緑:鎌倉道 橙:大山道 青:谷沢川)

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瀬田周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:鎌倉道 橙:大山道行善寺R 紫:品川みち・筏道青:野川・丸子川・谷沢川)

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by Twalking | 2019-05-06 16:56 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(4)十条~川口04-川口   

日時 2019.4.18(木)
天気 晴れ

岩淵までと思っていましたが、現荒川を渡り
川口宿をぶらりと歩いてみました。
ここは裏路地を含めてじっくり歩くと面白いと思います。

武蔵野台地を二子玉川から東回りで岩淵に到着しました。
平成最後の街道歩きになりましたね~・・・
そう思うとちょっと感慨深いものがあります。


・・・岩淵/北区

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街道の風景① 荒川(旧江戸川放水路)を対岸の船戸ヶ原へ渡ります/新荒川大橋

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新荒川大橋
川口市船戸町と北区岩淵町との間で荒川および新河岸川に架かる国道122(岩槻街道・北本通り)の密接する2本の橋である。下り線が1966竣工の橋、上り線が1970竣工の橋となっている。現在の橋は1966年(昭和41年)に開通した2代目の橋。構造は単純桁橋で新橋である上り線は中央部に3径間連続鋼ゲルバー式桁を有している。橋長は旧橋である下り線が総延長809.917m(荒川渡河部は673.957m、背割堤部は17.000m、新河岸川渡河部は118.950m)、総幅員は9.950m、有効幅員は車道7.25m、歩道2.0m、最大支間長は76.000mである。一方の新橋である上り線は橋長792m、総幅員は9.3m、有効幅員は車道7.25m、歩道2.0mである。(Wikipedia

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川口の渡し
新荒川大橋が開通する以前は「川口の渡し」と呼ばれる日光御成街道に属する船三艘を有する官設の渡船で対岸を結んでいた。場所は現在の橋の上流側に位置していた。また、現在の橋とほぼ同じ位置に川口河岸も設けられていた。付近の荒川は平水時、その川幅60間(約109)程度であった。近くに名所である善光寺があり、江戸市民が信州に行かずとも善光寺参りが江戸近郊で手軽に済ませられるとあって渡船場は大変な賑わいだったという。大名の日光参詣の際や善光寺の開帳中には臨時に板橋の仮橋が架けられた。船頭は川口町の高木家により運営された。この渡船は1905(明治38年の舟橋の架設により廃止された。舟橋は「舟戸の船橋」と呼ばれ1891年(明治24年)に東京府と埼玉県の許可の元、大野孫右衛門が開設した。場所は渡船場のやや下流の位置に設けられた。長さは66間(120)、幅は75寸(約2.27m)で、船を11並べてその上に板を渡したものであった。(Wikipedia抜粋)

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街道の風景② 対岸の船戸ヶ原より岩淵宿を望みます


・・・舟戸町
(ふなとちょう)/川口市

川口市の南部の荒川河川敷に全域が位置する。町域が新荒川大橋付近で荒川の流路を超えて北区側に張り出しているが、河川改修前の荒川は現在より蛇行していてそれに沿って境界が設定されていた名残である(Wikipedia)

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小川口
この辺りは船戸ヶ原で旧街道時代の川口宿があった所であるが、小川口といわれていた。古利根川に大きな渡し場があったのでそこを川口とし、こちらを小川口と読んだのであろう。源頼朝の挙兵を聞いた義経が平泉から駆けつけたのはここで、「義経記」に『宇都宮の大明神伏拝み参らせ、室の八嶋をよそに見て、武蔵国足立郡こかわ口に着き給ふ。御曹司の御勢85騎になぞりける』とある。
二条后(きさき)も正応21289)の末にここに来て尼さんの家に身を寄せている。二条后は「とはずかたり」の著者で、信州から武蔵野を通って浅草に行っている。『武蔵国小川口という所へ下る。あれより年かえらば善光寺へ参るべしといふも、便り嬉しき心をしてまかりしば、雪つもりてわけゆく道も見えぬに鎌倉より2日まかり着きぬ。かようのもの隔りたるありさま、前には入間川(注:江戸時代に入間川と荒川を合流させ現在の荒川となる)とかや流れたる。向へには岩淵の宿といひて遊女どものすみかあり。山という物はこの国内に見えず、はるばるとある武蔵野の茅が下をれ、霜枯れ集めてあり』と記している。(旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)
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善光寺境内/船戸町 堤防の上みたい、期待していましたが・・・ちょっと寂しいですね 

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平等山善光寺
真言宗智山派。建久81197)定尊が信濃の善光寺の阿弥陀三尊を模造して安置し開創。信濃の善光寺と同様「一光三尊阿弥陀如来」を本尊としました。信濃の善光寺と同じ御利益があるとされ江戸市民の信仰をあつめました。江戸市民は江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあってこぞって参詣しました。

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文化・文政年中(180430)「江戸名所図会」に描かれた当山全景もこのころのもので、境内には十五堂宇が描かれ 当山の幸運隆盛のほどを如実に物語っています。明治新政府が樹立されると 神仏分離令が布告され廃仏毀釈運動が全国に広まり、当山も本坊(善光寺本堂)と支坊(東明院・西善院)の三か寺に分割され、一時は宗教活動にまで支障を来す状態に陥りますが明治27年(1894)一堂二院を合寺して改めて善光寺と称しました。元文4年(1739)に建立された本堂、諸堂宇はしばしば修復され太平洋戦争の空襲禍をも免れたものの 残念ながら昭和43年 (1968)災禍によって焼失してしまいました。(善光寺HP抜粋)

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江戸名所図会 川口善光寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



・・・本町
(ほんちょう)

埼玉県川口市南部に位置し中央地区にあたる。本町は本町一丁目を中心として江戸時代から「川口宿」として栄え、古くから川口の中心市街となっており、川口市立本町小学校が本町二丁目に所在している。本町四丁目を中心として現在に至るまで商業地であり、そのため町並みは岩槻街道に沿って戦前からの住居や商家の風景に特徴がありながら、近辺の交通の発展によって生まれたビル群も見られる。(Wikipedia

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街道の風景③ 川口宿入口左手に「鎌倉橋之碑」が建ちます/本一通り

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鎌倉橋の碑
鎌倉橋はかって荒川のかたわら船戸が原を流れていた小川にかけられた橋で、この碑の南方約120の地点、現在川口市立南中学校の校庭にその礎石を残しています。鎌倉橋と呼ぶその名はこれが奥州へ通っ枢要な鎌倉街道に架設されていた橋であることを示しています。義経記にも治承4年(1180源義経が兄頼朝の挙兵に応じて平泉を発し武蔵国足立郡こかわぐちを過ぎる時徒う軍勢は85騎と記して、当時すでにこの地が奥州への街道の要所であったことを伝えています。わが川口はこの街道の道筋として発展し今日のこの繁栄の基を築いたもので、鋳物業がこの地に興ったのも実にこのためであります。鎌倉橋の史蹟はこの次第を語りわが市の遠い起源をここに伝えています。郷土川口の限りない進展を願うわれらはこの史蹟の語る声なき声に本市創始のいにしえをしのび雄大なる未来創造の英気をここにくみとりましょう。(説明板)

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日光御成道と鎌倉街道
日光御成街道は中世の鎌倉街道中道ととにして整備されました。この地は奥州への要所でした。「義経記」には源義経が奥州から鎌倉に向かう際に小川口(こかわぐち・現在の川口市)で兵をあらためたと記されています。御成道が将軍社参にふさわしい道として整備されたのは寛永年間162444)といわれています。荒川北側の小川に架かっていた土橋は鎌倉橋と呼ばれ、江戸時代においても重要な橋の一つで、たびらび修築を加えられ明治初期まで残されていました。しかし、荒川の河川改修などにより消滅し、現在はこの緑地内にかつての橋の存在を記念して石碑が建てられています。(説明板)

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川口宿から辻村までの御成街道と川口宿鹿絵図(そえず)/永瀬家文書

文政4年(182110月、川口宿の問屋・年寄から取締役人に提出された絵図です・川口宿をはじめ御成街道筋の村々の名称のほか寺院・家屋・用水・松並木が記されています。(説明板)

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街道の風景④ かつての賑わいはありませんが落ち着いた街です

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本陣跡                昭和の面影が残ります

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街道の風景⑤ 路地を横切り裏町通りを見てみました

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裏町通りと鋳物工場の街並み金山町本町1丁目の境を南北に走るこの通りは「裏町通り」と呼ばれています。江戸時代後期の風景や風俗を紹介した「遊歴雑記」には『此駅の南、裏町筋に釜屋数十件あり、釜のみを作る舎あり或いは鉄瓶または銚子、或いは釣、扨は蓋と作業家々に司る処わかれて両側に住宅し、見物を許せば細工場へ入ておのおのその鋳形を見る。一興というべし・・・』とあります。ここにある「うらまち筋」が現在の裏町通りであり、江戸時代には数十軒の鋳物屋が鍋・釜・鉄瓶などの日用品を分業して製造していたことが分ります。また「日光御成道分間延絵図川口宿」を見ると裏町通り沿いに集落があり、鋳物業この通りを中心に発展していったことが分ります。明治時代に入ると、技術革新により工場数は次第に増加し金山町界隈には新たな工場が建てられるようになりました。明治3年発刊の「埼玉県営業便覧」を見ると、裏町通りには多くの鋳物製造業者とともに様々な商店が軒を連ね、金山町界隈が裏通り裏町通りを中心として賑わっていたことが分ります。現在の裏町通り周辺には明治4年(1872)に創設した川口最古の鋳物工場がある。永瀬留十郎工場や国の有形文化財である旧鋳物問屋鍋手別邸や国の記録有形文化財である旧鋳物問屋鍋手別邸(現川口市母子父子福祉センター)が面影を残しています。(説明板)

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明治時代中頃の裏町通りの街並み/明治35年(1872)発刊「埼玉県営業便覧」

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街道の風景⑥ 北側からみていますが、これは絵になる風景ですね~

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日光御成道と川口宿日光御成道は中世の鎌倉街道中道をもとにして、徳川将軍が日光社参を行うための専用道として整備されました。本郷追分で中山道と分かれ岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻の5宿を経て、幸手追分にて日光道中に合流する12里余(約48km)の道です。日光社参は徳川将軍が日光山に赴き東照大権現(家康)、大猷院(たいゆういん・家光)といった先祖の霊廟を詣でる行事です。社参は元和316172代秀忠から始まり天保14年(184312代家慶(いえよし)まで17行われており、その中でも秀忠が4回、家光が9回を数えます。社参が川口宿を通ったことが分かっているのは6回で、錫杖寺(しゃくじょうじ)が御休所として使われました。

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川口宿は本郷追分から二つ目の宿場です。宿の機能には運輸・通信・宿泊などがあり、最も重要なのは公用で通行する貨客に対して人馬を提供しこれを輸送することでした。日光御成道の宿駅の役割としては川口宿は荒川を挟んだ一つ目の宿である岩淵宿との合宿になっていました。合宿とは二つの宿で一宿分の業務を行う宿のことで、半月ごとに業務を交替で行いました。『日光御成道宿裏大概帳』(天保14年・1843)によると、当時の川口宿の人口は1406人、家数が295軒、この内本陣・脇本陣、旅籠、諸商店などがあり、また裏町(うらまち)には鋳物を生業(なりわい)とするものが10数名いると記されています。荒川端から元郷村(もとごうむら)までを宿域とし長さ1357間(約1522m)の道筋に家並みが立ち、御成道の西側の裏町、横小路にも家並みが広がっていました。川口宿内の日光御成道は現在の本一通りにあたり、今も通りの両脇には当時を偲ばせる古い商店などがあります。(説明板)
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日光御成道の経路図


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鍋屋の井
「遊歴雑記」(釈敬順)の中の記。『此の釜屋どもの庭中に悉く井あり、化粧側の高さは九尺、又は八尺、低きというも五尺より低きはなし。この側の上より清泉吹き溢れ迸り流る。此の土地の家々の井みなかくの如くというにあらず。釜屋のみに限ってかかる名水あり。依て釜屋の井戸とて名高し、蓋し、長流の川添は水の湧出するものにや』川口は浦和水脈という地下水脈の豊富に集中する地域でそのため各地にこのような「吹き井戸」があった。大正12年、ユニオンビールが川口に進出したのもこの水に據ったものと考えられようが、この会社の進出がやがて次第にこの吹き井戸の水勢を弱めていったのは皮肉である。写真は江戸名所図会に描かれた「鍋屋の井」である(説明板)錦絵:江戸名所図会 鍋屋の井 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景⑦ 駅への道を横断して細路地を錫杖寺へ向かいます

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凱旋橋跡付崖線橋之碑
これは明治39(19066)1月に日露戦争出征兵士の凱旋を祝し、旧川口町の町長以下町民たちによって架設された凱旋橋の跡と川口神社境内にあるその由来を記した記念碑です。鋳物業が飛躍的に発展し、地域が発展していく契機となった日露戦争の記念となる文化財です。(川口市教育委員会)

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錫杖寺表門

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錫杖寺山門

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錫杖寺(しゃくじょうじ)
養老元年717)に行基が本堂を建立、自ら地蔵菩薩を刻み本尊とし開基したと伝えられています。のち、北条時宗の帰依を受けた鎌倉長楽寺開創の願行上人が再興、寛正元年1460)には室町幕府8代将軍足利義政により七堂伽藍が整備され、中興の祖宥鎮和尚を晋住させました。以降、醍醐三宝院直末関東七ヶ寺の一つ、十一談林所の一つとして末寺53ヶ寺を有する名刹として栄えました。元和81622)には江戸幕府2代将軍徳川秀忠の日光参社の際の休息所となり、以降歴代将軍により利用されました。また、3代将軍家光からは金子、材木を拝領し、御成門を建立するとともに御朱印20石を賜るなど「川口宿」の中核寺院として繁栄しました。(説明板)

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銅鐘(埼玉県指定有形文化財)
この銅鐘は池の間(鐘の中央部分)に刻まれている銘文から寛永1816419月、川口宿名主である宇田川氏が先祖供養の施主として川口鋳物師長瀬冶兵衛守久が鋳造し菩提寺である錫杖寺に奉納したものです。銅鐘の製法は右に示すとおり湯(溶融した金属のこと)を型に4回に分け流し込んで造られています。形状は総高132cm、口径66cmと比較的小型ですが、型抜きの良い細身の美しい形をしています。上部の鋳型の継ぎ目を隠すための疵状の突起は江戸時代初期の鋳法の特徴を示し、池の間には由来が記されています。また、吊り手の龍頭は精巧で美しい形をしており近世初期の工芸品として、また川口を代表する地場産業である鋳物業の歴史をたどる上でも大変貴重な資料です。(説明板)

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川口天満宮縁起
天満宮は天満大神(菅原道真公)(845903年)を祀る社である。菅原道真公は野見宿彌の子孫であり大和国菅原の地名より菅原宿彌となり、後に朝臣となる。代々文章道をもって朝廷に使えたが延喜元年太宰権師に左遷され、翌々年同所で死去、その後雷神信仰と結び、中世以降各地で寺社の中に祀られ盛行した。当山に安置する天満宮は、もとは境外西の方にありご神体は今からおよそ1,100年前道真公自らの作として伝えられ、梅樹の根より穿出(せんしつ)せしものという「武蔵風土記稿第七巻」。学問・文芸の神様として知られ、225日が菅原公の命日、毎月25日が縁日として多くの方々の信仰を集め、今日に至っている。(錫杖寺)

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地蔵堂                福禄寿堂


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川口神社鳥居

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川口神社
川口
の名は当地の南を流れる入間川(現在の荒川)に合流する芝川河口に当たることに由来するとされ、鎌倉・室町時代には「小河口」と称されていたことが『とはずがたり』『義経記』から知ることができる。また、当地は日光御成街道の宿場として栄えたが、この道は時代をさかのぼると中世は「鎌倉街道中道」更に古代は東国と陸奥を結ぶ「奥大道」であり、古代からの重要な街道であった。この小河口の成立は定かでないが、当地の善光寺の開山は建久8年(1197)とされ、同寺には弘安元年(1278)を初めとする鎌倉・室町期の板碑が数多く残り、錫杖寺も中興を寛正元年(1460)と伝える。また、度重なる荒川の水害により旧記亡失して詳らかでないが、当社にも暦応21339)・天文41535)の板碑が残ることからこのころには既に集落が存在していたようである。

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当社の創建も定かではないが、室町期の作と思われる一木造りの男神像を奉安することから室町期には既に建立されていたと見られる。社蔵の棟札は貞享元年(1684)の本殿再建、元禄4年(1691)の修理、宝永7年(1710)の社殿修理、天明8年(1788)の社殿大修理、嘉永3年(1850)の本殿修理を伝える。当社は明治6年に村社となり、同276月に字新屋敷の天神社を合祀し、同354月に字町並の第六天社、字荒川堤外の石神井社を境内社として移転、同407月に字押田・字金山・字谷中の各稲荷社を境内社の杉山稲荷神社に合祀した。また、同4210月に川口の鋳物師の鎮守であった字塚越の金山社を合祀すると共に社号をそれまでの氷川社から川口神社に改称した。

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その後は明治42年に本殿屋根葺替えがなされたが大正12年の関東大震災で神楽殿が全壊した。更にこれに伴う拝殿・幣殿・神楽殿・社務所の改築が進んでいた昭和2年、火災により本殿・拝殿・幣殿・末社を焼失した。こうした相次ぐ羅災にもかかわらず昭和4年に拝殿・幣殿・神楽殿・社務所・杉山稲荷神社を竣工、同10年には県社に昇格、同18年には紀元2600年記念事業として本殿・神門・手水舎が完成し復興をみた。次いで同22年、合祀社の金山神社を独立の境内社とした。更には御大典奉祝記念事業として平成35月に境内社の梅ノ木天神社を新築、同611月には境内社の杉山稲荷神社・第六天社・石神井社を三社神社として新築、同じく境内社の八雲社と金刀比羅社を移築するなど境内整備を行った。当社の社務は元和4年(1618)から明治初年まで、錫杖寺の末寺・雨宝山大悲院延命寺が別当として務めていた。また、別当が廃された後は明治2年に竹本八五郎が社掌に拝命されてより太郎吉・佳年・佳輝・佳徳と代々竹本家が宮司を務めている。(埼玉県神社庁)

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川口神社の神鏡
この神鏡は井沢弥惣兵衛為永の配下にあって見沼溜井造成工事を担当した杉島貞七郎保英が奉納したものです。保英は川口宿の宇田川定盛の子として生まれ、小普請組杉島不一の養子となり小普請組に属し、鎮守である氷川神社に工事の完成を祈願し、祈願が成就したことにより奉納されました。直径30cm、厚さ0.5cm、裏面には「奉納・御寶前・武州川口町鎮守・杉島貞七郎花押」、中央には「氷川大明神」三つ巴文とともに「享保18年癸年9月吉祥日 中村因幡守作」の銘が鋳出されています。(説明板)
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金山神社
金山神社は南北朝時代暦応年間の御鎮座と伝へ、江戸時代以降川口鋳物業の発展に伴ひ鋳物師の守護神「金山権現」として篤い崇敬を受けてきた。当寺の祭日は1119日で祭も盛大を極めたと言ふ。かつては当地の南西約三百米の地に鎮座してゐたが、政府の方針により明治42年川口町内の他の神社とともに町の鎮守であった氷川社合祀され、現在の川口神社となった。昭和の大戦後は神社が国家の管理を離れたため、鋳物業関係者と氏子有志の熱望により、川口神社の旧社殿を移築して別宮とし、金山彦命の御分霊を奉祀したものである。御祭神の神徳は広大で国民生活に欠かせない金属の生産と流通、特にお金の流通をつかさどり、諸産業の発展と人々の幸福、社会の平和、国家の繁栄を守護される。(説明板)

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川口神社境内

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街道の風景⑧ 夕暮れの街を川口駅へ向かいます

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川口周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:鎌倉道 青:荒川・芝川)

鎌倉道中道東R(4)03-岩淵水門の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27574102/

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鎌倉道中道東R(十条~川口)ルート図


by Twalking | 2019-04-30 23:25 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(4)十条~川口03-岩淵水門   

日時 2019.4.18(木)
天気 晴れ


日光街道を歩いていると元荒川とか古利根川など
多くの河川に出合います。
???・・・と調べてみると背替えをしてるんですね。

家康が命じた「利根川の東遷」&「荒川の西遷」ですが、
この時代に物凄い土木工事をやったんですね・・・、
これを頭にいれないと歩けないな、と思いました。

その後、明治の洪水を契機に荒川放水路が開削されました。
これも大規模な背替えですね~、「荒川知水資料館」に
資料展示されていると知りましたので見学しました。
非常に参考になりました、ありがとうございました。


・・・岩淵水門

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川の風景① 河川敷から荒川の景観です、右手が岩淵水門になります

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この辺りが旧荒川でしょうか           岩淵緊急用着船場

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川の風景② 旧岩淵水門(通称:赤水門)

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岩淵水門
北区志茂において現在の荒川隅田川とを仕切る水門。かつて「荒川放水路」と呼ばれた人工河川を現在は荒川と呼び、かつての荒川を「隅田川」と呼ぶ。この水門はこれらの分岐点にある。新旧2つの水門がある。旧水門の通称は赤水門、新水門の通称は青水門。赤水門1924(大正13年)に竣工し、すでに運用を終了した。青水門1982(昭和57年)竣工し運用中である。荒川上流からの流量が増えた場合岩淵水門を閉め切って、隅田川の洪水を防ぐために設けられている。平常時は水門を開け荒川新河岸川・隅田川とをつないでいる。旧水門はその色から通称「赤水門」と呼ばれる。1916年(大正5年)に着工し、1924年(大正13年)に完成した当初の水門。RC造(一部S造)で9幅のゲート5で構成されている。新水門はその色から通称「青水門」と呼ばれる。旧水門の老朽化、地盤沈下対策、また洪水調整能力の強化を考えて300mほど下流に作られた。1974年(昭和49年)に着工し1982年(昭和57年)に完成した。RC造で10幅のゲート3で構成されている。重さは1枚あたり214tで1500tの水圧に耐える。増水時には水門を閉じ荒川上流と隅田川の水流と途絶させる。(Wikipedia

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旧岩淵水門(東京都選定歴史的建造物)
旧岩淵水門は明治431910)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川との分派点に設けた。水門はローラーゲート構造で、幅約9の五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103の大型構造物となっている。本体は煉瓦構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916)に着工し同131924)に竣工した。昭和22年(1947)のカスリーン台風や昭和33年(1958)の狩野川台風の大出水の際も機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部地域一体における広域的な地盤沈下により本水門も沈下してきたため、昭和35年(1960)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。その後、昭和48年(1973)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和571982)に約300下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。(東京都)

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川の風景③ 水門公園から見る青水門です/水門広場

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草刈の碑
農民は先ず草刈りから


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「月を射る」青野 正 材質:リバーテン鋼 平成8年度荒川リバーアートコンテスト特別賞受賞作品

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隅田川
北区の岩淵水門荒川から分岐し東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流する。古くは墨田川、角田川とも書いた。当川の河道は、元は旧入間川が東京湾へ注ぐ下流部だったが、江戸時代には瀬替えの結果、荒川の本流が流れた。昭和時代に荒川の分流となり隅田川が正式名となった。古代には隅田川は、旧利根川旧入間川が現在の足立区千住曙町付近合流し、南流して東京湾へ注ぐ河道を指した。

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合流点の東岸を隅田(墨田)と呼んだ。2km下った墨田区向島5丁目北端付近から下流は砂州が散在する河口への分流地帯だったが、東京湾へ注ぐ主要河口への河道は浅草方向へ向かう現在の河道から離れ、横十間川の方向へ2km流れ、現在の横川(墨田区)と亀戸(江東区)との間付近で東京湾へ注いだ。ただしこの河口河道は次第に土砂の堆積で河勢が弱まった。この隅田川は武蔵国(豊島郡)と下総国(葛飾郡)の当初の国境だった。南北2kmの合流区間は両国を繋ぐ接点として重要で、771以降東海道が通り隅田川を渡船で隅田へ渡った。835年(承和2年)の太政官符に「住田河」として記されており、「宮戸川」などとも呼称されていた。(Wikipedia


・・・荒川知水博物館

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展示風景① 荒川の歴史(流路の変遷)がまとめられています

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【江戸時代以前】
利根川に流れていた昔の荒川
江戸時代以前の荒川は現在の元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。しかし荒川は扇状地末端である熊谷付近より下流でしばしば流路を変えて氾濫・乱流を繰り返していました。

【江戸時代~明治時代中期】
徳川家康の命で行われた荒川の「西遷」

徳川家康から命を受けた伊奈備前守忠治寛政61629に荒川を利根川から分離する工事に着手しました。熊谷の久下地先元荒川の河道締め切って堤防を築くとともに新たに川を開削し、和田吉野川市野川入間川を経て隅田川に流入し、東京湾に注ぐ流路に変えたのです。この大規模な河川改修工事は後に「荒川の西遷」と呼ばれるようになります。

【明治時代後期~現在】
明治以降の荒川(放水路の完成後)

「西遷」後も荒川沿川では各地で洪水が頻発していました。特に明治41910)の大洪水では荒川下流部の堤防はここごとく決壊し、隅田川でも洪水があふれて深川や本所付近が浸水しました。これを契機に荒川放水路の開削が決定、荒川本流を隅田川から仕切る水門(岩淵水門)を北区岩淵に設け、そこから中川の河口方向に向けて延長22km、幅約500の放水路をつくる一大プロジェクトが行われました。(展示パネル)

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江戸時代に行われた主な河川改修/展示パネル

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展示風景② 荒川放水路(現荒川)の開削経過などが展示されています

荒川の水害と放水路の誕生
明治431910)、荒川に起きた大洪水がきっかけとなって、東京を水害の恐怖から救うため新たな放水路の建設が持ち上がりました。岩淵から中川の河口まで全長22km500に及ぶ大規模な放水路をつくり、洪水時には本流側(隅田川)の増水を押さえるため岩淵水門を閉め、あふれた水の大部分をこの人工河川で流してしまうという計画です。工事には多くの資材と領力がついやされ、当時世界でも最新の技術や機械が導入されました。20年の歳月をかけて完成した放水路は荒川の「本流」に認められた今も首都圏を洪水の危険から守り続けています。(展示パネル)

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放水路開削以前の荒川
明治中期の流域地図(迅速測図原図 明治19年復刻版)/展示パネル

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農村地帯に水害を増大させたロウト状の地形
江戸時代、荒川下流部(隅田川)の右岸日本堤左岸には隅田堤が築かれていました。この二つの堤に挟まれたロウト状の地形によって、荒川の洪水は堤の上流側にあふれ、下流側の江戸市街地の被害は軽減されることになりましたが、遊水ゾーンにあてられた農村地帯では長い間水との闘いが続いてきました。
日本堤
現在の日本堤町、土手通り付近。浅草聖天町付近から山谷堀に沿う形で西北に延び三ノ輪付近で上野の台地から連なる微高地につながっていた。
隅田堤
現在の墨堤付近、綾瀬川合流点からはじまり新小梅町あたりで消失。(展示パネル)

山谷堀(日本堤)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27262253/


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放水路建設のきっかけとなった明治末期の大水害
明治43年(1910)関東地方を襲った台風で荒川の下流部(隅田川)が氾濫し、東京の下町やそ沿川一帯は大洪水に見舞われました。(浸水家屋27万戸、被災者150万人、被害総額は当時の国民所得の約4.2%にあたる12000万円余)この大水害を契機に荒川の進路を変えて東京を洪水から守ろうという放水路建設が計画されたのです。(展示パネル)
図:明治43年の洪水による被災範囲(赤枠)荒川下流部のみ・区県境は現在のもの)

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放水路開削工事中の荒川(大正5年の流域地図)/展示パネル

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放水路完成まじかの荒川(昭和4年流域地図)/展示パネル

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荒川放水路改修平面図/展示パネル

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放水路工事の手順
測量・調査・用地の収用などの前段階を済ませて、工事はまず川岸部分を平坦に整えることから始まりました。次に「エキスカ」と呼ばれた蒸気式の掘削機を使って低水路となる所を掘り、それから水をひいいて浚渫船などで更に深く掘り進めました。最後に岩淵水門から放水路の全川に通水。工事の大半が完了したのは大正13年のことです。(展示パネル)

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蒸気掘削機による工事風景       浚渫船による工事風景

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展示風景③ 荒川放水路をつくった代表的な技師たち

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青山士(あきら)
荒川放水路工事の最大の功労者は青山士です。青山はパナマ運河の工事を日本人としてただ一人参加、最先端の土木技術を学んで帰国し、放水路と岩淵水門の工事責任者となりました。資料館入口に残る『此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ』とだけ記された記念碑がその人柄をあらわしています。(展示パネル)
静岡県磐田市生まれの土木技術者。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人であり、荒川放水路の建設、信濃川大河津分水路改修工事を指揮した。

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中川・綾瀬川の旧河道と現河道
放水路開削工事では数多くの水門や閘門が建設されました。建設された水門や閘門の中には現在の荒川を代表する構造物もあります。放水路の規模が大きかったことから数多くの付帯工事が発生しました。(荒川放水路変遷誌/荒川下流河川事務所)

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荒川放水路の完成
明治44年(1911)に事業に着手された荒川放水路も20の歳月をかけて昭和5年に完成しました。放水路の完成によって荒川の洪水が抑制されるようになると沿岸の開発も進んでいきました。荒川放水路通水後は放水路が洪水抑制の効果を発揮したことが確認されています。図は大正148月洪水時の放水路の水位と隅田川の水位を比較したものです。岩淵水門点の放水路の水位と隅田川水位差2.83mあったことが示されています。(荒川放水路変遷誌/荒川下流河川事務所)

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荒川下流域立体地図/展示パネル

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荒川放水路完成記念碑
『此ノ工叓ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト勞役トヲ拂ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センカ爲ニ 神武天皇紀元二千五百八十二秊荒川改修工事ニ從ヘル者ニ依テ』

この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。荒川下流改修工事事務所主任技師(現工事事務所長)であった青山 士および工事関係者一同が工事の犠牲者を弔うために資金を出し合ったものである。台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。(説明板)

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船堀閘門頭頂部

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船堀閘門頭頂部
荒川には放水路開削前から隅田川から小名木川新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、小名木川が接する部分には従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため右岸側小名木閘門小松川閘門を、左岸側新川水門船堀閘門を設置しました。新川と中川を隔てる背割堤上にある船堀閘門は高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。(昭和2年・1927着工 昭和4年・1929竣工、昭和54年・1979撤去)(説明板)

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京成押上線旧荒川橋梁基礎杭      水神社

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川の風景④ 荒川知水資料館からみる荒川の景観、正面が赤水門、右手が隅田川です

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荒川知水資料館
荒川知水資料館は地域のみなさんとの交流、荒川の洪水、水害の歴史や自然環境などの情報発信基地として平成103月に開館しました。館内では荒川の生きもの、荒川の歴史について展示しています。1F:新しい荒川に出会うフロア 2:F荒川を知るフロア 3F:荒川を見守るフロア(パンフレット)
場所:北区志茂5-41-1(赤羽駅・南北線赤羽志茂駅より徒歩1520分)
03-3902-2271 入場無料

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周辺案内図
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岩淵付近今昔マップ(明治初期~中期)/歴史的農業環境閲覧システム

鎌倉道中道(東)(4)-02岩淵の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27569378/


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資料ファイル

荒川の歴史
【江戸時代以前】
すでに鎌倉時代には元荒川筋の鴻巣市と吹上町(現、鴻巣市)の境界付近に「箕田堤」「太田庄堤」、熊谷市付近の荒川左岸に「熊谷堤」などがあり、幕府が越辺川と都幾川合流点の堤防を修理したことや、室町から安土・桃山時代にかけては後北条氏が川島町伊草の入間川と熊谷・鴻巣市周辺の元荒川筋堤防を築いたことが残されています。いずれも江戸時代以前の河川改修は小規模で「荒川の流れ」そのものに手をつけることはなかったようです。

江戸時代】
荒川が人の手によって「流れ」そのものを変えられた時代です。それを可能にしたのが徳川政権の誕生と技術の進歩でした。家康の命を受けた伊奈氏は後に「利根川の東遷荒川の西遷」と呼ばれる利根川と荒川の瀬替えを行いました。利根川水系と荒川水系を切り離すこの大規模な河川改修事業により荒川熊谷市久下で締め切られ、和田吉野川・市野川・入間川筋本流にする流れに変わりました。これにより埼玉県東部の新田開発や荒川を利用した舟運が進み、舟運によって集まる物資により江戸は世界に誇る100万都市に成長します。その一方で新たな水を受け入れることになった和田吉野川市野川の周辺では水害が増え堤防や水塚などがつくられました。関東平野の治水は代々関東郡代を世襲した伊奈一族が行い、長男の忠政、次男の忠治へと受け継がれています。(荒川上流河川工事事務所HP)

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利根川・荒川流路変遷図/荒川上流河川工事事務所HP
(青:荒川・入間川・隅田川・元荒川 紫:利根川・古利根川 橙:江戸川)


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川の風景⑤ 赤羽桜堤緑地より新荒川大橋(新河岸川部)を望みます

新河岸川

武蔵野台地北部に降った雨を集めた伏流水入間川(笹井堰)からの水田用水を水源とする赤間川が、埼玉県川越市上野田町の八幡橋付近で新河岸川と名前を変え起点となる。川越の市街地の北側を回り込むように流れた(ここは途中の田谷橋まではかつての赤間川である)後で、川越市大字砂付近で不老川、川越市大字南田島付近で九十川と次々に流れ込む支流を合わせながら荒川の西岸沿いを流れて、東京都北区の岩淵水門先で隅田川に合流する。

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歴史
江戸時代、川越藩主松平信綱が当時「外川」と呼ばれていた荒川に対し「内川」と呼ばれた「本川」に「九十九曲り」と言われる多数の屈曲を持たせることによって流量を安定化させる改修工事を実施し、江戸と川越を結ぶ舟運ルートとした。これ以降、本川沿岸には新たに川越五河岸をはじめとした河岸場が作られ、川の名も「新河岸川」と呼ばれるようになった。舟運は特に江戸時代末期から明治時代初めにかけて隆盛した。

改修されるまでは川越市の伊佐沼源流であったが、1910(明治43年)降の荒川直線化工事に合わせて、1920(大正9年)〜1931(昭和6年)に川越市街地の北側を流れ伊佐沼に流入していた赤間川に新河岸川は繋げられた(現在の田谷橋付近から田島橋付近まで開削、伊佐沼から流れ出る旧新河岸川部分は現在は九十川という)。また、志木より下流も掘り進められ、当時大和町(現在の和光市)新倉荒川合流していたのを、現在の岩淵水門隅田川に合流する形となった。さらに昭和に入ると志木より上流の旧河川も洪水防止のため河川改修工事が行われた。図:新河岸船運の河岸(Wikipedia



by Twalking | 2019-04-28 21:04 | 鎌倉街道(新規)