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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:鎌倉街道(新規)( 68 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(2)笹塚~中板橋01-鍋谷横丁   

日時 2019.5.16(木)
天気 晴れ/曇り


笹塚から旧甲州街道を横断し、多田神社へ向かいます。
住宅地なので道は消えていますが、神社周辺は
旧街道の名残を感じる所です。

水道道路から中野富士見駅、十貫坂も同様ですが、
道を探しながら上ると富士見ハイム角で、大宮八幡からの
旧道と合流します。この坂が十貫坂、歩いてみて初めて知りました。


・・・南台/中野区

中野区の最南部に位置する。地域の東部は渋谷区本町に、南部は渋谷区笹塚と幡ヶ谷に、北部は方南通りに接し中野区弥生町との境になっている。(Wikipedia

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街道の風景① 駅西側の横断歩道橋を渡り細路地を繋いで多田神社をめざします/甲州街道(20号)

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水道道路を横断            階段から細路地へ

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一本松庚申塚

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一本松の庚申塚/南台
この庚申塚は、地元の言い伝えによれば明和年間17641771)に雑色村(現在の南台地域の旧村名)の人たちが共同で庚申塔と地蔵尊を祀ったことにはじまるといわれています。また『中野町誌』には数百年前、西国武士で原田七左衛門、同彦左衛門、増川八左衛門の3名がこの地で亡くなったので、その供養のためにがつくられたという言い伝えが記されています。第二次世界大戦の空襲で罹災し原形を失いましたが、昭和25(1950)に地域の人々の手で再建されました。干支の庚申(60日に一回めぐってくる)の夜、人間が眠っている間に体内に巣くう三尸(さんし)という虫がぬけ出して天に昇り、帝釈天にその人の罪を訴え生命を縮めるという庚申信仰は、長命安楽を願って三尸の虫に罪を訴えられないようにする、いわゆる民間信仰で中国の道教の守庚申に由来するものです。特に江戸時代に盛んに行われ青面金剛や、庚申に因んだ猿、庚申の文字などを刻んだ塔が建てられました。(中野区教育委員会)

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雑色について菊池山哉の「五百年前の東京」で『鎌倉幕府の雑色は街道の重要地点に置かれたもので、多くは守護職に属し街道を監視して不審の者を捉え、遊行の徒の審判がその起源であった。頼朝はこの雑色を大変信任し、院の御使も平家追討中の重要指令でも、奥州泰衡の隠密でも凡て直接雑色を使用している。しかし雑色は非人だったのでこのように重用しても非人は非人だったので身分を引き上げることはなかった・・・』と述べている。雑色地名のあった所は、川崎市多摩区(蔵敷)・港区麻布・大田区六郷・東大和市(蔵敷)にある。豊島区の雑司ヶ谷も雑色から転化したものだろう。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景② 住宅地の路地を繋いで多田神社への道にでました/南台3丁目公園


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多田神社鳥居/南台

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多田神社
多田満仲公は第56清和天皇の御曾孫多田源氏祖神である。幼少より文武両道に秀で、国家に貢献されたる偉勲功績は、わが国史に燦然として輝き武門の棟梁たる勅諚を賜わり、国家鎮護の大任を果たされたるのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、或は河川を改修して農村の拡大に寄与し、併せて源家興隆に確固たる基盤を築かれた。またその成功は関東に及び、特に雑色村の文化向上に尽された事蹟は(甚少)少ではない。仍って時の里人の敬慕浅からぬものがあった。

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その第二子は歴史上著名な頼光公であり第四子頼信公は平忠常を討ち関東を平定、続いて頼義・義家の父子二公は前九年・後三年の両役に大軍を率いて奥羽の地に赴きその凱旋の帰途、寛治6年(1092)祈願達成の報賽として大宮八幡宮神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に、大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に、日頃淑敬する満仲公の祠を建てたところ、雑色村の鎮守社として住民に崇敬されて来たということが「武蔵名勝図会」に記されている。新編武蔵風土記稿には「多田権現稲荷合社」と記されている。慶長2年社殿を再建、更に江戸後期の文政年間修復を加えた。明治14年改築し、また明治44年にも改築したと社史に記してあるが、太平洋戦争後、氏子の急増により昭和35年社殿を改築したのが現在の社である。(境内石碑)

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雑色村と多田神社
現在の南台の地域は古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在にいたっています。当社は約900年前、寛治61902源義家大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡宮とのつながりがとりわけ深く、天正19年(1591)の検地帳にも「多東郡大宮之内雑色村」と記され、大宮領に含まれていたことがわかります。また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社〜雑色地域の間に通じていたともいわれています。「雑色」とは皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起りであるとする説があります。(中野区教育委員会)

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源満仲(みつなか)
平安時代中期の武士。清和天皇の曾孫。父は経基。正四位下、鎮守府将軍。摂津国多田に住んで多田を称した。摂津、越前、武蔵、伊予、美濃、下野、陸奥などの国守を歴任した。安和2 (969) 年に為平親王擁立の陰謀を企てたと密告して源高明失脚の因をつくり、藤原氏政権の確立に奉仕し、並びなき武人との声望を得、藤原氏に随従して後代の清和源氏発展への遠因をつくった。子頼光の子孫にのちの守護大名土岐氏があり、子頼信の子孫にのちの将軍頼朝および新田、足利、佐竹、武田氏その他がある。(コトバンク)

多田神社

兵庫県川西市多田院多田所町にある神社。元は「多田院」という天台宗の寺院で、境内は「多田院」として国の史蹟に指定されている。六孫王神社(京都市南区)、壺井八幡宮(大坂府曳野市)とともに「源氏三神社」の1つ。 同地は摂津国に位置しており清和源氏や多田御家人発祥の地である。この地に館を構えた清和源氏の祖・摂津守源満仲によって天禄元年(970)に満仲の子に名元賢を開山とする天台宗寺院・多田院鷹尾山法華三昧堂(通称田院)が建立された。満仲は自らの館と多田院を中心として多田荘の開発に勤しんだ。平安時代の長徳3年(997827日に源満仲が亡くなると多田院に葬られ、新たに廟所と満仲像を祀る御影堂が建立された。(Wikipedia

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境内東側の鳥居

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宝福寺山門/南台

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宝福寺
宝福寺は真言宗のお寺でご本尊は聖徳太子です。聖徳太子が諸国を巡遊した時、この地を霊地として堂を建立し如意輪観音を安置して国家安穏を祈ったことに始まるといわれています。また、昭和新選江戸三十三観音札所の第17番札所にもなっています。境内にある「筆塚」と書かれた碑の文字は「筆塚」の字は戸村直衛が書いたもので、明治の初めに建てられたと考えられます。(中野の歴史/まるっと中野)

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筆塚碑
この「筆塚」の字は戸村直衛という人が書いたもので、明治の初めに建てられたと考えられています。戸村氏は明治3年、雑色村に「戸村塾」を開いた人で、中野区最初の公立校「桃園小学校」の教師も勤めました。身分・経歴は明らかではありませんが、家塾開業願や小学校設立伺書などによれば、若いころに幕府の関係者から数学・書道・洋学を学んだ知識人であったことがうかがえます。明治5年に学制が発布されるまで、庶民教育は江戸時代から民間の塾や寺子屋で行われていました。明治初め中野にも戸村塾など数カ所の私塾があったといいます。明治4年当時、戸村塾の生徒は25名で教場は宝福寺や村内の民家をあて、学制発布後も存続し私立戸村小学校から桃園小学校雑色分校へと引き継がれました。この筆塚は師弟の使用した毛筆を納めて供養し、学業上達を願ったものと考えられます。これは中野の初等教育を物語るゆかしい記念碑です。(中野区教育委員会)

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宝福寺境内 左は多田神社、神田川に向かって傾斜しています、台地の突端なんですね


・・・弥生町

中野区の南部に位置する。町域東部は渋谷区本町と新宿区西新宿に、南部は概ね方南通りに接し渋谷区本町と中野区南台に、北部は神田川善福寺川に接し中野区本町と杉並区和田に接している。善福寺川は町域内で神田川と合流している。地名の由来は弥生時代遺跡がいくつか見られることによっている。(Wikipedia

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街道の風景③ 前方が中野富士見町駅、左に神田川が流れます。道は消えていますが右手中野通りとの台地を北へ向かったようです/方南東リ多田小先


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方南通り
新宿区西新宿から渋谷区、中野区を経由して杉並区永福に至る都道である(都道14号新宿国立線)。当初は栄町通りと呼ばれていた。経路は東側から清水橋(山手通り))南台(中野通り)方南町(環七通り)西永福(井の頭通り)付近を経由する。Wikipedia

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都道420号鮫洲大山線
品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道である。狭隘区間が多く残るが、おおむね山手通り(環状6号線)と環七通りの中間を通りそれらを補完する役割を担っている。中野通り:南長崎六丁目交差点-笹塚交差点の通称。Wikipedia

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街道の風景④ 神田川下流新宿方向の景観です、旧街道は駅付近を渡ったと思われます/寿橋(中野通り)

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神田川を渡ります/寿橋         坂下の景観です/中野通り

神田川(2)01-中野本町周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24109546/)

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街道の風景⑤ 大宮八幡からの鎌倉道と合流します、この坂が十貫坂になります/富士見ハイム角

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中野通りの左手を上ります       細路地になり旧街道と合流します

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街道の風景⑥ 中野通りを横断します、右角に案内板が立っています

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十貫坂(じっかんざか)
これより 十貫坂
付近から十貫文の入った壷がでてきたという話と中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったためと記録にあります。(鍋横地域の文化座を守る会)


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旧街道は(多田)神社横から大地を直進したと思われるので、途中で消えたのであろう。そこで栄町通りに出て、地下鉄車庫東側のバス道を北進し善福寺川に沿って東行、中野通り一つ手前を北に行く。すると杉並区と中野区境に建つ富士見ハイム横の緩やかな坂の下に出る。坂を上るとハイム前から西への道は、大宮八幡に通じる旧街道である。富士見ハイム横の坂は南の方は消えたが、区境を通って南の台地に上り、多田神社東側に続いていたものだろう。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

善福寺川02-大宮八幡周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24090782/


・・・本町
(ほんちょう)

町域の東部と南部は神田川に接しており、東部は川を境に新宿区西新宿に接し、南部は中野区弥生町に、北部は青梅街道を境に中野区中央に、西部は杉並区和田に接している。町域内を中野通りと山手通りが縦貫している。青梅街道沿いは中野区内でも古くから人の往来があった場所でもあり、新中野駅には鍋谷横丁と呼ばれる古くからの商店街がある。中野区のほぼ中央部に位置するため本町とされる。(Wikipedia

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街道の風景⑦ 鍋谷横丁通りを新中野駅へ向かいます/十貫坂上

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街道の風景⑧ 左に「堀之内道」を分けます、お題目石が建っています/鍋谷横丁通り

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お題目石/鍋谷横丁通り
この石碑は杉並区堀之内にある妙法寺への参詣道に道しるべとして、享保31718)に建てられたものです。元の参詣道は新宿区との境界付近の本町一丁目から青梅街道をはずれて、この四つ角のところへ出る道が利用されていましたが、江戸時代後期鍋屋横丁からの道が整備されました。(中野区教育委員会)

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妙法寺参詣道(堀之内道)
この道は江戸(東京)から日蓮宗妙法寺へ向かう代表的な参詣道で「堀之内道」「妙法寺道」と呼ばれていました。青梅街道から鍋谷横丁(中野区)でわかれ、堀之内村の妙法寺へと続く道でした。「新編武蔵風土記稿」和田村の項には『北ハ堀之内妙法寺道ヲ界トシテ』と、この道が和田村高円寺村村境であったことがわかります。江戸の町医者が記した随筆「塵塚談」には「堀の内祖師」について、昔は『地名を知れる人もなかりしに、近頃にいたり祖師堂はもちろん堂宇の設けも伽藍の如くに造建し、新宿より寺の門前まで水茶屋、料理茶屋其外酒食の店、数百件簷(ひさし)をならぶ、日蓮宗にかぎらず、諸宗門の人も尊敬して、年々月々に賑わしく繁栄なり』と江戸時代後期「厄除け祖師」として江戸庶民の信仰を集めた妙法寺とその参詣道の繁栄ぶりが記されています。堀の内道から少し南に位置しますが平成19年に実施された本村原遺跡C地点(現女子美術大学)の発掘調査では「しがらき」とある茶碗が出土しました。江戸時代、妙法寺の参詣者で賑わった堀之内道の水茶屋・料理屋の中でものっぺい汁をだす「しがらき」は有名で、天保12年(1841 )には370人の客がいたと記されています(江戸見草)。明治に入り甲武鉄道(中央線)が開通すると、中野駅から妙法寺へ向かう道が開かれ(堀之内新道)、東京から歩いて向かう参詣道であったこの道の利用者は減少しました。現在、この道は「和田帝釈天通り」として、商店会通りの中程に位置する和田帝釈堂(ここより数10m先)を中心に地域の方々に親しまれています。(杉並区教育委員会)(写真:お題目石)

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街道の風景⑨ 青梅街道と交差します、旧街道は直進します/鍋谷横丁

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鍋横道しるべ /交差点角
此処に明治11建立された「ほりのうちへ1810」と妙法寺までの距離が刻まれた道標がありました。江戸時代後期(文化・文政)お祖師様として親しまれた妙法寺への参詣道入り口を示すとともに、裏側には鍋屋横丁の由来となった休み茶屋「鍋屋」の証しも刻まれており、中野区の歴史の資料にも載る程貴重なものでした。建立以来125年の永きにわたりまちの変遷を見つづけてきたこの道標が平成143月をもって、諸般の事情によりゆかりのある妙法寺移設されました。かつて道標が存在した証を記します。(鍋横道しるべ保存会)

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鍋屋横丁
中野通り(注:十貫坂上)を越えるとアーケードのある鍋屋横丁商店街となる。この旧街道は江戸時代には堀の内妙法寺への参道道として賑わった。「武蔵名勝図会」に『古街道、当村追分といふところなり。鎌倉より奥州街道の古道なり・・・ここより板橋へ三里余、それより岩槻へ出て奥州並に上野・下野へも行くなり』とある。また京の僧・堯景法印の文明19年(1487)「北国紀行」に『武蔵のうち中野という所に、平重俊いえるが催しによりて、眇々たる朝霧を分け入りて、朦望するになんの草ばの末にも、ただ白雲のみかかれるを限りと思ひて 露はらふ道は袖よりむらきえて 草ばかへるむさし野はら』と書いている。室町時代の中野は一面の草原だったのである。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)(緑:鎌倉道 橙・青梅街道 紫:堀之内道 黄:中野通り 青:神田川)

・・・中央


中野区のほぼ中央部に位置する。東部は神田川を境に新宿区北新宿に、南部は青梅街道を境に中野区本町に、北部は大久保通りを境に中野区東中野・中野に、西部は杉並区高円寺南に接している。地域内を中野通りと山手通りが縦貫している。(Wikipedia

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街道の風景⑩ 青梅街道を直進し北へ向かいます、下ると桃園川(緑道)です

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慈眼寺山門/中央
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慈眼寺(じげんじ)
慈眼寺は山号を「福王山」院号を「弥勒院」と称する真言宗豊山派の寺院です。慈眼寺は室町時代の天文131544)年に貞運大和尚によって開かれました。本堂に安置されている御本尊の聖観世音菩薩像も室町時代に造られたものです。創建当時の慈眼寺は中野区中央二丁目の堀越高等学校の間近にある「慈眼堂橋」の西方にありましたが、江戸時代に青梅街道添いに移転しました。かつて慈眼寺の住職は氷川神社(中野区東中野)の別当職を兼ねていました。別当とは神社の管理者を兼任する僧侶の役職名です。慶応4年・明治元(1868)に神仏判然令(神仏分離令)が布告されるまでは、仏教と神道は混ざり合って信仰されており、神社にて仏事を行うことが多々ありました。神仏分離令によって別当職が廃止されたのち氷川神社は当時の政府へ返還されました。

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慈眼寺の氷川堂には、氷川神社の別当職をしたことから「氷川坊さん」と称された慈眼寺第15代住職・覺順和尚(かくじゅん)の像が奉られています。また、明治維新期の慶応4年(1868)に江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の警護隊であった彰義隊が旧本堂に立てこもって秘密裏に会合を行い、その際に隊士によって付けられた刀傷が旧本堂の柱に残っていたことが伝えられています。この旧本堂は文政・天保(1800年代前半)の間に建造されたと伝えられていますが、昭和20年(19453月の東京大空襲によって消失してしまいました。(慈眼寺HP抜粋)

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慈眼寺の石仏群
慈眼寺は真言宗豊山派の寺院で福王山弥勒院と号し、天文131544)の創建と伝えられています。以前は現在地から北東の中央3丁目7番付近にありましたが、江戸時代にこの地に移転しました。ここにある石仏は馬頭観音や庚申塔などで、向って左側の文化131816)の馬頭観音は頭上に馬頭をつけ、角柱部分は道しるべになっています。「左あふめ(青梅)右いくさ道(井草)」と記されていて、もとは青梅街道と石神井街道とが分岐する追分の三叉路(中央四丁目)にありました。庚申塔は干支の庚申に由来するもので日月、青面金剛、邪鬼、三匹の猿、鶏などが彫られています。ここには元禄31690)から寛保21741)までのものが6基あります。このうち4基は上宿(中央二丁目付近)新町(本町六丁目)西町(中央五丁目)の青梅街道の沿道にありましたが、道路拡幅のため桃園第三小学校の大ケヤキの根元に移設され、さらに昭和30年(1955)に当寺境内に安置されたものです。(中野区教育委員会)

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天祖神社鳥居 住宅街の中の鎮守の森、詳しいことは分かりません

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本殿                 神輿蔵

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街道の風景⑪ 桃園川を渡ります、現在は緑道になっています/さみせん橋

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桃園川
杉並区および中野区を流れる河川。全区間暗渠化されている。中野区内では「中野川」とも呼ばれる。杉並区(現在は荻窪駅の北にあたる天沼弁天池公園付近)より東へ1.5kmほど流れ、阿佐ヶ谷駅の北・中杉通りを越えたあたりから周囲より谷を深くして南下。杉並区立けやき公園のところで中央線を南東にくぐってからは桃園川緑道となり、そこから東南東へ転じ環状7号線を越えたところからはほぼ大久保通りと併走する形で中野区を東へ横断する。東中野駅南側にある末広橋付近で中野区と新宿区の境界を流れる神田川に合流する。(Wikipedia

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中野富士見駅周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:鎌倉道 橙:甲州街道・青梅街道 黄:堀之内道 青:神田川・善福寺川)

鎌倉道中道(西回り)(1)-03羽根木の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27595066/

by Twalking | 2019-05-20 13:24 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(1)二玉川~笹塚-03羽根木   

日時 2019.5.3(金)
天気 晴れ

東松原商店街を抜けると住宅地になりますが、
笹塚に向かって直線路が続きます。
駅手前の区境で若林からの旧街道と合流します。

北沢川を歩いた時に「鎌倉通り」を知りましたが、
この通りは若林から下北沢を通り笹塚への中世?の道です。
歩いてみたいと思ってましたので足を延ばしました。



・・・羽根木

世田谷区の北東部に位置し、周囲を松原・大原・代田の各町に隣接する。同名の羽根木公園は世田谷区代田にある。町の東辺を環七通が通り、南辺は京王井の頭線が通る。北辺は水道局和田堀給水所と接する。旧・荏原郡世田ヶ谷村字羽根木。羽根木の由来には諸説ある。(Wikipedia


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街道の風景① 井の頭線の踏切を越えて北へ、笹塚を目指します/東松原駅

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東松原駅西から北へ、静かな住宅地を行くと羽根木の商店街となる。左側に子育地蔵尊4基の庚申塔があって古道らしさを示している。その先、環七通りを越え北に曲がると東西の道に出会う。その手前に若林から来る旧街道合流する。その北は細い道で中央に車止めの杭を打ってある。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)写真:東松原駅

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子育地蔵尊由来
今を去ること凡そ300年享保の頃、永年にわたり天候不順にして五穀稔らず悪疫流行して、里人大いに苦しみなすすべを知らず。この時、地蔵菩薩一古老の夢枕に立ち、里人の苦悩を見るに忍びず、吾を石橋のほとりに祀れ、必ず救いとらせんとのたもうこと毎夜なり。

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古老恐懼して里人達とはかり、当武蔵国荏原郡世田谷村字羽根木の在一里塚のそばに地蔵尊を勧請し、勧業を怠らざるに、いくばくもなく天候定まりて五穀豊穣、悪疫終息せり。これをみな地蔵尊のご利益なりと崇敬す。その後、代々由来を伝え崇敬変わらず。殊に若き母親生まれ出る子供のため、その乳の出ることを願いまた稚児のくさの平癒を願うに、その霊験あらたかなり。よって人々これを子育地蔵尊と尊称したてまつり今日に至る。地元羽根木世話人一同その尊像のご安泰を願い御堂を修復し、いつまでも霊験いやちさかなるを祈るものである(羽根木神社子育地蔵尊世話人一同)

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街道の風景② その先にケヤキ並木の参道があります、よく残りましたね・・・

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せたがや百景-羽根木神社の参道
都水道局和田堀給水場近くに羽根木神社の小さなお社がある。今は家が建て込んで、農村だったころの面影はほとんどないが、社まで続いた参道のケヤキ並木が地元住民の運動によって一部残されている。風景変遷のものいわぬ証人だ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

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羽根木神社鳥居/羽根木

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羽根木神社
祭神は宇迦能御魂神を祀った神社である。以前は羽根木稲荷神社と称していた。創建については判明せず、羽根木という名称は「新編武蔵風土記稿」に『小名羽根木東北ノ隅ニアリ』と記事あり、小名としてはよほど古きものと思われる。神社関係者の説によると最初は誰かの内宮であった。その後、細野嘉十郎、稲山新太郎の所有の土地となっていたがその特志によって寄附されたという。神社敷地249坪(821.72)祭礼は914日。神社入口に石碑があり表に「羽根木神社」裏に「祭神宇迦能御魂神、昭和255月戦災の為神社神木等焼失に付崇敬者一同の浄財により新築整備す。昭和239月氏子中、芦沢新平謹書」と彫刻してある。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景③ 特に案内板もないのでこの道が「鎌倉道」とは分からないかも知れませんね

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環七を横断します/羽根木        左手が「柳澤の杜」です/大原


・・・大原

大原は昔は代田村の一部で萩久保、西大原、東大原という三つのから成っていました。大原はその名のとおり「広い原っぱ」ということから付けられた名ですが、土地はだいたい海抜40mから45mほどの大地で、西側には50mほどの高所があります。(「ふるさと 世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」(平成93月発行)(地名由来/世田谷区HP)

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緑が多くていいお庭・・・、憩えます

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大原一丁目・柳澤の杜
名前の由来:個人の想いにより残されたことに由来
この緑地は地域の原風景や自然環境を保全しながら区民に憩いの場を提供することを目的に、土地所有者と契約を交わし地域の皆さまに公開しています。(説明板)

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柳澤家住宅主屋/国登録有形文化財(建造物)
建築年代:昭和26年(1951) 昭和54年(1979)改修 建築面積:52.282㎡ 設計者:伊東安兵衛柳
澤家住宅は玄関・ホール・四畳半に納戸(旧台所)と便所を配した小規模な住宅です。外観の特徴は庭に面し化粧貫を用いた妻を見せているところです。内部のホールは暖炉がある洋室でありながら床構えをもち、天井に民家風の梁を組んでいます。ホールと四畳半に設けられた段差、三枚戸の襖とガラス戸の仕切りなどは昭和20年代、戦後復興期小住宅によく見る間取りです。建物の内外に伝統民家の構成を引用した建物で、戦後に民家風住宅を多く手がけた伊東安兵衛の作風をよく現しています。(世田谷区教育委員会)

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街道の風景④ 世田谷と渋谷区の区界あたり、ここで若林からの旧道と合流します/大原

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その手前井の頭通りを横断       やがて笹塚のビル群が見えてきます


・・・・笹塚/渋谷区

渋谷区
北西部の地区、武蔵野台地に位置し中央を国道20号(甲州街道)が横断、1913(大正2年)調布~笹塚に京王電気軌道(現・京王線)が開業し住宅地化。1960年(昭和35年)の町名地番変更により住居表示は笹塚一丁目から三丁目まである。地形的には武蔵野台地上に位置し概ね平坦である。河川は本町四丁目から幡ヶ谷三丁目、笹塚三丁目にかけてかつてあった神田川の支流に沿って浅い谷になっていた。笹塚一丁目には嘗て玉川上水の流れが西から東に大原、北沢との境界を蛇行しながら縫うように流れていたが、笹塚駅周辺の一部は開渠のまま残されているが殆どは暗渠化されて遊歩道として整備され緑道(公園)として整備されている。(Wikipedia

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街道の風景⑤ 行けそうですね・・・、笹塚駅前へ通じています/笹塚

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笹塚駅前                流路跡です

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玉川上水の風景、この部分は開削、いいですね!

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街道の風景⑥ 甲州街道(20号)です、向に「笹塚跡」があります。分岐へ戻り「鎌倉通り」を若林方面へ行ってみます

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笹塚跡/笹塚二丁目昔、このあたりの甲州街道の南北両側に直径が1mほどの(盛土)がありました。その上に(または竹)が生い茂っていたことから笹塚と呼ばれていたようです。その塚が慶長9年(1604)に設置された一里塚であるかどうかははっきりしませんが、この塚に一里塚の印を記載している古図もあります。また、江戸時代の文書にも笹塚のことが簡単に述べられています。大正5(1916)に発刊された『豊多摩郡誌』には「甲州街道の北側に石塚があったが、今は見られない」と書いてあります。この塚があったことからこの地域一帯を昔から笹塚と呼び、今もそれが町名として残っているのです。(渋谷区教育委員会)



・・・若林への旧街道(鎌倉通り)

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街道の風景⑦ 右手が中道の本路、左の「鎌倉通り」を南へ向かいます/大原・北沢境

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合流点から南へ、若林までの旧道を行く。台地上を一直線に町の丁目境を行き、下北沢駅西側から目黒(暗渠で遊歩道になっている)に下ると鎌倉橋(注:北沢川)がある。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)






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井ノ頭通り
渋谷区宇田川町の渋谷駅前付近と武蔵野市関前にある境浄水場付近を結ぶ道路の通称。境浄水場から和田堀給水所までの間に水道管を敷設するための施設用地を道路に転用したために、以前は水道道路と呼ばれていたが、後に近衛文麿元首相によって井の頭街道と命名され、その後東京都によって井ノ頭通りと改められた。(Wikipedia

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街道の風景⑧ 中宅街の直線路、いい道です/大原・北沢境


・・・下北沢

世田谷区
の北東部に位置する地域名。この地域は東京府(武蔵国)荏原郡下北沢村であり、世田ヶ谷町への合併を経て世田谷区北沢代沢になった。概ね現在の北沢一丁目から五丁目および代沢二・三・五丁目並びに四丁目の北東部及び代田五・六丁目の東側のごく一部が旧下北沢村に該当する。元々の中心は現在の代沢三・五丁目付近、北沢八幡宮森厳寺・淡島神社分社や代沢小学校のある辺りであり、明治時代の旧版地図5万分1には「下北澤本村」の文字が見られる。現在も茶沢通り沿いに商業地域が形成されている。起伏のある地形からか「山谷」のつく字がいくつか見られた。1927下北沢駅開業後、元々水田地域であった同駅周辺に商業地が形成され地域の重心が移って行った。他の部分の宅地化は、帝都線(現:井の頭線)開通、池ノ上などの集落の形成を経て急速に進んでいった。(Wikipedia

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街道の風景⑨ 下北沢の北側、賑やかですね、井の頭線を渡ります

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井の頭線下北沢駅           越えると下りになります

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街道の風景⑩ 現在は地下になりましたが小田急の踏切があった所です/代田・代沢境

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閑静な住宅街です           北沢川へ下ります


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街道の風景⑪ 北沢川(緑道)に架かる鎌倉橋、ちょっとした渓谷の感じです

北沢川-鎌倉橋周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27446938/


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街道の風景⑫ 淡島通り(滝坂道)を横断、ここまでが「鎌倉通り」のようです/代沢

滝坂道-淡島の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22846177/


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その先、東西に走るバス道(注:淡島通り)の南は細くなり、太子堂の八幡神社横から烏山川を直角に渡るため西南に向い、途中で消えるが世田谷通りに直角に交差する。(注:若林陸橋先)この旧街道は、鎌倉時代以後に開かれた道かと思われる。旧街道で、他の道から分岐したり合流したりする所が直角の場合は両方の道が古いが、鋭角の場合は室町以後の道であることが多い。代田で鋭角で分岐しているところをみると、典型的な室町期の道とみてよいと思う。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景⑬ 細くなりますが旧道らしい道が烏山川へ続いています/八幡神社横

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太子堂八幡神社拝殿/太子堂

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太子堂八幡神社
祭神:誉田別命 大祭:10月第2日曜日当社の鎮座年暦不詳なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間1592-1596)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。

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太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ、古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村121-122番地の辺を(5丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の号をとりて部落の村名とした。以上は古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。(境内掲示板)

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街道の風景⑭ 参道を南へ行くと烏山川、西太子堂の駅へでます。旧道は上流から若林陸橋方面へ向かったようです/烏山緑道

蛇崩川-駒留神社付近の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27457610/


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北沢地域周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:鎌倉道 橙:甲州街道 紫:滝坂道 青:烏山川・北沢川)

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鎌倉道中道(西回り)(1)二子玉川~笹塚ルート図
(緑:鎌倉道 赤:大山道 紫:滝坂道 青:蛇崩川・烏山川・北沢川)

鎌倉道中道(西回り)(1)-02世田谷の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27591786/

by Twalking | 2019-05-11 22:39 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(1)二玉川~笹塚-02世田谷   

日時 2019.5.3(金)
天気 晴れ


用賀から弦巻追分へ向かいます。
上町周辺は昔住んでいた所ですし、
烏山川は高校への通学路、まだ流れていました。

上町から梅ヶ丘への道筋は消えていますので、
川沿いの細路地を繋いで杓子稲荷へ、この
前の道がもしかしたら旧道かもしれませんね~?
懐かしい所、じっくり味わいながら歩きました。


・・・弦巻


「弦巻」の由来は諸説ありこれと言った決め手に欠く。一説に武将(
源義家あるいは北条氏など)が弓弦をはずした、あるいは巻いた場所であるという。他には水流(つる)が渦巻く場所など。しかし、弦巻は世田谷区内でもほぼ最高地点に近い台地である。一方で土地に起伏もあり今は多くが暗渠となったが小さな川もある。弦巻という名は14世紀後半に初めて見える。永和2年(1376)吉良治家寄進状に「絃巻」(弦でなく絃の字)という地名が出てくる。江戸時代初期に荏原郡弦巻村として成立。Wikipedia

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街道の風景① 用賀の追分から大山道(上町線)を弦巻へ登ります

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大山街道案内板
江戸時代中期、雨乞いのため丹沢の大山に参詣する「大山詣」という習慣がありました。江戸の赤坂を起点とし青山、世田谷、伊勢原を経て大山に至るこの道は俗に「大山道」と呼ばれ、区内では三軒茶屋、弦巻を通り用賀、二子玉川に行っていました。信仰や物見遊見を目的とした旅人で大変賑わい、古典落語にも登場する歴史ある道です。(説明板)

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衛生材料廠跡碑            庚申塔

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街道の風景② かつては蛇崩川(暗渠)が流れ、名残の街道松が聳えています

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大山道旅人像             直進すると追分です

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街道の風景③ 左が登戸道、直進して右折が大山道、鎌倉道はこの先桜小学校で消えています/弦巻追分

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弦巻とは源義家がこの地で弓弦をはずしたところから名付けられたものという。しかし、豊島区の弦巻川や新宿区の早稲田鶴巻町のツルマキについて中島利一郎は次のように説明している。『ツルは朝鮮語の荒地とか原野、あるいは水路のある低地という意味であり、マキはであるからツルマキは水路のある原野の牧場の意味である』(日本地名学研究)昭和薬大を過ぎ蛇崩川(暗渠)の低地を越えると、次第に商店街になる。その先の西側に道標がありそこから西方に旧道の登戸道が通っている。往古の登戸道は東方にも伸びていたのが消えたのであろう。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景③ 代官屋敷は修復中、資料館は連休で休館・・・、でもここは外せないですね/ボロ市通り

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浄光寺山門 代官屋敷の裏側にあります、いつも寄りそびれていたので訪ねました

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浄光寺
九品山往生院浄光寺と称する浄土宗の寺で、寛政7年(1795)本堂の裏から出火したため資料となるべきものはほとんど消失してしまった。現在の本堂は寛政81796)の建立で茅茸であったが、昭和28年瓦茸に変えたままで今日に至っている。開山は専蓮社然誉上人称阿源公大和尚、文明7年(1475915日没で現住で26代を数えている。本尊は尺余りの阿弥陀如来像である。南側の墓地には世田谷代官の祖・大場越後守信久以下歴代代官の墓がある。(せたがや社寺と史跡)

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境内のお地蔵さん           大場家の墓

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・・・世田谷


「世田谷」の「世田」は「瀬田」に通じ、「瀬戸」の「戸」が訛ったものではないかということです。「瀬戸」若しくは「瀬門」というのは、多くの場合「狭小な海峡」と解されていますが、地名の場合には必ずしもそうではなく内陸部にも「瀬戸」なる地名を多くみかけます。そのことから「瀬戸」が訛って「瀬田」となり、「瀬田、勢田、勢多」という郷名となり、時の経過と共に「瀬田」の言葉がわからないまま勢田郷の一部で特にの多い所という区別をして「せたかい」と呼び、以後「狭(かい)」が同義語の「谷」に変り、発音も「せたがや」と変って「世田谷」若しくは「世田ヶ谷」と書くようになったと思われます。即ち「世田谷」は勢田郷谷地ということです。 (地名由来/世田谷区HP)

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街道の風景④ 昔は世田谷4丁目、現在は桜です。城山通りを前方の丘・世田谷城址へ向かいます/上町駅前


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旧街道は世田谷通りを越えて直進し桜小学校の西南端にでる。ここで旧道は消える。消えた旧道は北の世田谷城東側に続いていたと思われる。烏山川東側を北上し、を直角に渡ってこの道に続いていたものと思われ、城山小学校の横を北進するとT字路となって消える。その先は断続し、梅ヶ丘駅北から大地を上り羽根木公園から東松原駅へ行く。この道は世田谷城ができると桜小学校北から代田までがあまり城近くを通っているので廃され、その東側に新たな旧道を作ったものと思われる。また、登戸道は大山道との交差点以東を廃し大山道ボロ市通りを通って東行きするように変更されたのであろう。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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世田谷城址公園手前から烏山緑道を行ってみました、この辺りを渡ったんでしょうか??/稲荷下橋(烏山川緑道)

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旧道ぽい道です            城山小前を北へ

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街道の風景⑤ 滝山道を横断して杓子稲荷神社に向かいます

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上町周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:鎌倉道 橙:大山道青:烏山川)

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・・・梅丘

梅ヶ丘駅
ができこれは後の町名にもなりました。昭和94月になって新設された駅でした。駅名について小田急50年史の記録によると「この地は北沢窪という地名で、かつては麦畑の中に一基の古墳があり出土品もあった。したがって梅丘は古墳にちなむ埋ヶ丘に由来するとの説がある。またこの地の大地主旧家梅の古木があり、同家の家紋も梅をかたどったものであるところからこれをとって優雅な「梅ヶ丘」の駅名をつけたともいう」とあります。この大地主というのが相原家で、たまたま同家を訪れていた三人の間で新駅名のことが話題に上ったとき、相原家の土蔵の梅鉢の家紋を見てこれにちなんで梅ヶ丘にしてはとの提案がされ、小田急側にも異議なく採用されたということです。(地名由来/世田谷区HP)

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街道の風景⑦ 鎌倉道かは分かりませんが、真直ぐ行くと梅ヶ丘駅付近に通じています

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杓子稲荷神社鳥居/梅丘

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杓子稲荷神社
祭神:倉稲魂命。室町時代足利管領の旗下あって権勢関東に響いた吉良治部大輔治家は、当地世田谷に城を築き、その鬼門鎮護としてこの地に伏見稲荷を招請、奉斎し厚く信仰しました。その後およそ二百年を経た天正18、吉良氏は当時姻戚の間柄にあった小田原北条氏と運命を共にして豊臣秀吉の軍門に降り、当神社も又衰微に帰しましたが、後年松原宿の住民をはじめとする里人の再建、信仰するところとなり今日に至りました。なお、徳川幕府による元禄年間の検地水帳にも当神社の所在は記されており、その鎮座のいかに古きかを知ることができます。(杓子のいわれ)杓子の食物を掬うは救うに通じ、総ての病難・災難を払い、福徳円満、長寿開運、万福招来の象徴であります。(せたがや社寺と史跡より)

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滝坂道通信-世田谷の主要古道(世田谷の近代風景概史より)/豪徳寺駅周辺風景つくりの会(紫:滝坂道 赤:甲州街道 橙:大山道)

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街道の風景⑧ 駅北側で北沢川(暗渠)を渡り羽根木公園に沿って丘を北へ登ります/梅ヶ丘駅前

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梅ヶ丘駅側入口付近          丘に沿って緩やかにカーブしています

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梅の頃は勿論ですが、緑が多くて四季折々に憩える公園です/羽根木公園

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羽根木公園
世田谷区代田にある世田谷区立の都市公園である。全体として丘状の地形になっている。古くは一帯に「六郎次」という野鍛冶が住んでいたと伝えられ「六郎次山」と呼ばれていた。その後、根津財閥の所有地となったため「根津山」と呼ばれた。1956年に都立公園として開園し、1965年に世田谷区に移管され区立公園となった。また、現在の羽根木公園は代田四丁目の一部であり、住居表示としての「世田谷区羽根木」から離れている。これは両地が共に旧・世田ヶ谷村の飛地だったことによる。(Wikipedia

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松羽稲荷神社鳥居/松原

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松羽稲荷神社
商店街の手前、こんもりとした森にあります。松原と羽根木の境なので「松羽」なのでしょうか、案内板などなかったので詳しいことはわかりません

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街道の風景⑨ 街道は東松原商店街を通って北へ抜けています/松原

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梅丘周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:鎌倉道 紫:滝山街道 青:北沢川)

鎌倉道中道(西回り)(1)-01瀬田の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27587109/

by Twalking | 2019-05-09 20:41 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(1)二玉川~笹塚-01瀬田   

日時 2019.5.3(金)
天気 晴れ


大型連休の前半は不安定な空模様でしたが、
元号が変わって気分一新、天気も上々なので
令和の初歩きに出かけました。

鎌倉道中道の西回りで岩淵を目指そうと思います。
二子玉川から上町までは旧大山街道とルートは同じ、
今度は大山道を逆ルートで辿ります。


・・・玉川
(地域)/世田谷区


世田谷区の南部に位置し、南端に多摩川が流れ、対岸は川崎市である。江戸期にはこの地域に用賀村、瀬田村、上野毛村、下野毛村、等々力村、奥沢村、尾山村、野良田村(以上8ヶ村は後の玉川村)、深沢村、世田ヶ谷新町村(以上2ヶ村ほか4ヶ村は後の駒沢村)10ヶ村が存在した。現在の川崎市高津区・中原区の一部もこれに含まれる
。(Wikipedia)

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街道の風景① 野川と多摩川の合流する低湿地、この辺りにも渡し場があったようです/兵庫島公園

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丘として残る「兵庫島」、こんもりした森になっています

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兵庫島公園
「兵庫島」のある場所は古来は
多摩川野川デルタ地帯であり、兵庫島ももともとは完全にの形をしておりまた洪水のたびに何度か移動していたという。それが洪水によって他の河川敷と陸続きになり現在に至る。公園内には「兵庫島」がとして残っており「兵庫島」を中心として木々が生い茂り武蔵野の緑を今に残している。「兵庫島」の上流側には開放的な芝生広場もある。
Wikipedia

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兵庫島の由来
正平131358)に新田義貞の子・義興(よしおき)が足利基氏を討ち、新田家再興をめざして従者13人と上野(群馬)より兵を進めた。ところが、多摩川稲城矢口の渡しで、敵の策略とは知らずにさし向けられた船に乗ってしまう。この時、渡し守りはかねて仕掛けられた船底の栓を抜き逃げ去った。同時に両岸からは数百の軍勢が時の声をあげて矢を射かけた。兜、よろいの武士たちは身動きがとれない。もはやこれまでと義興は自害してしまうが、従者たちの中には対岸まで泳ぎつき、群がる敵兵と戦い自害して果てる者もあった。その中の一人でもある由良兵庫助が流れついたのが、兵庫島の名の起こりという。村人たちはわざわいが起こらないよう供養しそれ以降、不思議なことにこの中州はどんな洪水の時でも流されることがなかったと伝えられる(世田谷区)
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街道の風景② 筏道は野川沿いと丸子川沿いの2筋があったようです/多摩堤通り

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諏訪神社鳥居/玉川

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諏訪神社
祭神は建御名方命といわれ、神体は木彫に金箔、濃彩の座像とのみいい伝えられる。創立の年月を伝えず。一説に世田谷吉良家の家臣でこの地の開拓者なる者(川辺氏起立の大先祖 寛永916327月法名教顕院誓誉浄本居士)ある年の夏多摩川大洪水の時、現在地に流れ着いた像を後に至り神体とし、信州の諏訪明神をあがめ勧請したものとのみ伝承されている。

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この像多摩川上流より流れ着いたので、元の地の方位に向って神祠を西向に建てて祀ったといわれている。現在吉沢に後裔64家栄えており、元は同族の鎮守であった。祭礼は727日である。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景③兵庫島から弦巻追分なでは大山道・上町Rを行きます/二子玉川商店街通り

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大山道/治大夫橋
大山道とは大山詣りの道のことで、大山は神奈川県伊勢原市にあります。世田谷を通る大山道は江戸赤坂御門を起点とし、二子玉川で多摩川を経て伊勢原から大山まで続いています。二子玉川にはここ治大夫橋を渡る大山道と、行善寺の東側を通る大山道があります。次大夫堀は慶長年間、徳川家康が主として下流の六郷地方の米の増収をはかるため、代官小泉次大夫吉次に命じて切り開いた灌漑用水で、世田谷地方の人々は「治大夫堀」(同・六郷用水、現・丸子川)と呼んでいました。(世田谷区)

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大山道道標
「右むかし筏みち むかし大山みち」と刻まれています






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・・・瀬田


国分寺崖線
沿いにあり、崖線の上からは多摩川や富士山まで見渡せる場所がある。丸子川沿いなどに自然が程よく残されている閑静な地域である。戦前より多摩川や富士山を見晴らす景勝地のひとつとして知られ、玉川遊園などの園地が設けられていた。かつて多摩川は頻繁に洪水を起こし流路も度々変わっていたため、村が多摩川で分断されることが度々ありここ瀬田も多摩川により分断されていた。かつては全域が武蔵国荏原郡に属していたが、1912年(明治45年)に郡境多摩川上に設定され、以降右岸地域は橘樹郡(後に川崎市)に属すこととなり、以降現在まで両岸に地名が残っている。Wikipedia

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街道の風景③ 国分寺崖線を上ります/慈眼寺坂

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玉川寺(ぎょくせんじ)山門/瀬田

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玉川寺(身延山関東別院)
身延山関東別院玉川寺は多摩川の河原と台地の斜面の間にあり、都会では珍しく数十段の石段の奥に本堂がある。向って左側に基地、経王堂、右側に庫裡と書院、そして一段高いところに新書院と三段の建物が多摩川に面してたち眺望のきく位置にある。本尊開運日連大菩薩、宗派は日蓮宗に属する。開山は昭和7甲州身延山久遠寺法主望月上人、関東一円の布教の殿堂として建立した。当時(昭和初期)は寺社の建立はゆるされていなかったので、日暮里妙隆寺を移転して新たに身延山関東別院として開山した。昭和15年頃より玉川寺と称するようになった。第二次大戦後、基地を持つようになり檀家は関東一円にまたがるという。宝物としては荘厳具と勅額(立正)がある。(せたがや社寺と史跡)

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瀬田玉川神社 参道にはクイズ形式の解説版が立てられています

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瀬田玉川神社
祭神は大己貴命・日本式尊・少彦名命で、創立は永禄2155910月といわれている。境内には末社として祓戸神社、三峯神社を祭り、その祭神は祓戸4柱神・大己貴命である。神社の由緒書によれば「永禄年中155870)該村字下屋敷へ勧請す。その後、寛永3寅年(1626)字滝ケ谷辺の現在位置へ長崎四郎左衛門嘉国之を遷座す。口伝、同村真言宗慈眼寺権大僧都源長を始めて別当となし、明治742日村社に定められ、明治4054日神饌幣帛料供進指定社に列す。明治4141日前称御嶽神社を地名により玉川神社と改称し、現在に至ると」ある。祭礼は1020日の例大祭、1128日新嘗祭、220日祈年祭が行なわれている。(説明板)

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神明鳥居
鳥居の内は神様がお鎮まりになる御神域を示します。鳥居の形態は60種類以上もあるといわれています。代表的なものに鳥居上部の横柱が一直線になっている神明鳥居(しんめいとりい)、この横柱の両端が上向きに反っている明神鳥居、明神鳥居の横柱上部に合掌形の破風(はふ)のついた山王鳥居、朱塗りの稲荷鳥居などがあります。(解説板)

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狛犬
諸説ありますが狛犬の起源は古代メソポタミアで、神域を守る百獣の王・ライオンの像であるとされています。ここから西のエジプトに行くとピラミッドを守るスフィンクスになり、東へ行くと唐草模様が装飾されたり、高麗犬と呼ばれたり、沖縄ではシーサーになったりと地域の特徴を備え変化しながら日本に伝わってきたと考えられます。その役割は神様のお使いとして神域を守り、邪気を祓うことを担っています。また、狛犬の表情は実に多様です。一般に向って右側の狛犬が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、左側の狛犬が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じていて、右が雄、左が雌で子供を抱いていたりするものもあります。(解説板)

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境内風景

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慈眼寺(じげんじ)参道/瀬田

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庚申塔
慈眼寺の庚申塔は参堂入口の脇にひっそりとたたずんでいます。路傍の石仏の中でも最も親しまれ、当寺の庚申塔は「見ざる」「聞かざる」「言わざる」という謹慎態度を示す三猿の上に、三ツ目・腕六本の青面金剛が刻まれている典型的な江戸中期のもので、造立年月日が「元禄10丁丑年2月廿日」と判読されます。(慈眼寺HP)

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慈眼寺山門


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慈眼寺
喜楽山教令院慈眼寺という。新義真言宗で神奈川県小杉村西明寺の末寺で、京都の醍醐寺派に属する。徳治元年(1306法印定音が巡錫の途上この地を通ったとき里人が滝ケ谷戸崖の中段から降三世明王を発掘したのをゆずりうけ郷士長崎四郎左衛門に告げ、天の奇異なのを思い定音は小堂を建てこれをおまつりした。たまたま里人が障害をこうむったので再び像を地におさめ代りの像をきざんでおまつりした。里人その像をしたいくる者多く、仏堂(修験所)を改築した。定音は正中元年(132486日寂となっている。長崎四郎左衝門(長崎家初代の重光法名、行善の弟)がこの崖下にあった修験所を天文2年栄音外護等信の力をかり、崖の上にうつし東向7間の堂をたて本尊大日如乗を安置し慈眼寺と称し、またこの頃真言宗になったといわれている。

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長崎家の系図によると四代の嘉国(四郎衛門尉)がこの寺を修理していることが記録されているが、なお御嶽権現も鎮座されている。長崎家は菩提所として行書寺小田原から移しているので、この寺は祈願所にあてられた。明治維新後は墓所を設定するようになり、現在260位の壇家があり小説家甲賀三郎の墓がある。本尊大日如来の木坐像は嘉永6年(1853年)に大火災にあっている。寺伝に難をさけて来たとあるので確かなものと思われる。寺の過去帳には「花園天皇の御念詞仏を相伝せる祐宣僧正の系統により、当山は永世五七の桐を定紋となすことを知るべし、文化103月之を記す」とある。定紋は本堂の屋根の棟につけてある。なお、本尊の胎内には長崎家の系図があるという。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景⑤ 坂上を右にクランク状に曲がると用賀の高層ビルが見えてきます大空閣寺(だいくかくじ)

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大空閣寺山門/瀬田

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大空閣寺(だいくうかくじ)
如意山大
空閣寺は真言宗豊山派。祭神であり本尊は虚空蔵菩薩である。大空閣寺は大正天皇ご即位記念として、大正元年虚空蔵行者聖慶大僧正の開基で、昭和10年旧豊多摩郡戸塚町より現在地に移転した。現在の鉄筋コンクリート造りの本堂は昭和42年の建築であり、丑、寅年の守本尊として東都唯一の虚空蔵霊場である。本尊の作者、年代は不明である。名墓、宝物としては西蔵伝来釈迦像、紀州徳川家より寄贈の阿弥陀如来像、西蔵曼荼羅などがある。檀家や基地を持っていない。年間の主な行事としては正月、五月、九月の本尊大祭、節分会などである。境内には開山聖慶の碑、及び豊山能化小林正盛大僧正の開眼仏である円満地蔵像がありまた常施餓鬼観音は世田谷区内33ヶ所第23番の札所。堂内安置の弘法大師は玉川八十八ヶ所霊場第80番の札所である。(せたがや社寺と史跡)

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瘡守稲荷神社鳥居/瀬田

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瘡守稲荷神社(かさもりいなり)
境内には樹令百年余の大欅がある。その傍に小さい神社がある。祭神として老人の石像(全身2尺位)が安置されているが史実になるものは何もなく、したがって祭神、石像の作者、神社の創設ははっきりしない。以下の記述は神社世話人談『神社は江戸時代に出来たことは確かである。昔瘡ができたり病気になったとき当時医者がいなかった。近在の瀬田村、砧、遠く神奈川(川向う)方面の人たちは病気全快を祈り神社にお詣りした。その際、神社の階段におかれてあった多摩川のきれいなを持ちかえり、病気が全快すると多摩川から石を拾いにしてかえす習慣があった。また社内には絵馬がたくさんある。これも近郷近在の人が病気全快や五穀豊穣をねがい、願いがかなったとき絵馬をかい求めお礼にかえしたものらしい。絵馬はキツネが多い。昔の社は敷地130坪位に巾9尺、奥行2間位の小さい社であったが、4年前尾山台神社新築の際、古い建物をもらって建造したものである。年中行事としては正月初午の日、瀬田町中心の旧農家(氏子)の人々が集って赤飯・餅・油あげ等を供えお祭りをする。これが唯一の祭りである』(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景⑥環八は瀬田交差点に迂回して横断、左手が大山道・行善寺Rです/246号

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瀬田周辺案内図(緑:鎌倉道 橙:大山道行善寺R 紫:筏道 青:野川・丸子川)

大山道(行善寺R)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22650910/


・・・用賀

用賀・上用田・玉川台

鎌倉時代の初期に勢田郷ユガ(梵語)の道場が開設されて、後にこの地が真福寺の所有する所となったことからこのユガヨーガになったのではないかと言われている。明治22年、それまでの奥沢・尾山・等々力・下野毛・上野毛・野良田・用賀・瀬田の8村が合併して玉川村が成立し、用賀村は大字用賀となった。昭和7世田谷区成立時に玉川用賀町13丁目に区画された。昭和4346年、住居表示の実施に伴う町区域の変更により上用賀16丁目、用賀14丁目、玉川台12丁目(約4割は玉川瀬田町から)に区画された。(地名由来/世田谷区HP)

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街道の風景⑦ 環八で途切れ道はここへ、この先で行善寺Rと合流します

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合流点に建つ延命地蔵尊        谷沢川田中橋を渡ります

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街道の風景⑧ 用賀駅の北側、用賀商店街に旧道の面影が残ります

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真福寺山門/用賀

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真福寺/用賀新義真言宗智山派に属し、総本山は京都智積院で、等々力の満願寺の末寺である。実相山真如院といったが、瑜伽山と改められ、古くから山門が朱塗りのため通称、赤門寺とも呼ばれている。本尊は大日如来、その坐像が本堂に安置され、九品仏の開山の珂碩上人の作といわれている。開山は法印宗円和尚で天正6(1578)620日示寂している。開基は用賀村を開いた飯田図書で、法名は花巌院法誉善慶居士といって天正元年3月に歿している。飯田帯刀・同図書の父子は小田原北条氏に仕えていたが、永禄・元亀年間(1558-1572)にこの用賀村にきて土着したといわれている。

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しかし用賀に土着してからは非常に勢力をもつようになり、苗字・帯万を許され彦根藩の代官職をつとめていた。その当時は2名の代官制をとり、その1名が飯田家であった。この代官も2代でやめ、つまり、宝暦(17511763)明和(17641771)の時代までで、それからは名主として重んじられていた。今も屋号を元名主の名で呼んでいる。享和3(1803)5月に本堂・庫裡とも焼失、古文書も失ったが後に再建された。昭和28年~29年に赤い山門を新築、昭和37年~41年にかけて本堂の修理、鉄筋2階建の庫裡が新築され、庫裡と本堂の聞には他の寺ではみられない太鼓橋、泉水がつくられている。行事は仏寺の一般な年中行事だけであるが、お盆の行事は壇家300戸の家族づれが多く、墓どうろうをたてる夏の風物詩としてにぎわっている。境内に芭蕉の句碑がある。なお、明治12年ごろ京西小学校の仮校舎として使用されたようである。(せたがや社寺と史跡)

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庚申堂・太子堂            芭蕉句碑

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用賀神社鳥居


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用賀神社
祭神は天照大御神で、誉田別命・足仲彦命・息長足姫命・市杵島命・菅原道真・倉稲魂命・大山祇命を合祀している。この神社はもと天祖神社といわれ、その創立・由緒などは不詳である。合祀社である宇佐神社は天正年間(1573-1591)鶴岡八幡宮よりその御分霊を勧請奉斎したといい伝えられている。宇佐神社は明治51127日村社に指定、明治41811日現在の地にあった天祖神社と宇佐神社・北野神社・巌島神社・稲荷神社・山際神社(何れも無格社)を合祀し、明治41117日地名をとり用賀神社と改めた。「東京府志料」に「此用賀村、永禄・元亀ノ頃、飯田帯万同図書ナド云ル人ノ開発ナリトイヘトモ(中路)。戸口戸数百五十四戸、内僧侶二戸、平民百五十二戸、人口七百四十人」とあり、また、天祖神社は社地五百坪、明治41年村社宇佐神社を合祀して用賀神社と改称した。例大祭は108日・9日、秋祭(新嘗祭)も行なわれている。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景⑨右手が桜新町R、鎌倉道は左手の細路地を弦巻へ向かいます/大山道分岐

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用賀駅周辺地図(緑:鎌倉道 橙:大山道 青:谷沢川)

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瀬田周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:鎌倉道 橙:大山道行善寺R 紫:品川みち・筏道青:野川・丸子川・谷沢川)

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by Twalking | 2019-05-06 16:56 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(4)十条~川口04-川口   

日時 2019.4.18(木)
天気 晴れ

岩淵までと思っていましたが、現荒川を渡り
川口宿をぶらりと歩いてみました。
ここは裏路地を含めてじっくり歩くと面白いと思います。

武蔵野台地を二子玉川から東回りで岩淵に到着しました。
平成最後の街道歩きになりましたね~・・・
そう思うとちょっと感慨深いものがあります。


・・・岩淵/北区

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街道の風景① 荒川(旧江戸川放水路)を対岸の船戸ヶ原へ渡ります/新荒川大橋

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新荒川大橋
川口市船戸町と北区岩淵町との間で荒川および新河岸川に架かる国道122(岩槻街道・北本通り)の密接する2本の橋である。下り線が1966竣工の橋、上り線が1970竣工の橋となっている。現在の橋は1966年(昭和41年)に開通した2代目の橋。構造は単純桁橋で新橋である上り線は中央部に3径間連続鋼ゲルバー式桁を有している。橋長は旧橋である下り線が総延長809.917m(荒川渡河部は673.957m、背割堤部は17.000m、新河岸川渡河部は118.950m)、総幅員は9.950m、有効幅員は車道7.25m、歩道2.0m、最大支間長は76.000mである。一方の新橋である上り線は橋長792m、総幅員は9.3m、有効幅員は車道7.25m、歩道2.0mである。(Wikipedia

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川口の渡し
新荒川大橋が開通する以前は「川口の渡し」と呼ばれる日光御成街道に属する船三艘を有する官設の渡船で対岸を結んでいた。場所は現在の橋の上流側に位置していた。また、現在の橋とほぼ同じ位置に川口河岸も設けられていた。付近の荒川は平水時、その川幅60間(約109)程度であった。近くに名所である善光寺があり、江戸市民が信州に行かずとも善光寺参りが江戸近郊で手軽に済ませられるとあって渡船場は大変な賑わいだったという。大名の日光参詣の際や善光寺の開帳中には臨時に板橋の仮橋が架けられた。船頭は川口町の高木家により運営された。この渡船は1905(明治38年の舟橋の架設により廃止された。舟橋は「舟戸の船橋」と呼ばれ1891年(明治24年)に東京府と埼玉県の許可の元、大野孫右衛門が開設した。場所は渡船場のやや下流の位置に設けられた。長さは66間(120)、幅は75寸(約2.27m)で、船を11並べてその上に板を渡したものであった。(Wikipedia抜粋)

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街道の風景② 対岸の船戸ヶ原より岩淵宿を望みます


・・・舟戸町
(ふなとちょう)/川口市

川口市の南部の荒川河川敷に全域が位置する。町域が新荒川大橋付近で荒川の流路を超えて北区側に張り出しているが、河川改修前の荒川は現在より蛇行していてそれに沿って境界が設定されていた名残である(Wikipedia)

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小川口
この辺りは船戸ヶ原で旧街道時代の川口宿があった所であるが、小川口といわれていた。古利根川に大きな渡し場があったのでそこを川口とし、こちらを小川口と読んだのであろう。源頼朝の挙兵を聞いた義経が平泉から駆けつけたのはここで、「義経記」に『宇都宮の大明神伏拝み参らせ、室の八嶋をよそに見て、武蔵国足立郡こかわ口に着き給ふ。御曹司の御勢85騎になぞりける』とある。
二条后(きさき)も正応21289)の末にここに来て尼さんの家に身を寄せている。二条后は「とはずかたり」の著者で、信州から武蔵野を通って浅草に行っている。『武蔵国小川口という所へ下る。あれより年かえらば善光寺へ参るべしといふも、便り嬉しき心をしてまかりしば、雪つもりてわけゆく道も見えぬに鎌倉より2日まかり着きぬ。かようのもの隔りたるありさま、前には入間川(注:江戸時代に入間川と荒川を合流させ現在の荒川となる)とかや流れたる。向へには岩淵の宿といひて遊女どものすみかあり。山という物はこの国内に見えず、はるばるとある武蔵野の茅が下をれ、霜枯れ集めてあり』と記している。(旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)
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善光寺境内/船戸町 堤防の上みたい、期待していましたが・・・ちょっと寂しいですね 

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平等山善光寺
真言宗智山派。建久81197)定尊が信濃の善光寺の阿弥陀三尊を模造して安置し開創。信濃の善光寺と同様「一光三尊阿弥陀如来」を本尊としました。信濃の善光寺と同じ御利益があるとされ江戸市民の信仰をあつめました。江戸市民は江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあってこぞって参詣しました。

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文化・文政年中(180430)「江戸名所図会」に描かれた当山全景もこのころのもので、境内には十五堂宇が描かれ 当山の幸運隆盛のほどを如実に物語っています。明治新政府が樹立されると 神仏分離令が布告され廃仏毀釈運動が全国に広まり、当山も本坊(善光寺本堂)と支坊(東明院・西善院)の三か寺に分割され、一時は宗教活動にまで支障を来す状態に陥りますが明治27年(1894)一堂二院を合寺して改めて善光寺と称しました。元文4年(1739)に建立された本堂、諸堂宇はしばしば修復され太平洋戦争の空襲禍をも免れたものの 残念ながら昭和43年 (1968)災禍によって焼失してしまいました。(善光寺HP抜粋)

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江戸名所図会 川口善光寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



・・・本町
(ほんちょう)

埼玉県川口市南部に位置し中央地区にあたる。本町は本町一丁目を中心として江戸時代から「川口宿」として栄え、古くから川口の中心市街となっており、川口市立本町小学校が本町二丁目に所在している。本町四丁目を中心として現在に至るまで商業地であり、そのため町並みは岩槻街道に沿って戦前からの住居や商家の風景に特徴がありながら、近辺の交通の発展によって生まれたビル群も見られる。(Wikipedia

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街道の風景③ 川口宿入口左手に「鎌倉橋之碑」が建ちます/本一通り

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鎌倉橋の碑
鎌倉橋はかって荒川のかたわら船戸が原を流れていた小川にかけられた橋で、この碑の南方約120の地点、現在川口市立南中学校の校庭にその礎石を残しています。鎌倉橋と呼ぶその名はこれが奥州へ通っ枢要な鎌倉街道に架設されていた橋であることを示しています。義経記にも治承4年(1180源義経が兄頼朝の挙兵に応じて平泉を発し武蔵国足立郡こかわぐちを過ぎる時徒う軍勢は85騎と記して、当時すでにこの地が奥州への街道の要所であったことを伝えています。わが川口はこの街道の道筋として発展し今日のこの繁栄の基を築いたもので、鋳物業がこの地に興ったのも実にこのためであります。鎌倉橋の史蹟はこの次第を語りわが市の遠い起源をここに伝えています。郷土川口の限りない進展を願うわれらはこの史蹟の語る声なき声に本市創始のいにしえをしのび雄大なる未来創造の英気をここにくみとりましょう。(説明板)

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日光御成道と鎌倉街道
日光御成街道は中世の鎌倉街道中道ととにして整備されました。この地は奥州への要所でした。「義経記」には源義経が奥州から鎌倉に向かう際に小川口(こかわぐち・現在の川口市)で兵をあらためたと記されています。御成道が将軍社参にふさわしい道として整備されたのは寛永年間162444)といわれています。荒川北側の小川に架かっていた土橋は鎌倉橋と呼ばれ、江戸時代においても重要な橋の一つで、たびらび修築を加えられ明治初期まで残されていました。しかし、荒川の河川改修などにより消滅し、現在はこの緑地内にかつての橋の存在を記念して石碑が建てられています。(説明板)

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川口宿から辻村までの御成街道と川口宿鹿絵図(そえず)/永瀬家文書

文政4年(182110月、川口宿の問屋・年寄から取締役人に提出された絵図です・川口宿をはじめ御成街道筋の村々の名称のほか寺院・家屋・用水・松並木が記されています。(説明板)

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街道の風景④ かつての賑わいはありませんが落ち着いた街です

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本陣跡                昭和の面影が残ります

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街道の風景⑤ 路地を横切り裏町通りを見てみました

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裏町通りと鋳物工場の街並み金山町本町1丁目の境を南北に走るこの通りは「裏町通り」と呼ばれています。江戸時代後期の風景や風俗を紹介した「遊歴雑記」には『此駅の南、裏町筋に釜屋数十件あり、釜のみを作る舎あり或いは鉄瓶または銚子、或いは釣、扨は蓋と作業家々に司る処わかれて両側に住宅し、見物を許せば細工場へ入ておのおのその鋳形を見る。一興というべし・・・』とあります。ここにある「うらまち筋」が現在の裏町通りであり、江戸時代には数十軒の鋳物屋が鍋・釜・鉄瓶などの日用品を分業して製造していたことが分ります。また「日光御成道分間延絵図川口宿」を見ると裏町通り沿いに集落があり、鋳物業この通りを中心に発展していったことが分ります。明治時代に入ると、技術革新により工場数は次第に増加し金山町界隈には新たな工場が建てられるようになりました。明治3年発刊の「埼玉県営業便覧」を見ると、裏町通りには多くの鋳物製造業者とともに様々な商店が軒を連ね、金山町界隈が裏通り裏町通りを中心として賑わっていたことが分ります。現在の裏町通り周辺には明治4年(1872)に創設した川口最古の鋳物工場がある。永瀬留十郎工場や国の有形文化財である旧鋳物問屋鍋手別邸や国の記録有形文化財である旧鋳物問屋鍋手別邸(現川口市母子父子福祉センター)が面影を残しています。(説明板)

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明治時代中頃の裏町通りの街並み/明治35年(1872)発刊「埼玉県営業便覧」

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街道の風景⑥ 北側からみていますが、これは絵になる風景ですね~

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日光御成道と川口宿日光御成道は中世の鎌倉街道中道をもとにして、徳川将軍が日光社参を行うための専用道として整備されました。本郷追分で中山道と分かれ岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻の5宿を経て、幸手追分にて日光道中に合流する12里余(約48km)の道です。日光社参は徳川将軍が日光山に赴き東照大権現(家康)、大猷院(たいゆういん・家光)といった先祖の霊廟を詣でる行事です。社参は元和316172代秀忠から始まり天保14年(184312代家慶(いえよし)まで17行われており、その中でも秀忠が4回、家光が9回を数えます。社参が川口宿を通ったことが分かっているのは6回で、錫杖寺(しゃくじょうじ)が御休所として使われました。

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川口宿は本郷追分から二つ目の宿場です。宿の機能には運輸・通信・宿泊などがあり、最も重要なのは公用で通行する貨客に対して人馬を提供しこれを輸送することでした。日光御成道の宿駅の役割としては川口宿は荒川を挟んだ一つ目の宿である岩淵宿との合宿になっていました。合宿とは二つの宿で一宿分の業務を行う宿のことで、半月ごとに業務を交替で行いました。『日光御成道宿裏大概帳』(天保14年・1843)によると、当時の川口宿の人口は1406人、家数が295軒、この内本陣・脇本陣、旅籠、諸商店などがあり、また裏町(うらまち)には鋳物を生業(なりわい)とするものが10数名いると記されています。荒川端から元郷村(もとごうむら)までを宿域とし長さ1357間(約1522m)の道筋に家並みが立ち、御成道の西側の裏町、横小路にも家並みが広がっていました。川口宿内の日光御成道は現在の本一通りにあたり、今も通りの両脇には当時を偲ばせる古い商店などがあります。(説明板)
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日光御成道の経路図


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鍋屋の井
「遊歴雑記」(釈敬順)の中の記。『此の釜屋どもの庭中に悉く井あり、化粧側の高さは九尺、又は八尺、低きというも五尺より低きはなし。この側の上より清泉吹き溢れ迸り流る。此の土地の家々の井みなかくの如くというにあらず。釜屋のみに限ってかかる名水あり。依て釜屋の井戸とて名高し、蓋し、長流の川添は水の湧出するものにや』川口は浦和水脈という地下水脈の豊富に集中する地域でそのため各地にこのような「吹き井戸」があった。大正12年、ユニオンビールが川口に進出したのもこの水に據ったものと考えられようが、この会社の進出がやがて次第にこの吹き井戸の水勢を弱めていったのは皮肉である。写真は江戸名所図会に描かれた「鍋屋の井」である(説明板)錦絵:江戸名所図会 鍋屋の井 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景⑦ 駅への道を横断して細路地を錫杖寺へ向かいます

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凱旋橋跡付崖線橋之碑
これは明治39(19066)1月に日露戦争出征兵士の凱旋を祝し、旧川口町の町長以下町民たちによって架設された凱旋橋の跡と川口神社境内にあるその由来を記した記念碑です。鋳物業が飛躍的に発展し、地域が発展していく契機となった日露戦争の記念となる文化財です。(川口市教育委員会)

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錫杖寺表門

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錫杖寺山門

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錫杖寺(しゃくじょうじ)
養老元年717)に行基が本堂を建立、自ら地蔵菩薩を刻み本尊とし開基したと伝えられています。のち、北条時宗の帰依を受けた鎌倉長楽寺開創の願行上人が再興、寛正元年1460)には室町幕府8代将軍足利義政により七堂伽藍が整備され、中興の祖宥鎮和尚を晋住させました。以降、醍醐三宝院直末関東七ヶ寺の一つ、十一談林所の一つとして末寺53ヶ寺を有する名刹として栄えました。元和81622)には江戸幕府2代将軍徳川秀忠の日光参社の際の休息所となり、以降歴代将軍により利用されました。また、3代将軍家光からは金子、材木を拝領し、御成門を建立するとともに御朱印20石を賜るなど「川口宿」の中核寺院として繁栄しました。(説明板)

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銅鐘(埼玉県指定有形文化財)
この銅鐘は池の間(鐘の中央部分)に刻まれている銘文から寛永1816419月、川口宿名主である宇田川氏が先祖供養の施主として川口鋳物師長瀬冶兵衛守久が鋳造し菩提寺である錫杖寺に奉納したものです。銅鐘の製法は右に示すとおり湯(溶融した金属のこと)を型に4回に分け流し込んで造られています。形状は総高132cm、口径66cmと比較的小型ですが、型抜きの良い細身の美しい形をしています。上部の鋳型の継ぎ目を隠すための疵状の突起は江戸時代初期の鋳法の特徴を示し、池の間には由来が記されています。また、吊り手の龍頭は精巧で美しい形をしており近世初期の工芸品として、また川口を代表する地場産業である鋳物業の歴史をたどる上でも大変貴重な資料です。(説明板)

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川口天満宮縁起
天満宮は天満大神(菅原道真公)(845903年)を祀る社である。菅原道真公は野見宿彌の子孫であり大和国菅原の地名より菅原宿彌となり、後に朝臣となる。代々文章道をもって朝廷に使えたが延喜元年太宰権師に左遷され、翌々年同所で死去、その後雷神信仰と結び、中世以降各地で寺社の中に祀られ盛行した。当山に安置する天満宮は、もとは境外西の方にありご神体は今からおよそ1,100年前道真公自らの作として伝えられ、梅樹の根より穿出(せんしつ)せしものという「武蔵風土記稿第七巻」。学問・文芸の神様として知られ、225日が菅原公の命日、毎月25日が縁日として多くの方々の信仰を集め、今日に至っている。(錫杖寺)

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地蔵堂                福禄寿堂


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川口神社鳥居

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川口神社
川口
の名は当地の南を流れる入間川(現在の荒川)に合流する芝川河口に当たることに由来するとされ、鎌倉・室町時代には「小河口」と称されていたことが『とはずがたり』『義経記』から知ることができる。また、当地は日光御成街道の宿場として栄えたが、この道は時代をさかのぼると中世は「鎌倉街道中道」更に古代は東国と陸奥を結ぶ「奥大道」であり、古代からの重要な街道であった。この小河口の成立は定かでないが、当地の善光寺の開山は建久8年(1197)とされ、同寺には弘安元年(1278)を初めとする鎌倉・室町期の板碑が数多く残り、錫杖寺も中興を寛正元年(1460)と伝える。また、度重なる荒川の水害により旧記亡失して詳らかでないが、当社にも暦応21339)・天文41535)の板碑が残ることからこのころには既に集落が存在していたようである。

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当社の創建も定かではないが、室町期の作と思われる一木造りの男神像を奉安することから室町期には既に建立されていたと見られる。社蔵の棟札は貞享元年(1684)の本殿再建、元禄4年(1691)の修理、宝永7年(1710)の社殿修理、天明8年(1788)の社殿大修理、嘉永3年(1850)の本殿修理を伝える。当社は明治6年に村社となり、同276月に字新屋敷の天神社を合祀し、同354月に字町並の第六天社、字荒川堤外の石神井社を境内社として移転、同407月に字押田・字金山・字谷中の各稲荷社を境内社の杉山稲荷神社に合祀した。また、同4210月に川口の鋳物師の鎮守であった字塚越の金山社を合祀すると共に社号をそれまでの氷川社から川口神社に改称した。

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その後は明治42年に本殿屋根葺替えがなされたが大正12年の関東大震災で神楽殿が全壊した。更にこれに伴う拝殿・幣殿・神楽殿・社務所の改築が進んでいた昭和2年、火災により本殿・拝殿・幣殿・末社を焼失した。こうした相次ぐ羅災にもかかわらず昭和4年に拝殿・幣殿・神楽殿・社務所・杉山稲荷神社を竣工、同10年には県社に昇格、同18年には紀元2600年記念事業として本殿・神門・手水舎が完成し復興をみた。次いで同22年、合祀社の金山神社を独立の境内社とした。更には御大典奉祝記念事業として平成35月に境内社の梅ノ木天神社を新築、同611月には境内社の杉山稲荷神社・第六天社・石神井社を三社神社として新築、同じく境内社の八雲社と金刀比羅社を移築するなど境内整備を行った。当社の社務は元和4年(1618)から明治初年まで、錫杖寺の末寺・雨宝山大悲院延命寺が別当として務めていた。また、別当が廃された後は明治2年に竹本八五郎が社掌に拝命されてより太郎吉・佳年・佳輝・佳徳と代々竹本家が宮司を務めている。(埼玉県神社庁)

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川口神社の神鏡
この神鏡は井沢弥惣兵衛為永の配下にあって見沼溜井造成工事を担当した杉島貞七郎保英が奉納したものです。保英は川口宿の宇田川定盛の子として生まれ、小普請組杉島不一の養子となり小普請組に属し、鎮守である氷川神社に工事の完成を祈願し、祈願が成就したことにより奉納されました。直径30cm、厚さ0.5cm、裏面には「奉納・御寶前・武州川口町鎮守・杉島貞七郎花押」、中央には「氷川大明神」三つ巴文とともに「享保18年癸年9月吉祥日 中村因幡守作」の銘が鋳出されています。(説明板)
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金山神社
金山神社は南北朝時代暦応年間の御鎮座と伝へ、江戸時代以降川口鋳物業の発展に伴ひ鋳物師の守護神「金山権現」として篤い崇敬を受けてきた。当寺の祭日は1119日で祭も盛大を極めたと言ふ。かつては当地の南西約三百米の地に鎮座してゐたが、政府の方針により明治42年川口町内の他の神社とともに町の鎮守であった氷川社合祀され、現在の川口神社となった。昭和の大戦後は神社が国家の管理を離れたため、鋳物業関係者と氏子有志の熱望により、川口神社の旧社殿を移築して別宮とし、金山彦命の御分霊を奉祀したものである。御祭神の神徳は広大で国民生活に欠かせない金属の生産と流通、特にお金の流通をつかさどり、諸産業の発展と人々の幸福、社会の平和、国家の繁栄を守護される。(説明板)

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川口神社境内

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街道の風景⑧ 夕暮れの街を川口駅へ向かいます

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川口周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:鎌倉道 青:荒川・芝川)

鎌倉道中道東R(4)03-岩淵水門の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27574102/

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鎌倉道中道東R(十条~川口)ルート図


by Twalking | 2019-04-30 23:25 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(4)十条~川口03-岩淵水門   

日時 2019.4.18(木)
天気 晴れ


日光街道を歩いていると元荒川とか古利根川など
多くの河川に出合います。
???・・・と調べてみると背替えをしてるんですね。

家康が命じた「利根川の東遷」&「荒川の西遷」ですが、
この時代に物凄い土木工事をやったんですね・・・、
これを頭にいれないと歩けないな、と思いました。

その後、明治の洪水を契機に荒川放水路が開削されました。
これも大規模な背替えですね~、「荒川知水資料館」に
資料展示されていると知りましたので見学しました。
非常に参考になりました、ありがとうございました。


・・・岩淵水門

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川の風景① 河川敷から荒川の景観です、右手が岩淵水門になります

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この辺りが旧荒川でしょうか           岩淵緊急用着船場

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川の風景② 旧岩淵水門(通称:赤水門)

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岩淵水門
北区志茂において現在の荒川隅田川とを仕切る水門。かつて「荒川放水路」と呼ばれた人工河川を現在は荒川と呼び、かつての荒川を「隅田川」と呼ぶ。この水門はこれらの分岐点にある。新旧2つの水門がある。旧水門の通称は赤水門、新水門の通称は青水門。赤水門1924(大正13年)に竣工し、すでに運用を終了した。青水門1982(昭和57年)竣工し運用中である。荒川上流からの流量が増えた場合岩淵水門を閉め切って、隅田川の洪水を防ぐために設けられている。平常時は水門を開け荒川新河岸川・隅田川とをつないでいる。旧水門はその色から通称「赤水門」と呼ばれる。1916年(大正5年)に着工し、1924年(大正13年)に完成した当初の水門。RC造(一部S造)で9幅のゲート5で構成されている。新水門はその色から通称「青水門」と呼ばれる。旧水門の老朽化、地盤沈下対策、また洪水調整能力の強化を考えて300mほど下流に作られた。1974年(昭和49年)に着工し1982年(昭和57年)に完成した。RC造で10幅のゲート3で構成されている。重さは1枚あたり214tで1500tの水圧に耐える。増水時には水門を閉じ荒川上流と隅田川の水流と途絶させる。(Wikipedia

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旧岩淵水門(東京都選定歴史的建造物)
旧岩淵水門は明治431910)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川との分派点に設けた。水門はローラーゲート構造で、幅約9の五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103の大型構造物となっている。本体は煉瓦構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916)に着工し同131924)に竣工した。昭和22年(1947)のカスリーン台風や昭和33年(1958)の狩野川台風の大出水の際も機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部地域一体における広域的な地盤沈下により本水門も沈下してきたため、昭和35年(1960)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。その後、昭和48年(1973)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和571982)に約300下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。(東京都)

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川の風景③ 水門公園から見る青水門です/水門広場

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草刈の碑
農民は先ず草刈りから


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「月を射る」青野 正 材質:リバーテン鋼 平成8年度荒川リバーアートコンテスト特別賞受賞作品

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隅田川
北区の岩淵水門荒川から分岐し東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流する。古くは墨田川、角田川とも書いた。当川の河道は、元は旧入間川が東京湾へ注ぐ下流部だったが、江戸時代には瀬替えの結果、荒川の本流が流れた。昭和時代に荒川の分流となり隅田川が正式名となった。古代には隅田川は、旧利根川旧入間川が現在の足立区千住曙町付近合流し、南流して東京湾へ注ぐ河道を指した。

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合流点の東岸を隅田(墨田)と呼んだ。2km下った墨田区向島5丁目北端付近から下流は砂州が散在する河口への分流地帯だったが、東京湾へ注ぐ主要河口への河道は浅草方向へ向かう現在の河道から離れ、横十間川の方向へ2km流れ、現在の横川(墨田区)と亀戸(江東区)との間付近で東京湾へ注いだ。ただしこの河口河道は次第に土砂の堆積で河勢が弱まった。この隅田川は武蔵国(豊島郡)と下総国(葛飾郡)の当初の国境だった。南北2kmの合流区間は両国を繋ぐ接点として重要で、771以降東海道が通り隅田川を渡船で隅田へ渡った。835年(承和2年)の太政官符に「住田河」として記されており、「宮戸川」などとも呼称されていた。(Wikipedia


・・・荒川知水博物館

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展示風景① 荒川の歴史(流路の変遷)がまとめられています

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【江戸時代以前】
利根川に流れていた昔の荒川
江戸時代以前の荒川は現在の元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。しかし荒川は扇状地末端である熊谷付近より下流でしばしば流路を変えて氾濫・乱流を繰り返していました。

【江戸時代~明治時代中期】
徳川家康の命で行われた荒川の「西遷」

徳川家康から命を受けた伊奈備前守忠治寛政61629に荒川を利根川から分離する工事に着手しました。熊谷の久下地先元荒川の河道締め切って堤防を築くとともに新たに川を開削し、和田吉野川市野川入間川を経て隅田川に流入し、東京湾に注ぐ流路に変えたのです。この大規模な河川改修工事は後に「荒川の西遷」と呼ばれるようになります。

【明治時代後期~現在】
明治以降の荒川(放水路の完成後)

「西遷」後も荒川沿川では各地で洪水が頻発していました。特に明治41910)の大洪水では荒川下流部の堤防はここごとく決壊し、隅田川でも洪水があふれて深川や本所付近が浸水しました。これを契機に荒川放水路の開削が決定、荒川本流を隅田川から仕切る水門(岩淵水門)を北区岩淵に設け、そこから中川の河口方向に向けて延長22km、幅約500の放水路をつくる一大プロジェクトが行われました。(展示パネル)

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江戸時代に行われた主な河川改修/展示パネル

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展示風景② 荒川放水路(現荒川)の開削経過などが展示されています

荒川の水害と放水路の誕生
明治431910)、荒川に起きた大洪水がきっかけとなって、東京を水害の恐怖から救うため新たな放水路の建設が持ち上がりました。岩淵から中川の河口まで全長22km500に及ぶ大規模な放水路をつくり、洪水時には本流側(隅田川)の増水を押さえるため岩淵水門を閉め、あふれた水の大部分をこの人工河川で流してしまうという計画です。工事には多くの資材と領力がついやされ、当時世界でも最新の技術や機械が導入されました。20年の歳月をかけて完成した放水路は荒川の「本流」に認められた今も首都圏を洪水の危険から守り続けています。(展示パネル)

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放水路開削以前の荒川
明治中期の流域地図(迅速測図原図 明治19年復刻版)/展示パネル

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農村地帯に水害を増大させたロウト状の地形
江戸時代、荒川下流部(隅田川)の右岸日本堤左岸には隅田堤が築かれていました。この二つの堤に挟まれたロウト状の地形によって、荒川の洪水は堤の上流側にあふれ、下流側の江戸市街地の被害は軽減されることになりましたが、遊水ゾーンにあてられた農村地帯では長い間水との闘いが続いてきました。
日本堤
現在の日本堤町、土手通り付近。浅草聖天町付近から山谷堀に沿う形で西北に延び三ノ輪付近で上野の台地から連なる微高地につながっていた。
隅田堤
現在の墨堤付近、綾瀬川合流点からはじまり新小梅町あたりで消失。(展示パネル)

山谷堀(日本堤)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27262253/


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放水路建設のきっかけとなった明治末期の大水害
明治43年(1910)関東地方を襲った台風で荒川の下流部(隅田川)が氾濫し、東京の下町やそ沿川一帯は大洪水に見舞われました。(浸水家屋27万戸、被災者150万人、被害総額は当時の国民所得の約4.2%にあたる12000万円余)この大水害を契機に荒川の進路を変えて東京を洪水から守ろうという放水路建設が計画されたのです。(展示パネル)
図:明治43年の洪水による被災範囲(赤枠)荒川下流部のみ・区県境は現在のもの)

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放水路開削工事中の荒川(大正5年の流域地図)/展示パネル

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放水路完成まじかの荒川(昭和4年流域地図)/展示パネル

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荒川放水路改修平面図/展示パネル

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放水路工事の手順
測量・調査・用地の収用などの前段階を済ませて、工事はまず川岸部分を平坦に整えることから始まりました。次に「エキスカ」と呼ばれた蒸気式の掘削機を使って低水路となる所を掘り、それから水をひいいて浚渫船などで更に深く掘り進めました。最後に岩淵水門から放水路の全川に通水。工事の大半が完了したのは大正13年のことです。(展示パネル)

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蒸気掘削機による工事風景       浚渫船による工事風景

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展示風景③ 荒川放水路をつくった代表的な技師たち

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青山士(あきら)
荒川放水路工事の最大の功労者は青山士です。青山はパナマ運河の工事を日本人としてただ一人参加、最先端の土木技術を学んで帰国し、放水路と岩淵水門の工事責任者となりました。資料館入口に残る『此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ』とだけ記された記念碑がその人柄をあらわしています。(展示パネル)
静岡県磐田市生まれの土木技術者。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人であり、荒川放水路の建設、信濃川大河津分水路改修工事を指揮した。

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中川・綾瀬川の旧河道と現河道
放水路開削工事では数多くの水門や閘門が建設されました。建設された水門や閘門の中には現在の荒川を代表する構造物もあります。放水路の規模が大きかったことから数多くの付帯工事が発生しました。(荒川放水路変遷誌/荒川下流河川事務所)

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荒川放水路の完成
明治44年(1911)に事業に着手された荒川放水路も20の歳月をかけて昭和5年に完成しました。放水路の完成によって荒川の洪水が抑制されるようになると沿岸の開発も進んでいきました。荒川放水路通水後は放水路が洪水抑制の効果を発揮したことが確認されています。図は大正148月洪水時の放水路の水位と隅田川の水位を比較したものです。岩淵水門点の放水路の水位と隅田川水位差2.83mあったことが示されています。(荒川放水路変遷誌/荒川下流河川事務所)

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荒川下流域立体地図/展示パネル

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荒川放水路完成記念碑
『此ノ工叓ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト勞役トヲ拂ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センカ爲ニ 神武天皇紀元二千五百八十二秊荒川改修工事ニ從ヘル者ニ依テ』

この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。荒川下流改修工事事務所主任技師(現工事事務所長)であった青山 士および工事関係者一同が工事の犠牲者を弔うために資金を出し合ったものである。台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。(説明板)

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船堀閘門頭頂部

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船堀閘門頭頂部
荒川には放水路開削前から隅田川から小名木川新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、小名木川が接する部分には従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため右岸側小名木閘門小松川閘門を、左岸側新川水門船堀閘門を設置しました。新川と中川を隔てる背割堤上にある船堀閘門は高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。(昭和2年・1927着工 昭和4年・1929竣工、昭和54年・1979撤去)(説明板)

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京成押上線旧荒川橋梁基礎杭      水神社

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川の風景④ 荒川知水資料館からみる荒川の景観、正面が赤水門、右手が隅田川です

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荒川知水資料館
荒川知水資料館は地域のみなさんとの交流、荒川の洪水、水害の歴史や自然環境などの情報発信基地として平成103月に開館しました。館内では荒川の生きもの、荒川の歴史について展示しています。1F:新しい荒川に出会うフロア 2:F荒川を知るフロア 3F:荒川を見守るフロア(パンフレット)
場所:北区志茂5-41-1(赤羽駅・南北線赤羽志茂駅より徒歩1520分)
03-3902-2271 入場無料

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周辺案内図
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岩淵付近今昔マップ(明治初期~中期)/歴史的農業環境閲覧システム

鎌倉道中道(東)(4)-02岩淵の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27569378/


・・・・
資料ファイル

荒川の歴史
【江戸時代以前】
すでに鎌倉時代には元荒川筋の鴻巣市と吹上町(現、鴻巣市)の境界付近に「箕田堤」「太田庄堤」、熊谷市付近の荒川左岸に「熊谷堤」などがあり、幕府が越辺川と都幾川合流点の堤防を修理したことや、室町から安土・桃山時代にかけては後北条氏が川島町伊草の入間川と熊谷・鴻巣市周辺の元荒川筋堤防を築いたことが残されています。いずれも江戸時代以前の河川改修は小規模で「荒川の流れ」そのものに手をつけることはなかったようです。

江戸時代】
荒川が人の手によって「流れ」そのものを変えられた時代です。それを可能にしたのが徳川政権の誕生と技術の進歩でした。家康の命を受けた伊奈氏は後に「利根川の東遷荒川の西遷」と呼ばれる利根川と荒川の瀬替えを行いました。利根川水系と荒川水系を切り離すこの大規模な河川改修事業により荒川熊谷市久下で締め切られ、和田吉野川・市野川・入間川筋本流にする流れに変わりました。これにより埼玉県東部の新田開発や荒川を利用した舟運が進み、舟運によって集まる物資により江戸は世界に誇る100万都市に成長します。その一方で新たな水を受け入れることになった和田吉野川市野川の周辺では水害が増え堤防や水塚などがつくられました。関東平野の治水は代々関東郡代を世襲した伊奈一族が行い、長男の忠政、次男の忠治へと受け継がれています。(荒川上流河川工事事務所HP)

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利根川・荒川流路変遷図/荒川上流河川工事事務所HP
(青:荒川・入間川・隅田川・元荒川 紫:利根川・古利根川 橙:江戸川)


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川の風景⑤ 赤羽桜堤緑地より新荒川大橋(新河岸川部)を望みます

新河岸川

武蔵野台地北部に降った雨を集めた伏流水入間川(笹井堰)からの水田用水を水源とする赤間川が、埼玉県川越市上野田町の八幡橋付近で新河岸川と名前を変え起点となる。川越の市街地の北側を回り込むように流れた(ここは途中の田谷橋まではかつての赤間川である)後で、川越市大字砂付近で不老川、川越市大字南田島付近で九十川と次々に流れ込む支流を合わせながら荒川の西岸沿いを流れて、東京都北区の岩淵水門先で隅田川に合流する。

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歴史
江戸時代、川越藩主松平信綱が当時「外川」と呼ばれていた荒川に対し「内川」と呼ばれた「本川」に「九十九曲り」と言われる多数の屈曲を持たせることによって流量を安定化させる改修工事を実施し、江戸と川越を結ぶ舟運ルートとした。これ以降、本川沿岸には新たに川越五河岸をはじめとした河岸場が作られ、川の名も「新河岸川」と呼ばれるようになった。舟運は特に江戸時代末期から明治時代初めにかけて隆盛した。

改修されるまでは川越市の伊佐沼源流であったが、1910(明治43年)降の荒川直線化工事に合わせて、1920(大正9年)〜1931(昭和6年)に川越市街地の北側を流れ伊佐沼に流入していた赤間川に新河岸川は繋げられた(現在の田谷橋付近から田島橋付近まで開削、伊佐沼から流れ出る旧新河岸川部分は現在は九十川という)。また、志木より下流も掘り進められ、当時大和町(現在の和光市)新倉荒川合流していたのを、現在の岩淵水門隅田川に合流する形となった。さらに昭和に入ると志木より上流の旧河川も洪水防止のため河川改修工事が行われた。図:新河岸船運の河岸(Wikipedia



by Twalking | 2019-04-28 21:04 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(4)十条~川口02-岩淵   

日時 2019.4.18(木)
天気 晴れ


赤羽駅は賑わいがありますね~・・・、
ガードを潜り東口から商店街を宝幢院へ、
この門前で中道西回りと合流し岩淵宿に向かいます。

鉄道が出来て赤羽が中心となり、寺社も新しくなって
往時の雰囲気は失われつつありますが、それでも
細路地に面影を求めて歩いてみました。


・・・赤羽

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街道の風景① 道は消えているので東口にでて左折、宝幢院へ向かいます/赤羽

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赤羽駅東口              中道の西回りと合流します/宝幢院前

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太田道灌と稲付城
太田道灌は扇谷上杉家に属した15世紀の武将で、江戸城を築いたことで知られるように優れた築城技術家でした。また、道灌は城取りの名人で、地元豪族の豊島氏との争いでは石神井城練馬城を落城させ、滅亡に追い込みました。稲付城は道灌が岩槻城、川越城と江戸城の連絡のため築城したといわれており、現在では静勝寺の付近に城の跡を偲ぶことができます。静勝寺は道灌の死後、彼の師・雲岡(うんこう)和尚によって城跡に建てられた寺で、かつては道灌寺と号していたといわれ、寺の東側山門奥にある道灌堂には今も道灌の木像がいます。(歴史と文化の散歩道)

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宝幢院山門(ほうどういん)/赤羽


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宝幢院
宝幢院は医王山東光寺と号し真言宗智山派に属する寺院で本尊は薬師如来像です。寛正21461)宥鎮和尚によって開山され、約150年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興しました。「新編武蔵風土記稿」には慶安2年(1649)に三代将軍家光から赤羽根村内に10石余の年貢・課役免除の朱印を付されたことが記されています。寺伝や浮間の古老の言い伝えによれば、かつてこの寺は浮間村西野(現在の浮間4丁目にほぼ相当)にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽移転し、跡地は宝幢院屋敷と呼ばれたそうです。

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境内には区内最古の寛永161639)霜月18日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔があります。板碑型の石塔本体正面には阿弥陀如来立像と2猿が線刻され「山王廿一社」の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところがニ猿であるためにこの塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には庚申信仰山王信仰の結び付きを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結び付いて造立されたようです。その他に馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名を刻んだ馬頭観音塔や、出羽三山供養塔などがありこの地の歴史を知る上で貴重なものとなっています。(北区教育委員会)

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宝幢院前の道標
門に向かって右側の道標は江戸時代の中期、元文5174012月に了運という僧侶によって造立されたものです。宝幢院の前は板橋道日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道日光岩槻道」・「西 西国富士道板橋道」・「南江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は岩淵宿から川口へとで渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光のある日光に社参するための専用の道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は西国へと向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口へと向かう富士道へ通じていました。道標は各々の方向からきた人々がまず自分の歩いてきた道を確認し、つぎにこれから訪ねようとする土地への道がどの道なのかということを確認できるように造られたものです。(北区の歴史と文化財)

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街道の風景② 中道(西回り)からの景観、門前で合流し岩淵宿へ向かいます

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環八(赤羽岩淵駅)を横断       右手の旧道を行きます


・・・岩淵(町)

かつて東京府北豊島郡に存在した町の一つ。
岩淵は古くからある地名である。現在の地名では赤羽、赤羽北、赤羽台、赤羽西、赤羽南、岩淵町、浮間、神谷、桐ヶ丘、志茂、西が丘に相当する。室町時代の『小田原衆所領役帳』には「太田新六朗知行江戸岩淵五ヶ村」とあり、すでに岩淵郷が複数に分かれていたことがわかる。五ヶ村の内訳は後の大字、すなわち岩淵宿稲付村赤羽根村袋村下村であろうと考えられている。江戸時代には赤羽の八幡神社がこの五ヶ村の総鎮守であった。また、江戸時代にはこの岩淵から新堀村(現在の荒川区西日暮里)下駒込村(現在の文京区本駒込)のあたりまで広く岩淵領が置かれていた。Wikipedia

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街道の風景③ すぐ右手に大満寺があります/岩淵

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大満寺山門 真言宗智山派のお寺さんです
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本堂                 不動堂

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幸福地蔵(通称手わらじ地蔵)
ここに安置されたいる地蔵菩薩は名前を幸福地蔵といいます。本来地蔵菩薩は菩薩でありながら他の菩薩のように煌びやかな装飾ではなく僧侶本来の姿をしています。菩薩とはお釈迦様の入滅から567千万後の弥勒菩薩が出現するまで、この世で人々の苦しみや悲しみを救済してくださる仏様の事をいいます。その力は六道輪廻の世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)に及びます。ここにいる幸福地蔵は手にわらじを持っております。その理由は我々人間界の一人一人の願い事や祈りをそのわらじに託して、自宅まで届けてくれます。それは常に私達の傍らにいてくれる存在でありたいと思う気持ちの現れです。どうぞ手を合わせてご自由にお祈りください。(案内板)

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街道の風景② 続いて
正光寺、梅王寺があります/正光寺門前

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正光寺
(しょうこうじ)山門

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正光寺
北区岩淵町にある浄土宗の寺院。当寺院の創建は鎌倉時代にまで遡る。良忠上人を開山として石渡民部少輔保親を開基とし創建した。当時、正光寺と隣接していた地に西光寺としてあった。その後衰退し荒廃したが、慶長71602)小田切将監重好と眞譽龍湛上人によって現在の地に寺を移転小田切将監重好法号によって正光寺となった。以来、岩淵町の中心的な寺院となり境内には植木市なども開かれていた。しかし1978年に本堂が焼失。以降再建されずしばらくは空き地のようになっていたが20117月に本堂その他が再建され、現在では本来の姿を取り戻しつつある。なお、寺伝によると本尊の阿弥陀如来は春日仏師の作で、また観音堂にある観音像は源頼朝公守本尊といわれ行基の作であると言われている。Wikipedia

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観音堂
頼朝公守本尊である世継観音をお祀りしております。日の作とも伝えられるこのお像は大変美しい容姿をしておられ、地域の人たちの信仰を集めています。周りには十二支の本地垂迹にあたる諸尊像が8体お祀りされております。(正光寺HP)

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岩淵大観音
昔から岩淵の町は水害に悩まされてきました。明治3、時の住職は人々をなんとか水害から守ってあげられるようにと願いを込め、銅や浄財を募り三丈三尺の正観音を建立したのでした。以来、岩淵大観音は地域の人々を静かに見守り続けています。(正光寺HP)

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梅王寺山門 浄土宗のお寺さんです

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街道の風景④ 一本左側の路地を行ってみました、突き当たりが八雲神社、左折が小山酒造の跡地です

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八雲神社鳥居


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八雲神社
八雲神社は岩槻街道東裏荒川堤防の南側近くに鎮座します。この神社は江戸時代に徳川将軍が日光東照宮に参詣する際に利用した日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿鎮守社でした。祭神には須佐之男尊(すさのおのみこと)が祀られています。創建年代は不詳ですが、江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」には『牛頭天王社 宿ノ鎮守トス、正光寺持』とありこれが「テンノウサマ」として親しまれていたことがわかります。また、神仏分離以前には正光寺別当寺でした。明治67月に村社に定められ、それ以来、赤羽八幡神社の兼務社となっています。境内には本殿、幣殿・拝殿、神楽殿、末社水神社が配置されています。

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水神社は舟運業者の信仰を集めた神社です。祠の右側には「寛政十二庚申正月吉日」の年紀が刻まれています。また、勝海舟が荒川で足止めされたときに書いたとされる大幟旗(おおのぼりはた)も所蔵します。現在、本祭は末社水神社の祭礼とともに隔年ごとの6月第一土曜・日曜に行われています。このとき氏子たちによって神輿が巡幸されます。参道の端に「岩淵町 町名存続之碑」があります。昭和375月に「住居表示に関する法律」が公布されると北区も住居表示の変更を進めました。由緒ある岩淵町の名を守るため岩淵町一丁目の住民は町名存続運動を展開しました。この石碑はそのときの記憶を未来へと刻むものです。(北区の歴史と文化財)

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町名存続之碑
『岩淵の歴史は古く、遠く古代社会より交通の要地として発達し、室町時代に宿駅制度が整備され岩淵宿と呼ばれるようになった。然しなんといっても岩淵が宿場町として発達したのは江戸時代であり日光街道の脇街道、つまり岩槻街道が出来てからのことである。特に将軍が日光往来にこの街道を利用したので別名を御成街道と呼ばれた頃である。然し明治になり鉄道が発達するにつれ岩淵宿も衰退の道を歩むようになっていった。だが地方行政が発達してゆく中で岩淵本宿として近隣町村の中心的存在となっていった。こうした時の流れの中で明治、大正と2回に亘り、岩淵を赤羽にしようとするとする行政機関の動きがあったがその都度我が先輩は岩淵の名を守り抜いてきた』(碑文抜粋)

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勝海舟安房守の筆になる八雲神社大幟の修復について
明治憲法は明治222月に発布されほぼ時を同うして町村制が施行された。ここに始めてわが国に民主的な政治と行政の制度が芽ばえたのであった。そこで旧岩渕本宿の先人はこの大典発布によって封建制度から開放されたことを祝福し、これを記念して守護神である八雲神社大幟を奉献したものであろう。しかし、この大幟奉献の計画が岩渕本宿の先人誰れびとによって発起されたかは証明する資料もないので今日に至っても定かではない。思うにその時代にしては日本一とも思はれるジャンボウサイズの幟を奉献した事実はわれわれの先人たちはよほど気宇の大きい、かつ経済的にも豊かな環境にあった人びとだったと推察せきる。またそれよりむしろこの人だちの協和の精神がいかに旺んであったかが想像できてまことにほほえましい限りでもある。さて、どうして勝安房守に筆をとらせたかと言うことであるが、その真実はどう研究してもはっきりしない。おそらく幕臣に身をおきながら明治革命に心血をそそぎ、しかも江戸城あけわたしの西郷との交渉で江戸八百余町の住民を戦災から救った俊傑として、先人脳裡に深くきざみこまれていたためだったと考えられる。

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ただ僅かに先代からの「言い伝え」として残ってゐるのは『当時の海舟の居所赤坂にたずねて岩渕の者だが是非にと頼んだこと』『海舟が一つ返事で引受けてくれたこと』『先人が墨をすりに通ったこと』『海舟がミゴボウキを握って立ちはだかって書かれたこと』そして愈々書きあがってののち『先人が御禮のしるしとして鯉魚を持参したこと』『玄関に立ってゐた海舟がどこでとれた鯉魚かと問はれたこと、先人が地元の荒川でとれたと答えたこと、海舟は急に不気嫌にになって奥へ消えてしまったこと』等々である。考えてみると海舟は維新前後、江戸や京阪を際々往復していたので『そのころ懇意にしてゐた東海道岩渕の人たちと錯覚していたのではなかったろうか』と先人はこのことを後日の物語りとして伝えている。ことの由来はともかくとして勝海舟の真筆になる大幟は世にまれな貴重な文化財ともいうべきであろう。我々氏子はここにこの大幟を八雲神社に奉献した先人の遺志を学び、これを後世に残すことは将来児孫のためにも大きな意義があることだと信じている。以上の趣旨で大幟の修復を発起してまづ氏子中に勝海舟遺墨保存委員会を組織した。そして文部省文化庁の指導のもとに、氏子総代や氏子多数の方々の熱烈な奉仕によってここに修復が完了したわけである。昭和4912月(碑文)


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岩淵宿
岩淵宿は日光御成街道第一の宿駅であり岩淵郷本村である。「元禄の改め」では岩淵本宿と記され「正保の改め」では岩淵町と記されている。明治に入り岩淵本宿町が正式な名称となった。稲付村、赤羽根村、袋村、下村は、元は岩淵郷のうちでありいつ頃分立したかは不明。岩淵宿、稲付村、赤羽根村は江戸時代には寺社領であった。袋村、下村は天領であったが後に天領と寺社領の入会となった。神谷村は旗本領であった。また、岩淵宿、稲付村、赤羽根村、下村は荒川の対岸に持添新田を持っていた。赤羽根村は明治に入り赤羽村に改称された。(Wikipedia)(写真:小山酒造跡地)

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街道の風景⑤ 現在の新河岸川・荒川を渡ります/新荒川大橋

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新河岸川対岸より岩淵宿方向の景観です/赤羽桜堤緑地

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岩淵渡船場跡/赤羽桜堤緑地
この辺りに岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場(とせんば)がありました。江戸時代、ここが川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。渡船場は奥州との交通上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また室町時代には関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。

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江戸時代、ここを通る道は日光御成道と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備されました。渡船場も将軍専用と一般用に分かれており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ65(117)、幅3(5.4)です。一般の渡船場は人用の船と馬用の船が一艘ずつ用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔日で勤めてきましたが、大名の通行などの際、近隣村で現在の北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬村の三ヶ村も勤めることになっていました。また、対岸の河原にある川口善光寺が名所として参詣者で賑わうようになり、開帳中は船橋が架けられたほどだそうです。渡船場は明治以降も利用され、明治38(1905)3月からは常設の船橋が架けられました。しかし交通量が増大するにつれて船橋では対応できなくなり、昭和3(1928)9月少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割を終え船橋は撤去されました。(北区教育委員会)

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岩淵の渡船場周辺図
荒川河川改修以前の明治13年(1880)測量の地図「東京近傍北部」に、渡船船位置や日光御成街道などを加えました。(案内板)

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『名所江戸百景-川口のわたし 善光寺』
歌川広重 安政4年(1875
江戸時代に浮世絵師広重が描いた岩淵の渡船場の光景です。画面手前が岩淵宿側で、柳の木を目指して渡船が近づいてくる様子が描かれています。岸の上には船を待っている人の姿がみえます。対岸の川口側に描かれている朱塗りの建物が善光寺です。(案内板)

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渡船場付近から現在の荒川及び対岸の風景です

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岩淵周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

鎌倉道中道(東)(4)01-赤羽の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27564826/

by Twalking | 2019-04-25 19:54 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(4)十条~川口01-赤羽   

日時 2019.4.18(木)
天気 晴れ


十条台地を下り赤羽、岩淵宿へ向かいます。
右手は武蔵野台地、左手は荒川の低地になりますが、
国土地理院のデジタル地図を見ると複雑な地形です。

旧街道はその台地に沿って通っています。
丘の上には古刹があり、往時の様子が偲ばれます。
なかでも稲付城のあった静勝寺周辺は見応えがあります。
初めての所なのでじっくり見て歩きたいと思います。


・・・中十条


北区の南部に位置する。十条地区の中央部にあたることに由来する。北側は埼京線と京浜東北線に挟まれ三角形の形になっている。宅地が目立つ。(Wikipedia

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街道の風景① 十条台地の旧岩槻街道を北へ向かいます/中十条
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西音寺本堂 真言宗智山派寺院です、工事をされたましたので山門から

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鐘楼                   六面石塔(宝暦2年・1752)

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西園寺眺望図
『東ノ方ヲ望メハ近郷ノ田園ヲ見ワタシ又遠クハ筑波日光ノ山々ヲ望ミテ最佳景ト云ヘシ』(新編武蔵風土記稿)

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八雲神社鳥居/中十条 環七の角にあります

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八雲神社略由緒記
八雲神社は近世には真言宗智山派無量山龍谷院西音寺持ちであった。江戸時代、文化文政期編纂の新編武蔵風土記稿に「牛頭天王社 西音寺持」とある。その後、王子神社末社として旧宿町(中十条二、三、四丁目辺り)の村持ちの神社となったが、現在は「八雲講」組織の管理運営により祭礼が執り行われている。太平洋戦争以前は環状七号線の真ん中辺りにあったが、昭和167年頃現在の地に遷座となる。社地提供の高木家が代々講元を務める。

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八雲神社は牛頭天王・須佐之男尊を祭神とする祗園信仰の神社で、総本社は京都の八坂神社である。社名は須佐之男尊が詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」に因む。江戸時代までは牛頭天王社と称していたが明治期の神仏分離令により現社名となる。この地でも昭和14年頃以前はテンノウサマ(天王様)として庶民の崇敬を集めていた。牛頭天王とは日本の神仏習合における神様であり、元々はインドの祇園精舎の守護神であると言われている。疫病避け、病気平癒、また内緒で賽銭をあげると縁が結ばれる縁結びの御利益あり。昔は諸願成就の丑三つ詣りが盛んに行われていた。北区岩淵町にも日光御成道第一の宿場、岩淵宿鎮守社の八雲神社がある。(講中一同)

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街道の風景② 清水坂を西赤羽へ下ります

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清水坂/中十条
十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成街道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられてその跡に児童遊園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。(北区の歴史と文化財)(写真:八幡山児童公園

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日光御成街道と将軍
日光御成街道は王子から岩槻を経て幸手で日光街道と合流する奥州(日光)道中の街道として重要な道でした。将軍の日光社参というのは将軍が417日の家康年回忌などに日光東照宮参詣することですが、その行列はとても華やかだったそうです。しかしその費用は莫大なもので、一度社参すると幕府の財政を圧迫するほどでした。また、将軍社参の年にあたると道中筋では代官の陣頭指揮のもと村民総動員の形で御用を勤めたため、これに対する沿道の名主や村人達の負担も大変なものでした。(歴史と文化の散歩道)絵図:日光御成道と北区の村々(弘化年間絵図)

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若宮八幡神社鳥居 児童公園の上、八幡山に鎮座します

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若宮八幡神社
祭神:誉田別命(ほむたわけのみこと・応神天皇)ここは八幡山と呼ばれております。古老から聞き伝えに依りますと、この八幡神社は享保年間(17161736)に鎌倉の鶴が岡八幡宮から分祀して創建したとのことです。(現存の記録は明治186月が最古のものです。)それで「若宮八幡神社」と言います。以来、地元の有志が代々お祀りをして参りましたが平成8年に新たに「八幡山の会」と云う組織に改め、この神社を「心のふるさと」としてその周辺を含めて護持、整備を行っております。多くの方々にご賛同戴いて当会への入会ご寄附等ご協力下さいますよう御願い申し上げます。平成166月吉日 八幡山の会代表世話人/説明板


・・・赤羽


北区の北部、荒川を隔てて埼玉県に接する地区。江戸時代は赤羽根と記し、この一帯に赤土が多く赤埴(あかはに)といわれたことが地名の由来ともいう。JR京浜東北線から以西は山手台地赤羽台といわれる。以東は荒川右岸の沖積低地で、江戸時代は岩槻街道(日光御成街道)寒村であったが、1887年(明治20)以降台地は軍用地となり工兵隊、被服本廠(ほんしょう)、火薬庫などがあった。現在はJR京浜東北線、埼京線の接点として赤羽駅付近は交通、ショッピングの一中心地をなし赤羽台には住宅団地がある。1991年(平成3)東京メトロ南北線赤羽岩淵(いわぶち)駅開業。(コトバンク)

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街道の風景③ 坂下は赤羽、この辺りに稲付川(暗渠)が流れたいたようです、左に登ると香取神社、法真寺があります/西赤羽

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稲付川(いなづけがわ)
稲付川は北耕地川とも呼ばれた水路で、石神井川の水を分けた潅漑用水でした。石神井川中流にある板橋の根村(現在の板橋区双葉町)の堰で分水されたので根村用水または中用水(なかようすい)とも呼ばれていました。江戸中期4代将軍家綱の時代に開削されたようですが詳しいことはわかっていません。北区内の流路はほとんどが暗渠となり下水溝になってしまいましたが、稲荷台(板橋区)の裾をめぐり、姥ヶ橋(うばがばし:環七通りの交差点名として残っています)をくぐって、現在の梅木小・清水小の脇を流れ、岩槻街道を過ぎたところで細分されて各村に導かれていました。その末はそれぞれ荒川隅田川)に放流されていましたが、現在では北本通り(国道122号)の東側神谷3丁目地内に残っており、隅田川に接続しています。(北区を流れる河川/北区HP)(写真:法真寺題目塔)

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香取神社鳥居/西赤羽

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香取神社本殿
香取神社本殿は境内東側に位置する拝殿の後ろに設けられた本殿覆屋の中に安置されています。朱塗りの三間社流造で屋根は杮葺きです。石の亀腹の上に土台が据えられ、その上に高さ約10尺、奥行約8.3尺の社殿が建てられています。香取神社は経津主神・大山咋神・建御名方神を祭神としています。「新編武蔵風土記稿」には『村の鎮守とす、長二尺六寸許の石を神体となせり』と記述され旧稲付村鎮守でした。稲付村17世紀半ばの郷帳(「武蔵田園簿」)に「御神領」と記され、東叡山寛永寺領に属していました。

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また、当社とも関係の深い法真寺(赤羽西二丁目)の開山證道院日寿は、東照宮の造営にも深く関与した南光坊天海の弟だったとも言われています。このため、香取神社の本殿はこの近辺に暮らす人びとに、上野東照宮本殿(内陣)を移築したものだと古くから信じられています。上野東照宮の本殿とは徳川将軍家が東叡山寛永寺を造営した際に藤堂高虎(津藩初代藩主)が建てたもので、その事業には徳川御三家が協力し寛永4年(1627)に落成したことが知られています。北区台帳登載文化財・有形文化財建造物。(北区教育委員会)

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稲付村の力石
ここにある七つの石はその一つに「さし石」と刻まれている力石です。江戸時代後期から明治時代にかけて稲付村では春の彼岸がすぎるころ少しの間農作業に暇ができましたので、村の鎮守である香取神社の境内に村内の力自慢の若者たちが集まって石の「サシアゲ」などして力くらべをしたといいます。七つある力石のうち五つの石に重さが刻まれています。軽いものでも19貫目(約71kg)重いものでは55貫目(約206kg)もあります。また、六つの石には「小川留五郎」と名前が刻まれています。

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留五郎さんは稲付村一里塚跡付近にある根古屋(ねこや)の小川家の人で、力が強く村相撲の大関を勤めたといいます。石鳥居の脇にある明治39年(1906)五月建立「日露戦役記念碑」の有志者連名中にもその名がみられます。明治40年(1907613日に51歳で亡くなりました。力石は小川家に保管されていましたが、昭和40年(1965)頃に香取神社へ奉納され現在に至っています。力石は鎮守の祭礼などでこれを持ち上げて神意をはかるための石占(いしうら)に用いられ、後には若者たちの力くらべをするための用具ともなっていきました。この力石は往時の稲付村の風俗・習慣を示す貴重な文化財です。(北区教育委員会)

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境内から十条方向の景観です

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法真寺山門/赤羽西

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法真寺
岩槻街道から法真寺に向かう入口には題目塔が建っていて、元禄11年(1698)銘で「伝教大師一刀三礼にて御彫刻、本門薬師如来」とあります。天正元年1537)慈眼大師(天海僧正)の弟・證導院日寿上人の開山で、開基は京都山科毘沙門堂跡守澄法親王と伝えられています。本堂、客殿、檀信徒会館の他、境内には三十番神堂・三蛇弁財天・咸得稲荷が奉納されています。手入れの行き届いた庭が素晴らしく、岩槻街道沿いであるにもかかわらず鳥のさえずりを聴きながら眺める枯山水は都内にいることを忘れさせてくれます。(北区の歴史と文化財)

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三十番堂               鐘楼

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鳳生寺坂
この坂は鳳生寺門前から西へ上る坂で坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から六右衛門坂とも呼ばれます。坂上の十字路を右()に向かうと赤羽駅西口の弁天通り、左()へ向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。名称の由来となった鳳生寺は太田道灌の開基と伝えられ、岩淵宿にあったものを移したので、現在も岩淵山と号しています。(北区教育委員会)

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鳳生寺山門/赤羽西 
曹洞宗のお寺、元は岩淵宿にあったそうです

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本堂                   「太田道灌公開基」の石塔

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街道の風景④ 拡幅工事中でしょうか、信号の先左手に普門院があります/西赤羽

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普門院参道 中国風の山門が建ちます、真言宗智山派寺院のお寺さんです

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普門院本堂                 納骨堂

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稲付の餅搗唄/道観山稲荷社地内
江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄は住民が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は毎年2月の初午祭のときに道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。餅は正月を祝って鏡餅として神棚にそなえるととも、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では餅を搗く際に臼にまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振りおろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗くときにうたったのが稲付千本餅搗唄です。唄は大正12年(19239月の関東大震災の前後まではズシ(=辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(=催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々をまわり、一晩かけて餅搗の手伝いをするときにうたわれました。しかし米屋が餅の注文をとるようになると餅を搗く機会が次第に失われモヤイによる餅搗唄も姿を消していきました。昭和40年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする道観山稲荷講の人々が初午祭に際して餅搗唄を伝承するようになり今日に至っています。東京都北区指定無形民俗文化財。(説明板)

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街道の風景⑤ 旧道の左手の丘が稲付城址跡&静勝寺がある「道灌山」です

静勝院

江戸城を造ったことで知られる室町中期の武将・太田道灌が、砦として使用したといわれる稲付城。道灌の死後、稲付城を寺にしたのが静勝寺のはじまりです。稲付城跡はこの寺域から南へかけての丘陵一帯とされています。東側山門正面奥には、北区指定有形文化財の木造太田道灌坐像が安置された道灌堂があります。 また、北区指定有形文化財の静勝寺除地検地絵図・古文書を所蔵しています。(歩きたくなるまち北区)

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静勝寺山門

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静勝寺境内

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静勝寺
静勝寺の由来は太田道灌の死後、太田道灌の師・雲綱和尚が1504に城の一角に彼を弔う堂を建立して道灌寺とした事にはじまる。その後明暦元年1655)道灌の子孫の太田資宗が堂などを整備して中興、太田道灌とその父・大田資清の法号によって寺号を自得山静勝と改めたと言われている。江戸時代を通じて静勝寺は太田氏の菩提寺とされ、道灌堂(太田道灌像を祀るお堂。1715年建立)、旧本堂(現在の弁天堂。1694年建立)などを造営するなど深くかかわっていたWikipedia

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太田道灌挫像
正面の道灌堂の厨子内には太田道灌坐像が安置されています。像は道灌の命日である726日にちなんで26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌に当たる享保2017357月に建立され、厨子は350回忌に当たる天保618357月に製作されました。太田道灌(14321486)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦に参加したといわれていますが、長禄元年14574月に江戸城を築いたことで知られています。像は頭を丸めており道灌が剃髪した文明10年(14782月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振りが置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5cm、構造は檜材の寄せ木造りです。頭部は前後二材矧ぎで魚眼をかん入し差首としています。体内に納入されていた銘札によると元禄81695)静勝寺第6世の風全恵薫によって像立され、以後6回の修復が施されました。現在の彩色は昭和62年(19874月に行われた修復によるものです。像は道灌が没してから200年以上も後に像立されたものでありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で平成元年1月に北区の指定有形文化財に指定されました。(北区教育委員会)

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静勝寺除地検地絵図・古文書
静勝寺文書は赤羽西にある静勝寺に伝存した文書群です。承応から昭和にいたる文書群のうち、近世文書68点が「静勝寺除地検地絵図・古文書」として平成5年に北区指定有形文化財に指定され、近代文書152点が「静勝寺近代文書」として平成4年に北区指定有形文化財に台帳搭載されています。静勝寺境内一帯は太田道灌が築城した戦国時代の砦「稲付城」跡でした。区指定有形文化財のうち貞享4年(1687)の静勝寺除地検地絵図城塁配置を知ることができる最も古い絵図で、境内や付近の地形、稲付城の空堀の遺構が描かれています。この他、絵図成立に関連したものや境内の堂舎普請や太田道灌顕彰のための活動、寺院財政の一端を示す文書なども伝存しており、当時の静勝寺の様子を知る上でも貴重な資料であるといえます。北区指定文化財。(北区の歴史と文化財)(写真:弁天堂)

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石段入口に「稲付城址跡」の石塔が立ちます、左右の坂道が空堀跡のようです

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稲付城跡
稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。昭和62年(1987)静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間15581569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代にはが設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城はその街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。道灌の死後、この城には孫の資高が居城し後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷5ケ村を所領しました。明暦元年1655)に道灌の子孫太田資宗静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。東京都指定有形文化財。(北区教育委員会)

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右手の坂               左手の坂上は東門です

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稲付城跡/東門
稲付城跡は武蔵野台地島北端部の標高21程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも『堀蹟』として登場します。現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。

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周辺からは発掘調査によって幅約12深さ約6空堀跡等が検出され、その際に16世紀前半頃の遺物が出土しました。静勝寺には室町時代の武将・太田道灌の木造座像が所蔵されています。寺伝によれば城はこの道灌による築城とされています。今のところ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひかえ北方防御を重視した城の構造と発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏に関わりのある城であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから道灌の築城の可能性も考えられます。(東京都教育委員会)

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江戸名所図会 静勝寺亀ヶ池 五葉松 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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亀ヶ池辨財天


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ご案内
亀ヶ池辨財天は弁天通り共栄会商店街振興組合をはじめとする地域住民で組織されている後援団体辨天講の皆様方のご協力に依って維持管理しております。亀ヶ池辨財天は教宗法人静勝寺の鎮守として同寺の辨天堂に安置されてある亀ヶ池辨財天勧請して祀っています。毎年41日の辨天大祭には静勝寺住職が祈願導師を勤め家内安全諸願成就の祈祷札を講中及奉納の皆様に配布してます。元旦、初詣、二月の節分会等地元の繁栄と平和のための諸行事を取り行います。昭和55年、静勝寺のご後援ご指導のもと辨天講々中地元の関係者の誠意溢れる信仰心により本寺静勝寺の辨天堂に安置しております。尊像を写した木彫の分体を斯道の大家「西山如拙翁」に依頼して昭和5641日辨天例大祭に御遷祀開眼の法要を営み地元地元繁栄と家内安全諸願成就御守護の神辨財天辨財天佛像を御堂に祀っています。地元の守り神様として皆々様の家内安全、商売繁盛、交通安全、良縁、安産息災、入試合格等ご参拝の上御祈祷・御祈願下さい。特に、昭和5810月吉日亀ヶ池の中には長寿の亀子宝安産亀辨天様を安置致しました。どうぞお願いが成就するよう御参拝下さい。辨天講は今後とも一層積極的に管理守護に務めて参る所存であります。皆様方の御理解とご支援御愛護宜しくお願い申し上げます。昭和五十八年十月吉日 辨天講

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街道の風景⑥ 道は駅で途切れますが、高架を潜り宝幢院門前へ続いています/赤羽駅

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街道の風景⑦ 新幹線に沿って西へ行くと赤羽神社があります/赤羽台

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師団坂
この坂は旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治28(1887)8月から9月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移ってきたので坂はつくられました。この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は『赤羽の兵隊屋敷』と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより付近の住民にも親しまれていました。現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。(北区の歴史と文化財)

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赤羽神社参道鳥居

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石坂                 階段上鳥居

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赤羽八幡神社/赤羽台
赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和気命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇、日本書紀によれば応神天皇の父)、息長帯比売命(神功皇后、日本書紀によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷5ヶ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり、現在もその地域の総鎮守となっています。創建年代等は不詳ですが、伝説によれば延暦年中782-806坂上田村麻呂758-811、平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として崇敬され、征夷大将軍の職名は永く部門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりにを敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長徳年中995-9源頼光が社殿を再興し、久寿年間1154-56源頼政が修造を加え、応永(1394-1428)正長(1428-29)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として1貫文の地を寄進し、文明元年1469太田道灌が社殿を再建したといいます(岩淵町郷土誌)。

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これはさておき、ここには太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)の天文201551)の寄進状が伝えられており、その文面は『岩淵之内赤場根八幡領之事、合壱貫文之所者。右為社領如前々聞之候、且々私之修理おも加可申候、萬一自分を為本無沙汰に付而は可放取者也、仍而如件天文廿年辛亥1228日 太田新六郎 康資 葉押八幡 禰衹 朝日興五右衛門殿』となっています。従ってこの神社は室町時代末期以前からあったことは確実です。また「新編武蔵風土記稿」に『赤羽根村・・・今ハ東叡山(寛永寺)及伝通院村内宝幢院八幡社領入曽ノ村ナリ』と記されており、慶安2年(1649)に七石余の朱印が付されていることから(岩淵町郷土誌)、江戸時代この神社は年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に7石余有していたことも確実といえましょう。

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現在の社殿は昭和6改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますがこれは絵馬堂を兼ね、絵馬が3枚納められています。この神社が祀られている台地は武蔵野台地東北端にあたり、東は荒川沿岸の沖積地に、西は八幡ノ谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器が発見されており、縄文時代中期・弥生時代後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり詳細は不明です(東京都遺跡地図、東京都教育委員会)。

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この神社より星美学園敷地(旧陸軍第一四段工兵第一大隊兵舎跡)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業場等跡)は八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。明治5年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同20年第一・近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等が相次ぎ赤羽は陸軍の町となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦歿者の霊も合祀)などはその当時の名残りです。また、ここから星美学園に至る坂は第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。(北区教育委員会)

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境内から赤羽駅方向の景観です 左に京浜東北線、右に埼京線&新幹線が通ります

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江戸名所図会 赤羽山八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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デジタル標高地形図-武蔵野台地赤羽付近/国土地理院

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赤羽周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:旧岩槻街道 青:稲付川)

鎌倉道中道(東)(3)04-滝野川の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27555687/

by Twalking | 2019-04-22 19:32 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(3)東新宿~十条04-滝野川   

日時 2019.4.4(木)
天気 晴れ


池袋から明治通りを北へ向かいます。
旧中山道、府中からの古道や谷端川と交差しますが、
気をつけていないと見逃しますね。

西巣鴨から石神井川低地へ下り道は味わいがあります。
蛇行して流れていた川筋に流路跡が残りますが、
ここは隅田川から府中へ向かう頼朝布陣の伝承地とか。
そう思うとなかなか感慨深いものがあります。



・・・上池袋/豊島区


北端は板橋区板橋、北東は旧矢端川暗渠で北区滝野川と、東は宮仲公園通りを境に西巣鴨と、南東は西巣鴨橋通りを境界に北大塚、南はJR山手線を挟んで東池袋、南西のJR及び東上線の線路上で西池袋及び東上線を跨いで池袋、西は池袋本町と接する。全体的に南側が池袋台地の北端にあたるので高く、旧谷端川に向かって北側になだらかに低くなっていく地形である。鎌倉時代鎌倉街道
中道(なかつみち)が整備される。現在の宮仲橋から上池袋二丁目交差点に続く道がそれとされる。1573年(天正元年)頃 子安稲荷神社再興される。江戸以前 朱引線(寺社奉行管轄地)・墨引線(江戸町奉行管轄地)外であり、当時は域内のほとんどが未開発の土地もしくは田畑だったと思われるWikipedia

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街道の風景① 明治通りを北へ向かいます/上池袋2

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谷端川(やばたがわ)跡/区界
この道路はむかし谷端川という川でした。谷端川は粟島神社(要町二十四)境内の湧泉(弁天池)を水源とし、周辺の湧き水を集めながら長崎村、池袋村、中丸村(板橋区)、滝野川村(北区)、巣鴨村を経て小石川村(文京区)に至り神田川に注ぐ、区内最大の流域をもつ川でした(全長約11km)。川の名称は豊島・北・板橋区内では谷端川文京区内では小石川礫川)と呼ばれ、元禄91696)年に千川上水が完成した後、上水の水を川に引き入れたため千川分水とも呼ばれました。(豊島区教育委員会・抜粋)

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千川上水分配堰碑/滝野川
正面に「千川上水分配堰」とあるこの碑は明治15(1882)7月に設置されました。右側面には上水の水源地、樋口(ひぐち)の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治423月として樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれています。これにより取水量が定められていたことがわかります。千川上水元禄9(1696)玉川上水から分水された上水で、左()側の道路が今は暗渠となってしまった水路です。堰はこの付近にあり、そこから西巣鴨交差点の方向に分水路が通されていました。この分水路は慶応元年(1865)11月、飛鳥山の西側(滝野川2-6付近)にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開鑿(かいさく)されたものです。明治時代になると分水路は石神井川とともに現在の北区・荒川区・台東区内の23ヶ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙(しょうし)会社・大蔵省紙幣寮抄紙局(りょうしょうしきょく)の工業用水として利用されました。また、千川上水本流も東京市内への給水が再開され多方面に利用されることになりました。そのため千川上水の利用者は水利権を明確化し、互いに取水量を遵守するために碑をここに設置しました。(北区の歴史と文化財)

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旧中山道(庚申塚通り)と交差/掘割  左が旧道、西巣鴨交差点へ迂回します


・・・滝野川/北区


滝野川地区の西部に位置し豊島区(上池袋・西巣鴨)・板橋区(板橋)との区境にあたる。全体的に南側旧谷端川流域北側が石神井川流域でになっており、中山道を境に南北になだらかに低くなっていく地形である。滝野川は石神井川下流での別名でもある。かつて石神井川はこの付近で渓谷となって蛇行しており、流れも急なため「滝のような川」であることから滝野川と呼ばれるようになった。また周囲には滝もあるほか紅葉の名所として多くの絵画などにも描かれるほど有名であった(Wikipedia

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街道の風景② 白山通りを左折、すぐ先から石神井川流域へ向かいます/西巣鴨交差点

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府中からの古道が交差します      ひとまず八幡道通りへ

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豊島区と板橋区の区境には谷端川が流れそこに鎌倉橋があった。明治通りと中山道との交差点近くで旧街道は明治通りと分かれて北へ行く。この道は石神井川流域で消えている。交差点北は本道から直角に分かれて東行する旧街道である。その道は六阿弥陀仏とか千住道と呼ばれ、北区と豊島区との区境を通って岩槻街道に出て、豊島氏の居城・平塚城前を通り西日暮里駅北で大地を下り、三河島・三ノ輪を経て橋場へ続くようである。その道は中山道と下道の連絡道で、頼朝が千葉から武蔵国入りした時に功労者の豊島清光に感謝の表敬訪問をするためこの道を通って平塚城へ来た。(図:旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景③ 鎌倉道ではありませんが、八幡神社へ緩やかなくだりです/八幡神社

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八幡神社鳥居


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八幡神社
八幡神社は旧滝野川村の鎮守で、地元では滝野川八幡と称されることもあるようです。神社の祭神は品陀和気命(応神天皇)で、創建は建仁21202)といわれていますが詳細は不明です。社殿の裏手からは縄文時代後期住居址が発見されており、社地は考古学的にも貴重な遺跡に立地しています。神仏分離以前は石神井川畔にある金剛寺別当寺でした。明治初年には大塚の天祖神社神職が祠掌を兼務していたようです。現在の本殿は明治17年(1884)に改築されており、拝殿は大正11年(1922)に修築されています。境内には富士・榛名・稲荷の三つの末社があります。このうち、特に榛名社については村民が農耕時の降雨を願い上州の榛名山より勧請したもののようです。神社の社務所は終戦直後まで、旧中山道に面した滝野川三軒家の種子問屋が中心となっていた東京種子同業組合の会合場所として利用されていました。組合ではここで野菜の種子相場(生産者からの引取価格)の協定をしたり、東京府農事試験場に試作を依頼していた原種審査会の表彰などを行いました。(北区教育委員会)

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街道の風景④ 道は観音橋に続き、袂に谷津大観音、その先に寿徳寺があります/観音橋

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石神井川               谷津大観音

谷津大観音 
唐金鋳造 仏高:4.5m 総高:石台共7.7m 唐金重量:5

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寿徳寺山門

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寿徳寺(じゅとくじ)
北区滝野川4丁目にある真言宗豊山派の寺院。住職は第25世の新井京誉(女性)寺伝によると鎌倉時代、当地を訪れた武士によって本尊の観世音菩薩を安置した事に始まると言われている。本尊は谷津子育観音として昔より親しまれた。その後、幕末になり新撰組・近藤勇他隊士達の菩提寺となり、近藤処刑後、境外墓地として現在板橋駅そばにある近藤の墓地の管理・及び命日における供養をしている。本尊の聖観音菩薩像は梶原氏の家臣が水中から拾い上げたものといわれている。本堂前にある大イショウは、皮をご飯に炊き込んで食べると母乳が出るといわれているため、母乳に恵まれない母親がよく参拝することから谷津子育観音としても知られている。新撰組の近藤勇局長と諸隊士の菩提寺でもある。(北区文化財案内)

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谷津子育観音
南照山観音院寿徳寺の本尊である谷津子育観音は木造観音菩薩坐像です。この観音像は谷津観音と通称され、江戸時代の地誌には子安観音ともまた聖観音とも記されています。寺伝では鎌倉時代の初期、早船・小宮の両氏が主家の梶原氏と争い追われて落ち延びる途中で水中から拾いあげ、これを石神井川の川沿いの堂山に安置したのだと伝えられています。像の姿は蓮華座に坐り両手で乳児を膝の上に抱えている姿で、指を阿弥陀如来と同じ弥陀の定印に結んでおり現在は秘仏となっています。寿徳寺は江戸時代から城北地域の江戸西国三十三観音札所(上野王子駒込三十三ヵ所観音霊場)の第12番目の巡礼地にあたり、近江国岩間寺の霊験と同じ功徳をもつものとして多くの人々が訪れています。境内に切株から芽吹いている銀杏があり、昔飛鳥山付近からも眺められたほどの巨木でした。この樹の皮をはいで本尊に供え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良く出るようになるという信仰もあります。こうした信仰は昭和の初期にも盛んだったようで、河東碧梧桐の俳句に「秋立つや子安詣の花の束」という句があり、また寺野守水老も「我妹子と子安に詣る小春かな」という句を詠んでいます。(北区教育委員会)

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新撰組隊長近藤勇菩提寺と肖像石板
近藤勇は新撰組を組織し幕府側から京都の守護に当たり、流山で官軍に捕まって慶応442535歳で板橋宿平尾にて斬首され、胴体がJR板橋駅東口の当山境外墓地に埋葬されたが、123回忌に当たる本年、本人所持の短刀発見をも記念してこの石碑を境内に、また本人肖像石板を境内及び境外墓地に建立し、菩提を弔うものである(碑文)

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谷津観音の坂/寿徳寺門前
この坂は石神井川にかかる観音橋の北から寿徳寺へ登る坂です。坂名は坂上にある寿徳寺に谷津観音(やつかんのん)の名で知られる観音像がまつられているからです。江戸時代には大門通とも呼ばれていました。谷津というのはこの辺りの小字(こあざ)名です。今でも谷津子育観音とも呼ばれる谷津観音へお参りに行く人々などに利用されています。(北区の歴史と文化財)

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街道の風景⑤ 八幡通りの東側の道、こちらの方が鎌倉道に近いかもしれません/四本木稲荷前(しほんぎいなり)

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四本木稲荷鳥居

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四本木稲荷
七軒町(シチケンチョウ)」と呼ばれた地域に、明治38(1905)4月に陸軍火工兵器廠ができる以前にすでにあった王子稲荷神社の古い分社である。その地の居住者二族は高木駒崎でその家系はかなり古い。高木の本家は鎌倉時代以前と言われ、その分家であった七軒町の高木は確実に江戸期にさかのぼる。四本木稲荷の創建を示すものは見い出せていないが火工兵器廠ができる以前にすでにあったことは判明している。北区の前身、東京都王子区と地名がなったもっと前の明治384月に四本木稲荷の置かれていた七軒町の地は陸軍に買い取られて火工兵器廠がつくられた。それで隣接地の「稲荷公園」に移された。兵器廠は戦後アメリカ軍に接収され、のち自衛隊十条駐屯地となってからも「稲荷公園」にあったが、昭和30年頃に滝野川3丁目アパートの一角に移転しなおされた。(Wikipedia

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直進すると滝野川橋、右折して遊歩道を行きます、ちょっと幻想的な風景です

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滝野川橋の手前の川岸遊歩道を東行する。南側の空地は川が南へ蛇行していた所を埋め立てた所である。往時は南岸中腹松橋弁天洞窟があった。松橋というのは弘法大師が木を切って橋を架けたことから起こったこの地方一帯の地名である。室町時代の豊島一族滝野川氏志村氏と名乗る者があり、その一族から板橋・志村両氏が出ている。その滝野川氏は金剛寺に居館を構えその地名を氏名にしたのだろうといわれている。紅葉橋を渡り、公園で左折、自衛隊正門を北進する。この道が旧街道の続きで岩槻街道に続く。(図:旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景⑥ 滝野川橋の下流の旧流路跡に作られた公園です、奥が金剛寺になります/音無もみじ緑地公園

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松橋弁財天洞窟跡/音無もみじ緑地公園
もともとこの辺りは石神井川蛇行して流れていた場所でした。上の絵は「江戸名所図会」に描かれた「松橋弁財天窟」ですが、ここでは『この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり』とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。崖下の岩屋の中には弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。

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『新編武蔵風土記稿』によるとこの弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。また、現在都営住宅が建っている付近の崖にがあり弁天の滝と呼ばれていました。旧滝野川村付近には滝が多く、夏のこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の「名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのです。滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は昭和501975)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。(北区の歴史と文化財)(錦絵:東都名所-王子滝野川/広重)

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江戸名所図会 松橋弁財天窟(いわや) 石神井川 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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金剛寺山門

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金剛寺
真言宗豊山派。瀧河山松橋院金剛寺と号し本尊は不動明王像です。縁起によればこの地は弘法大師遊歴の古蹟で、大師自ら不動明王像を彫り石の上に安置した、これが同寺の本尊であるといい、また治承年中1177-81源頼朝松橋弁天を信仰し堂舎を建立、あわせて田園を寄進したがその後兵火に焼かれ、強盗に田園を掠奪され宗門すら定かでなかったのを、天文(1532-55)のころ阿闍梨宥印という僧がこれを歎いて北条氏康に訴え、真言宗の道場にしたということです。

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松橋弁天というのはこの寺院の西側崖下にある洞窟(現在は石神井川護岸の裏側になっています)に祀られていた弁財天のことで、岩屋弁天とも呼ばれていました。江戸時代かなり広く知られていたようで、現在も区内に何ヶ所かその名を彫った道標が残っています。「源平盛衰記」に源頼朝が隅田川を渡って府中に向かう途中「武蔵国豊島の上滝野川、松橋という所に陣を取る」と記されております。また、この寺院の一帯は豊島氏の支族滝野川氏の居館滝野川城跡といわれています。境内には鹿島万平翁の碑などがあります。(北区文化財案内)

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源頼朝の布陣伝承地
治承411808月鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦で敗れて安房に逃れましたが、上総・下総を経て隅田川を渡り滝野川・板橋から府中六所明神に向かいここから鎌倉に入って政権を樹立します。この途次の10月、頼朝は軍勢を率いて滝野川松橋に陣をとったといわれます。松橋とは当時の金剛寺寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は両岸に岩が切り立って松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。崖下の洞窟には弘法大師の作と伝えられる石の弁財天が祀られていましたが、頼朝は弁財天に祈願して金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられます。金剛寺は紅葉寺とも称されますが、これはこの地域が弁天の滝や紅葉の名所として知られていたことに由来するからです。(北区教育委員会)

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滝野川周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

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・・・十条

北区にある地名であり旧上十条村下十条村の範囲にあたる上十条・中十条・十条仲原・東十条・十条台を指す汎称地名である。
由来は新編武蔵風土記による豊島清元が熊野権現を勧請した際紀州十条峠に因んでつけたとする説と、新修北区史による古代条里制に基づくという説がある。王子方面から岩淵を経て埼玉県へ抜ける旧岩槻街道日光御成道鎌倉街道とも呼ばれる。現在の都道460号中十条赤羽線)が通り、元々はこの街道を中心に集落が広がっていた。南から、街道沿いにある地福寺は「十條村のお地蔵様」と昔から信仰を集めた。毎年71日の富士山の山開きの日には富士神社(十条富士塚)では大きな縁日が催される。陸・海・空の兵站中枢として十条駐屯地(海上自衛隊では十条基地)補給本部が存在する。Wikipedia

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街道の風景⑦ 紅葉橋を渡り十条へ向かいます/十条台紅葉橋

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紅葉橋(石神井川)          中央図書館先公園

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街道の風景⑧ 本郷通り交差点付近から旧道を岩槻街道へ向かいます/中十条

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地福寺山門/中十条


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地福寺
当山は詳しくは十條山(古くは醫王山)地福寺東光院と号し、真言宗智山派に属しています。総本山は京都市東山区の智積院です。康平年間10581064)京都の御室御所仁和寺の僧・経邦上人が伊豫公の護持僧として奥州征伐に同道した折、討伐後も一人東国に残り十條山を開き、御所の秘仏(太子作、薬師如来像と伝える)をこの地に奉安したのが当山の始まりです。以来、北条家から五貫文の公田を受け、寛政年間(17891800)には徳川家から12石の御朱印を賜りました。そして山門前を南北に走る日光御成道を通り将軍が日光に社参する折りには、当山はしばしば休憩所の指定を受けました。江戸時代には当山では武士の子弟を教育する寺子屋を開いていましたが、明治5年頃より一般の子弟にたいしても広く教育の門戸を開放しました。昭和20413日の東京大空襲で当山はことごとく灰燼に帰し、一家は境外の字大道にあった「松壽庵」に身を寄せました。昭和283月第69世三輪照宗大僧正が本堂再建の発願と、焼けてしまった真言宗必備の経典の復興を願って発眼した写経行の開白、同時に家族による本堂再建費積み立てのための節倹の生活が始まりました。そして昭和31年仮本堂兼庫裡が落成し、家族は松壽庵を後に勇躍庫裡に移転しました。(地福寺ブックレット)

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六地蔵尊
門前の六地蔵尊の中、左端のお地蔵様が「王子の三地蔵尊」の中の一尊。(かっては鎌倉街道のお地蔵様とも呼ばれていた)台座に三猿を施した庚申地蔵の形式をとり、その造顕は正徳4年(1714)・享保5年(1720)作の地蔵尊と共に江戸時代中期のものと推定される。お地蔵様は六道(六つの苦しみの世界)の衆生の苦しみを自ら代って引き受け、衆生に安らぎと悦びとをお与え下さる「代受苦」のご誓願を発された大慈大悲の菩薩様である。そのご誓願を各自の心に感得し帰依・隋順するところに広大無辺のご利益はあらわれる。御真言オン・カカカビサンマエイ・ソワカ(地福寺)

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真光寺山門/中十条

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真光寺
真光寺は新義真言宗、稲付普門院末で中十条二丁目(下十条字大道)にある。隆照山桂徳院と号し、本尊は勢至菩薩。境内約三百坪、開基その他は明治30年の火災に記録を焼失したので、一切不明である。(北区史)


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おびんずる様
正式には賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)。お釈迦様の弟子。十六羅漢の一人で神通力がとても強い人だったといわれています。俗に「撫仏」とも呼ばれ、おびんずる様の身体に触ってその手で体をなでると病気が治り、頭もよくなり節々の痛みも軽くなるといわれております。どうぞ触ってお参りください。(案内板)

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十条富士神社/中十条

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十条冨士塚
十条冨士塚は十条地域の人々が江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行ってきた場です。現在もこれを信仰対象として毎年630日・71日に十条冨士神社伊藤元講が大祭を主催し、参詣者は頂上の石祠を参詣するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。塚には伊藤元講などの建てた石造物が三十数基あります。銘文によれば遅くとも天保11184010月には冨士塚として利用されていたと推定されます。

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これらのうち鳥居や頂上の石祠など16基は明治14年(1881)に造立されています。この年は冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の150回忌に当りました。石造物の中に「冨士山遥拝所再建紀年碑」もあるのでこの年、伊藤元講を中心に塚の整備が行われその記念に建てたのがこれらと思われます。形状は古墳と推定される塚に実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を兵平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも富士山の5合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。(北区教育委員会)

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街道の風景⑨ 赤羽までひと駅ですが見所が多いのでここまで、十条駅へ向かいます/十条富士前

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日光御成道/中十条公園
岩槻街道は江戸時代には日光御成道と呼ばれていました。歴代の将軍が家康を祀る日光東照宮に参詣し、年忌法要を営むために通る専用の道でしたのでこのように呼ばれました。また、江戸と城下町岩槻(埼玉県)とを結ぶ街道であったので岩槻街道とも呼ばれていました。本郷追分(文京区)で中山道と別れ、北区を縦断し岩淵から川口へは船でわたります。将軍の通行の時には荒川に仮橋が架けられこの渡り初めを岩淵の子供たちがおこなったといいます。街道は川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻を経て幸手日光道中と合流しました。江戸から幸手まで1230町(約51km)でした。将軍の通行は大名行列で、将軍に直接供奉する者たちだけでも2千人を超え、沿道の村々ではこれらの荷物を運ぶため大量の人馬を負担させられました。(歴史と文化の散歩道)

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十条周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:鎌倉道 橙:岩槻街道)

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鎌倉道中道(東)東新宿~十条コース図
(緑:鎌倉道 紫:古東海道 橙:岩槻街道 赤:中山道 青点:石神井川)

鎌倉道中道(3)03-雑司ヶ谷の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27549824/

by Twalking | 2019-04-16 21:35 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(3)東新宿~東十条03-雑司ヶ谷   

日時 2019.4.4(木)
天気 晴れ


面影橋から宿坂を上り、鬼子母神へ向かいます。
数年前、家内とぶらりと歩きましたが趣のある街です。
名物の「おせんだんご」をお土産にもとめました。

寄り忘れた法明寺に参拝し、「豊島一族の墓」を
探しましたが分からず、花屋さんに聞いてやっとみつけました。
この先、池袋へ下りますが、道は消えています。
学生時代に通った池袋ですが、すっかり様変わりしてまいました。


・・・高田/豊島区


JR高田馬場駅
の北東側にあたる。北側に学習院大学(豊島区目白)と雑司が谷がある。東側に新宿区早稲田に文京区目白台、南側に新宿区高田馬場、西側に新宿区下落合と接しており豊島区の境界にあたる(新宿区との境界は神田川)。神田川沿いの低地と関口台地(目白台地とも)の境目となるため坂が多く、中でものぞき坂は都内でも有数の急坂として知られる。Wikipedia

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街道の風景① 神田川面影橋から宿坂を上り雑司ケ谷へ向かいます/南蔵院門前

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氷川神社門前             緩やかに曲がる旧道

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高田氷川神社鳥居


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高田氷川神社
氷川神社の創建は武蔵国一の宮氷川神社を当地に分霊したことに始まるといわれる。祭神は素盞嗚命・奇稲田姫命・大巳貴命(大国主命)の三柱で平安時代の歌人・在原業平(六歌仙の一人)も参拝したと伝えられる。「江戸名所図会」(天保51834年刊)などの地誌によれば、当神社は江戸時代には氷川大明神と呼ばれ下高田村(豊島区高田・雑司ヶ谷・目白・文京区目白台)の総鎮守として信仰を集めていた。また、当神社の主神が素盞嗚命であることから俗に「男体の宮」といわれ、奇稲田姫命を主神とする落合村(新宿区下落合)の下落合氷川神社の「女体の宮」と合わせて「夫婦の宮」と呼ばれていたという。明治時代には氷川神社と改称し第2次世界大戦中には昭和20413日の空襲により境内の建物と宝物の大半が焼失した。現在の社殿は昭和29年に再建されたもので、境内には神明神社・高田姫稲荷神社・道祖神社も祀られている。毎年正月には弓矢で的を射って災難除けを祈願する「御奉射祭(おびしゃさい)」が江戸時代より行われ、現在は成人の日に執行している。なお寛政2年(1790)に鳥羽藩主稲垣対馬守が寄進した鳥居・狛犬(文化41807年奉納)石燈籠(明治111878年奉納)玉垣が平成3年(1991)に豊島区登録文化財となった。(豊島区教育委員会)

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南蔵院山門

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南蔵院
真言宗豊山派に属し大鏡山薬師寺南蔵院という。寺伝では開山は室町時代の円成比丘(永和21376年寂)とされる。本尊の薬師如来は木造の立像で、奥州藤原氏持仏といわれ円成比丘が諸国遊化のとき彼の地の農家で入手し、奉持して当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられる。正徳6年(1716)の「高田村絵図」(東京都公文書館蔵)には境内部分に「薬師堂」・「南蔵院」の文字の他、山門、薬師堂と思われる建物、および樹木三本が描かれている。

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また江戸時代の地誌にも紹介されており「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」では、徳川三代将軍家光がしばしば訪れたと記している。現在の境内には元禄9年(1696)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天石碑と手水鉢や、庚申塔、六地蔵、彰義隊九士の首塚などの石造物があるほか、墓地内には相撲年寄である片男波、粂川、雷、音羽山、二子山、花籠などの墓がある。また三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。(豊島区教育委員会)


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江戸名所図会 南蔵院・鶯宿梅 氷川社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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江戸時代の高田村
天保5年(1834)に刊行された「江戸名所図会」では、高田村付近の様子が長谷川雪旦による三枚の挿絵付きで紹介されている。「高田」と題された挿絵の中央に南蔵院が配され境内に薬師堂と鶯宿梅が描かれている。鶯宿梅は江戸幕府三代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、このときすでに枯れていたとされるが「新編武蔵風土記稿」では鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記している。南蔵院の前には右橋、付近には高札場や茶店、道には籠・馬などが描かれている。道を隔てたところには高田氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは現在もほとんど変わっておらず、江戸時代の名残りをとどめている。(豊島区教育委員会)

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街道の風景② 宿坂、急ですがいい坂です。左が金乗院、右に行くと根生院です/金乗院門前

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宿坂道
中世の頃「宿坂の関」と呼ばれるところがこのあたりにあった。この坂の名が宿坂道と残っているのはおそらくそれにちなむものと思われる。「宿坂の関」は鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがってここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。古地図によると鎌倉街道は現在のこの道よりやや東寄りに位置していたが一応ここも鎌倉街道の名残といえよう。今から300年ほど前このあたりには樹木が生い茂り昼なお暗くくらやみの坂道として狐狸の類がとびはねて通行人を化かしたなどという話もいまに伝わっている。(豊島区教育委員会)

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金乗院山門


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金乗院
金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄3年(15946月であることからそれより以前、天正年間1573-92)の創建と考えられます。当所は蓮花山金乗院と称し中野宝仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となりました。江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和204月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和46年に再建され、平成15年に全面改修されました。

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目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は元和41618)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和205月の戦災により焼失したため金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移しました。目白不動明王は江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白の号は寛永年間(1624-44)に三代将軍徳川家光の命によるといわれています。墓地には槍術の達人丸はし忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文6年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政12年(1800)造立の鍔塚など多くの石造物があります。(豊島区教育委員会)

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倶梨伽羅不動庚申
人間を罪過から守る青面金剛の化身。三猿は天の神に人間の犯す罪を伝えない様子をあらわしている」(説明板)
境内にある庚申塚。寛文6年(1666)建立。倶梨伽羅明王を主尊とする点で貴重なものといわれている。(Wikipedia

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丸橋忠弥の墓
江戸時代の武士で、由井正雪と共に慶安の変(江戸時代初期に起きた幕府転覆事件)に加担したとして処刑された。(Wikipedia

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根生院山門

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根生院(こんしょういん)
豊島区高田にある寺院。本尊は薬師瑠璃光如来(秘仏)。創建は寛永131636)、三代将軍徳川家光公がその乳母・春日局の発願により、大和の国(奈良県)小池坊(長谷寺)より栄誉を招き開山とし、神田白壁町に堂宇を建立し、薬師瑠璃光如来像を本尊とし号を「金剛寶山延壽寺根生院」と称したのがその歴史の始まりである。正保2年(1645)第二世栄専の時、下谷二長町に移り江戸城西の丸祈願所として寺領250石を賜った。明治36年(1903)市区改正で東京府北多摩郡豊島大字高田(現地)に移転し、昭和10年代までは真言宗豊山派の加行道場であった。この地はもと尾張候下屋敷であったものを田安家に譲り渡され、文政のころは一つ橋屋敷となったと伝えられている。下屋敷跡であり池あり丘あり樹木あり、また清泉涌き出た幽境の地であり、宿坂より山門までの参道は欅の並木があり、山門の奥には満々たる水を湛えた池があり四季折々を楽しませた。殊に菖蒲の頃は散策と参詣の人で賑わったと伝えられている。(Wikipedia

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江戸名所図会 宿坂の関旧跡 金乗院 観音堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


『旧街道のこの横(
宿坂という)を台地に上る。江戸名所図会には次のようにある。『この地は昔の奥州街道にして、その頃関所のありし跡なりといへり。「或人云ふ。この地に関守の八兵衛という者ありて、家に突棒・指股及び日記等を持ち伝えるといふ」』(旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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・・・雑司ヶ谷


護国寺の西にあたる。地名の由来は南北朝時代に宮中の雑色(下級役人)の職にあった者がこの地に土着したからなど諸説あり。法明寺の境外仏堂である鬼子母神堂が出産・育児の神として信仰を集めた。錦絵には鬼子母神門前の料理屋や境内で売られていた玩具のすすきみみずくを持つ人物が描かれる。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)

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街道の風景③ 坂上の目白通りを渡り表参道を鬼子母神へ向かいます

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鬼子母神表参道入口          都電荒川線を渡ります

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街道の風景④ 参道のケヤキ並木、情緒がありますね

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鬼母神大門ケヤキ並木
ケヤキ(欅)はニレ科の落葉大高木で日本の代表的広葉樹の一つである。古名をツキ(槻)という。家具や建築用材、特に社寺の構造材や大黒柱によく使われている。『地誌御調書上』によると天正15731591)の頃、雑司谷村の住人長島内匠が鬼子母神へ奉納のため植え付けたものと言う。鬼子母神鳥居先の町屋大門ともいっていた。江戸時代には並木の伐採をめぐって訴訟がしばしば起こった。効果元年(1844)の訴訟は江戸城本丸普請のため伐採しようとした村役人等に対して、寺川が御用木の名を借りた伐採は村役人の私欲によるものと訴えて伐採を中止させた争いである。昭和12年(1937)頃には18本あったが、現在は4本を残すのみである。目通り幹囲56m、樹齢約400年以上といわれる大樹である。秋田雨雀・兜木正亨らによって結成された「大門欅並木保存会」が保存に尽力した結果、東京府の「天然記念物」となった。(東京都教育委員会)

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雑司ヶ谷鬼子母神境内

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雑司が谷の鬼子母神
雑司が谷の鬼子母神は永禄41561)に清土(せいど・現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を天正61598)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永2年(1625)には社殿の造営が始まり正保3年(1646)には宮殿が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成りがあるなど武家から庶民まで、子育て安産の神として広く信仰され現在でも多くの参詣者が訪れている。

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現在の鬼子母神堂は手前から「拝殿」「相の間」「本殿」の3つの建物から構成される「権現造り」。本殿の開堂供養は寛文6年(1666)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から寛文4年に上棟されたことが判明している。拝殿相の間は元禄13年(1700)広島藩2代目藩主浅野光晟(みつあきら)の正室・満姫の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。拝殿は江戸中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素に変えるなど幕府による建築制限令への対応を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建築物であることから歴史的、意匠的に価値が高いと評価され、平成287月重要文化財に指定された。(豊島区教育委員会)

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武芳稲荷堂(たけよしいなりどう)
武芳稲荷堂は倉稲魂命(ウケノミタマノミコト)を祀った堂宇です。「日本書記」では「ウケ」は穀物・食物を意味し稲魂命は「穀物に神」といわれています。昔、このあたりで農耕が盛んに行なわれていたことが伺えます。創建の年代は不明ですが、雑司が谷鬼子母神縁起によれば天正6(1578)に「稲荷の森」と呼ばれていた当地に堂宇を建立して鬼子母神像を安置したと記されていますので、武芳稲荷堂はこれよりも以前に建立され、天正6年当時は既にこの地の地主神として多くの人々に知られていました。もとは一坪にも満たない木造の堂宇でしたが昭和42年に現在の堂が建立され、昭和46年には鳥居25基、昭和49年には正面に神狐像2体が奉納されました。武芳稲荷尊天はまた古来より「出世稲荷」とも称され、商売繁盛・開運隆昌とともにその霊験あらたかなることを慕う大勢の信徒に尊崇されています。毎年、節分後の午の日に初午大祭・518日に夏季大祭・918日には秋季大祭がそれぞれ修され皆様の開運出世、除厄得幸の祈願が行われています。(境内石碑)

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雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ
イチョウ(銀杏・公孫樹)は一属一種のイチョウ科に属する裸子植物の落葉高木である。耐寒、耐暑性があり社寺の境内樹、公園樹、街路樹などに広く植えられている。中国原産といわれ日本へは遣唐使の帰国によってもたらせられたという説もある。雌雄異株で4月に開花し10月に種子(銀杏)は成熟し黄葉する。樹高30m、幹周8mの雄株で、都内のイチョウでは麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。応永年間(13941428)に僧日宥が植えたと伝えられている。古来「子授け銀杏」ともいわれ戸張苗竪の「櫨楓」によると婦人がこのイチョウを抱く光景がみられ、注連縄を張るようになったのは文政年間(181829)の頃という。(東京都教育委員会)

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鬼子母神像
当山の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い雑司ヶ谷鬼子母神と尊称しております。(鬼子母神HP)





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法不動堂(のりふどうどう)      妙見堂

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上川口屋               大黒堂

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法明寺山門/南池袋


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法明寺(ほうみょうじ)
豊島区南池袋にある日蓮宗の寺。威光山と号する。本尊は鬼子母尊神(寺では 子母と書く)。子供の守り神で、雑司ヶ谷の鬼子母神とよばれ名高い。810(弘仁1真言宗威光寺として開創。1312年(正和1)日蓮の弟子日源日蓮宗に改宗して以来、威光山法明寺と寺号を改めた。

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本堂から300mほど離れた地にある
鬼子母神堂1666年(寛文6)の建立で、徳川家光より御朱印を受けた。江戸時代以来、堂内に奉納されている絵馬のうち「大森彦七之図」「三人歌舞図」は都重要文化財。また境内にある樹齢500年の大イチョウは古くから「子授けイチョウ」「子育てイチョウ」とよばれ都天然記念物に指定されている。1016日から18日の鬼子母神会式(えしき)に万燈練供養(まんとうねりくよう)が行われる。付近で売られている「すすきみみずく」は東京の民芸品の一つである。(コトバンク)

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安国堂                鐘楼

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豊島氏の墓
豊島氏は平安朝の末期から、鎌倉、室町時代にかけてこの辺り武蔵の地一帯にかけて勢力をもっていた一族であるが、文明101478太田道灌に攻め落とされた。その生き残りの一族の中で後、徳川氏に仕えて八丈島の代官になった豊島忠次1643年没)を中心にその一族の墓である。(豊島区教育委員会)

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江戸名所図会 鬼子母神・法明寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)(左が鬼子母神堂、右上が法名寺になります)

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・・・南池袋

南池袋は北側は東池袋、東側は雑司が谷・文京区大塚、南側は目白、西側は西池袋に接しており、池袋駅東南側及びグリーン大通りの南側を占める。雑司が谷霊園南側を除いて旧弦巻川暗渠よりほぼ北側にあたる。雑司ヶ谷霊園は南池袋四丁目の大半を占めるためそれに関連する寺社も多く存在する。もともと南池袋一丁目は雑司が谷六丁目であり、南池袋二丁目から南池袋四丁目は雑司が谷四丁目であった。(Wikipedia

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街道の風景④ 鬼子母神入口の東側の路地を北へ、東京音楽大で道は消えています

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弦巻川
豊島区と文京区との間を流れていた河川。昭和71932)に当時の北豊島郡高田町により暗渠化工事が行われ、現在では川の流路はまったく残っていない。豊島区立元池袋史跡公園の西に接する池袋デュープレックスタワーの敷地内にあった丸池が源泉。丸池-ホテルメトロポリタン駐車場南西側-オリナスふくろうの杜(旧雑司が谷小学校)南側- (法明寺本堂- 法明寺鬼子母神堂間)- コープとうきょう南側-日本女子大学体育館北側-本浄寺南側-護国寺西交差点-筑波大学付属視覚特別支援学校東側-講談社西側-目白坂下南交差点西側-江戸川橋の西側で神田川に合流。(Wikipedia)(図:
旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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東京音楽大学
豊島区南池袋3-4-5に本部を置く私立大学である。1963に設置された。創設者は鈴木米次郎。日本の私立音楽大学の中では音楽学校としての時代を含めると最も古い歴史を持つ。国内の私立音楽大学として唯一創立から100年以上経過している。東京都千代田区神田猿楽町1-7に「東京音楽大学発祥の地」の石碑が建てられている。(Wikipedia

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本教寺山門/南池袋


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本教寺
慶長16年(1611)創立、東纏山本染寺と号す。明治401122日浅草区南松山町45本立寺を合併し、妙学山本教寺と改む。大正144月水久保大火により本堂焼失。昭和16年再建。戦災で焼失。昭和4211月再建。(豊島の寺院)


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服部嵐雪墓
江戸時代の中期の俳人で雪門の祖である。幼名は久馬之助、江戸湯島に生まれたといわれるが、出生地については異説が多い。通称を彦兵衛と称した。新庄隠岐守、井上相模守に仕えたがのちに仕を辞し、済雲和尚に従って禅を学び松尾芭蕉の門に入り黄落庵、石中堂、寒寥堂、雪中庵、不白軒、玄峰堂などの号がある。彼は芭蕉門十哲の一人で、榎本其角と並び称せられ名は広く知られた。芭蕉の死後、其角と江戸俳壇を二分し、門下に有名な俳人を多く輩出している。著書には「其袋」「或時集」「若水」などがある。宝永4年(1707101354歳で没した。初め本郷駒込の常験寺に葬り大正8年に改葬された。東京都指定文化財。(東京都教育委員会)


・・・東池袋

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江戸時代には豊島郡池袋村及び雑司ヶ谷村の一部であった。地名は池袋駅の東側に位置することに由来する。元々は大半が北豊島郡雑司ヶ谷村に属しており、本来の池袋村とは関係が薄い。かつては雑司ヶ谷の名の通り雑木林に覆われた土地であった。この現在の東池袋及び南池袋一帯は、江戸時代には旗本三千石中西公の拝領地であったために「中西の森」と呼ばれ、明治時代に根津嘉一郎が土地を買収すると「根津山」と呼ばれるようになった。「根津山」とは現在の豊島岡女子学園中学校・高等学校あたりにあった小さな丘のことだが、この周辺一帯の地名として使われた。(Wikipedia(図:旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景⑤ サンシャインから平成帝京大脇へ旧道は続いていたようです/春日通り

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国道254号(春日通り)
文京区から埼玉県・群馬県を経由し松本市へ至る一般国道である。東京都心と埼玉県西部を結ぶ道路という事もあり渋滞が激しいこの道は、古くから川越街道-児玉街道-信州街道-富岡街道として「江戸道」「川越道」などとも呼ばれた。中山道より行程距離も短く通行者も多かったため五街道にに準ずる脇往還1つであった。山手線内側では春日通り(本郷三丁目交差点- 池袋六ツ又交差点)山手線外側や埼玉県では川越街道、群馬県内では信州街道などと呼ばれている。(Wikipedia

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池袋六ツ又子育地蔵尊/平成帝京大前
旧鎌倉街道の道筋にあり徳川時代から信仰の対象になっていたそうですが、詳細は分りません。道路拡張工事のためこちらに移されたそうです。


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豊島区立時習小学校跡地
時習小学校は、明治34年(1901510日に時習尋常高等小学校としてこの地に創立されました。校名は論語の「学而編」の一節「学びて時に之を習う」から引用されたものです。以来、平成15年(2003)に閉校となるまで100年以上にわたって多くの卒業生を送り出してきました。長年にわたり培われてきた伝統と校風は、統合後の朋有小学校(東池袋4丁目)に受継がれています。
旧西巣鴨町役場跡地
時習小学校の敷地南側の一角には、旧西巣鴨町役場が建っていました。この位置に役場が建てられたのは巣鴨村時代の大正2年(1913)で、昭和7年(1938)の豊島区の誕生までの約20年間にわたり使用されました。昭和13年(1938)には豊島区で最初の公会堂がこの地に建設されましたが、昭和20年(1945)戦災により焼失しました。(碑文)

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街道の風景⑥ 山手線の跨線橋(宮仲橋)を渡ります

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旧道風景               明治通りに合流します

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雑司が谷七福神おもてなしマップ(緑:鎌倉道 茶:目白通り・明治通り 赤:都営荒川線)

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雑司が谷周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:鎌倉道 黄:目白通り・日出通り・明治通り 青:神田川・弦巻川)

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by Twalking | 2019-04-13 09:41 | 鎌倉街道(新規)