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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 蛇崩川緑道03-下馬~合流点   

日時 2019.2.20(水)
天気 晴れ


蛇崩の先は目黒川右岸の台地の西斜面に沿って流れます。
宿山から目黒川へ下る鎌倉道、諏訪山中腹にある烏山稲荷など
一帯はなかなか趣きのある街並です。

ここから合流地の中目黒駅はすぐ、さすがに賑やかです。
緑道続きでしたので、流れに出会うとなんだかほっとします。
目黒川水系の支流を歩きましたので、今度は本流でしょうか。


・・・上目黒


目黒区北部に位置する。町域北部は目黒区青葉台・東山に、東部は渋谷区猿楽町に、南部は目黒区中目黒・祐天寺・五本木に、西部は世田谷区池尻・下馬にそれぞれ接する。東部では山手通りが南北に縦断し、南部には駒沢通りが、西部には野沢通りが通っている。地域東部には目黒川が流れている。東部の上目黒三丁目には東横線・日比谷線の中目黒駅があり駅周辺は駅前の商業地が広がっている。また2003年からは目黒区役所も上目黒二丁目に置かれている。
Wikipedia

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川の風景① 左手の台地の裾を蛇行して流れます/蛇崩橋先(目黒区)

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下蛇崩橋               寿福橋

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街道の風景① 蛇崩橋から青葉台へ丘越えする野沢通り「オリンピック道路」の愛称があります/宿山(しゅくやま)

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野沢通り
山手通りの青葉台一丁目交差点から世田谷区下馬方面へ通ずる道はオリンピック道路と呼ばれる。昭和15開催予定であった東京オリンピックに備えて、渋谷から当時競技場建設予定地であった現駒沢公園方面へ通じる道として昭和12ごろに工事されたからである。オリンピックは戦争のため開催されなかったがその名だけは残ったわけである。東山一丁目22番から25番にかけて道の両側はかなり高い切り通しでその上に鴻之巣橋が架かっている。戦災前まで橋の北側近くに松やヒノキの林に囲まれたお稲荷様の小祠があったとか。その社前の松の巨木に毎年コウノトリが飛来して巣を作ったため鴻之巣松と呼ばれ、橋の名もこれに由来するという。(目黒のみち/目黒区HP)

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寿福寺山門/上目黒


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寿福寺
新清山観明院壽福寺といい天台宗でご本尊は阿弥陀如来です。元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられていますが、当境内にある鎌倉時代の板碑から草創はさらにさかのぼるものと推定されます。この寺は享保の頃(1716-1735)中興の英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末寺として大いに栄えました。現在の本堂は昭和50年に建替えられましたが、それまでの本堂は明治13年に行人坂明王院念仏堂移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられています。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されています。門前には相生地蔵とよばれ信仰されている2体の延命地蔵尊庚申塔などが立っています。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688-1703)に当寺境内稲荷社を移したものです。(目黒区教育委員会)

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寿福寺の庚申
塔寿福寺の門前にあるこの庚申塔(1基)には青面金剛が刻まれています。保存状態も良く区内初期の代表的な作品と言われています。(目黒区HP)

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街道の風景② 鎌倉道(中道)は寿福寺門前付近から右へ、小川坂から宿山橋へ下ります/宿山

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鎌倉街道
渋谷区代官山から目切坂を下り、宿山橋を渡って山手通りを越えるとふたつ道がある。右手の小川坂蛇崩・祐天寺駅・円融寺碑文谷八幡宮へと続く道が鎌倉街道のひとつ「中つ道」である。今では、面影を残すところとてないが、小川坂辺りはまだ木立も多く吹く風も身にしみるようで落ち着いたたたずまいを見せている。その昔、よろい・かぶとに身を固めたもののふが鎌倉にはせ参じ、また旅人たちが路傍の道しるべを頼りに往来したであろうこの道は今は区立烏森小学校児童の通学路。昼どきは行き交う人も少ない静かな道である。(目黒のみち/目黒区HP)

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宿山の庚申塔
江戸時代の農村では更新信仰
が盛んで各集落に庚申講があったといいます。60日毎にめぐってくる庚申の日に、講の人が集まって青面金剛、帝釈天、猿田彦などをまつり、飲食を共にしながら夜を明かす庚申待が行われました。そして庚申待を18回終えると供養や記念のために庚申塔を建立しました。この周辺はかつて字名(あざな)で宿山といいました。向かって右から2番目の庚申塔元禄5(1692)の造立で本尊を青面金剛とし、日月、二鶏と三猿が正面左右の三面にそれぞれ一猿ずつ浮き彫りされています。その左の庚申塔は地蔵菩薩を本尊とするもので延宝3(1675)に造立されました。一番左の庚申塔宝永5(1708)の造立で青面金剛、日月、二鶏、三猿が刻まれています。(目黒区教育委員会

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小川坂
かつてこの一帯を『小川』といい、坂下に広がっていた田んぼを『小川田んぼ』と呼んだ。この辺りの旧家小川家が地名の由来と言われる。また、この坂のある道は鎌倉へ通じる道として中世の頃開かれた鎌倉道であった。(目黒区教育委員会)

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烏森
「烏森」という地名は明治22年の町村制が施行されたときに目黒村大字上目黒字名として誕生した。それまでは周辺を含めたこの辺り一帯を宿山と呼んでいた。地名が誕生してからの烏森の地域は大正11年の町制を経て目黒区が誕生した昭和7年に上目黒三丁目1646番地から1785番地となり、さらに431月の住居表示制度実施により上目黒三丁目14番から27番、36番から44番となった。「烏森」という地名の起こりは数百年前から宿山氏神としてまつられてきた烏森稲荷神社だといわれている。この神社は蛇崩川を南にひかえ、東を目黒川の谷に接する半島状の丘陵、諏訪山中腹にある。祭神は食物、殊に稲をつかさどる神・蒼稲魂命(うがたのみたまのみこと)。最初は現在地から500ほど離れた寿福寺境内にあったが、下馬引沢(現在の世田谷区)の新堀新左衛門という人がこの地に移したと伝えられている。(目黒の地名/目黒区HP)

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烏森稲荷神社鳥居/上目黒

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烏森稲荷神社
この神社は旧上目黒村宿山組の鎮守で祭神は蒼稲魂命(うがのみたまのみこと)です。創立年月は不明ですがかなり古く、下馬引沢村の新堀新左衛門寿福寺の境内に祀ってあった稲荷神をこの地に移したと伝えられています、農耕神として農作守護と村人の授福開運を祈願して崇敬されてきたのでしょう。その昔、宿山稲荷講の人達が江戸新橋烏山稲荷へ参拝に行った時に、狐が白い馬になってついてきたのでそれを祀ったのが始まりという伝説もあります。また昭和29年草葺屋根を瓦葺にふきかえた時に、雨乞い祈願をしたものと思われる黒馬が一頭奉納されてあったことがわかりました。例祭は、毎年9月の第3土曜・日曜日です。境内には老樹が繁り清水が湧出して閑寂な雰囲気をつくっています。(目黒区教育委員会)

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川の風景② 諏訪山から緑道に戻り、中目黒へ向かいます/諏訪山橋

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街中に入ります            東横線を横断(迂回)

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線路に沿って続きます         公園の奥に神社があります

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目黒銀座観音鳥居

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目黒銀座観音
大正時代の終り頃、このあたりには小規模の乳牛牧場馬力運送を業とする者も多く目黒恵比寿畜舎運送組合を結成していました。その代表の小林氏や土地の開発に熱心であった神山氏等が発起人となって、牛馬の息災を護り、死後の菩提を弔うとともに、土地の開発を願い東松山市上岡の妙安寺から霊験あらたかな馬頭観音の分霊を勧請し安置しました。その後、新たに木彫24.3(約8寸)の馬頭観音像も安置され、大正12年(1923)に妙安寺住職を招いて盛大な入仏開眼式が執行されました。

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境内に建つ最大の碑はその勧請記念の碑です。正面に「大正12年(1923719日、馬頭尊記念 武州上岡妙安寺住職第19世仏光」とあり、背面に恵比寿や目黒の寄付者200余命の名前が刻まれています。翌大正13年(1924319日に第1回の大祭が執行され、50数頭の馬も参列したといわれています。以後、毎月9の日を縁日と定めてきました。現在の社殿は昭和10年(1935)の建築であり、昭和31195612月に目黒銀座観音と改称されました。江戸時代からの馬頭観音信仰を伝える貴重な資料でもあります。(目黒区教育委員会)


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山手通りを横断します/中目黒駅

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川の風景③ 日の出橋のすぐ下流で目黒川と合わせます(左岸より)


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蛇崩川
蛇崩川は世田谷の弦巻辺り水源として中目黒駅付近で合流する目黒川の支流の一つです。大昔、この川に大蛇が出て暴れ、土砂が崩れたのでこの名がついたという言い伝えがあります。それとは別に川岸の切り立った崖が洪水の度に崩れて被害をもたらしその恐怖心から大蛇伝説が生まれたとか、大雨で激流逆巻く様子がのたうつ蛇に似ているからとか、もとからこの辺りが砂や砂利の土壌でその砂利の崖がよく崩れたので砂崩川、それが今の文字になった等諸説紛々。いずれにしろ、昭和の初めごろまでは田園地帯の中をうねうねと蛇のように蛇行して流れていた川だったのです。現在は蓋かけされ蛇崩川緑道として整備されています。(説明板)

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目黒川の風景④ 東横線の下を流れる目黒川、鎌倉道は少し上流になります/日の出橋

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川の風景⑤ 下流には船入場跡があります

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船入場の由来
ここは昭和初期に船を導き入れるために川を切り開いて築かれた舟入場の跡です。現在では当時の土地を利用し下部を目黒川調節地、上部は区民のふれあい広場として整備され、すっかり変わってしまいましたが当時の名残を船入場という愛称に留めています。(案内板)

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上目黒周辺案内図(青:蛇崩川緑道 紺:目黒川 緑:鎌倉道)

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上目黒周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

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蛇崩川流域図
(紺:蛇崩川 紺点線:目黒川・烏山川・北沢川 緑:鎌倉道 赤:大山道 紫:滝山道)

烏山緑道02(三軒茶屋~下馬)の関連記事はこちらへhttps://teione.exblog.jp/27462198/)



・・・・・
資料ファイ
めぐろ歴史資料館

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展示風景①

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目黒周辺の古墳分布

目黒区内では狐塚古墳と大塚古墳が知られますが、いずれも盛土がなくなっており詳しいことは分りません。しかし、大橋遺跡では古墳時代の前期の住居跡が見つかっています。目黒の周辺に目を向けると、世田谷区、大田区では特に多摩川左岸に古墳が密集しているのが分ります。これらの古墳は古墳時代を通して築かれました。古墳時代の終わりごろになると、東京湾に面した丘陵斜面に横穴を掘りそこを墓室とした「横穴墓」と呼ばれる墓も作くられています。同じように現在の埼玉県でも古墳-横穴墓がたくさん見つかっています。このような古墳の分布から古墳時代には現在の埼玉県、東京都にまたがって活動していた二つの勢力がいたことが分ります。この二つの勢力はやがて「武蔵国」というさらに大きなまとまりに成長していくのです。(展示パネル)

野毛大塚、亀甲山古墳群(武蔵台公園)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/25387124/

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武蔵国の荏原郡
武蔵国ははじめ東山道に属していましたが交通の利便性などから、宝亀2771)に東海道へと所属替えが行われました。これに伴って東海道が整備され、荏原郡には大井駅(現在の品川区大井町付近)が設置されました。奈良・平安時代にかけて荏原郡は相模国から武蔵国を経て下総国へと続く東海道の要所だったのです。(展示資料:武蔵国21郡図の部分拡大)

古東海道-大井駅の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/25624982/

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荏原郡九郷の推定位置
「和妙類聚杪」(わみょうるいじゅうしょう)に出てくる九郷の正確な位置は不明ですが、現在に残る古地名などをもとにおおよその位置を推定することができます。

現在の目黒、世田谷、大田、品川、港、千代田区は荏原郡と呼ばれていました。荏原郡については平城京跡から見つかった荷札木簡あ武蔵国分寺跡から見つかった瓦いその名前が記されていす。10世紀に編纂された「和妙類聚杪」には荏原郡は蒲田、満田、荏原、覚志、御田、田本、木田、桜田、駅家の地域(郷)に分かれていたことが記されており、目黒区は覚志郷御田にあたると推定されています
(展示パネル)
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展示風景② 目黒六か村の移り変わり

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目黒筋御場絵図(部分)文明2年(1805/展示パネル
(青角:主要街道と目黒川水系等の交差部を記入してみました)

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展示風景③

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碑文谷氏
碑文谷には碑文谷氏という武士勢力がいて「碑文谷池」近くの「殿山」にがあったと考えられています。
千葉県松戸市の日蓮宗本土寺には鎌倉時代(13世紀後半)から江戸時代宝永期(18世紀)にかけて亡くなった人の年月日、名前などが書き継がれ「本土寺過去帳」が残されています。そこには「碑文谷築後」の子息「日祐童子]と呼ばれる武士の存在が明らかになりました。碑文谷池近くには「殿山」という地名があり、そこにかつて中世の館があったと伝えられていて、碑文谷氏が住んでいたとも考えられます。(展示パネル)

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目黒氏
鎌倉時代の記録「吾妻鏡」には「目黒弥五郎」「目黒小太郎」という名前があり、「目黒」が史料にあらわれる最も古い例です。目黒氏は武蔵七党といわれた横山氏または児玉氏と同族の武士であり、目黒川と蛇崩川の合流点近くにがあったと考えられています。鎌倉時代の歴史を記した「吾妻鏡」には建久元年(1190117日に源頼朝が京都に上った際に、頼朝が率いた武士のなかに「目黒弥五郎」がいたことが記されています。また承久31221)年、承久の乱の宇治橋の戦いで、手傷を負った武士のなかに「目黒小太郎」の名が見られます。宮城県角田に伝わる「目黒氏家譜(系図)」には、目黒四郎左衛門尉には目黒四郎家祐資が「武州荏原郡目黒邑」を領し、家名を「目黒」と改め、その後目黒源内源内兵衛尉石見守が文安元(1444)年2月下総から奥州に下り、伊達持宗に仕え池田館に住んだとあります。(展示パネル)

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中世・近世(遺跡)
区内には中世及び近世の遺跡が19か所登録されています。中世の城館跡として碑文谷殿山遺跡伝目黒氏館跡遺跡がありますが発掘調査が行われていないため詳しいことは分かっていません。発掘調査を行った円融寺遺跡では、宴会や儀式に使用されたと考えられる土器皿や、瀬戸美濃系常滑焼などの国産の陶器が出土しています。また、青磁や天目茶碗など大陸で生産され運ばれてきた陶磁器も出土しています。時期は16世紀後半以降のものであると考えられます。近世の目黒地域は江戸近郊の農村地帯であったため、多くの遺跡で見つかるものは土地を区画するための地割溝です。ただ、駒場御用屋敷跡遺跡は享保31718)年に設置された御用屋敷のあった場所で、文献史料によれば当初、約1万坪であったものが、森林を切り開いて拡大し、安政61859)年には西御薬園、東御薬園など約4万坪の広さとなったことが知られ、発掘調査で西御薬園の柵の跡や空堀が発見されています。また、新富士遺跡からは富士講に関連する地下式胎内遺構が発見されました。地下式胎内遺構の壁面には富士講のしるしや文字が刻まれ正面の奥壁を掘り込んで祠が作られていました。この祠の下から台座に文政31820)年の銘のある石製大日如来像も発見されました。この他にも菅刈遺跡では豊後岡藩中川家抱屋敷の庭園跡、茶屋坂遺跡では近世の三田用水跡が発見されています。(目黒区の遺跡/目黒区HP)(写真:石製大日如来像 高さ53cm)

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鎌倉街道/展示パネル

荏原郡
郡衙の所在地については定説がなく、池上本門寺の台地の裾を通る古東海道以前の最も古い東海道と考えられている大井駅-(現東急大井町線荏原町駅付近)-現東急池上線長原駅付近)-洗足池- 小高駅(川崎市中原区小田中付近とも)-橘樹郡郡衙(高津区影向寺付近)の道筋にある大井町線荏原町駅近くの旗ヶ丘八幡(中延八幡)、法蓮寺付近が候補地のひとつと考えられている。しかし発掘調査によるそれを裏付ける資料は出土していない。武蔵国府の外港(国府津)だったと推定されている品川湊は荏原郡衙の外港だったという説もある。古くは武蔵国豊島郡と荏原郡の平川(神田川、日本橋川の旧称)といわれ、直接東京湾まで至っていた。和妙類聚杪によれば武蔵国21郡の中の1つとしての荏原郡には蒲田・田本・満田・荏原・覚志(かがし)・御田(みた)・木田・桜田・駅家(えきか)の9があり、現代区名で目黒・大田・品川のほぼ全体と世田谷・港・千代田の大部分を合わせた範囲に及んだ。しかし、江戸幕府が置かれたため江戸御府内は武蔵国として認識されず、市域外が荏原郡と認識され武蔵国22郡の中の1つとなった。この時代の豊嶋郡と荏原郡の古川といわれている。Wikipedia

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by Twalking | 2019-03-01 21:54 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 蛇崩川緑道02-三軒茶屋~下馬   

日時 2019.2.20(水)
天気 晴れ


川は世田谷観音通り(旧明薬通り)の北側を流れます。
渋谷方面へのバス通りで、昔、通った記憶がありますが、
拡幅されていい道になっていました。

沿線には西澄寺、世田谷観音、駒繋神社など立派な寺社があり、
初めて訪ねましたがいずれも見応え十分です。
昔、母が住んでいたという野沢もついでに立ち寄り、
周りは畑と言ってましたが、今は閑静な住宅地になっています。



・・・下馬


馬引沢」の由来は文治5年(1189年)7月に源頼朝が奥州征伐に向かう途中、この蛇崩川沿いで乗っていた馬が暴れ出して沢の深みにはまって死んでしまう事故に見舞われ、この地では馬は乗らずに引いて渡れという戒めから名がついたといわれています。しかし、頼朝としては幸先の悪い出来事でした。その時1人の老婆が現れて、馬の死という不吉をはらって戦勝を祈るために近くの子の神に詣でることをすすめたのでした。頼朝はこれに従って祈願した後、奥州に兵を進めたところ幸い戦に勝つことができたので、帰りに再び子の神にお礼参りに立ち寄りました。そのとき頼朝が馬を繋いだ松は駒繋松(今の松は3代目という)と名づけられ、子の神駒繋神社と改められたということです。また死んだ頼朝の馬を葬った芦毛塚は目黒区との(下馬5丁目42)に立派な碑が建てられ、蛇崩川には足毛橋と名づけられた橋も残されています。
(世田谷区HP)

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街道の風景① 世田谷観音通り(旧明薬通り)です、蛇崩川はこの左を流れています/三軒茶屋

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川の風景① 中原橋手前が現在工事中でしたが、いい道が続きます

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昭和橋                中原橋

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西澄寺参道/下馬 中原橋の北の丘にあります

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武家屋敷門(東京都指定有形文化財)

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武家屋敷門
現在の港区芝五丁目にあった阿波徳島藩主蜂須賀家中屋敷門を大正末頃に西澄寺に移築したと伝わり、山門として転用されています。切妻造で、桁行六間の中央に二間の両開きの潜戸と板壁を設けます。門の両端には切妻造で桁行二間、梁間三間の出番所が配されます。六畳の番所には、表側には格子窓と門内に面した側には式台が構えられています。この門は江戸時代末期に建築されたと推定されており、いわゆる両番所附石垣出屋根庇造と呼ばれる構造の門です。大名屋敷の表門については、幕府は貞享年間(1648-88)に大名の家禄高を基準に家格を加味してその形式・構造を定めています。蜂須賀家の中屋敷門として二五万石の大大名の家禄と家格に応じて建築されたものと考えられます。東京に残る数少ない武家屋敷門の一つとして貴重なものです。(東京都教育委員会)

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西澄寺
新義真言宗智山派に属し、京都智積院の末寺で日輪山薬王院西澄寺と称する。本尊には大日如来、薬師堂には薬師如来が安置されている。天正2(1574)河内の人・隆向和尚が紀伊国高野山釈迦院より下錫開山したものといわれているがくわしいことはわからない。江戸時代に中興したのは大久保六右衛門忠勝で、当時の住僧は宥秀和尚「寛文12(1672)寂」であった

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明治維新前後からは無住の寺で荒廃していたが、明治25年近江の人慧荘和尚は高野山より当山へ第10世の住職として来たり荒廃した本堂、庫裡等の再建を念願し、薬師堂にて1000日の穀断ちの修業をしたそして高野山で修得した灸術をもって近郷の人々の救済をしたところ霊灸の評判をとり受灸者でにぎわった。現在も慧荘和尚より伝わった灸術で遠く北海道九州からも受灸者が来ている

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山門は武家屋敷門で都霊宝の指定を受けている。大正11年、本堂の改築の時、港区三田四国町にあった旧蜂須賀家屋敷門移築したと伝えられている。番所に格子窓を設けるなど若干の変更があるが510万右の大名の屋敷門の形式、構造、装飾等を備え、数少ない武家屋敷門の遺構として貴重である。梵鐘は明治32年受灸者から奉納された鏡、かんざし等の金属をもとにして鋳造した。たまたま、第二次世界大戦で供出したが、終戦時に無傷のまま深河の焼跡より発見され当山に復帰した。本堂左側の高野槇の大木は開山の隆向和尚が高野山より移植したものといわれ、樹令数百年の古木である。この槇の木に登った人は失明するとか、当山にあった古木を伐採した時この槇も切ろうとしたら、3名までも仏罰を蒙ったなどといわれ、この槇は薬師如来の化身だとされた。当山に薬師堂を建立し薬師如来を安置し供養するようになったのもこのためだといわれる。(せたがや社寺と史跡)

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世田谷山観音寺 中原橋の南の丘にあります


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世田谷山観音寺(通称・世田谷観音)
江戸三十三観音 第32番札所。昭和261951睦賢和尚が独力で建立し、同年5月金竜浅草寺に請い開眼の法を修したものである。本尊は聖観世音菩薩で、ほかに特攻観音、不動明王阿弥陀如来、仁王尊を祀る各堂がある。なお、特攻観音堂は国のため若き命を捧げた特攻隊員4615柱の英霊の安息所とし、またそれぞれの堂には国指定重要文化財の不動明王ならびに八大童子像が安置され、ほかに都指定有形文化財の五百羅漢坐像が安置されている。(世田谷区教育委員会)写真:旧小田原代官屋敷(移築して本坊となっています)

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仁王門


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仁王門
この門は本堂、六角堂と同じく中野家より移築されたもので、その際に六角堂と切り離し両袖部分は増築してあります。
鳴き龍
本堂に向って立ち、鳴き龍の真下で手を叩くと、龍の鳴き声が聞こえます。(世田谷山観音寺HP)

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世田谷山観音寺
本尊は聖観音菩薩、天台宗。本寺は三軒茶屋の東南約1.5km、学芸大学北隣にある。創建は昭和25513日で区内で最も新しい寺である。開山の大僧正睦賢和尚はもと事業家であったが、感ずるところあって私財を投じて本寺を設立した。観音堂には聖観音菩薩1000年以上昔のものといわれるが年代不詳)の他、日光菩薩、月光菩薩(天平時代の作)、十六羅漢など安置されている。また、不動堂(六角堂)には国宝大聖不動明王八大童子、羅漢などを安置、不動明王は運慶の孫の康円の作、八大童子を伴った不動明王は関東随ーといわれている。本堂左の特攻観音堂には本尊の特攻観音として大和法隆寺の夢たがえ観音を模作した2体が安置され、太平洋戦争で散った特攻隊員4704名の霊が祀られている。また、阿弥陀堂金閣を模した3階建で、富山より移築したもので阿弥陀、羅漢、韋駄天、地蔵などを配る。(せたがや社寺と史跡)

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阿弥陀堂
京都の二条城より移築されたもので、三層の建物は金閣寺を模したものといわれています。屋根には鳳凰、三階の軒下には「韋駄天」の扁額が掲げられています。室内には本尊阿弥陀如来をはじめ観音菩薩、地蔵菩薩が脇侍に左甚五郎作の鬼念仏とスポーツの神とされる韋駄天神、東方朔が安置されています。(世田谷山観音寺HP)

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特攻平和観音堂
国のために生還を期すことのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員の英名が宝蔵されています。(案内板)

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六角堂

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川の風景② 中原橋の先から右に大きく蛇行して流れます/駒繋中前

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前方が駒繋神社です/子之神橋      神社参道に架かる駒繋橋

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駒繋神社鳥居/下馬

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駒繋神社
昔から「子の神」といわれていたが、明治以降正式に駒繁神社と呼ばれるようになった。当社は今から900年程前、天喜41056源義家が父頼義と共に朝命をうけ奥州の安部氏征討(前九年役)に向う途中この地を通過、子の神に武運を祈ったと伝えられているから、少なくともこれ以前に里人たちによって出雲大社の分霊を勧請し守護神として祀ったことは明らかである。降って文治51189源頼朝が奥州の藤原泰衡征伐のため自ら大軍をひきいて鎌倉を発しこの地を通過する時、祖先義家が本社に参拝したのを回想し、愛馬芦毛を境内の松の木に繋いで参拝したので駒繁神社とも称するようになった。

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以上は社伝によったものであるが、江戸時代の様子は「江戸名所図会」に『正一位子明神社、二子街道下馬引沢邑道より左の方、耕田を隔てて丘の上にあり、別当は天台宗宿山寿福寺兼帯、子明神の前、今田畑となれる地は旧名馬引沢といえども、今は上中下と三つに分れたる邑名となれり』とある。「武蔵風土記稿」には『子ノ神社、除地五段、下馬引沢ノ内小子ノ神丸ニアリ、ソノ処ノ鎮守ナリ。コノ社ノ鎮座ノ年歴ヲ詳カニセズ。本地仏ハ文殊菩薩ノ由イエリ。本社九尺ニ二間、拝殿二間ニ三間、社地ノ入口ニ柱間八尺ノ鳥居ヲ建、コレヨリ石段二十五級ヲ歴テ社前ニ至ル。又本社ノ未ノ方ニモ同ジ鳥居一基アリ。末社稲荷社、本社ノ左右ニワヅカナル祠、一祠ヅツアリ』と記されているので、この時代にも有名な神社であったことがわかる。昭和37年鉄筋造りに改築した。秋の大祭は918日前後の土日曜である。因みに駒繁の松は神楽殿脇にあり、現在3代目という。(せたがや社寺と史跡)

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江戸名所図会 子明神 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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川の風景③ 南側から駒繋神社の社叢を望みます/駒繋公園

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三宿通りを横断            この先が区界です/砂利場橋付近


・・・目黒区境

蛇崩の
地名
「蛇崩」の由来は江戸時代に編さんされた「新編武蔵風土記稿」によると『昔、大水の際、崩れた崖から大蛇が出たことからこの地名が生まれた』と記している。また一説には「砂崩(さくずれ・土堤崩をいう古語)」が「じゃくずれ」に転化し、付近を流れる蛇行屈曲した川の状態から「蛇崩」の文字を当てたのではないかとも言われている。いずれにしても、蛇崩地域の北側を蛇行する蛇崩川浸食した地形がもたらした地名といえよう。この蛇崩川は目黒川の支流で、世田谷区弦巻から東流し上馬、三軒茶屋、下馬を経て本区に入り、東横線中目黒駅付近から目黒川に注ぎ、全長5.2km。現在は大部分が暗渠化されたがかつては湧水にかつては湧水に富み、流域は水田地として、穰な土地であったという。(目黒の地名/目黒区HP)

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街道の風景② 鎌倉道・中道(東回り)の本路にあたります

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葦毛塚(あしげづか)/下馬
源頼朝が葦毛の馬にのってこの地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという。また、一説に鎌倉将軍の世、この地の領主北条左近太郎が仏教をもって出かけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに埋めたともいう。いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚とよばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり馬に関した地名や伝説が多い。(世田谷区教育委員会)

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江戸名所図会 馬牽澤古事
この絵は駒繋神社が鎮座する下馬の地名の由来になった「馬牽澤の古事」を描いたものです。源頼朝公が奥州藤原氏征伐にあたり大軍を率いて多摩川の矢口を渡り、今の目黒区と世田谷区の境の道を渋谷に向って進む途中、乗馬にてを渡ったところ、馬が何かに驚いて暴れだし沢の深みに落ちて死んでしまいました。この場所は砂利場といわれ赤色の山砂利が出るところでした。そのため、馬を引き上げようとしても砂利が崩れて引き上げられず、馬が死んでしまったので沢の岸辺近くに葬りを作り、馬が芦毛であったため芦毛塚と名付けられました。その時に源頼朝公が「これから先、この地に来たときは、必ず馬から下りて沢は引いて渡れ」と厳命し、この沢を「馬引きの沢」と名付けました。(この沢は蛇崩川砂崩川とも書かれ、現在の蛇崩川緑道になっています)。出陣にあたって総大将の馬の死は不吉である、程近い「子の明神(当社)」にて祈願をされてはと農家の姥の進言にしたがい「子の明神」で戦勝祈願をして奥州に向いました。奥州攻めを終えて鎌倉への帰途、再びこの地に立ち寄った源頼朝公は「子の明神」に額づいて戦勝の報告をし、芦毛塚では馬の供養をされました。また「子の明神」で祈願することを進めてくれた農家の姥はすでに亡くなっていると聞き、いたく悲しまれこの地を姥ケ谷と名付けられました。この源頼朝公の古事により駒繫神社付近一帯を「下馬引沢村」(馬から下りて沢は引いて渡る村)と呼ぶようになり、大正14年町制がしかれたため引沢村が取れて下馬になりました。また、芦毛塚はもともとでしたが昭和44824日に下馬史跡保存会の第一事業として「芦毛塚の碑」が建設されました。(駒繋神社HP)(絵:(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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川の風景④ 蛇崩川を渡り宿山へ上る鎌倉道/蛇崩橋

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下流方向               上流方向

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下馬周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:蛇崩川 緑:鎌倉道 橙:大山道)

蛇崩川緑道01-源流~三軒茶屋の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27457610/


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街道の風景③ 世田谷観音から学芸大裏を野沢方面へ寄り道しました/世田谷観音先

野沢
古くは荏原郡馬引沢村の一部。正保年間(1644年~47年)に開発され野沢村として独立した。1889年(明治22年)の町村制施行に伴い駒沢村の一部となる。1967年(昭和42年)の住居表示で現在の町域に定まった。当時、周辺が特に何も無い荒野沢地であったため野沢と名づけられたとも、開発者である葛飾郡東葛西領の野村次郎左衛門の「野」と荏原郡六郷領の沢田七郎右衛門の「沢」をあわせて「野沢」としたともいわれる。Wikipedia

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龍雲寺山門/野沢

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龍雲寺
臨済宗妙心寺派に属し妙心寺の末、大沢山竜雲寺という。当寺は環状7号線の沿線にあったが、昭和初年約200m程奥の当番地移築移転した。建物は鉄筋コンクリート平屋建、本堂109.25坪、書院58.03坪、庫裡54.14坪、山門10.45坪、鐘楼7坪がある。この寺は元禄12(1699)大法正眼国師盤珪大和尚の法嗣節外大和尚(特賜大慈妙応禅師)が旧野沢1-51 (旭小学校敷地内)30町歩の寺領を有する大沢山竜雲寺を建て盤珪国師作聖観世音菩薩・八臂弁財天の二仏を安置し住民の信仰の中心とした。元禄169月霊源大和尚(勅謚正偏知覚禅師)は諸堂伽藍を完成したが、安政2(1855)10月の大地震のため伽藍は大破し、翌安政3年同町3丁目40番地へ移転した。

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当時無住のため復興ははかどらず記録はことごとく紛失して荒廃に帰したが、明治383月当時の和尚により本堂を建て大正33月山門を改築、昭和211月書院を増築した。その後町の発展により現在地に移転した。「新編武蔵風土記稿」によれば『抱地四丁四方許、小名中丸ノ北ニアり、臨済宗京都妙心寺ノ末大沢山ト号ス、開闢ノ来由ヲタヅヌルニ、昔下馬引沢村ニ智見寺トイヘル廃寺ノアリシニ江戸麻布光林寺ノ三世霊源蔭和尚年老テソコニ隠居セリ、木堂七間ニ五間南向本尊如意輪観音坐像木仏ー尺許、麻布光林寺関山(かくばんのばん)慶和尚ノ作ヲ安ゼリ、門南向両柱ノ間九尺鐘楼門ヲ入ツテ右ニアリ、九尺四方、鐘ノワタリ二尺五寸許、長四尺余、銘文考証ニ用ナケレパトラズ、地蔵堂、本堂ニ向イ右ニアリ、ニ間四方南向地蔵菩薩木仏立像長二尺五寸恵心僧都ノ作ナリト云』とある。(せたがや社寺と史跡)


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野沢稲荷神社鳥居


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野沢稲荷神社
野沢稲荷神社は食物・稲の神霊である倉稲魂命を祭神としている。創建由緒などは不明である。江戸後期の地誌「新編武蔵国風土記稿」には『当社は野沢村の鎮守で、村の中央に位置している』と記されている。境内には拝殿を付した本殿と神楽殿がある。本殿と拝殿は棟札から明治33に建造されたことがわかる。また神楽殿は明治末期の建築と推定されている。境内の北角に庚申塔が祀られている。この石塔には「元禄8年野沢村」と刻まれており、17世紀末には村が成立していたことを確認できる手がかりとして注目される。(世田谷区教育委員会)

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街道の風景④ 環七の野沢交差点、前方が碑文谷、後方が上馬、左が学芸大学駅になります

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街道の風景⑤ 野沢交差点から学芸大学駅へ緩やかな下りです、昔は用水があったようです/野沢3丁目

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街道の風景⑥ 下馬通りを蛇崩川緑道へ戻ります/下馬中央公園

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東京学芸大学附属高等学校
世田谷区下馬にある国立高等学校。1954年(昭和29年)に東京学芸大学教育学部附属高等学校として開校。2014年(平成26年)に創立60周年を迎えた。1936年(昭和11年)東急電鉄総帥・五島慶太の誘致によって赤坂区青山北町(当時)から移転した東京府青山師範学校として建設され、1961年(昭和36年)以降は大学小金井移転に伴って空いた敷地の一部と建物をそのまま用いている。このため校内は非常に広く、大きなグラウンドが2つと体育館が3つ、柔道場、さらにはそれらとは別に講堂、西館、別館がある。L字型の校舎は青山師範学校の歴史的な建造物で、テレビドラマや映画の撮影に使用されたこともある。Wikipedia

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野沢周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:蛇崩川 緑:鎌倉道 黄:環七・駒沢通り 紺丸:碑文谷池 緑角:学芸大附属高校)

by Twalking | 2019-02-27 19:31 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 蛇崩川緑道01-源流域~三軒茶屋   

日時 2019.2.20(水)
天気 晴れ


目黒川の源流のひとつ、蛇崩川を散策してみました。
馬事公苑の東の低地が源流域で、中目黒へ流れています。
周辺は大山道と登戸道の追分付近、昔の散歩道でした。

当時、都心に出るのは主に「世田谷通り」でした。
蛇崩川はその南側、弦巻通りに沿って流れています。
車では通ったことはありますが、じっくりと歩いてみたいと思います。



・・・千歳通り

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街道の風景① 千歳船橋から馬事公苑へ向かいます、この通りはかつては品川用水が流れていました/千歳通り(桜ヶ丘)

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せたがや地域風景資産-玉石垣のある風景
桜丘の千歳通りには、旧品川用水の名残である玉石垣が続き、春には道沿いに植えられた美しい桜並木と相成って特徴ある風景を作り出しています。(世田谷区)

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旧品川用水の由来について
この前にある千歳通りは旧品川用水の水源跡です。品川用水は熊本藩主・細川越中守綱利の弟・若狭守利重(とししげ)が将軍から賜った品川領戸越・蛇窪両村にまたがる抱屋敷(別荘)の池に使うための用水として、寛文34166364)年玉川上水から分水した戸越上水が前身です。戸越用水は寛年に一旦廃止されましたが、翌7年に品川領の村人が幕府に使用を出願し許可されて品川用水が始まりました。旧戸越上水は細流だったので、寛文9年幕府の費用で江戸商人達に請け負わせて拡張工事をしました。その時、用水の通る彦根藩世田谷領では遺地(つぶしち)の地代年貢をとる代わりに「用水何ヶ所にても御望次第永代差上可申候事」の書付を取って、世田谷村1ヶ所、用賀2ヶ所、弦巻1ヶ所の分水口を設けました。

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しかし、元禄21689)年品川9ヶ村の村は「世田谷領御領 私領之村村に水取引 品川領 水届不申候」と、上流の世田谷領内の調査を勘定奉行に嘆願しました。分水停止を前提にした勘定奉行の現地調査に対し、世田谷領の3ヶ村は先の書付を建てに猛然と反対しましたが、幕府権力の前に書付は一片の空文となり分水は閉鎖されました。品川用水はその後、元禄4年に幕府の工事として第二次拡張工事が行われ、昭和初年まで豊富な水が流れていましたが、昭和7年用水組合が解散され、昭和2527195052)年おもにゴミなどで埋め立てられて289年の歴史を閉じました。

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品川用水の築堤区間(紺角)
品川用水用水は区内3ヶ所の通過区間で築堤の中に水路が掘られていました。畑の中の高い築堤はこの辺りでは特長のある風景でした。(説明板)
図:江戸後期~明治初期の世田谷の地名(紺:品川川用水 青:蛇崩川 緑:旧甲州街道 橙:大山道 紫:滝坂道 黄:登戸道・六郷田無道 紺枠:築堤区間)


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せたがや百景85-馬事公苑界わい
東京オリンピックの馬術競技の会場になったことで有名。背の高いケヤキ並木をくぐって入る苑内は広大で多くの樹木や草花が季節をいろどる。雑木林を散策するとかつての武蔵野の姿が思い浮かぶ。ケヤキ並木の道は広場として整備されまた一つ魅力を加えた。(せたがや百景)

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ナレースワン大王鶏の由来/東京農大食と農の博物館
タイのアユッタヤー王朝第19代目ナレースワン大王(1555~1605)に因んだものである。モチーフは「カイ・チョン」と呼ばれる闘鶏用品種の1内種で、大王の名にちなんだ「カイ・ナレースワン」である。ナレースワンは長い間、ビルマ(現ミャンマー)の属国となっていたアユッタヤーに再び独立をもたらした救国の英雄で、とらわれの身の幼少期にビルマの副王と戦況を占う闘鶏を行った際に彼の鶏が勝利したと言われている。そしてのちにアユッタヤーを独立させたことから、「闘鶏」はナレースワンの象徴となった。タイ中部のスパンブリーに建立されているナレースワン大王記念碑周辺には、大小数千体の闘鶏の置物が供えられている。これは人々が願掛けを行い願がかなったときに寄進をしたもので、そのことからも人々のナレースワン大王に対する敬愛の念がうかがえる。タイの人々にとっては、とても縁起のよいものなのである。(「鳥学大全」より)所蔵 家禽資源研究会管理 (財)進化生物学研究所

登戸道(馬事公苑付近)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23014190/


・・・弦巻

「弦巻」の由来は諸説ありこれと言った決め手に欠く。一説に武将(源義家あるいは北条氏など)が弓弦をはずした、あるいは巻いた場所であるという。他には水流(つる)が渦巻く場所など。しかし弦巻は世田谷区内でもほぼ最高地点に近い台地である。一方で土地に起伏もあり今は多くが暗渠となったが小さなもある。弦巻という名は14世紀後半に初めて見える。永和2年(1376)、吉良治家寄進状(鎌倉八幡宮蔵)に「絃巻」(弦でなく絃の字)という地名が出てくる。江戸時代初期に荏原郡弦巻村として成立。1966年(昭和41年)の住居表示で今の形となる。Wikipedia


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馬事公苑の東側、旧大山道の奥は窪地になっています、この辺りが「源流」でしょうか?/JRA公園

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蛇崩川(じゃくずれがわ)
世田谷区および目黒区を流れる二級河川、目黒川水系の支流である。世田谷区弦巻五丁目の馬事公苑付近に源を発する。昔は品川用水の悪水吐からの水を受けていたものと考えられている。東流し、弦巻三丁目にて桜新町二丁目からの支流を合わせる。弦巻通りと平行して世田谷警察署付近で玉川通りと交差し、下馬一丁目にて野沢公園付近からの支流を合わせ目黒区に入る。この付近を蛇崩という。上目黒四丁目で祐天寺駅付近からの支流を合わせて東急・東京メトロの中目黒駅付近で目黒川に合流する。大水で崖が崩れた際にそこから大蛇が出てきたからなどいくつかの説がある。1889年(明治22年)から1932年(昭和7年)までは「蛇崩」という地名もあった。現在でも目黒区上目黒4丁目の野沢通りに「蛇崩」の交差点名が残る。Wikipedia


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街道の風景② 大山道と交差します、小公園脇に川の跡が残ります/弦巻

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洗い場跡               旅人像

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世田谷
室町時代、世田谷は吉良氏の支配地となりました。吉良氏は世田谷城を築き世田谷の中心として栄えました。さらに江戸と小田原を繋ぐ矢倉沢往還(その後の大山道)の要衝の地であったため、定期的な市も開かれ賑わいをみせていました。有名なボロ市はこの「楽市」が起源です。江戸時代になると用水開発が行われ、田畑も積極的に開発され江戸に野菜を供給する近郊農村としての役割を担いました。世田谷の地名の由来については定かではありませんが、多摩郡勢田郡の「谷地」の部分という意味で付けられてとする説があります。(歴史と文化の散歩道・ボロ市木もれ陽散歩道)

大山道弦巻追分周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22619327/

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川の風景① 蛇崩川緑道の起点、案内板が立っています/中央図書館脇

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蛇崩川について
このプロムナードのせせらぎの下には馬事公苑の方から流れる自然の川があります。かつては小砂利交じりの赤土が崩れた中をのように曲がりくねって流れていたため「蛇崩川」と呼ばれていました。蛇崩川は56もの橋が架かり、下流の下馬には水輪の直径が3.6mもある大きな水車が回って米や麦をひいていました。「蛇崩川」の長さはおよぞ5kmあり、目黒区の上目黒で目黒川に合流しています。(説明板)

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蛇崩付近(世田谷・目黒境)の地図/案内板
(蛇崩川(青)の左が駒繋神社、中央が鎌倉道(緑)で芦毛塚があります)


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水道管のモニュメント         西に一直線に流れます

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弦巻神社鳥居 緑道の右手、小高い丘にあります/弦巻


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弦巻神社
神応神天皇、稲荷大神、菅原道真を祀る。鎮座の由来は不明であるが「新編武蔵風土記稿」には『八幡社三段五畝除地小名山谷ニアリ、ワヅカナル祠ナリ、鎮座ノ年月ハ詳ニセザレドモ、古ヘ鶴ヶ岡八幡社領ナリシユヘ、ソレラノコトニヨリ此社ヲ建シニヤ、天神社除地八段、小名ニアリ、ワヅカナル小祠、稲荷社除地一畝十五歩同ジアタリニアリ、ワヅカナル祠ナリ、以上ノ四祠イヅレモ村民ノ持」と記事がある。明治41年合祠の議がおこり、中央の稲荷社に合祠して弦巻神社と総称することとなった。その後大正51115日拝殿を造営し、弦巻全地域の氏神として維持され現在に至る。境内602(1986.6m2)の内に神楽殿、社務所あり、祭礼は108日に行なわれる。(せたがや社寺と史跡より)

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川の風景②「駒沢中」信号までは弦巻通りに沿って流れます/弦巻中西

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せたがや百景-蛇崩川緑道
下馬から三軒茶屋・上馬・弦巻まで全長約3kmにわたって続く。蛇崩川にフタをして作った緑道で、地下には現在下水道の幹線が通っている。サクラ、フジ、サツキ、アジサイ、クチナシなどが季節季節に花咲き、道行く人を楽しませる。(せたがや百景)

鶴牧通り
弦巻を東西に横断する二車線道路。三軒茶屋を基点としており、途中教育センター通りと交差し、弦巻四丁目交差点で旧大山道に突き当たる。途中、区立弦巻中学校付近では蛇崩川緑道が並行する。東急バス弦巻営業所と渋谷駅を結ぶバスが通っている。Wikipedia

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常在寺山門

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常在寺
弦巻一丁目にある寺院。寺伝では開基を
吉良頼康側室・常盤姫と伝え、彼女に関する悲話が残っている。常在寺は日蓮宗の寺院で総本山は身延山久遠寺、詳名は「宝樹山常在寺」という。創建は1506年(永正3年)までさかのぼることができる。寺伝によれば開基は世田谷城主・吉良頼康の側室であった常盤姫(吉良氏の家臣、大平出羽守の娘)という。『新編武蔵風土記稿』の記述では「小名にあり、法華宗、甲斐国久遠寺末、宝樹山と号す、当寺の過去帳に開山忠善院日純聖人(中略)、開基は大平出羽守が女吉良氏の室、法諡宝樹院妙常日義大姉、大永3年(注:1523年)423日卒すと見ゆ」とある。

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当時、身延山久遠寺から来た日純という名の僧が法華経の教えを布教していた。多くの人々がその教えに帰依し、常盤姫もそのうちの1人であった。常盤姫は弦巻の地に常在寺の前身となる堂宇を建立した。吉良氏は禅宗とのかかわりが深く、弘徳院(後の豪徳寺)や龍鳳寺(後の勝光院)は再興時に曹洞宗に宗旨を変えていた。そのかたわら、他宗派の寺院にも手厚い庇護を与えていた。しかし、頼康は革新的な宗教思想を有する法華経を好んでいなかった。常盤姫が法華経への傾倒を深めていくにつれ頼康は彼女への不信感を募らせていくことになった。常盤姫は頼康と法華経との板挟みになったが、法華経への信心を捨てることができなかった。頼康は激怒して常盤姫の捕縛を命じた。常盤姫は何とか城を逃れたものの追っ手に捕らわれる前に命を絶つ決心を固めた。彼女は守り本尊の鬼子母神像を常在寺の井戸に投入し、その後若林の常盤塚の付近で自害したと伝わるWikipedia

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本堂
旧本堂
1979年(昭和54年)から4年にわたって実施された世田谷区社寺調査の対象となった。調査当時の伝承では「250年前18世紀中ごろ)のもの」といわれ、調査結果でもそれを裏付ける部材がよく残っていた。2002年(平成14年)開山500年記念事業として室町時代の建築様式を採用した新本堂が建立された。地上と地下の2層を回廊のように廻ることのできる構造となっており、地下に設けられた吹抜けの庭園を中心とした地下伽藍に斎場、ロビー等が配置されている。また、2015年(平成27年)には永代供養五重塔が建てられた。Wikipedia

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いぼ取り地蔵尊の由来
寛延4
1751年)に弦巻村の女性21人が浄財を出し合って作ったもので「いぼとり地蔵さん」(現在の癌や腫瘍を治す)として近隣の人々から親しまれてきました。いぼ(腫瘍)が出来た時このお地蔵様の台座前にある小石を借りて病んでいる個所を撫でると不思議なくらいいぼが取れたそうです。全快したら借りた小石を倍にしておけば良いと言い伝えられています。現代では小石がなかなか見つからないため、お寺でご用意したお経のあがった石を病んだところに撫でてください。病気平癒、身体健全など参拝してお願いすればきっと良いご利益が受けられます。(説明板)


・・・上馬


現在の上馬1
5丁目、三軒茶屋12丁目、駒沢23丁目は「上馬引沢」と呼ばれていました。江戸時代のはじめは馬引沢村(上郷、中郷、下郷)として存立していましたが、その後上馬引沢村下馬引沢村に分かれました。この上馬引沢、下馬引沢の下2文字を省略し「上馬」「下馬」と呼ぶようになりました。この地を馬引沢と呼ぶようになったのは次のような言い伝えがあります。文治5年(1189年)源頼朝が奥州の藤原泰衡を討伐するためこの地を通ったときに、頼朝が乗った馬が突然暴れだして蛇崩川の深みに落ちて死んでしまいました。頼朝はこの事故の戒めとして「この沢は馬を引いて渡るべし」と申し渡したので、以後「馬引沢」の名が付けられたというものです。(地名の由来/世田谷区HP)


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川の風景③ 弦巻通り別れた緑道の先が小泉公園です/親和橋先

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向橋                 宮前橋

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駒留八幡神社鳥居

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駒留八幡神社
世田谷区上馬にある神社。「上馬の駒留八幡神社」としてせたがや百景に選定されている。相殿として若宮八幡、境内社として厳島神社を祀るが、この2神には世田谷城の城主吉良頼康の側室常盤姫にまつわる伝説が存在している。この神社は上馬一帯(旧馬引沢村)の鎮守社である。創建の年代について「新編武蔵国風土記稿」巻之五十一 荏原郡之十三では『鎮坐ノ年代ソノツマビラカナルコトヲキカズ』としている。社伝などによれば、創建は徳治年間(1306-1307年)までさかのぼる。その頃、鎌倉幕府からこの地に所領を与えられた北条左近太郎入道成願という人物がいた。太郎入道は、所領である村の中心となる神社を建てたいとかねてから思いを抱いていた。ある夜、八幡神が太郎入道の夢枕に立ち『馬に乗ってその留まったところに儂を祀れ』と命じた。太郎入道は夢告に従って愛馬に乗りその立ち止まったところを社地と定めたという。

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江戸時代の天和年間(1681-1684年)当時この地を領していた大久保伊賀守が神社前の石段を寄進するために付近を掘ったところ、一寸三分(約33cm)ほどの神像が現れた。神像と同時に経筒が掘り出されその背には『西明寺時頼公守本尊経塚駒留八幡宮、北条左近太郎成願奉安鎮所、徳治三戌申年十月廿三日』と記された銅板があった。ただし「新編武蔵風土記稿」ではこの銅板の記述を疑い『全ク経筒ニヨリテ、後世イカニモ此本尊ノ古クヨリ建ルコトヲシラシメンガ為、イツノ比ニヤ住僧ノカク修シヲケルモノトミエタリ(後略)』と記述している。

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明治期の神仏分離以前は宗円寺(曹洞宗、上馬三丁目68号に現存)が別当寺を務め、神社の祭祀をこの寺院の僧侶が司っていた。宗円寺は山号を「八幡山」といい駒込の大円寺の末寺であった。開基である心覚宗円は、過去帳によれば北条左近太郎入道成願と同一人物というが「新編武蔵国風土記稿」はこの記述についても疑問視している。明治期に入って1873年(明治6年)4月に村社と定められた。1909年(明治42年)626日に上馬引沢村内にあった天祖神社厳島神社の合祀許可を受け、同年720日に合祀済みの届を提出した。氏子は上馬の他、三軒茶屋(新寄、伊勢丸、四ツ字)の住民である。第2次世界大戦の前は向、東、西、三茶の4つの組織に分かれていた。大戦後は経済的に余裕のある家から総代を出し22名いたという。Wikipedia

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常盤姫伝説
この神社には相殿として若宮八幡境内社の中に厳島神社が存在している2社の由来について次のような話が伝わっている。世田谷城の領主・吉良頼康には常盤という名の側室がいた。常盤は美しいだけではなく心優しく風流を解したので頼康の寵愛を一身に集めていた。頼康に仕えていた他の側室はこれを妬み常盤の不義を口々に言い立てた。最初はその話を信じなかった頼康も度重なる讒言に疑念を深め、常盤を遠ざけるようになった。常盤は命の危険を感じて世田谷城を逃れたがこの付近で自刃したとも追っ手に斬られたともいう。

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そのとき常盤は懐妊していたが男児を産み落とした。後に抱衣を清水で洗うと吉良の五七の桐の紋が現れた。頼康はそれによって常盤の無実を知り、讒言を述べた12人の側室を死罪に処した。頼康は常盤と男児を深く悼み、男児を「若宮八幡」として駒留八幡の相殿神として祀った。常盤の霊は弁財天として祀られた。第2次世界大戦の前は境内の池の中島にあったが、後に池は埋め立てられている。常盤姫の実在は疑われているものの、伝説には実在の地名や寺社が多く出てくるため真実味をもって受け入れられているという。常盤の墓所といわれるのが常盤塚(上馬五丁目3019号に現存)で、伝承文学『名残常盤記』の関連史跡として保存され1983年(昭和58年)に世田谷区の指定史跡となった。Wikipedia

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厳島神社(常盤弁天)
常盤
が弁財天として祀られている。池にかかる石橋は常盤橋と呼ばれている。第2次世界大戦前までは、鳥居の前方にある現在の駐車場の位置に池がありその中島に祀られていた。常盤が死後怨霊となって現れたため、吉良頼康が常盤の無実を認めて精霊供養として田中弁財天を勧請して祀ったとされるWikipedia

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駒留八幡神社の西側に「常盤塚」があります

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常磐塚(世田谷区指定史跡)
世田谷城主・
吉良頼康(永禄4年・1561一年没とされる)の側室で、奥沢城主大平出羽守の女常盤を埋葬した嫁とされる。伝承によれば、頼康の龍を一身にあつめた常盤は他の側室にそねまれ城を逃がれたが、この近くで殺害されてここに葬られた。後に訴えが虚偽であることを知った頼康は、これを悔み駒留八幡神社に常盤を弁財天として、常盤の胎児を若宮八幡としてまつり、また虚偽の訴えをした側室12人を処刑した。人々は、常盤塚と十二人の側室の塚を「13」と呼び信仰の対象としてきたが、現存するものはこの常盤塚だけである。(世田谷区教育委員会)

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伝承史跡常盤塚
薄幸の佳人常盤の方ここに眠る
天文動乱の昔 南関東の覇者世田谷城主七代・吉良頼康は重臣奥沢城主大平出羽守の息女・常盤の方をこの上なく寵愛していたが 他の側室達の讒訴を信じてゆくりなくこれを退けんとした 常盤の方は早くもこれを察知して城を脱出したが到底逃れかたきを悟り 君をおきて仇し心はなけれとも 浮名とる川 沈みはてけり 美麗たぐいなしとうたわれ鷺草にも比すべき麗人も無実を訴えた この非痛な辞世を残してあわれ19歳の花の命を胎内の若子諸共に田の面の露と消えはてたのである 後にこれは冤罪てあることが明らかとなり頼康は後悔のほぞをかみ 遂に八幡の旧地に若子を相殿として祀る 駒留八幡がこれである 時人また非業の最期を遂げた常盤の方を憐みこの地に一塚を築き語りつぎいい伝え 連綿としてこれを守り続けたが年月の久しき 今は顧みるもの少く塚も朽ち果て見るかげもない 有志これを憂い相謀って資を募りこれを復興してその霊を鎮まらんことを祈るものである 春風秋雨四百余年歴史をこえた伝承の息吹がここに生きている心地がするものである 願わくば常盤の霊よ安かれ(碑文)

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街道の風景③ 室町期以降に付け替えられてた鎌倉橋-太子堂八幡神社-駒留八幡宮-世田谷新宿へ向かう「かまくら道」はこれでしょうか?

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大山道の若林交差点          駒留陸橋を横断します

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・・・三軒茶屋

旧・荏原郡中馬引沢村、下馬引沢村、太子堂村等の一部であった。三軒茶屋が正式な地名として定められたのは1932年(昭和7年)の世田谷区立時である。江戸中期以降、社寺参詣ブームで賑わった大山道登戸道の分岐(追分)付近に信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋の三軒の茶屋が並んでいたことに由来する。この呼び名は文化文政の時代には既に一般的なものとなっていたようである。大山道
(大山街道)は現在のほぼ国道246号にあたり瀬田、二子橋を渡り大山へ向かう。登戸道は井伊家知行地の世田谷代官屋敷(現在の世田谷区世田谷、ボロ市通り沿い)や世田谷の上町(武家町)を通って登戸に向かう街道筋であり、現在の世田谷通りにあたるWikipedia

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川の風景④ キャロットタワーの右手方向へ蛇行して流れています

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右手が丸山公園/丸山橋         246号を横断します

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街道の風景④ 246号(玉川通り)信号先が旧玉電中里駅、こちら側が専用軌道でした/世田谷郵便局前

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川の風景⑤ 川筋から大山道を望みます、伊勢丸稲荷神社の先が246号です/茶屋下橋

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伊勢丸稲荷神社


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伊勢丸稲荷神社
徳川幕府の始頃より上馬貮百拾八番地赤松群生の地に稲荷の小祠ありき 廣尾祥雲寺の所有地故祥雲寺山稲荷と俗称し中馬引澤村民持にて天下泰平五穀豊穣子孫長久を信仰功徳の標幟とす 中馬引澤は即ち今三軒茶屋部落也 當社の起源は他の村民持稲荷と同様戦国末頃より家祖を祀れる内官が部落持に推移せる也 當社側に庚申碑あり正徳四午年と刻す 明治拾貮年此社地を処分し本伊勢の森天祖社域に移転す 當時の中馬は参拾貮戸の寒村也 天祖社は上馬分にて喬杉老松椎樫等の壮麗なる密林なりき 明治四拾貮年天祖社が駒留八幡社に併合せらるゝや 其の内殿を當社に付与して伊勢丸稲荷改称し其の跡地に鎮座也しが 大正二年五拾五番地に借地移転し更に大正拾五年茶屋下橋畔に遷築す 神木榧力石庚申碑其他天祖引継の宝物亦之に伴って移転せり 今茲(ここに)當社の由来を略記して社域に供進す(碑文)

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川の風景⑥ 真直ぐですね~、縄手道のよう、緑道の案内板が立ちます/一之橋先

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二之橋                三之橋

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正蓮寺山門/
三軒茶屋

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正蓮寺
浄土真宗本願寺派に所属し白龍山正蓮寺と称する。本尊阿弥陀如来、開山は竹岡長円で元禄10 (1688)1121日没した。創建は明暦3(1657)と伝えられているが、「御府内備考」巻之百三によれば白金台町3丁目に3 (10m2)ほどの土地所有の記事がある。「一、八拾五坪 浄土真宗本願寺末正蓮寺持 右町内南側ニ有之、明暦三酉年五月八日古跡ニ被仰付候共、御年貢諸役者町並之通同寺ヨリ相勤申候」「一、抱屋鋪三拾六坪五合八勺三才同寺持 右町内南側表之方地続ニ有之、地所之儀者弥兵衛と申者仮名題ニ而古来ヨリ同年ニ而所持致来候得共、寛政八辰年(1796)四月中同寺直名前ニ仕度旨寺社御奉行板倉周防守様え奉願上候処、屋鋪御改筒井次左衛門様え御添翰被成下、同五月二日御同所ニ而願之通被仰付候尤御年貢諸役者町並之通同寺ヨリ相勤申候」とある。寺の創立時は不明であるが、明暦3年以来白金台町3丁目に土地を所有していたことは明瞭である。寺は道路拡張により明治434当所転入、建築し現在に至る。境内600(1980) 本堂500 (1650) 、庫裡100(330)である。(せたがや社寺と史跡)

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蛇崩川緑道案内図(駒沢~目黒区境)

蛇崩川緑道
蛇崩川緑道は駒沢2丁目から下馬一丁目まで続く全長2900mの緑道です。歩くと約3.1kmの道のりでは桜並木の風景が楽しめる箇所や隣接する公園や神社に立寄ることができます。さらに西方向には弦巻に世田谷区立中央図書館、教育センターがあり、東方向は目黒区の緑道につながり、中目黒方面へ散策を楽しめます。(案内板)(緑:蛇崩川緑道 橙:大山道 赤角:三軒茶屋追分)

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世田谷地形ジオラマ(部分)/世田谷区立郷土資料館
(紺:蛇崩川 紺丸:源流域 青:烏山川・北沢川 青角:合流点 橙:大山道 紫:滝坂道 赤角:千歳船橋・上町・三軒茶屋・下北沢)

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弦巻周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(紺:品川上水 青:蛇崩川・烏山川 橙:大山道 紺丸:源流域 赤角:ボロ市通り)

by Twalking | 2019-02-25 10:44 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 北沢川緑道(合流点~梅ヶ丘)   

日時 2019.2.7(木)
天気 晴れ


小田急で帰ろうと思い、北沢川を西へ向かいました。
緑道だろうと思ってましたが、道の真ん中に川が流れます。
清流復活事業でここまで「復元」するとは驚きです。

滝坂道は歩きましたが、その北側に流れ、丘がすぐ迫ります。
代沢・代田はよく知りませんでしたがいい街並です。
坂も良さそうだし、文士町もあるのでまた訪ねたいと思います。



・・・代沢

世田谷区の東部に位置し北に北沢、西に代田、南に太子堂、三宿、池尻、東に目黒区駒場に接する。地形的には台地北沢川周辺の低地にまたがり起伏が比較的複雑である(四丁目はほぼ平坦な低地)。元々、東京府(武蔵国)荏原郡下北沢村代田村の一部で、1516世紀頃に北沢川周辺等で両村の開墾が始まり集落の形成が進んだ。明治時代以降、世田谷村への合併、東京市、世田谷区への編入があるように宅地化が進んだ。周辺の住居表示実施(1964・昭和39年)に際し、旧北沢の一部と代田の飛地下代田等が統合する形で成立した。代田下北沢の合成地名。始めて代沢と付けられたのは1898年(明治31年)に開校した荏原小学校代沢分教場(現在の代沢小学校)で1964年の住居表示の際に地名となった。(Wikipedia


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川の風景① 左が烏川緑道、右が北沢川緑道、目黒川の起点になります/合流点

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烏山川緑道(左)                  目黒川緑道(下流)

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川の風景② 「ふれあいの水辺」、人工ですがせせらぎが作られています

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北沢川
かつての目黒川の支流のひとつ。世田谷区内を流れる二級河川であった。本来の源頭地は世田谷区上北沢・都立松沢病院付近。(主要な水源のひとつであったとされる「将軍池」が病院敷地内に残っており隣接地が「将軍池公園」として公開されている。この池は大正時代にもともとの湧水地をもとにして患者の作業療法も兼ねて池を掘り広げたものだという)。これに北方を流れる玉川上水からの分水を引き込んでいた。病院付近から南東に向かい小田急線経堂駅北方で東へ転流し、豪徳寺駅のすぐ北をかすめ梅ヶ丘駅の東で線路をくぐる。さらに東南東へ流下し環七通り、茶沢通り、淡島通りを越え池尻大橋駅西方で烏山川と出会い目黒川となる。 元来は流量の少ない川だったが1658年(万治元年)に玉川上水からの分水(北沢分水)を認められ、上水から水源地付近まで導水するようになった。以来、北沢用水として親しまれつつ一帯の田畑を潤してきた。江戸時代の下北沢村開拓に密接に関係した歴史を持つ。

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支流
左岸(流路北側)にのみいくつかの支流があった。いずれも暗渠となっている。
森厳寺川(しんがんじがわ)
区立北沢中学校近辺から下北沢駅の東を通り、茶沢通りのルートを南下して代沢小学校の端で北沢川に合流。
だいだらぼっち川
森厳寺川の支流。下北沢駅西方を南流。源頭はもと大きな湧水窪地で「ダイダラ坊の足跡」であるとされ、これが「代田」の名の由来にもなったという
Wikipedia

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街道の風景① 滝坂道です、左が旧道、淡島交差点の先で合流します/淡島通り

淡島通り(432号)
元々、道玄坂上と下北沢(森厳寺・淡島神社附近)を結んでいた道路と現在の淡島交差点付近で分岐して現在の調布市方面に向かっていた滝坂道が原型である。主に20世紀前半にルート変更が重ねられ現在の形態となっている。通称淡島通りの「淡島」とは森巌寺境内淡島神社に由来するが現在は淡島神社付近は通らない。道玄坂上-山手通り、淡島交差点-下北沢の「旧道」はそれぞれ生活道路となっている。Wikipedia

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淡島通りの駒場方向です        辻に建つ庚申塚/旧道(大石橋先)

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旧道に架かる大石橋          こちらは淡島通りの下代田橋です

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川の風景③ すぐ左手にせせらぎ公園があります/淡島先

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代沢せせらぎ公園
世田谷区代沢4丁目にある都市公園(街区公園)である。代沢せせらぎ公園と北沢川緑道として世田谷区より地域風景資産に指定されている。1991年より「住民参加型公園設計」を経て完成した公共施設であり、公園に隣接した北沢川緑道の両岸には桜並木が立ち並び地元住民に愛されている。同種の公共施設では全国でも先駆者的な存在となっている(Wikipedia

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北沢川文学の小路
北沢川緑道の宮前橋(世田谷区代田)から下代田(代沢)までの区間約1kmは、近代文学を代表する歌人、作家、詩人たちが普段着で散策した場所です。彼らがここを通り思念し、思索し、歌を、俳句を詠み、そして詩を創り文章を書きました。その彼らがかつて居住したところがこの北沢川周辺にあったことから地域の皆さんから「北沢川文学の小路」と呼ばれています。北沢川ゆかりの作家が居住した町丁目を紹介すると代田三丁目には齋田小枝子、斎藤茂吉、代田二丁目には萩原朔太郎・萩原葉子、代田一丁目には三好達治、代田五丁目に坂口安吾(勤務地)、石川淳、田中英光、中村汀女、代沢四丁目には森茉莉、加藤楸邨、代沢三丁目には宇野千代、田村泰次郎、代沢二丁目に横光利一がいました。(案内板)

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川の風景④ 「川が主役」、存在感がありますね、文学碑も立っています

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横光利一顕彰碑
『微笑といふものは人の心を殺す光線だ』横光利一
新感覚という未踏の境地を切り開いたのは小説家・横光利一(18981947)である。彼は1928年(昭和311月ここ北沢川左岸の丘に居を構えた。小田急線開通によって開けた地である。「雨過山房」と名づけられた邸からは近代郊外風景が望めた。木々の間に赤い屋根が見え隠れし、眼下には緑の傾斜が川まで続いていた。代表作「旅愁」をはじめとする数々の作品がここで書き上げられた。当地、北沢に想を得たものも少なくない。その愛着の深い地で彼は終焉を迎える。19471230日、49歳の若さだった。彼こそは下北沢文士町先駆けの作家である。冒頭の一節は遺作となった「微笑」から抜き出したものだ。数文字で現象の本質を巧みに衝く新感覚表現の結晶の1つだと言ってよい。この「微笑」には「家の門から玄関までの石畳が靴を響かせてくるとき、その「靴音の加減で」用向きの判定をつけていたとある。(北沢川文化遺産保存の会)

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安吾文学碑の由来
坂口安吾は大正14年(1925)代沢小学校で1年間代用教員として勤めた。その時のことを背景として書かれたのが「風と光と二十の私と」である。安吾文学碑に刻んだ文言はこの作品に書き記された一節である。碑文両脇の煉瓦は安吾が「蒲田の家」(現大田区東矢口2丁目)と称していた家の門柱である。この家で「日本文化私観」「堕落論」「白痴」「風と光と二十の私と」などの作品が書かれた。門柱は所有者「新潟日報社」が長年保存してきたものである。それを譲り受け「東邦薬品株式会社」の協賛を得てここに門柱保存を兼ねた文学碑を建立したものである。なお、この碑は武蔵野の風と光と若い魂が通り抜けて行けるようにデザインしたものである。(世田谷区教育委員会)

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茶沢通りに架かる橋場橋        茶沢通り(下北沢方面)

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川の風景⑤ 右手に高台が迫ってきます、川の流れがよくわかります/橋場橋先

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せたがや百景7-北沢川緑道桜並木と代沢の桜祭り
代沢地区の北沢川緑道の両側には桜並木が続いている。満開になると花のトンネルになり花見の宴が繰り広げられる。地元主催の桜祭りには甘酒の無料接待やパレードなども行われる。(世田谷百景)
(青:北沢川 紫:滝坂道 橙:茶沢通り 緑:鎌倉道 黄:環七)

・・・代田


世田谷区の北部に位置し北沢地域に属する。北沢川が地区南部を西から東に流れるが暗渠化されている。地形は北沢川に向かって下る傾向があるが、北端の六丁目には南北に長い窪地があり、東西それぞれに上がる傾向も見られる。
戦国時代末期に後北条氏の滅亡の際に、北条方の吉良氏の家臣であった齊田氏が現在の一〜三丁目付近に土着し開墾したのが始まりともいわれ、その後も開墾を進め範囲を広げていった。元々、荏原郡に属し、現在の代沢の一部、大原をも含む範囲を指す概念であり、下北沢村の元々の中心部(現在の代沢三丁目、五丁目付近)を東西から挟み込むような形であった。その後、甲州街道に接する大原が独自の発展をし、世田谷区への編入などを経て住居表示の実施、飛地の整理で羽根木の飛地(現在の羽根木公園付近)の編入、逆に飛地であった下代田等が代沢に編入されて現在の形となった。Wikipedia

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街道の風景② 鎌倉通りに架かる「鎌倉橋」、代沢と代田境を北へ向かっています

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鎌倉道(南方向)           鎌倉橋、文学碑が建ちます

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三好達治文学顕彰碑
三好達治(1900年-1964年)は詩界の開拓者だ。和洋の詩風を織り込んで新しい詩の可能性を切り拓いた。昭和期を代表する第一級の抒情詩人だ。処女詩集「測量船」は言葉の響きを重んじて創られた名編だ。この発刊以降も語の音楽性にこだわり、生涯で千篇を越える詩を詠んでいる。達治は世田谷区代田1丁目1番(当碑の南約400)に16年間住んだ。静かな路地裏で詩集「百たびののち」は編まれた。
寒窓の一盞

憐れむべし糊口に穢れたれば 一盞(いっさん)はまづわが腹わたに注ぐべし
よき友らおほく地下に在り 時に彼らを憶ふ
また一盞をそそぐべし わが心つめたき石にも似たれども世に憤りなきにもあらず
また一盞をそそぐべし 霜消えて天晴るる 
わが庭の破れし甕にこの朝来たりて水浴ぶは 黄金渇の小雨鶲(こさめびたき)
小さき虹もたつならし 天の羽衣すがしきになほ水そそぐはよし 
また一盞そそぐべし 信あるかな爾 十歳わが寒庭を訪ふを替えず われ東西南北の客 流寓に疲れたけども 一日汝によりて自ら支ふ 汝何にために又々一盞をそそがざらでやは
詩人は諸国をさすらった末この代田に「流寓独居」し、独り酒を飲み寒庭を訪れる小鳥に語りかけた風狂の詩人、終焉の地での秀作である。達治が歩いたこの北沢川べりに詩碑を建てこれに1枚の写真を添える。庭で愛犬ミミーと戯れる詩人の肖像である。(北沢川文化遺産保存の会)

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川の風景⑥ 北側に丘が迫ります/桜橋

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齋藤茂吉歌碑
代田川の ほとりにわれを いこはしむ 柿の花も ほほけそめつつ 茂吉


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萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔
ここ鶴ケ丘橋たもとから眺められる丘上の鉄塔には歴史がある。昭和元年(1926)に建ったものだ。当時、緑豊かなここに堂々と聳え立つ銀色の塔は都市近郊を象徴する景観であった。この塔のすぐ下に昭和8年、自らの設計による家を建て居住したのは萩原朔太郎(18861942)だ。鋭く尖った三角屋根の家は鉄塔を意識して設計されたものだろう。詩人は故郷前橋で電線の青い閃光を眺めては東京を恋い慕った。「定本青猫」の自序にはこうある。『都会の空に映る電線の青白いスパークを、大きな青猫のイメーヂに見てゐる』(萩原朔太郎)かつては当地の高圧線の碍子も青く仄めいていたという。詩人はそれを青猫に見立てたのかもしれない、代田鉄塔物語である。父はポエジィを子は怖れを感じた。娘葉子は自伝小説「蕁麻(いらくさ)の家」で「あの高い鉄塔」と描写し「暗い予感」をこれに持ったという。今となっては詩人と小説家とを偲ばせるたったひとつの風景だ。このことから丘の鉄塔は「世田谷区地域風景資産」に選定された。日本では他に類例をみない文学モニュメントだといえる。(北沢川文化遺産保存の会)

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円乗院山門/代田

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円乗院
代永山真勝寺円乗院と号し真言宗で勝国寺の末寺であった。「新編武蔵原土記稿」には『円成院境内除地1611畝余』と記載され『村民古クヨリモテルト云記録アリ、ソレモ寛永2(1625)以来ノコトヲ載タレド、ソレヨリ上ノコトノ、シルサズ、菅村民7人円成院ト共ニ小名本屋舗ノ地ニアリテ耕作ヲ勤ムト云々、サレバ此村草創ノ比ヨリノ寺ナルベシ』とあり、いわゆる代田7人衆などにより寛永初期頃までに代田村村民菩提寺として創建維持されてきた百姓持ちの寺と思われる。享保年間(17161736)に炎上再建されたが、昭和20年の空襲により再度回禄の災にかかる。現本堂は昭和29移建されたものであるが、その前身は台東区橋場総泉寺(秋田佐竹侯菩提寺)の旧本堂であった。狩野探信筆の襖絵(文政8年)などがあり江戸後期の建築物であろう。

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風土記稿にみえる観音堂は戦災時まで存していたが惜しくも炎上した。本尊不動明王は享保炎上後同18年(733)12月再造されたもの、門前に斉田東野筆弘法大師1000年遠忌の大石碑がある。並立する庚申塔2は区立守山小学校敷地から移したものである。115日境内で三土代会主催で代田餅搗や曲搗保存のための餅搗会が行なわれている。世田谷区内で数少い弥生時代追跡である円乗院遺跡は同院裏手のほぼ南面する丘陵端で発見され、昭和3年調査されたときには竪穴住居3が確認され多数の弥生後期の土器が出土した。都市化の進行により遺跡は湮滅に帰したが、土器類は世田谷区立郷土資料館に展示されている。(せたがや社寺と史跡)

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高野槇
日本特産で大きいもので高さ40m、直径1.5mになり、樹幹は狭円錐形になる。樹名の由来は和歌山県の高野山に多く自生している事から高野槇の名が付いた。この高野槇は第二次世界大戦の昭和20525日の空襲の戦火を浴び焼失したもので、戦争の痛ましさを忘れぬため保存しました(円乗寺)

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街道の風景③ 環七の若林方向の景観です、左が円乗寺、宮前橋が架かります。

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代田八幡神社/代田 左手に古い鳥居があります

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代田八幡神社
祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、「新編試蔵風土記稿」に『鎮坐、年代詳ナラズ、元文年中(17361741)ノ棟札アリ、是ハ今ノ社ヲ修造セシ年代ナルベジ』と記す如く由緒については明らかでない。別当円乗院が享保年間(1716~1736)に炎上したためであろう。代田村の鎮守であったが、明治年間大原町などが分かれた。神宝として石棒を蔵する。風土記稿に云う。『此社ノ内ニ奇石アリ、ソノ状雷槌ノ如クニシテ青石ナリ。長サ四尺ニ寸余円径太キ所ニテ四寸周一尺三寸五分、コレノハ管ヨリ此ホトリノ百姓ガ宅地ノ内ニアリシヲ、近キ頃此社へ納メシト去』。社殿は戦災により炎上、現在のものは戦後の再建である。天明5(1785)銘の石の鳥居が建つ。祭礼は91920日であったが、現在は9月の第3土曜日曜に行主われる。(せたがや社寺と史跡)

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代田八幡神社鳥居一基(世田谷区指定有形文化財)
この鳥居は明神鳥居の形式で建てられています。大きさは柱間が2.390m、最高高さが3.115mあり、材質は花崗岩です。柱に刻まれた銘文によれば、天明5年(178512月に惣氏子中・大原講中によって奉納されたもので、石工は北八丁堀松屋町助左衛門です。大正12年(1923)の関東大震災で傾き、その修理の時に正面を裏に向けてしまったと伝えられています。現在、区内にある鳥居で二番目に古く、承応3年(1654)建立の喜多見氷川神社の石造鳥居(区指定文化財)に次ぐものです。(世田谷区教育委員会)
写真は境内です

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川の風景⑦「緑道」といえばこれが普通でしょうか・・・/四之橋

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小田急線高架下            梅ヶ丘駅北口付近

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下北沢文士町文化地図/北沢川文化遺産保存の会
(青:北沢川 紫:滝坂道 緑:鎌倉道 黄:茶沢通り・環七 赤角:下北沢駅)

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ふれあいの水辺案内図
(紺:北澤川緑道 緑:烏山川緑道 青:目黒川緑道 橙:大山街道・茶沢通り 紫:滝山道 緑:鎌倉道)

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代沢周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:北澤川・烏山川 紫:滝坂道 緑:鎌倉道 橙:大山街道)

by Twalking | 2019-02-17 18:51 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 烏山川緑道(世田谷区)03-若林~合流地   

日時 2019.2.7(木)
天気 晴れ


世田谷の旧中心地から太子堂、三宿を通り目黒区へ、
三軒茶屋は大山道の追分で今も活気があります。
川筋は静かな住宅街、落ち着いたいい街並です。

太子堂界隈は古い道が残っていて風情があります。
「鎌倉通り」とあるので、調べて見ると中道の支道
のようです、本路と合わせて歩きいてみたい道です。
大橋から開渠となりますが、流れがある方がいいですね。



・・・若林

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1585年(天正13年)には世田谷城主・吉良氏朝が家臣の周防上野介に「若林分」を分け与えている。 江戸時代には荏原郡世田谷領若林村となり、正保・元禄の頃より千人同心・志村氏の知行となった。1672年(寛文12年)長州藩が小名西三谷18300坪の土地を買い取り抱屋敷とした。現在の若林4丁目一帯は藩主毛利氏の官位「大膳大夫」に因み大夫山、或いは長州山と俗称された。1863年(文久3年)吉田松陰が故塚原回向院から長州藩屋敷内に改葬され、1882年(明治15年)松陰神社が建立された。1888年(明治22年)町村制施行により若林一帯は世田谷村の大字となった。若林とは新田を意味する古い表現、または開発造成され植林された若い木の並んでいるところを指すと考えられているが、正確な由来は不詳である。(Wikipedia

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川の風景① 右に登ると国士舘大・区役所になります/勝橋

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いい道ですね~/中堰橋         右に行くと若林駅です/天神橋

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若林天満宮鳥居


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若林天満宮
北野神社・牛天神とも呼ばれ、祭神・菅原道真公を祀り学問にご利益があるといわれています。その歴史は古く応永8年(1401)に武蔵国深大寺の僧・花光坊長弁が連歌の法楽を興行したと記録が残っています。環七ができた時に境内の3分の1以上の土地が削られましたが、地元の人々を始め多くの人々に天神様として親しまれ毎年1月には初天神祭を盛大に執り行われます。(若林町会HP)

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街道の風景① 左が若林駅、川はビルの所を横断しています/環七・若林踏切

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若林踏切
当駅の三軒茶屋方至近距離にある踏切で東急側では「西太子堂5号踏切」と称する。環七通りを横切る唯一の踏切である。一般的な鉄道の踏切と違って遮断機はなく、信号機によって交通を制御している。かつては遮断機のある一般的な踏切であったがモータリゼーションによる環七通りの交通量増大に見合わなくなったために1966年(昭和41年)に現在の形式に変更された。(Wikipedia

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若林稲荷神社鳥居


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若林稲荷神社
祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)である。当神社の由緒によれば「当社ヲ福寿稲荷ト云、三反五畝ノ除地ハ明和64月地頭ヨリ寄附セリ、神体長サ五寸許、三衣ヲ着シ白狐二跨レリ、彩色ヲ施シ彫工イト巧ミナリ、祭礼921日、神楽ヲ奏セリ」とあり、なお神社の記録によれば『本社間口壱丈奥行弐間、但シ木造 拝殿間口三間奥行三間、但シ木造、境内坪数318坪、(104942)境内立木31本、内目通一尺以上五尺未満21本、目通五尺以上一丈未満10、什器一、幟一対、手洗鉢一個、鳥居一台、右之通り相違無之候也、明治17年』とある。すなわち明治17年ころは樹木鬱蒼とし大木に囲まれた神社であったが、昭和20年に戦災にあい、現在では銀杏その他10教本の樹木があるのみである。なお神社には「正一位福寿稲荷大明神」と記した縦1.5m、横0.6mほどの古い額があったが戦災で焼失してしまったという。祭礼は97日。(せたがや社寺と史跡)

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・・・太子堂

鉄道の駅は三軒茶屋駅、西太子堂駅が設置され、幹線道路は国道246号線、世田谷通り、茶沢通りが通る。三軒茶屋駅周辺と世田谷通り沿いに商業地が広がりその他は住宅地が多い。河川は東西に烏山川が流れるが暗渠化されて緑道となっている。地形的には一丁目は概ね平坦だが、二・四丁目と三・五丁目の中央を通る烏山川緑道に向かって急な坂も点在している。(Wikipedia


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川の風景② 正面にキャロットタワーが見えてきます/耕整橋

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太子堂八幡神社鳥居


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太子堂八幡神社祭神:誉田別命)
当社の鎮座年暦不詳なれど旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(1592-1596)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。

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太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ、古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった太子堂上本村121-122番地の辺を(5丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の号をとりて部落の村名とした。以上は古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。(境内掲示板)

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弁天社
弁天社は元々インドの音楽・芸能の神仏教とともに伝えられました。弾いている琵琶の形が水を掬う瓢(ひさご)に似ていることから水の神になり、厳島の神と同じとされました。また財宝の神ともされ七福神の一つに数えられます。当社の弁天様は烏山川に架かる弁天橋のたもとに水・農耕の守り神として祀られていましたが昭和27年に現在地に遷されました。(パンフレット)

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稲荷神社
稲荷神は元々稲・穀物・食物の神で、御神徳は衣・食・住を守り、更に商売繁盛・殖産興業など広くに及び社内や会社の守護神ともされます。当社では八幡神社のお食事を司る御食神として祀られております。狐は稲荷神の御使いとされています。(パンフレット)

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立地
幹まわり4mを超える大きなを中心に大小数百本の樹木に囲まれた杜に太子堂の町々をお守りする八幡神社が祀られています。烏山川の北方に位置するこの地は、関東ローム層の固い安定した地盤で、に向かって緩やかな斜面は神を祀る社殿を建てるのに最もふさわしい所で。西側には若林する鎌倉に通ずる古道(鎌倉道)に接し、昔は交通の要衝でした。(パンフレット)

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教学院境内 奥が本堂、右手が不動堂です

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教学院
教学院は竹園山教学院最勝寺という。慶長9年(1604)玄応大和尚の開基になり江戸城内紅葉山にあったが、後赤坂三分坂に移転した。更に寛永8年(1631)第5世法印岸能大和尚のとき青山南町4目に移ったが、延享年間と宝暦年問の2度の火災で古記録を失いその間の詳しいことは明らかではない。元禄年間までは麹町山王成琳寺の末寺であったが、貞享4年(1687)旧相州小田原の城主大久保加賀守菩提寺となって寺運隆盛となり、東叡山輪王寺の直末寺となった。後に大寺の格式となり比叡山延暦寺の末寺となった。明治41年、第17世権僧正寛葆大和尚の代に太子堂町の現在地に移転した。本堂に恵心僧都作の阿弥陀如来と聖徳太子の作といわれる聖観音像を安置している。

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別堂には不動明王像を安置してありこれが目青不動尊である。これは目黒不動、目白不動、目赤不動、目黄不動と共に江戸五色不動の一つとして有名である。この像はもと麻布の観行寺の本尊であったが、同寺が廃寺となったので明治15年青山南町4丁目にあった教学院に移され、青山のお閻魔さまといわれていた。この像の右脇侍は閻魔大王、左脇侍は奪衣婆が安置されているので、この不動堂は一名閻魔堂ともいわれる。なおこの像の作者は目黒不動尊と同一人といわれている。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景② 大山道の追分です、茶沢通りを左折して戻ります/三軒茶屋交差点

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三軒茶屋
三軒茶屋という地名は、江戸時代の中頃から大山道(矢倉沢往還)の本道(現世田谷通り)と近道(現玉川通り)の分岐点近くに田中屋設楽屋(しからぎ・後に石橋屋)、角屋という3軒の茶屋があったことが起こりといわれています。この茶屋はみな座敷に膳を整え、茶屋娘を置く立派な構えの料理茶屋でしたが、一方店の前に床几を並べ、葭簀(よしず)を立て道行く人々にお茶の接待もしていました。江戸時代は大山街道や多摩川行楽の人びとの休み処として栄え、回りには髪結床や煙草屋などもありました。明治以降シャボン屋、立ち飲みのできる酒屋、駄菓子屋、魚屋などいろいろな店が増え、明治40には玉川電車も開通して次第に盛り場としての体裁を整えてきました。(案内板)

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キャロットタワーCarrot Tower
世田谷区太子堂にある商業施設及びホール施設併設のオフイスビル。三軒茶屋駅周辺の再開発事業により1996年(平成8年)に完成した。東急世田谷線に直結、東急田園都市線三軒茶屋駅にも地下通路で接続されている。周囲に中低層の建物が多い中、レンガ調外壁の一際目立つ建築物で周辺のランドマークにもなっている。地上27階(124m)(Wikipedia


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茶沢通り
三件茶屋と下北沢、東北沢を結ぶ世田谷区道の通称。三軒屋と下北を結ぶ道路であることから茶沢と命名された。

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川の風景③ 茶沢通りに架かる大師橋から西へ向かいます

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合流点から1kmの標識         人工の流れが作られています

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世田谷百景5-太子堂下ノ谷界隈
茶沢通りの中程から入ったところに下ノ谷商店街があります。下町情緒の懐かしい雰囲気の店が並んでおり、第1・第3日曜日の朝9時から10時まで朝市で賑わいます。街と人びとが作り出す原風景とでもいったものが見られる一帯です。(案内板)


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歴史と文化の散歩道-松陰太子堂散歩
松陰太子堂散歩は淡島通りから烏山緑道に沿って太子堂を経て世田谷線の上町駅までの約4.6kmの道のりです。聖徳太子堂のある円泉寺、吉田松陰ゆかりの松陰神社、井伊家の菩提寺である豪徳寺、かつての世田谷の中心・世田谷城址などを巡ります。(案内板)

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円泉寺山門


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円泉寺
真言宗、聖王山、法明院と号し、開山は賢恵僧都で葛飾郡新堀村の生れである。円泉寺の建立由来書によると、文禄1年(1592賢恵僧都大和国久米寺から聖徳太子像十一面観世音を背負って関東へ下った。文禄4年当地に来て一泊した時、賢恵僧都が不思議な夢をみた。聖徳太子が告げていうには「この地に霊地あり円泉ケ丘といふ。こ霊泉湧き出づ、永くここに安住せん。汝も共に止まるべし」と。翌文禄512月本堂、聖徳太子堂、庫裡が完成、本堂には運慶の作といわれる長さ約1mの十一面観世音立像を安置して本尊とした。

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太子堂は境内の中央にあり、約2間半4方で長押に長谷の僧正動潮の筆になる「太子堂」の扁額がある。聖徳太子の像は約11寸で弘仁9年(818)春、天下に大疫病流行の時疾疫の消除と国民擁護のため、弘法大師がこの尊像を精魂こめて作られたものと伝えられ、難症難治の病をいやし給うた諸顧成就の尊像である。この堂が出来てから土地は繁栄し一つの村をなすようになり、太子堂の号をとって太子堂村というようになった。円泉寺には現在泉は湧き出ていないが、この辺りは太子堂町でも低い所で、円泉が丘すなわち今の国立小児病院一帯に樹林が繁茂していた昔は、霊泉の湧き出る清浄な所であったと思われる。

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また、境内には世田谷教育界の大恩人である宮野芟平先生の碑がある。明治3年に世田谷村、松沢村、玉川村、目黒村、碑衾村の有志が協力して「郷学所」を作り宮野先生を迎えた。この郷学所は今までの寺子屋と違い新時代に適した教材と、四民平等の新しい思想によって身分の上下を問わず教育した。明治443日、太子堂村380番地に立派な校舎を新設し、「太子堂郷学所」と命名し、明治62月東京府の指令で「幼童学所」と改称され、明治612月「太子堂幼童所」をそのまま新学制の小学校にし「第二中学区第四番小学荏原学校」となる。ここに世田谷区内で第1番目の小学校が生まれたわけで、宮野先生はその初代校長に任命され、以後引き続き校長として世田谷の教育に尽力し明治283月現職中に逝去した。先生の高徳を長く後世に残すために明治20年荏原小学校が火災にあい焼失したとき一時仮校舎であったこの円泉寺の境内に頒徳の碑が建てられた。(せたがや社寺と史跡より)

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せたがや百景6-太子堂圓泉寺とけやき並木
聖徳太子を祀った太子堂の由来から地名が生まれたという。明治4年、境内に「郷学所」が設けられ、世田谷の教育発祥の地となったところだ。ケヤキの大木の並木は、農村だったころ区内随所に見られた屋敷林の名残ともいえる。秋の境内は紅葉したケヤキやイチョウの落葉で黄色のカーペットが敷かれる。(せたがや百景)


・・・三宿

町全体が烏山川の削ったの斜面に位置し南側が三宿一丁目、北側が三宿二丁目、谷底部分が境となっている。この川は現在暗渠・緑道(遊歩道)化されており三軒茶屋や池尻大橋方面にいくことができる。川沿いのいわゆる境目付近に三宿神社が存在する。三宿神社のある小高い丘は多聞山と呼ばれ、過去には三宿城(多聞小学校敷地が本丸と比定されている。現在の住所は池尻)、多聞寺が存在したが、明治維新後の明治政府による廃仏毀釈の影響で多聞寺は緊急に神社化され、前述の三宿神社となった。故に現在も神社脇に旧寺の墓地が存在する珍しい状態となっている。(Wikipedia

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川の風景④ 小学生が描いた川の絵がレリーフで飾ってあります

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三宿神社鳥居


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三宿神社
祭神は倉稲魂命をまつった稲荷社であるが、毘沙門天(木像1尺位)も祀られているので一名毘沙門様とも称せられている。昔多聞寺(現在廃寺)の境内にあった毘沙門堂の本堂をうつしたものと伝えられ、現在の社殿は昭和42年の建築である。三宿の氏神で例祭は923日であるが、奉納される神楽のうちにたぬきはやしがあるが、これは養老の滝の物語の孝子がたぬきを助けたという伝説にちなんだものだといわれている。二の鳥居の傍に昭和31年土地の有志が建立した石碑がある。この石は旧江戸城に築かれていた城石だということで表の面に、過去五百年之進歩道灌不知 未来五百年之進歩我等不知 石又沈黙 江戸城築城之石 大田道灌築城五百年 武者小路実篤 とある。(せたがや社寺と史跡より)

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一帯は小高い丘、多聞城が置かれていたそうです・・・、南側の丘に矢倉沢往還(大山道)が通ります


・・・池尻

旧・荏原郡池尻村。吉良氏の部将である橋本天王丸の子・兵庫重寿17世紀前半に開発したとされている。1945年までは国道246号の南側(池尻1丁目と2丁目)のほとんどの区域を陸軍の練兵場が占めていた。そのためこの地域には陸上自衛隊の三宿駐屯地や池尻小学校・(旧)中学校、世田谷公園そして国家公務員官舎や都営アパートなど国や東京都の建物が集中して建築されている。北沢川と烏山川が合流し目黒川となる付近で沼沢地帯を為していた。池尻の「」とは「出口」という意味で池や沼や湖が川に落ちる部分のことを示している。「いけしり」や「いけのしり」という呼称もある。(Wikipedia

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川の風景⑤ 北沢川と合わせ、ここから目黒川(緑道)になります

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川の風景⑥ 目黒区に入り緑道の案内も「緑の散歩道」に変わります

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目黒川緑道の終点           246号を横断します/大橋

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川の風景⑦ ここからは開渠、やっぱり流れがあった方がいいですね!いずれまた・・・/大橋

大山街道(池尻大橋付近)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22555139/

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「ふれあいの水辺」案内板
(緑:烏山川緑道・北沢川緑道 橙:大山道 紫:滝坂道 緑:鎌倉道)

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太子堂周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:烏山川緑道 紺:北沢川 橙:大山道 紫:滝坂道)

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世田谷地形ジオラマ(部分)/世田谷区立郷土資料館
(青:北沢川・烏山川・蛇崩川 青角:合流点 橙:大山道 紫:滝坂道)

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烏山川(緑道)流域図
(紺角:源流域・北沢川合流点 赤:旧甲州街道・大山街道 紫:滝坂道)

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by Twalking | 2019-02-14 18:58 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 烏山川緑道(世田谷区)02-船橋~若林   

日時 2019.2.7(木)
天気 晴れ


千歳船橋から緑道を西へ向かいます。
昔、住んでいた近くなので懐かしいエリアで、
高校へ通う道筋に当たりまます。

当時はまだ川は流れてましたね~・・・。
川筋は緑道となっていますが、両岸は小高い丘、
地形を確認しなが歩くと、また違った風景に出会えます。


・・・船橋

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街道の風景① 駅南側の城山通りです、緑道は北側の低地を流れています/桜ヶ丘

桜ケ丘
旧・荏原郡世田ヶ谷村。隣接する世田谷区に置かれた桜小学校に関係がある。1922年(大正11年)桜小学校の分校として横根分教場が置かれる。昭和5年横根分教場は独立して、第二桜尋常小学校と改名。昭和16年さらに桜丘国民学校(現:桜丘小学校)に改名される。これに由来する。(Wikipedia

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稲荷森稲荷神社鳥居 商店街の一角にあります、知りませんでした/桜ヶ丘


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稲荷森稲荷神社
当神社の創立年代は詳らかでない。しかし当神社のすぐ側に湧水池があった。(昭和28年頂まで)もともと氏子でみる旧世田谷5丁目には品川用水を別として、川もなく田のないところであった。この点から考えてこの土地の人々が住みついたときこの水源は貴重なものであったにちがいない。この個所に社を造り神をまつるのは当然であったと考えられる。「新編武蔵風土記稿」巻之四十八には「荏原郡之十、世田谷領、稲荷社 除地八畝歩是モ横根ノ内ナリ」と記されている。現在の社殿は寛政年中(1789-1800)に造営されたもので「本殿床板の種子 維時寛政龍次己未霜月 奉新造正一位稲荷宮本社 武州荏原郡世田谷邑横根邨 工匠岡庭政右エ門、嶋田喜兵エ助工 清治郎 巳之助 金五郎」とある墨記によっても知られ、また棟札にも「嘉永三庚歳」建造した旨が記してあることからも知られる。その後も数度にわたり修繕されている。

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また境内の一隅に存する庚申碑には延宝の年号を見ることができる。これらより神社は相当さかのぼることと思われる。また境内はもとうっそうたる森をなしており、樹令三四百年をかぞえる杉の御神木もあり、黒駒街道に面し道中往来の人の崇敬を集め、特に雨を凌ぎ暖をとるのに絶好な神域であったと伝えられている。今なお当時往来の馬追い連中より寄進せちれた向い獅子を存している。また今日著明な世田谷ボロ市も当神社に起因するという。明治初年当時の変動により除地せられた八畝の社地も大半を失ない、また明治40年に合祀の議がおこったが氏子有志は結束して現状を維持したとしいう。祭神は稲倉魂神。静御前が輿州下向の折、一夜当社に参詣したとの口碑がある。(せたがや社寺と史跡)


・・・経堂

江戸時代は荏原郡経堂在家村と呼ばれていた。1932年(昭和7年)世田谷区が成立した際に経堂町となり、昭和42年の住居表示で現在の形となった。地名の由来はかつて御経を納める御堂(経蔵)があったためとされる。また、かつて存在した御堂が京都風の建造物であったために「京堂」と呼ばれ、それが転じて経堂になったともされる。(Wikipedia

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川の風景① 桜並木を西に向かいます、右手高台に天祖神社があります/経堂

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天祖神社鳥居/経堂


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天祖神社
当神社は江戸幕府が編纂した地誌新編武蔵風土記稿(1830)に「伊勢宮伊勢宮 除地一段 村ノ西ニアリ ワズカナル祠ナリ 当村ノ鎮守タリ 鎮座ノ年代ヲ知ラズ 村内福昌寺持」と記されています。(除地は年貢免除の土地。一段は一反。約992平米)「鎮座ノ年代ヲ知ラズ」となっていますが、土地の古老の間では永正4年(1507)と言い伝えられています。永正4年といえば北条早雲が小田原城主として後北条の基礎を築いた頃で、世田谷はその傘下にある源氏の名門吉良家領地でした。鎌倉幕府を開いた源頼朝は氏神である八幡神と同様伊勢神宮を篤く崇敬しており、関東の地にも御厨といって伊勢神宮へ納める米などの作物をつくる土地を寄進しました。このご縁でご祭神天照大御神を祀る天祖神社・神明社が祀られました。但し、当社がそのご縁によるものかは不明です。

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因に経堂在家村といわれていた江戸末期には村内に伊勢宮、天神社、四稲荷社の六社があったようです。当社は『新編武蔵国風土記稿』に「伊勢宮」と記されていますが官国幣社以外の神社(民社)では「宮」の称号の使用が禁じられましたので、天照大御神の「」と氏神様(先祖神)の「」を合わせて、明治7年(1874)村社「天祖神社」としたとのことです。社格制度は昭和21年(1946)神道指令により廃止されましたが当神社の入り口にある「社名標」には「村社」の文字が残っています。また鳥居と石灯籠には「明治419月合祀記念」の文字があります。(天祖神社HP)


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小田急線を越えます          小さな石仏があります/石仏公園

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川の風景② 懐かしい交差点、先が農大、後ろが経堂駅です/大橋(経堂商店街)


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農大通り                  ハートフルファミリー

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経堂大橋公園付近の写真 左:現在 右:昭和30年代

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烏山川(目黒川水系2級河川)
昔の烏山川の水源は現在の高源院(北烏山4丁目)の池に武蔵野の伏流水が湧出したものだと言われ、自然発生した川です。江戸時代に飲水や田畑の用水を求めて烏山村などの農民が幕府から許可を得て、玉川上水から烏山川へ分水して烏山用水として利用されました。大正期以降、人口が増え農地から宅地へ転用が進むにつれて農業用水の利用が減り、住宅などの生活排水が流れるようになりました。昭和40年代に排水路化された川に下水道幹線を埋めて排水を流しています。上流右岸は給田5丁目4番先、左岸は北烏山3丁目32番先(三鷹市と世田谷区の境界線)です。それより上流は水路です。下流は目黒川合流点です。(写真:昭和20年代以前/経堂大橋公園案内板)

滝坂道(経堂・船橋)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22902123/

・・・宮坂

世田谷区の中央部に位置し、北辺北沢川南側烏山川が流れ中央部丘状となっている。世田谷八幡宮の東側にある(都道427号)の名に由来する。現在は短い坂だが、坂の上部は世田谷線開通時に切り崩されている。旧・荏原郡世田ヶ谷村字宮ノ坂。地元では「みゃんざか」と発音されていたようであり、駅名は「宮の坂(みやのさか)」だが、1964年(昭和39年)の住居表示の際に「宮坂(みやさか)」とされた。(Wikipedia

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街道の風景② 地名の由来となった宮坂、坂上で滝坂道と交差します/宮の坂駅前

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世田谷百景/宮の坂駅前
世田谷百景は区民に世田谷の風景に関心を持ってもらうことを目的に、昭和59年に選ばれました。選定にあたっては好ましい風景として区民から推薦投票で選ばれた約400景の中から選定委員が200景の候補に絞り、区民投票を実施し票の多い順で100景が選ばれました。(案内板)

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世田谷八幡宮鳥居/宮坂


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世田谷八幡宮
祭神、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、天保7年(1836)に刊行された「江戸名所図会」には、絵図に世田谷八幡社と註され、文には宮坂八幡宮として『同じ寺(豪徳寺)より西の方の岡続きにありて、其の三町計を隔つ。鎌倉亀岡八幡宮の模にして、勧請年暦詳ならず、天文15吉良頼貞当社を建立すと云。或は義家朝臣勧請せられし御神にして吉良家再興とも云伝ふれども義家勧請と云事疑少からず。祭礼は815日にして、社司大場氏の奉祀たり。社内に存する嘘は頼貞親植るところと云伝ふ』

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すなわち、約880年前、奥州の清原武衝、家衡らの内乱(後三年の役)を平定した源義家が、戦勝を祝してこの地に勧請し東征の弓矢、旗を当社に納めて後の記念とした。さらに世田谷の地に城を築いた吉良氏が氏神として崇敬し、社殿を修復して術前雲次の大刀(23寸)の白鞘一振を、八幡大神の御佩刀として納めたともいい伝えられているが、これらの棍拠はうすいもので、かつて、この社に蔵してあった棟札に『当社八幡宮建立大檀那源朝臣頼貞。天文15年丙午820日釿立、1220日癸卯御遷宮』とあるので、約420年前に吉良7代の頼康卿によって造立されたものと考えられる。(頼貞というのは頼康の初の名で同一人である)。

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徳川家康が江戸城に入城したのち、天正19年(1591)当八幡社に社領として11石、田畑にして約394畝を寄進した。以来徳川代々の将軍は朱印地として社領11石を寄進するならわしとなった。維新後の明治5年に郷社宇佐神社となり、旧世田谷村の地および羽根木を氏子区域と定めたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので細社の社格も廃止され、また、宇佐神社の社名も朱印状などの文献によって元の社名「世田谷八幡宮」と復元、昭和395月鉄筋コンクリート建に改築し荘麗な社殿となった。なお文化10年(1813)の建築といわれる本殿はそのまま現在の本殿の中に納められている。また秋季大祭(915日)の奉納相撲が有名である。(せたがや社寺と史跡)

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世田谷百景30-奉納相撲の世田谷八幡宮
秋祭りの奉納相撲で有名な世田谷八幡宮は、吉良頼康が天文15年(1548)に造立したという記録があります。また将軍徳川家康より朱印地11石を与えられています。「五郎」という怪力力士が活躍する民話もあり、長きにわたる村人たちの奉納相撲の活況を物語っています。今でも相撲部の大学生たちが古い伝統を継いでいます。(百景案内板)
江戸郊外三大相撲:世田谷八幡宮 渋谷氷川神社(渋谷区)、大井鹿嶋神社(品川区)


・・・豪徳寺

「招き猫伝説」で知られる
豪徳寺がある。町域北部を横断する北沢川緑道や南辺の烏山川緑道は、それぞれ暗渠化した北沢川や烏山川の上部を緑道に造成したものである。川の名残として幾つかの橋の名前が残っている。町内部分の北沢川緑道では山下橋、新山下橋、松竹橋等、烏山川緑道では八幡橋、城向橋、青葉橋、品川橋等である。旧・荏原郡世田ヶ谷村1966年(昭和41年)の住居表示実施時に寺の名前から地名が付けられた。(Wikipedia


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川の風景③ 世田谷城に沿って蛇行して流れています、右へ行くと豪徳寺参道です

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豪徳寺山門
 

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招き猫の豪徳寺
世田谷城主
吉良政忠が文明12年(1480)に城内に建てたとされる小庵・弘徳院が豪徳寺の始まりです。江戸時代の初め徳川家康に仕えた井伊直孝が井伊家の菩提寺としました。招き猫伝説は直孝とこの寺の出合いを物語るものです。『直孝が遠乗りをしてこの辺りまで来ると急に雷雨になった。寂れた寺の目の前で猫が手招きしているので不思議に思って寺の門をくぐって中へ入ると、さっきまでいた所に雷が落ちた。猫のお蔭で助かった直孝はこの寺を菩提寺とした』という話になっています。豪徳寺の寺号は直孝の法名に因んでつけられたものです。桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓もここにあります。(世田谷八景案内板)

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世田谷城址公園から南の景観、眼下に烏山山川が流れ、前方の丘は元宿(世田谷区役所)になります

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世田谷百景22-世田谷城址公園
この公園を中心にして北は豪徳寺、西は宮の坂駅、東と北は烏山緑道近くの辺りまでが世田谷城のあったところといわれています。城主は吉良氏です。世田谷城は17世紀後期の談話文学「名残常盤記」の舞台でもあります。『吉良頼康の側室に常盤姫という美しい女性がおり、常盤は頼康にたいへん愛されていた。それを妬んだ者たちから不義密通の濡れ衣をきせられた。常盤は自害する前に辞世の句を白鷺の足につけ、父のいる奥沢城へ飛ばしたが白鷺は途中で射殺されてしまった。そして白鷺は白い花になった』という伝説です。奥沢城は九品仏浄真寺になっています。(世田谷百景案内板)

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・・・世田谷

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町の北辺の烏山緑道は暗渠化した烏山川の上部を緑道に造成したものである。川の名残として町内部分では八幡橋、城向橋、青葉橋、品川橋等の橋の名前が残っている。水準点(世田谷2丁目13番)の高さは東京湾平均海面上(海抜38.6993200611日現在)。縄文前期の集落跡を示す元宿遺跡が四丁目にある。縄文中期の包蔵地である浄光寺遺跡が一丁目にある。江戸時代、多くは彦根藩井伊家の所領であり、1633年(寛永10年)から1871年(明治4年)まで同家の代官職を継いできた大場家の屋敷が東京都史跡の世田谷代官屋敷として一丁目に残る。(Wikipedia)

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街道の風景③ 後方は矢倉沢往還(大山道)になります/世田谷区役所

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国士舘大学              前方が世田谷城址です

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勝国寺山門


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勝国寺
所在地が世田谷城裏鬼門に位置しており、鬼門除けのために薬師如来を安置して祀ったのが起りとされる。旧御朱印寺。玉川八十八ヶ所霊場48番札所。勝国寺はもと丸香山薬師院と称し、その後青龍山勝国寺と名を改めた。新義真言宗豊山派に属し、宝仙寺(中野区)の末寺で愛宕下真福寺の支配下の寺院であった。勝国寺は空襲などの被害を受けたために創建の時期や事情を伝える古文書類がほとんど残っていない。『新編武蔵風土記稿』巻之四十八荏原郡之十によれば「開山ハ詳ナラズ。(中略)相伝フ当寺ハ吉良義髙祈願所ナリト。按ニ吉良系図ヲ見ルニ、義髙トイフ人ヲノセズ。疑フベシ」と記述されていた。

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このような前掲書の記述や筆録時期不詳の『勝国寺過去帳』への書き入れ、寺伝、伝承の類のみの形で伝えられていて不明確である。『勝国寺過去帳』への書き入れによればその起源は少なくとも1554(天文23年)まではさかのぼり、吉良氏5代目当主政忠開基とされる。寺院の建立には3年の年月を要し、実働の人夫は延べ2360人という記録が残る。当時の本尊は薬師如来で吉良家代々の祈願所となった。

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勝国寺の所在地は世田谷城東北裏鬼門に当たる地であった。この地は世田ケ谷村元宿(現在の世田谷区役所付近)の一角で西と北が高い崖になっているため、世田谷城の防衛となる他の寺社より防衛しやすいという地の利があり、砦として防衛の拠点であったと推定される。勝国寺は小本寺として円光院、円乗院、密蔵院、善性寺、多門寺(廃寺)、泉竜寺の6寺院を持っていた。現在の狛江市にある泉竜寺を除く5寺院はいずれも現在の世田谷区内にあって、勝国寺とともにそれぞれ世田谷城を取り巻くとしての役割を果たしていたものと推定される。吉良氏の勢力が衰えたのち、1591年(天正19年)11月に徳川家康12石を寄進し、後に徳川家光も12石を寄進した。歴代将軍も前例に倣って同様に朱印状を与えている。Wikipedia

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川の風景④ いい風景ですね~、右手が区役所・国士舘のある台地です/稲荷下橋付近

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旧明正高校、今は国士舘大です/品川橋  国士舘の崖下を流れていました

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勝国寺より梅ヶ丘方面を望みます、滝坂道は前方の丘を通っています

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烏山川緑道案内図(経堂~若林)
(緑:烏山川・北沢川 橙:大山道 紫:滝山道 赤:玉電・小田急線)

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豪徳寺周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:烏山川 橙:大山道 紫:滝坂道 赤:玉電)

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by Twalking | 2019-02-11 11:22 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり古川(一之橋~五之橋)   

日時 2019.1.24(木)
天気 晴れ


麻布十番から古川を遡ってみました。
昔、母が暮らしていた所、どんな所かな~???
というのが動機です。

「四之橋の辺り、市電の停車場があり、映画館があった」
と聞いています。当時とは街はすっかり様変わりしていますが、
地図で見ると路地は当時と変わらず、この辺かな???と
思いながら散策・・・、楽しいひと時でした。


・・・麻布十番

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街道の風景① 明治通りの新一之橋交差点から古川橋へ向かいます/麻布十番駅

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麻布
麻布周辺には貝塚などが見られ縄文時代から人間が住んでいた。弥生時代には農業も行われていた。712年には竹千代稲荷(現在の十番稲荷)が創建、824年には空海により麻布山善福寺が開基、939年には氷川神社が源経基により勧請される(1659年に現在の位置に移転)。江戸時代初期までは農村や寺社の門前町であった。武家屋敷が建ち並ぶようになり江戸の人口増加・拡大につれ都市化し代官支配から町方支配にうつる。馬場が1729年に芝から麻布に移転、十番馬場と呼ばれた。馬場移転に伴い馬市が立ち麻布十番は栄える。1859年にアメリカ公使館が善福寺に置かれる。明治時代には古川が埋め立てられ鉄道馬車が通り工業化が進む。次第に台地の上は高級住宅街、低地には零細商工業といった分化がすすむ。大正時代には麻布十番を中心に花街や演芸場、映画館、デパートなどが造られ東京でも有数の盛り場となる。第二次世界大戦では空襲で大きな被害を受けるが、戦後に復興する。1994年(昭和24年)に麻布中版温泉が開湯する。(Wikipedia)

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川の風景①
交番裏に架かります、古川は一之橋から南へ大きく曲がります

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一之橋(赤羽川合流口)
三田1丁目から麻布4丁目に至る鋼橋。現在の橋は1983年(昭和58)に改修されました。1699年(元禄12)の麻布御殿造営に伴う古川改修により岡田将監屋敷の西側が召し上げられ新堀堀割となり、そこに当時橋名「一ノ橋」「二ノ橋」が架け渡されました。水運の発達により一之橋のたもとには亨保(17161736年)の頃より荷揚場が出来、新河岸と呼ばれそこを経由して後背地の住宅に炭や薪が運ばれました。橋の袂には六本木、元麻布、麻布十番方面からの水系を集めた赤羽川合流口が顔を出しています。(古川の今昔/港区)

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旧麻布日活館
一之橋公園(交番奥・現在工事中)の地は昔は河岸地でしたが路面電車が古川沿いに開通した前後の1910年(明治43)、福宝堂がここに活動写真館の「第三福宝館」を建て、1912年(大正元)に他の3社と合併して日活となるとその直営館になりました。関東大震災後に「麻布日活館」と改称し、1929年(昭和4)に廃業した麻布十番末廣座に移転しました。翌春までは「一之橋日活館」を名乗っていましたが、後の新東宝社長大蔵貢が買収し「一之橋館」と改称し、戦時中に演芸館となって1944年(昭和19)まで存続しました。全盛期は一之橋の日活と四之橋の松竹が麻布での覇を競いました。(古川の今昔/港区)

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川の風景② 右岸は三田丁目になります、町屋風の路地が残っています

小山橋

当初は私道であったが、昭和30年区道認定により区の管理となっている。昭和363月竣工 長さ 15.7m 幅 5.7m(車道4.0m、歩道1.0m)/港区の道路橋

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川の風景③ 二之橋から上流を望みます

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二之橋
仙台坂日向坂を結ぶ橋です。麻布側に飯野藩保科家の上屋敷がありました。そこに出入りしていた信州保科村の反物屋清右衛門は蕎麦を打つのが上手いことから、藩主の助言により蕎麦屋に転向しました。名前も布屋太兵衛と改め、藩邸に近い永坂で「永坂更科」を開店しました。「更科」とは長野県千曲市にある地名「更級」の「」と保科家の「」を合わせたものと言われています。白い蕎麦粉を使用した高級な「御膳蕎麦」が評判となり、増上寺の僧もよく食されたということです。(麻布地区の道路橋/港区HP)
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坂の風景① 坂上にはオーストラリア大使館、綱町三井倶楽部などがあります

日向坂(ひゅうがざか)

江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があった。振袖坂ともいった。由来は不明である。誤ってひなた坂とも呼んだ。(標柱)


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圓徳寺/三田
日蓮宗中山法華経寺末で常祐山と號する。寛永元年芝金杉裏四丁目に創建し、延寳7久保三田に移り、寳永3此地に轉じた。開山は日青、中興を日念といふ。(芝區誌)

三田周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22212946/



・・・南麻布

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南麻布
江戸時代、この地には仙台坂南部坂の由来にもなった陸奥仙台藩伊達家下屋敷陸奥盛岡藩南部家下屋敷などの武家地をはじめ天真寺、曹渓寺、光林寺、天現寺、麻布七仏薬師などの寺社地や門前、麻布本村町、麻布広尾町、三田古川町などの町屋、下渋谷村、麻布村などの村地となっていました。また元禄11年(1698)から宝永5年(1708)まで将軍家の別荘である白銀御殿(しろかね・布御殿・富士見御殿ともいう)が置かれています。明治に入り麻布区に所属。「住居表示に関する法律」の施行を受けて昭和41年(1966)麻布東町、麻布竹谷町、麻布本村町、麻布新堀町、麻布富士見町、麻布盛岡町、麻布広尾町、麻布新広尾町を合わせ麻布地域の南に位置することから町名を「南麻布」としました。(地名の歴史/港区HP)

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川の風景④ 三之橋から上流を望みます

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三之橋/三の橋通り           三之橋交差点/明治通り

三之橋
当初は木橋で松平肥後守下屋敷脇であったことから「肥後殿橋」ともいわれた。平成191月架替え 長さ 22.3m 幅 11.2m(車道7.0m、歩道1.5m両側)(麻布地区の道路橋/港区HP)

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街道の風景② 左が415号(麻布通り)前方が明治通り(起点)です。古川はここで大きく曲がり右手へ流れます/古川橋

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川の風景⑤ 右手明治通りに沿って現源寺方向へ流れます/古川橋

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古川橋
白金1丁目、南麻布2丁目、三田5丁目の古川(渋谷川)にかかる橋である。古川と渋谷川は同じ川であり、上流(渋谷区区間)渋谷川下流(港区区間)古川と呼ぶ。都道415号高輪麻布線の構造物である。先代の橋は昭和初期にかけられた長さ15.9m、幅16.3mの鋼橋であり、現在の橋は昭和431968)に改架された長さ17.6m、幅37mの鋼橋である。私設の橋を東京市に編入したのが始まりとなる。また、現在では古川橋といえば主に明治通りと都道415号の古川橋交差点をさす。この交差点は古川橋のたもとに位置し明治通り起点となっている。かつては数多くの都電457834系統)が走る主要な停留所・乗り換え地点として有名であり、現在でも都営バスの古川橋バス停がある。Wikipedia

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麻布新堀町
町は東流してきた古川屈曲する部分の左岸にあります。「御府内沿革図書」によると江戸時代初期から町域のほとんどが武家屋敷でした。明治5年(1872)武家地を合併して麻布新堀町となりました。町名は町のの二方が新堀川(古川)に沿うことに由来します。(麻布地域の旧町名由来/港区HP)
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川の風景⑥ 新古川橋から上流を望みます、こちらの大久保通りが旧道でしょうか?

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新古川橋(玉名川合流口)
白金1丁目から南麻布2丁目にかかる鋼橋。1935年(昭和10)に架設され、1989年(平成元)に架け替えられました。新古川橋の下で玉名川が古川に合流します。玉名川の流れは山内遠江守下屋敷にあった「玉名の池」より流れ出し、樹木谷から松秀寺の西境を過ぎて、三田老増町を巡って白金志田町、白金三光町の境を北に向かい新古川橋で合流しています。(古川の今昔/港区)

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新古川橋
かつてこの場所は高輪から樹木谷(地獄谷)を経て大久保通り麻布本村の谷上に向かう古い東海道の道筋に当っていたと思われる。しかしながら「新古川橋」として橋が架けられたのは、古川の橋の中では新しく昭和10年に架設されている(欄干碑文)

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圓澤寺山門

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龍興山圓澤寺
駒込大圓寺末、本尊延命地蔵尊。起立は寛文22月(文政書上正保二酉とす)開山は附山營傳和尚(寛文10312日寂)本尊の地蔵木像は弘法大師一刀三體の作と傳えている。儒者渡邊象山父子の墓がある。象山は信州飯田藩主堀大和守の祐筆、その養子渡邊木叟(名は楊蔵)も同じく飯田侯に仕へた。木叟は嘉永4年正月2167を以て卒した。(麻布區史)

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西福寺山門

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金生山西福寺(大谷派)
寛永7麻布本村に建立され寛文元年現地へ移った。當初は西本願寺末であつたが、万治39月大谷派に變り、開山の以傳(寛文672日寂)も海傳と改名した。『府内備考』に飯倉の圓應寺併合の事及び蔵する書畫佛蔵中に「武州豊島郡飯倉郷金曽木村圓應寺」と銘あるものあることが載せられている。寳暦94月江戸の名工西村和泉守藤原政時作るところの梵鐘がある。(麻布區史)

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街道の風景③ 信号の手前に明稱寺、左が四之橋、右手が薬園坂です/四之橋

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麻布本村町
古川の谷へ南面する台地から傾斜地にかかっており、古くから住居好適地に選ばれたことは貝塚の存在することでもわかります。阿佐布という地名は当初このあたりを指したものと推定され、本村とは元村すなわち麻布の中心の意味といわれています。(麻布地域の旧町名由来/港区HP)
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川の風景⑦ 四之橋から上流を望みます

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四之橋
広重の「名所江戸百景」に描かれている麻布高輪を結ぶ橋です。近くに土屋相模守の屋敷があったことから「相模橋」とも、また、麻布薬園があったので「薬園橋」とも呼ばれていました。浮世絵にある茶屋は「狐鰻」という鰻屋で、頭のとがった鰻を出すことで評判の店でした。また、四之橋の近くで尾張屋藤兵衛というものが汁粉屋を商っていましたが、時折、狐が化けて買いに来る「狐汁粉」として大いに繁盛したということです。(古川の今昔/港区)

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右岸は白金商店街です

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明稱寺山門

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宇田山明稱寺(みょうしょうじ・大谷派)
慶長14芝宇田川町に建立、開山釋行念(寛永元年927日寂)はもと甲州武田家浪人で高坂慶治良(弾正の孫)と云った。寛文3下窪町へ移り、後天和3現地へ轉じた。正徳26月田中丹波守作の梵鐘がある。寺傳の薬「涼驚圓」(小児丸とも云ふ)は昔時一粒三銭と云ふ高であつたが、非常に賣れたものである。(麻布區史)

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坂の風景② 四之橋から仙台坂上に登ります/イラン大使館前

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途中には釣堀坂があります       谷の底の薬楽園緑地


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坂上の奴坂              坂入口にある本村公園


奴坂
竹ヶ谷(たけがやつ)の小坂で谷小坂、薬王坂のなまりでやっこう坂、奴が付近に多く住んでいた坂の三説がある。(標柱)

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坂の風景③ 光林寺の手前から新坂を北へ上ると有栖川宮記念公園です


新坂

新しく開かれた坂の意味であるが、開かれたのは明治20年代と推定される。(標柱)

仙台坂&有栖川宮記念公園の記事はこちらへhttps://teione.exblog.jp/22181592/

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川の風景⑧ 五之橋から上流を望みます、今回はここまでです

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五之橋
昭和109月竣工 長さ 17.0m 6.6m(車道6.0m)(麻布地区の道路橋/港区HP)

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光林寺山門

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慈眼山光林寺 
本尊如意輪観音。妙心寺派中本寺格。延寶610市兵衛町に創建し元禄75今の所へ移った。永く舊地を光林谷と呼んでいた。開山は盤珪永琢和尚である。和尚は播磨綱干の人、同國龍門寺の開山。諸侯の歸依を集めた高僧で元禄693日齢79(一に72)を以て龍門寺に寂した。元禄32月特に詔に依って佛智弘済禅師の號を賜はり、後元文512月勅諡大法正眼國師を下賜された。當寺の本尊は此の開山が作るところと傳へられている。開基は丸亀藩主・京極備中守高豊で、特に刑部少輔高和の奥方養性院殿寶山壽心大姉(藤堂大學頭女、元禄223日卒)は最も熱心な歸依者であつた。寶永65月奥田出羽掾作の鐘には「武州豊島郡麻布邑慈眼山光輪禅寺」云々と銘が鐫りつけてある。(麻布區史)

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史蹟・ヒュースケンの墓
アメリカ総領事ハリス通訳兼書記官として18567月に下田に到着した。オランダ人ヒュースケンはその後、1859年江戸麻布善福寺にアメリカ仮公使館が設けられるに及び江戸に入り、ハリスの片腕となって困難な日米間の折衝に活躍し日米修好通商条約を調印にいたらしめ、また日本と諸外国との条約締結にも尽力した人物である。186012月、ヒュースケンは日本とプロシアとの修好条約の協議斡旋のため、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、5日午後9時頃宿舎への帰路、中ノ橋付近で一団の浪士に襲われ刀で腹部等を深く切られた。その後宿所に運ばれプロシア使節団の医師らによる処置が行われたが、6日未明に死亡した。遺体は江戸府外であった光林寺に葬られた。(港区教育委員会)

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古川橋周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)


・・・・
資料ファイル

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麻布の名所今昔-坂と旧跡ほか(部分)/港区麻布支所

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港区等高線マップ(部分)/港区郷土歴史館
(青:古川 橙:旧東海道 紫:中原街道)

古川
古川は江戸時代から現代までの生活史・産業史に大きなかかわりをもっています。〈江戸時代〉1653(承応2)に玉川上水が完成し、その余水は現在の新宿御苑内で池を作り、さらに流下して古川源流になっています。明暦の大火1657年)後の都市改造として拡幅工事が計画され、翌年に麻布十番にいたる船入り計画が立てられ、1675(延宝3)に河口芝・金杉より麻布十番にいたる拡幅工事が行われています。舟が行き来し、両岸には数多くの船着場がつくられ水運が活発になりました。古川は古川橋あたりまではへ流れ、急に北上し、一之橋あたりでまた急に東へ流れを変えています。これは麻布十番に堀留ができたこと、元禄時代に麻布御殿造営に伴い古川が整備されたことが大きな理由です。今は幻となっている入間(いりあい)は古川の三之橋あたりで分岐して東へ進み、芝で海に注いでいたといわれています。(諸説ありますが・・・)(古川の今昔/港区)


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「名所江戸百景-広尾ふる川」/歌川広重
四之橋を中央にしたのどかな風景、廣尾はかって水車などもあり古川が流れる静かな田園風景でした。戦災以前(1945年ごろ)までそのまま自然が豊か地域でした。本図は現在ならば、渋谷区広尾と接する天現寺あたりから明治通り渋谷方面を見た構図で160年ほど前の風景が描かれています。歌川広重の名所江戸百景の「廣尾ふる川」に描かれているのはこの四之橋。(古川の今昔/港区)




by Twalking | 2019-02-01 17:08 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 烏山川緑道(世田谷区)01-源流域~船橋   

日時 2019.1.16(水)
天気 晴れ


烏山川は高校の校庭脇を流れていましたし、
通学路なので橋も渡っていました。
現在は緑道となっていて流れはありません。

高源院の鴨池が源流の一つなので、ついでに
どんな感じな・・・と流路を辿ってみました。
史跡や古刹もあるので楽しめそうですよ~。


・・・北烏山(源流域)

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川の風景① この鴨池が烏山川の源流域一つです、ここから南へ下ります/高源院

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烏山寺町
この地は水利に恵まれ地下水に富み、地元の人の話では井戸水を柄杓で汲めるほどであったという。烏山の地は海抜約45台地で、北から東南部にかけては烏山川(高源院の鴨池を水源とする)と烏山用水(玉川上水の分流)が流れ、西北部から南東には戸越用水(品川用水)が流れていた。西には水無川という川もあり、これらの川付近の低地は水田となっていた。高源院の鴨池はもともと「亀の子出井」(かめのこでい)と呼ばれていた湧水で年中水が涸れず水位は井の頭池と同じであるといわれる。Wikipedia

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川の風景②「昔はどぶ川が流れてました」と地元の方、これが川筋のようです

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フェンスで行けませんが鴨池方向です  寺町の裏側を流れていたようです

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川の風景③ 烏山団地の中を南へ進みます/松葉通り

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中央道を越えます           橋跡があるようですが???/甲州街道

烏山寺町の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27405293/


・・・旧甲州街道

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川の風景④ 下谷の前後に流路跡がありますが「大橋場跡」に橋があったようです/下宿バス停(旧甲州街道)

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手前の流路              大橋場跡の流路 

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大橋場跡 親柱に「武州千歳村大橋場跡」とあり、脇には「下山地蔵尊」が建っています

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フェンス先              京王線で行き止まり


・・・南烏山

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烏山川
世田谷区北烏山付近に源を発し南東へ流れ、同区三宿付近北沢川と合流して目黒川となる。流路延長は11.70km。世田谷区北烏山にある高源院弁財天堂の池が源流の1つ。1970年以降、ほぼ全面的に暗渠化されほとんどが下水道(烏山幹線)へ転用された。近年は暗渠部の緑道化が進められ「烏山川緑道」と呼ばれている。八幡山3丁目・都営八幡山アパート付近には環八通りに沿って廃用になった開渠が遺る。水は流れていない。Wikipedia)(南烏山付近マップ 緑:烏山川緑道 橙:旧甲州街道 紫:滝坂道)
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烏山念仏堂 京王線を渡った烏山川の右岸に念仏堂、烏山神社があります/南烏山

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武州烏山村念仏堂・薬師堂略縁起
念仏堂・薬師堂の歴史は古く室町時代(足利幕府のころ)世田谷領主・吉良氏に、徳川時代には江戸幕府に関わりを持ちつつ明治の新しい時代を迎え、明治5年(1872)学制発布されると翌6烏山小学校の前身「温知学舎」がこの地に誕生しました。室町時代、旧烏山村はじめ世田谷全域、深大寺を含む調布市、三鷹市南部、狛江市、多摩川の向こうの川崎市など広い地域を納めていたのが、足利将軍家の一族世田谷(東条)吉良氏です。初代・吉良治家は世田谷豪徳寺つづきの東南の舌状台地に居城(世田谷城)を構え世田谷郷を領有したのが、永和年(1376)の頃と文献に見えます。その後、4代領主・吉良右京大夫頼高菩提寺として、また世田谷城北西の備えとして烏山村の南端に「栴澤寺」(せんたくじ)を開創しました。六代成高(しげたか)の頃です。この地域は世田谷城から約3km余、台地続きで往来に便利でした。

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栴澤寺(泉沢寺)は浄土宗・頼高法名(戒名)は泉沢寺殿船運光大禅定門です。時に延徳3年(1491)。実は4代頼高、5代政忠父子は永享の乱に関わり、室町幕府より世田谷領は没収され父子は厳重蟄居を命ぜられなど不運の領主でした。6成高の代に至り再び世田谷領は吉良氏に与えられるというプロセスがあります。泉沢寺は七堂伽藍を整え、吉良氏創立寺院中最高の格式を誇ったと伝えています。寺域は烏山神社から南側一帯で、寺領として旧甲州街道の南側全域、粕谷・廻沢にまで及んでいました。泉沢寺の開山と同時に寺領は烏山村から独立して荏原郡泉沢寺村に行政替えとなり江戸初期まで続きました。寺の運営にあたり烏山近郷領民のすべてが領主の命により泉沢寺の信仰集団(未だ檀家制度なし)に組み込まれ、厳しい奉仕活動を余儀なくされたため村から逃げ出す領民もいました。然し、開山から約60年を経た天文1815492月、第5世心誉住職の代に失火のため全山悉く灰燼に帰したことは誠に悔しい限りです。かくて5世心誉上人は泉沢村に土着されたと古老は伝えています。

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時の領主7吉良頼康は烏山村に再建することなく川崎市中原区上田中の現在地に移転し、現存する名刹です。泉沢寺は江戸時代を通じ20石の朱印寺です。泉沢寺移転の後、荒野となった地域には泉沢寺の守護神・白山社の祠と古い時代から存在した薬師堂が隆盛を極めた寺の盛衰を達観してきました。近郷村民はこのお薬師さんに無病息災、健康長寿を祈願してまいりました。ご本尊の薬師瑠璃光如来立像は室町時代後期の作と伝え貴重な仏像で霊験あらたかでありがたいお薬師さんと多くのみなさんから大層崇敬されております。徳川時代後期に刊行された新編武蔵風土記稿に「薬師堂・除地56歩、甲州街道より南、小名泉沢寺にあり、堂4間に4間半、本尊薬師は木仏にて長さ15寸、もとよりわずかなる堂なれば、いつの頃の草創なりと伝うことも伝えず」と記され、現存の薬師如来立像がそれであります。(念仏堂・薬師堂世話人一同 本寺・西向薬師医王院)

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釈迦涅槃石像(釈迦如来入滅の姿)
この石造は江戸時代中期から後期のものと伝え、東京都内で唯一体という貴重な文化財であります。お顔は童顔で柔和、拝者に光と希望をお与えくださる有難い御仏です。この尊像には建立寄進者名が刻字され昭和初期に判読できたと伝えています。また、泉沢寺跡付近から永徳元年(1381)明徳年間、他の板碑も出土しております。(念仏堂・薬師堂世話人一同 本寺・西向薬師医王院)

泉沢寺(川崎市中原区上田中の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22251172/

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烏山神社鳥居

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烏山神社
祭神は白山比咩大神・御嶽大神・天照皇大神・倉稲魂命・菅原道真公、創立および古代の縁由については不詳でみるが、元文元丙辰年9(1736)吉祥日と記載された手水鉢あり、これより以前であることは推察できよう。それ以後については社史によると天保3年大嵐により社殿大破したため改築、明治6年には村社に列せられて大正7年現今の社殿が新築された。さらに昭和7年には社号白山神社白山御獄神社と改称することになり、昭社29年には宗教法人法による登記を完了した。次いで昭和37年には町内天神社・神明社・稲荷社を合併して烏山神社と改称し39年に神楽殿を改め新築して今日に至っている。

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この神社は古くから村の鎮守として、旧千歳村の中では最大の氏子数をもち村の崇敬を集めていた。今日でも祭儀として例大祭が924日、春祭224日、秋祭1124日、月次祭毎月15日、元旦祭11日、初午祭2月初午日、神明祭311日、天神祭4月25日とにぎやかに行なわれている。「新編武蔵国風土記稿」によると「除地三段ニ畝ニ歩、小名泉沢寺ノ並ニアリ。村ノ鎮守ナリ。本社六尺四方。南向。拝殿ニ間ニ三間。神体白幣ヲ建ツ。社ノ廻リニ松杉ノ類村立リ。鎮座ノ初ヲ詳ニセズ。上高井戸村医王寺ノ持とある。なお合記された三社についてであるが、天神社は祭神は菅原道真公で烏山町713番地にあったものであり、神明社は祭神は天照皇大神で鳥山町913番地にあったものである。稲荷社については鳥山町にあった2社(いずれも祭神は倉稲魂命)のうち杉田一族の稲荷の方が合記された。他に志村稲荷といって志村一族によって祭られていた穏蒋は現在鳥山持社の境内におかれている。(せたがや社寺と史跡)

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高橋番神堂撤去記念碑
高橋一族は戦国時代に伊豆雲見城より当地に移り住み、一族の守護神として三十番神様を南烏山二丁目274番地に勧請す。爾来星霜を重ねる事四百年今度の都市計画整理地に当り昭和60417日に諸神それぞれの御本宮に御帰りを願う祭を修して後、御堂を撤去し当烏山神社境内に記念の調を記す。昭和607月吉日建立(碑文)

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高橋氏高
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏家臣。永正6年(1509)伊豆国雲見上ノ山城にて誕生する。・天文31534)扇谷上杉家臣の難波田善銀(なんばだ)が守る武蔵国多東群深大寺城を攻略した。その後、兄の綱高と共に深大寺城奪回に押し寄せた難波田善銀率いる扇谷上杉軍と対峙した。この時に武蔵野烏山を築く。その間に北条氏綱が河越城へ進軍したため、難波田勢が撤退を始めるとそれを追撃。多くの敵兵を討ち取り大勝した。・天正181590年)の小田原征伐では、氏直の命により吉良氏の兵600人を率いて伊豆国下田城に検使役・援軍として籠城する。3月に小田原城が落城したため氏直に従い随行者として高野山に入山。氏直の死後、帰郷し武州烏山に住した。Wikipedia抜粋)

深大寺城の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23058175/

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川の風景⑤ 千歳通りを越えると緑道が付いています、左が世田谷文学館、右後方が烏山神社です/南烏山

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世田谷文学館
世田谷区南烏山にある博物館施設である。1995年に東京23区初の近代総合文学館として開館した。運営は公益財団法人せたがや文化財団。環八通りと蘆花恒春園の近くに位置し、ウテナ創設者久保政吉旧邸宅に隣接して建てられた。(Wikipedia

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芦花翠風邸
お隣は久保雅吉の旧邸でしたが、現在は高級老人ホームになっています。






蘆花恒春園の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22896127/


・・・八幡山

中世には
鍛冶山と呼ばれた。1553年(天文22年)吉良頼康から大平静九郎に「かち山」が与えられた文書が残る。江戸時代には当初は天領だったが、1633年(寛永10年)に彦根藩井伊氏領となった。村南部は藩の御林となり薪炭が採取された。八幡山遺跡からは江戸時代初期の炭焼窯跡が発掘されている。慶安年間、船橋村より移住した島田五兵衛が当地を開拓し八幡山村が成立した。1889年(明治22年)北多摩郡千歳村の大字となる。村内にあった八幡神社が由来といわれるが定かではない。一般的には一丁目の八幡神社が由来の神社とされている。(Wikipedia

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川の風景⑥ 環八に沿って左側に緑道が続きます/八幡山

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横断歩道手前に案内板         環八沿いの旧流路跡

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川の風景⑦緑道を進むと八幡山遺跡の案内板があります

d0183387_15051767.jpg八幡山遺跡
豊かな水と緑に恵まれた世田谷区は関東平野南西部に拡がっている武蔵野台地の南東部に位置し、埋蔵文化財(遺跡)の宝庫でもありその数は東京23区内でも最も多い28ヶ所以上にも及んでいます。その中でも武蔵野台地の内部を流れる小河川沿いにも先土器時代や縄文時代を中心とした遺跡が多数発掘されたいます。八幡山遺跡も小河川の一つである烏山川(北烏山4丁目にある高源院から武蔵野面を刻んで東南に流れている)の左岸の台地に位置し、縄文時代中期の集落や江戸時代の炭焼窯等が調査されました。この調査で遺構(住居跡・小竪穴・土杭・ピット)や遺物(土器・石器・土製品)等が発掘されました。(碑文)

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滝坂道で通った所です         この先希望丘公園を左折します

滝坂道(八幡山)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22902123/


・・・船橋

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船橋は世田谷区中西部に位置し砧地域に属する。東で経堂、南で桜丘、環八通りを境に西で祖師谷、北で粕谷、桜上水、八幡山、上北沢と隣接する。小田急線千歳船橋駅北側、環八通りの東側にあり、同駅周辺や道沿いには商店が見られる。南北に細長い形をしており南端の一丁目から北端の七丁目まで数字順に並ぶ。船橋の地名は文字通りかつてこの辺りは湿地帯で「船橋」をかけて交通の便を図ったことに由来する。
Wikipedia

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川の風景⑧ 希望丘公園の先まちかど図書館から緑道が続いています/希望丘通り先

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梶山橋/まちかど図書館前        本村橋を潜ります

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希望丘小の横を通ります        荒玉水道道路を横断

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川の風景⑨この先緑道は続きますが、観音堂を経由して千歳船橋駅に向かいます/千歳が丘高下

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船橋観音堂

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船橋観音堂
当観音堂の由緒を常徳院開山伝承、世田谷城名残常盤記、等文献に依て顧みるに、480有余年前延徳・明応の頃、船橋草奔の地穴山と呼ぶ所に世田谷領主・吉良氏家臣内海鈴木等の菩提所・浄徳庵と云う小庵あり。此庵嘗て足利義尚公武蔵国に下向の折ゆかりある故を以て明応年代、領主・吉良成高公世田谷城の守護となさんと多摩郡二俣尾海禅寺より益芝正謙和尚を迎え、寺名を常徳院と改め吉良家一寺に取立開山し、居城側近宮之坂に移動し給う。茲に於て吉良氏仏堂を船橋に存置し、旧浄徳庵檀徒領民等宣撫の要あり故に浄徳庵旧跡南方至近の地をとし一宇を建立して聖観世音菩薩を祀る。是れ当観音堂の創始と云う。本尊安置の御堂造り厨子扉に吉良家恩賜の菊桐の定紋あるは此の由縁を思惟す。自来戦乱の幾星霜を経て江戸時代宝暦113月及び聖代昭和1112月両度本堂再建の儀あり。而して方今本堂破損甚しく今年6月補修を施し宝性寺上田龍憲和尚を導師として本尊供養を厳修す。(説明板)

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船橋橋観音堂厨子
船橋観音堂の創建について伝承では15世紀後半に吉良成高が船橋にあった浄徳庵を宮坂へ移し常徳院とした代わりとして、観音堂を現在地に創ったといわれています。堂内に納められている厨子の扉に十六葉菊と五三の桐の家紋をかたどった飾りが付けられていることからも、船橋観音堂と世田谷吉良家、常徳院の関係が古くから指摘されています。この厨子の建立年代を知る資料は現在のところ発見されていませんが、各部の彫刻絵様から判断すると江戸時代中期の建立と推定されます。地域の歴史や文化を知るうえで貴重な建造物です。世田谷区登録有形文化財(建造物)非公開(世田谷区HP)

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烏山川緑道周辺地図明治39年(今昔マップ/埼玉大学教養学部・谷謙二氏を参照)
(青:烏山川・北沢川・玉川上水 橙:旧甲州街道 紫:滝山道 緑:鎌倉道



・・・資料ファイル

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ふなばし歴史散歩案内板(緑:烏山川緑道橙:鎌倉道赤角:千歳船橋駅赤丸:船橋観音堂・千歳が丘高校)

遺跡関係(赤丸)①船橋本村北遺跡 ②千歳遺跡 ③本村南部遺跡
湧水関係(青丸
⑦~⑬)
昭和20年代初期(1945~)船橋には少なくとも7つの湧水があり烏山川(谷戸川)へ流れていた。弁天橋の祠に祀らていた弁天さまが近くの民家の庭先の祠に今も祀られている。弁天橋そばには弁天滝と呼ばれる湧水をたたえた池があり、ザリガニやフナ等子供たちの遊び相手が棲んでいた。

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船橋観音堂前             千歳船橋駅への道

鎌倉道(茶丸④:橙)
今も世田谷に名を残す鎌倉道は、鎌倉から下総奥州へ通ずる鎌倉時代の主要な道であった。現在の千歳船橋駅東側から船橋観音堂横を通り希望丘小学校方面へと続く道が鎌倉道の一部であったという記録が残っている。地図上の鎌倉道の道路は文献史料を基に現在の道に読み変えて示している。

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高校の松と高射砲陣地(⑥)
第二次世界大戦中千歳船橋高校グランドから穴山にかけての一帯は旧陸軍が使用していた。校庭内の松が残る台地と穴山の高台には高射砲陣地があったという。(案内板より)

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千歳船橋駅周辺地図明治39年(今昔マップ/埼玉大学教養学部・谷謙二氏を参照)


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船橋
船橋という名の由来についてはいくつかの説があります。その一つは昔多摩川の蛇行する川岸に集落があって、多摩川を住民が渡るために船橋を架けたことから名がついたと言われるものです。この船橋というのは船や材木など水に浮くものを水面に並べてつなぎその上に板を渡した浮き橋のこと、または両岸から綱を張ってその綱を伝わって動かす(いかだ)のことでした。また別の考え方ではずっと昔には烏山川を含む周辺一帯に幅200m、長さ1800mくらいの大きな池があったのではないかとされ、そこに船橋が架けられていたと見る説です。そしてその橋の位置は今の希望丘橋のあたりで、この船橋を通る道は古い鎌倉街道の一つだったであろうといわれています。この幻の船橋の池と考えられるところはかつての水田地帯だった場所で、長い間に池は徐々に湿地帯となって水田に利用されたのではないかといわれています。またもう一節は佐野景綱という豪族の子の船橋春綱という人が下野の国に住んでいて、その子孫にあたる船橋吉綱の一族が移り住んだので船橋と呼ぶようになったというのですが、それ以上のことは何もわかってはいません。(地名由来/世田谷区HP)(写真:千歳船橋駅前商店街)

by Twalking | 2019-01-25 13:39 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川の風景   

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乞田川/上之根橋(多摩市豊ヶ丘)
「耳をすませば」にでてくる愛宕給水塔、
好きな風景のひとつです。

by Twalking | 2018-02-15 13:02 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 玉川上水リバーサイド(中流域-02)三鷹~下高井戸   

日時 2017.12.2
天気 晴れ

東京Wで井の頭公園まできましたので
帰りがてら桜上水辺りまで歩いてみました。

井の頭公園は、三鷹に住んでいた頃は散歩道、
世田谷に戻ってからは子供と一緒にサイクリング
思い出の一杯詰まった懐かしい緑道です。

久し振りに歩きましたが紅葉もまだ盛りでしたし、
玉川上水の跡も見応え十分、面白かったです。
ついでに高井戸宿もちょっと寄ってみました。


・・・下連雀
/三鷹市


三鷹市の北部に位置する。北部は武蔵野市御殿山、同市中町、西部は上連雀、南部は野崎、新川、東部は牟礼にそれぞれ接する。武蔵野台地にあり玉川上水の流れに接している。名は1657年(明暦3年)1月の明暦の大火による神田連雀町(現在の千代田区神田須田町・神田淡路町付近)の被災者の移住地として1658年(万治元年)に神田連雀新田として開墾されたことに由来する。「連雀」とは小板を使った背負子(しょいこ)のことで、江戸神田のその職人仲間が住んでいた町を連雀町と呼んでいたことが連雀の名の由来とする説もある。1700年前後に新田開発の進捗とともに、連雀新田が連雀村と称され、京都(朝廷)に近い方を「上」と称し、江戸方に近い方を「下」と称す慣習により上連雀村に対して下連雀村となった
。(Wikipedia

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上水はJRの下を潜って井の頭公園へ続きます/三鷹橋(風の散歩道/三鷹駅)

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国指定史跡玉川上水/三鷹橋
江戸・東京の水道に果たした役割玉川上水は羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応31654)年に完成しました。これにより多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給されることになり江戸が大きく発展することが出来ました。その後、明治31年(1898)年に完成した淀橋浄水場(今の新宿区)への水路として昭和401965)年に同浄水場が廃止されるまで利用されていました。現在も羽村取水口から小平監視所までは現役の水道用の水路として都民の生活を支えています。

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貴重な土木施設・遺構としての歴史的価値
玉川上水は約43kmの区間を焼く92cmの標高差(100mでわずか約21cmの高低差)を利用して水を流すように設計された長大な土木設計・遺構です。特に小平監視所から浅間橋までの中流部には開削当時の素掘りの水路・法面が多く残され、往時の姿を今日に伝えています。玉川上水は近世の水利技術を知る上で重要な土木施設・遺構であることから平成152003)年、開渠区間約30kmが国の史跡に指定されました。(説明板)


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風の散歩道
玉川上水沿いの道(都市計画道路3413号線、三鷹駅万助橋区間)は、以前は幅員が5m程度しかなく快適な道路空間とは程遠いものでした。市では市民のみなさんと話し合いを続けご協力をいただきながら用地の取得を進めて平成6年度に築造工事に着手しました。約8年をかけて今回完成した道路は幅員が10mに広がり玉川上水沿いに1.5mの散歩道を、住宅側には3.5mの歩道を設けています。整備にあたっては江戸時代の貴重な歴史的遺構である玉川上水に配慮し、全体として落ち着きのある高品質の道路づくりをめざしました。歩道は天然の御影石を使ったブロック舗装、照明灯や車止めは色調をこげ茶色に統一し、桜や若葉の季節には玉川上水の樹木をライトアップする装置も設けています。道沿いには歴史的、文化的に貴重な文化財や施設も数多くあります。三鷹のシンボルともいえるこの道の完成を記念し「愛称名」を公募しました。愛称名募集には文化財や玉川上水にちなんだものや山本有三や太宰治などゆかりの文学者をイメージしたもの、三鷹の森ジブリ美術館(三鷹市立アニメーション美術館)に関連したものなど614通、総数1002件もの作品が集まりました。応募者のみなさんの説明文に散歩道としての素晴らしさを綴ったものが多く、この道にふさわしい新しい感覚を持つ呼びやすい名であることから「風の散歩道」が選ばれました。(三鷹市)

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太宰修碑
『四月なかばひるごろの事である。頭を挙げてみると、玉川上水は深くゆるゆると流れて両岸の桜はもう葉桜になっていて、真青に茂り合い青い枝葉が両側から覆いかぶさり青葉のトンネルのようである。・・・』(太宰治「乞食学生」より)


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むらさき橋
この橋は三鷹市と武蔵野市を結ぶ都市計画街路の一部として両市により昭和3011月に建設されました。現在の橋は平成103月に旧橋の老朽化に伴い架け替えられたものです。橋名は旧橋完成の際両市民の公募により応募総数594通の中から選定されました。橋名のいわれは「古今和歌集」より『紫の ひともとゆへに 武蔵野の 草はみなから あはれとぞ見る』(巻第17 雑歌より よみ人しらず)とあるように、昔はこのあたり一面に咲きほこっていた紫草で染め上げた「むらさき染め」にちなんで命名されたものです。(三鷹市・武蔵野市)

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中を見学したかったですが「長期休館中」でした/山本雄三記念館

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建物
大正末期に建てられた洋風の住宅で、当時流行していたフランスの建築家・フランク・ロイド・ライトに影響された意匠が取り入れられ、様々な建築様式が融合している。個性的な意匠を施された3つの暖炉や、自然風に大谷石が積み上げられた煙突が見所である。希少な建築物として1994年(平成6年)に三鷹市有形文化財に指定された。建物の南側には有三記念公園があり四季折々の緑と花を見る事ができる。
Wikipedia


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名作を記念する『路傍の石』
小説「路傍の石」執筆当時の昭和12年、有三は中野旧陸軍電信隊付近の道端でこの大きな石を見つけ、この家の裏庭に運び込んだと伝えられています。この石は作品の名に因みいつしか「路傍の石」と呼ばれ親しまれるようになり、その後東京都に寄付された山本邸から昭和33年有三青少年文庫として開設された時に現在の位置に移されました。山本有三記念館の開館にあたり、有三の名作「路傍の石」を記念するものとしてこの石の由来を記します。(三鷹市)


・・・井の頭
(いのかしら)/三鷹市

三鷹市の北部に位置する。「井の頭公園」の名で知られる井の頭恩賜公園が地域内にあり地域の多くは閑静な住宅街からなる。歴史的には井の頭の池を中心に古くから集落の形成が見られ、江戸時代は鷹狩場もあった。1965年(昭和40年)にそれまでの牟礼から独立し井の頭として住居表示を実施。井の頭の名は德川家光が鷹狩りに訪れ、湧水がほとばしるように出ているのを見て「井の頭」と命名したとされている。神田川源泉であり江戸市民の行楽地として親しまれてきた井の頭池の歴史にちなんでいる。Wikipedia


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玉川上水の風景① 井の頭公園の森の中を流れます、紅葉が見事です/万助橋


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萬助橋/吉祥寺通り
玉川上水に架かる橋のひとつ、三鷹市下連雀1丁目・2丁目と武蔵野市御殿山1丁目の境に架かっている橋で、吉祥寺通り(都道114号武蔵野狛江線)を通す。橋長は16.5m、幅員は16.8m。橋名はその創架した人物の名前に由来する。安政年間に下連雀村地主であった渡邉萬助が、近く大盛寺境内の杉の木をふたつに割って架けたものだったという。また明治時代に編纂された「下連雀村皇国地誌書上」には、当時の橋が長さ23尺、幅9尺の木橋であったとの記述がみられる。ちなみに「萬助」とは渡邉家の世襲名で8代目の渡邉萬助は第2代三鷹市長を務めた。現在の大きさの橋に改架されたのは19633月。その橋も老朽化のため、19948月に架け替えられている。Wikipedia

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井の頭恩賜公園
武蔵野市と三鷹市にまたがる都立公園である。1917年(大正6年)開園。三宝字池(石神井公園)・善福寺池と並び武蔵野三大湧水池として知られる井の頭池を中心とした公園である。井の頭公園はその中心に井の頭池(約43,0002)を擁している。井の頭池は北西-南東方向に延びる細長い形の池であり、北西端は二つに分かれ、南東端からは井の頭池を源とする神田川が流出している。井の頭池の西側には御殿山の雑木林があり、吉祥寺通りを挟んで井の頭自然文化園が位置している。雑木林の南側には玉川上水が東南方向に流れ、そのさらに南には「西園」が位置している。この西園には400mトラックと三鷹の森ジブリ美術館、玉川上水の下流側の脇には小さな広場のある「東園」がある。Wikipedia

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三鷹の森ジブリ美術館三鷹市
にある三鷹市立のアニメーション美術館。式名称は三鷹市立アニメーション美術館。設計者は日本設計。宮崎駿による断面スケッチを元にデザインされた。2001年に開館した美術館の運営と2007年から三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーとして世界のアニメーション映画の配給やテレビ放送を行っているWikipedia

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新橋                 井の頭橋

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玉川上水のの風景② 右岸は左岸より小高く、雑木林が続きます/法政大高裏

神田川(井の頭)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24056043/


・・・牟礼
/三鷹市

三鷹市の東部に位置する。武蔵野台地にあり地域は玉川上水の流れに接している。北部は井の頭に、西部は下連雀に、南部は北野、新川、世田谷区北烏山に、東部は杉並区久我山に接する。歴史的には北多摩郡牟礼村であり、隣接する井の頭にも含まれる部分があった。その後三鷹村を経て三鷹市に編入されて現在に至る。
Wikipedia

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牟礼神明社鳥居/牟礼

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牟礼神明社
天照皇大 神合祀:倉稲魂命この神明社は牟礼の開祖・北條常陸之介康種(牟礼の開村は天正18年・西暦1590年)の父・北條治部少輔綱種(本氏高橋将監種政、北條早雲に養育され軍師多目氏に従学し伊豆韮山城に住んだ。北條左京大夫氏綱の時、大道寺方に配属され江戸城を攻略した。戦功あって御猶子に准ぜられ家号を賜い、北條常陸之介綱種と改め相州甘縄の城代となる。北條氏康の命あって治部少輔と進んで武蔵国の鎮衛の司として江戸城主となる)大永4年正月上杉修理大夫朝興を攻略した。上杉氏は河越に敗走、天文64月河越城に没した。五郎朝定は父の遺志を継いで江戸城を復さんと図る。天文67月老臣難波田弾正を以って深大寺城に出陣。主命あって綱種は江戸城を進発し深大寺城に対峙して砦を築く。天文61115五日(1537)綱種は陣内鎮護のために飯倉神明社の御分霊を勧請し高番山(現在地)に祀る。合祀された稲荷神社は往年村人の結衆に依って稲荷山(高山)に祀られていた。明治元年太政官布告神仏判然令に基き、氏子の総意によって合殿された。以上が牟礼の鎮守と崇められて今日に至るを略記する。(牟礼郷土史研究会)(境内掲示板)

石燈籠(巳待講)
井の頭辨財天への道標を兼ねて牟礼村の巳待講が建てた常夜灯である。以前は高井戸から連雀への道と井の頭道の分岐する角(現在の牟礼2丁目交差点付近)にあった。幕末期、嘉永3年(1850)の建立であり、竜の浮彫は見事である。寄進者名に江戸講中の人名があることから江戸市中の信仰が厚かったと思われる。(三鷹市教育委員会)

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玉川上水の風景③ 川辺のモミジが綺麗に紅葉しています/長兵衛橋

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玉川上水の風景④ 人見街道を横断、この先は杉並区になります/牟礼橋

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どんどん橋             どんどん橋道標&石橋供養塔(宝暦7年) 

どんどん橋/人見街道

三鷹市と杉並区の境を流れる玉川上水にかかる橋で、変わった名前は「橋の上を歩くとドンドンという音がしたから」とも「橋の下を水がどんどん流れていたから」ともいわれています。(三鷹市)

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蛇行する玉川上水
井之頭公園からどんどん橋付近にかけては直線が多い他の区間に比べて蛇行する箇所が多くなっています。これはこの地域が入り組んだ複雑な地形をしており、その中で少しでも高い地点を選んで水路を引いたためです。このことからも玉川上水がわずかな高低差を利用して水が流れるよう設計されていることがわかります。(東京都水道局)


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人見街道
府中市八幡と杉並区大宮の大宮八幡宮を結ぶ古くからの街道である。別名「大宮街道」「下総街道」「府中道」「八幡通り」。人見街道の名は、江戸以前にあった「人見村」を通る道であった事に由来するもので地名に「小人見」の名称がある。さらに、北にある浅間山の別名が人見山である。一説には浅間山の別名人見山(小高い丘から敵の情勢を見る意味)からとも。Wikipedia

大宮八幡宮(善福寺川)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24090782/


・・・久我山
/杉並区

町域内を
神田川玉川上水が流れその両岸にあたる。玉川上水には上水を挟んで両側に未舗装の土の遊歩道が見られ、上水の水と緑とあいまって区部有数の貴重な武蔵野の原風景を形成しているが、東京都がすすめる大規模な放射5号線道路計画の対象となっている。また、当地域内を人見街道が横断している。
くが」とは空閑地や陸地のことであり、武蔵野の新開地の意と推測される。古くは久ケ山とも。江戸時代から1889年までは江戸幕府領久我山村であった。文化文政時代は64戸、水利は玉川上水、鎮守神は久我山稲荷神社であったWikipedia

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玉川上水の風景⑤ 左岸は放射5号線の工事中ですが両側に緑道が続きます/牟礼橋

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岩崎橋                中央道の先は暗渠になります/浅間橋

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玉川上水緑道マップ(三鷹橋~浅間橋)


・・・高井戸/杉並区


杉並区の最南部に位置する地域。現在の町名では上高井戸、高井戸西、高井戸東、下高井戸の4
地域に分かれる。京王井の頭線富士見ヶ丘駅から京王線下高井戸駅、八幡山駅の範囲の地域である。
地名の由来については諸説あるが、かつて村内の小高い所にあった堂の傍らから水が湧き出ていて、高いところから出ていた井戸なので「高井戸」と呼ばれたという説と地域内の宗源寺にある高井戸不動が江戸時代までは高台に祀られていて「高いお堂の不動様」と呼ばれるようになり「高井堂不動」という名が生まれた。そこから高井戸の名が生まれたという説などがある。実際には高低や井戸とは無関係でありかつて高井家が代々宮司を務める神宮司があり、目印となるお堂に「不動様」が祀られていたことから通称「たかいどう」と呼ばれ、周辺を指す地名で使われるうち転じて「たかいど」となる。跡地は団地となっているが高井家15代までの墓が残されているWikipedia


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玉川上水の風景⑤ 浅間橋からは暗渠となり、中央道の下を流れています/環八交差点

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中央道下               20号手前から明大前まで緑道が続きます

・・・
高井戸宿

かつて甲州街道にあった上高井戸宿および下高井戸宿の合宿。現在の杉並区高井戸にあった。通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった。当初は、甲州街道の一番目の宿場であったが、後に内藤新宿が設置され、次第に素通りするものが多くなった。周辺住民は農業を主としており、一宿で継ぎ立てを勤められず月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた。
下高井戸宿:日本橋から4里。宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた。本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる。

上高井戸宿:日本橋から41240間。上高井戸一丁目信号(環八通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた。問屋は篠弥惣治。Wikipedia

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かつての下高井戸宿の中心部ですが、面影はありません/宗源寺門前

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宗源寺
叡昌山宗源寺は十界諸尊を本尊とする日蓮系の寺です。当寺の壇家であった有名な地理学者志賀重昂が記した「宗源寺開基碑」によると、当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族江戸遠江守太郎判官重永で甲斐国(山梨県)吉田郷に住した吉田宗利であり、宗利が法華宗に帰依して法名宗源」と称したのにちなみ、末孫の日善がこの地に一寺を開いて寺名としたと伝えます。そしてその時期は慶長(1596-1614)初年の頃とされています。境内の不動堂はもとこの近くにあった修験道の本覚院(明治5年廃寺)のものでしたが、明治44年に現在地に移し、昭和42年に改築したものです。なお、この不動堂はかつて高台にあったため「高井堂」と呼ばれそれが高井戸という地名の起源になったとする説もあります。当寺蔵の文化財としては、南北朝初期の板碑や滝沢求馬(1713没)の筆になる釈迦涅槃図が保存されています。(杉並区教育委員会)

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覚蔵寺/下高井戸
清月山覚蔵寺は日蓮宗の寺で本尊は十界曼荼羅・宗祖日蓮聖人像です。当寺はもと真言宗の寺でしたが、慶長年間(1596-1614)に日蓮宗に改宗、中興開山は実成院日相と伝えられています。当寺に安置されている鬼子母神像日蓮聖人の直刻と伝えられています。このことは「江戸名所図会」にも記載されているもので、丈永8年(1271)聖人が龍ノロ法難にあわれる前、馬に乗せられ鎌倉の町を引きまわされて刑場に向う途中、一老女からごまのぼた餅を供養され、そのお礼として手渡したものであるといわれています。この像は江戸時代の中頃に鎌倉の妙法寺から当寺に安置され、それ以降開運鬼子母神として人々の信仰を集めるようになり、寺運も大いに栄えたといわれています。境内の日蓮聖人五百遠忌塔は天明元年(1781)頃に建立されたもので、昭和56年(1981)は聖人七百遠忌の年にあたりそれを記念して銅像を建立しています。また、開山日相聖人塔は三百五十遠忌の年(昭和41年)に建立されたものです。なお、当寺は大本山池上本門寺の末で、現本堂は昭和31年に改築されたものです。(杉並区教育委員会)


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甲州道中一里塚跡
江戸時代、五街道のひとつであった甲州道中(街道)は江戸日本橋を基点とし内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっていました。この街道を利用した諸大名は信州高島藩、同高遠藩、同飯田藩の三藩でした。また甲府には江戸幕府の甲府勤番がおり幕府諸役人の往来もありました。この場所の前方、高速道路下に日本橋から数えて4里目(約16km)を示す「一里塚」がありました。当時の旅人はこの「一里塚」を見て道程を知り駄賃などの支払いをしました。塚は五間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)を基準として土を盛り上げて築き、榎を植えてありました。(杉並区教育委員会

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玉川上水緑道ルートマップ(三鷹~高井戸)


神田川(久我山・高井戸)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24061274/



・・・・・・・
資料ファイル

江戸東京博物館(江戸上水関連)

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玉川上水ジオラマ/
江戸東京博物館

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小金井橋と玉川上水
玉川上水は江戸の人口増加に対応するために新たに設置された上水で、1653年(承応2)から翌年にかけて玉川庄右衛門・清右衛門によって羽村から虎ノ門までが開削されたとされる。玉川上水の特徴はその測量技術であり、羽村から四谷大木戸までの開渠部分の距離約43kmに対し標高差約100mであった。これは100m流れて20cmほど下がるというもので測量技術の高さがうかがえる。小金井橋は開渠部の中流域にあたり、この一帯は水の便が悪く江戸中期までは大きな開墾は行われなかったが、玉川上水の生活用水としての分流が認められたことによりこの一帯が定住できる場所に変わっていったのである。開拓した時期に植えられたという上水沿いの桜並木は江戸後期になると桜の名所として江戸市中に知られた。(説明板)

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武蔵野小金井桜順道絵図(複製)/1851年(嘉永4以降)/江戸東京博物館

小金井周辺の玉川上水沿いに桜が植えられたのは享保期から元文期にかけての武蔵野新田が開発されたころとされるが、名所として知られるようになるのは寛文年間以降のことである。本図中には観光名所となった小金井周辺の名所、旧跡が記され、江戸や近隣からの里程、碑文なども載せられた一枚の観光案内図である。(説明板)

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江戸上水図/江戸中期(複製)/江戸東京博物館
江戸市内における上水道ごとの配水分布図を示した図。本所・深川地域に配水された本所上水を除いた五上水が記されている。図からは江戸の北部に神田上水が、南部に玉川上水が配されていたことがわかる。このうち玉川上水から分流する青山上水・三田上水・千川上水は1722年(享保7)に上水道としての使用を幕府により禁止された。(説明板)

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江戸府内上水分布図

江戸の上水道はおもに北部が神田上水を、南部が玉川上水の水を利用した。

玉川上水(上流域)はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20693841/
玉川上水(中流域-1)はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20674257/
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by Twalking | 2017-12-09 09:09 | リバーサイドウオーク(新規)