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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:リバーサイドウオーク(新規)( 75 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川(3)北千住03-千住宿(2)   

日時 2019.7.5(金)
天気 曇り


大踏切通りを渡ると千住宿の中心部になります。
この商店街は人通りも多く、活気があっていいですね。
ちょっと裏通りに入るとまた違った趣きがあります。

荒川土手からかつての道筋を確認して、水戸街道を
訪ねて見ました。ここも荒川に阻まれますが、
対岸には元隅田川の流路も残りますので
いずれ歩いてみたいと思います。


・・・千住

荒川
(隅田川)曲流部沿岸(現足立区南部、荒川区東部)に位置する低地部の地名。古くは千寿とも表記した。その由来には荒川から拾得された千手観音像にちなむとの説(新編武蔵風土記稿)などがある。史料上の初見は1279(弘安2)。鎌倉初期以降、奥州方面への運輸交通の要地として荒川北岸に発達し、武蔵国足立郡に属して一村を成していたと推定される。戦国期に後北条氏の支配下に入り、その家臣で江戸衆の千葉氏の所領となる。(コトバンク)


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街道の風景① 大踏切通りを渡ります、「熊谷堤」だった所でしょうか?、千住小橋が架かっていたようです。

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交差点左に高札場跡、右に一里塚跡碑が建っています

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慈眼寺山門

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慈眼寺
当寺は新義真言宗で、山号を千観山、院号を妙智院という。寺伝によれば正和313142月、行覚上人が関東巡錫の折に創建。3代将軍徳川家光の時、伝弘法大師作・聖観世音菩薩像を安置し本尊とし、江戸城北方祈願所として葵の紋の使用を許されたとされる。幕末に編纂され千住宿の故事を記録した「旧考録」によれば弘化4年(18474月、東叡山寛永寺の山主が日光社参の際、宿場本陣に支障があり当寺が本陣を勤めた。以来6度の寛永寺山主休息所となった。また、文人墨客との付き合いが深く、特に江戸時代後期の画家・建部巣兆との信仰から「巣兆寺」と呼ばれた。境内にある板碑(貞治6年銘)、地蔵菩薩庚申塔、庚申塔(寛文7年銘)が足立区文化財に登録されている。(足立区教育委員会)

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石像群                鳥獣塚

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千住町消防組
昭和7101日足立区の誕生とともに、この地にあった千住町消防組屯所足立消防署 ( 昭和2281日千住消防署と改称 ) となり近代消防が発足した。消防組織の歴史を遡れば、享保4 (1719) ときの江戸町奉行・大岡越前守忠相 ( ただすけ ) の肝煎りで江戸町火消が生まれ、自治的な「いろは四十八組」が鳶の者によって組織されたのを始めとする。千住も江戸四宿の一つとして栄え東北路要衝であったところから、文政12 (1829)戒坊更番所 (かいぼうこうばんしょ) を建て町民が管理したという。安政年間には南北千住消防組ができ、明治以降は警視庁の指揮下にあったが、明治28年からは自治体の千住消防組として活躍した。ここにある南北消防組記念碑は大正124月に建てられたもので、創始以降の殉職物故者の指名を記し慰霊顕彰している。(案内板)

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不動院山門

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不動院
当寺の本尊は不動明王である。元弘21332)秀天上人の開山という。もと吉祥院の末寺で、白旗八幡神社別当と伝えられている。墓域に正面「南無阿弥陀仏」、右側面に「芸州」と大書した大きい供養塔がある。これは明治維新の際、千住口から戊辰戦争に従軍した芸州藩の軍夫、従属者のうち千住近在から参加した者の戦死者を永代供養したものである。また、川魚料理人の人たちが魚類の冥福を祈るために建立した包丁塚の碑がある。本寺は千住宿の問屋場に近いところから宿場関係の人々の墓石が多い。明治9年(187662日、明治天皇東北巡幸のとき御急休息所になった中田屋の墓、千住宿旅籠屋一同が万延元年(1860)に建てた遊女の無縁塔などがある。(足立区教育委員会)

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庚申塔                   永代供養碑

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街道の風景② 鴎外の旧地にマンションが建設中、右手に金蔵寺、左手に勝専寺があります/本町商店街
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江戸時代の千住宿の絵図(「千住宿図/高田家文書」
千住宿は日光道中の初宿(はつじゅく)で、宿場、市場、河岸場の三機能があり、商業が栄え江戸四宿で最大の規模を誇りました。(案内板)

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森鴎外旧宅の地
鴎外の父・森静男は明治12年(1879)にこの地に橘井堂医院を開業し、森家の住居になりました。鴎外(林太郎:18621922)は帝大医学部を卒業後20歳から28歳にかけてここを住所としました(2328歳はドイツ留学)医師としての開業免許も明治14年、20歳のとき千住の住所でとりここから陸軍病院まで人力車で通いました。
「鴎外」の号=千住
隅田川にあった、かもめの渡し(現、白髭橋付近)のという意味で、千住の地を意味しています。もとは鴎外の師で千住在住の漢学者である佐藤元萇の子・斎藤勝寿のでしたが、林太郎が使用して定着したものです。(案内板)


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史蹟橘井堂医院(きっせいどう)
ここは文豪・森鴎外の父・静男が明治12年(1879)に史蹟橘井堂医院を開き、明治25年(1892)まで家族で住んだ場所です。鴎外も大学卒業後から結婚するまで住んでいました。(明治1422年)千住の鴎外碑鴎外が臨床医療をしたのは千住時代のみです。その体験をもとにした小説「カズイスチカ」の石碑を「森鴎外記念碑を建立する会」が平成20年(2008)に設置し足立区に寄贈しました。現在、建設工事に伴い足立区が保管し、完成時に戻る予定です。(案内板)

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街道の風景③ 駅前から続く「飲み横」、この雰囲気は千住らしですね~/金蔵寺裏
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金蔵寺山門

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金蔵寺
当寺は真言宗豊山派で、氷川山地蔵院(または閻魔院ともいう)と号す。本尊は閻魔大王で、建武213353月の創建という。金蔵寺の門を入ると左側に2mほどの無縁塔がある。


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これは天保8年(1837)に起こった大飢饉の餓死者の供養塔で、千住2丁目の名主・永野長右衛門が世話人となり天保91838)に建てたものである。碑文によれば「…飢えで下民に食なし…この地に死せる者828人…370人を金蔵寺に葬り…」とある。その塔と並んで建つ別の供養塔は千住宿の遊女供養塔で、この地で死んだ遊女の戒名が石に刻まれている。千住宿には本陣・脇本陣のほかに55軒の旅籠屋があり、そのうち食糧旅籠(遊女屋)が36軒あった。江戸後期には宿場以外に江戸近郊の遊里として発達した。そのかげで病死した遊女は無縁仏同様に葬られたその霊を慰めるための供養塔である。(足立区教育委員会)
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街道の風景④ 街道の一本左側の道、こちらは静かな佇まいです/勝専寺門前

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勝専寺山門


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勝専寺
赤門寺」という通称で親しまれている浄土宗寺院で京都知恩院を本山とする。寺伝では文応元年1260)勝専社専阿上人を開山、新井政勝を開基とし草創されたという。江戸時代に日光道中が整備されるとここに徳川家御殿が造営され徳川家忠・家光・家綱の利用があった。また日光門主等の本陣御用を勤めた記録も見られ、千住宿の拠点の一つであったことが知られる。加えて当寺は千住の歴史や文化に深くかかわる多くの登録文化財を今に伝えている。木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ、開基新井政勝の父・正次が荒川から引き上げたという伝承を持つ。ほかに1月と7月の1516日の閻魔詣で知られる寛政元年(1789)の木像閻魔大王坐像、巻菱潭の筆による明治12年(1879)の扁額「三宮神山」を山門に掲げるほか、千住の商人高橋繁右衛門の冑付具足を伝来している。いずれも足立区登録文化財となっている。(足立区教育委員会)

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千住の由来
勝專寺の寺伝によれば1327(嘉暦2年)に新井図書政次が荒川で網で千手観音像を拾い、この地を千手と呼んだことに由来するという。この像は息子でありこの寺の開基でもある新井兵部政勝によって同寺に移安されたとしている。他には足利義正の愛妾千寿の出生地であったからという説や、千葉氏が住んでいたからだという説が知られている。千住は日光街道・奥州街道宿場として発展した。江戸から一つ目の宿場であり、江戸四宿のひとつであった。元の千住宿は1-5丁目に分けられて本宿、最初に追加された3町は新宿、対岸の2町は南宿(下宿)と呼ばれていた。(Wikipedia

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街道の風景⑤ 千住宿の中心部、左手に本陣がありました/千住駅入口

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千住本陣跡とその周辺
この案内板がある小道は千住2丁目と千住3丁目の境界をなす通りで北千住駅前通りが全通する昭和初期迄はかなり重要な通りでした。

千住本陣跡(緑の部分)
この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の宿屋)で千住宿ではここ1ヶ所だけでした。敷地は361坪、建坪120坪であったと記録されています。

明治天皇行在所跡(青丸部)
明治9年(1876)の明治天皇の東北御巡行の砌。この地に泊られ皇后陛下御一行と送別の宴を当時千住代々の旅篭であった中田家の別館で催されました。そのためそこを行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。

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千住見番跡(赤丸部)
江戸時代から千住宿には遊女(食売女)をおいていい旅篭が50ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正8年(1919)以降も昭和18年(1943)迄営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。

丁目境の筋違(破線部)
各丁目毎にその境界は街道に対して出入をつけていたのですが12丁目、34丁目の境界が拡幅等でわからなくなってしまったのに対し、ここは旧街道に対して2丁目側と3丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。(説明板)

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千住本氷川神社鳥居


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千住本氷川神社
足立区千住3丁目にある神社、旧称「牛田氷川神社」。徳治21307年)創建。祭神は素盞嗚尊。「新編武蔵風土記稿」には『当社は元牛田にあり。何れの頃にや水災を避けんが為ここに移せりと。今もかの地に社跡遺れり』とあり、元々は牛田(千住曙町)の地にあったが、水害を避けるために現在の地に移転したことが分かる。『神社名鑑』によると徳治2年(1307年)に千葉氏によって、牛田(千住曙町)に千葉山西行院とともに創建、江戸初期に現在地に分社を建立した。明治43年(1910年)荒川放水路建設の際に牛田氷川神社を合祀Wikipedia

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千住本氷川神社旧社殿(足立区登録文化財)
千住本氷川神社は、徳治21307)に千葉氏によって牛田千葉山西光院と共に氷川神社として創建されたという。千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。その後、明治43年(1910)荒川放水路建設のため牛田氷川神社を合祀し、さらに昭和45年に社殿を新築したため旧社殿末社として保存されている。旧社殿向拝は千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には龍や鳥類の彫刻が目立っている。本殿は方一間余りの木造で、切妻造りの平入り形式をなし、屋根は箱棟こけらぶきで、勾配が美しい曲線を呈している。軒回りは二重橑となり組物も巧緻で処々に彫刻が施され、趣きのある社殿である。(足立区教育委員会)

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街道の風景⑥ 境内より日光道中からの参道の景観です/千住本氷川神社

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千住宿高札場由来/本町公園
私たちの街千住が宿場となって栄えたのは慶長2(1597)人馬引継駅として以来のことだといわれています。江戸時代の足立は千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。特に寛永2(1625)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約400年を経て今日に至っております。このような高札場は明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため千住宿の入口・出口の所に設けていました。これからも私たちの街歴史・伝統・文化をそして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。(足立区役所公園課)

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街道の風景⑦ 街道の左に吉田家、右に横山家の住宅があります

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千住絵馬屋・吉田家
吉田家は江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。手書きで描く都内にほとんど見掛けなくなって希少な存在となった。当代の絵馬師は8代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けている。縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。絵柄は安産子育て、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決まっており30数種ある。これらの代表的絵馬が現在吉田家に一括保存されている。時代ごとの庶民の祈願を知るうえで貴重な民族資料である。見学は外観のみ(足立区教育委員会)

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横山家住宅 
宿場町の名残りとして伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は街道に面して間口が広く奥行きが深い。戸口は一段下げて造るのが特徴である。それはお客様をお迎えする心がけの現れという。敷地は間口が13間、奥行きが56間で鰻の寝床のように長い。横山家は屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。現在の母屋は江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行が15間あり大きくてどっしりとした桟瓦葺きの2階建てである。広い土間、商家の書院造りといわれる帳場2階の大きな格子窓などに一種独特の風格を感じる。上野の戦いで敗走する彰義隊が斬りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。(足立区教育委員会)

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街道の風景⑧ 旧水戸街道(右折)の分岐点です、街道はこの先を左折します。左手に安養院、先に名倉堂があります。

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安養院山門


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安養院
当寺はもと千住元町にあり、鎌倉時代北条時頼が創建したと伝えられ、西林山長福寺と称した。慶長3年(1598)兵火の災にあい現在地に移り、真言宗西林山長福寺安養院と改めた。本尊は金銅仏の阿弥陀如来で鎌倉末期のものと思われる。背面に宝永4年(1707926日の修覆造像記銘がある。その他、秘仏である地蔵菩薩立像・香木造の弘法大師像・密教用法具・真言密教の教典・古文書等が保存されている。中興開基第1世は賢智上人で、北条氏の臣・高梨氏の出身である。以来歴代の住職と檀家の努力で幸運栄え、江戸末期から明治初期にかけては真言密教の檀林となり多くの仏弟子を世に送った。現在の本堂は大正12年第22世良道僧正によって再建されたものである。(足立区教育委員会)

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薬師堂                山門脇の庚申塔

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右:仲直し地蔵尊(寛文10年・1670建立)
左:かんかん地蔵尊(寛文41699建立)

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千住名倉医院

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千住名倉医院
名倉医院は江戸時代以来、骨つぎといえば名倉、名倉といえば骨つぎの代名詞になるほど、関東一円に知られた医療機関であった。下妻道に面し、旧日光道中や水戸佐倉道分岐点を間近にして便がよかったので駕籠や車で運ばれてくる骨折患者でひしめいていたという。門前の広場はこれらの駕籠や大八車などのたまり場であった。名倉家は秩父庄司畠山氏の出で享保年間(171636)頃千住に移り、明和年間176472)に「骨つぎ名倉」を開業したと伝わる。現在、江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されている。昭和59年足立区登録記念物(史跡)となった。かつて名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋等の下宿屋があって、その主人が名倉医院で治療に当たる医師及び接骨師を兼ねていた。(足立区教育委員会)

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街道の風景⑨ 旧街道は道標のあるここを左折しますが、現在は荒川で道は消えています


・・・千住大川町

足立区の南部に位置する。千住地区(旧千住町)の中では西部にあたる。荒川にかかる千住新橋の南詰にある。北千住駅からも近く主に住宅地となっている。(Wikipedia

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街道の風景⑩ 氷川神社境内から千住元町方向の町並みです

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大川町氷川神社境内

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大川町氷川神社
古老の口碑に、この地の開墾は宝治年間(1247-9)にはじまり、永仁2(1294)に土地鎮護のために祠宇を建て、素戔嗚命を勧請し、鎮守氷川神社と称したという。当社は維新以前千住五丁目安養院住臓が別当を兼ねていたが、寺院に災害等があって資料を焼失した。わずかに宝暦6(1750)9月本社再建の石祠が存在している。大正2522日、荒川放水路工事のため移転の止むなきにより、現在の地に大正41110遷座した。(東京都神社名鑑)

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紙すきの碑
足立区は江戸時代から紙すき業が盛んであり、新編武蔵風土記稿にも各村の項でそのことが述べられている。この歌碑は天保14年(18436月晦日、幕府の命により地すき紙を献上した時の喜びの記念碑である。碑文の上部に永(永続連、同業組合の印)の題字があり「水無月のつこもりの日公より岳のすき立仰付られる時」という前書きが続く。歌は「すきかえしせさするわさは田をつくるひなの賎らにあにしかめやも」「天保十あまり四とせ癸卯四角斉丸勇」と刻まれている。紙すきが稲作にも劣らない仕事であるという自讃の歌である。台座石に21軒の問屋石が記されている。荒川放水路開削のためこの碑は大正6年に移転し再建された。足立の紙すきを物語る貴重な資料である。(足立区教育委員会)

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千住川田浅間神社富士塚
富士塚は文政71824)築造。祭神木花開耶姫命。現在地に移築される以前は、町の西北(元宿)川田耕地氷川社稲荷社浅間社が同じ境内に鎮座していた。明治44年荒川放水路開削工事開始に伴い大正55月、現在地よりやや西側に移築された。その後、東京都の水道幹線工事のため昭和436月現在地に移築復元され今日に至っている。塚は富士山の溶岩を積み上げ固めて築造され、高さ3mである。山頂に天保21831)銘の石祠が安置されている。塔碑が多く、最古の碑は文政7年(1824)のもので丸藤惣同行富士33度大願成就とある。この講社は高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講名を丸藤千住13夜同行と呼ぶ。講中は千住5丁目と千住大川町全域に及び、かつては対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。毎年71日祭礼が行われる。(足立区教育委員会)

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旧千住新橋の標柱
この標柱は旧千住新橋の親柱である。千住新橋は明治44年から荒川放水路の大改修計画の一環として大正9年より同13年までの永い年月と119万円を費やして完成したものである。橋の構造・規模は長さ452.7m、幅7.2m、鋼板桁の近代橋であった。その後昭和32年に幅17mに拡幅され東北地方への玄関口として機能を果たしてきたが、堤防の嵩上げ、著しい橋桁の老朽化、交通量の増大などで架け替えすることになった。架け替えに当たり永年親しんできた旧千住新橋の親柱を大川町東町会の要請により、氷川神社の協賛を得て祈念のためこの地へ移したものである。(足立区)

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街道の風景⑪ 荒川土手より新千住大橋を望みます、街道は橋詰めの「学びピア21」から対岸の梅田に続いていました

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千住新橋
足立区千住と同足立の間の荒川(荒川放水路)に架かる国道4号(日光街道)の密接する2本の橋である。上り線が1976竣工、下り線が1981竣工の橋となっている。荒川の河口から12.6 kmの地点に架かる橋で、右岸は足立区千住五丁目で左岸は足立区足立一丁目に至る。橋の全長は1981年(昭和56年)竣工の橋は橋長446m、幅員15.75m、最大支間長120mの鋼連続箱桁橋である。(Wikipedia


・・・旧水戸街道


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街道の風景⑫ 分岐点に戻り旧水戸街道を行ってみます/千住

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水戸街道
江戸時代に定められた日本の幹線道路で五街道に準ずる脇往還の一つである。水戸街道は江戸側の千住宿松戸宿経て水戸藩の城下町である水戸をつなぎ、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれた。本来、街道は行き先の名称を冠したため水戸側では江戸街道と呼ばれた。始まりは805武蔵国から下総国府を経て常陸国府に向かうように東海道の経路が変更され、後世の水戸街道の原形となった。(Wikipedia

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氷川神社鳥居/千住


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氷川神社
足立区千住4丁目にある神社。元禄4(1691)創建。明治初期、廃仏毀釈の時に本地仏別当寺長円寺)に移転。高正天満宮は千住4丁目の名主で、開拓の指揮を取った高梨家菅公像を、断絶後の門地を継承した正木家が祠を建て祀った物。高梨と正木の頭文字が社号となっている(Wikipedia
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境内には左から猿田彦大神、稲荷神社、高正天満宮が祀られていいます

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高正天満宮縁起碑
氷川神社内に合祀される高正天満宮の縁起を示す碑である。千住四丁目の名主・高梨氏の系譜、高正天満宮の由来について詳しく述べている。千住四丁目の名主・高梨信平は地域の子供たちに読み書きなどを教えていた。縁故を頼って屋敷内に住むことになった正木昌房に、老齢の信平は子弟教育を託し代々信奉していた菅原道真の像を譲った。正木氏はそれよりこの像を家神として祀り子弟教育を家業とするようになった。昌房の孫・正木建はこの菅原道真像を個人で祀るより氏神社内で祀ることを思い立ち、高梨氏と正木氏とに関わるこの神を高正天満宮と号することにしたという。正木氏は昌房以来、代々寺子屋「群雀堂」の経営にあたり、二代目塾主・大助(正木櫟蔭)の代には大いに発展し来塾するものが毎日百人ほどもいたという。元治元年1864)に建立されたこのは三代目正木建の撰文によるものであり、天満宮の由来はもとより寺子屋開塾に至る経緯が伺われる貴重な資料である。平成21月足立区有形文化財に登録された。(足立区教育委員会)

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正木櫟蔭事績碑
宝暦元年(1751)に千住宿で開塾した寺子屋「群雀堂」の二代目塾主・正木大助の生涯についての碑である。 父昌房が千住に移住し、地域の子供たちの教育を行うようになった由来を記している。その末子として宝暦12年(1762)元旦に生まれた大助は幼いころから学問に秀で、12歳にて塾主を継ぎ、母や姉の死や貧苦を乗り越えてますます勉学に力を入れ、これを慕って学ぶものが日に百人余りを越えていたということや、66歳で剃髪した後も、多くの人々の尊敬を受け清白とした生活を送っていた様子などが述べられている。大助は天保12年(184112月、80歳にして死去するが、死去間近には幕府代官中村八太夫がその評判を聞いて見舞い、大助の死後、老妻は扶持米を支給され息子建には銀五錠の褒章が与えられたことも記されている。この事績碑は塾主三代目を継いだ息子正木建の撰文によるもので、嘉永5年(1852)に建立されたものである。寺子屋教育の様子を物語る貴重な資料である。足立区有形文化財に登録された。(足立区教育委員会)

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長円寺山門/千住


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長円寺
新義真言宗の当寺は延享元年(1744)の縁起によると、寛永41627)出羽湯殿山の行者・雲海がここにを結ぶとある。後に賢俊が開山する。9代将軍家重の延享年間16世栄照の代は殊に栄えた。本尊は木造の薬師如来小立像であり定朝風の名作である。扁額「月松山」は明治2年(1869)当地の寺子屋「群雀堂」三代の校主・正木健順の筆である。「心香り尼碣」は同じく2代校主・正木大助の撰文で、心香尼の人となりと叙したものである。その他、魚藍観音・目やみ地蔵・宝篋印塔(享保17年)・乳泉石等がある。(足立区教育委員会)

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目やみ地蔵              魚藍観音

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街道の風景⑬ 先が水戸街道、後ろは北千住駅です。この通りも味わいがあります/長円寺門前



・・・日ノ出町
(ひのでちょう)

現在の地域区分は千住であるが、荒川放水路開削前は地続きであった綾瀬側に属し、南足立郡綾瀬村の一部であった。区制施行後の綾瀬村の解体により、日ノ出町は荒川放水路の両岸に置かれたが、葛飾区への一部編入などにより南側の地域だけが残るかたちとなった。千住の東方にある「日の出の場所」という意味で名付けられた(Wikipedia

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街道の風景⑭ 常磐線、東武線を越えて荒川土手へ向かいます


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清亮寺山門/日ノ出町


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清亮寺
日蓮宗、久栄山清亮寺と号す。元和51619)身延山久遠寺末として、運寮院日表上人により水戸街道入口のこの地に創建された。本尊は一塔両尊四士合掌印、宗祖日蓮説法像を中心に、左に釈迦・多宝両如来、四菩薩、四天王、文殊・普賢両菩薩、不動・愛染両明王の15躯の木像で構成されている。本堂天保41833)に再建の総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残しているすぐれた建造である。昭和6年再建の山門(薬医門)に掲げる扁額「久栄山」の書は、六朝風の名筆中村不折によるもので、昭和5911月登録文化財(書跡)とした。墓域には明治初年日本医学発展のために解剖された囚人11名を供養した解剖人塚があり、昭和5712月区登録有形文化財とした。他に千住出身の歴史学者文学博士内田銀蔵の墓などがある。また、かつて水戸街道に面して古松が茂り水戸光圀公ゆかりの「槍掛けの松」として有名であった。(足立区教育委員会)

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槍掛け松
清亮寺の門前を通っている6の道路は千住を起点として水戸に至る江戸時代初期の水戸街道(水戸海道)です。江戸時代初期の元和51619)に開山した清亮寺は今の千住四丁目で日光街道(日光道中)から分岐した水戸街道に面する最初の寺院で、門前には街道の向こう側にまで枝が達する大きな松の木がありました。水戸街道は参勤交代の大名行列で賑わいましたが、槍持ちはいかなる道中でも槍を横に倒すことは許されません。しかし街道一杯に張り出した松のため、一度は槍を倒さなければ通れません。そこで街道に張り出した松を切ろうとしたとき、見事な枝ぶりをご覧になった後の水戸黄門、水戸藩主徳川光圀公は「名松を切るのは惜しい。ではここでこの松に槍を立て掛けて休み、出立の時に槍持ちたちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば槍を倒したことにはならない」と粋な計らいをしました。以来、この松は「槍掛けの松」と称せられここを通る大名行列は門前で松に槍を掛けて休むようになりました。

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写真は水戸黄門の時代から守られてきた「槍掛け松」の見事な姿で、今の足立たちばな幼稚園西側から関東大震災以前に撮影されてものです。大きな松の根元は幼稚園内の南西寄りにあり、屈曲した先端は添え木に支えられよく枝を張り葉を茂らせています。後方左手は清亮寺内の家ですが、右側の二軒の間に水戸街道を挟んだ道路の向こう側のいえなので、この写真は水戸黄門一行が通行した時代を偲ぶこともできる貴重な資料といえます。(碑文)

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日ノ出神社鳥居

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日ノ出神社
当社は稲荷大明神なる五穀をつかさどる倉稲魂神(素盞雄尊の御子)をお祀りしてあります。昔からこの辺一帯を弥五郎新田と称されていたが、明治44年荒川放水路の開設工事が起工されるにあたり、その計画線内に在って川底に水没する筈の稲荷神社を、時の弥五郎新田戸長・大塚孫左氏が村民の総意によって五反野の稲荷神社(足立区足立3丁目、西ノ宮稲荷神社)に合祀し、後にこの分れの神社として現在の場所(日ノ出町)へ祀られたものであります。戦前迄は五反野稲荷の支社として祭事が行われてきたが、戦時は時の流れから神事など一時すたれていたものを昭和28年に至り、総代新井竜祐氏等が相はかり、氏子一同の寄付金によって社殿の改修を行い神輿も新調され祭礼が行われました。これを機に五反野の親宮から分離独立致し、爾来元宮としての日ノ出神社と称する事になった次第であります。(日ノ出町自治会)

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街道の風景⑮ 現在は荒川土手で行き止まりですが、荒川対岸の小菅へと道は続いていました

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北千住宿周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照
(橙:日光道中 黄:旧水戸街道・下妻軌道 緑:掃部堤 紫:隅田堤)

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隅田川(3)北千住コース図

隅田川(3)北千住02-千住宿(1)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27685104/


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資料ファイル

千住宿案内コーナー/北千住丸井10F

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ジオラマ① 掃部宿北詰辺りから本宿方向

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ジオラマ② 本宿方向から掃部宿方向

千住宿模型(1/50縮尺)

文化3年(1808)の「日光道中分間延絵図」(東京国立博物館蔵)をはじめ参考資料を元に作成した江戸時代後期、19世紀初めの街並みの一部である。昭和61年(1981)に足立区郷土博物館の千住町並み調査団が作成、同年から平成21年(2009)まで同館の常設展示資料だった。(説明板)
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模型の範囲

宿場の実距離は南北約2800東西約300で、南北に通る日光道中沿いに細長い形をしていた。宿場全体の1/9、千住一丁目と千住掃部宿の各一部300を復元した。(赤枠の範囲)

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ジオラマ③ 問屋場付近(横から)
問屋場周辺の街並み(千住一丁目と掃部宿の各一部)
千住一丁目には問屋場貫目改所馬寄席など宿場の機能になる重要な施設があった。一里塚千住小橋の脇にある。なお、大名などの宿泊にあてられた本陣は千住三丁目にあり、復元模型には含まれていない。(説明板)

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問屋場と貫目改所
問屋場は宿場の管理が行われた場所で、元禄8年(1695)に千住一丁目に設置されました。貫目改所は荷物の公定重量を守らせるための重量検査所で、安保3年(1743)に幕府が設置しました。(説明板)




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高札場と一里塚
高札場は千住小橋の南西にあり、荷物の公定重量や運賃、切支丹禁制などの高札がありました。一里塚は一里(約4km)ごとに築かれた塚で、千住小橋にあり榎が植えられていました。(説明板)





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地租改正地引絵図(明治10年・1877
日光道中に面した間口が狭く、奥行きが長い短冊形の土地が並んでいます。日光道中が一番高く、東西に流れる水路に向って緩やかに傾斜しています。(説明板)



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千住宿の成立と機能
千住宿は江戸日本橋から28(約9km)の場所にある。日光道中・奥州道中の最初の宿場です。寛永21625)に江戸と日光を結ぶ日光道中の整備の一環として短冊形の地割を行い、周辺の家々を集めて建設されました。当初の宿場の範囲は千住一丁目~五丁目でした。その後、交通量の増大に伴って万治元年1658)に掃部宿(現千住仲町)・河原町・橋戸町が、31660)には千住大橋を越えて小塚原町・中村町(現荒川区南千住)が千住宿に加えられました。宿場の機能は①次の宿場までの荷物や人の運搬(人馬継立)②本陣や旅籠などの宿泊施設の設置③書状の伝達がありました。日光道中の初宿であった千住宿はこれらの他にも宿場組合の取締りを務めたり、荷物の重量が公定通りであるか検査する貫目改所も設置されました。(説明板)

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巣兆筆 芭蕉像

建部巣兆
宝暦111761)年から文化111814)年。千住を代表する文人。姓は建部、名は英親、字は族父といい、黄雀、東甫、秋香庵、小蓑庵、菜翁とも号しました。化政期を代表する俳諧宗匠の一人で書画・俳画に優れた作品を数多く残しています。江戸日本橋本石町にて書家山本龍斎の子として生まれ、寛政年間(1789から1801)の初頭に千住藤沢家の養子となりました。以後、通称を藤沢平右衛門として千住を活動の拠点とした巣兆は、関屋の里秋香庵を構えて、掃部宿・河原町・橋戸町の人々を中心に構成された俳諧集団「千住連」を率いると同時に、自ら「倭絵師(やまとえし)」と称して多様な表現で書画もあらわしました。俳人・文人としての巣兆は、夏目成美(せいび)・鈴木道彦・小林一茶などをはじめ、南部藩(現岩手県盛岡市)の平野平角や本庄(現埼玉県本庄市)の戸谷双烏(とやそうう)など全国各地の俳人たちと交流を持ちつつ、義兄亀田鵬斎・酒井抱一(ほういつ)・大田南畝など当時の江戸を代表する文化人たちとも盛んに親交を結んでいます。洒脱で酒を嗜み客を愛したという巣兆の人柄は、こうした幅広い交友関係からもうかがえます。(足立区HP)

by Twalking | 2019-07-16 17:07 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川(3)北千住02-千住宿(1)   

日時 2019.7.5(金)
天気 曇り


実際には旧街道を中心にあちこち寄り道しましたが、
分かり易いので「千住宿」として整理してみました。
旧日光道中は足立市場前から商店街を北へ向かいます。

手前がやっちゃ場と掃部宿、千住に入ると本宿です。
周辺の寺社に寄り、裏通りも味わいがあります。
見所が豊富なので結構時間がかかります。


・・・千住河原/足立区


足立区の南部に位置する。千住地区(旧千住町)の中では南部にあたり、千住大橋駅北側に広がる。主に住宅地となっている。かつては河原町であった。江戸時代から1941年(昭和16年)までやっちゃ場と呼ばれる青物市場が設置されていた。「やっちゃ」とは市場で行われたせりのかけ声である。(Wikipedia

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街道の風景① 旧道は右手、すぐに奥の細道プチテラスがあります/足立市場前

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芭蕉像/千住宿奥の細道プチテラス 
平成16年は芭蕉生誕160年に当たり当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。千住は奥の細道への旅立ちの地であリ、矢立初の句「行く春や烏啼き魚の目は泪」の句が残されています。此の先の旧道元やっちや場の地であリ、明治以後は正岡子規・高浜虚子も訪れていて、特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちや場句会」も開かれていました。芭蕉像に到る足下の敷き石は、やっちや場のせり場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかも知れません。遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻きたてます。人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。奥州街道を旅する事で何かを感じるかも知れません。遥かなる奥の細道ヘ(千住大賑会)

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大名行列/元やっちゃ場南詰
いまをさかのぼること約300年前よりここ千住は日光街道の始点として重要な宿駅でありました。日光街道は江戸時代、五街道の一つとして当時最もよく整備された幹線道路でした。そして奥州・関東の諸大名による参覲交代のための大名行列が往来する主要な道でもありました。咋今の近代化に伴い鉄道が敷かれ、道はアスファルトで整備され当時の面影はほとんどなくなってしまいました。馬や人々の足だけで街道を往来していた日光街道の歴史が少しでも忍ばれるようここに大名行列を再現してみました。

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街道の風景② かつて街道の両側には問屋・商店が並ぶ・・・、屋号の説明板があります

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ここはやっちゃ場南詰
やっちゃ場の由来
やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。街道の西側に三十数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響きわたり、江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和16年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青果市場は東京都青果市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残った。五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒をならべている。まさに専門店街である。日本の専門店街はここから始まったと言っても良いだろう。(説明板)

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大喜(元青物問屋 新大阪屋)
当主・為也善太郎は俳諧を良くし俳号を為也菖蒲園と称す。高浜虚子の指導を受け昭和19年ホトトギス同人に推薦される。やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場句会」である。菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地区の句会の指導を続けている。今でも千住の俳句界では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。(説明板)

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「是より右へ大師道」の道標
ここが「大師道」の分岐点のようです。路地を行くと河原稲荷神社があります。

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河原稲荷神社鳥居/千住河原町

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河原稲荷神社
古くからやっちゃ場(青物市場)の守り神として崇敬されてきた。境内には1906年(明治39年)建設の「千住青物市場創立330年祭記念碑」が建っている。やっちゃ場(青物市場)は千住・神田・駒込と並ぶ江戸の三大市場であった。その他、巨大な狛犬2(足立区内最大)と稲荷會舘がある。また、本堂の神楽殿裏手に神輿庫があり宮神輿や町会神輿が収められている。拝殿前には天水槽。本神社の鳥居・神輿・狛犬・天水槽はやっちゃ場の隆盛と親交の文化を現在に伝えている貴重な遺構である。なお、やっちゃ場(青物市場)は投師(なげし)と呼ばれる農作物を都心の市場へ転売する人たちが、他の朝市に間に合うように運ぶために午前3時に市が開かれていたと言われている。Wikipedia

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天水槽
水槽は鋳鉄製で高さ85cm、直径98cm、上部の円周281cm、下部の円周262.5cmでやや下へつぼまり、上部に幅6cm、厚さ6cmの縁取りがある。千住の青物問屋街は戦前「千住のヤッチャバ」と呼ばれ東京の北門市場としてその名を馳せていた。嘉永31850)の水槽は千住で熱心に行われていた成田講千住総講中傘下の一派御乎長講による寄進である。水槽には青物問屋等の構員名が記名されている。右水槽29名、左水槽21名(重複除く)総計50名。鋳造工らしき者2名、書は徹斎である。御乎長講の遺物として大幟が現存している。いつの日か掲揚する(説明板)

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金銅装神輿(足立区登録文化財)
金銅の金具で一面に装飾された木造漆喰の大型神輿である。屋蓋は照り起り露盤上に鳳凰が据えられ、降棟の先端は円形の蕨手となり頂に飛燕がついている。銅部の前と左右面の中央には浮彫りになった登龍立浪の打出金物が飾られている。基部上は玉垣を巡らし四隅に高欄、中央に鳥居がついている。基部の後方右側に「明治未四年五月吉祥日」と制作年代を示す陰刻銘がある。明治初期の作品だが江戸神輿の形式を受けつぎ細工や装飾も見事で美しい総高238.5cm、銅部73.5cm、基部方123.0cmと大きく通称千貫神輿と呼ばれているが、実際の重量は450でありこの大げさな通称はむしろその豪壮な装飾から生じたのであろう。91415日は千住の祭りである。稲荷神社は千住の中心河原町の市場の鎮守なので、神輿は宮を出て市場に入り町内を渡御するのが大祭の慣わしとなっている。河原稲荷の祭礼では昔はやっちゃ場の各問屋に力自慢の若い衆が多勢いたので二天で担いだ神輿である。(説明板)

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神道厨子 
文化財登録名称「木造黒漆小型厨子二基」二基同じようだが彫物がそれぞれ違う。小さなお宮だけにその精巧さが何とも魅力的である。昭和40年代に旧神輿倉の中に埃にまみれて発見された。祭礼の神輿が町内巡行の際、行列に加わった道具の一つである。内部に御神酒を容れる2本の瓶子を納め二基を天秤棒の両端にさしこんで肩にかついで御旅所で信者に内容物を分けたのである。江戸後期の造形性がよく現れていて特に製作年代が明記してある点が資料としても重要である。中央に金銅扁額があり陰刻銘で表に「千住川原町」裏に「天保五甲午歳 細工人錺師宮清」とある(説明板)

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句碑 
誓いての 後のたのみや 夏木立
揮毫は元掃部宿対嶋薬局のご隠居さんで雅号は冨雪 やっちゃ場の問屋43軒の人々が檜樹を奉納した記念に建立した。どうして奉納したかは定かではなく俳句の作者も不明である。どなたかご存知の方は当神社へお知らせ下さい。(河原稲荷神社)

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千住市場創立330年碑
明治39522日千住市場創業三百三十年の祝賀祭が盛大に挙行された。その模様は広場に330台の盤台を積み上げ神宮皇后の山車と大蕉の山車を造り各々に太鼓を備えつけこれを打ち鳴らして町中を引き廻した。他に千貫神輿と呼ばれる大神輿を二天で担ぎ少年は中神輿、子供は小神輿の三基の神輿が市場中を練り歩いた。神社境内には4mもの記念碑を「浅草北口睦」の17名の人達が建立した。「浅草北口睦」とは吉原遊郭を中心にして南千住寄り一帯で橋場、今戸、吉野地方今戸、日本堤などの青果商同業組合である。記述の頭取とは会長、組合長で伍長は取締幹事長の様な役職である。因みにこの祭りで問屋が3軒潰れた。昔からやり出したらとことんやるのが河原気質と云いお祭りともなれば当番の問屋が23軒潰れた。千貫神輿は現存する。(河原稲荷神社)

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街道の風景③ 街道に戻り北へ、右手に千住宿歴史プチテラス、向に案内板があります

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芭蕉句碑『鮎の子のしら魚送る別哉』
平成15年(2003年)建立。「奥の細道」の千住の句「ゆく春や…」は編さん時の句であり、実際の千住来訪時は、「鮎の子の…」であるとする井本農一氏の研究があり、元禄21689年)吟とされている。本碑がある千住宿歴史プチテラスは、千住四丁目の地漉紙問屋松屋(横山家)のを移築した施設で、ギャラリーとして様々な展示会等が開かれています。維持・管理は地元の人々による 維持会が活躍していることでも知られています。(足立区HP)

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千住町参考図(橙:旧日光道中 黄:下谷道・旧水戸街道 緑:掃部堤)

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昭和5年千住市場問屋配置図/千住大賑会

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元千住葱専門問屋川崎屋        此処はやっちゃ場北詰


・・・千住仲町


足立区の南部に位置する。千住地区(旧千住町)の中では南部にあたり、北千住駅南側一帯に広がる。主に住宅地となっている。(Wikipedia


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街道の風景④ 墨堤通りを横断します、かつての掃部堤だった所でしょうか。左角に源長寺、右へ行くと仲町諏訪神社があります/千住仲町

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源長寺山門


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源長寺
浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長31598)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、151610)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代・伊奈備前守忠次を敬慕してその法名にちなむ寺号を付して開基としている。本尊は阿弥陀如来。墓地に石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大阪冬の陣西軍の武将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。また草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚、一啓斎路川句碑等がある。(足立区教育委員会)

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石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)
石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)は江戸時代初期、千住大橋架橋掃部堤築堤等に尽力した地域の先駆者として語り継がれている。その事績は江戸時代後期に江戸幕府が編さんした「新編武蔵風土記」に記されている。これによると吉胤は千葉氏一族遠江国(静岡県)石出の出身とされる。のち下総国千葉(千葉県千葉市)を経て文禄年間(159296本木に移って土地開発をし、慶長31598)には掃部宿に移住して開拓に当たったという。元和2年(1616)、鷹狩りに来訪した徳川家康にこの地に延長2の荒川水除堤(掃部堤)を築くことを願い出たと記されている。

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また『南足立郡誌』(大正5年版)には大永2年(1522)に千葉日向守幸胤の長子として小田原に生まれたとある。北条氏家臣であったが、天正18年(1590)の同氏滅亡後は家臣原七郎を頼って遠江国に住んだとされる。文禄元年、弟覚原法印が本木吉祥院住職であった縁で、一族で本木村に移住、翌年から千住大橋架橋工事にも参加し功績があったとし、元和4622日に97歳(数え年)で没したと記述している。大正5年(1916)従五位を追贈された。石出掃部亮吉胤の墓がある源長寺は、本来吉胤が慶長15に創建したが、伊奈備前守忠次に開基の名を譲ったと「新編武蔵風土記」は記している。現在の墓石は後年子孫が建立したものである。昭和5812月足立区指定文化財記念物(史跡)とした。(足立区教育委員会)

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多坂梅里先生追悼碑
寺子屋の発祥は享保年中(171635)と伝わるが、この多坂梅里先生の追悼碑は、同時期の寺子屋教育の内容を伝える貴重な教育資料である。碑文によれば梅里先生は信濃上田侯の世臣(せいしん)であったが、享保年中千住駅に寓居しを業としながら寺子屋を開いた。以来約50年間、掃部宿(かもんじゅく)・河原町・小塚原町の男女、小長を問わず教育しもっとも盛んなときは塾生が数百人に及んだ。その教育法は書法を教えるのみでなく、職のことから掃除、礼儀作法まで全人的教育をしたいへん厳しかった。しかし、これは慈愛の至誠から出たことであったから、子弟はみな先生を親愛畏敬しその教えに浴したので、千住の風俗が美しくなったとある。梅里先生は天明九年(1789)九月二日没した。(足立区教育委員会)

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女行者心静法尼碑           延命地蔵尊

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仲町氷川神社鳥居

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仲町氷川神社
仲町氷川神社は素戔鳴尊を祭神とし、社伝によれば元和21616)遷座と伝えられる。「新編武蔵風土記」に、江戸時代後期には千住二から五丁目の鎮守社で、千住一丁目不動院が管理していたと記されている。この神社にはつぎのような文化財が伝えられている。

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関屋天満宮碑
関屋天満宮は神社本殿左側に社殿がある境内社のひとつである。「新編武蔵風土記」に「天神社 小名関屋ニアリシ社ヲ移セリ。故ニ鳥居ニ関屋天満宮ト扁ス。神体菅公ノ像ヲ安ス」とある。関屋から移転した時代は不明である。文化4年(1807)建立のこの碑は、裏面に一啓斎路川の門人たちが造立したことが記され、路川書の和歌が刻まれている。両側面には月ごとの梅の姿を詠んだ漢詩も刻まれているが、作者は不明である。昭和57年(198212月に区登録有形文化財(歴史資料)となった。

金銅装神輿 
総高224.5cm、胴部幅63.5cm、基部幅116cmの大型の神輿である。小壁に鳳凰、扉に神紋等を蒔絵で描き、要所を金銅金具で装飾し工芸的に優れている。昭和5712月に区登録有形文化財(工芸品)となった。

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弁天像供養庚申塔 
境内の岩の祠の中に安置される。元禄2年(1689)重陽(旧暦9月)28日の日付を持ち、10名の造立者の名が刻まれている。庚申塔には珍しく弁財天を主尊として陽刻している。その左右には雌雄の鶏、下部には三猿が表わされて。昭和5812月に区登録有形民俗文化財となった。

四神文鏡(天保戊戌年在銘)
天保91838)制作で、鏡背に青海波に秋津(蜻蛉)の和風文様が鋳出されている。附属する鏡立は嘉永7年(1854=安政元年)に米穀問屋が寄進したことを記した墨書がある。昭和6011月に区登録有形文化財(工芸品)となった。(足立区教育委員会)

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千寿弁財天 
祭神 市杵島比売命
弁天様として古来より親しまれ音楽・弁舌・福徳・知恵・財宝をつかさどる女神として広く信仰を集めています。この弁天像は供養庚申塔として元禄21689)に造塔されたもので、右手に剣を握り左手に宝珠を持っています。塔の上部には日月、中ほどには二鶏、下部には三猿がそれぞれに刻まれています。弁才天を主尊とした庚申塔としては現在のところ東京では一基と云われています(説明板)

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関屋天満宮(足立区有形文化財 関屋天満宮碑)御祭神:菅原道真公
由緒:鎮座のはじめは村上天皇の時代、天暦3年の2月(949)で御神体は菅公の自作百体彫刻の内の一体であると伝わり、元関屋の里に在って関屋天神と申しました。新編武蔵風土記文政11年(1828)の編纂によれば、源頼朝が奥州平定後の防御の地として千住の地に関所を設けたことにより関屋の地名が起きたといわれ、この地はその昔、名主・庄左ェ門の所有地でこの辺すべて水田や茅野でしたが、度々の出水により天明78月(1787)当社内に御遷宮されました。その跡の印として小祠を建て和歌の名所に「関屋の里」と詠まれたのはこの辺りと思われます。また塚の周囲の葦がみな片葉であった為に片葉の天神ともいわれていました。古くから学業成就の神として里人に親しまれています。例祭日 425日(説明板)
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足立区指定第15号保存樹林
春の新緑、夏には緑濃い中の蝉の声、秋は黄色に染まる銀杏の落葉とぎんなん拾い、冬の枯木立と社殿の屋根を照らす月、街中で四季の移ろいを感じられる貴重な空間としてこの緑を大切にしたいと思います。(案内板)

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街道の風景⑤ 左手に掃部宿憩いのプチテラスがあります

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千住図会(江戸後期)


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千住掃部宿(せんじゅかもんじゅく)/掃部宿憩いのプチテラス
千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永21625)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住一丁目から五丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原中村町(現・荒川区)辺りまで編入され4km余りの街並みが続く千住宿となりました。

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掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ千住宿に加宿されました。名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和21616掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学、医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和6年(1931)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と、千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し足立区随一の繁華街でした。昭和25413日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は焼夷弾で被災し、一夜にして一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。(千住仲町まちづくり協議会)

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千住仲原町付近地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(橙:旧日光道中 緑:掃部堤 紫:熊谷堤)

隅田川(3)北千住01-千住橋戸町の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27679439/

・・・・・
資料ファイル

隅田川の堤防

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二つの堤防
隅田川の堤防として熊谷堤が築かれ、その後、掃部堤が作られました。ふたつの堤防に挟まれた土地は掃部新田となり宿場として組み込まれました。堤防の跡は「大踏切通り」「墨堤通り」になっています。(千住宿場案内)









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日本堤・隅田堤位置効用(資料:迅速測図より作成)/ 荒川下流工事事務所HP

江戸時代の治水対策-日本堤、隅田堤の成立
日本堤隅田堤はその成立過程が必ずしも明瞭に解き明かされてはいませんが、江戸市街地を洪水から守るために築堤されたといわれています。日本堤元禄6(1693) の築造といわれ、隅田川と上野の台地から延びる微高地を延長480 (860) に渡り高さ10(3)、幅4(7.2) でつないだものです。浅草聖天町から三の輪まで続いており、遊郭・吉原へ 中山道の防備も含めた治水対策との通い路としても利用されました。隅田堤の築堤は諸説ありますが16 世紀後期の築造といわれ、綾瀬川合流点から小梅町(綾瀬川合流点上流~千住は掃部宿堤)まで続いていました。

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隅田川の日本堤・隅田堤が接近する部分は堤防が漏斗状狭窄部を形成しています。これにより日本堤の上流側氾濫地帯として下流へ流れる量を制御し、洪水の調整を行っていたと考えられます。なお、規模の大きな洪水の場合には右岸側の日本堤よりも左岸側の隅田堤の方が決壊し易い状況にありました。こうした状況は放水路開削まで続き、明治29の洪水の際には隅田堤を人工的に決壊させて東京の市街地が守られました。そのため家の敷地を高く盛土し(水屋)、さらに盛土部を設け(水塚)食糧等を備蓄するとともに避難場所としての準備がされていました。また、軒下に小舟を吊す「揚げ舟」などをして、洪水時の移動手段に備えている水屋もあります。水屋のある家は昔でも少なく、地主などに限られていました。河川改修が進んだ現在では次第に姿を消していきましたが、荒川下流域である北区の浮間・志茂などには水屋がなお維持されている光景が見られます。(荒川放水路変遷誌/荒川下流工事事務所)

隅田川・荒川放水路(荒川知水博物館)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27574102/

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大日本沿海輿地全図
千住宿:足立郡から豊島郡まで伸びる千住宿が確認できる

大日本沿海輿地全図

江戸時代後期の測量家・伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。「伊能図」や「伊能大図」とも称される。完成は文政4年(1821Wikipedia


(橙:日光道中 黄:下谷通り 青:隅田川・綾瀬川 緑:日本堤 紫:隅田堤)

by Twalking | 2019-07-13 20:20 | リバーサイドウオーク(新規)

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日時 2019.7.5(金)
天気 曇り


長雨が続いて「梅雨籠り」でしょうか・・・、
晴れれば猛暑なので、曇り空ですが気分転換で出かけました。
千住大橋を渡り久し振りの北千住です。

日光街道では街道筋は歩きましたが、ここはじっくりと
時間をかけて歩いてみたい街です。
まず、源氏伝説の伝わる西側を訪ねてみました。



・・・千住大橋

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街道の風景① 千住大橋(旧橋)を渡り隅田川左岸へ向かいます/千住大橋南詰

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千住大橋
千住大橋は隅田川の東京都区部にかかる橋で国道4号(日光街道)を通す。北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住六丁目。旧橋(下り方向)・新橋(上り方向)の二橋で構成されており、旧橋の上流側に都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋がほぼ並行する。
(旧橋)橋長:91.6m 幅員:24.2m 構造形式:鋼タイドアーチ橋 竣工:昭和2年(1927年)
(新橋)橋長:502.5m(南千住交差点をオーバーパス出来る陸橋部が含まれている)構造形式:3径間連続鋼箱橋桁 竣工:昭和48年(1973年)(Wikipedia

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渡裸の渡し
古くはになって徒歩で渡っていたという記録から「渡裸(とら)川の渡し」と呼ばれるようになったと伝わる。後に「とら」という音から「とだ」となり「戸田の渡し」とも称された。現在の千住大橋のやや上流にあたり、奥州への古道が通っていた場所である。千住大橋架橋に伴い江戸初期に廃されたという。Wikipedia


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千住
地名の由来については諸説あり、勝専寺千手観音にちなむとも、千葉氏が居住したことにちなむとも言う。日光街道(奥州街道)の第一宿であり江戸四宿の一つ。文禄31594)年、荒川(現隅田川)に千住大橋が架橋され、寛永21625)年の日光廟造営に伴い交通の要地として発展した。享保年間(1716-36)以降、宿場内の「やっちゃあ場」で毎朝市が開かれ日本橋魚河岸と並んで賑わった。また、川越と江戸を一晩で結び、旅客とともに米麦や薪炭、鮮魚を運んだ川越夜船中継地として水運で江戸の繁栄を支えた。南岸の小塚原には刑場があり、明和81771)年には杉田玄白や前野良沢らが刑死者の腑分けに立会った地として知られる。寛文71667)年本所の回向院が、牢死者や刑死者の供養のため回向院を開創した。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館) 錦絵:江戸名所百景-千住の大はし/歌川広重


・・・千住橋戸町/足立区

足立区の南部に位置する。千住地区(旧千手町)の中では南端部にあたる。国道4号を境に東側には東京中央卸市場足立市場があり、西側では千住大橋周辺の再開発事業が進む。かつては橋戸町であった。Wikipedia

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橋戸河岸
橋戸河岸(千住河岸とも言われる)は千住近隣に交差する綾瀬川・荒川(新河岸川)に置かれた河岸場である。江戸時代には河川舟運が発達し、河川の岸に船着場が置かれ物資の積み上げ・下しが行われた。千住では千住大橋近隣にて橋戸河岸が置かれ、河川舟運により物資の中継基地として綾瀬川・荒川からの舟が発着していた。荒川では川越から江戸へ物資の往来をしていた新河岸川舟運があった。新河岸川舟運は寛永15年(1638)川越城主堀田正盛が東照宮再建の資材運搬のために荷揚場を設置したのが端緒とされ、橋戸河岸では「秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ」という。材木、材木問屋は千住周辺、特に千住大橋と隅田川での状況は江戸絵画でも表現されている。歌川広重の『名所江戸百景』「千住の大はし」でも、千住大橋のそばに船着き場と材木が置かれている状況が描かれている。また、斎藤月琴の『江戸名所図会』隅田川上流「千住川・千住大橋」では船着き場と材木、材木問屋が表現されていることから千住の河岸場が物資の集積地であり江戸市中へ物資が運ばれる中継地点であったことが伺われる(Wikipedia)(図:河岸周辺の建設施設/荒川ふるさと文化館常設展示図録を参照)

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街道の風景② 大原公園の入りに「奥の細道 矢立初めの地」が建っています

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『千住川を大橋で渡ると 千住の風が吹いてくる 此処は大千住の木戸口 橋戸町』/千住大橋大賑会 右:富嶽三十六景「従千住花街眺望ノ不二」千住浮世絵顕彰碑

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富嶽三十六景「従千住花街眺望ノ不二」千住浮世絵顕彰碑
葛飾北斎(1760-1849)は富嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関谷の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いたいます。富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として次代を担う子供たちに伝えるため、画題の対象地と想定される付近に顕彰碑を建立しました。(説明板)

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富嶽三十六景「従千住花街眺望ノ不二」
千住の花街より(従)眺望される富士。前景に大名行列の鉄砲隊、そして小屋越しに毛槍の隊が続くのが見える。中景には稲刈りの終わった田圃の畦道に、美しい農民の娘二人が行列を眺めている。その視線に応えるかのように娘の方を見る武士も幾人かいる。遠くには花街(岡場所、非公認の遊郭)の界隈が見える。そんな男たちの未練を笑うかのように、白く雪化粧をした富士が悠然とそびえる。この版は右端がややつまって、千客万来の前の男の顔が切れている。また下端もややつまっている。過去の所蔵家によっては、自分の持つ額の寸法などに合わせて、浮世絵版画を多少裁断するようなこともあったようだ。また、この版図には「前北斎為一筆」の落款の「前」と「為」の書体のくずしが異なる版がある。(文化遺産オンライン)

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千住大橋と奥の細道
千住大橋は文禄3年(1594伊奈備前守忠次を普請奉行として、現在地よりやや上流の位置に隅田川最初の橋として架けられました。まだ治水も十分でなかった大川での架橋は難工事でした。伊奈備前守は工事の際に熊野権現に祈願して、架橋の無事完成を期したと伝わっています。その後いくたびか架け替えや修理が行なわれました。現在の鉄橋は昭和21927)に完成した長さ92.5mで、当時としては総アーチ型という最新の橋でした。江戸時代の俳人・松尾芭蕉元禄21689)門弟曾良とともに深川より隅田川を船でさかのぼり、同元禄2年(1689327日ここ千住大橋の辺りで船を降り「奥の細道」の旅へ立ちました。この時、矢立てより筆を取って「行春や鳥啼魚の目は泪」と一句。過ぎ行く春を惜しむと同時に、旅立つ者に人ばかりか鳥や魚までが別れを悲しんでいるという意味です。そこには江戸を離れる芭蕉の想いが隠されています。その後、奥羽・北陸をへて大垣に至る約600里、半年にわたる行脚をし道中の詠句をもとに「奥の細道」が編まれました。(文化と歴史の散歩道)

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史蹟・奥の細道矢立初めの地石碑
千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそく行春や鳥啼魚の目は泪』是を矢立の初として、行道なをすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。(碑文)

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奥の細道行程図
元禄2年(1689)旧暦327日、門人河合曾良を伴い深川を舟で発った松尾芭蕉(16441694)は隅田川をさかのぼり千住で上陸し、多数の門人等に見送られて関東から東北、北陸を経て美濃国(岐阜県)大垣に至る旅に出発しました。その行程は何と600里余り、日数にして150に及ぶ大旅行でした。この紀行が元禄151702)に「おくのほそ道」として刊行され、以後我が国を代表する古典文学作品として親しまれています。芭蕉の旅から300年以上を経た今も、芭蕉およびその文学を追慕する多くの人々が旅立ちの地である千住大橋周辺を訪れます。矢立初めの地で、俳聖の遥かなたびに思いを馳せるよすがとしていただくため「おくのほそ道行程図」を建てました。(説明板)

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テラスに降りると堤防に与謝蕪村筆『奥の細道図屏風』が描かれています/隅田川テラス

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広重と北斎の錦絵           千住の大橋と荒川の言い伝え


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橋番付(右)
江戸期の作だが明確な年号は不明
河番付(左)
江戸大川橋(吾妻橋)が1774年の架橋であるから江戸時代後期の作と思われる。千住の大橋は日本の中でも行司役とされている。(説明板)


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千住大橋は隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入府まもない文禄3年(1594)に普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。文禄3年の架橋の際に伊達正宗が資材を調達し、水漏れに最も強いという高野槇が使われたと伝えられています。その後、流失や老朽により何度か架け替え修復をくり返してきましたが、大正12年の関東大震災にも焼け落ちることはありませんでした。しかし震災復興計画に基づいて近代化が計られ昭和2年に現在のようなアーチ式の鋼橋になりました。旧木造橋に感謝を込めてその橋杭を火鉢にしたり千住の彫刻家が仏像などに加工して大切に伝えています。その昔架けられていた一部と思われる木杭が今もなお水中に眠っています。時には桟橋の上から見えるかもしれません。『伽羅よりもまさる千住の槇の杭』古川柳(足立区)

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隅田川の風景① テラスより下流を望みます、3つのブイが水中の木杭の位置です

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御上り場
将軍家、日光門跡など高貴な人々が利用していた湊が千住大橋際、御上り場である。将軍家が千住近郊の鷹狩場(小塚原、花又村、たけの塚、そうか村など)や小菅御殿への通行などに通常利用されていた。

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御上り場までの絵図

絵図によると新大橋1698年架橋)があって永代橋1698年架橋)がないので、この5年間に書かれたものと思われる。水路を主に陸路も書かれている。この時代は川の名称が定まっておらず、浅草近辺では浅草川となっている。千住では千住川と呼ばれていた。(説明板)

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街道の風景② 大橋公園から細路地を橋戸稲荷神社へ向かいます/千住橋戸町

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橋戸稲荷神社鳥居


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橋戸稲荷神社
この社は延長4926)に創建された。千住では歴史の古い神社である。初めは千住の渡し場のほとりの小高い丘に小さな社が造られ、土地の開拓民や荒川の上流から江戸に荷物を運ぶ船頭達の信仰を集めた。祭神倉稲魂命と稱し、本殿は延徳2年(1490)、拝殿は文久2年(1862)に建立された。現在の本殿は土蔵造りで扉を開くと左右に伊豆長八作の雌雄2匹の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られる。懐古本殿500年、奉祀天皇陛下御即位大典(皇紀2650年)を記念し、総代氏子中が集い祝祭をあげ滋に縁起の碑を建立する。平成2915日(境内石碑)

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橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵
当社は昔この地の半農半漁開拓民が稲荷の神を勧請し、延徳21490)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。江戸時代、千住が宿場になると社の付近に上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされこの辺りは継場として栄えた。文禄3年(1594)千住大橋がかけられると人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。文久3年(1863)拝殿の前扉に当時鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白狐が彫刻された。伊豆長八の作品として数少ない貴重な遺作である。(足立区教育委員会)
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隅田川の風景② 左岸の堤防より東電荒川専用橋&千住大橋を望みます/千住橋戸町


・・・千住宮元町


足立区の南部に位置する。千住地区(旧千住町)の中では西寄りにあり千住桜木・千住龍田町・千住中居町・千住・千住仲町・千住河原町・千住緑町に囲まれている。丁目は設置されていない。かつては宮元町であった。(Wikipedia

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街道の風景③ 6号線沿いには源氏伝説が伝わる古社があります、訪ねて見たかった所です/足立市場前

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白旗八幡神社鳥居/千住宮元町

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白旗八幡神社
源義家
が奥州征伐に赴く際、渡裸川の渡し場に白幡を立て戦勝祈願をし、その白幡が名称の起源とされ祀られることになりました。文禄年間、遠州石出から国替えにより下総国千葉に移り住んだ掃部亮吉胤が武蔵国足立郡本木村に移転、土地を開墾して慶長3年(1596)千住宿に接して掃部宿を開発。子孫、名主・庄左衛門が元和2年(1615)に創建された氷川神社(千住仲町)に先祖から伝えられた「白幡」を奉納して「白幡八幡社」として合祀された。(境内掲示)

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千住神社


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千住神社由緒
祭神:須佐之男命 宇迦之御魂命
当神社は千住に集落が形成された延長4926)土地鎮護と五穀豊穣を祈って、伏見稲荷より御分霊を勧請し稲荷神社を創立した。永承61051源義家は奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り二ツ森(千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと古記録に記載されている。弘安21279)に武蔵国・一の宮氷川神社の御分霊を勧請し氷川神社を創立した。この為にここを二ツ森と言っており、旧考録には代々の将軍が鷹狩りを行ったという記事が随所に記録されている。

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寛永年間に至って千住が日光街道の第一宿となり、当神社はその西方にある為に西の森とも言われた。江戸時代までは稲荷神社と氷川神社の二つの神社があったが、明治51118日両社は村社と定められ、更に翌66月には稲荷神社を氷川神社に合祀し西森神社と名を改めた。同年75日に足立区内最高唯一の郷社と定められ更に大正41215日以来、千住神社と改称した。昭和204月戦災にあい全ての建物は焼失したが、33年以降、御社殿、社務所、会館等が再建され戦前以上に立派に整備された。(石碑文)

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千住神社一の鳥居

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千住神社
およそ一千年前、この地は千崎という丘陵原始的森林地帯であった。やがて開拓民がここに住みつき、延長4926)に稲作の神を勧請し石造の祠を建て千崎稲荷神社として五穀の豊作を祈願していた。弘安21279氷川神社を勧請したので二つの神社が原始林の中に並び「二ツ森」とも言われて住民の信仰を集めた。江戸時代の初期、日光街道が開通すると千住は初宿となり、宿場の西方にある神社ゆえ西の森と唱えられた。明治6千崎稲荷神社氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正4に千住神社と改称した。祭神は須佐之男命と宇迦之御魂命の二神を祀り、明治7年に区内唯一の郷社に列せられた。当社殿は昭和20413日の空襲で焼失したが、氏子の厚い信仰と熱誠により昭和339月、現在の社殿(権現造り・流れ作り・神明作りの三者混合)が完成した。(足立区教育委員会)

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千住富士

江戸時代中期に富士信仰が盛んになり「江戸八百八町講中八万人」といわれ、江戸を中心に多くの富士講が生まれ各地に富士塚がつくられました。宿場町として栄えた千住には多くの富士講があり、活気溢れる土地柄もあり当社にも富士塚がつくられ、富士信仰の文化が脈々と受け継がれていました。(現在の富士塚は昭和11年再築)(案内板)

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芭蕉句碑『ものいへば唇さむし秋の風』
慶応3年(1867年)建立。芭蕉の座右の銘として知られる「人の短を云うことなかれ己の長をとくことなかれ」の部分と標題句が記されています。典拠となった「芭蕉庵小文庫」(元禄9年・1696年)の一つは郷土博物館に保存されています。また「物いへば唇寒し秋の風」の創作年代は未詳(足立区HP)

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末社稲荷神社             神楽殿

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千住神社境内

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保存樹林(足立区指定第25号)
昔より当地には二つの森があり、926年神社が建立されて以後二ッ森西森と呼ばれていた。旧考録に江戸時代に代々将軍家が二ッ森で鷹狩を行ったことが記録されている。また、明治初期頃まで古老杉が繁茂し、日中でもなお薄暗く女性や子供一人では奥まで行けなかったと語り継がれている。先の大戦によって樹林の大部分が焼失したが、氏子有志が植林し現在の鎮守の杜の姿となっている。(案内板)

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千住大橋駅付近マップ(薄緑:歩行ルート 橙:旧日光道中 黄色:大師道)

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日時 2019.6.18(火)
天気 晴れ


南千住へ向かいます。
千住大橋を挟んで上宿と下宿がありました。
日光道中で歩きましたが上辺だけだったような。

荒川ふるさと文化館に寄って資料を収集してから、
ひとまず下宿をじっくりと見て廻りました。
千住は見所が多くて面白いですね~。



・・・南千住


東西に長い菱形をした荒川区の頂角に当たる最東端に位置し、東縁を流れる隅田川に北および東を接する。対岸の足立区とは千住大橋と千住汐入大橋、墨田区とは水神大橋と白髭橋の4本の橋梁で連絡されている。南千住は江戸時代における日光街道の宿場町である千手宿を起源としている。隅田川以北の宿場が拡大し万治31660)に千住大橋南側の小塚原町中村町が宿場に加えられ、以来南宿(下宿)と呼ばれた。また、隅田川が弓のように大きく東側に張り出した地形に存在していたかつての南千住汐入(現在の南千住四丁目、八丁目、三丁目東側)は明治時代以降、隅田川の舟運と鉄道貨物基地の陸運を接続する物流要所のひとつであり「大日本紡績(ニチボウ)」と「鐘淵紡績(カネボウ)」の2大工場が立地する工業の町としても発展した。(Wikipedia

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隅田川の風景① スパー堤防から東電荒川専用橋、千住大橋を眺めます/南千住

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街道の風景① 右手が若宮八幡神社、左が荒川工業高校、一帯は千住製絨所跡の跡地です/若宮八幡通り

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千住製絨所跡
この付近一帯には明治121879)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所(せいじゅうしょ)があった。工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6-384045付近)が選定された。敷地面積8300余坪、建坪1769坪の広大なものであった。明治21年(1888)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに現荒川スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。構内にも生産工場にとどまらず研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。戦後民間に払い下げられ昭和37年敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり人々に親しまれてきた。一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。(荒川区教育委員会)

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若宮八幡神社鳥居/南千住


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若宮八幡神社と八幡太郎義家伝説

若宮八幡の名のとおり仁徳天皇を祭神とする。平安時代、奥州攻めに向かう八幡太郎義家(源義家)が荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたとも伝える。足立区千住仲町白幡八幡はこの白幡が納められた神社という言い伝えを持ち、この付近が古くから渡河地点であったことを推測させる。婦人の病に効験があるとされ、祈願して治った時には二股大根を描いた絵馬を奉納するという。近隣の崇敬を受け平成14年(2002)に社殿の新造営が行われた。(荒川区教育委員会)

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かつて米倉屋敷があった場所、子供たちのいい遊び場です/天王寺公園

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米倉屋敷跡
宝永4年(1707)当時下野国(栃木県)皆川藩主であった米倉計昌照がこの地に下屋敷を拝領した。享保16年(1732)屋敷の北側部分が相対替えで屋代氏の所有に移り、残りの南側部分も翌享保17年(1733)に上知(幕府が屋敷地を収公することとなり、米倉氏はわずか20数年でこの地を去ることになる。北側部分はさらに土屋氏・池田氏・曲淵氏の屋敷地となるが、現在でもこの天王公園のあたりは土地の人々から「米倉屋敷」とも呼ばれ親しまれている。(荒川区教育委員会)


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橋本左内の墓・旧套堂/荒川ふるさと文化館
この套堂(さやどう)は昭和8年(1933)に橋本佐内の墓(区登録有形文化財〔歴史資料〕)を保護する(納める、覆う)ために造られた建造物です。大正12年(1923)の関東大震災後に耐震性と不燃性の観点から注目されるようになった鉄筋コンクリート造で、規模は方一間(柱間1.94m)宝形造の屋根、軒裏および柱・梁等の軸部には表面に人造擬石洗出・研出仕上げを施しており、伝統的な建築の意匠と近代的工法との折衷を図った近代仏教建築といえます。もとは回向院(南千住5丁目)境内入口にありましたが、平成182006)套堂のみ区に寄贈され平成21年(2009)ここに復元されました。

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当時、套堂の施主となったのは橋本左内を追慕し遺徳を広く発揚することを目的として明治35年(1902)に設立された景岳会で、事務所は福井県出身の学生を育英するため設けられた輔仁会内に置かれました。設計には同会会員で建築家でもあった原田正があたり、歴史学者黒板勝美(古社寺保存会委員・東京帝国大学教授)に助言を求め、日本建築史を体系化した建築家伊東忠太(東京帝国大学教授・史蹟名勝天然記念物保存協会評議員)の監修を受けています。また、正面に据え付けられた陶製の橋本家の家紋のデザインは、福井県出身で日本の陶彫のさきがけとして知られる沼田一雅(東京美術学校教授)によるものです。当代一流の学者の知識・技術・感性が結集した近代の貴重な文化財といえます。(荒川区教育委員会)

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素盞雄神社鳥居(日光道中側)

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素盞雄神社
小塚原・三ノ輪・下谷通新町・三河島・町屋など区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦14年(795荊石が微妙な光を放ちその光のうちに翁の姿をした二神(素戔雄命、事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ出現した二神を祭神として祀る。宝暦年間頃(1751-64)まで行われていたという千住大橋綱曳はその年の吉凶を占う当社の神事で「東都歳時記」にその雄壮な様が描かれている。(荒川区教育委員会)

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下谷道側鳥居             神楽殿

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飛鳥の杜 瑞光石が祀られています、奥は富士塚です

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瑞光石(ずいこうせき)
瑞光石は素盞雄神社の祭神に姿をかえて降臨した奇岩といわれ「瑞光荊石」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。嘉永41851)には周囲に玉垣を築き、元治元年1864)には洗顔神社を祀った。万延元年(1860)に編纂された「江戸近郊道しるべ」には千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。(荒川区教育委員会)

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富士塚
素戔雄神社には「瑞光石」が鎮座する塚がある。縁起の中で2柱の神が現れたとする祭祀上重要な場所である。この塚はある人の眼には富士塚として映り「南千住富士」とも呼ばれる。また古墳が富士塚に転用されたと見る人もある。いずれにせよこの場所が聖なる場所であることに違いはない。この塚には「瑞光石」に奉納された石造物以外に、人工の富士山=富士塚としての構造物がある。瑞光石の左側に浅間神社の碑がある。その脇から頂上に登山道が伸び途中、五合目として小御嶽石尊大権現の碑、頂上には浅間神社奥宮がある。塚には「黒ぼく」という溶岩塊が積まれている。富士講が建てた碑の多くは西側に林立し、北側には人穴も造られている。明治28年(1895)の由緒書によれば、元治2年(1865)に黒ぼくなどの石を積んで塚を築き、浅間大神を祀った(但し元治元年とする説もある)。現存する碑を見ると造立当初から大正期にかけて碑が断続的に建てられていったようである。その後時期は定かでないが、黒ぼくや碑をコンクリートで固め中に埋める措置が施された。幕末につくられた瑞垣が平成7年に取り払われ(一部、塚の脇に保存)今日の姿に至っている。(説明板)

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天王社の大銀杏
素盞雄神社境内は古来より『あすかの森』と呼ばれ銀杏などの大木が林立していた。『江戸名所図会』にも境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。この大銀杏は幹の周囲約3.3m、高さ約30mである。この木の皮を煎じて飲むと乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり現在も続いている。(荒川区教育委員会)

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素戔雄神社と文人たち
千住宿界隈や隅田川沿岸の社寺には江戸の文人が残した碑が多く見られる。この境内にも文人が建てた二基の碑がある。文政31820)建立の松尾芭蕉の句碑と、旗本池田家の主治医の死を悼んで天保121841)に建てられた森昌庵追慕の碑である。芭蕉の句碑は谷文晁の弟子で関谷在の建部巣兆・儒学者で書家としても名高い亀田鵬斎らが、森昌庵追慕の碑は「江戸名所図会」などの挿絵で知られる長谷川雪旦、この近隣に住んでいた俳人・随筆家の加藤雀庵らがそれぞれ建碑にかかわった。これらの碑は文人たちの交流を今日に伝えている。(荒川区教育委員会)

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芭蕉碑
千寿といふ所より船をあがれば 前途三千里のおもひ胸にふさがりて 幻のちまたに離別のなみだをそゝぐ 
『行はるや鳥啼魚の目はなみだ』はせを翁


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庚申塔群3基(荒川区登録文化財)
江戸時代に建てられた3基の庚申塔で、向かって左から延宝6年(1678)銘、寛文13年(1673)銘、文化8年(1811)銘があります。庚申塔とは60日に一度めぐってくる庚申の日に、寝ずに夜を明かす行事「庚申待」を3年間継続した諸願成就の証しとして建てられたものです。中央寛文13年銘の庚申塔は聖観音が本尊です。聖観音の光背には「庚申講供養」と「念仏講供養」の文字が刻まれ庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られます。延宝6年銘の庚申塔は如意輪観音が本尊です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえます。施主として久兵衛、おとらなど男女15人の名が見えます。文化8年銘の庚申塔には「青面金剛」の文字が刻まれています。寛文13年銘と延宝6年銘の庚申塔は造形上も優れており他の信仰との習合も見られ、また3基の庚申塔から近世の庚申塔の変遷がうかがえ学術的にも貴重なものであるといえます。(説明板)

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江戸名所図会 
飛鳥社小塚原天王宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
江戸名所図会では当社は「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介されています。「小塚原」とは御祭神が姿を出現した瑞光石のある小高い塚に由来する地名で、「天王宮」とは素盞雄大神の別名「牛頭天王」によるものです。(案内板)

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街道の風景② 日光道中と下谷道が合流します、右手が素盞雄神社です/南千住

下谷道
下谷広小路・坂本・三の輪・下谷通新町を通り素盞雄神社の所で右におれ奥州街道(現コツ通り)に合流する道は、江戸時代、日光道などともよばれ、東叡山門主で日光山門主も兼ねていた輪王寺宮日光に行く際の道とされていた。周辺には大名屋敷や寺院・町家が軒を連ね賑わったという。現在の国道4号線(日光街道)がほぼこの道筋にあたるが道路の拡張や改修によってその姿は変ってしまった。
素盞雄神社に至るこの道はかろうじて旧道の面影を止どめている。(荒川区教育委員会)


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誓願寺山門/南千住

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誓願寺
奈良時代末期の草創、長保元年(999)恵心僧都源信が天台宗寺院として開基したと伝える。その後慶長元年(1598)芝増上寺18世定誉随波が天台宗を改め浄土宗とした。天正19年(1591徳川家康が巡覧した際に腰掛けたという2本あった。現在境内には親の仇討ちをしたという子狸の伝承を残す狸塚、庚申塔2基、板碑、汐入村開祖高田氏の墓などがあります。(荒川区教育委員会)

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庚申塔(左:延宝41011日銘)
青面金剛供養塔(右:享保105月吉良日銘)(荒川区登録文化財)

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熊野神社/南千住

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熊野神社
創建は永承51050源義家の勧請によると伝えられる。大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行・伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄3年(1594)橋の完成にあたりその残材で社殿の修理を行なった。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。(荒川区教育委員会)

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千住の河岸
江戸時代、千住大橋袂河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。材木問屋は千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散拠点となるに至った。熊野神社には弘化2年(1845)千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。(荒川区教育委員会)(写真:東電荒川専用橋)

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街道の風景③ 隅田川に架かる最初の橋です、風格がありますね/千住大橋南詰

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千住大橋
千住大橋は「千住の大橋」とも呼ばれている。最初の橋は徳川家康が江戸城に入って4年目の文禄31594年)に架けられた。隅田川の端の中では一番先に架けられた橋である。当初はただ「大橋」と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋が作られてからは「千住」の地名を付して呼ばれるようになった。江戸時代の大橋は木橋で長さ66間(120)、幅4間(7)であった。奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。松尾芭蕉が奥州への旅で、人々と別れたところもここである。現在の鉄橋は関東大震災の復興事業昭和21927年)に架けられ、近年の交通量増大のため昭和48年(1973年)新橋がそえられた。(東京都)

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千住大橋
文禄31594)徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊那備前守忠次が奉行を務めたが工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住6丁目)に祈願したところ工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素戔雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より200m程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。千住大橋は日光道中の初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果(まやませいか)の戯曲「江戸を去る」では最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。現在の鋼橋は昭和2年(1927)、日本を代表する橋梁技術者・増田淳の設計により架け替えられた。プレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは400年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。(荒川区教育委員会)

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隅田川の風景② 千住大橋新橋より下流側の景観です、右岸に日枝神社があります

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江戸名所図会 千住川 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
『荒川の下流にして、隅田川・浅草川の上流なり』

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日枝神社/南千住

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山王清兵衛(日枝神社)
日枝神社は江戸時代、山王社とよばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり正和51316)に建てられたと伝える。この社の入り口にあたる旧砂尾土手北端に歯神清兵衛を祀った小祠がある。いずれかの藩士・清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。(荒川区教育委員会)

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山王清兵衛の祠            砂尾堤の説明板

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砂尾堤と砂尾長者
南千住7丁目20番地付近から現在の隅田川に沿って台東区今戸に向かう道は、土手になっていて砂尾堤と呼ばれた。中世石浜砂尾長者とよばれる土豪が住み、この地を領していたことに因むという。石浜の地は古代から武蔵国と下総国をつなぐ交通の要地であり、砂尾長者は15世紀半ば千葉氏が内紛により下総国を逃れ石浜に入った後、家臣としてこの地に住んだといわれる。台東区橋場にある砂尾不動院の開基とも、中興ともいわれる人物である。現在では平坦な道路になっているが、江戸期の古地図を見ると砂尾堤ははっきり描かれている。橋場の総泉寺まで続いていた。この一帯は昔から広範囲にわたりしばしば水害に見舞われた。汐入堤とも呼ばれたこの堤近くには昭和初期まで砂尾堤根という字が残っていた。(荒川区教育委員会)

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日慶寺/南千住

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日慶寺の鬼子母神
天文1532-55)の頃、日慶という比丘尼が谷中に日慶寺を草創した。その後、3代将軍家光に仕えた円心院日相尼が宝永元年1704)千住南字砂尾と呼ばれたこの地に、当時荒廃していた谷中日慶寺遺号を引継ぎ当寺を開創。そのため円心山日慶寺と号する。現存する鬼子母神像は運慶作・家光感得といわれ、5代将軍綱吉から開山日相尼へ下賜されたものと伝える。宝暦9年(1759)には芝金杉(港区)円珠寺において出開帳が行われている。また、区内最古で釈迦の種子のある正応218294月日銘板碑を所蔵する。元文元年(17369代将軍家重が三河島筋で鷹狩を行った際には当寺が御膳所にあてられている。(荒川区教育委員会)

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街道の風景④現在の日光街道(4号)を三ノ輪へ向かいます/南千住(合流点)

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千住宿/日慶寺参道入口
慶長91604)日本橋を起点として五街道が定められた。奥州道中の第一の宿場が千住宿である。大橋南側から「コツ通り」にいたるこのあたりに小塚原町中村町があって下宿とよばれ、問屋・各種商店・旅篭などがたち並んでいた。江戸の宿場のなかではこの千住宿(本宿と下宿)が最も長い宿場通りであった。(荒川区教育委員会)

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真養寺山門/南千住

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真養寺
運千山真養寺は寛永2年(1625下や三枚橋(現台東区)に開創した広布山真養寺と、万治2年(1659)当地に創建された運千山自性院が元禄2年(1689)に合寺して開かれた寺院である。吉田勘兵衛は自性院創建の際に寺地2240坪を寄進し鬼子母神堂や庫裡、書院なども建てたと伝えられる。

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境内には吉田勘兵衛が先祖供養のために建立した寛文11年(16712月銘の宝塔が今も残る。勘兵衛は現在の大阪府豊能郡出身で、寛永頃江戸に下り本材木町4丁目(現中央区)に住んだ。石材・材木商として江戸城の普請工事に参加し、万治2年(1659)には吉田新田(現横浜市中区・南区)を開発したことで知られている。なお小塚原周辺でも新田開発を行ったとされており万治3年(1660)小塚原町・中村町が千住宿に加宿されたことと、勘兵衛の新田開発との関連が指摘されている。(荒川区教育委員会)

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街道の風景⑤ 常磐線のガードを潜ると大関横丁(明治通り)になります/日光街道(4号)

三ノ輪周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27190538/

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南千住周辺案内図(橙:日光街道・コツ通り 黄:下谷通り 緑:明治通り)

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南千住周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照(橙:日光道中 黄:下谷道)

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隅田川(2)王子~南千住ルート図(赤点線:歩行ルート 橙:日光道中 黄:下谷道 紫:古東海道)

隅田川(2)王子~南千住02-尾久の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27661063/


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資料フィル

荒川ふるさと文化館


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あらかわの周辺の地形と地質
ほぼ京浜東北線を境として武蔵野台地の東端の上野台地旧谷田川(藍染川)のの一部と、東京低地と呼ばれる三角州の低地からなっています。低地をつくる地層は「沖積層」と呼ばれる川や海の作用で積もったやわらかい地層です。これに対して台地には「関東ローム層」が見られ、沖積層よりも古い地層でできています。(荒川ふるさと文化館常設展示図録を参照)


あらかわの古代・中世

古代の荒川は武蔵国豊島郡に属していました。隣接する北区の台地上に豊島郡家(ぐうけ・郡役所)と古代官道の施設である駅家(うまや)がありました。下総国へ向かう道は豊島の駅家を経て、荒川をとおり石浜(現南千住3丁目、台東区橋場付近)あたりで隅田川を渡り下総に入ったと考えられます。石浜は古代・中世を通じて水陸交通の要地で、軍事上も重視され公家・武士・僧侶などさまざまな人がここを行き交いました。

渡し場と橋場
一偏は弟子を伴って常陸国から下総国を経て隅田川を渡り石浜の地に入りました。「問わず語り」に『渡し場を利用する人がおおいので「すたの橋」という大橋が架けられた』とあり、さまざまな人がこの橋を利用していたと思われます。しかし間もなくこの橋は廃止されます。

隅田の渡しと都鳥

平安時代の承和2年(835)には、隅田川に常設していた渡し船が政府の命令により倍の4に増発されました(類聚三代格)伊勢物語の主人公はこの渡しを利用した際、隅田川に遊ぶ鳥の名を渡守に問い『名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は在りやなしやと』の名高い歌を残しました。

もう一つの道

平安時代源義家が陸奥へ向かう途中、荒川があふれて渡れませんでした。紀州熊野の神弊を出して祈願したところ、無事に渡河できたので熊野神社(南千住6丁目)を創建したといいます。この時目印の旗を立てた所が若宮八幡(南千住6丁目)と伝え、対岸の足立区にも義家にまつわる寺社が北へ向かって点在しています。このことは石浜経由のほかに上野台地から北へのびる微高地上があったことを想像させます。

石浜城と合戦

南北朝時代の文和元年(1352)、武蔵野合戦10万の新田軍に敗れた足利尊氏は石浜まで逃れてきました。尊氏は石浜で態勢を立て直し8日後、小手指原高麗原新田軍を打ち破りました。室町時代には太田道灌千葉実胤(武蔵千葉氏)を石浜城に迎え入れます。後北条氏の時代まで石浜は軍事上の拠点として重視されました。(近年の研究では弟の自胤が石浜に入ったことが判明した)(荒川ふるさと文化館常設展示図録を参照)

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江戸名所図会 天正7年隅田川合戦之図 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

橋場・石浜周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27271884/


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あらかわの近世
千住下宿と河岸千住大橋は奥州方面への玄関口として千住大橋は奥州・日光道中と荒川が交差する交通上の要所です。橋のに位置する小塚原町中村町千住下宿として諸役人や荷物搬送のため人馬を提供する役割を果たしました。荒川を上り下りする川船の航行が盛んになってくるとさまざまな職業の店が立ち並ぶ宿場を形成していきました。
河岸模型(荒川区側から足立区側を望む)1/150(荒川ふるさと文化館常設展示図録を参照)


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小塚原村絵図装置
小塚原村絵図は菅谷耕地河原崎耕地大曲耕地3枚の絵図を組み合わせて初めて小塚村の全体景観を知ることができる。絵図は彩色で縦258cm、横149cmと大きなものである。本絵図には道や田畑、用水、町屋敷、寺社、武家屋敷などが詳しく描かれ近世の小塚村の様子を伝える貴重な資料となっている。絵図の作成年代は不明であるが、各所有者ごとに記された田畑反別は元禄11年(1698)の小塚原村検地帳の記載とほぼ一致する。(後世になってさまざまな情報を盛り込んで作成された絵図と思われる)本絵図3枚の絵図から構成される小塚村絵図を合成17世紀末頃小塚村の土地利用状況をしたものです。(荒川ふるさと文化館常設展示図録を参照)
(橙:日光道中・コツ通り 黄:下谷道 緑:砂尾堤・日本堤 赤角:千住下宿・千住大橋)

by Twalking | 2019-06-29 18:48 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川(2)王子~南千住02-尾久   

日時 2019..6.18(金)
天気 晴れ


小台橋から裏通りをお寺を廻りながら八幡神社へ。
宮前駅前の八幡神社は立派な社殿です。
かつては用水が流れ、跡地がプロムナードになっています。

尾久橋は隅田川と荒川が接近し、日暮里舎人ライナーが
走っていて、なかなか景観に優れています。
都電通りから尾竹橋へ向かい渡し場跡などを見ながら
南千住へ、ここはじっくり見てみたい所です。



・・・尾久(おぐ)/荒川区

1923
年(大正12年)の町制施行によって誕生した。現在の荒川区北西部に当たる地域。元々鎌倉時代から室町時代には武蔵国豊島郡小具郷(おぐのさと、おぐごう)と呼ばれ、現在の荒川区東日暮里と台東区根岸、北区堀船のあたりも含む広大な地域であった。古くは「おうぐ」と発音し小具、越具、奥とも書かれた。鎌倉時代の『吾妻鏡』に「武蔵国豊嶋庄犬食名」とあるがこの「犬食」は「大食(おおぐい)」の誤記であり尾久のことではないかとする説もある。小具郷は鎌倉時代には鶴岡八幡宮社領であった。さらに時期は不明だが、正保の改までには上尾久村下尾久村舟方村(後の船方村)に分かれ、江戸時代には上尾久村・下尾久村は峡田領に、船方村は岩淵領に属した。(Wikipedia

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街道の風景① 改良工事で道路の真ん中に軌道、スッキリした街並ですね/小台駅(都電通り)

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小台通りを戻ります          裏通りから尾久八幡神社へ

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宝蔵院山門/西尾久

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宝蔵院
新義真言宗のお寺です。本尊は虚空蔵菩薩、近世の山水画、阿弥陀三尊板碑などがあり元禄4年(1691)の願文が納められている木造不動明王が祀られています。またこの付近一帯は徳川将軍の「お狩場」だった所で、当時将軍の馬を繋いだと伝えられる「駒つなぎのイチョウ」があります。(荒川区HP)

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阿弥陀三尊板碑(荒川区登録文化財)寶蔵院は金亀山地正寺と号する。開山は寛永10年(1633)に没したちょう賢、明治の初期まで閻魔堂があったが火災で失った。所蔵する板碑は下部が欠けていて年未詳であるが、阿弥陀三尊の種子と天蓋・瓔珞が施されている。そのほか元禄4年の願文が納められている木造不動明王、近世の山水画などを所蔵する。境内にはちょう賢を供養するために造られた寛永10年銘の宝篋印塔、一石で造られた一石五輪塔などがある。また、地蔵山墓地の同院管理墓地内には万治元年(1658)銘ほか四基の庚申塔が立っている。(荒川区教育委員会)

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すぐ先に馬場子育て稲荷大明神のお堂があります/西尾久

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地蔵寺山門/西尾久

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地蔵寺
真言宗霊雲寺派のお寺です。本尊の地蔵菩薩は聖徳太子作と伝えられ、子育て地蔵尊として信仰されています。宝暦元年1751)に開かれた地蔵堂に始まり、同9年地蔵寺と称しました。八角堂内には千体地蔵尊が安置され、文明15年(1483)銘の阿弥陀三尊来迎図が描かれた夜念仏供養板碑があります。(荒川区HP)

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地蔵寺文書(荒川区登録文化財)
地蔵寺は金光山宝珠院と号す真言宗霊雲寺派の寺院です。宝暦元年(1751)に分了智範和尚(開基)が地蔵堂を創建したことに始まります。同9年、武蔵国久良郡金沢領寺之前村(六浦藩米倉丹後守領分)に所在する地蔵寺が無住であったため文了和尚は上尾久村の名主らとともに、寺名の譲渡を藩主米倉氏に懇願し幕府の許可も得て地蔵寺と改めました。この地蔵寺の縁起を記したものが宝暦9年「地蔵寺引寺記録」です。地蔵寺文書はこの他明治2年「霊雲寺第十五世大和上御筆」など4点の史料からなります。地蔵寺には別系統の「一月寺文書」が現存します。(荒川区教育委員会)

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一月寺文書(荒川区登録文化財)
地蔵寺の第9代住職・一月正空氏の出身が松戸市一月寺に関わったことにより伝存する史料です。金龍山一月寺(院号は梅林院)は普化宗の総本山で別名虚無僧寺とも呼ばれました。普化宗は中国唐代の普化禅師を宗祖とする禅の一派でその徒を虚無僧と称しましたが、江戸時代には京都明暗寺・下総国小金一月寺武蔵国青梅鈴法寺が根本道場とされました。幕府は普化禅宗として公認して寺社奉行の配下に置き、関東では一月寺と鈴法寺に宗徒を取り締まらせています。「一月寺」文書は普化宗に関する文書を中心とし、天保3-明治3年(1832-1870)までとなっています。天保3年の「十二郡取締穀代高帳」は虚無僧寺院の財政基盤を知ることのできる貴重な史料であり「本則」は一月寺住職が弟子に与えた免許状とされるものです。しかし、明治3年の火災や翌4年の普化宗廃止により一月寺廃絶しています。(荒川区教育委員会)

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大林院山門(だいりんいん)/西尾久

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大林院
ここには八幡神社別当の願勝寺が明治8年(1875)神仏分離で廃寺となるまでありました。明治22年(1889)曹洞宗の尼僧寺大林院が堂守継承しました。鎌倉時代の正和5年(1316)銘の阿弥陀三尊の板碑、慶安4年(1651)と元禄3年(1690)の五輪塔、石仏群や庚申塔等があります。(荒川区HP)

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板碑正和5年銘(荒川区登録文化財)
ここの地には尾久八幡神社別当寺である新義真言宗の願勝寺があった。明治8年(1875)神仏分離で廃寺となるまで尾久八幡神社の運営を司った。現在の庫裡前にある正和5年(1316)銘の板碑、その他の石仏等は恐らく願勝寺から伝わったものであろう。大林院はもと港区三田功雲寺中にあった曹洞宗の寺で、願勝寺の寺地堂宇を継承し今日に至っている。(荒川区教育委員会)

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街道の風景②くねくねとした通りを行くと都電通りにでます、左が八幡神社です/宮前駅

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尾久八幡神社鳥居/西尾久


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尾久八幡神社
八幡神社は応神天皇を祀っており、古くから地域の人々に信仰されてきました。創建の年は不詳ですが鎌倉時代末期正和元年1312)に尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮寄進された頃にさかのぼると考えられ、神社に残る棟札から至徳21385)に社殿が建てられたことが確認できます。8月の第一土曜・日曜に例大祭が行われます。4年に一度の例大祭は、神幸祭と呼ばれ本社神輿などが盛大に町中を練り歩きます。(荒川区HP)

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八幡神社と八幡掘
八幡神社の創建は不詳であるが、鎌倉時代末期の正和元年(1312)に尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると考えられる。また、神社に残る棟札から至徳21385)には社殿が再建されたことが確認できる。江戸時代に幕府が編纂した地誌「新編武蔵風土記稿」には上・下尾久、船方三村鎮守と記されている。八幡堀は王子・上中里・田端・日暮里と流れる用水が八幡神社を取り囲んでいたもので、酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久3-4周辺)を経て荒川(現在の隅田川)に注いでいた。川を往復する船が八幡堀まで進み、交易で賑わい神社の西側では下肥の積み下ろしも行っていたという。(荒川区教育委員会)
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上尾久村村絵図

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八幡神社と上尾久村村絵図
所蔵の上尾久村村絵図(荒川区指定文化財)は神社を中心とする上尾久村の江戸時代の様子を物語る。図中には農業用水の流路、7名の領主名と各領主付農民、村内の寺社などが記され、隣村の田端村や中里村との間で取り決められた用水に関する記述が3ヶ所ある。制作年代は記されていないが、嘉永元年1848)以後のものであると推定される。このほか同社には享保14年(1729)銘の手水鉢や南北朝期の至徳2年(1385)銘をはじめとする棟札等がある。同社の創建年代は不詳だが、棟札の年号等から中世には当地の鎮守として勧請されていたと考えられる。(荒川区教育委員会)
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八幡堀プロムナードを通って尾久橋へ向かいます/西尾久

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八幡掘プロムナード
江戸時代、この地域には石神井川から引かれた「八幡堀」と呼ばれる農業用水路が流れていました。昭和60年(1985)に尾久宮前小学校の子どもたちが今は見えない川となってしまったこの水路について学習をはじめ、それがやがて地域ぐるみの取り組みとなり手づくりの絵本「ぼくらの音無川」にまとめられました。こうした地域活動は高い評価を得て第40回読売教育賞の中で最優秀賞を受賞しました。荒川区はこうした貴重な財産を永く将来に伝えたいと考えこの水路を「八幡堀プロムナード」と名付けて整備を行いました。東京都もこの都道付近が水路跡の一部であったことから、道路の整備に合せて水路をイメージした整備を行いました。この地域の歴史に関する活動を記念しここに古地図のレリーフを設置します。(荒川区教育委員会)


・・・東尾久
(ひがしおぐ)

ひし形をした荒川区の北西部に位置し、西に隣接する西尾久と合わせて尾久と総称される。地区の北を隅田川を挟んで足立区と、東を町屋および荒川と、南を西日暮里および北区と、西を西尾久と接する。(Wikipedia


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華蔵院山門(けぞういん)/東尾久

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華蔵院
真言宗豊山派のお寺です。開創は未詳ですが、中世に造られた板碑2を所蔵し、境内には庚申塔、宝篋印塔など多数の石塔が残されています。当院は江戸時代末期より上尾久村の教育の場であり、弘化2年(1845)に寺子屋江川堂が開かれ、明治11年(1878)には公立尾久小学校の前身の私立田辺小学校が設立されました。(荒川区HP)

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光明遍照偈板碑(荒川区登録文化財)
華蔵院は大悲山観音寺と号する真言宗の寺院。開創は未詳だが中世に造られた板碑2を所蔵する。うち一基は「光明遍照十万世界、念仏衆生摂取不捨」の光明遍照偈が阿弥陀の種子を月輪のように取り囲む形態のもので他に例を見ない。そのほか境内には庚申塔・宝篋印塔など多数の石塔が残されている。また、当院は江戸時代末期より上尾久村の教育の場となった。弘化2年(1845寺子屋江川堂が開かれ明治11年には私立田辺小学校が開校。現在の尾久小学校の前身である。(荒川区教育委員会)

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玄琳牡丹屋敷跡/東尾久
江戸時代後期、ここに佐治玄琳という医者の屋敷があり、文化年間(180418)庭に見事な牡丹を植えていたため牡丹屋敷と呼ばれた。二列の花壇は夏になると大小色とりどりの牡丹が咲き乱れ、なかには珍しい品種も植えられていた。特に百輪以上の花を付ける一株が有名で、将軍の御物とされ毎年詳細な書上を提出していたという。将軍もたびたびここに御成をしたが、実際に訪れた千万庵敬順は庭のしつらえを称賛しつつ「将軍御物の牡丹は元々上総国(現千葉県)産で、樹の高さは約七尺(約2.1m)あり左右へ伸びた枝は約九尺(約2.7m)余。根本の幹の太さは2尺一寸(約75.2cm)もあり、花はみな薄紅の八重である」と「遊歴雑記」に書き残している。(荒川区教育委員会)

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隅田川の風景① 下流側の景観 右岸が東尾久、左岸が小台、区境になります/尾久橋

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尾久橋(おぐばし)
都市計画道路放射11号尾久橋通り(都道58号台東川口線)を通す。北岸は足立区小台1丁目、南岸は荒川区東尾久8丁目。橋名は荒川区地名にちなむ。隅田川に架かる橋であるが、北岸部で荒川に架かる扇大橋と連続するような形になっている。橋長:431.0m 幅員:24.0m 形式:3径間連続鋼床鈑箱桁橋 竣工:昭和43年(1968年)(Wikipedia

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熊野の渡し
現在の尾久橋付近にあったもので大正中期から昭和にかけて利用されていた。下流の尾竹橋や上流の小台橋が開通した後は徐々に利用客が減少したものの1950年(昭和25年)まで利用された。尾久橋のたもとに案内板が設置されている。Wikipedia

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荒川の風景① 下流側/扇大橋
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荒川の風景② 上流側/扇大橋

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扇大橋
荒川(荒川放水路)に架かる都道58号台東川口船(尾久橋通り)の橋である。荒川河口から15.5kmの位置に架かる橋で、左岸側堤内地には取り付け道路の斜路があるが、右岸側では隅田川に架かる尾久橋と直接接続している。すぐ下流側には日暮里・舎人ライナーの荒川橋梁が並行して架橋されており南詰に足立小台駅、北詰に扇大橋駅がある。左岸側は足立区扇、右岸側は足立区小台で橋名は左岸側の地名にちなむ。橋長: 445.4 m(河川区域外のアプローチ区間を含めると625.0 m)幅員: 26.0 m 構造形式: 3径間連続鋼ゲルバー式桁/連続箱桁橋 竣工: 1974年(昭和49年)(Wikipedia

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日暮里・舎人ライナー
荒川区の日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅を結ぶ東京都交通局が運営する案内軌条式鉄道・AGT(走行路面上の中央または側壁にある案内軌条に案内輪をあててゴムタイヤで走行する交通機関)路線である。路線距離:9.7km(13)  最高速度:60km/h 開業:20083月(Wikipedia

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街道の風景③ 都電通りと尾竹橋通りが交差します、左斜めに入り尾竹橋へ向かいます/熊野前駅

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首都大学東京荒川Cの学食で一休み/東尾久

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十三坊塚
首都大学東京荒川キャンパス付近はかつて十三坊という名で呼ばれており、新編武蔵風土記稿によれば旧上尾久村側に『十三坊塚 当所ニ四所アリ。高各五尺許』と4基、下尾久村側に『十三坊塚 村北ニアリ。高サ五尺、廻リ七八間。八ケ所程アリ。此内ニ砂利塚ト唱ヘルアリ。永禄年中、太刀具足様ノモノヲ掘出セシコトアリシト云』と8基あり、高さ1.5m、径13から15程の塚が計12基が所在していたようある。この十三坊という地名は古代の条理制に基づく地名らしく、また塚から太刀や具足の類が出土したという記事から武具を副葬した古墳群であったとも考えられ、荒川区報では古墳であったろうと推定されている。(Wikipedia


・・・町屋
(まちや)


東西に長い菱形をした荒川区の中央北部に位置する、下町的町並みを持つ。町域の北と東を隅田川に接し、尾竹橋をもって対岸の足立区とつながる。南は区役所の所在する荒川と西は東尾久と接する。(Wikipedia

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街道の風景④ 旭電化通りを尾竹橋へ向かいます/町屋 

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尾竹橋通り町屋駅方向         左折して尾竹橋へ/荒木田

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隅田川の風景② スカイツリーが見えてきました、右に大きく蛇行して流れます。右が町屋、左は千住桜木町になります/尾竹橋

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尾竹橋(おたけばし)
尾竹橋通り(都道313号上野尾竹橋線)を通す。南岸は荒川区町屋六丁目と七丁目を分かち、北岸は足立区千住桜木二丁目。橋名はこの場所の足立区側にあった「尾竹の渡し」の名に因む。尾竹の渡しは元来お茶屋の渡しと呼ばれていたが、茶屋に「おたけさん」という女性がいたことから呼ばれたとされている。付近は千住西新井大師への渡船場として栄えてきた場所であり、昭和93月に関東大震災後の復興事業の一環として計画、架橋された。当時の橋は長さ132m、幅10.2mで当時最新の5径間突桁式上路鋼鈑桁橋(ゲルバー桁橋)であった。 交通量の増大と橋脚の老朽化に伴い平成4に現在の橋に改架された。橋長:130.3m 幅員:15.0m 形式:3径間連続ローゼ桁橋 竣工:平成4年(1992年)(Wikipedia

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お茶屋の渡し (お竹の渡し)/尾竹橋公園
ここから南へ70行ったところに 町屋足立区千住桜木1丁目を結ぶ渡しがあった。対岸の足立区側の渡し場の脇に三軒茶屋があったことからこの名がつけられたといわれる。別名をお竹の渡し。茶屋に「おたけさん」という名の女性がいたためにそう呼ばれたという。この渡しは天保年間(183044)にはじめられたと伝え、千住・西新井方面へ向かう交通路として重要な役割をはたした。昭和9にこの渡しから少し上流に尾竹橋が架けられた後もしばらくは渡しが残っていた。(荒川区教育委員会)


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街道の風景⑤ 左に入った荒川病院の前に一本松の渡しの説明板があります/町屋

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一本松の渡し/町屋
現在の上水千住水管橋付近にあった渡し。京成電鉄隅田川橋梁上流100 ほどの位置にあたる。千住町屋を結んでいた生活道路であったという。いつごろ廃止されたのかは不明。上水千住水管橋そばに案内板が設置されている。名は付近の庚申塚にあった大きな松の木に因むといわれる。この松は元禄6年に町屋村と三河島村との境に植えられたと伝えられ、後に戦災で枯死したものの、一本松グリーンスポットという小公園に現在2代目の松が植えられている。なお、近くを通る都営バスの停留所名として「一本松」の名が残っている。Wikipedia

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京成本線隅田川橋梁          右手が三河島水再生センターです
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隅田がの風景③ スーパー堤防より上流側の景観です/南千住

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隅田川の風景④ スーパー堤防より下流側の景観です/南千住

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東京都のスーパー堤防整備
東京の東部低地帯は地盤が低いためこれまでに何回も水害を受けてきました。東京都はこれらの地域を高潮や洪水から守るため昭和30年代後半から短期間のうちに防潮堤・護岸建設しました。

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変化する堤防の役割とスーパー堤防
防潮堤・護岸はなるべく早期に水害から人々の生活を守るため、水害に対する機能を優先して造られました。その結果、カミソリ護岸とも呼ばれ河川から人々を遠ざけてきました。現在の河川整備には河川の親水性向上や自然環境機能の回復も強く望まれています。さらに大地震時における地盤の亀裂・断層や液上化などの特異現象にも配慮した耐震性向上を図る必要があります。東京都は東部低地帯のカミソリ護岸をスーパー堤防に代表される土でできた河川堤防に改築していくことにしました。土の堤防は大地震時に見舞われても大きな損傷を受けることがなく、仮に損傷しても応急復旧が容易に行えます。現在のカミソリ堤防を取り除くことが出来、河川に身近に接することができるようになります。スーパー堤防の整備は背後地の土地利用の効率化と協力して実施しています。(碑文抜粋/東京都公と治水事務所)

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尾久・町屋周辺地図

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町屋周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照

隅田川(2)王子~南千住01-堀船の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27655180/

by Twalking | 2019-06-25 19:48 | リバーサイドウオーク(新規)

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日時 2019.6.18(火)
天気 晴れ


季節の変わり目、腰痛で自重していました。
座っているのが良くないのかな・・・、
歩いている方が楽ですね。

痛みも引いたので歩きに出かけました。
上中里から隅田川を南千住へ下ります。
川風が気持ちいいですね~、のんびりと行きます。


・・・上中里
/北区


京浜東北線の電車が走る線路を境にして南側の一丁目は武蔵野台地に属する高台であり、一方北側2丁目- 3丁目は隅田川沿いの低地にあたる、下町に分類される地域である。この間を結んでいる瀧野川女子学園前からJR上中里駅前を通り左に湾曲しながら平塚神社脇にのぼっていく坂は蝉坂あるいは攻坂と呼ばれる。坂下にあたる二丁目・三丁目はいずれも住宅地と工場が混在する地域であるが、北東部の大部分はJR東日本尾久車輛センターの敷地となっている。(Wikipedia

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街道の風景① 左手が平塚神社のある武蔵野台地、右が東京低地になります。梶原駅を通り隅田川へ向かいます/上中里駅

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街道の風景② 下町情緒溢れるいい商店街ですね・・・/梶原駅

梶原銀座商店街

梶原銀座商店街は都電荒川線の北側に面した商店街です。梶原仲銀座商店街とも接しています。戦前から愛宕地蔵を守り毎月3のつく日には縁日が行われます。特に夏の縁日は盛大です。またこの商店街は都電荒川線の形をしたおなじみの和菓子「都電もなか」のお店があることでも有名です。(北区HP)


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荒川線梶原駅             都電もなかの和菓子屋さん

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愛宕地蔵尊
この地蔵H江戸時代にこの地域を領していた水野家の本郷の屋敷内から、当地の小泉家が勧請してきたと伝えられている。この尊は眼病平癒と火防の祈願仏として広く信仰を集め、毎月3日、13日、23日はこの尊のご縁日と定められており、お参りする善男善女のお線香の煙は途切れることがありません。(説明板)

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荒川線
荒川区南千住一丁目の三ノ輪停留場から新宿区西早稲田一丁目の早稲田停留場までを結ぶ東京都電車(都電)の軌道路線(路面電車)である。かつて東京都23区内内を中心にピーク時で40路線を展開していた都電路線が廃止された後、唯一現存する路線である。東京都23区内で営業を行う軌道線は同じ都営の日暮里・舎人ライナー、ゆりかもめの軌道線扱いの区間を除外すると、当線と東急世田谷線を残すのみとなっている。大部分は専用軌道となっており、自動車道路と重なる併用軌道区間は約1.7km(全区間の14%)である。併用軌道は明治通り(国道122号)上の王子駅前-飛鳥山間小台-熊野前間のみで、後者においては道路中央の区分された空間に軌道を敷設するセンターリザベーション方式(準専用軌道・軌道が中央)が採用されているため車道と区分されていないのは前者のみである。Wikipedia

上中里駅・平塚神社周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27071692/


・・・堀船

北区の南東部東端部、荒川区および足立区との区境に位置する。町域北東を隅田川を挟んで対岸に足立区宮城、南東を荒川区西尾久、南を上中里および栄町、西を石神井川を挟んで王子、北を豊島と相対する。町域内を明治通りが北西から南東に通る。1889年(明治22年)の町村制施行時点に北多摩郡王子村大字「堀之内」および大字「船方」といった。大字時代の「堀之内」と「船方」をより一文字ずつ取った名前である。(Wikipedia

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『堀船』の名の由来/北区立白山堀公園
堀船の名は堀之内村船方村とが合併してできたものである。江戸時代から明治22年までこのあたりは梶原堀之内村であった。しかし昭和7に東隣の船方村と合併して堀船という地名になった。足利時代末に太田道灌の孫であり太田資正(三楽斎道誉)の子である梶原政景が、今のポンプ場(堀船3丁目の下水道局王子ポンプ場)あたりに屋敷を構えたと言われている。その屋敷の内堀の内ということで梶原堀之内村と呼ばれていた。梶原の姓は永禄元年(1558)古河公方義氏の元服の時に太刀役を務め梶原の姓を与えられたという説(『異本小田原記』)と、同4年長尾景虎が上杉姓と関東管領を譲られた拝賀の時に与えられたとする説(『北条記』)がある。(永禄5年の政景の初見史料ではすでに梶原を名乗っている)

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梶原政景は下総国の土豪で柿岡城主であり「弓矢打物達者にて、鬼にも神にも逢ふべき器量」で和歌、手跡・早歌・乱舞・馬上・鞠など諸芸にも秀でていたという(『異本小田原記』)福性寺の本堂前に「地名発祥梶原塚」という標石があり梶原塚と呼ばれている。船方村は豊島の7つの村の1つで、江戸時代に船の組み仲間として有名な船頭の一族がこのあたりに住んでいたと言われている。町の名前が堀船になっても梶原という呼び方はこの地に住む人の愛着や郷愁からか、梶原○○○と呼ばれるところも多いようである。(参考)東京都北区立堀船小学校創立70周年記念「わたしたちの堀船」/案内板

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白山神社鳥居/堀船

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白山神社/堀船
当社は維新前まで寺院が別当であったため、神仏分離のさい古文書等ことごとく紛失したので、創立・沿革等は文献で証左することは不可能であるが、いい伝えによると鎌倉時代以前のものであることが明らかなようである。源義家奥州に出陣のさい、当白山社に詣で戦勝を祈り奥州を平定し、当地を経鎌倉より京師にのぼれりといわれている。現在堀船地内鎌倉街道は当時よりいい伝えられたものである。当社は当時梶原堀船の鎮守として白山大権現と称えたるものであり、慶長年間(15961615)徳川家康江戸城に入るや、上野に東東叡山寛永寺を創立し、梶原堀の内(堀船)をその領地としてより、白山神社の氏子は漸次増加し徳川の家臣にも崇敬したもの多数ありという。(東京都神社名鑑)

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福性寺参道/堀船 門前に延命招福地蔵尊があります

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福性寺山門


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福性寺
真言宗豊山派。本尊は大日如来像です。創建年代は不詳ですが「北区史」には「本尊は大日如来、寛永2年創建の際の彫刻で、開基は篤信法師である。…記録を焼失して詳細は不明である」と記されています。寛永2年は西暦1625年にあたり江戸時代前期になります。この寺の境内にある石造物の多くは梶原塚にあったものということです。

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梶原塚は太田三楽斎資正(太田道灌の子孫)の次男・梶原源太政景墳墓で、享保(1716-36)のころまでは石碑・石段があったが、洪水で川に崩れ込み今は一株の松だけがあると「江戸名所図会」に記されています。梶原政景は鎌倉時代の梶原氏の名を継いだ戦国時代の武将で、系図の上からは太田氏に属します。「武蔵古蹟志」に『梶原塚…40年許り以前は塚もあり御影石の燈籠ありしが、塚は川へ崩込、石燈籠は誰か盗み、今は川岸に小竹少生たる中に松二本あり畑にて道なし』と記されているといいます。「北区の歴史」には「武蔵演路」によると洪水で崩れた梶原塚を村人が修復したと記されているが、その後の河川の改修などにより梶原塚にあったいろいろな石仏を当寺に移したと記されています。(北区文化財案内)


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江戸名所図会 梶原塚 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

梶原塚と庚申塔

梶原塚(写真の左右)は1600年頃庚申塔(写真の中央・上記)は元禄元年1688年)に建立されています。都電荒川線「梶原駅」はこの梶原塚と江戸時代の旧村名梶原堀之内村から名づけられました。(福性寺HP)

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隅田川の風景① 梶原の渡船場があった所です、上流のポンプ場(ガーダー付近)に梶原政景の居館跡と言われます/堀船周回ロード

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梶原の渡船場跡
この奥の隅田川沿いには明治・大正・昭和にかけて対岸の宮城村(足立区)との間を結ぶ渡船場がありました。明治41(1908)現在のキリンビール東京工場の敷地に下野紡績の工場ができ、対岸からも人々が工場へ通勤するようになりました。そこで両岸の梶原・宮城地区の住民有志が出資してつくった船の発着場がこの梶原の渡船場です。

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子供の頃から父親とともに船頭をしていた方の話によると最初、運賃は大人一銭・子供5厘・荷車一銭五厘・自転車一銭だったそうで、この渡しができたことで地域の住民の交通の便が非常に良くなりました。また、荷車という運賃があるように駒込にあった市場に野菜を出すための交通路としても利用され、毎日15台以上が隅田川を船で往復していたそうです。第二次世界大戦中には足立方面などに軍需工場が多くなり工場へ通う通勤者の行き帰りの足として混雑したそうですが、交通手段の整備とともに渡しが使われることも少なくなり昭和36(1961)その姿を消しました。(北区教育委員会)

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堀船周回道路を下流へ           延命寺/真言宗豊山派のお寺

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船方神社鳥居/堀船

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船方神社の十二天塚
船方村鎮守の船方神社は江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森十二天社とよばれました。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は次の伝承にもとづいて建てられたものです。昔、この地域の荘園領主豊島清光は子供に恵まれず熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立小輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(荒川)に身を投げ、十二人の侍女も姫を追って身を投げたという話が、江戸六阿弥陀仏伝承のなかにあります。十二天とはこの十二人侍女を指すと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため塚などの祭壇にまつりました。

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密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰とが結びつき、船方神社の十二天社としてまつられたものといえます。なお、この伝承は江戸時代、江戸六阿弥陀仏参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。(北区教育委員会)

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御嶽神社               水神宮

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十二天塚 すぐ裏は隅田川です


・・・荒川区


縄文・弥生の原始時代には
荒川区の地域は大部分がで、日暮里の台地だけが陸地となっていました。日暮里の台地からは道灌山遺跡日暮里延命院貝塚も発見され当時集落があったことが確認されています。江戸時代には日光道中初宿の千住宿が置かれ往き交う人でにぎわいました。また、近郊農村地帯として発展し汐入大根・荒木田大根・三河島菜(漬け菜)・谷中しょうがなどが有名でした。明治時代になると大工場が相次いで設立され工業地帯が形成されていきました。大正2には王電(のちの都電)三ノ輪から飛鳥山下(現在の栄町)が開通し、関東大震災後、官営工場千住製繊所と宅地化が進みました。南千住・三河島・尾久・日暮里の四つの町が一つになって荒川区が誕生したのは昭和7のことです。(荒川区HP)

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あらかわ遊園 現在工事中です。ぐるーっと廻って隅田川テラスへ向かいます/西尾久

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荒川区立あらかわ遊園
荒川区にある遊園地。2018年(平成30年)より工事に伴い長期休園中となっている。1922年(大正11年)失火で操業停止した旧煉瓦工場跡地に工場経営者広岡勘兵衛が私立遊園地「荒川遊園」を開園。「遊園」と言うものの当初はアトラクションと呼べるものはごく僅かだった。主要施設は温泉大浴場や演芸場、料亭などで、大人が寛ぐ現在のクアハウスのような用途の施設だった
Wikipedia

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隅田川の風景② 川風が気持ちいいこと、小台橋へ向かいます/あらかわ遊園裏

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上流側                下流側に水上バスの発着所があります

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隅田川の風景③ 下流の尾久橋を望みます/小台橋

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小台の渡し(あらかわの史蹟・文化財)
西尾久3丁目と足立区小台2丁目を結ぶ渡し。尾久の渡しとも呼ばれ、江戸時代から重要な交通機関であった。西新井大師・六阿弥陀の一つ沼田恵明寺に詣でる人々も多く利用した。平常は尾久側と対岸の足立区側の農民が半月交代の当番制で渡していたという。昭和8に小台橋が架橋され 次第に衰徴し廃止された。(荒川区教育委員会)

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小台橋
小台通り
(都道458号白山小台線)を通す。北岸は足立区小台2丁目、南岸は荒川区西尾久3丁目。架橋前は付近に「小台の渡し(尾久の渡し)」があり、江戸時代より江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用した。小台橋が最初に架橋されたのは昭和81933)で関東大震災後の都市復興事業により架橋された。いわゆる「震災復興橋梁」には数えられないが復興都市計画に基づいて架橋されたものである。その後老朽化によって平成41992年)に現在の橋に架け替えられた。橋長:122m 幅員:15m 形式:鋼ニールセンローゼ桁橋 竣工:平成4年(1992)(Wikipedia


・・・小台
(おだい)/足立区


北を荒川、南を隅田川に挟まれた東西に細長い町域を形成している。町域自体は広大ではないが足立区でも最大規模の工場集積地帯である。足立区が成立した際に大字小台は小台町小台大門町(旧・字大門)とに分割された。旧小台大門町には弥生式後期の土器が発掘されておりかなり古くから人が住んでいたと考えられている。「小台」の地名がいつ頃より用いられていたかは定かでないが律令国である武蔵足立郡の成立まもない頃から「小さい台地」と言う意味で「小台」と呼ばれ始めた模様である。荒川もこの台地を避けて流れていたことが推測され、自然堤防一部であったと思われる。(Wikipedia

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隅田川の風景④ 上流側 堀船の十二天の森、白山神社の社叢を確認、奥は王子の街でしょうか/小台橋

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天祖神社鳥居/小台


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天祖神社
御祭紙天照大御神、相殿:淤母陀琉命、伊邪那美命
天照大御神は天津御祖の大神と称され日本国民の総祖神におはします。生成化育修理固成の御神徳をお持ちになり国民の上に恵みある御光を、投げかけ下さる大神として信仰されています。昭和14年現在の社殿を造り昭和3021日天祖神社として、村社江北氷川神社より分祀独立し小台の鎮守神として住民の尊心を専らにして変る事なく今日に至る。(説明板)

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堀船周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照

隅田川(1)岩淵~王子02-豊島の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27637937/

by Twalking | 2019-06-21 22:04 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川(1)岩淵~王子02-豊島(2)   

日時 2019.5.30(木)
天気 晴れ


隅田川が大きく湾曲して流れる「天狗の鼻」を
現荒川沿いを走る中央環状線を望みながら
ぐるっと一回り、なかなかの景観です。

鼻の先は六阿弥陀道の渡船場があったようです。
この先、溝田橋手前で石神井川が合流しますが、
緑道に旧河道跡も確認することもできます。



・・・天狗の鼻/豊島

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隅田川の風景① 新豊橋から堤防沿いに「天狗の鼻」をひと廻り/隅田川テラス

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右に大きく蛇行してます              カーブすると隅田川防潮堤碑があります

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阿弥陀の渡船場跡
ここにはかって豊島村から沼田村(足立区)への渡船場がありました。この渡船場は豊島の渡六阿弥陀の渡・中の渡・原の渡とも呼ばれていました。旧荒川(現隅田川)の流路は現在の荒川まで大きく湾曲していてこの地形を天狗の鼻と呼んでいました。渡船場は湾曲の頂点より少し下流に位置していました。豊島清光の造仏伝承にまつわる六阿弥陀詣が江戸時代中期以降に盛んに行われるようになりました。この渡船場は六阿弥陀詣の一番西福寺 (北区豊島2-14-1)から二番延命寺(江北橋北詰辺にありましたが、明治9恵明寺(えみょうじ)に合併されました)への参詣路にあたっていたため、六阿弥陀詣の行われる春秋の彼岸の時には参詣客でとくに賑わいをみせました。

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文化11(1814)頃に当地を訪れた十方庵敬順(じゅっぽうあんけいじゅん)はこの渡船場付近の川端の様子を『荒川の長流にそひて、左右の渚の景望はいふもさらに、弓手は渺茫たる耕地を見わたし、心眼ともに打はれて、実に賞すべきの景地たり』と記し、こうした土地に住んで花鳥風月になぐさめられて暮らしたならば寿命も延びるであろうと賞賛しています。明治44(1911)から荒川の河川改修工事が始まり、次いでこの付帯事業として大正12(1923)4荒川放水路(現荒川)江北橋が、同14年荒川(現隅田川)豊島橋が架橋されこの渡船場も姿を消していきました。(北区の歴史と文化財)

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江戸名所図会 六阿弥陀廻  (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
『春秋二度の彼岸には六阿弥陀回(めぐ)りとて、日かげの麗(うら)らかなるに催され、都下の貴賤、老いたる若き、打ち群れつつ朝とくに宅居(いえい)を出づるといへども、行程(みちのり)遠ければ、遅々たる春の日も長からず、秋にはことさら暮れやすうおもはるべし』


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隅田川の風景② 下流に架かる豊島橋です、テラスはここで途切れます

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隅田川の風景③ 上流側の景観です、右岸に船着場、左岸は宮城ゆうゆう公園になります/豊島橋

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豊島橋
都道307号王子金町江戸川線を通す。北岸は足立区宮城2丁目、南岸は北区豊島5丁目。橋名は北区の地名にちなむ。もともと現在の橋の上流300ほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」とよばれる場所に鎌倉時代から続くとされる「六阿弥陀の渡し」(豊島の渡しとも)があり、六阿弥陀詣の人々で賑わったと伝わる。1925(大正14年)この場所に最初の豊島橋が木橋として架けられた。初代の豊島橋は荒川を渡る同じく木橋の旧江北橋と結ばれていたが、老朽化によって1960(昭和35年)に下流の現在の位置に両橋ともどもゲルバー式鋼製桁橋として改架された。 橋長:106.7m 幅員:15.0 m 形式:単純下路式鋼ローゼ桁橋 竣工:2001年(平成13年)(Wikipedia

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五色桜大橋
足立区の荒川(荒川放水路)に架かる首都高速中央環状線の橋である。江北ジャンクションと王子北出入口の間に位置する。荒川の河口から16.5 kmの地点に架かる世界初の2層構造のダブルデッキニールセンローゼ橋で、上層部が内回り(板橋方面、下層部が外回り(江北方面)となっている。右岸は豊島5丁目宮城2丁目を分かち、左岸は足立区江北2丁目に至る。日没から22時まで橋の白色LED照明を使用したライトアップが行なわれている。この付近の荒川堤一帯がかつて五色の桜が咲く名所だったことからこの名が付けられた。全長:146.207m 支間長:142.241m 有効幅員:14.993 m16.0 m(上層) 開通:2002年(Wikipedia

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隅田川の風景④ 首都高が隅田川を横断する辺りが石神井川の河口になります/豊島橋

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街道の風景① 少し離れてますが川沿いの道を西福寺へ。途中に地蔵堂があります/豊島
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下道(しもみち)地蔵尊

下道のお地蔵さんはこの辺りを本拠地とした中世の豪族・豊島氏に因んだ「六阿弥陀伝説のお地蔵さん」と言われて、豊島村の人々の信仰を受けていました。真中の一番大きな石仏が本尊様だそうです。時代と共に近くにあった石仏がだんだん集められて今のように18体もまとまりました。下道とは昔この辺りから「」=志茂(現在の北区志茂)へ向かう道が分かれていたので地名としてこのように呼ばれていたのです。(説明板)


・・・石神井川河口

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石神井川の風景① この先で石神井川が隅田川に合流します/新堀橋

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新堀橋                中央環状線が隅田川を横断してます

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新堀橋左岸に石神井川の旧流路が残ります/船堀緑地

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石神井井川の風景② 上流の豊石橋を渡ると西福寺です

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石神井川
石神井川の水源は小平市のはずれの湧水ですが、現在は宅地に埋まりはっきりしなくなっています。この水源の小さな流れにところどころの湧水が集まって小川となり、練馬区の三宝寺池の豊かな湧水が加わり、板橋区から北区内に流れ込み、滝野川・王子本町・王子・豊島・堀船地先を貫流し、隅田川に流れ込んでいます。この三宝寺池から昔、石剣が出たので石神(しゃくじ)のを祭り、池からの流れを石神井と呼んだのが石神井川の名前の由来とされています。武蔵野台地をえぐる流れは石神井川の渓谷と言われる渓流となり、この谷の美しさは絵にも描かれ詩歌にもうたわれてきました。また、王子神社(王子本町1-1)の付近では音無川(おとなしがわ)とも呼ばれてきました。石神井川は遠く昔からたくさんの人々がこの水を求めて生活を営み、この流れに沿って繁栄してきました。徳川幕府の反射炉を築く計画では、準備のために石神井川を拡張する工事などが行われ、荒川(現在の隅田川)からの舟運の便に活用され、明治に入ると工業用水としての使命を持つようになり、現在の王子製紙国立印刷局王子工場などが建設されました。(北区を流れる河川/北区HP)

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街道の風景② 住宅地の中に続いていますが、古い道のようです/西福寺門前

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西福寺参道/豊島

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西福寺仁王門

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西福寺
西福寺は六阿弥陀第一番の寺として知られています。江戸の人々は春秋のお彼岸に六阿弥陀詣を盛んに行いました。花見と紅葉の時期を楽しむ目的もあったようです。区内には西福寺のほか無量寺が第三、與楽寺が第四番阿弥陀とされています。境内には「よさこい節」に登場するお坊さんがかんざしをあげたという土佐のお馬さんの供養塔があります。また明治維新の際に起こった上野戦争で敗走中に王子付近で戦死した彰義隊士6名を供養したことが記されている六士銘記の碑があります。山門内には昭和46年のサイパン慰霊祭の折、参謀本部跡より収集された血染めの土砂と遺骨を納めた「彩帆観音」が祀られています。中庭に面して鎮座している極彩色の仏像は阿弥陀如来露座大仏です。(あるきたくなるまち北区)

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奉石橋
他に六部夫婦(巡礼)のお地蔵さんがあります。享保年間この近くの奉石橋(現在の豊石橋)が土橋であったのを石橋に作り変えた豊島町の恩人です。なおこの石橋は滝野川に反射炉を築くときにとりこわし、石は豊島町10ヶ所の用水の橋となりました。この用水の橋は現在でもこの西福寺に2だけ残っています』(北区の歴史と文化財)

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お馬塚由来記 
土佐の高知の播磨屋橋で 坊さんかんざし買うを見た
全国的に知られる民謡よさこい節は今から120年前の安政元年、四国八十八ヶ所第31番の札所高知所在の五台山竹林寺の僧で36歳になった純信と近所に住む鋳かけ屋の娘で16歳になったお馬との年齢座を超えた恋愛事件に端を発し、当時の土佐藩の若侍たちが岡焼半分も手伝って色々な詞を作り、面白おかしく歌い出したのが流行の始まりと言われている。その後、お馬は明治18年の夏高知を離れて上京し、当山近くの豊島2丁目2577番地、現在の北区豊島2丁目10番地あたりに移り住んだが、明治36121566歳の波乱に富んだ生涯を閉じた。今日までお馬の詳しい消息は不明のままであったが、先年当山墓地内の寺崎家の墓に合祀されていることが当山過去帳によって確認され、一躍世の脚光を浴びるに至った。悲恋に泣き苦しみに耐えながら数奇の運命を辿ったお馬さんの菩提を弔うため新たに一基を建立してお馬塚と銘し、仏縁深い参詣者の便に供するものである。(石碑文)

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門前の身代地蔵菩薩          境内のお地蔵さん

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江戸名所図会 西福寺 梶原塚 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用) 『六阿弥陀かけてなくらむほととぎす』其角

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街道の風景③ 307号を左折して明治通りへ向かいます、左手に豊島ドッグ跡碑があります/豊島2

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産業考古学探索路-豊島ドッグ跡
昔、この場所には明治~大正期につくられた豊島ドッグと呼ばれる堀割がありましたが、軍の施設でもあったため、陸軍が荒川(現隅田川)の水運を利用するために掘ったといわれているだけで詳細な資料は残されていません。しかし、現在でも石積みの護岸が地価に残っておりかなりしっかりした構造のものであったことがうかがわれます。このドッグは現在の豊島2丁目から王子6丁目に至る堀割で、石神井川の新河口を経て隅田川と連絡しており、板橋火薬製造所王子工場で製造された弾薬などをこの堀割を通して隅田川まで運び出していたようです。水路の幅などからみて小型の船舶が現存の豊島中学校付近にあった船溜まりで方向転換しながら往来していたものと思われます。現在の豊島公園はこのドッグを埋め立てた土地の上につくられたものです。(説明板)

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左手に庚申塔             左折すると溝田橋です

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石神井川の風景③ 上流・前方に飛鳥山が見えます、王子駅方向から流れてきます/溝田橋


・・・王子

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装束稲荷神社鳥居/王子


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装束稲荷神社
」今から約千年の昔この附近一帯は野原田畑ばかりでその中に榎の大木があり、そこにを建てて王子稲荷神社摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります。この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年12月の晦日の夜、関東八ヶ国の稲荷のお使いがこの村に集まり、ここで装束を整えて関東総司の王子稲荷神社にお参りするのが例になっていて、当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。江戸時代の画聖安藤広重がその装束稲荷を浮世絵として残しています。

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その後明治中期に榎の大木は枯れ、土地発展に伴いその佐置も現在の王子二丁目停留所となり社はその東部に移されました。昭和20413日の大空襲の際猛烈な勢いで東南より延焼して来た火災を、ここで完全に食い止めて西北一帯の住民を火難から救った事は有名な事実です。この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので、社殿を造営せんものご地元有志の発起により多数の信者各位の御協力を得て現在の社伝を見え至りました。この装束稲荷は商売繁昌の守護神のみならず信心篤き者は衣装に不自由することなく、又火防の神としても前に述べた通りで信者の尊栄を高めています。(境内掲示板)

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王子の狐火と装束榎
かつてこの辺りは一面の田畑でその中に榎の木がそびえていました。毎年大晦日の夜、関東各地から集まってきた狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によって、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。江戸の人々は、商売繁昌の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も盛んになっていました。やがて、王子稲荷神社の名とともに王子の狐火装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。昭和4年(1929)装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後にこの榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成5年(1993)からは王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷神社までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。(北区教育委員会)

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江戸名所図会 
装束畠 衣装榎 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

『毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐夥しくここに集まり来ること恒例にして、いまにしかり。その灯せる火影(ほかげ)によりて、土民明くる年の豊凶を卜(うらな)ふとぞ。このこと宵にあり、また暁にありて、時刻定まることなし』

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豊島周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照

隅田川(岩淵~王子)01-豊島の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27634087/

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隅田川(岩淵~王子)ルート図
(赤点線:歩行ルート 緑:鎌倉道 赤:中山道 青点線:石神井川)

by Twalking | 2019-06-10 13:30 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川(1)岩淵~王子01-豊島(1)   

日時 2019.5.30(木)
天気 晴れ


志茂まで来たので、隅田川を下ってみました。
川沿いにも道はありますが、堤防で景観は望めません。
橋から見ることにし、古刹を中心に訪ねました。

岩淵、志茂、神谷と右岸に集落が点在し、それを
繋ぐ道が残っています。豊島は往時の中心地、
豊島清光由来の古刹清光寺があり、訪ねて見たかった所です。



・・・岩淵/北区

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隅田川の風景① 荒川(旧荒川放水路)の分岐点、赤門の右手が青門です/岩淵水門

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岩淵水門
北区志茂において現在の荒川と隅田川とを仕切る水門。かつて「荒川放水路」と呼ばれた人工河川を現在は荒川と呼び、かつての荒川を「隅田川」と呼ぶ。この水門はこれらの分岐点にある。新旧2つの水門がある。旧水門の通称は赤水門、新水門の通称は青水門。赤水門は1924年(大正13年)に竣工しすでに運用を終了した。青水門は1982年(昭和57年)竣工し運用中である。(Wikipedia

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赤門                          青門

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新河岸川
昔の新河岸川は川越郊外の伊佐沼を水源とし、荒川とほぼ並行に流れて新倉(埼玉県和光市)で荒川と合流していたため、北区内を流れる川ではありませんでした。明治末から大正初めにかけて荒川大改修が行われると、新河岸川の改修の声もあがりましたが沿岸の問屋衆の「改修すると舟運が衰退する」という理由による反対で、改修工事は見送られました。新河岸川は「九十九まがり」と言われるほど屈曲部が多く、洪水の原因にもなっていたため、結局、大正9から昭和6にかけて改修工事が行われました。この工事により、新倉で荒川に合流していた流路を切り離し、板橋区の北辺を通り北区に入って浮間・赤羽北・赤羽地内を流れ、岩淵水門付近隅田川に合流する新水路が開削されました。この新水路が現在の新河岸川となっており人工の川であるため「新河岸運河」とも呼ばれていました。(北区を流れる河川/北区HP)

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・・・志茂

『武蔵田園簿』による村高は415石余であるが江戸期を通じた新田開発の結果、天保郷帳による村高は846石余に及んだ。小名に上・下・大荒久などがあった。正保期に天領となりその後小石川伝通院・浅草幡随院・谷中南泉寺等にも分け与えられた。代官手代の八官七兵衛により荒川沿岸の新田開発が行われ、1675年(延宝3年)八官新田と号した。また、荒川対岸の岩淵宿内に梛野原新田が飛地として存在した。(Wikipedia


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街道の風景① 熊野神社から志茂駅への旧道風景です/西蓮寺付近

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庚申堂                板橋戸の子育地蔵尊

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・・・神谷

北は志茂、西は赤羽南および東十条、南は東十条および王子とそして東は隅田川を挟んで足立区新田と接している。隅田川沿岸低地に位置しており、目立った坂道はなくほぼ平坦である。以前は工場が隅田川沿いの土地を占めていたが、現在では1社を除いて撤退し跡地には警察署や商業施設、企業の流通拠点が入っている。元々「かみや」ではなく「かにわ(は)」と呼ばれる地域だった。旗本文書には「賀仁和村」「加仁波之郷」と表記されており、江戸時代には「神谷」で「かにわ」と読ませることが多かった。隅田川あるいは荒川で蟹が捕れたことから蟹庭(かにわ)と呼ばれていたというのが通説である。(Wikipedia

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街道の風景② 直進が王子、環七を右折が東十条、左折が新神谷橋になります/宮堀

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専福寺/神谷 真言宗智山派、豊島八十八ヶ所霊場39番札所です

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自性院/神谷 真言宗智山派、豊島八十八ヶ所霊場40番札所です

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隅田川の風景② 上流側の景観、堤防沿いにもこれますが川は見えません、岩淵水門から堤防上を行くといいかもしれません/新神谷橋(環七)

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隅田川の風景③ 下流側の景観、右岸右手の公園辺りが「宮越の渡し」でしょうか/新神谷橋(環七)

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新神谷橋
足立区の隅田川にかかる環状七号(都道318号・環七通り)の橋(水道道路併用橋)である。橋長153.0m、3径間の鋼鈑桁橋の1等橋(TL-20)である。橋の右岸側には延長139.1mで幅員10.0m、左岸側は延長444.3mで幅員10.0mの取り付け道路を有している。岩淵水門の管理橋を別とすれば隅田川最上流の橋となる。もともと「宮堀の渡し(神谷の渡し)」があったところである。(Wikipedia

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宮堀の渡し(現在工事中)
神谷の渡し」とも称された。現在の新神谷橋付近にあったもので、江戸期においては主に西新井大師への参拝客や荒川堤への花見客などを乗せていたようである。1924(大正13年)6月に荒川放水路が開削されると、一帯は放水路と隅田川にはさまれて中州のように孤立した地域となったために野新田の渡しと共に整備が進んだ。1962年(昭和37年)に新神谷橋の架設工事が着工され, 1965年(昭和40年)に片側車線が開通することになり、宮堀の渡しはその役目を終え、昭和35の冬に廃止された。北区の宮堀児童遊園内に案内板が設置され、王子神谷駅付近の北本通り沿いの「産業考古学探索路」碑においても記載が残る。(Wikipedia

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新田(左岸)
足立区の西部最西端に位置し、周囲を荒川と隅田川に囲まれている。江戸時代中期にこの区域の近辺に開拓が入って「鹿浜新田」が成立しこれが現在の新田につながっている。古くからこの区域は野新田(やしんでん)と呼ばれていた。鹿浜新田は正保から元禄の間に武蔵国吉見の庄左衛門・三郎兵衛らによって開拓されたと伝えられている。武蔵国吉見から材木を筏にして荒川(現隅田川)を利用して江戸に運搬していたが、途中の休憩場所として新田が使われていた。現在の新田は旧来の鹿浜新田以外にも、荒川放水路の開削によって分断された鹿島の一部区域(字が道明塚耕地・萱野耕地・仲道耕地・古道耕地の地域で、足立区成立時に南鹿浜町とされる)と堀之内の一部区域(字が堤外一-四の地域で、足立区成立時に南堀内町とされ後に南堀之内町となる)に加えて、沼田の飛地だった地域(字川端耕地、足立区成立時に沼田川端町とされる)を含んでいる。(Wikipedia


・・・豊島


北区の俗に言う「天狗の鼻」の部分にあたる。王子・神谷・堀船、足立区新田・宮城と隣接する。町内には荒川、隅田川が流れる。武蔵国豊島郡中心部であった地であり、平安時代頃より当時この地を治めていた豊島氏発祥の地とされている。現在の豊島七丁目の清光寺には豊島氏の武将の一人である豊島清元がある。 1871年(明治4年)に浦和県(現埼玉県)から東京府に編入された。1889年(明治22年)の町村制施行時点では北豊島郡王子村大字豊島であった。大字の時代の小字には砂田、勢至前(せしまえ)、西、馬場(ばんば)、中豊島、須賀(すか)、宮ノ前、原、下道(しもみち)、領家、築地(つきじ、築紫とも)、飛地(とびち)があった。(Wikipedia

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街道の風景③ 手前を右折すると新田橋、先が清光寺になります/神谷橋庚申通り

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豊島馬場遺跡/馬場遺跡公園(豊島)


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豊島馬場遺跡
豊島馬場遺跡は古墳時代はじまりの頃(およそ1700年前)に隅田川(旧荒川)沿いに人々が残した遺跡です。平成3年(1991)から約6年間に及び発掘調査で、壺や甕などのおびただしい数の土器や沓、鍬、舟のミニチュアなどの木製品が発見されました。なかでも日本最古のガラス小玉鋳型はガラス製品の製作技術などを考えるうえで貴重な出土品です。こうした遺物を使い豊穣や繁栄などを祈る祭が行われていたとみられます。(北区教育委員会)

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豊島馬場遺跡公園
豊島馬場遺跡公園はその名前のとおり遺跡でもあります。畿内で大きな前方後円墳が作られた古墳時代の始め頃、北区の隅田川沿い方形周溝墓群が作られました。それが豊島馬場遺跡で日本フェルトの工場跡地から発見されたものです。100基以上もの古墳時代前期の方形周溝墓が確認されています。おそらく高台全体にある集落の共同墓地のようなものであったと考えられています。方形周溝墓の数基からは日本最古のガラス小玉鋳型が出土しています。このことからここへ葬られた人たちがガラス小玉の製作に携わっていたことが分かります。子供たちが走り回れるくらいの比較的広い広場もあり、隅田川のすぐ側にあるので見晴らしのよい気持ちのいい公園です。(歩きたくなるまち北区)

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豊八稲荷大明神/豊島8丁目会館
御祭神は旧地主下川よし氏が明治43年(19104月京都伏見稲荷神社に勧請し倉髙稲荷大明神の称号を承け丑寅の方位に社殿を奉献鎮座す。家内安全商売繁盛の願意極めて霊験灼かにして特に子育稲荷として信仰厚く、毎年初午の前夜には町中の子供が社前に集まり焚火を囲んで太鼓を打ち鳴らし夜を徹して宵宮の祭事を奉納した時代が昭和の初期迠続いていた。終戦後町会が維持管理を継承し昭和39年(196410月青少年センターを建設するに当り称号を豊八稲荷大明神と改め現在地に移築遷座す。その後地盤沈下の影響により境内の損傷甚だしく此のたび町内有志相図り浄財を集めて社殿を新築し荘厳な神域を竣工す。鳥居及び石碑は前町会長下川喜太郎氏の寄進によるものである。町会の守護神として豊八稲荷大明神の御加護により町内各位の繁栄を祈念し筆を措く。豊島八丁目町会13代目町会長・長島新太郎謹書。
(由緒説明板)

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隅田川の風景④ 右岸の右手が清光寺になります/新田橋

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新田橋(しんでんばし)
北岸は足立区新田(しんでん)3丁目、南岸は北区豊島8丁目。橋名は足立区の地名にちなむ。もともと「野新田の渡し・やしんでん」(馬場の渡しとも)という農業渡船があり、荒川放水路開削に伴って中洲状孤立した付近の交通路として利用されていた。1939(昭和14年)に最初の木橋が木造下路ハウトラス橋として架けられた後、トラス部分の改装を経て1961(昭和36年)に現在の橋に架け替えられた。珍しいA字型をした橋脚は木橋時代の橋脚を模したものである。橋長:114.0m 幅員:9.0m 形式:5径間単純鋼桁橋 竣工:1961年(昭和36年)(Wikipedia

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清光寺参道/豊島


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清光寺
清光寺は医王山と号し新義真言宗に属する寺院です。「新篇式武蔵風土記稿」はこの寺は豊島清光開基で寺号もそのによること、小田原衆所領役帳(永禄2年〔1559〕)に島津孫四郎知行十四貫文豊島の内清光寺分とあって当時大寺であったと推定されること、本尊の不動明王は行基の作で豊島の七仏の一つであること、境内に正安3年(1301)、文治2年(1186)、文明元年(1469)、永福5年(不明〔私年号〕)の4古碑があることを伝えています。

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また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和4年・1618)によれば、山号は常康山、保元2年・1157豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽合い藍が建立されたこと、實正年中14601465)、応仁年中(14671468)山賊悪徒等により寺宝・寺領などを掠奪されて寺が荒廃したこと、文明91477)豊島泰経と大田道灌との戦いに際しこの寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正151546)府河城主・豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄6年(1563)上杉等の残党が府河城を攻めた際、豊島にも押寄せて放火したため再び焼失したこと、この後豊島明重が再興したということです。

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この寺には豊島清光木像が安置されています。この銘によれば寛保21742)の作で、願主は祐具、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐具は当時清光寺内にあった釈迦堂住僧であろうといわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったということです。豊島清光はその子・葛西清重らとともに源頼朝幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で「吾妻鏡」などにもその名が見えます。また、この地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本記」「延喜式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説もあります。なお、この寺は豊島清光が家庭的に不幸であったため菩提寺として建立したという説もあります。(北区教育委員会)(写真:豊島清光供養塔)

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木造豊島清光坐像/説明板
清光寺は平安時代末期から鎌倉時代初期豊島郡を中心に活躍した豪族豊島康家・清光が開基した寺院と伝えられ、江戸時代に制作された豊島清光の坐像が安置されています。檜材を使った寄木造りで目には水晶の玉眼が嵌められ、全体に彩色が施されています。像の姿は剃髪して衣と袈裟を着けた合掌姿の座像です。襟の高さが頭頂にまでおよぶ立襟をつけていますが、これは僧綱襟(そうごうえり)といい、僧侶としての高い地位を示しています。像の胎内には「奉造立御影 寛保二戌龍集十月十六日 願主釈迦堂祐貞 施主新田長谷川彌右衛門」との墨書があり、寛保217421016日 清光寺釈迦堂の祐貞という僧侶が願主となり、檀家で鹿浜新田(足立区新田3丁目)の長谷川弥右衛門が施主となって造立したことが分ります。豊島清光は源頼朝が鎌倉幕府を樹立する際、子の葛西清重と共に源頼朝の軍に積極的に参陣し、鎌倉幕府の御家人として重用されるに至りました。没年を含めて詳らでない点が多いのですが「六阿弥陀縁起」や「豊島七仏」といった豊島清光に関わる伝説が現在も伝わっています。木像豊島清光座像は豊島清光という人物を偲ばせる現在唯一の肖像であり、清光をめぐる伝承や縁起を考えるうえからも貴重な文化財といえます。(北区教育委員会)

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街道の風景④ 紀州通りに出て紀州神社へ、信号を左折すると新豊橋です/新豊橋南

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紀州神社鳥居/豊島

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紀州神社
祭神は現在、五十猛命、大屋津姫命、柧津姫命ですが「新編武蔵風土記稿」にはこのほかに須佐之男命の名が記されています。元亨年中1321-24)紀州熊野の鈴木重尚が王子村にきて豊島氏とはかり、紀州五十太祗神社を同村に勧請したのに始まり、天正年中1573-92)豊島村と王子村との間に争論が起こった際、豊島村の産土神を王子村に置くのは本意ではないと小名・宮ノ前に移し、更に小名馬場に移し、後に現在地に移したものといわれます(新編武蔵風土記稿)ここでいう豊島氏は豊島景村のことと推定されます。(北区文化財案内)

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江戸名所図会 紀州明神社 清光寺 若宮八幡宮 豊島川地蔵堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
左上が清光寺、中央が紀州明神社でしょうか

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隅田川の風景⑤ 下流は「天狗の鼻」と言われる所、大きく蛇行しています/新豊橋

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新豊橋(しんとよはし)
隅田川にかかる橋。北岸は足立区新田(しんでん)、南岸は北区豊島。橋名は両岸の地名にちなむ。 2007年(平成19年)に開通、供用開始した。橋長:105.0m 支間:102.7m 幅員:車道9.0m + 歩道3.75m×2(両側) 構造:単純箱桁・アーチ複合橋(Wikipedia

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志茂周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照

by Twalking | 2019-06-08 11:26 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 蛇崩川緑道03-下馬~合流点   

日時 2019.2.20(水)
天気 晴れ


蛇崩の先は目黒川右岸の台地の西斜面に沿って流れます。
宿山から目黒川へ下る鎌倉道、諏訪山中腹にある烏山稲荷など
一帯はなかなか趣きのある街並です。

ここから合流地の中目黒駅はすぐ、さすがに賑やかです。
緑道続きでしたので、流れに出会うとなんだかほっとします。
目黒川水系の支流を歩きましたので、今度は本流でしょうか。


・・・上目黒


目黒区北部に位置する。町域北部は目黒区青葉台・東山に、東部は渋谷区猿楽町に、南部は目黒区中目黒・祐天寺・五本木に、西部は世田谷区池尻・下馬にそれぞれ接する。東部では山手通りが南北に縦断し、南部には駒沢通りが、西部には野沢通りが通っている。地域東部には目黒川が流れている。東部の上目黒三丁目には東横線・日比谷線の中目黒駅があり駅周辺は駅前の商業地が広がっている。また2003年からは目黒区役所も上目黒二丁目に置かれている。
Wikipedia

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川の風景① 左手の台地の裾を蛇行して流れます/蛇崩橋先(目黒区)

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下蛇崩橋               寿福橋

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街道の風景① 蛇崩橋から青葉台へ丘越えする野沢通り「オリンピック道路」の愛称があります/宿山(しゅくやま)

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野沢通り
山手通りの青葉台一丁目交差点から世田谷区下馬方面へ通ずる道はオリンピック道路と呼ばれる。昭和15開催予定であった東京オリンピックに備えて、渋谷から当時競技場建設予定地であった現駒沢公園方面へ通じる道として昭和12ごろに工事されたからである。オリンピックは戦争のため開催されなかったがその名だけは残ったわけである。東山一丁目22番から25番にかけて道の両側はかなり高い切り通しでその上に鴻之巣橋が架かっている。戦災前まで橋の北側近くに松やヒノキの林に囲まれたお稲荷様の小祠があったとか。その社前の松の巨木に毎年コウノトリが飛来して巣を作ったため鴻之巣松と呼ばれ、橋の名もこれに由来するという。(目黒のみち/目黒区HP)

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寿福寺山門/上目黒


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寿福寺
新清山観明院壽福寺といい天台宗でご本尊は阿弥陀如来です。元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられていますが、当境内にある鎌倉時代の板碑から草創はさらにさかのぼるものと推定されます。この寺は享保の頃(1716-1735)中興の英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末寺として大いに栄えました。現在の本堂は昭和50年に建替えられましたが、それまでの本堂は明治13年に行人坂明王院念仏堂移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられています。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されています。門前には相生地蔵とよばれ信仰されている2体の延命地蔵尊庚申塔などが立っています。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688-1703)に当寺境内稲荷社を移したものです。(目黒区教育委員会)

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寿福寺の庚申
塔寿福寺の門前にあるこの庚申塔(1基)には青面金剛が刻まれています。保存状態も良く区内初期の代表的な作品と言われています。(目黒区HP)

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街道の風景② 鎌倉道(中道)は寿福寺門前付近から右へ、小川坂から宿山橋へ下ります/宿山

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鎌倉街道
渋谷区代官山から目切坂を下り、宿山橋を渡って山手通りを越えるとふたつ道がある。右手の小川坂蛇崩・祐天寺駅・円融寺碑文谷八幡宮へと続く道が鎌倉街道のひとつ「中つ道」である。今では、面影を残すところとてないが、小川坂辺りはまだ木立も多く吹く風も身にしみるようで落ち着いたたたずまいを見せている。その昔、よろい・かぶとに身を固めたもののふが鎌倉にはせ参じ、また旅人たちが路傍の道しるべを頼りに往来したであろうこの道は今は区立烏森小学校児童の通学路。昼どきは行き交う人も少ない静かな道である。(目黒のみち/目黒区HP)

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宿山の庚申塔
江戸時代の農村では更新信仰
が盛んで各集落に庚申講があったといいます。60日毎にめぐってくる庚申の日に、講の人が集まって青面金剛、帝釈天、猿田彦などをまつり、飲食を共にしながら夜を明かす庚申待が行われました。そして庚申待を18回終えると供養や記念のために庚申塔を建立しました。この周辺はかつて字名(あざな)で宿山といいました。向かって右から2番目の庚申塔元禄5(1692)の造立で本尊を青面金剛とし、日月、二鶏と三猿が正面左右の三面にそれぞれ一猿ずつ浮き彫りされています。その左の庚申塔は地蔵菩薩を本尊とするもので延宝3(1675)に造立されました。一番左の庚申塔宝永5(1708)の造立で青面金剛、日月、二鶏、三猿が刻まれています。(目黒区教育委員会

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小川坂
かつてこの一帯を『小川』といい、坂下に広がっていた田んぼを『小川田んぼ』と呼んだ。この辺りの旧家小川家が地名の由来と言われる。また、この坂のある道は鎌倉へ通じる道として中世の頃開かれた鎌倉道であった。(目黒区教育委員会)

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烏森
「烏森」という地名は明治22年の町村制が施行されたときに目黒村大字上目黒字名として誕生した。それまでは周辺を含めたこの辺り一帯を宿山と呼んでいた。地名が誕生してからの烏森の地域は大正11年の町制を経て目黒区が誕生した昭和7年に上目黒三丁目1646番地から1785番地となり、さらに431月の住居表示制度実施により上目黒三丁目14番から27番、36番から44番となった。「烏森」という地名の起こりは数百年前から宿山氏神としてまつられてきた烏森稲荷神社だといわれている。この神社は蛇崩川を南にひかえ、東を目黒川の谷に接する半島状の丘陵、諏訪山中腹にある。祭神は食物、殊に稲をつかさどる神・蒼稲魂命(うがたのみたまのみこと)。最初は現在地から500ほど離れた寿福寺境内にあったが、下馬引沢(現在の世田谷区)の新堀新左衛門という人がこの地に移したと伝えられている。(目黒の地名/目黒区HP)

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烏森稲荷神社鳥居/上目黒

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烏森稲荷神社
この神社は旧上目黒村宿山組の鎮守で祭神は蒼稲魂命(うがのみたまのみこと)です。創立年月は不明ですがかなり古く、下馬引沢村の新堀新左衛門寿福寺の境内に祀ってあった稲荷神をこの地に移したと伝えられています、農耕神として農作守護と村人の授福開運を祈願して崇敬されてきたのでしょう。その昔、宿山稲荷講の人達が江戸新橋烏山稲荷へ参拝に行った時に、狐が白い馬になってついてきたのでそれを祀ったのが始まりという伝説もあります。また昭和29年草葺屋根を瓦葺にふきかえた時に、雨乞い祈願をしたものと思われる黒馬が一頭奉納されてあったことがわかりました。例祭は、毎年9月の第3土曜・日曜日です。境内には老樹が繁り清水が湧出して閑寂な雰囲気をつくっています。(目黒区教育委員会)

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川の風景② 諏訪山から緑道に戻り、中目黒へ向かいます/諏訪山橋

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街中に入ります            東横線を横断(迂回)

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線路に沿って続きます         公園の奥に神社があります

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目黒銀座観音鳥居

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目黒銀座観音
大正時代の終り頃、このあたりには小規模の乳牛牧場馬力運送を業とする者も多く目黒恵比寿畜舎運送組合を結成していました。その代表の小林氏や土地の開発に熱心であった神山氏等が発起人となって、牛馬の息災を護り、死後の菩提を弔うとともに、土地の開発を願い東松山市上岡の妙安寺から霊験あらたかな馬頭観音の分霊を勧請し安置しました。その後、新たに木彫24.3(約8寸)の馬頭観音像も安置され、大正12年(1923)に妙安寺住職を招いて盛大な入仏開眼式が執行されました。

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境内に建つ最大の碑はその勧請記念の碑です。正面に「大正12年(1923719日、馬頭尊記念 武州上岡妙安寺住職第19世仏光」とあり、背面に恵比寿や目黒の寄付者200余命の名前が刻まれています。翌大正13年(1924319日に第1回の大祭が執行され、50数頭の馬も参列したといわれています。以後、毎月9の日を縁日と定めてきました。現在の社殿は昭和10年(1935)の建築であり、昭和31195612月に目黒銀座観音と改称されました。江戸時代からの馬頭観音信仰を伝える貴重な資料でもあります。(目黒区教育委員会)


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山手通りを横断します/中目黒駅

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川の風景③ 日の出橋のすぐ下流で目黒川と合わせます(左岸より)


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蛇崩川
蛇崩川は世田谷の弦巻辺り水源として中目黒駅付近で合流する目黒川の支流の一つです。大昔、この川に大蛇が出て暴れ、土砂が崩れたのでこの名がついたという言い伝えがあります。それとは別に川岸の切り立った崖が洪水の度に崩れて被害をもたらしその恐怖心から大蛇伝説が生まれたとか、大雨で激流逆巻く様子がのたうつ蛇に似ているからとか、もとからこの辺りが砂や砂利の土壌でその砂利の崖がよく崩れたので砂崩川、それが今の文字になった等諸説紛々。いずれにしろ、昭和の初めごろまでは田園地帯の中をうねうねと蛇のように蛇行して流れていた川だったのです。現在は蓋かけされ蛇崩川緑道として整備されています。(説明板)

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目黒川の風景④ 東横線の下を流れる目黒川、鎌倉道は少し上流になります/日の出橋

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川の風景⑤ 下流には船入場跡があります

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船入場の由来
ここは昭和初期に船を導き入れるために川を切り開いて築かれた舟入場の跡です。現在では当時の土地を利用し下部を目黒川調節地、上部は区民のふれあい広場として整備され、すっかり変わってしまいましたが当時の名残を船入場という愛称に留めています。(案内板)

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上目黒周辺案内図(青:蛇崩川緑道 紺:目黒川 緑:鎌倉道)

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上目黒周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

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蛇崩川流域図
(紺:蛇崩川 紺点線:目黒川・烏山川・北沢川 緑:鎌倉道 赤:大山道 紫:滝山道)

烏山緑道02(三軒茶屋~下馬)の関連記事はこちらへhttps://teione.exblog.jp/27462198/)



・・・・・
資料ファイ
めぐろ歴史資料館

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展示風景①

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目黒周辺の古墳分布

目黒区内では狐塚古墳と大塚古墳が知られますが、いずれも盛土がなくなっており詳しいことは分りません。しかし、大橋遺跡では古墳時代の前期の住居跡が見つかっています。目黒の周辺に目を向けると、世田谷区、大田区では特に多摩川左岸に古墳が密集しているのが分ります。これらの古墳は古墳時代を通して築かれました。古墳時代の終わりごろになると、東京湾に面した丘陵斜面に横穴を掘りそこを墓室とした「横穴墓」と呼ばれる墓も作くられています。同じように現在の埼玉県でも古墳-横穴墓がたくさん見つかっています。このような古墳の分布から古墳時代には現在の埼玉県、東京都にまたがって活動していた二つの勢力がいたことが分ります。この二つの勢力はやがて「武蔵国」というさらに大きなまとまりに成長していくのです。(展示パネル)

野毛大塚、亀甲山古墳群(武蔵台公園)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/25387124/

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武蔵国の荏原郡
武蔵国ははじめ東山道に属していましたが交通の利便性などから、宝亀2771)に東海道へと所属替えが行われました。これに伴って東海道が整備され、荏原郡には大井駅(現在の品川区大井町付近)が設置されました。奈良・平安時代にかけて荏原郡は相模国から武蔵国を経て下総国へと続く東海道の要所だったのです。(展示資料:武蔵国21郡図の部分拡大)

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荏原郡九郷の推定位置
「和妙類聚杪」(わみょうるいじゅうしょう)に出てくる九郷の正確な位置は不明ですが、現在に残る古地名などをもとにおおよその位置を推定することができます。

現在の目黒、世田谷、大田、品川、港、千代田区は荏原郡と呼ばれていました。荏原郡については平城京跡から見つかった荷札木簡あ武蔵国分寺跡から見つかった瓦いその名前が記されていす。10世紀に編纂された「和妙類聚杪」には荏原郡は蒲田、満田、荏原、覚志、御田、田本、木田、桜田、駅家の地域(郷)に分かれていたことが記されており、目黒区は覚志郷御田にあたると推定されています
(展示パネル)
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展示風景② 目黒六か村の移り変わり

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目黒筋御場絵図(部分)文明2年(1805/展示パネル
(青角:主要街道と目黒川水系等の交差部を記入してみました)

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展示風景③

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碑文谷氏
碑文谷には碑文谷氏という武士勢力がいて「碑文谷池」近くの「殿山」にがあったと考えられています。
千葉県松戸市の日蓮宗本土寺には鎌倉時代(13世紀後半)から江戸時代宝永期(18世紀)にかけて亡くなった人の年月日、名前などが書き継がれ「本土寺過去帳」が残されています。そこには「碑文谷築後」の子息「日祐童子]と呼ばれる武士の存在が明らかになりました。碑文谷池近くには「殿山」という地名があり、そこにかつて中世の館があったと伝えられていて、碑文谷氏が住んでいたとも考えられます。(展示パネル)

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目黒氏
鎌倉時代の記録「吾妻鏡」には「目黒弥五郎」「目黒小太郎」という名前があり、「目黒」が史料にあらわれる最も古い例です。目黒氏は武蔵七党といわれた横山氏または児玉氏と同族の武士であり、目黒川と蛇崩川の合流点近くにがあったと考えられています。鎌倉時代の歴史を記した「吾妻鏡」には建久元年(1190117日に源頼朝が京都に上った際に、頼朝が率いた武士のなかに「目黒弥五郎」がいたことが記されています。また承久31221)年、承久の乱の宇治橋の戦いで、手傷を負った武士のなかに「目黒小太郎」の名が見られます。宮城県角田に伝わる「目黒氏家譜(系図)」には、目黒四郎左衛門尉には目黒四郎家祐資が「武州荏原郡目黒邑」を領し、家名を「目黒」と改め、その後目黒源内源内兵衛尉石見守が文安元(1444)年2月下総から奥州に下り、伊達持宗に仕え池田館に住んだとあります。(展示パネル)

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中世・近世(遺跡)
区内には中世及び近世の遺跡が19か所登録されています。中世の城館跡として碑文谷殿山遺跡伝目黒氏館跡遺跡がありますが発掘調査が行われていないため詳しいことは分かっていません。発掘調査を行った円融寺遺跡では、宴会や儀式に使用されたと考えられる土器皿や、瀬戸美濃系常滑焼などの国産の陶器が出土しています。また、青磁や天目茶碗など大陸で生産され運ばれてきた陶磁器も出土しています。時期は16世紀後半以降のものであると考えられます。近世の目黒地域は江戸近郊の農村地帯であったため、多くの遺跡で見つかるものは土地を区画するための地割溝です。ただ、駒場御用屋敷跡遺跡は享保31718)年に設置された御用屋敷のあった場所で、文献史料によれば当初、約1万坪であったものが、森林を切り開いて拡大し、安政61859)年には西御薬園、東御薬園など約4万坪の広さとなったことが知られ、発掘調査で西御薬園の柵の跡や空堀が発見されています。また、新富士遺跡からは富士講に関連する地下式胎内遺構が発見されました。地下式胎内遺構の壁面には富士講のしるしや文字が刻まれ正面の奥壁を掘り込んで祠が作られていました。この祠の下から台座に文政31820)年の銘のある石製大日如来像も発見されました。この他にも菅刈遺跡では豊後岡藩中川家抱屋敷の庭園跡、茶屋坂遺跡では近世の三田用水跡が発見されています。(目黒区の遺跡/目黒区HP)(写真:石製大日如来像 高さ53cm)

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鎌倉街道/展示パネル

荏原郡
郡衙の所在地については定説がなく、池上本門寺の台地の裾を通る古東海道以前の最も古い東海道と考えられている大井駅-(現東急大井町線荏原町駅付近)-現東急池上線長原駅付近)-洗足池- 小高駅(川崎市中原区小田中付近とも)-橘樹郡郡衙(高津区影向寺付近)の道筋にある大井町線荏原町駅近くの旗ヶ丘八幡(中延八幡)、法蓮寺付近が候補地のひとつと考えられている。しかし発掘調査によるそれを裏付ける資料は出土していない。武蔵国府の外港(国府津)だったと推定されている品川湊は荏原郡衙の外港だったという説もある。古くは武蔵国豊島郡と荏原郡の平川(神田川、日本橋川の旧称)といわれ、直接東京湾まで至っていた。和妙類聚杪によれば武蔵国21郡の中の1つとしての荏原郡には蒲田・田本・満田・荏原・覚志(かがし)・御田(みた)・木田・桜田・駅家(えきか)の9があり、現代区名で目黒・大田・品川のほぼ全体と世田谷・港・千代田の大部分を合わせた範囲に及んだ。しかし、江戸幕府が置かれたため江戸御府内は武蔵国として認識されず、市域外が荏原郡と認識され武蔵国22郡の中の1つとなった。この時代の豊嶋郡と荏原郡の古川といわれている。Wikipedia

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by Twalking | 2019-03-01 21:54 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 蛇崩川緑道02-三軒茶屋~下馬   

日時 2019.2.20(水)
天気 晴れ


川は世田谷観音通り(旧明薬通り)の北側を流れます。
渋谷方面へのバス通りで、昔、通った記憶がありますが、
拡幅されていい道になっていました。

沿線には西澄寺、世田谷観音、駒繋神社など立派な寺社があり、
初めて訪ねましたがいずれも見応え十分です。
昔、母が住んでいたという野沢もついでに立ち寄り、
周りは畑と言ってましたが、今は閑静な住宅地になっています。



・・・下馬


馬引沢」の由来は文治5年(1189年)7月に源頼朝が奥州征伐に向かう途中、この蛇崩川沿いで乗っていた馬が暴れ出して沢の深みにはまって死んでしまう事故に見舞われ、この地では馬は乗らずに引いて渡れという戒めから名がついたといわれています。しかし、頼朝としては幸先の悪い出来事でした。その時1人の老婆が現れて、馬の死という不吉をはらって戦勝を祈るために近くの子の神に詣でることをすすめたのでした。頼朝はこれに従って祈願した後、奥州に兵を進めたところ幸い戦に勝つことができたので、帰りに再び子の神にお礼参りに立ち寄りました。そのとき頼朝が馬を繋いだ松は駒繋松(今の松は3代目という)と名づけられ、子の神駒繋神社と改められたということです。また死んだ頼朝の馬を葬った芦毛塚は目黒区との(下馬5丁目42)に立派な碑が建てられ、蛇崩川には足毛橋と名づけられた橋も残されています。
(世田谷区HP)

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街道の風景① 世田谷観音通り(旧明薬通り)です、蛇崩川はこの左を流れています/三軒茶屋

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川の風景① 中原橋手前が現在工事中でしたが、いい道が続きます

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昭和橋                中原橋

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西澄寺参道/下馬 中原橋の北の丘にあります

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武家屋敷門(東京都指定有形文化財)

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武家屋敷門
現在の港区芝五丁目にあった阿波徳島藩主蜂須賀家中屋敷門を大正末頃に西澄寺に移築したと伝わり、山門として転用されています。切妻造で、桁行六間の中央に二間の両開きの潜戸と板壁を設けます。門の両端には切妻造で桁行二間、梁間三間の出番所が配されます。六畳の番所には、表側には格子窓と門内に面した側には式台が構えられています。この門は江戸時代末期に建築されたと推定されており、いわゆる両番所附石垣出屋根庇造と呼ばれる構造の門です。大名屋敷の表門については、幕府は貞享年間(1648-88)に大名の家禄高を基準に家格を加味してその形式・構造を定めています。蜂須賀家の中屋敷門として二五万石の大大名の家禄と家格に応じて建築されたものと考えられます。東京に残る数少ない武家屋敷門の一つとして貴重なものです。(東京都教育委員会)

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西澄寺
新義真言宗智山派に属し、京都智積院の末寺で日輪山薬王院西澄寺と称する。本尊には大日如来、薬師堂には薬師如来が安置されている。天正2(1574)河内の人・隆向和尚が紀伊国高野山釈迦院より下錫開山したものといわれているがくわしいことはわからない。江戸時代に中興したのは大久保六右衛門忠勝で、当時の住僧は宥秀和尚「寛文12(1672)寂」であった

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明治維新前後からは無住の寺で荒廃していたが、明治25年近江の人慧荘和尚は高野山より当山へ第10世の住職として来たり荒廃した本堂、庫裡等の再建を念願し、薬師堂にて1000日の穀断ちの修業をしたそして高野山で修得した灸術をもって近郷の人々の救済をしたところ霊灸の評判をとり受灸者でにぎわった。現在も慧荘和尚より伝わった灸術で遠く北海道九州からも受灸者が来ている

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山門は武家屋敷門で都霊宝の指定を受けている。大正11年、本堂の改築の時、港区三田四国町にあった旧蜂須賀家屋敷門移築したと伝えられている。番所に格子窓を設けるなど若干の変更があるが510万右の大名の屋敷門の形式、構造、装飾等を備え、数少ない武家屋敷門の遺構として貴重である。梵鐘は明治32年受灸者から奉納された鏡、かんざし等の金属をもとにして鋳造した。たまたま、第二次世界大戦で供出したが、終戦時に無傷のまま深河の焼跡より発見され当山に復帰した。本堂左側の高野槇の大木は開山の隆向和尚が高野山より移植したものといわれ、樹令数百年の古木である。この槇の木に登った人は失明するとか、当山にあった古木を伐採した時この槇も切ろうとしたら、3名までも仏罰を蒙ったなどといわれ、この槇は薬師如来の化身だとされた。当山に薬師堂を建立し薬師如来を安置し供養するようになったのもこのためだといわれる。(せたがや社寺と史跡)

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世田谷山観音寺 中原橋の南の丘にあります


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世田谷山観音寺(通称・世田谷観音)
江戸三十三観音 第32番札所。昭和261951睦賢和尚が独力で建立し、同年5月金竜浅草寺に請い開眼の法を修したものである。本尊は聖観世音菩薩で、ほかに特攻観音、不動明王阿弥陀如来、仁王尊を祀る各堂がある。なお、特攻観音堂は国のため若き命を捧げた特攻隊員4615柱の英霊の安息所とし、またそれぞれの堂には国指定重要文化財の不動明王ならびに八大童子像が安置され、ほかに都指定有形文化財の五百羅漢坐像が安置されている。(世田谷区教育委員会)写真:旧小田原代官屋敷(移築して本坊となっています)

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仁王門


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仁王門
この門は本堂、六角堂と同じく中野家より移築されたもので、その際に六角堂と切り離し両袖部分は増築してあります。
鳴き龍
本堂に向って立ち、鳴き龍の真下で手を叩くと、龍の鳴き声が聞こえます。(世田谷山観音寺HP)

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世田谷山観音寺
本尊は聖観音菩薩、天台宗。本寺は三軒茶屋の東南約1.5km、学芸大学北隣にある。創建は昭和25513日で区内で最も新しい寺である。開山の大僧正睦賢和尚はもと事業家であったが、感ずるところあって私財を投じて本寺を設立した。観音堂には聖観音菩薩1000年以上昔のものといわれるが年代不詳)の他、日光菩薩、月光菩薩(天平時代の作)、十六羅漢など安置されている。また、不動堂(六角堂)には国宝大聖不動明王八大童子、羅漢などを安置、不動明王は運慶の孫の康円の作、八大童子を伴った不動明王は関東随ーといわれている。本堂左の特攻観音堂には本尊の特攻観音として大和法隆寺の夢たがえ観音を模作した2体が安置され、太平洋戦争で散った特攻隊員4704名の霊が祀られている。また、阿弥陀堂金閣を模した3階建で、富山より移築したもので阿弥陀、羅漢、韋駄天、地蔵などを配る。(せたがや社寺と史跡)

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阿弥陀堂
京都の二条城より移築されたもので、三層の建物は金閣寺を模したものといわれています。屋根には鳳凰、三階の軒下には「韋駄天」の扁額が掲げられています。室内には本尊阿弥陀如来をはじめ観音菩薩、地蔵菩薩が脇侍に左甚五郎作の鬼念仏とスポーツの神とされる韋駄天神、東方朔が安置されています。(世田谷山観音寺HP)

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特攻平和観音堂
国のために生還を期すことのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員の英名が宝蔵されています。(案内板)

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六角堂

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川の風景② 中原橋の先から右に大きく蛇行して流れます/駒繋中前

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前方が駒繋神社です/子之神橋      神社参道に架かる駒繋橋

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駒繋神社鳥居/下馬

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駒繋神社
昔から「子の神」といわれていたが、明治以降正式に駒繁神社と呼ばれるようになった。当社は今から900年程前、天喜41056源義家が父頼義と共に朝命をうけ奥州の安部氏征討(前九年役)に向う途中この地を通過、子の神に武運を祈ったと伝えられているから、少なくともこれ以前に里人たちによって出雲大社の分霊を勧請し守護神として祀ったことは明らかである。降って文治51189源頼朝が奥州の藤原泰衡征伐のため自ら大軍をひきいて鎌倉を発しこの地を通過する時、祖先義家が本社に参拝したのを回想し、愛馬芦毛を境内の松の木に繋いで参拝したので駒繁神社とも称するようになった。

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以上は社伝によったものであるが、江戸時代の様子は「江戸名所図会」に『正一位子明神社、二子街道下馬引沢邑道より左の方、耕田を隔てて丘の上にあり、別当は天台宗宿山寿福寺兼帯、子明神の前、今田畑となれる地は旧名馬引沢といえども、今は上中下と三つに分れたる邑名となれり』とある。「武蔵風土記稿」には『子ノ神社、除地五段、下馬引沢ノ内小子ノ神丸ニアリ、ソノ処ノ鎮守ナリ。コノ社ノ鎮座ノ年歴ヲ詳カニセズ。本地仏ハ文殊菩薩ノ由イエリ。本社九尺ニ二間、拝殿二間ニ三間、社地ノ入口ニ柱間八尺ノ鳥居ヲ建、コレヨリ石段二十五級ヲ歴テ社前ニ至ル。又本社ノ未ノ方ニモ同ジ鳥居一基アリ。末社稲荷社、本社ノ左右ニワヅカナル祠、一祠ヅツアリ』と記されているので、この時代にも有名な神社であったことがわかる。昭和37年鉄筋造りに改築した。秋の大祭は918日前後の土日曜である。因みに駒繁の松は神楽殿脇にあり、現在3代目という。(せたがや社寺と史跡)

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江戸名所図会 子明神 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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川の風景③ 南側から駒繋神社の社叢を望みます/駒繋公園

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三宿通りを横断            この先が区界です/砂利場橋付近


・・・目黒区境

蛇崩の
地名
「蛇崩」の由来は江戸時代に編さんされた「新編武蔵風土記稿」によると『昔、大水の際、崩れた崖から大蛇が出たことからこの地名が生まれた』と記している。また一説には「砂崩(さくずれ・土堤崩をいう古語)」が「じゃくずれ」に転化し、付近を流れる蛇行屈曲した川の状態から「蛇崩」の文字を当てたのではないかとも言われている。いずれにしても、蛇崩地域の北側を蛇行する蛇崩川浸食した地形がもたらした地名といえよう。この蛇崩川は目黒川の支流で、世田谷区弦巻から東流し上馬、三軒茶屋、下馬を経て本区に入り、東横線中目黒駅付近から目黒川に注ぎ、全長5.2km。現在は大部分が暗渠化されたがかつては湧水にかつては湧水に富み、流域は水田地として、穰な土地であったという。(目黒の地名/目黒区HP)

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街道の風景② 鎌倉道・中道(東回り)の本路にあたります

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葦毛塚(あしげづか)/下馬
源頼朝が葦毛の馬にのってこの地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという。また、一説に鎌倉将軍の世、この地の領主北条左近太郎が仏教をもって出かけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに埋めたともいう。いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚とよばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり馬に関した地名や伝説が多い。(世田谷区教育委員会)

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江戸名所図会 馬牽澤古事
この絵は駒繋神社が鎮座する下馬の地名の由来になった「馬牽澤の古事」を描いたものです。源頼朝公が奥州藤原氏征伐にあたり大軍を率いて多摩川の矢口を渡り、今の目黒区と世田谷区の境の道を渋谷に向って進む途中、乗馬にてを渡ったところ、馬が何かに驚いて暴れだし沢の深みに落ちて死んでしまいました。この場所は砂利場といわれ赤色の山砂利が出るところでした。そのため、馬を引き上げようとしても砂利が崩れて引き上げられず、馬が死んでしまったので沢の岸辺近くに葬りを作り、馬が芦毛であったため芦毛塚と名付けられました。その時に源頼朝公が「これから先、この地に来たときは、必ず馬から下りて沢は引いて渡れ」と厳命し、この沢を「馬引きの沢」と名付けました。(この沢は蛇崩川砂崩川とも書かれ、現在の蛇崩川緑道になっています)。出陣にあたって総大将の馬の死は不吉である、程近い「子の明神(当社)」にて祈願をされてはと農家の姥の進言にしたがい「子の明神」で戦勝祈願をして奥州に向いました。奥州攻めを終えて鎌倉への帰途、再びこの地に立ち寄った源頼朝公は「子の明神」に額づいて戦勝の報告をし、芦毛塚では馬の供養をされました。また「子の明神」で祈願することを進めてくれた農家の姥はすでに亡くなっていると聞き、いたく悲しまれこの地を姥ケ谷と名付けられました。この源頼朝公の古事により駒繫神社付近一帯を「下馬引沢村」(馬から下りて沢は引いて渡る村)と呼ぶようになり、大正14年町制がしかれたため引沢村が取れて下馬になりました。また、芦毛塚はもともとでしたが昭和44824日に下馬史跡保存会の第一事業として「芦毛塚の碑」が建設されました。(駒繋神社HP)(絵:(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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川の風景④ 蛇崩川を渡り宿山へ上る鎌倉道/蛇崩橋

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下流方向               上流方向

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下馬周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:蛇崩川 緑:鎌倉道 橙:大山道)

蛇崩川緑道01-源流~三軒茶屋の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27457610/


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街道の風景③ 世田谷観音から学芸大裏を野沢方面へ寄り道しました/世田谷観音先

野沢
古くは荏原郡馬引沢村の一部。正保年間(1644年~47年)に開発され野沢村として独立した。1889年(明治22年)の町村制施行に伴い駒沢村の一部となる。1967年(昭和42年)の住居表示で現在の町域に定まった。当時、周辺が特に何も無い荒野沢地であったため野沢と名づけられたとも、開発者である葛飾郡東葛西領の野村次郎左衛門の「野」と荏原郡六郷領の沢田七郎右衛門の「沢」をあわせて「野沢」としたともいわれる。Wikipedia

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龍雲寺山門/野沢

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龍雲寺
臨済宗妙心寺派に属し妙心寺の末、大沢山竜雲寺という。当寺は環状7号線の沿線にあったが、昭和初年約200m程奥の当番地移築移転した。建物は鉄筋コンクリート平屋建、本堂109.25坪、書院58.03坪、庫裡54.14坪、山門10.45坪、鐘楼7坪がある。この寺は元禄12(1699)大法正眼国師盤珪大和尚の法嗣節外大和尚(特賜大慈妙応禅師)が旧野沢1-51 (旭小学校敷地内)30町歩の寺領を有する大沢山竜雲寺を建て盤珪国師作聖観世音菩薩・八臂弁財天の二仏を安置し住民の信仰の中心とした。元禄169月霊源大和尚(勅謚正偏知覚禅師)は諸堂伽藍を完成したが、安政2(1855)10月の大地震のため伽藍は大破し、翌安政3年同町3丁目40番地へ移転した。

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当時無住のため復興ははかどらず記録はことごとく紛失して荒廃に帰したが、明治383月当時の和尚により本堂を建て大正33月山門を改築、昭和211月書院を増築した。その後町の発展により現在地に移転した。「新編武蔵風土記稿」によれば『抱地四丁四方許、小名中丸ノ北ニアり、臨済宗京都妙心寺ノ末大沢山ト号ス、開闢ノ来由ヲタヅヌルニ、昔下馬引沢村ニ智見寺トイヘル廃寺ノアリシニ江戸麻布光林寺ノ三世霊源蔭和尚年老テソコニ隠居セリ、木堂七間ニ五間南向本尊如意輪観音坐像木仏ー尺許、麻布光林寺関山(かくばんのばん)慶和尚ノ作ヲ安ゼリ、門南向両柱ノ間九尺鐘楼門ヲ入ツテ右ニアリ、九尺四方、鐘ノワタリ二尺五寸許、長四尺余、銘文考証ニ用ナケレパトラズ、地蔵堂、本堂ニ向イ右ニアリ、ニ間四方南向地蔵菩薩木仏立像長二尺五寸恵心僧都ノ作ナリト云』とある。(せたがや社寺と史跡)


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野沢稲荷神社鳥居


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野沢稲荷神社
野沢稲荷神社は食物・稲の神霊である倉稲魂命を祭神としている。創建由緒などは不明である。江戸後期の地誌「新編武蔵国風土記稿」には『当社は野沢村の鎮守で、村の中央に位置している』と記されている。境内には拝殿を付した本殿と神楽殿がある。本殿と拝殿は棟札から明治33に建造されたことがわかる。また神楽殿は明治末期の建築と推定されている。境内の北角に庚申塔が祀られている。この石塔には「元禄8年野沢村」と刻まれており、17世紀末には村が成立していたことを確認できる手がかりとして注目される。(世田谷区教育委員会)

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街道の風景④ 環七の野沢交差点、前方が碑文谷、後方が上馬、左が学芸大学駅になります

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街道の風景⑤ 野沢交差点から学芸大学駅へ緩やかな下りです、昔は用水があったようです/野沢3丁目

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街道の風景⑥ 下馬通りを蛇崩川緑道へ戻ります/下馬中央公園

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東京学芸大学附属高等学校
世田谷区下馬にある国立高等学校。1954年(昭和29年)に東京学芸大学教育学部附属高等学校として開校。2014年(平成26年)に創立60周年を迎えた。1936年(昭和11年)東急電鉄総帥・五島慶太の誘致によって赤坂区青山北町(当時)から移転した東京府青山師範学校として建設され、1961年(昭和36年)以降は大学小金井移転に伴って空いた敷地の一部と建物をそのまま用いている。このため校内は非常に広く、大きなグラウンドが2つと体育館が3つ、柔道場、さらにはそれらとは別に講堂、西館、別館がある。L字型の校舎は青山師範学校の歴史的な建造物で、テレビドラマや映画の撮影に使用されたこともある。Wikipedia

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野沢周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:蛇崩川 緑:鎌倉道 黄:環七・駒沢通り 紺丸:碑文谷池 緑角:学芸大附属高校)

by Twalking | 2019-02-27 19:31 | リバーサイドウオーク(新規)