無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:リバーサイドウオーク(新規)( 59 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(1)源流の泉~鶴川(改定)   

日時 2014.4.27(日)
天気 晴れ


・・・よこやまの道

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よこやまのみち終点(唐木田給水塔)手前から下ります

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山王塚                          手製の標識に従い「源流広場」へ

鶴見川流域最高度三角点「山王塚」
この山上塚跡には鶴見川流域最高度三角点「山王塚」(168m)があります。鶴見川は流域面積235平方万kmで、多摩丘陵から下末吉台地を刻み横浜市鶴見区から東京湾に注ぎます。鶴見川の源流はここから南0.6km下った町田市上小山田の「鶴見川源流の泉」です。(案内板)


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田中谷戸の先を左折

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「よこやまのみち」案内板(赤:源流の泉へ 橙:給水塔 黄:唐木田駅)



・・・源流の泉

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源流の泉

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源流広場                     水田の脇を流れていきます

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鶴見川源流の泉
当地は鶴見川の最源流部・町田市上小山田田中谷戸に位置し、一日約1300tの地下水を湧出する「源流の泉」です。この安定した清流は源流の生きものたちの賑わいを支え、水田の用水としても大切に利用されつつ中下流の街にむけて多摩丘陵をかけております。
全長:源流の泉から生麦河口まで43.9km 
源流の泉から新橋まで1.4km 級河川上流端・新橋から鶴川(睦橋)まで10km 鴨居(鴨池人道橋)まで23km 新横浜駅(駅前広場)まで28.3km 生麦河口まで42.5km(町田市上下水部)

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上小山田みつやせせらぎ公園/上小山田町



・・・上小山田

町田市の北部に位置する。中世、坂東八平氏の一つ秩父氏の一族有重が武蔵国小山田荘に移り住み小山田氏を名乗る。1447年には長尾景春によって、小山田城が落城している。その後北条氏の支配下に入っているがその頃には上小山田村、下小山田村の名が見える。
(Wikipedia)

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「一級河川鶴見川上流端 東京都」の看板が設置されています/新橋(小山田小前)

鶴見川
鶴見川の源流は東京都町田市の北部、多摩市との境に近い上小山田町にある多摩丘陵の谷戸群(低湿地)の一角、田中谷戸(標高約170m)の湧泉である。源流周辺は「鶴見川源流泉のひろば」として整備されている。源流を発した鶴見川は町田市鶴川で真光寺川と、神奈川県川崎市麻生区で麻生川と合流し横浜市青葉区を縦断する。東名高速道路の下を抜けて横浜市緑区と都筑区の境界に沿い、下末吉台地に挟まれた沖積低地の入り口付近である緑区中山町で恩田川と合流する。このあたりまで鶴見川は谷本川(やもとがわ)とも呼ばれ、源流からおおむね南東に流れる。恩田川と合流した鶴見川は利水の基準地点とされる落合橋付近から東流し、港北区新横浜付近で鳥山川と合流すると蛇行して北へ向かう。再び蛇行して東流すると港北区綱島付近で早渕川と合流し、鶴見区駒岡付近で矢上川と合流する。鷹野大橋付近から左岸に川崎市幸区と接しながら南東へゆるやかに蛇行し始め、治水の基準地点とされる末吉橋付近から鶴見区を貫き、同区末広町・大黒町の河口から東京湾に注ぐ。
鶴見川流域は標高80mから170mの低い丘陵地帯が分水界をなし、河床勾配は源流から恩田川合流付近までの上流部で約1/250、沖積低地の中下流部で約1/1000の緩勾配となる。流域の大半が大きく起伏した丘陵・台地のため、かつては開発されることもなく自然豊かな環境・景観が形成されていた。しかし、1960年代(昭和30年代半ば)に始まる高度成長期から、流域周辺は人口が急増し、住宅地として急速に開発が進められた。1958年(昭和33年)には流域内の市街地率は約10%、人口は約45万人であったが、2003年(平成15年)には市街地率約85%、人口約188万人となっている。この市街地化の結果、谷戸や低平地の農地はほとんど姿を消し、自然主体の流域から都市主体の流域へと変貌した。(Wikipedia)
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鶴見川流域の概要

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左手は小山田緑地が迫ります/新橋(上小山田)              

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右手は尾根緑道、リサイクル文化センターの煙突が見えます/坂下橋(小山田桜台)

尾根緑道の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/19450838/


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町田フットパス(9)「図師から小山田桜台」案内板
(青:鶴見川 赤:小山田城址・大泉寺 白山神社 小山田神社 黄:小山田緑地)



・・・図師

町田市の北部に位置する。北西から南東に鶴見川が流れる。小野路町に跨る北部の丘陵地帯は「図師小野路歴史環境保全地域」に指定されており、全体として典型的なかつての多摩丘陵の景観を示している。武蔵国多摩郡小山田庄小山田郷の後、多摩郡柚木領に属した。地名は承久年間(12191221)時の領主の小山田二朗重義が半沢山にある「白山社」を修理しようとして別当の大蔵院長栄に社にある地形を尋ねたところ、長栄は図を画き重義がそれを誉め、長栄を図師法印半沢坊と称し領地の一部を社領として寄贈し「図師領」と称したと伝わる。(Wikipedia)

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ここから芝溝街道沿いに流れます        下流の景観/図師大橋


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右手は七国山です/鶴見橋(山崎町)

山崎町

町田市の中部に位置し、野津田町との町境付近を鶴見川が流れる。東には七国山があり東側の町境は薬師池公園に接する。旧日本住宅公団の大規模集合住宅である町田山崎団地・山崎第二団地が南部の大部分を占めるほか、北東部には都営山崎町アパート、シーアイハイツ町田などの集合住宅が多い。(Wikipedia)

七国山
(ななくにやま)
町田市山崎町にある標高128.5mの山である。鎌倉時代頃に鎌倉と上州方面を結んだ鎌倉上道の古道跡が現在も残っており、近隣の本町田や小野路は古くから宿場として栄えたとされる。昔は頂上付近から相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野の7つの国を見ることができたためそのように呼ばれた。(Wikipedia)

鎌倉街道関連の記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17960720/



・・・野津田

町田市の中北部に位置する。東西に鶴見川が流れ北東の町境には小野路川が流れる。北部と南東部と南西部は丘陵地帯となっている。「野津田郷」とも呼ばれた。江戸時代に、野津田村は最初、捉飼場(鷹を訓養する場所)になったが、後に留場(放鷹の地で水鳥などを生息、繁殖させるため漁猟禁止地域)に組み込まれた。その後、金沢藩前田家の鷹場になった。地名は蔦(ツタ)が茂っていたことに由来し「野蔦」と呼ばれた。(Wikipedia)

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鎧堰水辺の広場(鎧堰跡)/野津田町

「鎧堰の歴史」
鎧堰は、永禄8年(1565年)に八王子城主・北条氏照候の印版状を得て武藤半六郎が構築した。北条氏照は天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻略による落城で秀吉から切腹を命ぜられた。しかし、この鎧堰はその後長い間地域の人々に守られ今日まで400年以上にわたって野津田地区で八町八反歩(約87000平方メートル)の水田に豊かな農業用水を供給して人々の生活を支え親しまれたきた。河川整備に伴う鎧堰の撤去に際し、歴史を記す。
北条氏照印判状  野蔦(野津田)之郷本堰口、川二崩、当年水不上之間、新堰可鑿歟之旨、得御意候、 以彼堰過分之田地可荒義如可候間、小分之年貢引候義者不苦候、 尤新堰可為鑿旨被仰出状如件、丑(永禄8年)三月廿日 一雲奉 武藤半六郎殿 専正軒 「町田市史資料集第四集」より

「鎧の名の由来」
元弘3年(1333)5月8日、上野国新田庄(群馬県新田郡)の武将新田義貞は後醍醐天皇側からの命を受け、鎌倉幕府を倒すための兵を挙げました。新田軍は上野国から武蔵国に入り、鎌倉街道上道に沿って兵を進めます。対する鎌倉幕府軍は5月9日に鎌倉を出発します。両軍は、小手指原(入間市)久米河(東村山市)にて衝突し、5月15日には武蔵国府の有る府中に至ります。15日16日の2日間にわたって分倍河原(府中市)では激しい戦いが繰り広げられました。多摩川を越えた関戸付近では敗走する幕府軍を追って激しい掃討戦(関戸合戦)がおこなわれました。 (「多摩川市関戸に残る中世の伝承とその背景」より) この関戸合戦の末端で戦い犠牲になった兵の屍が鶴見川を流れ折り重なって堰をなり、その状況を見て「鎧堰」 (当時は鎧ヶ淵)と呼ぶようになったろの伝承があります。また、堰の模様が鎧に見えたことから鎧堰を呼ぶ説もあります。この鎧堰の北側の小高い畑に兵の亡骸を手厚く葬り、神聖な場所と言われた「兜塚」がありました。また、並木前の畑にはヤバ(矢場)畑、ツカ(柄)畑の通称もあり、この地が合戦場であったことを思わせます。 平成21年の河川整備に伴いこの伝承を記す。(東京都南多摩東部建設事務所)


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左手は野津田公園、右手は民権の森になります/丸山橋(旧鎌倉道・野津田町)


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前方新袋橋(現鎌倉街道)、左手奥が鶴川団地になります/参道橋


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青:鶴見川 黄:田中谷戸 橙:大山寺 小野神社 赤:橋(源流~新袋橋)

鶴見川東京都管理区間/丸山橋
区間:新橋上流端から麻生橋上流(神奈川県内を除く)
鶴見川は町田市上小山田町に源を発し、多摩丘陵を流下して横浜市生麦付近で東京湾に注ぐ全長42.5km、流域面積235km2の一級河川です。その流域は町田市、稲城市及び川崎市、横浜市に拡がり流域市街化率は80%を超えますが、上流・源流域は谷戸とその背後地に広がる雑木林など現在も豊かな自然が残っています。
谷戸とは
丘陵地が浸食されてできた谷状の地形を持つ地域です。谷戸には斜面の雑木林や谷底の谷戸田・湿地・草地など多様な自然環境が見られ、人間が長い間、自然と共存した生活を営んでききました。(東京都南多摩東部建設事務所)



・・・大蔵

町田市の北部に位置する。東西に鶴見川、西の町境には小野路川が流れ鶴見川に合流する。東には能ヶ谷、東南で川崎市麻生区の飛び地である岡上に接し、
北には鶴川がある。(Wikipedia)

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大蔵橋の手前で左から小野路川が合流します/川島橋(大蔵町)


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小田急線&岡上の丘/下川戸橋(大蔵町)

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真光寺長津田線に架かる宝殿橋、手前の左手が鶴川駅になります


(以前の「鶴見川・源流の泉」の内容を組み替えて編集し直しました。2016.1.21)

by Twalking | 2016-01-21 23:46 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 玉川上水リバーサイド03(下流部)   

玉川上水リバーサイド03(下流部)
明大前~四谷大木戸

玉川上水下流域(下流部浅間橋から水道局新宿営業所付近まで)
京王線代田橋駅付近から笹塚駅付近にかけては、一部区間(3ヶ所)が暗渠化を免れて遺っており流れはほとんどないものの水を湛えていて、鯉や亀などの姿が見られる。これは付近の地層から湧出した地下水が流下しているもので上流の高度処理水よりも水質がよい。幡ヶ谷駅・初台駅間にある本町一丁目交差点地点から文化女子大学東方・西新宿二丁目交差点地点までは、1936年(昭和11年)以来京王線の敷地として利用されている。当初は玉川上水に並行して電車が走っていたが、その後上水は暗渠化されて路線用地に転用された。現在は路線も地下化され地上部は遊歩道などに再転用されている。新宿駅近辺より東では玉川上水の面影は再び途絶えるように見えるが流路は地下に保全されている。1986年(昭和61年)の清流復活事業に際し行われた東京都の通水試験では終点の四谷大木戸まで通水可能であった。終点に近い新宿御苑付近では旧上水は御苑北縁の道路下に埋設されていて大雨時などの下水越流時には千駄ヶ谷幹線(穏田川)へ連なる排水路として利用されている。玉川上水の終点である旧四谷大木戸地点には東京都水道局新宿営業所があり、傍らに「水道碑記」(すいどうのいしぶみのき)が建てられている。 往時、ここに水番所があり、ここから先は埋設された石樋・木樋を通して江戸市中各地へと配水していた。(Wikipedia)



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代田橋駅付近

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井之頭街道碑                 開渠部入口/甲州街道             


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笹塚駅付近

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環七アンダーパス/大原               笹塚駅手前


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初台駅付近

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幡ヶ谷付近                      幡代小付近


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内藤新宿分水散歩道/新宿御苑


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資料ファイル

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ゆずりは橋
この橋は管理上の名称は玉川上水1号橋といいますが、橋を新しくするきっかけに地域の人々に「ゆずりは橋」という名称を付けてもらいました。以前橋の幅が狭かったのでみんなゆずり合って渡っていました。そのやさしさと代々子どもたちにこの橋をゆずる、という意味が「ゆずりは橋」の名に込められています。ゆずりは橋と平行に玉川上水をまたいでいるのは、代田橋駅前の和田堀給水所から引かれている水道管です。玉川入水は江戸時代の水道でしたから、このゆずりは橋は新旧ふたつの水道が交差する場と言えるでしょう。
玉川上水
世田谷区内でも分水が流れていました。北沢用水(北沢川)と烏山用水(烏山川)ができ、流域の村々に農業用水として使われていました。品川領の水田灌漑のために玉川上水から品川用水も区内を流れていました。区内では代田橋駅からゆずりは橋までが昔ながらの水路となっており、他は緑道となっています。(案内板)


d0183387_17154833.jpg玉川上水・内藤新宿散歩道
水散歩道の延長は約540mあり「旧新宿門」「大銀杏」「大木戸」から成り、水源には国道20号新宿御苑トンネル内の共同溝に湧出した地下水を利用しています。水路底には粘土を使用し自然な流水を再現しました。また、既存の樹木を生かしながら林床には武蔵野の雑木林で生育する草木類を中心に栽植しています。新宿御苑の雄大な自然と四季折々の変化とあわせて散策をお楽しみください。(新宿区)



d0183387_17333172.jpg史跡玉川上水水番所跡
玉川上水は多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通しました。水番所には水番1名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持しました。(新宿区)



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四谷大木戸碑
四谷大木戸碑は昭和34年11月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られて記念碑です。実際の大木戸の位置はこれより80m東の四谷四丁目交差点の所で、東京都の指定旧跡に指定されています。(新宿区)






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四谷大木戸/江戸名所図絵
元和2年(1616)江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられた。地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが、寛政4年(1792)以降は木戸が撤去されている(木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった)。文政12年(1829)成立の「江戸名所図会」には木戸撤去後の人馬や籠などの行き交う様子が描かれている。大木戸近くには承応2年(1653)に完成した玉川上水の四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた。また、元禄12年(1699)には大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿が開設されている。明治維新後、石畳や石垣は交通の障害となったため明治9年(1876)に撤去されてしまい現在では何も残っていない。(Wikipedia)

新宿御苑
もともと江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地である。1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され、宮内省(現在の宮内庁)の管理するところとなったが、第二次世界大戦後は一般に公開され、現在は環境省管轄の国民公園として親しまれている。例年4月上旬には内閣総理大臣主催の「桜を見る会」、11月上旬には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催される。大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもある。(Wikipedia)

by Twalking | 2014-06-05 16:37 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 玉川上水リバーサイド02(上流部)   

日時 2014.5.10(土)
天気 晴れ

玉川上水上流部 羽村取水堰~小平監視所
江戸時代同様、多摩川から取水した水がそのまま流れ水量も豊富な区間である。東京都羽村市の羽村取水堰で多摩川の水を取水し東流する。 多摩川水系は現在でも東京の上水源の1/3ほどを占めており、毎秒17.2立方メートルの水が水道用水の原水として利用されている。取水された水の大部分は、取水堰の下流約500メートルに位置する第3水門から埋設鉄管によって山口貯水池(狭山湖)・村山貯水池(多摩湖)へ送水され、最終的には東村山市にある東村山浄水場で利用される。残りの水はさらに下流、西部拝島線・多摩都市モノレールの玉川上水駅付近の清願院橋から300メートルほど下流にある小平監視所(旧称:小平水衛所)で取水され、東村山浄水場、および現役の農業用水路である新堀用水の双方に送水されている。なお、小平監視所はかつては玉川上水と野火止用水の分水地点であった。(Wikipedia)


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玉川上水駅/多摩モノレール

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見影橋/立川市

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新堀橋/羽村市


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羽村橋/羽村市


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資料ファイル

d0183387_16064010.jpg見影橋と源右衛門分水/立川市
見影橋は江戸時代から架かっていた古い橋です。その頃は村を流れる玉川上水の上流から4番目の橋だったので「四ノ橋」と呼ばれていました。また名主の屋敷に近いこともあって「旦那橋」とも呼ばれていました。大正時代に「御影橋」となり今では「見影橋」の字をあてています。橋が広げられるまではたもとに明治の初めの名主家当主の名前にちなんだ「源五右衛門分水」の取り入れ口がありました。今でも橋の南西下側にはその跡が残っており見ることができます。(案内板)


d0183387_16210774.jpg新谷橋/立川市
屋号を「しんや」と呼ぶ農家の裏手に架けられている橋なので「しんやはし」と呼ばれています。また砂川村の中で一の橋と呼ばれた上流の天王橋から数えて三つ目の橋だったので「三の橋」とも呼ばれていました。「上水記」寛政3年(1791)には作場橋(耕作地に向かう橋)」rとして書かれています。(立川市)


d0183387_16285678.jpgふせこし/立川市
玉川上水と唯一交差している川、残堀川(村山川、砂川あるいは蛇堀川ともいった)が西部拝島線武蔵砂川駅近くを流れている。かつては「狭山池(箱ヶ池)」として玉川上水に合流していたが、明治になって川が汚れてきたため、玉川上水の下を潜らせて多摩川に放流するように改修された。その後、残堀川の洪水対策としてサイホンの原理を応用した「ふせこし」と呼ばれる工法に改修され、現在では残堀川の下を玉川上水が潜っている。(案内板)


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新天王橋/立川市
現在の新天王橋は昭和45年に建設されたもので、上流部には昭和20年に架設された天王橋があります。天王橋の嬌名はむかし南側に松や杉の茂森があり、天王社を奉っていたためだといわれています。天王橋の北詰めには昔ここでに上水を砂川に分流していた頃、架かっていた石橋が洪水で流失したため橋を架け直す際に建てられた「石橋供養塔」があります。

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砂川用水の由来/立川市
砂川用水は明暦3年(1657)幕府財政再建の一環として武蔵野新田開発のためn玉川上水から分水され、松中橋から上水を平行に東上し、天王橋から五日市街道に沿って開通された。残堀川の旧水路が五日市街道と交差する付近(三・四番)の小集落に過ぎなかった砂川新田(村)は砂川用水の通過によって現在のように五日市街道に沿って計画的に耕地が開発できるようになった(立川市)


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玉川上水開削工事の跡/福生市・みずくらいど公園
玉川上水開削工事の跡は、江戸幕府が承応2年(1653)に江戸市民の飲料水の確保を目的として、多摩川より引水し江戸市中へ配水するために行った開削工事の跡です。開削工事の跡はこの「みずくらいど」公園に残っていますが、この遺構は工事が失敗し新しい堀を北側に掘り直したため、当初計画した堀跡が残されたものです。この付近の土地は古くから「みずくらいど」と呼びならされてきました。これは地中に吸い込まれ、工事が失敗した土地であるとの故事により、古絵図には「水喰戸」「水喰ノ上」の文字が現れます。開削工事の跡は「みずくらいど」公園の北にあるタマガワ丁目付近より武蔵野橋公園付近で東へ方向を変え、西部鉄道拝島駅前の玉川上水平和橋付近まで約1kmにわたって残存していたと伝えられています。しかし、現在ではみずくらいど公園内及び付近に開削跡が残るのみです。(福生市)


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青梅橋の由来/福生市
名前の由来は、この橋が拝島から熊川を経て福生に至り羽村からやがて青梅に至る「青梅街道」と呼ばれた街道にあたるからです。現在の銀座通りが青梅街道にあたります。青梅街道とはこの地域の経済、文化の中心であった青梅に通じる“青梅街道”と称したいくつもの青梅街道が確認されています。この福生の青梅街道もその一つです。青梅橋の名は古く、寛政3年(1791)に完成した「上水記」に「熊川村耕場 作場橋 青梅橋とも云」と記されています。江戸時代に玉川上水ができた時、作業のための通路を兼ねて作られたのでしょう。青梅橋はこの道筋が古くからの街道・青梅街道であることを現在に伝えてくれています。(案内板)


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牛浜橋/福生市
牛浜橋(昭和52年掛替)は東京と甲州を結ぶ五日市街道に架かる橋として馬車や牛車の往来により在来の橋梁では管理費の負担は大変でした。明治初期に新政府が東京市の近代化を図るために熊本より石工を招き、二重橋をはじめ橋などを洋風の目鏡橋に掛替たことを見聞した村民が牛浜橋に取り入れ明治12年にめがねはしと愛称された牛浜橋は建設されました。(案内板)


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東京湧水57選・清岩院/福生市
当院は応永年間(1394~1428)に建設されました。院内には本堂の他弁天堂や珍しい車地蔵があり、静かな佇まいのゆったりとした時の流れを感じさせてくれます。本堂と湧水のある日本庭園は風格が漂い、冬の雪景色も美しいものです。(案内板)


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放流口/第二水門

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羽村取水堰                       玉川兄弟像

堰の筏通し場
「きのう山下げ きょう青梅下げ あすは羽村の堰落し」と筏乗りの唄にうたわれたように、多摩川上流から伐りだす青梅材を江戸に搬出する筏乗りにとって羽村の堰は最大の難所でした。享保3年(1718)江戸幕府は筏による堰の破損を理由に堰通過を全面禁止しました。羽村以西の三田領42ヶ村の筏師仲間は幕府に通行の再開を嘆願しました。享保6年、新たに筏通し場を設置し特定の日時に限って通行が許可されました。以来堰を下る戦場さながらの壮観な筏落し風景は大正末年ごろまで見かけられました。(案内板)東京都新宿区から東京都青梅市を経由し、山梨県甲府市に至る街道である。

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羽村堰/羽村堰下橋


五日市街道
東京都の多摩地域などを通る街道。現在の東京都道7号杉並あきる野線の本線とほぼ一致する。家康家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や楢原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転した。武蔵野台地の新田開発が進むと、多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展した。(Wikipedia)

青梅街道
1603年(慶長8年)、江戸城築城のために青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備された。当時の名称は成木街道であった。しかし、江戸時代中頃には絵図や紀行文などに「青梅街道」の記述が見られる。内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流する。このため「甲州裏街道」とも呼ばれた。道程で甲州街道より二里短く関所が無いため庶民の旅客にも多く利用された。但し、塩山近くに萩原口留番所があり小規模な関所が実質存在した。番所の跡と近くに番所の門を復元した温泉保養施設(大菩薩の湯)がある。また、大菩薩峠登山口バス停にある番屋茶屋はもともと萩原口留番所近くの茶屋だったことから由来しバス路線開設で現在地に移転したものである。1878年(明治11年)には最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更された。(Wikipedia)



by Twalking | 2014-05-11 15:43 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 玉川上水リバーサイド01(中流部)   

日時 2014.5.4(日)
天気 晴れ

中流部(1)陣屋橋(小金井公園)~清願院橋(玉川上水駅)

玉川上水の流路
現在の玉川上水は、保存状態・利用状況の違いによって、おおまかに3つの区間に分けて考えることができる。 すなわち、上流から順に、「多摩川からの導水路として今も供用されている区間」、「清流復活事業によって少量の水を流している区間」、「大部分が暗渠化され、水路としても水辺としても利用されていない区間」である。 以下では便宜的に、これらの区間をそれぞれ「上流部」、「中流部」、「下流部」と呼ぶこととする。

中流部(小平監視所~浅間橋まで)
東京都の清流復活事業に従って処理水を流している区間である。 古くからの樹木がよく茂り、豊かな木立に覆われている箇所が多い。小平監視所より下流は、かつては多量の水が新宿区の淀橋浄水場まで送られていたものの、1965年(昭和40年)の同浄水場廃止とともに送水を停止し、以降は水道施設としての利用はない。 その後長いあいだ“空堀”状態であったが、1986年(昭和61年)以降、都の策定した「清流復活事業」により水流が復活した。昭島市宮沢町にある多摩川中流再生センターにて高度二次処理を施した下水が、このために送水されてきている。 途中、JR武蔵境駅北方・境橋(旧武蔵国多摩郡上保谷村地先)付近で分水して千川上水へも高度二次処理下水の20%を分流させている。流路は一貫して東流、ないしは南東流をつづける。一橋大学小平キャンパスの傍らにある商大橋地点から前述の境橋までは五日市街道と併走。その後境浄水場の脇を流れ、三鷹駅の直下をくぐりぬけ、井の頭公園を横断し、神田川の500メートルばかり南方を並ぶようにして流れる。京王井の頭線・富士見ヶ丘駅の南方、往時には橋が架かり浅間橋(せんげんばし)と呼ばれていた地点の付近で中央自動車道にぶつかる。 開渠区間は浅間橋の200メートルほど上手でひとまず終わっており、清流復活事業の区間も当地点までとなっている。(Wikipedia)


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小金井橋付近/小金井市


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久右エ門橋付近/小平市


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玉川上水放流口(上水小橋)/小平市


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資料ファイル

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清流の復活ー玉川上水/玉川上水放水路入口
玉川上水は約330年前(承応2-3年)江戸の飲料水供給のために作られた上水路です。この上水は江戸市中への飲料水の供給という本来の目的を果たす以外に、武蔵野台地の各地に分水され飲料水、灌漑用水、水車の動力として武蔵野の開発に大きな役割を果たしました。近年までこの上水路はそのまま淀橋浄水場への導水路として使われていましたが、新宿副都心計画による淀橋浄水場の廃止に伴い昭和40年以後、小平監視所より下流については水がとだえていました。しかし、東京都の清流復活事業により野火止用水に続き玉川上水にも昭和61年8月清流がよみがえりました。(東京都水道局)


d0183387_22332053.jpg甦る水100選/玉川上水放水路入口
この水は、昭島市にある東京都流域下水道「多摩川上流処理場」からの再生水です。これによって水のなくなった「玉川上水」に清流がよみがえりました。我国のの清流復活の先駆けとして全国の「甦る清流100選」に選ばれました。(東京都)



d0183387_22574192.jpg名勝小金井(サクラ)/小金井橋
小金井堤の桜は、元文2年(1737)頃八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門定孝が大和の吉野や常陸の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の6kmにわたり植えたものです。これは新田の賑わいのためほか、桜の根が土手の崩壊を防ぎ花びらなどが水の毒を消すなどの理由によるものといわれています。植樹されておよそ60年後の寛政9年(1797)多摩地域(現東大和市)出身の漢学者・大久保峡南が「武蔵野八景」の一つとして世に紹介すると江戸からの花見客が増え、佐藤一斎「小金井橋観桜記」や太田南畝(なんぼ)「調布日記」など文人による紀行文等に登場するようになりました。また初代歌川広重が描いた「江戸近郊八景之内小金井橋夕照」などによって富士山を背景とし玉川上水に映る桜並木の風景が有名になり、天保15年(1844)の将軍世子(のちの13代将軍家定)の観桜を契機に幕府の命により近隣村々によって大規模な補植が行われ桜並木の景観を整えました。明治16年(1883には明治天皇が騎馬で行幸されるなど関東第一の桜の名所として西の吉野と並び称せら、明治22年(1889甲武鉄道が開通するといっそう多くの花見客で賑わいました。(小金井市・小平市)

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d0183387_23421244.jpg国指定史跡・玉川上水
(江戸・東京の水道に果たした役割)
玉川上水は羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応3年(1654)に完成しました。これにより多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給すぁれることになり、江戸が大きく発展することができました。その後明治31年(1898)に完成した淀橋浄水場への水路として昭和40年(1965)に同浄水場が廃止になるまで利用されました。小平監視所までは現在の水道用の水路として都民の生活を支えています。

(貴重な土木施設・遺構としての歴史的価値)
玉川上水は約43kmの区間を92cmの標高差(100mでわずか約21cmの高低差)を利用して水を流すように設計された長大な土木施設・遺構です。特に小平監視所から浅間橋までの中流域は開削当時の素掘りの水路・法面が多く残され、往時の姿を今日に伝えています。玉川上水は近世の水利技術を知る上で貴重な土木施設・遺構であることから平成15年国の史跡に指定されました。(東京都下水道局)


d0183387_00145482.jpg陣屋橋/小金井市
江戸時代前期の承応3年(1654)江戸の水道である玉川上水が完成した後、武蔵野の原野の開発が急速に進み享保年間(18世紀前半)八十二か村の新田が誕生した。この時上水北側の関野新田に南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋(役宅)が置かれ「武蔵野新田世話役」に登用された川崎平右衛門定孝の手代(下役)高木三郎兵衛が常駐していました。この陣屋から南に真っすぐ小金井村に通じる道が「陣屋道」、玉川上水に架かる橋が「陣屋橋」です。また、玉川上水の小金井桜は新田開発が行われた元文2年(1737)頃、幕府の命により川崎平右衛門が植えたものです。(小金井市教育委員会)


d0183387_00194356.jpg小金井橋/小金井街道
承応2年(1653)玉川上水が開かれた時に架けられたものと思われます。やがて小金井堤が桜の名所となると「金井橋」・「黄金井橋」・「金橋」などと呼ばれ、歌川広重らが錦絵や挿絵に描きました。・・・このレンガと要石は旧小金井橋の一部を記念に残したものです(小金井市教育委員会)



d0183387_22432338.jpg清願院橋/玉川上水駅
清願院橋は芋窪街道と玉川上水の交差部に架かる橋で、明治39年(1906)に東京市水道局が作成した「玉川上水実測平面図」では「八ノ木橋」と記録されています。これは、砂川村の玉川上水に架かる橋の中で西から八番目の橋という意味です。江戸時代に遡る古い橋ですが架橋年代や嬌名の由来は詳らかではありません。ここから400m下流左岸は、承応4年(1655)武蔵川越藩主・松平伊豆守信綱の家臣・安松金右衛門吉実によって開削された最初の分水である野火止用水があります。(案内板)


by Twalking | 2014-05-05 21:39 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 日本橋川02 豊海橋付近   

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日本橋川河口部(豊海橋)


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豊海橋   



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湊橋上流部 左手は亀島川水門(亀島川)



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資料ファイル

d0183387_0294872.jpg《日本橋川》
日本橋川は慶長5年(1600)関ヶ原合戦後に切り開かれ、江戸城の大手口と隅田川をほぼ直線で結ぶ運河として主要な役割を果たしてきた川筋で、江戸の繁栄と共に生きてきた河川です。(中央区)


d0183387_0574519.jpg《豊海橋》
日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋です。(1927年(昭和2年)に震災復興橋として架設された)橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸揚げする場所で川に沿って白壁の酒蔵が並んでいました。明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正12年(1923)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫しました。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。福田武夫はフィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しした様なこの様式は日本では数ヵ所にあるのみで近代土木遺産として貴重な橋です。(中央区教育委員会)


d0183387_1231978.jpg《湊橋》
この橋は、霊巖島(現在の新川地区で通称こんにゃく島と呼ばれていた。)と 対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679)に架けられました。この地域は江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西〔上方〕を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。 『江戸名所図会』によると、この橋は当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋を挟んだ川岸には倉庫が建ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。 橋名の由来については、江戸湊の出入口にあったところから、湊橋と名付けられたものです。 現在の橋は関東大震災後の復興期に再建(昭和3年)されたもので、平成元年度の整備事業において、装いを新たにしました。(中央区教育委員会)


《亀島川》
中央区にある霊岸橋付近で日本橋川から分流し南へ流れ、亀島橋を過ぎたあたりで南東に折れ、中央区の中央大橋下流で隅田川に合流する。約1Kmの短い流路延長に5つの橋が架かる。江戸期には川沿いに向井将監らの御船手奉行所があって、江戸に入る船舶はここで検めを受けたため、将監河岸とも呼ばれた。江戸時代は越前堀とも言われ、明治時代には越前堀一丁目など、地名にもなった。(Wikipedia)

by Twalking | 2013-03-03 09:33 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川リバーサイド03 新大橋~佃島   

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新大橋 /新大橋通り
最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年12月7日(1694年1月4日)である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。(Wikipedia)


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清洲橋/清洲橋通り
関東大震災の復興計画で新しい幹線道路がこの地を通ることになり架橋がつくられました(昭和3年3月)。ライン川に架かるケルンの吊橋をモデルとして曲線的な優美さを表現しました。橋の名は当時の深川区清澄と日本橋区中洲町を結び「清洲橋」と名付けられました。(案内板)


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隅田川大橋 /水天宮通り
隅田川大橋は首都高速道路(9号線)と都道47号線が重なった二段構造の橋となっており、上段部分が首都高速道路、下段部分がいわゆる“隅田川大橋”です。(昭和54年・1979完成)また地下には東京地下鉄半蔵門線が通っています。


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永代橋/永代通り
永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも100m程上流、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所である。隅田川で四番目に作られた橋。「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。(Wikipedia)



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中央大橋/八重洲通り
1993年に佃大橋と永代橋との間に新しく架けられた橋です。高層ビル群が立ち並ぶ近代的な街並みとして生まれ変わった佃地区と都心を結ぶ橋として計画されました。形式は近代的な街並みとマッチし、地域のシンボルとしての役割を果たすようタワーを配した斜張橋となっています。隅田川とセーヌ川の友好河川提携を記念して、パリ市の協力によりフランスの彫刻家オシップ・サッキンが制作した「メッセンジャー」像が設置されています。(説明版)



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佃橋/晴海通り
佃大橋は隅田川最後の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋であり、上流に平行している永代橋、下流の勝鬨橋の交通量の増加、および東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として、戦後初めて隅田川に架橋された橋である。当時佃島と月島を隔てていた佃川は、佃大橋の取付道路建設のために埋め立てられ、島であった佃島は地続きに、同時に佃川に架かっていた佃橋は廃橋となった。(Wikipedia)


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資料ファイル

《隅田川の呼び名》
本来は荒川ですが、荒川放水路が荒川となって以来荒川下流の支流の部分だけの名称になっています。住田川、隅田川、角田川とも書き、澄江・墨水ともいいます。さらに別称には須田川、あすだ川、染田川、大川、両国川、みやこ川、浅草川の名もあります。一つの川にこれほど多くの名称を持っていることはいかに深く人びとの生活に溶け込んでいたかを示しています。(案内板)


d0183387_1523281.jpg《船員教育発祥の地/永代橋橋詰》
明治維新後、わが国の海運界は国際的にみて立ち遅れが目立っていました。1875年大久保利通の命令により岩崎弥太郎は「三菱商船学校」を設立し、これがのち東京海洋大学(旧東京商船大学)となりました。当初この学校は隅田川に成妙丸を繋留して校舎とし、生徒全員を船に起居させて近代的船員教育を完成しました。(説明版)



d0183387_15232882.jpg《新川の碑/新川1丁目》
新川は現在の新川1丁目3番から4番の間で亀島川から分岐しこの碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約590m、川巾は11~16mと狭い所と広い所があり西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。この新川は豪商河村瑞賢が諸国から船で江戸へ運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため万3年(1660)に開削したといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えたと伝えられています。当時この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸に立ち並ぶ酒蔵の風景は数多くのさし絵や浮世絵にも描かれました。昭和23年新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため昭和28年新川史跡保存会によって「新川の碑」が建立されました。(中央区教育委員会)



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《佃島渡船跡/佃1丁目》
佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲(よりす)である。徳川初代将軍家康の時摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたところという。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通っていたのが佃の渡しである。目地9年7月には渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出ている。大正15年東京市の運営に移り昭和2年3月無賃の曳舟渡船となった。この石碑はこの時建てられたものである。昭和30年8月佃大橋の完成によって廃止された。(中央区教育委員会)


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《石川島人速寄場/佃公園》
1790年「鬼の平蔵」として知られる長谷川平蔵の建策により石川島後に人速寄場をつくり、無宿人等を収容して職業指導をおこないました。明治中期以降は石川島造船所(現石川島播磨重工業)の敷地になりましたが工場は1979年に閉鎖され、その跡地は「大川端リバーシティー」の高層ビル群に生まれ変わりました。(説明版)

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《住吉神社の水盤舎(おみずや)・陶製扁額》
住吉神社は江戸初期に摂津西成郡(大阪府)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保3年(1646)に現在地に創建された佃島の鎮守です。当社は創建以来佃島の鎮守のみならず水運関係の人々から厚い信仰を受けて賑わいました。水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。っ明治2年(1869)に再建され同44年に改築されました。欄間は明治2年再建時のものを使ったと推定されます。正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった廻船や網をうつ小舟、背面には磯の風景、また内側には潮干狩など佃島の風景が彫られています。石造り水盤には「天保12年(18419白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。正面鳥居の扁額は珍しい陶製で、白地に呉須で扁字や雲文を染め付けています。明治15年(1882)6月に制作され、額字の筆者は有栖宮幟仁(たかひと)親王です。(中央区教育委員会)


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《鐵砲洲稲荷神社》
鐵砲洲稲荷神社は江戸湊の入口に鎮座する神社として地域の人々の信仰を集めてきまいた。神社は寛永元年(1624)頃稲荷橋南東に遷りましたが明治元年現在地に移転し今日に至っています。関東大震災により被害を受けた境内は昭和10年(1935)より復興整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内西南隅に神神輿庫が設けられています。また西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚がありそこを富士信仰の場としていました。昔の富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なももでした。(中央区教育委員会)

by Twalking | 2013-03-02 14:36 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川リバーサイド02 桜橋~駒形橋   

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桜橋上流/桜橋


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左岸墨堤/言問橋


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駒形橋下流/駒形橋

第2回スマ歩「東京スカイツリーウオーキング」(9月27日開催)下見


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資料フィル

d0183387_15173785.jpg《桜橋》
台東区と墨田区の姉妹提携事業として1980年に創架が始まり、1985年に完成した隅田川唯一の歩行者専用橋で、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持つ。形状は平面のX字形の特異な形をしている。(Wikipedia)



d0183387_15201130.jpg《言問橋》(ことといばし)
国道6号・東京都道319号環状三号線(言問通り)を通す。西岸は台東区花川戸二丁目と浅草七丁目を分かち、東岸は墨田区向島一丁目と二丁目を分かつ。もともと「竹屋の渡し」という渡船場があった場所である。
「言問」という名称は在原業平の詠んだ、名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと という歌に因むが、実際にこの業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」でのことであり、言問橋近辺には地名としては存在していたわけではないため、多くの説がある。有力な説としては、1871年(明治4年)の創業でこの地に現在もある言問団子の主人が団子を売り出すにあたって、隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名づけ、人気の店となったことからこの近辺が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことに由来するというものがある。
《竹屋の渡し》 「竹家の渡し」、「向島の渡し」とも称された。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも称される。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来するという。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島三囲(みめぐり)神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。(Wikipedia)


《吾妻橋》
創架は1774年(安永3年)10月17日のことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、1769年(明和6年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成したものである。長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残る。橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれた。これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことにちなむ。しかしながら、俗に江戸の東にあるために町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説がある。いずれにしても、1876年(明治9年)2月に木橋として最後の架け替えが行われた際に正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名された。1931年(昭和6年)に現在の橋に架け替えられた。

《竹町(たけちょう)の渡し 》 「駒形の渡し」とも称される。現在の吾妻橋と駒形橋のほぼ中間の場所にあった渡しで、江戸期に吾妻橋が架橋されたことによって利用者は減ったものの、1876年(明治9年)まで運行されていた記録が残っている。(Wikipedia)

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江戸名所図会 大川橋(吾妻橋) (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


d0183387_15235417.jpg《駒形橋》(こまがたばし)
1927年(昭和2年)に竣工した隅田川にかかる橋で、東京都道463号上野月島線(浅草通り)を通す。西岸は台東区雷門二丁目、および駒形二丁目を分かち、東岸は墨田区東駒形一丁目と吾妻橋一丁目を分かつ。橋名は橋の西詰にある「駒形堂」に因む。関東大震災後の復興計画により現在の橋がはじめて架橋された。それまでは「駒形の渡し」があった場所である(Wikipedia)

by Twalking | 2012-08-27 21:56 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川リバーサイド01 柳橋~駒形橋   

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神田川・隅田川合流地
春の夜や 女見返る 柳橋 正岡子規  


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柳橋/神田川                  浅草橋/神田川


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石塚稲荷神社/柳橋1       榊神社(浅草文庫跡碑)/柳橋2    



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蔵前橋/隅田川


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駒形橋/隅田川
君はいま 駒形あたり ほととぎす (高尾太夫の句とされる) 


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資料ファイル
《柳橋》
神田川が隅田川にそそぐところ架設されたのではじめは「川口出口の橋」と呼ばれた。近くに幕府の矢の蔵があったことにちなみ矢の蔵橋・矢之城橋と呼んだともいう。柳橋は正徳(1711~15)頃からの呼称らしい。橋名の由来には①柳原堤の末にあるので②矢之城を柳の字に書きかえる③橋畔の柳にちなむの諸説があって真説は不明。③の説は単純だがはからずも本当の由来かもしれない。創架は「文政町方書上」によると、元禄11年(1698)で同年11月18日に起工し12月26日竣工した。鉄橋に改架は明治28年(1895)。現在の橋は昭和4年(1929)完成である。江戸時代橋畔は船宿が並んで賑わった。幕末・明治以降柳橋は花柳界として名高い。 春の夜や 女見返る 柳橋 正岡子規がこの句を残したのをはじめ柳橋は文人にとりあげられた。(台東区)

《浅草蔵前》
蔵前という町名が最初に付いたのは浅草御蔵前片町で元和7年(1621)のことである。幕府の米蔵があったことから付けられた。この米蔵は幕府の直轄領地から送られた米を収納するため、鳥越の丘をけずりその土砂で隅田川河岸を整地して元和元年の頃造られた。当時浅草御蔵などと呼ばれ67棟もの蔵があったことから約六十二万五千俵(3万7千5百トン)の米を収納するこができた。この米は幕府の非常備蓄米としての役割と領地を持たない旗本・御家人に支給する給料米であった。(下町まちしるべ)

《浅草御蔵跡》(蔵前橋西詰)
この区域は今の蔵前橋を中心に柳橋2丁目4番から厩橋手前に至る一帯で、敷地約12万平方メートル、弘化年間(1844~48)には67棟、356戸あったといわれています。蔵前の8筋の掘割は大正初期までありましたが、護岸工事のため埋められました。

《浅草文庫跡碑》
浅草文庫は、明治7年(1874)7月に創設された官立の図書館である。翌明治8年(1875)に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。明治14年(1881)5月に閉鎖。跡地は翌明治15年(1882)に設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。関東大震災後の大正13年(1924)、当時の東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転。昭和3年(1928)に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かつて、浅草文庫が位置していたところである。高さ約4メートルの碑は、この文教の旧地を記念して、昭和15年(1940)11月建立された。(台東区)

《駒形橋》
駒形(こまかた)の名は浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人びとによればコマカタは清く発音してコマガタと濁らないと伝えている。ここは古来交通の要地で「駒形の渡し」のあったところである。江戸の巷説に有名な 君はいま 駒形あたり ほととぎす の句は、文芸・美術などの上で駒形堂とともにこの辺りの雰囲気を伝えるものである。関東大震災の後、復興事業の一環としてこの地に優美なアーチ橋が設計され昭和2年(1927)に完成した。歌人正岡子規の和歌にも 浅草の 林もわずか暮れそめて 三日月低し 駒形の上に というのがあり、この辺りの雰囲気をつたえるものである。(東京都)

by Twalking | 2012-07-21 23:53 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 日本橋川01 九段下~兜橋   

今日は所用があって都心まで出かけてきました。
折角ですから、ついでに日本橋川べりを歩いてみました。
やっぱりこの辺りは歴史があって面白い所ですね。。


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日本橋川/共立女子大付近


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俎橋(まないたばし)/靖国通り        宝田橋/竹平通り


d0183387_23364871.jpg雉橋/雉橋通り
外濠から平川濠に続いていて江戸城本丸にも近いため警備も厳しかったといわれる。旧橋はこの橋より100mほど西側に架けられていた。
名称の由来について、御府内備考に『関東御うちい入り以後、から国の帝王より日本に勅使が渡り数万人の唐人江戸に来たり。これをもてなし給うには雉にまさる好物なしとて、諸国より雉を集め給ふ。この流れのみなかみに鳥屋をつくり雉をかぎりなく入りきぬ。その雉屋のほとりに橋一つありけり。それを雉橋と名付けたり』とかかれています。
(千代田区教育委員会)




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一つ橋/白山通り                一橋徳川家屋敷跡/丸紅東京本社

内濠川に架かる見附橋。徳川家康が江戸城に入ったころは大きな丸木が一本かけられていたのでその名で呼ばれたといいます。橋の近くに松平伊豆守屋敷があったので伊豆橋ともいわれたこともあります。八代将軍吉宗の第4子徳川宗尹(むねただ)が御三卿の一人として居をかまえていました。そこで橋の名をとって一ツ橋家と称したといわれています。(千代田区教育委員会)


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錦橋/明大通り                  神田橋/日比谷通り・本郷通り

『別本慶長江戸図』にも橋が描かれ「芝崎口」と名が記されています。近くに拝領屋敷があった土井大炊頭勝利に因んで「大炊殿橋」と呼ばれていました。更に神田の町へ出入りすることから「神田口橋」「神田橋」と呼称が変わってきました。かってここに内郭門のひとつ神田門がありました。この門を通る道筋は寛永寺へ参詣する御成道にあたりますので厳重に警備されていました。(千代田区教育委員会)


d0183387_0405071.jpg鎌倉橋
《鎌倉河岸》江戸名勝志には『神田橋より常盤橋の辺り外堀はたを云』とあります。天正18年(1590)家康入国頃の初期、この河岸は魚、青物のような生鮮食品をはじめ木材、茅などの物資の集まるところでした。江戸城築城の時、鎌倉から石財を荷揚げしたのでこの名がついたといわれています。(千代田区教育委員会)


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常盤橋/常盤橋御門              常盤橋
江戸城外濠の表正面で、現在は枡形門の石垣だけが残っています。この門は、浅草・千住を経て行く奥州街道の出口であったので浅草口と呼ばれ、江戸五門のひとつにも数えられています。昭和3年(1928年)国の史跡に指定されました。(中央区観光協会)


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日本橋
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年」(1603)と伝えられています。橋詰には高札場があり魚河岸があったことでも有名です。現在の日本橋は東京市により石造り2連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋名は15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を獅子は 守護を表しています。(中央区教育委員会)


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江戸橋/昭和通り                兜橋・鎧の渡し/平成通り

鎧の渡し跡は日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の渡し場です。伝説によるとかつては大河があり、平安時代の永承年間(1046~53)に源義家が奥州平定の途中ここで暴風雨・逆波にあい、その船が沈まんとしたため鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを奉げたところ無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだといわれてます。また平将門が鎧を納めたところとも伝えられています。(中央区教育委員会)

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江戸名所図会 鎧之渡 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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鎧神社                     東京証券取引所

by Twalking | 2012-04-06 22:20 | リバーサイドウオーク(新規)