無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:古東海道関連(新規)( 31 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『曽我の里』03-曽我の遺跡群   

日時 2018.6.29(金)
天気 晴れ

相模国府比定地の関連として出てくる「千代廃寺」、
ここは見ておきたいと思っていました。
調べていたらこの酒匂川低地は遺跡の宝庫です。

駅前の案内板に従い群家跡と想定される永塚遺跡、
千代廃寺跡、高田遺跡など順番に訪ねてみました。
初期国分寺・国府説は否定されているようですが、
この考えは方は初期寺院と郡家に置き換えられるようです。

日差しが強くて鎮守の森に入るとホット一息でしたが、
西からの稲作の伝来や古東海道の関連など、
遺跡としてはなかなか興味深いものがありました。



・・・永塚(小田原市)

d0183387_10382168.jpg
眼下の酒匂川低地(足柄平野)に下曽我遺跡群が広がっています/六本松峠


d0183387_23273387.png
下曽我駅からめぐる小田原の遺跡/下曽我駅前
下曽我駅の周辺には小田原の歴史を考える上で重要な遺跡が多く所在しています。遺跡解説の説明板をコース上に設置しています。下曽我駅を出発して遺跡めぐりに出かけてみてはいかがでしょうか。
下曽我遺跡・永塚遺跡群(説明板234
古墳時代の集落からは銅鏡が見つかっていることが注目されます。奈良・平安時代は地方役所である足下郡家(あししもぐうけ)があったと推定されています。古代の井戸や舗装道路のほか木簡や墨書土器など貴重な資料が見つかっています。
千代遺跡群(説明板567弥生時代後期以降、地域でも屈指の大集落が展開していました。奈良・平安時代千代寺院跡(千代廃寺)が所在し、瓦や木簡など寺院との関連を示す遺物が多く見つかっています。
高田遺跡群(説明板89
8世紀の正倉院文書に記載された「足下郡高田郷」が所在した場所と推定されています。低地部の調査では古墳時代の農耕具が見つかっているほか、古墳時代前期の銅鏡なども出土しています。
下堀方形居館(説明板10
中世土豪クラス居館跡と推定されています。当時の屋敷地の名残である方形の区画や土塁が残存しているほか、周囲を囲む二重の堀が発掘調査で見つかっています。(小田原市教育委員会


d0183387_10431904.jpg
街道の風景① 田園に森戸川が流れます、森が永塚観音、郡衙想定地です/永塚

d0183387_18091658.jpg
永塚観音

d0183387_18092040.jpg
永塚観音
永塚観音は永塚の観音様と呼ばれ古くからこの地方の人々に尊信されています。本尊は馬郎婦観音立像(陶製)です。観音縁起は延淳年間(17441747)の火災によって焼失してしまいました。しかし、伝承によれば昔、光海(小海)のほとりに貧しいが心やさしく信心深い農夫が住んでいて、ある年の718日の夜農夫の夢枕に白髪の老人が立ち「昔この地方に大地震による大災害があり、その際に光海が出来た。その時に観音様も水中に没してしまった。信仰心の厚いお前に観音様の場所を知らせるので、明朝光海へ来なさい。一本の白羽の矢を放つからその矢の落ちた所に観音様はある」と農夫に伝え、翌朝その農夫が光海に行くとそこには一本の白羽の矢があり、その水中に御丈6寸(18cm)の青磁の観音様を見つけ、信心深い農夫は家財を一切売り払って観音様を安置する御堂を建立したとされています。以後、この地域の人々に尊信され、毎年717日の御開帳には多くの参詣客で賑わいをみせています。(説明板)

d0183387_18131021.jpg
d0183387_18131674.jpg
良雲寺(曹洞宗)           遺跡説明板


d0183387_16142358.png
郡家想定地としての永塚
永塚台地の北側には永塚長森遺跡永塚北畑遺跡が広がっています。両遺跡では数次にわたる発掘調査で弥生時代後期から平安時代にかけての遺蹟が発見されています。永塚長森遺跡では弥生時代後期から古墳時代前期方形周溝墓が発見されています。方形周溝墓とは弥生時代から古墳時代前期にかけての埋葬遺構です。中央の埋葬施設を取り囲むように四角く溝(周溝)を掘り墓域を区画したものです。丁度この説明板の前でも2基の方形周溝墓が確認され多くの遺物が出土しています。永塚台地では南側の永塚下り畑遺跡で20軒以上の住居跡が確認されていますが、この周辺では住居跡はほとんど見つかっていません。このような異なる遺構分布傾向から、永塚の北側には墓域が広がっていたのではないかと考えられます。

d0183387_18313350.png
永塚北畑遺跡では奈良・平安時代住居跡が多数確認されており集落が広がっていたことが分ります。しかしその一方で、永塚観音堂を中心とする永塚長森遺跡一帯では奈良時代以降の遺構はあまり確認できず、住居跡も発見されていません。このような集落遺跡の空白状況は千代台地における千代廃寺周辺の様子とよく似ています。千代の場合は寺院があったため集落が営まれなかったと考えられますが、永塚の場合も郡家(地方役所)があったためではないかと考えられています。今のところ郡家に関係する明確な遺構は発見されていませんが、このような住居跡の空白状態から郡家が永塚に所在した可能性を想定することができます。(小田原市教育委員会)

d0183387_18380179.jpg
街道の風景② 曽我病院前に説明板が立っています/永塚

d0183387_18522480.png
学史に残る下曽我遺跡の調査
下曽我遺跡1959年に行われた曽我病院の土取工事中に発見されました。翌1960年から発掘調査が行われ、木枠の井戸木柵列が発見され、木簡墨書土器などが出土したことで話題となりました。この時に発見された井戸は3基であり、出土した木簡は研究史上4例目で関東では初めての発見でした。

d0183387_18522059.png
最初の発掘調査から約40年後の2001年、社会福祉法永耕園の新築工事に伴って再び発掘調査が行われました。この調査では40年前に発見されていた井戸(1号井戸)を再び確認することができ、井戸の詳しい構造や規模を確認することができました。また、未確認であった井戸も新たに1基発見され、下曽我遺跡には合計4井戸が存在することが分りました。井戸の周りには曲物埋設遺構や護岸施設と考えられる木組み遺構も確認されており、この辺りが水の豊富な土地であったことが分りました。

d0183387_18521507.png
下曽我遺跡の調査では墨で文字が書かれた土師器や須恵器、灰釉陶磁器(はいゆう)が多く出土しています。このような土器を「墨書土器」と呼んでいますが、墨書土器は奈良時代頃から日本各地で見られるようになり平安時代になると多く出土するようになります。写真3に掲載した「千字文」とは習字の手習い書のことであり「上主ちょう」の主ちょうとは郡司(郡の長官)の役職名である「主帳」と同じ意味を表しています。他にも「」(け)「大家」(おおやけ)「」など郡家(地方役所)のような公共の建物を表す文字を記した土器が多く出土しています。このような墨書土器が多いことから、下曽我遺跡は一般的な集落と異なり郡家に付属する(津)であったのではないかと考えられています。(小田原市教育委員会)

d0183387_19221961.jpg
街道の風景③ 曽我病院の先の住宅地に説明板が立ちます/永塚

d0183387_19304849.png
集落がひろがる永塚下り旗(くだりはた)遺跡
この辺りの遺蹟は小字名から永塚下り畑遺跡と呼んでおり、弥生時代後期から平安時代にかけての遺蹟としてしられています。丁度この場所で2001年に発掘調査が行われ(永塚下り畑遺跡第Ⅳ地点)大きな成果が挙がりました。発掘調査では弥生時代後期から古墳時代前期の住居跡10軒確認されました。


d0183387_19313634.png
住居跡の中には神奈川県で3例目となる重圏文鏡と祭祀に用いられたと考えられる片口の高杯(たかつき)が出土するものや、ユリ科のネギ属の球根(アサツキやヤマラッキョウのようなもの)が納められた壺や神奈川県2例目(全国で6例目)となる琴柱垂飾品(ことじがすいしょうひん)の発見されるものもありました。これらの住居は集落の中でも特殊な役割を果たしていたと考えられます。

d0183387_19314626.png
また、古墳時代後期から奈良・平安時代の遺構も濃密に分布していました。その中でも1号道路状遺構は小石、土器、瓦の破片で表面を舗装した珍しい舗装道路で、同Ⅴ地点でも続きが発見されています。発見された住居跡はこの道路に沿って建てられていることが分りました。

d0183387_19314178.png
なお、永塚下り畑遺跡周辺では愛知県猿投窯で焼かれた緑釉陶器(ろくゆととうき)の破片が多く出土しています。緑釉陶器は平安時代の国産陶器としては最高級品です。永塚下り畑遺跡で多くの緑釉陶器が出土する理由は、南方の千代廃寺や永塚に所在地が推定される郡家(地方役所)との関わりが考えられます。先の舗装道路を歩き千代廃寺と郡家の間を往来する人々の姿が思い起こされます。(小田原市教育委員会)


・・・千代

d0183387_19571433.jpg
街道の風景④ 県道716号から一段上に「千代廃寺」の説明板が立ちます/千代

d0183387_19571979.jpg
d0183387_19572839.jpg
忠魂碑が建ってます           県道716号


d0183387_20052125.png
千代寺院跡(千代廃寺)/千代
奈良・平安時代の千代には寺院が建てられていました(通称「千代寺院跡」「千代廃寺」)。195051(昭和2526)年に千代中学校の校庭造成のために県道沿いの千代字北町で土取り工事が行われ鬼瓦を含む大量の瓦などが採集されています。1958(昭和33)年に寺院跡の実態解明を目的とした最初の発掘調査が行われました。現在忠魂碑の建つこの場所も台ノ塚と呼ばれ1960(昭和35)年に発掘調査が行われています。いずれも、明確な寺院の痕跡は見つかりませんでした。

d0183387_20072995.png
その後の発掘調査でも具体的な姿が明らかにならず千代寺院跡は謎に包まれた状態が長く続きました。2006(平成18)年に千代字南原で行われた千代南原遺跡24地点で、主要建物の基礎(基壇)跡が検出されました。初めての建物跡の発見で千代寺院跡の実態解明の大きな一歩となりました。




d0183387_20085081.png
また、低地の千代南原遺跡第7地点では、公的な施設の存在を示す木簡2点が出土しているほか、千代仲ノ町遺跡第4地点では、寺院などの厨房施設を意味する「」の文字が記された墨書土器が出土するなど寺院の様子が次第に明らかになっています。かつては千代の寺院を東大寺式の伽藍配置を持つ初期国分寺とする説もありました。近年では8世紀初頭地元豪族によって造営され、8世紀末から9世紀前半に修復された後、10世紀前半まで存続した寺院と考えられています。また、伽藍配置も法隆寺式であった可能性が指摘されています。永塚・下曽我遺跡に推定される古代の役所である足下郡家とともに、地方行政の中心であったようです。(小田原市教育委員会)


・・・高田

d0183387_22190565.jpg
街道の風景⑤ 若宮八幡神社の境内にも説明版が立ちます/高田

d0183387_22352442.png
若宮八幡宮周辺の遺蹟
若宮八幡周辺で最初に人々が生活するようになったのは3世紀前半の弥生時代後期のことです。永く古墳時代前半まで継続的に大規模な集落があったことが発掘調査によって明らかになっています。土器は煮炊きや食料の貯蔵など生活の様々な場面で用いられましたが、若宮八幡東側の高田宮町遺跡Ⅱ地点の調査では肩の部分に2つの口がついた全国的にも珍しい壺形土器が見つかっています。また。北側の高田北之前遺跡Ⅱ地点では、破損のため先端部分だけですが磨製石剣と呼ばれる道具が出土しています。実用的なものでないため祭祀用の石器と考えられています。

d0183387_22353023.png
さらに中央集権的な国家の仕組みがつくられる古墳時代後期~奈良・平安時代の集落も見つかっています。奈良東大寺の正倉院には「高田郷」として高田の地名が確認できる8世紀の文書が伝わっています。永塚周辺や千代には郡家(地方役所)や寺院が造られ、高田郷は地域の中心的な役割を果たしていました。寺院や郡家の近くに位置していたためそれらと関係するような遺構、遺物も検出されています。高田北之前遺跡第Ⅱ地点では8世紀前半の大型の井戸が検出されているほか、当時の官人が腰帯に付けていた丸鞆(まるとも)と呼ばれる石製の帯飾りが出土しています。また、若宮八幡南側の高田宮町遺跡第Ⅳ地点では吉祥句である「千万」と墨書きされた灰柚陶器が見つかっています。(説明板)


d0183387_23072358.jpg
高田西原の道祖神/高田
「道祖神」といえば「サエノカミ」とか「サイノカミ」と呼ばれ、道路の神様として防塞を意味し外から襲いくる疫病、悪霊などを防塞する神として知られ、古くから集落の外にあって悪霊を防いで集落と旅人を守護する神であるといわれている。道祖神は小田原市内に252ヶ所で307体が存在するが、その60%の185体は浮彫双立合掌型である。ここ西原の道祖神も浮彫双立合掌型であるが、市内の数多くの道祖神の中で在銘による最古の道祖神である。彫られた銘によれば寛文庚戌歳高田村とあるから335年前に建立されたものである。また、最も古い道祖神であるのに摩滅も少なくその美しいお姿を今に伝えていることから昭和63年小田原市有形民俗文化財に指定された。(説明板)


・・・下堀

d0183387_23415820.jpg
街道の風景⑥ 小田原厚木、県道の先、関口川を渡ると下堀です/高田橋下流

d0183387_23532686.jpg
d0183387_23533001.jpg
717号を横断              公民館に説明板があります

d0183387_23581027.png
下堀方形居館
説明板の前方約40mの場所には下堀方形居館と呼ばれる中世豪族クラス居館と推定される遺構が残っています。甲斐武田氏の家臣である志村氏の居館であっと推定されていますが、その出自は明らかではありません。


d0183387_23585597.png
堀の名残である用水路に囲まれた区画は南北129×東西103の規模で、出入り口と考えられる南西の東側がやや外側に広がっています。居館の北西側の県道部分の発掘調査では、居館をめぐる内堀と外堀の二重の堀が検出されました。内堀は土塁の裾から幅が7程度、外堀6m前後の堀底からは中世の陶磁器類の他漆碗や下駄、銅製の笄(こうかい)などが見つかりました。



d0183387_00022656.png
髪をかきあげるために用いられた笄は花菱と思われる家紋が施された優品です。さらに、堀の外側では井戸跡や堀立柱建物が見つかり居館に伴う施設があったものと考えられています。周辺から検出される遺構は居館と軸を揃えているものが多く、整然とした区画割りがなされていたことが明らかになっています。(小田原市教育委員会)

d0183387_00123566.jpg
中里下堀八幡神社鳥居


d0183387_00123851.jpg
中里下堀八幡神社沿革
祭神:譽田別之命(応神天皇) 祭祀:大祭43日現4月第1日曜日
由来:元和84月(西紀1623年)鎌倉八幡宮から分霊されて下堀村社八幡社としてまつられた。明治42年(西紀1909年)神社の整理統合政策により中里の無資社天津神社を併合して住民の鎮守神として中里494番地に 中里下堀八幡神社を建立した。明治44年(西紀1911年)神饌幣帛供進の格式を得る神社に指定される。昭和33年(西紀1958年)神殿を除き参集殿拝殿火災のため焼失。昭和422月(西紀1967年)氏子寄進により現神社再建。(説明板)


・・・中里

d0183387_01201020.jpg
街道の風景⑦ 中里ポケットパークの説明板

d0183387_10431693.png
中里遺跡/ポケットパーク
中里遺跡は1952年に大同毛織小田原工場建設の時に遺跡の一部が発見され、その後再開発事業のため1991年から3地点において本格的な発掘調査が行われました。その結果、この地区には今から約2150年前頃(弥生時代中期前半)東日本では最も古い本格的なコメ作りの集落があったことがわかりました。右の図のように第Ⅰ地点では多くの住居倉庫井戸などのある集落、第Ⅱ地点では水田、第Ⅲ地点では方形周溝墓と呼ばれる墓の跡が発見されています。こうした集落・水田・墓地がまとまって発掘されたことにより弥生時代の集落の全体を知ることの出来る貴重な遺跡といえます。

d0183387_10435668.png
また出土した瀬戸内地方土器などから遠く400kmも離れた瀬戸内地方の人々との交流によって、進んだ稲作技術東日本最も早い時期に取り入れた人々の集落遺跡であることが明らかになりました。中里遺跡はこのように学術的に大変貴重であり、小田原の歴史を知るための代表的な遺産でもあるところから発掘された住居跡の一つを再現し、中里遺跡ポケットパークとして市民の皆さんに弥生文化に親しんでいただこうとするものです。(株式会社ダイドーリミテッド 小田原市教育委員会)

d0183387_17145719.png
下曽我駅周辺の遺跡図/「永塚遺跡群と下曽我遺跡」(小田原市教育委員会編)を参照しました


・・・飯泉

d0183387_22183661.jpg
街道の風景⑧ 巡礼道を飯山観音に向かいます/飯泉観音手前

d0183387_22194757.jpg
d0183387_22242462.jpg
巡礼道道標              飯泉交差点を直進/255号

国道255

秦野市より足柄上郡松田町を経て小田原市へ至る一般国道である。秦野市と足柄上郡松田町の間は国道246号と重複しているため、単独区間は足柄上郡松田町(国道246号)と小田原市(国道1号)の間である。国道1号と国道246号を南北に結んでおり足柄平野の主要ルートとしての役割を果たしている。Wikipedia

d0183387_22321849.jpg
勝福寺山門

d0183387_22324174.jpg
勝福寺(しょうふくじ)
小田原市飯泉にある真言宗東寺派の寺院。山号は飯泉山。本尊は十一面観音で、坂東三十三箇所5番札所である。飯泉観音(いいずみかんのん)とも称される。この寺は奈良時代孝謙上皇の信頼を得たが、上皇の没後下野国薬師寺に左遷されることとなった僧・道鏡が下野国へ赴く途中、上皇から賜った十一面観音を相模国足柄下郡千代村に堂宇を建立して安置したのに始まると伝えられる。この観音像は、唐からの僧。鑑真が請来したものと伝えられ、当初は補陀落山と号し、道鏡の出身である弓削氏氏寺であったという。平安時代の830年(天長7年)現在地に移ったとされ、室町時代に現在の勝福寺と号するようになり、後北条氏の帰依を得た。なお、この寺には曾我兄弟(曾我裕成・時致)が仇討の際に日参して成就したことや、二宮尊徳が14歳の時、旅僧の訓読する観音経を聞いて発心したという伝説が残されている。Wikipedia

d0183387_22352828.jpg
飯山観音仁王門

d0183387_22365699.jpg
勝福寺の仁王門
飯泉山勝福寺は真言宗東寺派に属し、通称飯泉観音と呼ばれ坂東33
観音の第5番札所として有名です。本堂や本尊の十一面観音は県の重要文化財に指定されるなど由緒ある寺院です。仁王門は「飯泉誌」によると宝暦8年(1758)に造営されたもので、全体に木割れが太く、二重の虹梁蟇股(こうりょうかえるまた)式の妻架構(つまかこう)が堂々とした外観を構成しています。また八脚門としては県下でも最大限で格調高いものです。この仁王門も老朽化のため昭和34年から38年まで解体修理され、屋根も瓦葺から銅板葺に改変されましたが、それ以外は貫などに新材で補修した場所があるものの原形をよくとどめています。(説明板)

d0183387_22385340.jpg

d0183387_22403906.jpg
飯泉山勝福寺(通称飯泉観音)
飯泉山勝福寺は真言宗東寺派に属し、十一面観音を本尊とする。創立は奈良時代の頃、弓削道鏡が流されて下野に赴くとき、千代の郷に寺を建立し孝謙天皇より賜った唐国伝来観音像を安置したのに始まると伝えられている(千葉山弓削寺)。後に寺が焼けて当地に移され飯泉山勝福寺と称した。坂東33観音の5番札所としても有名で、国府津の額木橋から当寺までの道は巡礼道と呼ばれている。棟札によれば、現在の本堂は宝永3年(1706)に再建されたもので、江戸初期の古式をとどめた地方色豊かな建物である。本寺にまつわる伝承として、曽我兄弟が仇討祈願のため日参し五郎が百人力、十郎が十人力を授かり富士の裾野で仇討に成功したことや、講談で有名な雷電為右衛門が田舎相撲の大岩第五郎を倒したことがある。また、二宮尊徳が少年時代の頃旅僧から観音経を聞き一念発起した地であると言われている。飯泉観音の縁日は118日が初観音、89日・10日が四万八千日、127日・8日がだるま市で、いずれも市が立ち多くの人で賑わう。(説明板)


d0183387_22452026.jpg
勝福寺の青銅水鉢
水鉢は青銅製で帆船の形をしています。船尾に十一面観音菩薩の座像が一体あり、水鉢の全体に多数の銘文が刻まれています。銘文によれば作者は江戸神田の鋳物師小沼播磨守藤原正永とあり、江戸時代の宝永元年(17047月と記してあります。この水鉢は水鉢として形などが珍しくその造りも優れています。全長274cm、幅45cm、高さ82cm。(小田原市教育委員会)

d0183387_22453882.jpg
勝福寺の銅鐘
この銅鐘は青銅製の和鐘で、銘文により江戸時代初期の寛永6年(1629)に地元小田原の鋳物師である青木源右衛門が作ったことがわかります。また、この銅鐘の奉納者は江戸の侍である佐須弥左衛門尉政重と記されています。小田原の鋳物業は戦国時代に北条氏から庇護を受け、関東鋳物業の中心でありました。江戸時代になってからも鋳物は栄え山田、長谷川、青木の緒家から名工が生まれ小田原の梵鐘として広く知られてきました。この銅鐘もその一つであり、市内に残る数少ない銅鐘の内でも優れたものであります。総高139cm 鐘身高100cm 口径74cm 童頭高28cm(小田原市教育委員会)


d0183387_22575569.jpg
d0183387_22574616.jpg
勝福寺の大イチョウ             二宮金次郎発願の像

d0183387_23025395.jpg
八幡神社鳥居/飯泉

d0183387_23030087.jpg
八幡神社
主祭神:誉田別命 例祭日:10月第1日曜日  境内末社:稲荷社・天神社・神明社
古来、茲飯泉は鎌倉街道・大山街道・足柄山道・箱根山道等々が交錯し、殊に(まりこ)(現在の酒匂川)の渡し場と共に交通の要衝であったが、同時に洪水・地震・噴火に悩まされた住民は相謀り、永年の願望だった茲飯泉村に鎮守神を奉斎すべく、時の宗我麿介広之(宗我都比古神社々主)に請願し、鎌倉八幡宮のご分霊を奉遷したのである。其の後逐次近郊の末社を整理集合して郷社として天下泰平・五穀豊穣・安産・永世平和の守護神として崇尊され祀られてでた。(由緒書き)

d0183387_23112490.jpg
街道の風景⑨ 左から狩川が合わせます、かつては「飯泉の渡し」箱根の山が眼前に迫ります/飯泉橋

狩川

神奈川県の足柄平野西部を流れ酒匂川に合流する二級河川。二級河川部分の延長は13.64kmである。神奈川県南足柄氏の金時山東斜面に源を発し北上、その後足柄街道(県道78号線)に沿って流れる。南足柄市役所や大雄山駅近くからは県道74号線に沿って概ね南東へ向かって流れ、小田原市飯泉の国道255号飯泉橋付近で酒匂川に合流するWikipedia


d0183387_23113061.jpg
振り返って見る曽我丘陵、北は松田丘陵&丹沢山地です/飯泉橋曽

d0183387_10275265.jpg
曽我の里ルート図(赤:歩行ルート 橙:旧東海道 紫:巡礼道 緑:六本木通り)


・・・・
資料ファイル

足柄下郡

神奈川県西部にある郡。以下の3町(箱根町、真鶴町、湯河原町を含む。郡域は上記の3町以外では現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。小田原市(大字曽比、栢山、上曽我、曽我大沢、鬼柳、下大井を除く全域)。713(和銅6年)律令時代「好字二字の制」により足下郡と表記されることとなり、これによって「あしのしも」という読みも行われた。郡衙は小田原市内の千代廃寺付近と推定されている。Wikipedia


d0183387_17570758.png
足柄郡家と千代廃寺
千代廃寺(千代寺院)は研究史の上では初期国分寺に比定されたことがありました。これは「府中」(ふなか)や「国府津」という地名、そして千代廃寺の伽藍配置が東大寺方式であるとされたことによります。そのため千代廃寺に隣接した永塚台地に初期相模国府があったとする説も木下良氏によって唱えられました。現在では初期相模国府説は否定されていますが、この考え方はそっくり初期寺院郡家に置き換えることができます。というのも郡家の近隣では初期の古代寺院の跡が発見されることが多いからです。こうした寺院は郡寺、郡附属施設寺院、郡家周辺寺院などと呼ばれています。
国府津も国府の津(湊)を語源とするものではなく「郡津」(こほりのつ)が転訛したものではないかと考えられています。

d0183387_18030849.png
永塚に足下郡家があったとすとその中心はどこだったのでしょう。ここでは先に示した集落遺跡の空白地、永塚観音堂周辺に広がる永塚長森遺跡候補地としてクローズアップされてきます。そして郡家の存在と深く関わる古代の東海道は足下群と足上郡の郡境を東西に走り、大磯丘陵の手前でに方向を変えて国府津付近に比定されている小総駅家(おぶさのうまや)へと続くものと思われます。
下曽我遺跡の立地は台地から下った低地部にあります。この一帯は永塚小海端、曽我岸、曽我岸、曽我光湖、曽我耕海、千代光海などの地名が残るように森戸川の氾濫による低地が広がっていました。低湿地が埋め立てらて今の姿になったのは天保81837以降であることが千代三嶋神社の開拓記念碑から分かります。おそらく古代には小舟を使って下曽我遺跡の辺りまでは森戸川を遡ることができたのでしょう。そのように考えると下曽我遺跡は郡家に付属するの機能を持っていたこと考えることができます。隣接する永塚下り畑Ⅳ地点で見つかった舗装道路跡も郡家と津、さらには千代廃寺を結ぶ地域の重要道路だったのではないでしょうか。(「永塚遺跡群と下曽我遺跡」/小田原市教育委員会編を参照しました)

相模国府-四之宮(平塚)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26660116/

by Twalking | 2018-07-13 10:32 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『曽我の里』02-六本木峠   

日時 2018.6.29(金)
天気 晴れ

中村郷と曽我郷を結ぶ峠が六本松、古い道です。
この峠付近からの展望は素晴らしいです。
大磯丘陵、足柄平野、箱根など地形がよく分かります。

峠から南へ尾根道を行くと国府津、この散策路も魅力的、
今回は曽我氏と千代廃寺遺跡を目的にしましたので、
途中から下りましたが、歩いてみたいコースです。


・・・曽我谷津

d0183387_23435959.jpg
街道の風景① 二差路へ戻り橋を渡って峠へ向かいます

d0183387_23465572.jpg
d0183387_23470280.jpg
二差路                        曽我谷津集落

d0183387_23534043.jpg
伝曽我祐信宝篋印塔/曽我谷津
昔から土地の人々に「祐信さんの供養塔」と呼ばれています。銘を持たないので造塔の意図、年時、造立者、大工名等一切不明ですが、死者往生を本願としたものと思われます。塔の総高は220cm(基壇を除く)に達し、基壇の上に蓮座、基礎、塔身、笠、相輪の順で積み上げられています。関東における基本的な様式を備えた宝篋印塔で、県下においても屈指の貴重なものです。(小田原市教育委員会)

d0183387_00155137.jpg
街道の風景② 眼下に小田原の街、相模灘に浮かぶ真鶴半島、その奥が天城連山、素晴らしい景観です/宝篋印塔前

d0183387_00165045.jpg
箱根連山&足柄平野

d0183387_00202962.jpg
d0183387_00202271.jpg
鞍部が峠でしょうか          大山道の合流地


・・・六本木峠

六本松跡

六本松跡は曽我山(当時山彦山といった)峠道で、六本の古松があったことからこう呼ばれています。この峠は鎌倉時代、曽我氏・中村氏・松田氏・河村氏の各豪族居館鎌倉を結んでおり、曽我別所から足柄峠へと通ずる「鎌倉道」、大山からこの峠を越えて高田・千代・飯泉へ通ずる「大山道(中村通)」そして押切方面より小田原に至る「箱根道」が交わる重要な峠であったといわれています。現在は一本の松も存在しませんが、大正7(1918)孤山人(尾崎八束宗我神社神官)筆の六本松跡碑があります。また、俳聖芭蕉の句碑がありこの碑は芭蕉復興運動を行った加舎白雄が建てたものであるとされています。(小田原市HP)

d0183387_00354727.jpg
街道の風景③ 切通の先が峠です(曽我郷側)

d0183387_00382061.jpg
こちらの方が峠らしいですね(中村郷側)

d0183387_00380076.jpg
六本松跡
古代、千代台地師長国府中で、この地方の文化の中心であったので西からの旅人は皆ここに寄って、この道を目指す坂東や奥羽へと向かったと推定(弓削道鏡等)される。その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、上洛富士の巻狩りなどにこの道を通り、いまも鎌倉山、将軍山また豪族中村氏が出迎えした所を「火迎え」などの地名が残っている。また、この地の豪族が鎌倉に馳せ参じた鎌倉街道でもあり、坂東33番観音の5番勝福寺から6番長谷寺に詣でる巡礼道でもある。戦国乱世のころ、京の聖護院准后道興は『答えする 人こそなけれ 足曳の 山彦山は 嵐吹くなり』を詠み、降って文禄の頃松尾芭蕉は『ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし』、門人の白雉は『人の知る 曽我中村や 青嵐』、その後蕪村も『雨ほろほろ 曽我中村の 田植かな』と詠んだ。この六本松の地名となった最後の末の大樹は明治の終わり頃惜しくも長い一生を終わっている。(説明板)

d0183387_00451440.jpg
d0183387_00451968.jpg
六本松跡碑              芭蕉句碑

d0183387_01162502.jpg
峠から西側は見えませんが東南側の展望は秀逸です(中央が吾妻山 左奥が湘南平、その下の谷間が中村郷でしょうか)

中村郷の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26940268/
高麗山・湘南平の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/21471193/
吾妻山の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/17630359/)

d0183387_01072579.jpg
尾根道を北へ行くと忍石があります、その途中から峠方向の景観です

d0183387_01071503.jpg
伝曽我十郎・虎御前の「忍石」
「曽我物語」によれば曽我十郎祐成(すけなり)は仇討に旅立つ前の日、恋人の虎御前と曽我でひとときを過ごした後、虎を馬で大磯へ送り返した。その時、人目を忍んで通った「山彦山の中村道」と伝承される道筋が23ありこの大山道もその一つ。そしてこの「忍石」の辺りで二人は涙ながらに別れを惜しんだとされているが「忍石」の意味は定かではない。「曽我物語」は二人の嘆きを万葉時代、新羅に征く夫を山頂から見送り、そのまま石になってしまったという松浦佐用姫になぞらえている。この「忍石」にもそのようなイメージを重ねた後の村人の思いがこめられているようでもある。また、石の中央には手形に似た窪みがあり十郎が力を試していた力石だともいわれている。(説明板)

d0183387_00075803.jpg
峠から尾根上を一本松・国府津方面へ向かいます

d0183387_00115493.jpg
d0183387_13584782.jpg
一本松(185m)から麓へ下ります    結構急な坂道です


・・・曽我別所

d0183387_13595660.jpg
街道の風景④ 杉林の中をつづらに下ります

d0183387_14050505.jpg
d0183387_14075409.jpg
県道72号にでます           ここのアイスお勧めです

d0183387_14254539.jpg
下久保の道祖神ほか石造物群
ここには次の石造物が見られます
道祖神:小田原市内でも最も多く見られる浮き彫り双立像です。この像は僧形となっています。神講碑:この碑は弘化3年(1846)造立で、中央に天神社と彫られています。この地の地神講の人々が建てたものです。題目塔:中央に南無妙法華経と彫られています。安政5年(1858)この地にコレラが流行した時、法華経1千部を奉唱して病気退散を祈りました。老人や子供までも昼も夜も題目を唱えたことが碑文に読まれています。(小田原市教育委員会)

d0183387_14123944.jpg
法蓮寺山門/曽我別所

d0183387_15071329.jpg
d0183387_15071772.jpg
本堂                 毘沙門天堂

法蓮寺と毘沙門天像
山号は千葉山(せんようざん)。この地の古寺の通例としてもとは天台宗であったというが、寺伝によると慶長19年(1614)に日蓮宗に改宗したという。この寺の木彫毘沙門天像は現在独立した毘沙門天堂に祀られ、古風な唐破風二重樽木の厨子に安置されている。この像は別名「夢の毘沙門天」ともいわれ、安永3年(1774)に住職の日迂上人(にちろう)と小八幡の漁師双方の夢枕に立った。そしてその言葉とおり小田原市小八幡の海で漁網にかかって出現したという伝承がある。毎年1月の寅の日が毘沙門天の縁日であったが、現在では毎月17日が縁日で近郷から信者が集まってくる。また山門に二基の題目塔がある。(小田原市教育委員会)

d0183387_14202238.jpg
満江御前の墓/法蓮寺

d0183387_14211568.jpg
満江御前の墓
満江(まんこう)御前は日本三大仇討の一つとして名高い曽我兄弟・十郎祐成(すけなり)と五郎時教(ときむね)のである。伊豆の狩野親光三女で、最初の夫は伊豆の国司代の源佐衛門尉仲成で一男一女を生んで4年にして離別した。その後伊東祐親(すけちか)の嫡男・河津の庄の地頭河津三郎祐泰(すけやす)と再婚し、三人の男子を出生した。の幼名は一万のちの十郎祐成で、箱王のちの五郎と時教で、末弟は祐泰の死後誕生した律師坊実永である。一族の領地争が起因で夫の祐泰が非業の死を遂げ、舅の伊東祐親のすすめにより曽我の庄の地頭の曽我太郎祐信(あすけのぶ)の夫人となる、安元2年(1176)満江三十歳位。十郎・五郎兄弟が富士の裾野で夫の敵の工藤祐経を仇討した後、建久6年(1195)夫の祐泰と共に出家し、当地の曽我別所に大御堂を建て兄弟の霊を供養してきたが、正治元年(1199)兄弟の七回忌の528日奇しくも没した。この年満江は50歳位だったという。(案内板)


d0183387_14304119.jpg
曽我物語「小袖乞い」の伝承地/曽我別所
曽我兄弟は源頼朝の巻狩りに随行している仇敵工藤裕経(すけつね)を討つために、いよいよ富士の裾野へ向おうとするとき、今生の別れに母の満江御前から小袖を乞いうけた。著明な曽我物語「小袖乞い」の一節は謡曲や幸若舞においても「小袖曽我」として代々語り、舞いつがれ人々の涙をそそってきた。

d0183387_14304951.jpg
「皇国地誌残稿」は曽我別所の字防田(ぼうだ)に溜池大屋敷があったと記している。地元ではその大屋敷が、満江御前が居住としていた蘇我氏下屋敷であったと伝えており、現在の曽我別所公民館がその屋敷跡にあたる。この前かつて大池があり、そこに祀られていた水神碑が現存している。また、屋敷地の東南に隣接する武藤、安池両家の祖先は伊豆から満江御前に随行してきた家臣であったと伝えられている。(小田原市教育委員会)

d0183387_14350897.jpg
街道の風景⑤ 峠から六本松通り大山道はここに下ってきます

d0183387_14362769.jpg
大山道
大山は神奈川県の最高峰のひとつで、雨降山とも呼ばれた。江戸時代にはその中腹の不動寺の鉄不動が広く尊崇され、明治以降には阿夫利神社が信仰されている。相模平野の農村では雨乞いなど農業の守護が祈られ、漁村では船の上からも遥拝される山なので海上安全の目的で信仰された。江戸から講を作って参詣団が来るのは、春秋のリクリエーションの目的を兼ねていた。その大山への参詣道が「大山みち」で、相模平野の各地から多くのルートがあった。曽我の大山みちは千代-曽我原殿沢川曽我別所六本松峠-田中のルートである。(小田原市教育委員会)

d0183387_14375871.jpg
二宮尊徳遺髪塚
尊徳二宮金次郎の母・よし実家は旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。当時、川久保家は父太兵衛の代になると分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾き始めた。天保11年(1840)、尊徳は川久保家の再興をはかることになり市太郎、民次郎、常次郎の3人の息子に無利息の報徳金を貸与し復興の指導を行った。その結果、もっともすぐれた成果を上げた民次郎が川久保家を継ぐことになった。この民次郎は下野国桜町(栃木県二宮町)仕法時代から永らく尊徳従者として仕えており、尊徳の死去にあたりその遺髪を保て曽我へ帰った。この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の興三郎が昭和13年にその遺志を継いで建てたものである。(小田原市教育委員会)

d0183387_14572734.jpg
南谷寺東光院山門

d0183387_14573388.jpg
d0183387_15013695.jpg
本堂                 延命地蔵

d0183387_14575786.jpg
徳本の名号碑ほか石造物
徳本(17581818)は日課として弥陀の六文名号を唱えることを教え、江戸で教化していた頃は毎日数千人の群衆に囲まれたという。この碑は天保5年(1834)の造立で徳本没後16年を過ぎているが裏面にh足柄平野一帯の各地の長一面に刻まれており、なお進行が衰えていないことが知られる。六地蔵は笠付き六角柱の各面に地蔵の立像を浮き彫彫刻にし、文化2年(1805)の銘がある。もとは大山道沿いに祀られていた。(小田原市)

d0183387_15163641.jpg
街道の風景⑥ 旧道を下曽我駅に戻り、西側の古墳群巡りへ向かいます/下曽我駅入口

d0183387_15233998.png
ウオーキング案内図/六本松峠
(赤:歩行ルート 緑:六本木通り大山道 黄:国府津・曽我の里散策コース 黄角:六本木峠)


by Twalking | 2018-07-08 15:58 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『曽我の里』01-曽我氏館跡   

日時 2018.6.29(金)
天気 晴れ


曽我の里は訪ねましたが、六本木峠は寄らなかったので、
もう一度歩き直したいと思っていたところです。
中村郷から六本木峠を見た機会に再訪してみました。

ここは曽我氏関連の史蹟、六本木峠、そして古東海道
関連の千代廃寺跡など見所が多い所です。
暑いですが、景色は抜群、楽しみに歩きます。


・・・曽我

神奈川県小田原市の東方、
曽我山西麓一帯の地区。旧曽我村。JR御殿場線下曽我駅近くの地で、地形上は酒匂川地溝帯の東部断層が走り、関東大震災の際の大被害地の一つとして知られる。断層崖下には侵食谷がつくった小扇状群が並ぶ。中世曽我荘の本領をなし宗我神社、城前寺など曽我氏ゆかりの社寺があり、毎年5月傘焼祭(曽我祭)が催される。ここの扇状地群にはウメが栽培されて小田原特産の梅干しの原料とされてきた(現在約35000本)。近年晩冬から初春の梅花季には水戸、越生(埼玉県)などとともにここでも梅祭が催され観梅客でにぎわう。(コトバンク)

d0183387_16045489.jpg
街道の風景① 駅前から北へ蘇我氏ゆかりの地へ向かいます/下曽我駅

d0183387_16292944.jpg
奇祭「曽我の傘焼きまつり」
ここ曽我の里は歴史的遺跡や遺物が何気なく日々の暮らしの中に溶け込んでいる里であり、日本三大仇討ちの一つ曽我兄弟の仇討ちゆかりの地です。建久4年(1193528日、源頼朝が催した富士の裾野の巻狩りで兄弟は父の仇討ちを成就しました。その時、傘を燃やして松明にしたという故事にちなんで、毎年曽我氏の菩提寺「城前寺」で兄弟の供養の為「曽我の傘焼きまつり」が行われています。十郎祐成22歳、弟五郎時致20歳でした。この仇討ちは民衆に広く知れ渡り「曽我物語」が生まれ、江戸時代に歌舞伎や謡曲、浄瑠璃等で曽我物として演じられ、人々の心をとらえ今もその人気はかわっていません。(曽我兄弟遺跡保存会)

d0183387_16414058.jpg
街道の風景② 県道72号の先、左へ上ると宗我神社があります/曽我谷津

d0183387_16441972.jpg
文学碑建立の趣旨
尾崎一雄先生は
曽我谷津に在住し、作家として日本独特の文学である私小説において幾多の優れた作品を発表し、第5回芥川賞をはじめ数々の文学賞を受賞されるとともに、昭和53年文化勲章を受章されました。これは先生の栄誉であると同時に本市にとっても誇りであります。また小田原文話会の顧問として後進の指導にあたり地域に根差した本市文化の向上に寄与されました。昭和55年の市制40周年記念式典において先生を特別表彰するとともに文学碑を建立し、その功績を永く顕彰するものです。(説明板

d0183387_16492207.jpg
宗我神社鳥居/
曽我谷津

d0183387_16492640.jpg
宗我神社
祭神:宗我都比古命(そがつひこのみこと)宗我都比女命(そがつひめのみこと)
宗我神社は明治28年の神社上書に依れば「長元々年(1028)に奈良県橿原市曽我町の式内大社宗我都比古神社の神主だった宗我保慶が祖先の宗我都比古命の墓を訪い、同時に武内宿弥及び宗我都比古命を鎮祭して・・・」が当社の創建と決めています。 足柄上郡旧上曽我村及び曽我大沢と、下郡の下曽我に属する旧四村を併せて、古くは曽我郷六ヶ村と呼ばれました。その総鎮守が宗我神社でした。小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていました。江戸時代には小沢明神の名で総崇され、明治に入って六ヶ村それぞれの鎮守を この社に会示し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したものです。(案内板)

d0183387_16594700.jpg
宗我神社と尾崎一雄
宗我神社は曽我祐信再興したとされる曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)総鎮守で、江戸時代には小沢明神と呼ばれていました。長元元年(1028)曽我播磨守保慶の建立で、曽我氏の祖先を祀った神社といわれています。明治に入り六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に合祀し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は、大正12(1923)関東大震災後に復興したものです。宗我神社の神主の家に生まれた尾崎一雄(18991983)は昭和12(1937)に第5回芥川賞を受賞し、昭和53年には文化勲章を受章しました。作品の舞台は生まれ育った下曽我を中心とするものが多く、昭和の代表的私小説家として独自の境地を開きました。宗我神社の大鳥居付近に建立された尾崎一雄文学碑には、下曽我から見える富士の姿を記した「虫のいろいろ」の一節が刻まれています。(小田原市HP)


d0183387_17565607.png
曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点
この説明板から南東へ約240mの曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点では平成24年(2012)に発掘調査が行われ、縄文時代中期(勝坂式期)の竪穴住居跡の中から小田原市を含む足柄平野周辺地域で初めて「台形土器」と呼ばれる遺物が見つかりました。台形土器はものを載せるための円形の受け面とこれを支える脚部を持つ土器で、縄文土器を製作する台としての機能が有力視されています。又燃成粘土塊という年度の質を確かめるテストピースやミニチュア土器が出土しているほか、土器焼きを行った痕跡と考えられる遺構が見つかっています。このようにこの地点の周辺はかつて縄文時代の土器づくりを行っていたムラがあったことが発掘調査の成果で明らかになってきました。勝坂式土器はその文様の特徴や東海地方の土器が出土することなどから、山梨や静岡の縄文文化の影響を受けて作られたこの地域に特徴的なものであることが分りました。(説明板)


d0183387_17124602.jpg
小沢明神薬師堂の旧地/公民館
小沢明神とは旧曽我村六村の鎮守で明治以来宗我神社となった。この明神の東隣りに位置するここには小沢明神の本地物(神体仏)とされる薬師三尊が祀られその堂は古くは「小沢山神宮寺」と称した。当時の別当寺は法輪寺なのでその古い縁をたどって大正3年に薬師三尊は薬師堂とともに法輪寺に移っている。公民館横の石造観音菩薩立像はこの地の人々が観音霊場の巡礼をしたときの供養塔である。ここは法輪寺大門の位置にあり、六地蔵などの石物が並んでいたがそれらも大正3年に法輪寺に移されている(小田原市)

d0183387_17252687.jpg
街道の風景③ 殿沢川が流れる参道、潤いがあります/法輪寺門前

d0183387_17253786.jpg
法輪寺山門/曽我谷津


d0183387_17254171.jpg
法輪寺
法輪寺は盤谷山(はんこくさん)と号する臨済宗建長寺派の寺院です。創建は延文3年(1358)、開山は建長寺35世の了道素安(本覚禅師)、開基は浄智温中と伝えられています。かつては天台宗寺院の慮尊寺(ろそんじ)と称したといいます。天保2年(1831)の火災により本尊の運慶作と伝えられる地蔵菩薩坐像は焼失し、その後本尊である室町時代造立の釈迦如来坐像が隠居寺より移されています。境内にある薬師堂(瑠璃光殿)は法輪寺の大門跡(現曽我谷津公民館)から大正3年(1915)移設したものです。平安時代造立の薬師三尊像、脇には十二神将像が祀られています。寺の東には祐信山崇泉寺という曽我太郎祐信(すけのぶ)の菩提寺があり、崇泉寺殿智獄祐信大居士という位牌がありましたが、廃寺後この位牌は法輪寺に安置されています。(案内板)

d0183387_17254410.jpg
d0183387_17414939.jpg
薬師堂                参道入口の石造群

d0183387_17484620.jpg
大光院山門/曽我谷津

d0183387_17485047.jpg
本山修験大光院
諸法山実相寺と称し文明18年(1486)の起立と伝えられている。本尊は木彫不動尊。はじめ本山修験で小田原城下の玉滝坊(ごくりゅうほう)に属していたが、明治初頭に天台宗園城寺派に変わった。堂前に「神変大菩薩」の石塔が建ち明治32年の記録がある。神変大菩薩は役行者(えんのごうしゃ)のことで山岳修験の系譜につらなる寺であることが知られる。しかし大光院は久しく里修験として続いてきて地鎮祭、建前、病気平癒などの祈願が行われている。(小田原市教育委員会)


d0183387_18114194.jpg
d0183387_18114540.jpg
五郎の沓石              石造群/城前寺角

五郎の沓石
この石は「五郎の沓石」と呼ばれ、あるとき曽我五郎(曽我物語で有名な曽我兄弟の弟)が足を患ったが、治癒した際自分の体力が衰えていないかと心配になり、試にこの石の上で踏ん張ったところ石が足形に窪んでしまったといわれ、その足形が石の真中辺りに残っています。この沓石は、以前は足を病んだ人たちが祈願して治ったお礼に、草履や草鞋などのお供え物が絶えなかったと言われています。(小田原市観光課)

d0183387_23091046.png
曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点/城前寺
この説明板の北側の城前寺境内で行われた曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点の調査は平成18年(2006)に「柄鏡形敷石住居」という縄文時代後期の住居がみつかりました。住居の出入り口部分が外に張出し、床面には平らな河原石が敷かれるという特徴を持ちます。中央には浅鉢形土器を地面に埋め込んだ炉が作られました。敷石に使用された石は根府川石と呼ばれる板状に割れやすい性質のある石を用いており、市域南西部の根府川から石材を調達していたことがわかりました。曽我谷津岩本第Ⅰ地点で発見された土器は形や文様の特徴から「堀之内式」「加曽利B式」と名付けられており今から3500年前に作られました(説明板)

d0183387_23451063.jpg
城前寺山門/曽我谷津

d0183387_23452526.jpg
城前寺
曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城大手前にあるのでこの名がある。建久4年(1193)富士の裾野で兄弟が父の仇・工藤裕経(すけつね)を討った後、叔父の宇佐美禅師はその遺骨を携え此の地に来て庵を結び兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられている。なお、この討ち入りの時兄弟は暗夜であったため傘を燃やして松明としたので、仇討の日にあたる528日にはこの故事にならい境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼きまつりがおこなわれるが類例のない祭りであるので有名である。境内には十郎・五郎・父裕信(すけのぶ)・母満江(まんこう)御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛けて笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄付の兄弟の記念碑などほか各種のゆかりの品がある。なお、4人の墓の建つ墳丘曽我城土塁である。(案内板)


d0183387_23461030.jpg
孝行阿弥陀仏
ここに安置された阿弥陀如来坐像は忠臣蔵で知られた赤穂義士の一人(命日)「元禄1624日」(1703)吉田忠左衛門兼亮の遺児で、当寺14世の到誉達玄和尚が元文元年(1736)亡父の33回忌に当たって造像したものであります。昔から「孝行阿弥陀仏」とも呼ばれ、一心に念ずれば諸願成就せずということなしと、伝えられてきた有り難い御仏でもあります。(碑文)

d0183387_23454890.jpg
澄禅地蔵由来
慶長の頃、近江国で生まれた人である。浄土宗宗祖の遺風復奮したいと諸国を周遊し、曽我の剣沢に留まることとなった。富士の高嶺を望み弥陀の来迎を機するを願ふより他念なし。念仏行者としての澄禅は学徳たかき方であり、享保624日古智谷で遷化した。(碑文)

d0183387_00202915.jpg
十郎・五郎(左)、父裕信・母満江御前(右)の供養墓/城前

d0183387_00230969.jpg
d0183387_00230969.jpg
十郎・五郎供養墓          父裕信・母満江御前供養墓

d0183387_00452306.jpg
街道の風景④ お寺の裏手にある曽我祐信屋敷跡へ向かいます/城前寺

d0183387_00584266.jpg
曽我氏館跡伝承地」です。東に曽我山、西に足柄平野を望む丘の上、遺構はありませんが碑が建ちます

d0183387_00533102.jpg
曽我氏館跡伝承地(曽我祐信屋敷跡)
新編相模風土記稿」に曽我太郎
祐信屋敷跡が『(曽我谷津)村の南北』『城前寺の後』にあり、四方を道で囲まれているとしている点から、館跡はほぼこの丘一体と考えられる。その規模は「23町許」(一辺が200300mの四角形)で、外構の土塁の跡や高さ25m前後土塁で囲まれた内郭跡(一辺が100mほど)が館跡の中央に残っていたことが記されている。現在、地表面からこれらの遺構を検証することは困難である。平成3年小田原市教育委員会によりこの区域の一部が発掘調査されたが、館にかかわる遺構・建物はまだ確認されていない曽我祐信は曽我兄弟の養父にあたる人物として知られているが、曽我氏は平安時代から戦国時代にわたってこの地に拠点を置いたと考えられる。この丘は周辺で鎌倉街道大山道曽我道が交差し、背後に剣沢の水源を控え、更には眼前に足柄平野、箱根連山を見渡すなど交通・水利・軍事上館を構えるうえで極めて良好な条件を備えていたといえる。(小田原市教育委員会)


d0183387_00571108.jpg
曽我一族郎党の供養御堂
曽我氏は太郎裕信(曽我兄弟の養父)以来、連綿として14代甚五郎裕正まで繁栄していましたが、永禄2年(1559)に北条氏に叛いた為氏康に攻められ、616日城に火を放ち城主の信正とともに360余人が自決したと伝えられます。その後、400年の月日が経ちましたが誰一人としてその霊を供養する者もありませんでした。平成56月、曽我兄弟の仇討800年記念を機に観世音菩薩を祀り、曽我一族の供養をするため御堂を建立することになりました。(説明板)

d0183387_00590402.jpg
物見塚
小田原市教育委員会は平成元年8月、地元自治会の御協力を得てこの物見塚を発掘調査しました。調査では古墳の石室や側壁や天井石は消化していましたが、女室部分は小さな川の川原石が敷き詰められ、ここから鉄鍬や金環などが出土しました。この結果、この古墳は古墳時代後期7世紀)の墳丘をもつ円墳であったと推定されます。また、この古墳近くの西側の一画からは弥生時代から平安時代室町時代頃と考えられる柱穴が多数確認され、この中には柱穴の底に川原石を基礎としたものがありました。これらのことから付近一帯は古くから人々の生活が営まれていたことが分ります。(小田原市教育委員会)

d0183387_15464121.png
曽我氏
相模国
曾我荘を本領とする中世武家。系譜の上では桓武平氏の一流千葉氏に属するが、はじめて曾我を称した祐家以下の子孫が〈祐〉の1字を共有していることや、のちに陸奥国に拠点を移した子孫が伊豆に所領を相伝していることなどから考えると、下総に本拠をおく千葉氏よりも伊豆の雄族伊東氏と縁の深い一族であったといえる。祐家の子祐信の妻に迎えられた女性が、仇討で有名な曾我兄弟のである。曾我兄弟の実父は伊東一族の河津祐泰であるが、祐泰の死後母親が曾我に嫁したためその連れ子である兄弟も曾我を称したのである。(コトバンク)

d0183387_15515496.png
曽我祐信(すけのぶ)
平安末・鎌倉前期の武士。太郎と称す。
桓武平氏の出自。相模曾我郷(小田原市)の住人。母は伊東祐家の娘。治承4(1180)石橋山の戦平家方に属したが、のち源頼朝に降参、本領安堵された。曾我祐成・時致兄弟の再婚。建久4(1193)年富士の巻狩に加わり継子である曾我兄弟の仇討ちのことで隠退を許され、死んだ兄弟菩提のため曾我庄の年貢を免除された。子孫は御家人として鎌倉・室町幕府に仕え、のち武家故実家として知られた。北条得宗の被官だった一族は陸奥津軽の地頭代として活躍。小田原市曾我に伝祐信供養の関東式宝篋印塔(鎌倉後期)がある。(コトバンク)
(地図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

d0183387_16213762.jpg
街道の風景⑤ 剣沢に沿って北へ、六本松峠はこの先を右ですが直進して弓張の滝に寄り道

d0183387_16260732.jpg
d0183387_16215788.jpg
東屋のある広場            夏草はありますが道はしっかりしてます

d0183387_16294066.jpg
展望台からみる弓張の滝

d0183387_16335539.jpg
鎧の滝・弓張の滝
曽我の郷の谷津と別所の境を流れる剣沢川の上流、剣沢山の深い谷筋に二段の滝があり、上段は鎧の滝、下段は弓張の滝と呼ばれてきた。「新編相模風土記稿」によれば当時の鎧の滝は高さ8尺(約2.5m)、弓張の滝は15尺(約4.5m)であった。室町時代剣沢の岩に立ち名所として知られていた。文明18年(1486)の冬、ここを訪れた聖護院道鏡准后は『此頃はみさびわれたる剣沢 こほりしぞ名は光ある』という歌を残している(廻国雑記)また、戦国時代には風流をたしなむ小田原北条氏配下の数人の若侍たちがこの滝のちたで藤の花見を楽しんだという。その一人はその情景を『滝水にうつろう影もしげり行 松に契りてさける藤波』(小田原記)と詠んでいる。(小田原市教育委員会)

d0183387_18203884.png
宗我神社周辺案内図/宗我神社のしおり
(黄:歩行ルート 緑:六本木通り大山道 橙:県道72号)

d0183387_17584211.png
下曽我周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:歩行ルート 緑:六本木通り大山道 赤角:六本木峠)


・・・・
資料ファイル

d0183387_12002911.jpg
曽我兄弟
鎌倉初期の武人。父の仇を討ったことで名高い兄弟。伊豆の豪族河津三郎祐泰(すけやす)の子。兄は十郎祐成(すけなり)、幼名一万。弟は五郎時致(ときむね)、幼名筥王(はこおう)1176年(安元2)父祐泰が伊豆の奥狩場で工藤祐経(すけつね)に殺されたのち、曽我祐信(すけのぶ)再嫁したので曽我氏を称した。鎌倉幕府を開いた源頼朝の寵により勢いを得ていた祐経は曽我兄弟を殺そうと謀ったが、畠山重忠・和田義盛らによって救われた。筥王は一時、箱根別当行実の弟子となったが1190年(建久1)北条時政によって元服した。成人した兄弟は祐経をねらったが仇討の機会がなかった。935月、頼朝が催した富士野の巻狩りに同行していた祐経の宿所をつきとめ、夜半風雨を冒して侵入し祐経を殺して父の仇を討った。しかし兄祐成は宿衛の新田忠常に討たれ、翌日弟時致も捕らえられ殺された。(コトバンク)
写真:曽我兄弟発願之像/城前寺

d0183387_11572682.jpg
曽我兄弟の仇討
建久4528日(1193628日)源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我祐成と曽我時致の兄弟が父親の仇である工藤裕経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討に並ぶ日本三大仇討ちの一つである。

ゆかりの地
曾我兄弟の墓とされるものの中で有力とされるものに曽我の里と呼ばれる一帯にある城前寺(小田原市曽我谷津)が挙げられる。城前寺の由来は曾我兄弟の死後に叔父宇佐美禅師がこの地に兄弟の遺骨を運んで弔ったのが寺の興りとしている。建久4年(1193年)528日に曽我五郎・十郎の兄弟が富士の裾野で工藤祐経を討った際に傘を燃やして松明とした故事から、毎年528日に城前寺付近の家々から古い傘を集めて本堂の裏側にある曽我兄弟の墓前に積み上げて火を放ち、衆僧が列を作って読経をしながらその火を巡って行道・供養する「傘焼き祭り」が行なわれていたが、2011年に寺側からの申し出により中止となり保存会が駅前や公園など市内各所で関連行事を続行しているWikipedia


d0183387_13190035.jpg
正眼寺曽我堂/箱根町湯本
建久4
四年(1193528日富士裾野で父の仇工藤祐経を討ち本懐を遂げた曽我五郎十郎の菩提供養のため、兄弟の親類縁者によって兄弟が仇討成就を願って祈念参籠したといわれ、湯本地蔵堂の近くに曽我堂が建立されました。その創建年代は明らかでありませんが江戸時代初期に修復された記録がありますので、それ以前に遡ることは確かです。江戸時代東海道箱根八里の沿道にあったこの堂の地蔵菩薩像は曽我歌舞伎の流行とともに曽我兄弟の化粧地蔵と呼ばれ、街道を行く旅人の信仰をあつめました。明治元年(1868)曽我堂は戦火にあい焼失しましたが、幸いにも両像は戦火を脱れました。大正3年(1914)曽我堂は松竹歌舞伎の関係者によって再建され、昭和61年には台床光背を失っていた両像の修理が実施され元の御姿を拝することができるようになりました。(説明板)

d0183387_13185781.jpg
曽我神社/箱根神社
鎌倉時代、箱根権現の稚児であった曽我五郎時致兄十朗祐成の霊を慰めるため「勝名荒神祠」としてお祀りされたのが始まりである。江戸時代の正保四年(1647)小田原城主稲葉美濃守正則が石造の本殿を造営し、また平成の御代に社殿を改修した。祥月命日には故実による傘焼の神事や居合道の奉納等が行われ、今日なお心願成就の守護神として崇敬されている。(案内板)

知足寺供養塔(二宮氏館跡)の関連期にはこちらへ(https://teione.exblog.jp/17630359/


d0183387_12082931.png
工藤氏
藤原南家の流れをくむ為憲木工助となり、木工助の〈工〉と藤原氏の〈藤〉をとって工藤大夫と称したのに始まる。一族に伊東、河津、狩野、宇佐美、曽我、二階堂などがある。為憲が遠江権守であったのをはじめその子孫は遠江、駿河、伊豆等の国衙在庁官人となって各地に勢力を扶植した。伊豆国久須美荘の開発領主といわれる工藤祐隆も伊豆にあって工藤介を称した一族の出身であるが、彼は後継者にめぐまれなかったためその所領を後妻の娘との間に生まれた子で養子の祐継と早世した嫡子祐家の子祐親とに分与した。(コトバンク)
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

工藤裕経(すけつね)

平安末・鎌倉初期の武士。工藤一郎と称す。父は祐継。平重盛の許に出仕し家人となり在京、左衛門尉に任官した。在京中に叔父(従兄弟とする説あり)伊東(河津)二郎祐親に伊豆国伊東荘を預けていた祐親が押領したとして相論となった。祐経のは祐親のであり、この対立のため祐親の許に連れ戻され土肥遠平に嫁がされた。これを怒った祐経は、安元2(1176)年伊豆での巻狩に事寄せて祐親を襲い、祐親の嫡子河津祐泰(すけやす)を殺害した。源頼朝の挙兵以後、早くから頼朝方に付き、幕府成立以後は在京の経験から楽などの道にも通じており、頼朝の信任も厚く平重衡が囚人として鎌倉に下ったときの宴や文治2(1186)年に源義経の妾静が鎌倉鶴岡の社頭で舞をまった際に鼓の役を務めた。また、平家追討で九州へ従軍し5年には奥州合戦にも出陣している。建久4(1193)年、河津祐泰の子の曾我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね)兄弟によって富士の狩場で父の仇として討たれた。(コトバンク)

by Twalking | 2018-07-05 13:29 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『中村一族の郷めぐり』03-中村郷   

日時 2018.6.14(木)
天気 曇り


井ノ口から「小田原みち」を山越えして
中村党の故地・中村郷に向かいました。
大磯丘陵の懐深く、がぴったりの山峡の里です。

土屋郷、中村郷と中村党の足跡を訪ねました。
決して華やかな史蹟があるわけではありませんが、
「土に眠る」でしょうか、味わい深いものがありました。


・・・藤沢(中井町)

d0183387_00062845.jpg
街道の風景① 県道71号と平行して南に延びる尾根へ旧道を上ります/上の原バス停

d0183387_15475719.jpg
神奈川県道71号秦野二宮線
秦野市(246号・落合立体交差)から中郡二宮町(国道1号・二宮交差点)に至る主要地方道である。1981年(昭和56年)に東名高速秦野中井ICが開設されるとこの道路の重要性は大きなものとなった。片側2車線あるいは片側1車線で路肩に余裕のある現在の経路は1989年(平成元年)までに順次開通した。秦野市・中井町境界付近から二宮町の西八戸橋付近までは葛川西側段丘面を通るものである。旧道はおおむね現道のやや東側を通り現在も路線バスは一部路線を除き旧道を経由し、地域住民の生活道路として重要な役割を担っている。なお、旧道沿いには1937年(昭和12年)まで湘南軌道という軽便鉄道も走っていた。(Wikipedia)(南北が71号、直進が77号です/中井電話局前)

d0183387_15512009.jpg
街道の風景② 坂上の農地に残る小田原みち、これはいい道です。国府津からの大山への「羽根尾通り大山道」でもあります

d0183387_15565225.jpg
坊主殺しの伝説/長坂
ここは北田宇塔坂上井ノ口を結ぶ小田原道の途中で、俗に「長坂」と呼ばれるところである。この長坂を横切るように下井ノ口から中藤沢へ通じる古い道があり、以前は大山参詣の賑わいと共に人の往来もあった道である。かつてこの道の藤沢への下り口に立石の墓標が建っていた。ここが伝説の「坊主殺し」の跡である。昔、下井ノ口のお堂(現下井ノ口自治会館)にある尼僧が堂守りをして暮らしていた。性格が温順であったので里人に親しまれ多勢の人達が物品等を持ち寄り孤独を慰めた。そのためいつしか小銭持ちだと噂が飛び、ある日藤沢方面に出かけて1日の修業が終わり家へ帰ろうとした途中、この場所で絞殺されたうえ身に付けていた金銭を奪われてしまった。この事を知った下井ノ口の人達は尼僧を不憫に思いそこに亡骸を埋め懇ろに供養をしてやった。その翌年の命日に心優しい里人は金を出し合い尼僧の殺された場所に墓標を建てた。それ以来ここを「坊主殺し」と呼んで夕暮れなどは淋しがって往来する人もほとんどなく途絶えてしまった。前述の20貫もあった墓標は関東大震災の折りどこかに埋没して今はその景をとどめていない(中井町古道復旧の会)


d0183387_16043961.jpg
d0183387_16044571.jpg
向の丘が見えてきます         一本松峠へ下ります


・・・一本松峠

d0183387_16210370.jpg
街道の風景③ 峠の少し先から西側の景観です、右は中井町役場のある比奈窪、左は九所でしょうか、六本木通り大山道は九所・五所八幡へ下ります/一本杉峠

d0183387_16333745.jpg
一本松と道標
ここは昭和初期まで形のよい松の古木が聳えていて、里の人々に親しまれてきた。今は朽ちてなくなっている。かつてこの付近に大山街道往還の休息所として茶店があり、大変賑わったと伝えられる。ここは現在、石の道標が2基残っており、その文面は左記のとおりである。「をだわら道 これより三里」元禄三庚午歳6月吉日 此よりいゝつみまで二里 かなめまで二里 大山道これより三里 相州西郡中村乃内久所村(中井町教育委員会)

d0183387_16334024.jpg
一本松大山道標の意義
すべての道は大山へと言われるほど各地から大山へ向かう道は多い。ここ一本松はおだわら飯泉観音から曽我の六本松(古くは「やまびこやま」と称された)を越えて当地に至る通称六本松通り大山道と東海道前川からの前川通り大山道合流するところである。この一本松大山道道標には次のように刻まれています。人数15人施主 をだわら道これより三里 元禄3庚牛齢(16906月吉日 三王為供養 古れよりしやまひ古へ(越え) いゝつみまで二里 大山道これより三里 敬白 相刕西部(にしのこおり)中村之内久所村 道標の頭頂には放射状に東西南北と刻まれています。

d0183387_16334864.jpg
また、右に建つ聖観音(推定)の蓮華座には次のように刻まれています。をたわらミち 三リ これより西いつみミち二り これより左三り大山ミち かないミち(金目道)二りさらに観音光背の左には加藤庄左衛門と刻まれていますが、この人は貞享3年(1686)に提出された今関五大夫宛、新畑帳の差出人である久所村庄屋、加藤庄左衛門であると思われますので、1686年にはこの南北の大山詣での大山道東西金目観音飯泉観音とを結ぶ巡礼道の重要な交差点であったことが分ります。
最古の大山道道標は東海道藤沢四ツ谷不動(辻堂駅北口国道1号線沿い)にある「是より里右大山みち」と刻まれた万治41661)のものです。この道標は天保6年(1835)に再建、関東大震災で修理・再建、平成1771日新道標が建立されると大山阿夫利神社に一児保管され平成24年伊勢原日向の秋山安太郎石材の手から子易地区大山新道沿いに修復・移設・再建されました。参考までに田村通り大山道の一の鳥居延宝41678)に建立されました。伊勢原市最古の大山道道標は矢倉沢往還と柏尾通り大山道の合流付近田中耕雲寺境内の「おふやまみち」庚申塔が享保13年(1728)建立であることからも、この一本松峠元禄3年大山道道標の重要さが分ります。(中井町教育委員会・文化財保護委員会)

d0183387_18011627.jpg
街道の風景④ 一本松峠を直進し、「羽根尾通り」を遠藤へくだります。


・・・遠藤

d0183387_18102279.jpg
街道の風景⑤ 集落の手前に弘法大師堂があります

d0183387_18121517.jpg
弘法大師堂
この堂の中には石の弘法大師像3が安置されている。弘法大師(空海)は水脈を知る能力を備えていたと考えられる。堂入口の井戸も弘法年間(800年代)弘法大師が諸国行脚の途中、この地に休息し杖を建てたところ清水が湧きだしたと伝えられる。この水はいかなる日照りにも涸れることなく、郷土の先人はこれを特別なこととして弘法大師の像を安置し、今日まで信仰され続けている。(中井町教育委員会)

d0183387_18205853.jpg
d0183387_18210190.jpg
その先に石塔             水神塔

d0183387_18331468.jpg
街道の風景⑥ かなりの急坂「宇塔坂」、右手に五輪塔があります。


d0183387_18352680.jpg
d0183387_18355253.jpg
宇塔坂五輪塔             坂下を左折します、小田原境です


・・・中村(小田原市)

中村(村)
神奈川県足柄上郡に存在した村。現在の中井町西部、東名・中井パーキングエリア付近から南東を占めた。村名は古代・中世に存在した中村郷(中村荘)より。Wikipedia

d0183387_23382038.jpg
街道の風景⑦ 旧道より中村氏居館あととされる殿ノ窪を望みます/遠藤付近

d0183387_23382573.jpg
d0183387_23503753.jpg
旧道の遠藤バス停            上小滝集落です
d0183387_23531480.jpg
街道の風景⑧ 中村川を渡ります左の丘の南は二宮でしょうか/板呂橋


d0183387_23525087.jpg
中村川
足柄上郡中井町および小田原市、中郡二宮町を流れ相模湾に注ぐ二級河川。中村川水系の本流である。延長は10.3km(二級河川部分は9.00km)、流域面積は29.47km2。河口付近では流域の字名に由来して押切川とも呼ばれている。Wikipedia


・・・殿ノ窪
d0183387_21295902.jpg
街道の風景⑧ 板呂橋の先を右折すると秋葉神社があります

d0183387_21301445.jpg
d0183387_21302084.jpg
秋葉神社参道             秋葉神社社殿

d0183387_21332708.jpg
中村氏館跡とされる殿ノ窪です、説明板がたっています

d0183387_21354554.jpg
豪族中村氏居館跡(殿ノ窪)
桓武平氏村岡五郎良文6代の孫・宗平は平安末期、この中村郷周辺を広く領有しこの地に居館を構え、中村庄司平ノ宗平と称し、源頼朝伊豆配流の頃より源家に心をよせ治承4823日、頼朝石橋山挙兵の際には己は老齢、長男中村太郎重平は早逝のため出陣出来得なかったが、次男土肥次郎実平、三男土屋三郎宗遠、嫡孫中村太郎景平、同中村次郎盛平をはじめ女婿岡崎四郎義実、その嫡男真田与一義忠等々一族を挙げて参戦せしめ、中にも土肥実平の策謀により頼朝を房州に、また真田与一の奮戦の末戦死等は人のよく知るところで、宗平の頼朝の覚えめでたく頼朝鎌倉開府後しばしばこの館に宿泊したという。この居館跡は古代京師方面より坂東に下る官道、また後の鎌倉街道の要害の地点にあり、まわりを山で囲み、内部はおよそ8反歩、後方堂地(耕地)およそ3反歩あり、北側に屋敷神を祀り一族の墓所を納めた。東西馬跡の現代に残る数少なき代表的豪族居館跡で、江戸期小竹検地帳にも「殿ノ窪」と明記してある。(説明板)

d0183387_21420317.jpg
畑地になっていて小高い丘に囲まれています

d0183387_21444065.png
中村氏
坂東平氏の一つで、相模国西部に勢力を持ち、源頼朝挙兵時にその軍の中核をなした。師長国造の子孫ともいわれる。中村荘司宗平以前
中村氏は、桓武平氏良文流である平忠頼の子・平頼尊に始まるという。頼尊は出家した後、山辺禅師と号した。頼尊の息子が武蔵押領使・常遠であり、その息子で横浜市栄区笠間に住した笠間押領使・常宗が鎌倉景正に討たれたことが『桓武平氏緒流系図』に記載されている。そして、常宗の子である宗平の代になって初めて中村の名字を名乗ったとされる。しかし、諸系図では宗平以前は混乱している傾向が見られる。
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

d0183387_22000689.png
中村党の勢力拡大宗平
は相模国余綾郡中村荘(現・小田原市中村原、中井町中村付近)にちなんで中村荘司と称した。嫡子重平は父から中村の名字を継承した。次男の実平は土肥氏を称しその息子の遠平小早川氏を称した。三男宗遠土屋氏を、四男友平二宮氏を、五男頼平堺氏をそれぞれ称した。かくして中村党が形成されたのだが、本宗である中村氏は振るわなかったようで、後に土肥・土屋一族がその中核を占めるようになる。また、宗平のである桂御前は同じく相模国の豪族である三浦党の岡崎義実に嫁ぎ、義忠・義清兄弟をもうけている。この内、義忠佐奈田氏を称しているが、弟の義清は母方の叔父である土屋宗遠の養子となり土屋氏を称している。もう一人の宗平のである満江御前は伊豆国の伊東祐親に嫁いでいるが、諸系図を見ると中村党と伊東(久須見)一族と密接に婚姻関係を結んでいたのが分かる。宗平の娘と祐親の間には河津裕泰、伊藤裕清、八重姫、万劫御前らが生まれたが、この内、万劫御前は最初は工藤裕経の妻であったが、後に土肥遠平と再婚している(遠平の娘は、祐経の子・伊東祐時に嫁いでいる)。河津祐泰は曽我兄弟の父として有名だが、祐泰の妻・満江御前は最初は源仲成に嫁ぎ、最初の夫との間に出来た娘は二宮友平の息子・友忠に嫁いでいる。(地図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

d0183387_22061399.jpg
鎌倉党との抗争と石橋山の戦い
中村宗平は父が鎌倉権五郎景正に討たれたゆえんか、鎌倉党を敵対勢力と見なしていたようで天養元年(1144)の源義朝大庭御厨乱入事件に積極的に参加している。治承4年(1180)に義朝の息子の源頼朝が挙兵すると宗平もこれに参加し、一族を引き連れて北条、加藤、天野、佐々木の諸氏と共に山本館襲撃に参加している。その後、頼朝勢は石橋山に進撃し石橋山の戦いが始まるが、これを迎え撃った平家方の大将は鎌倉党の大庭景親であり、その許には梶原、俣野、長尾と言った鎌倉氏の一族が多数馳せ参じていた。他方、頼朝勢には宗平嫡孫の中村景平・盛平兄弟(中村重平の子)、土肥実平親子、土屋宗遠親子、岡崎義実・佐奈田義忠親子と言った中村党の面々が多数参加していた(宗平自身は老齢が理由か直接は参戦していない)。この内、岡崎親子は三浦党の人物だが、上記の姻戚関係などからすると実質的には中村党の人物と言った方が近い(岡崎氏の諸氏は、後に土屋・土肥の諸氏と共に活動していることが多い)。他にも頼朝勢には佐々木、北条と言った多数の諸氏が加わっていたが、実質的には中村党が中枢を占めていた。頼朝が本陣を置いたのが土肥実平所領であり、石橋山の戦いは見方次第では中村党と鎌倉党の戦いとも見て取れる。なお、平家方には縁戚である伊東祐親一族も参加しており、同族同士の戦いの側面もある。戦いは頼朝勢の大敗に終わり多くの中村党の人物が討死した。佐奈田義忠の戦死は余りにも有名だが、土屋宗遠の子・忠光も討ち死にしており、中村景平・盛平兄弟も後に記録に見えないことからこの時に討死にした可能性が高い。北条時政の長男・宗時も後に討死にしているが、彼は宗平の曾孫である。

d0183387_22080107.jpg
和田合戦
頼朝が再起すると中村党もこれに従い平家追討、奥州合戦に参加し鎌倉幕府樹立に功を立てている。中村氏の本宗絶え土肥・土屋一族が中枢を担うようになったが、『吾妻鏡』にも「土肥・土屋の一族」と記載している。建保元年(1213)の和田合戦には土肥・土屋・岡崎一族は和田方に加わり多数の者が討ち死にしたことが『吾妻鏡』に見出される。その後、生き残った一族は甲斐、越中、安芸などの豪族として発展した。
Wikipedia


・・・比奈窪(中井町)

d0183387_22320454.jpg
街道の風景⑨ 一本松峠で分かれた「六本木通り」はここに下ります/五所八幡神社前

d0183387_22445559.jpg
五所八幡宮鳥居/
遠藤


d0183387_22450311.jpg
五所八幡宮
保元2
年(1157)比叡山の僧・義圓が東国行脚の時、雑色村子の神の祠に一夜を借りた際、霊夢によって白鳩に導かれ現在の地「龍頭の杜」に至り、ここに現れた童子(誉田別命)の霊言に従って勧請したと伝えられています。五所神社の由来は八幡宮の勧請5番目であるからといわれています。源頼朝の祈願所61社の一つであり、中村宗平が守護神として深く尊崇し、息子の土屋宗遠曽我祐信(すけのぶ)の両家より祭典の供物を納められていたと言われています。
(中井遊歩/中井町ガイドMAP)

d0183387_22445987.jpg
五所八幡宮梵鐘
この神社は保元2年(1157)比叡山の僧・義圓によって創建されたものであり、後には源頼朝の全国61ヶ所祈願所の一つに数えられている。源頼朝の再興に尽くした中村宗司宗平はこの神社を源氏守護神とあがめ中村上中村総鎮守にしたといわれる。この神社の例大祭(429日)は「かながわまつり50選」に選定され、例大祭の神事として今も残る「鷺の舞」はかながわ民俗芸能50選に選ばれている。境内西側の坂の途中にある梵鐘は寛永61629)の鋳造で高さ95cm、口径65cm中井町最古の梵鐘であり、井ノ口米倉寺の梵鐘とともに第二次世界大戦の時供出をまぬがれた由緒あるものである。(中井町教育委員会)

d0183387_15243454.jpg
境内から南の風景、この谷間の先は国府津ですね

d0183387_15273497.jpg
街道の風景⑩ 秦野駅行のバスが出ている比奈窪(中井町役場裏)へ向かいます/比奈窪

神奈川県道709号中井羽根尾線

神奈川県足柄上郡中井町(中井町雑色中井町役場入口交差点)小田原市(二宮町川匂押切橋交差点)を結ぶ一般県道。終点の交差点では中郡二宮町にも接している。中井町から小田原市東部を流れる二級河川・中村川に沿って内陸部と相模湾岸を結ぶ。Wikipedia


d0183387_15310708.jpg
d0183387_15352101.jpg
中村川                秦野まで20分位です/比奈窪バス停

d0183387_15424771.png
中村周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:歩行ルート 橙:羽根尾通り 緑:六本松通り 黄:二宮通り 紫:旧東海道)

d0183387_16531435.jpg
コース図(東海大前駅~比奈窪)
(赤:歩行ルート 緑:矢倉沢往還 黄:旧東海道 橙破線:羽根尾通り 緑破線:六本松通り)

土屋氏館跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26915934/


・・・・
資料ファイル

中井町の大山道おすすめポイント(宇塔坂~一本松~井ノ口)
中村川を渡った羽根尾通り大山道は一本松を目指して宇塔坂を登ります。一里塚跡や古い道標などの史跡、一部は農道を歩き古道の雰囲気を感じることができます。県道71号線がよく見える場所までくれば正面に大きな大山が望めます。(中井遊歩/中井町ガイドMAP)

d0183387_15495854.png
羽根尾通り大山道(橙)
現在の小田原市から大山へ向かうものである。経路:東海道前川村小名向原(小田原市)-羽根尾-中村原-小船- 竹村-遠藤村(足柄上郡中井町)-久所-六本松通り大山道を経て大山へWikipedia

六本松通り大山道(緑)
現在の小田原市から大山へ向かうものである。国道255号などが近似したルートを辿っている。経路:東海道小田原宿(小田原市)-多古村-飯泉の渡し(酒匂川)-勝福寺門前町-千代村-高田村-曽我別所村-山彦山-六本松-田中村(足柄上郡中井町)-五所宮-久所-井ノ口村-大竹村(秦野市)-十日市場(曽屋-寺山村-小蓑毛村横畑-坂本村(伊勢原市)-大山Wikipedia

二宮通り大山道(黄)

現在の神奈川県中郡二宮町から大山へ向かうものである。経路:東海道二ノ宮村(神奈川県中郡二宮町)-一色村-井ノ口村(足柄上郡中井町)-六本松通り大山道を経て大山へWikipedia

by Twalking | 2018-06-26 10:02 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『中村一族の郷めぐり』02-七国峠   

日時 2018.6.14(木)
天気 曇り


土屋の荘から七国峠を越えて井ノ口へ向かいます。
県道の脇の標識に従い愛宕山から峠へ抜けましたが、
この山道は変化があって面白いですね。

七国峠からは土屋郷を見下ろせるので地形がよく分かりますが、
「八景」を名乗るのには景観がちょっと・・・、残念です。
それでも、土屋から井ノ口へ、ひと山越える感じは掴めました。



・・・上惣領(平塚市)

d0183387_19210154.jpg
街道の風景① これはいい道、愛宕山への登り道です/芳盛寺先

d0183387_19220269.jpg
d0183387_19221077.jpg
「愛宕山・七国峠」の標識             森を抜けると愛宕神社です

d0183387_19295674.jpg
愛宕神社鳥居/土屋

d0183387_19295901.jpg
愛宕神社
祭神:火産之命 境内社:秋葉神社 牛頭天王社
現在地に天正31575)の頃より愛宕社があり、八沢の鎮守として尊崇されていた。特に地頭・田沢久左衛門は当社を尊崇し多くの寄進をしている。(相模風土記稿)明治4555日熊野神社に合祀され、その後社殿を焼失し記録等一切が消滅し石祠2基、秋葉神社、牛頭天王社が残存した。太平洋戦争終了後、八沢住民が神職の草山智義翁に「神社再建」を議り、その指導により昭和2442日火産之命の神霊を迎え仮本殿に奉斎し、以来3ヶ年窮元のなかにも神殿建立を決議し同日より鍬入工事に着手、同424日拝殿落成の式典を挙げ同日を例祭日と定め、昭和28121日宗教法人愛宕神社が創立され、昭和42年幣殿覆殿が完成した。付近2100坪に桜各種、梅等植栽し愛宕山公園として年々整備して来た(説明板)

d0183387_19300636.jpg
愛宕山公園/土屋
平塚北西の七国峠の近くに愛宕山があります。標高115mのところでここからの眺望は大変素晴らしく、大山・丹沢の峰々が間近にそびえ立ち、平塚市内も眼下に一望できます。この山頂に約0.74ha(約2000坪)の愛宕山公園があります。桜、梅、桃などの樹木が密生し、特に八重桜の大木が多く花見客を集めています。隣接して土屋八沢地区の鎮守である愛宕神社がまつられています。(ひらつかナビ)

d0183387_19381893.jpg
森を抜けると広い原、この先を右に上りると77号です。前方はレイクウッドでしょうか

d0183387_19565675.jpg
d0183387_19570180.jpg
県道に出て右折            七国荘前

d0183387_19570677.jpg
街道の風景② 県道77号を七国峠へ、結構交通量があります/土屋


・・・七国峠

d0183387_20024001.jpg
街道の風景③ こちらは県道77号の「峠」です。左折して「平塚八景・七国峠」へ寄り道/七国峠バス停

d0183387_20014137.jpg
七国峠
平塚市にある峠である。かつてこの峠から甲斐国、上総国、駿河国、伊豆国、安房国、武蔵国、相模国の七国が一望できたことからこの名称がついた。現在はゴルフ場が遮っておりかつての7国を一望することはできない。富士山を望めることから関東の富士見百景に選出されている。1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵した際、この土地の権力者であった土屋三郎宗遠が頼朝に協力したが頼朝は戦に負け、頼朝に協力していた宗遠の息子忠光も戦死してしまった。忠光の死を悼み供養するためにこの峠には源氏らの力でが植えられたという。現在この松は存在しないが死を悼む気持ちを尊重し別の松が植え替えられている。Wikipedia

d0183387_23014850.jpg
街道の風景④ 東へ800m程ゴルフ場の前辺りが七国峠です/七国峠・遠藤原のみち

d0183387_23101189.jpg
「長兵衛茶屋」「平塚八景-七国峠」「供養の松」があります

d0183387_23134513.jpg
平塚八景-七国峠
平塚市最西端で標高は182mの七国峠は甲斐・駿河・伊豆・相模・安房・上総・武蔵の七国が一望できたことからその名がつけられたという。この峠は源頼朝が挙兵した時、この地の領主・土屋三郎宗遠も一族を率いて参加したが、石橋山の合戦実子・忠光が戦死したのを悲しみ飢えたといわれる供養松の伝説もあり、また長兵衛茶屋では甘酒で旅の疲れをいやしたという(説明板)


d0183387_10134082.jpg
北側(丹沢方向)の景観です。これはちょっと・・・、絵にはなりませんね~

d0183387_23303409.jpg
その先ゴルフ場付近から土屋館方向の景観です、こちらの方が「八景」らしいですね、県道に戻ります


・・・井ノ口(中井町)

井ノ口(村)
神奈川県足柄上郡に存在した村。現在の中井町東部、東名・秦野中井インターチェンジの南側に位置した。村名は葛川水源の清泉をと称したことより。Wikipedia


d0183387_10253850.jpg
街道の風景⑤ 尾根に沿って県道を井ノ口へ下ります

d0183387_10361961.jpg
d0183387_10362391.jpg
途中の標識を左折           厳島湿性公園、井ノ口集落です

d0183387_10510995.jpg
葛川
神奈川県足柄上郡中井町および中郡二宮町、大磯町を流れ相模湾に注ぐ二級河川。葛川水系の本流である。延長は7.6km(二級河川部分は西谷戸橋より下流6.22km)、流域面積は29.84km2秦野市南が丘南斜面を発し南へ流れる。大磯丘陵中央部を縦断する形で中井町井ノ口、二宮町一色・中里・二宮を経て東へ向きを変える。中井町で打越川、大磯町国府本郷で不動川を合わせ大磯ロングビーチの東側で相模湾に注ぐ。中井町では葛川沿いに、川幅の割には広い幅を持つ河岸段丘が見られる。これは、過去に葛川へ合流していた水無川大磯丘陵隆起によって金目川争奪されてしまったためと考えられている。現在では決して大きな水系とは言えない葛川だが、はるか昔は丹沢山地からの流れもこの川に注いでいたのである。東海道本線を過ぎたあたりで海岸砂丘があるため、海に直進はせずに大磯方面へ大きく迂回する。Wikipedia
d0183387_11362164.jpg
街道の風景⑥ 麓には湿原の広がる厳島湿性公園があります/井ノ口

d0183387_11363667.jpg
厳島湿性公園
厳島湿生公園は県下でも稀な清水が出ている湿生地を復元し保全することを目的に整備された公園です。園内は、「弁天様」として地域の方々に親しまれている厳島神社を中心にして、湿生地には木道をめぐらし東屋、休憩ひろば、芝生ひろば等が設置されています。この公園では様々な水生動植物を観賞することができます。シュレーゲルアオガエル、ホトケドジョウなどの希少な生き物が確認されており、5
月中旬から下旬にはゲンジボタル、6月下旬から7月中旬にはヘイケボタルの観賞を楽しむことができます。(中井町HP)
d0183387_11502145.jpg
厳島神社鳥居


d0183387_11500112.jpg
厳島神社
この神社は文化4年(1807)に建てられ、天保11年(1840)、安政4年(1857)及び昭和62年に改築された。江戸時代には「弁天様」と呼ばれたが、明治2年(1869)厳島神社と改名された。祭神は市杵島姫命、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、祭日は416日であったが現在は蓑笠神社の祭日と同じ日に行っている。また周囲は清水が豊富に湧出ていて蛍やシマドジョウなどの清く澄んだ水にしか生きない小動物が今でも生息する湿原である。(中井町教育委員会)

d0183387_15082227.jpg
街道の風景⑦ 葛川沿いに歩いててみました、前方の尾根を行くんですね/北窪

d0183387_15083028.jpg
d0183387_15082597.jpg
葛川                 この先が米倉寺です

d0183387_15222956.jpg
米倉寺山門(べいそうじ)

d0183387_15293281.jpg
米倉寺
井宝山米倉寺と号し、曹洞宗に属す。天文元年1532)の開創で、開山は点宥宗高大和尚(秦野市掘山下の米倉一族の菩提寺、蔵林寺の2世)。由緒に依れば往古この地に用国院と呼ぶ寺院があり、伊豆の普門院を本寺と仰ぎ宮の鳳安寺を末寺に従えていた。その後、甲斐武田家臣米倉丹後守種継公が井ノ口に移住して来たとき、用国院を再建して米倉寺と改名、その後蔵林寺の末寺となり鴨沢大泉寺を末寺とした。

米倉寺の重要文化財
米倉一族の墓:米倉丹後守種継・平太夫繁次・権平まで3代の墓で、一枚墓石・五輪塔・宝筺印塔などは300年以上もの風雪に耐えています。
内陣の欄間彫刻:本堂大間にある6基の彫刻です。杉崎佐吉政貴の作で籠獅子・麒麟が彫られています。
梵鐘:寛永7年(1630)に鋳造されました。(中井町教育委員会)

d0183387_16584622.jpg
d0183387_15333616.jpg

d0183387_15363855.png
米倉寺「阿吽の龍」
井宝山と号し曹洞宗に属します。天文元年の開創で米倉一族の菩提寺です。貴重な文化財が多数残存し、江戸時代寛永年間以降に名を馳せた飛騨(左)の甚五郎が彫ったと伝えられる「阿吽の龍」はこの地に伝わる民話にも出てきます。(厳島湿性公園周辺の案内)

d0183387_15485011.jpg
街道の風景⑧ 井ノ口から七国峠の尾根を振り返ります/井ノ口

d0183387_16074377.png
厳島湿性公園周辺あんない地図
(赤:歩行ルート 橙:県道77号 黄:大山道 青:葛川・藤沢川)


・・・・
資料ファイル
中井町

d0183387_16101839.jpg
中井町の歴史
中井町は中村井ノ口村が合併してできた街です。中村の名は中世に活躍した相模武士の一団、桓武平氏を源流とする中村党に関係しています。三浦半島の三浦氏と同じように中村宗平(むねひら)の一族は早い時期から源頼朝を支持し、そろって挙兵に参加しました。中村党は湯河原の土肥氏以外、平塚の土屋氏二宮氏境氏等本家中村の周辺を囲むように拠点を構えており、源頼朝も中村宗平の館にたびたび訪れたと言われています。なお、中村氏の館跡や墓塔の場所は特定されていません。五所八幡宮周辺に数カ所推定値がある他、昔は下中村だった小田原市の中井町側「殿の窪」付近ではないかと言われており、中村一族の歴史は今も地下に眠り続けております。(中井遊歩/中井町ガイドMAP)

中井町を通る大山道
大山道は富士山のような三角形の美しい山で古くから山岳信仰の対象とされ、江戸時代中期には関東一円から多くの人が大山を目指しました。大山道とは各地から大山にある大山寺への参詣者が通った古道の総称、大山街道とも呼ばれます。中井町を通過する大山道の主な道筋は羽根尾道六本松道二宮道3本であり、最終的には1本に合わさって矢倉沢往還に合流、大山を目指します。町のあちこちで眺められる大山を見ながら昔の人の歩いた道を辿ってみるのも面白いでしょう。(中井遊歩/中井町ガイドMAP)

d0183387_16394212.png
軽便鉄道下井ノ口停留所跡
通称「けいべん」は明治39年(1906)に湘南馬車鉄道株式会社が吾妻村(現在の二宮町二宮)~井ノ口村(現在の中井町井ノ口)~秦野町(現在の秦野市本町3丁目)間の道路9.6kmに幅二尺五寸(76.2cm)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まりとなっています。馬車鉄道は一頭の馬が小さな客車または貨車を引くものでしたが、大正2年(1913)には動力を馬車から無煙炭燃料汽動車(蒸気機関)に替え、社名も湘南軽弁鉄道として運転を開始しました。当時の沿道は藁葺屋根の民家がほとんどで、火の粉の飛散を防ぐため独自に開発したラッキョウ型の煙突を付けた機関車が客車や貨車を牽引していました。客車には秦野地方専売局の職員や大山への参詣者が、課舎には葉たばこ、たばこ製品、木材、綿花などこの地域の産品が多く積まれ運ばれていました。(中井遊歩/中井町ガイドMAP)

by Twalking | 2018-06-22 10:01 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『中村一族の郷めぐり』01-土屋   

日時 2018.6.14(木)
天気 曇り

大磯丘陵の金目川筋・土屋荘は土屋一族、
七国峠を越えた中村川筋は本家の中村氏の故地です。
ここは訪ねてみようと思っていました。

以前、関東ふれあいの道で土屋付近を歩きましたが、
場所が分からず目的の場所に辿りつけませんでした。
いい機会なので、土屋氏&中村氏の故郷を訪ねて見ました。


・・・南矢名/秦野市

d0183387_16172382.jpg
街道の風景① いつもは通過ですがここからスタート、起点の中村橋へ/小田急線東海大学前駅

d0183387_16215805.jpg
記念碑/東海大学駅前
明治22年(1889)当時の南矢名・北矢名・落幡・下大槻・真田の五か村が合併し「大根村」となり。昭和2年小田原急行鉄道(現小田急電鉄)が開通し、村内に駅を設置するに際して、その名称を「大根駅」とした。駅開設が実現をみたのは、大根村はじめ地域の方々の多大なご協力の賜であり、このたび駅名を「東海大学前」に改称するにあたり、このことを永く後世に伝えるためこの碑を建立する。(小田急電鉄)

d0183387_16232401.jpg
街道の風景② ひとつ丘を越えますが、麓には大根川が流れます/中央橋

d0183387_16345344.jpg
d0183387_16410003.jpg
大根川                弘法山、裏側は善波越えの道です

矢倉沢往還善波峠の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26758799/


・・・土屋/平塚市

d0183387_16525181.jpg
街道の風景③ 起点の土屋橋から上流側、丘上は下大槻、秦野・平塚の市境です/金目川

d0183387_17200551.jpg
d0183387_17214677.jpg
県道77号を西へ            座禅川はこの先で金目川に合流/観音橋

神奈川県道77号平塚松田線

平塚市南金目から足柄上郡神山に至る県道(主要地方道)である。大磯丘陵を縫うためカーブの多い路線である。Wikipedia

d0183387_18155334.jpg
正蔵院 星峰山観音寺と号する天台宗のお寺です

d0183387_18155884.jpg
d0183387_18160320.jpg
本堂                 境内の石仏群

d0183387_18390851.jpg
街道の風景④ ここでも行けますが、この先を右折すると「関東ふれあいの道」の標識があります/庶子分バス停

d0183387_18412357.jpg
d0183387_18412798.jpg
寺分バス停              続いて庶子分バス停


・・・土屋氏館跡 
d0183387_18532227.jpg
「関東ふれあいの道」(土屋一族の墓・土屋城址)に従い右折します

d0183387_19003599.jpg
d0183387_19005839.jpg
いい坂道です             案内板の右下が墓・館跡です

d0183387_19051320.jpg
案内板から館跡を望みます

d0183387_20042467.jpg
土屋一族供養塔・館跡
土屋一族の墓平安時代後期、中村荘司・宗平3男・宗遠(むねとう)は相州土屋の地の領主としてを構えました。土屋宗遠は治承4年(1180源頼朝の挙兵に参加、鎌倉幕府の成立に貢献し、その子・義清も「随兵役」を勤めるなど頼朝の厚い信頼を受けた武将でした。以来、土屋氏は室町時代の応永23年(1416上杉禅秀の乱で敗走し所領が没収されるまで、土屋の土地を支配しました。「新編相模風土記稿」ではその土屋の館の所在について『宗憲寺境内なりと云し(中略)遺形と覚しき所なし』と記されています。現在「宗憲寺」は存在しませんが、周辺の地理的状況などによりその館は三方に囲まれ、座禅川を配した中世の館として最適な地形を持つ天台宗大乗院に位置する段丘上と推定されています。また、「字大庭」の地名が残る場所では、もののふの館に関する郭状遺構が発見されています。館跡の一郭には「土屋一族の墓」と伝えられる墓域があり、手厚く供養するため地元では「墓前祭」が行われています。なお、土屋は惣領分庶子分寺分と地域区分されますが、これは土屋氏が所領を一族で分割した「土屋三分」によると考えられています。(平塚市教育委員会)

d0183387_19231814.jpg
鎌倉将軍源実朝御歌
『道とほし 腰はふたへに かがるれり 杖にすがりて ここまでも来る
宗遠は90寿の晩苑になっても たびたび鎌倉を訪ね 実朝公に拝謁し 四方屋話で一時を過ごしたと想われる 実朝公はその折々の様子を数種歌に詠じ給うた その一首を碑に刻む(碑文)

d0183387_19280651.jpg
相州土屋始祖・土屋三郎宗遠公一族の供養塔
相州土屋氏の始祖・土屋三郎宗遠公は、桓武平氏中村荘司宗平3として大治3年(1128)相模餘綾郡(ゆるぎぐん)中村(現中井町)に生まれた。長じて武門に志し当大住郡土屋郷に本拠を置き「土屋」の地名を以って屋号(姓)とし、三浦義継を妻とした。一方、土肥郷(現湯河原町)に本拠を置く兄・土肥次郎実平(さねひら)らとともに西相模一帯の強力な一陣営を為し、関東武士団として成長していった。治承4年(11809源頼朝の平家討伐の旗挙げ「石橋山の合戦」から兄・実平らとともに頼朝側近の武将として富士川の合戦、一の谷の合戦、屋島・壇ノ浦の合戦など数多くの戦に出陣し鎌倉幕府樹立に貢献した。以後、宗遠公の後裔は代々鎌倉幕府の要人として仕えたが、専横傍若無尽な執権・北条義時に挑発され兵を挙げ「和田義盛の乱」に組し、土屋次郎義清ほか家の子郎党たちが討死して、土屋氏に動揺が走ったことは否めない。

d0183387_19332206.png
宗遠は熊野神社を勧請創建し、大乗院を再建するなど善行に励み幾多の功績を残したが、晩年は時勢の変転していく様相を眺めつつ静かに余生を送り、将軍実朝の邸を訪ね昔物語りなどに時を過ごした。実朝の私家集「金槐和歌集」から宗遠公の当時の様子をうかがい知ることができる。やがて老境に達した宗遠公は空阿と号し、菩提寺として阿弥陀寺(現芳盛寺)を創建した。そして建保6年(12188590歳の高齢でこの世を去った。法名阿弥陀寺殿空阿。
時は移り、室町時代の明徳2年(1391)には威勢盛んな山名氏の脅威を除こうとした室町幕府に対する山名氏清の反乱「明徳の乱」に組みし、12土屋宗貞と郎党50有余人は討死の痛手を受けた。また、応永の度重なる戦乱に勢力を失い、応永23年(1416)には鎌倉公方・足利持氏と不和になった前関東管領・上杉禅秀(氏憲)の乱に組し、戦運を懸けたが敗れ土屋氏の所領小田原大森氏に没収され、この地は大森芳盛のものとなった。
これより当地に栄えた土屋氏は各地へ離散していった。その後、ここ土屋から全国各地へ派生した土屋一族は厳しい戦国の世を切り抜け、江戸時代から明治そして現代へと始祖・宗遠公のその精神を脈々と受け継ぎあらゆる分野で数多くの人材を世に送り出している。ここにおよそ800年の星霜を深い樹木に抱かれた土屋一族の墓は、土屋氏ゆかりの人達に見守られてきた。この一帯は館跡と伝えられ、一族の供養塔もこの一角に散在していた。昭和10年(1935)頃杉林を開墾して畑にした当時、寺分字粟久保の故杉山鐸之助氏を中心に供養塔を現在地に収集移設し現在に至っている。(土屋三郎宗遠公遺跡保存会)

d0183387_19183989.jpg
案内板より一段下ると土屋一族の墓(供養塔)があります

d0183387_19322846.jpg
土屋一族の墓
鎌倉時代の武将で土屋の領主、土屋三郎宗遠を始祖とする土屋一族の墓所と伝える。宗遠は平安時代末期に中村荘司宗平三男として生まれたが、土屋に分岐したので在地名をもって土屋姓を名のり、源頼朝挙兵のときから参加、歴戦し、鎌倉幕府の基礎固めに力を尽くした。のち一族は平家討伐の屋島、一の谷、壇の浦等の戦役にも従軍し戦功をたてた。(環境庁・神奈川県)

d0183387_19202866.jpg
石碑
源頼朝公源氏再光石橋山参陣800年記念
地頭土屋三郎平宗遠公一族之墓苑

浩宮徳仁殿下一行当初見学記念

昭和54912日(碑文)

d0183387_19594208.jpg
その下の平場に土屋氏館跡その下の平場に「土屋氏館跡」の標柱が立ちます

土屋城址
鎌倉時代の御家人で重臣であった土屋三郎宗遠城跡。土屋の丘陵にあって段丘を利用し、南に座禅川をひかえた鎌倉時代初期の形式に属するものである。この地は高陣山と呼ばれこのほかに高見台などがあり、一族縁者が居を構える二宮ノ館真田ノ館岡崎ノ館中村ノ館などに連絡ができる場所でもある。また当時は交通の要衝の地でもあった。(環境庁・神奈川県)

d0183387_21423368.jpg
案内板に戻り、少し上ると丘の上にでます、高陣山でしょうか

d0183387_21461384.jpg
土屋城址と高神山(高陣山)土屋の地形は分水嶺としての丘陵台地で、そこに小高い丘が幾重にも連なり多くの谷戸を形成する自然豊かな丘陵地です。平安時代末期からこの地を治めていた鎌倉幕府御家人・土屋三郎宗遠は字大庭に館を構えていました。土屋一族は鎌倉~室町時代にかけて地の利を生かし、館の裏山一帯を要害として土屋城(陣地)を築いたということから、この一帯を高陣山といいます。(今では字「高神山」という)この土屋城の北面には湿地帯を成す暴れ川といわれる金目川流域が広がり、そこからせり上がる竹林には古井戸・腰郭、熊野神社、大乗院(一説には本丸という)、北東の舌状台地には鉄砲馬場(昭和15年頃までは流鏑馬神事や競馬が奉納された)・のろし台(土屋一族縁者との連絡用)・物見の松・袖坂・木舟神社、南東の段丘台地には土屋一族の館・一族の墓、その南方には湿地帯を挟み座禅川、南西には牢屋、牢坂(堂坂ともいう)・処刑場、水呑地蔵(処刑者の末後の水を飲ませ供養したという供養石仏群)などがあり、城郭としての機能が備わっていたと伝えられています。

d0183387_21534387.png
大乗院(天台宗星光山弘宣寺大乗院と号す)の創立会期は宗祖伝教大師と伝えられ、治承年中(平安時代末期1178年こと)宗遠により殿宇再建がなされたといわれています。開山は1200年も前と考えられ、鎮護国家の道場として相模国の中本山となっていました。鎌倉時代以降は度重なる兵災に遭い殿堂は焼失しましたが、至徳3年(1386)中興開山一世圓海法印により再び法灯をかかげ檀林所として興隆しました。天正19年には家康公より石高10石の御朱印を賜り、江戸時代には天台宗相模国の触頭を勤め25ヶ末寺・門信寺を有していました。大乗院の境内に金茂院・大安寺・宝性院・阿弥陀院が、周囲には持宝院・正福寺・宗憲寺がありましたが現在は廃寺となっています。大乗院はその長い歴史の中で幾多の戦禍を被りましたが、「土屋の古刹」として今日まで脈々と受け継がれています。

熊野神社
宗遠が平家追討軍として壇ノ浦の戦い(1185)で参戦し勝利を収め凱旋途中、紀州の熊野権現に参詣しその分霊を蓑に包んで持ち帰り、小熊野の地に奉り尊信したと伝えられる「古社」です。明治初期から昭和20年までは社格が「郷社」として郷内7社が合祀されていました。寺分各集落の神社4社が合祀されており氏子の篤い尊崇を受けています。
この土屋城があった一帯は昭和30年代に開発が急速に進み、今では面影を見ることは出来ません。開発当時は土器等の埋蔵物が出土しましたが、発掘調査はなされておらずその全容は解明されていません。土屋三郎宗遠と土屋一族については「吾妻鏡、平家物語、源平盛衰記」などで当時の様子をうかがい知ることができます。(ふるさと土屋いろはかるた実行委員会)

d0183387_22324155.jpg
鎌倉右大臣実朝御私家集・金槐和歌集(巻下雑部より)
相州の土屋と云ふ所に 年90にあまれるくち法師あり おのづからきたる 昔語などせしついでに 身のたちゐにたえずなむ 成ぬる事を なくなく申て出ぬ 時に老という事を人々に仰せてつかうまらせし次によい待し
『我いくそ 見し世の事を 思い出の あくるほどなき 夜の寝覚に』
『思い出て 夜はすがらに 音をとぞなく 有し昔の 世々のふること』
『中々に老いはほれても 忘れなで などか昔を いとしのぶらむ』
『道とほし 腰はふたへに かがよれり 杖にすがりて ここまでも来る』
『さりともと 思ふ物から 日を経ては しだいしだいに 弱る悲しき』

d0183387_22550294.jpg
大乗院山門


d0183387_22575648.jpg
大乗院
天台宗
延暦寺派の名刹、鎌倉時代の武将で土屋の領主・土屋三郎宗遠堂塔再建したと伝えられる寺院である。往時は多くの末寺をもつ大乗院であったが、お堂の建物は惜しくも第二次世界大戦(昭和20)のとき焼失した。再建後の本堂には瑞光をはなったといわれる阿弥陀如来が難を免れ安置されている。またこの寺は相模西国29番観音霊場でもある。本尊:阿弥陀如来 中興開基:圓海(環境庁・神奈川県)

d0183387_23174048.jpg
熊野神社鳥居/土屋

d0183387_23175271.jpg
土屋熊野神社
伊邪那美命 与母津事解之男命 速玉之男命 十二社柱大神 造化二柱大神
「往昔邑人某、南紀熊野神社に詣で分霊を請い、途中覆ふに其の破れる所の蓑を以てし、帰り来てに勧請せり。」と。その後、健中年中(11901199年)「土屋三郎宗遠当村を所領せる際、其の4男・宗光なるもの現在の社地に遷せり。是れ字名に庶子分小熊等の名称ある所以なり」との記録がある。新編相模風土記に「天正19年(1591)家康より社嶺高五石の地を寄附せられ、御朱印を賜う。元和4年(16199月修造の棟札あり。神木の杉、囲一丈二尺ありき」と記載されている。明治維新の際上地した。明治6730日郷社に列せられた。(神奈川県神社誌)

d0183387_23532406.jpg
街道の風景⑤ 立派な長屋門のお屋敷ですね・・・、旧道でしょうか/熊野神社先


d0183387_10363335.png
土屋氏
武家のひとつ。本姓は平氏。家系は桓武平氏の一つ高望王の系譜で平良文を祖とする。平良文6代孫土屋宗遠初代とする。土屋氏は坂東八平氏であった相模国中村荘司村岡宗平の子、土屋宗遠が相模国中村荘において土屋郷司についたことに由来する。鎌倉時代には出雲国持田荘や大東荘、河内国茨田郡伊香賀郷の地頭を任官し各地に勢力を伸張する。室町時代初期には土屋景遠の時に相模国本領を奪われ他国に追われたという。土屋勝遠は甲斐国守護・武田信昌の娘を娶り、子の土屋信遠は武田家臣となったという。信遠の子、土屋昌遠は駿河国大平郷に移り住んで武田家中を離れる。(Wikipedia(地図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

岡崎氏館跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26676354/
真田氏館跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26693660/


・・・遠藤原

d0183387_14482138.jpg
街道の風景⑥ 小熊集落を抜けると広い平原「遠藤原」です、弘法山&丹沢山地の展望が雄大です/遠藤原

d0183387_15113603.jpg
d0183387_15114098.jpg
「七国峠・遠藤原」の標識       標識近くの石仏群

d0183387_15154488.jpg
街道の風景⑦ バス通りを尻目に畑の農道を上ります

d0183387_15170745.jpg
d0183387_15171255.jpg
遠藤原バス停先を左折         自治会館前バス停を右折

d0183387_15210847.jpg
街道の風景⑧ 県道を七国峠へ向かいます/琵琶入口

d0183387_15280226.jpg
芳盛寺山門/土屋

d0183387_15283304.jpg
芳盛寺
土屋山無量寿院芳盛寺は、現在は真言宗の寺院です。土屋三郎宗遠が自らの菩提寺として建仁41204)に戦の守り本尊阿弥陀如来を祀り、阿弥陀寺と号したのが始まりです。開基は退耕行勇上人で、鎌倉幕府の三代の将軍と親交のあった高僧です。恵心僧都作と伝えられる本尊の阿弥陀如来(秘仏)の他に空海の画像(市指定重要文化財)などの寺宝が伝えられており歴史の古さを物語っています。鎌倉時代には相模、武蔵、伊豆の三つの国の僧が集い修行をする壇林所(修行道場)として栄えました。また、この寺の石段の下を流れる川が「座禅川」と名付けられたのは川の畔で修行僧座禅をしていたことに由来すると伝えられています。応永年間になると関東公方足利氏満が中興して、高野山の末寺になり無量寿院阿弥陀寺となりました。その後、応永23年に関東管領・足利持氏に対して反乱を起こした関東公方足利氏憲に味方した土屋一族は、領地を取り上げられその勢力は衰えてしまいました。足利氏は土屋氏の所領を小田原の大森式部大輔芳盛に与えたため、芳盛は阿弥陀寺を菩提寺としその寺号を芳盛寺と改めました。(ふるさと土屋さんHP)

d0183387_15293797.png
僧空海画
絹本着色 総縦188cm 同横73cm 画面縦100.5cm 同横50.5cm
当画像の箱書には「真如親王御筆」となっているが、真如法親王は平安時代(800年代)の人である。画法・絵絹、画像右上方に書かれた替文の書風など絵全体の歴史的作風から類推すると室町時代(14世紀後半ないし15世紀前半)の作と思われる。平塚市内に存在する仏画としては最古の作品であり、また画としての品格も備え、芳盛寺に伝承秘蔵された由緒等も明確であり、市にとっても貴重な文化財である(平塚市教育委員会)

d0183387_15475584.jpg
門前を流れる座禅川、上流域にあたります

座禅川
(ざぜんかわ)
平塚市を流れる金目川水系の二級河川。本流に尼ヶ滝、支流に駒ヶ滝(清滝)がある。神奈川県平塚市土屋の七国峠付近に源を発し、平塚市南金目で三笠川を合わせ金目川に合流する。Wikipedia

d0183387_15552281.jpg
街道の風景⑨芳盛寺先から七国峠へ向かいます


d0183387_15580845.png
ふるさと土屋マップ/ふるさと土屋さんHP
(赤:歩行ルート 橙:県道77号 緑:小田原みち 黄:七国峠・遠藤原のみち 青:金目川・座禅川)

d0183387_23380417.jpg
コース地図(東海大萼前駅~井ノ口)
(赤点線:歩行ルート 緑:矢倉沢往還 橙点線:羽根尾通り大山道 赤角:東海大前駅・七国峠・井ノ口)

by Twalking | 2018-06-18 10:49 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり松田&山北04-洒水の滝   

日時 2018.6.2(土)
天気 晴れ

相模国随一といわれる洒水の滝に寄り道しました。
なるほど幽谷にひっそりと落ちる姿は見事です。
ここは河村城址等とセットで歩くといいですね。

途中に「川村土功」の碑がありますが、
これを読むと富士噴火の降砂と土石流災害と
戦った歴史がわかります。

城址の説明にも「南に酒匂川、北に皆瀬川・・・」
とありましたが、往古、皆瀬側は城山の北を流れて
いたようです。南に背替えしたんですね・・・。


・・・日向(山北町)
d0183387_19293082.jpg
街道の風景① 田んぼの道を通り前方の谷間へ向かいます/日向

d0183387_19313848.jpg
d0183387_19331066.jpg
途中の道祖神                    鎮守さまでしょうか

d0183387_19331556.jpg
日向用水の由来
日向用水は地区の伝承によると、度重なる酒匂川の氾濫により高瀬堤防の決壊と河床の低下が幾度となく起こった為、用水の取水口は上流への移動を余儀なくされ、ついには酒匂川皆瀬川合流地点で取水するまでになり、俣野地区を経て城山西裾岩盤に用水路を確保し日向へと通水されました。江戸時代後期相次ぐ災害により用水路の確保が困難を極めていたおり、名もなき夫婦者が高瀬堤防の際に小屋を建て、城山西裾素掘り隧道を掘る作業に着手しました。

d0183387_19381897.jpg
隧道の完成を見たのは着手した時生まれた子供が歩くようになった頃と言われ、そのことから工事期間は3年位かかったと思われます。隧道の長さは約90で、日向側より50m位は腰を屈めて通れますがその先は腹這いにならなければ通れないほど大変な作業だったことが伺しれます。この隧道の開通は日向水田約八丁歩の収穫量安定の礎となり今日の繁栄をもたらしました。高瀬橋の架け替え、道路の拡幅などで往時を偲ぶ一助となればと建立するものです。(日向耕地組合)

d0183387_19415463.jpg
街道の風景② 山間から滝沢川が酒匂川に合流します/高瀬橋



・・・平山

d0183387_20015430.jpg
街道の風景③ 洒水の滝入口、この県道は矢倉沢関所に通じているようです/滝沢橋

神奈川県道726号矢倉沢山北線
南足柄市と足柄上郡山北町(樋口橋交差点)を結ぶ一般県道。主要地方道御殿場大井線の矢倉沢バス停付近から北に分かれて山北町方面へ向かう。Wikipedia

d0183387_20070650.jpg
棚島神社鳥居と参道階段/平山

d0183387_20111468.jpg
d0183387_20111907.jpg
拝殿                   北に東名吾妻橋を望みます


・・・洒水の滝

d0183387_20222156.png
洒水の滝
酒匂川の支流・滝沢川から流れ落ちる洒水の滝は「日本の滝百選」、またその水は「全国名水百選」に選ばれている名瀑です。「洒水」=「しゃすい」の名は、密教用語で清浄を念じてそそぐ香水を指すといいます。雄大なその姿は三段からなり落差は一の滝は69m、二の滝は16m、三の滝は29mという豪快な滝で、古くから相模の国第一の滝とされ「新編相模国風土記稿」では「蛇水の滝」と記されています。この滝は鎌倉時代の名僧文覚上人が百日間も滝に打たれる荒行を積んだ地としても知られており、付近には文覚上人が安置したといわれる滝不動尊(不動明王「穴不動」)があります。毎年、7月第4日曜日に行われる「洒水の滝祭り」では、洒水太鼓をはじめとする太鼓の競演、滝不動尊境内での火祭りが行われます。火祭りの後御幣は無病息災のご利益があるといわれ、人々は競って持ち帰ります。Wikipedia

d0183387_20262261.jpg
滝へは滝沢川沿いに散策道がついています

d0183387_20303796.jpg
d0183387_20304131.jpg
散策路                滝沢川

d0183387_20383624.jpg
ここまでは車でも来れますが、歩く方がいいですよね!説明板の先から21世紀の森への道もありました

d0183387_20391925.jpg
神奈川県指定名勝-洒水の滝
酒水の滝は足柄上郡山北町にあって、平山の滝又は灑水の滝(しゃすい)といわれていたがいまは一般的に酒水の滝と呼ばれている。その水源は西北を限る800m及び500mの連嶺の東南方山地の水を集めて流れるものである。付近一帯の地質はよく磨かれた大小の礫を含む岩層で、第三世紀足柄層と呼ばれている。この足柄層の降起に伴って生じた裂線を浸食する湧流が標高300mから200m位まで3段の瀑布となっている。その高さは三の滝29.7m、二の滝16m、一の滝69.3mあって、以下滝沢川となって酒匂川に合流する。浸食谷の入口平山から滝壺までの間には礫岩層が至所に横たわって滝沢川不断の浸蝕によって滝口が後退し、現在の絶壁に東面してかかっている。滝は関東屈指の名瀑である。(神奈川県教育委員会)

灑水

灑水は洒水(しゃすい)とも書きます。そそぐ・清らか・洗うという意味を持ちます。灑水は身をはじめとして道場や、いろいろな物を清めるときに使われます。散杖(さんじょう)あるいは灑水杖と呼ばれる木の棒で、器から少し灑水用の香水を取り、注ぐように撒いたり散布するように撒きます。(やさしい仏教入門)
d0183387_00185078.jpg
渓谷らしくなってきました、この先が展望台、その少し先まで行けます

d0183387_00211608.jpg
見られるのは第3の滝だけです/展望台

d0183387_00230764.jpg
その先、橋の所まで行けます

d0183387_00260516.jpg
d0183387_00261489.jpg
幸せ達磨/展望台              名水の滝百選の碑/橋の手前


d0183387_13204404.jpg
滝への散策路の途中に丹沢山別院最勝寺があります。詳しいことは分かりまが東光院が別院として開山されたお寺さんでしょうか??

d0183387_13204775.jpg
d0183387_13290444.jpg
本堂                 こちらにも風車のお地蔵さん

丹沢山東光院の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26880138/

d0183387_01093050.jpg
常実坊

d0183387_01120675.jpg
平山洒水の滝不動尊常実坊
洒水の滝傍らにあり滝堂とも呼ぶ龍王山誓源寺と号し天台宗なり。古くは平山原480にあり、明治21年頃平山の住人古瀬喜作氏の寄進である現在地に建立される。往昔、文覚上人百日の荒行をなせし時の御作不動明王を安置すと云う。これより洒水の滝不動尊と呼ぶようになり、霊験あらたかにして足柄地域はもとより遠く京浜地域までその信者多く集うようになる。明治6年時の大僧正・桜井敬徳、元老院議官・町田久成両氏の紹介により滋賀県大津の円城寺(三井寺)の山中より常実坊遷座奉る。これより平山洒水の滝不動尊常実坊とよぶようになる。

d0183387_01121124.jpg
伝文覚上人御作不動明王像おん丈53cm、石刻座像、一部色彩色。素朴な厨子に鎮座し、前にせいたか、こんからの両童子控う。上人は平安末期から鎌倉初期の真言僧、俗名遠藤盛遠、元上西門の北面武士、誤って袈裟御前を斬り一念発起得度し熊野、高雄を初め山岳修験を重ね験力著しき修験者となった。神護寺再興について後白河上皇の忌避にふれ伊豆に流されている。この頃頼朝の知遇を得る。当地の修法はどの頃か詳らかざるもこの頃であろう。後略(説明板)

文覚

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。摂津源氏傘下の武士団である渡辺藤・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家した。京都高雄山臣護持の再興を後白河天皇強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。Wikipedia



・・・山北駅へ

d0183387_13420853.jpg
街道の風景④ 現在の酒匂川・皆瀬川の合流地です。皆瀬側は246号、その先の東名吾妻橋の谷間を抜けてきます。右手にスポーツ広場、左手に山北発電所があります/足柄橋(酒匂川)
d0183387_13485241.jpg
街道の風景⑤ 河村城の西端は酒匂川に面した急峻な崖になっています/足柄橋

d0183387_13581710.jpg
d0183387_13582424.jpg
足柄大橋               246号樋口橋を直進します

河村城址の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26885649/


d0183387_14031500.jpg
川村土功之碑
川村は明治22年(18894川村山北川村岸川村向原3村が合併して誕生、明治8年(1932)に山北町となる。土功とは大地をつかさどること、文命堤の碑文にも土功の字がある。碑文は元禄161703)の大地震、翌年から2年続きの大水から始まる。宝永4年(170711月には富士山噴火の降砂による災害復旧のため、宝永5年小田原藩領の足柄上・下郡は幕府代官の支配となる。皆瀬川から流れ出す土砂で湖水と化した川村山北は日向組・日陰組両名主を中心に皆瀬川の流れをに替える瀬替を請願、宝永6年伊勢国津藩藤堂氏の手伝い普請となり、18日間の工事で掘割として実現した。その後、村民は灌漑・生活用水の確保に努め享保19年(1734)皆瀬川からの川入堰、元文4年(1739)板橋沢からの御関所堰、天明2年(1782)には名主湯山弥太右衛門らによる4年の工事で酒匂川からの瀬戸堰が完成し、寛政年間に川村岸分水する。瀬戸堰の取水口はさらに上流へ開削されて川村3ヶ村の水田を潤し、現在も東電発電所水路から取水し、川村用水として活用されている。碑の建立は明治26年(18937月大磯の漢学者伊東希元の撰文、裏面に発起人6人、賛成人89名の氏名が刻まれている。(山北町教育委員会)

d0183387_14393597.jpg
d0183387_14393597.jpg
皆瀬川                樋口橋

d0183387_14415636.jpg
街道の風景⑥御殿場線に沿って山北駅に下ります、左は県道725号です/山北橋

神奈川県道725号玄倉山北線
山北町を走る一般県道。丹沢湖東部の玄倉地区と山北町中心部を直接結ぶルートとなる予定であるが、2008年(平成20年)1月現在、起点から山北町皆瀬川までは通行不能(未開通)である。全長:10.1km(不通区間3.8㎞)Wikipedia

d0183387_14481934.jpg
街道の風景⑦ 御殿場線は掘割、この道も歩きやすいいい道です

d0183387_14510674.jpg
山北鉄道公園/山北駅
神奈川県山北町に位置する都市公園(街区公園)である。御殿場線山北駅の沼津方先端にあり、鉄道公園として1970年(昭和45年)に開園した。山北がかつて「鉄道の町」として重要な役割を果たしていたことを残す数少ない施設の一つ。御殿場線が東海道本線から格下げされた後、箱根の峠の急勾配を越えることが可能な大型蒸気機関車として活躍したD5270号機が静態保存されている。また、夜にはスポットライトでライトアップされ、闇の中に浮かぶ勇壮な姿が美しい。すぐ脇を御殿場線が走っておりこの公園付近の「山北の桜並木」は花見スポットとしても有名である。Wikipedia)

d0183387_19330884.jpg
「水緑まんぷくコース」変化に富むいいコースですね、楽しませて頂きました/山北駅

d0183387_18331843.png
山北町観光案内図(黄:水緑まんぷくコース 橙:246号 青:酒匂川・皆瀬川)

d0183387_15212193.jpg
松田&山北ルート地図
(赤:歩行ルート 緑:矢倉沢往還 赤丸:松田城址・河村城址)

by Twalking | 2018-06-12 19:38 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり松田&山北-03河村城址   

日時 2018.6.2(土)
天気 晴れ


浅間山の東麓にある河村氏関連の寺社を見てから、
河村城のある河村城址公園に向かいました。
保全された森をひと上りすると本城郭があります。

蔵郭・近藤郭、大庭郭、大庭郭張出など遺構が残り、
その先から見る足柄平野の展望は素晴らしい景観です。
本城郭から日向へ下り、酒水の滝へ足を延ばしました。
ここは森の緑と水の青、歩き甲斐のあるいいコースです。



・・・河村城址公園

d0183387_23011254.jpg
街道の風景① 標識または盛翁寺より左折すると城址公園入口になります

d0183387_23141302.png
河村城
平安時代末期築城され、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交差する要衝の近くに築かれた山城である。河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。建武の新政・南北朝時代に入ると、河村宇治は新田氏に協力し南朝方につき北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなる。戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570-1573)には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐でこの城は落城し廃城となった。Wikipedia

d0183387_23183141.jpg
街道の風景② 本城郭へひと上り、道は整備され気持ちいい森林浴です。

d0183387_23211542.jpg
茶臼郭
本城郭から北に伸びる尾根は二本の堀切によって小郭と茶臼郭に区切られている、北側に位置する茶臼郭は本城郭より約10m低く東西約20m南北約80mを計る緩やかな斜面で、東西両側に帯郭が見られる、絵図によっては、小郭を茶臼郭としているものもあるが、新編相模国風土記稿の河村城古図では、小郭の北側に茶臼郭を配している。(山北町)

d0183387_23212046.jpg
d0183387_23272531.jpg
お姫井戸               堀切

お姫井戸
小郭と茶臼郭の間の堀切では、畝掘りが確認されており、東端の畝間には出水がある。新編相模国風土記稿の絵図にはこの位置に井戸の記載があり、往時は井戸として使用していたと考えられるが、発掘調査では井戸の遺構は確認できなかった。しかし、河村城落城の時に城主の姫が井戸に身を投じたという衣話が今でも伝えられている。(山北町)

d0183387_00344311.jpg
街道の風景② 本城郭の入口です。ここから3方向の尾根に郭が連なります

d0183387_00415290.jpg
本城郭には「河村城碑」「神社」「説明板」等があります

d0183387_00450549.jpg
河村城跡
河村城跡が位置するこの地は城山と呼ばれ、旧皆瀬川酒匂川によって周辺山地と分断された自然の要害ともいうべき形となっている。城山の標高は225で、酒匂川との比高差は130を測り東へ浅間山丸山と連なる独立丘陵状をなしている。河村城の周辺では相模・甲斐・駿河三国の境界線が交錯することから、数多くの城砦群が築かれている。甲斐から城ヶ尾峠を越えると湯ノ沢城中川城大仏城山新城鐘ヶ塚城が、駿河から箱根山地・足柄峠の尾根筋を下ると足柄城・阿弥陀尾砦・浜居場城があり、さらに足柄平野縁辺部には松田城・沼田城などがあるが、なかでも河村城は甲斐・駿河から足柄平野に至る交通要衛に位置している。

d0183387_00474601.jpg
河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族波多野遠義二男河村秀高によって築かれたと伝えられている。秀高の子・義秀は源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に属したため領地を没収されるが、建久元年(1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により本領河村郷復帰できたと「吾妻鏡」にある。町指定無形文化財「室生神社流鏑馬」はこれに由来すると言われている。建武の中興・南北朝時代と河村氏松田氏とともに南朝方の新田氏に協力し活躍するが、北朝方の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村秀国・秀経らは新田義興・脇屋義治とともに河村城篭城する。正平78年(115253)にかけて畠山国清を主将とする足利尊氏軍と戦火を交えるが、南原の戦いで敗れ新田・脇屋らは中川城を経て甲州にのがれたと「太平記」にある。当時の河村城については『管領記』に「山瞼にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」とあるように、難攻不落の堅城であったことがうかがえる。また、篭城の様子については、河村氏の菩提寺とされている岸の般若院所蔵の『梅風記』(写)に詳しい。南原の戦い後、河村城は畠山清国・関東管領上杉憲実を経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出してきた小田原北条氏に受け継がれていく。戦国時代、小田原北条氏は武田氏との攻防から、前記の各城とともに小田原城支城として河村城を重視し、特にが元亀年間には河村城の補強を行ったことが「相州古文書」に見られる。その後、武田氏との間で周辺の諸城とともに争奪戦を繰り返し、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で落城、廃城になったと考えられるがこれらを伝える資料は残っていない。

d0183387_00440578.jpg
河村城の規模・郭配置については『新編相模風土記稿』及び堂山の鈴木友徳氏所蔵絵図に見ることができるが、遺跡の保存状態が良いため現地でも概略の位置は確認できる。各部の名称は絵図を参考に付けたものであるが、記載のないものなどについては調査・研究等に使われている名称を便宜上使用している。河村城は急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形を充分にいかした郭配置がなされており、大きく三つの尾根を堀切によって郭としている。現在を本城郭とし、東の浅間山に連なる尾根に蔵郭近藤郭大庭郭洞張出郭を配しており、絵図によっては張出部南端大手としている。本城郭から北へ伸びる尾根には小郭・茶臼郭を配し、西へ伸びる尾根には馬出郭西郭北郭・同張出部を配し大久保平へと続いている。廓の周囲には水郭・帯郭が随所に見られ、本城郭と北郭の間に馬洗場、小郭と茶臼郭の間にはお姫井戸の伝承地があり湧水があったと考えられる。平成2年の本城郭及び堀切の2ヶ所の試掘調査では、本城郭から柱穴と思われるピット6個が検出され、古銭(熙寧元宝)・染付陶磁器なども遺物も出土している。ピットの覆土にはいづれも焼土・炭化物が含まれており、根固め用と考えられる河原石が認められた。

d0183387_00544679.jpg
また、河村城東端の大庭郭張出部東側の堀切では、幅約20m・深さ約11mの箱薬研状を呈す堀であること、蔵郭と近藤郭の堀切は幅約30m、深さ15mの河村城最大の規模であることが確認された。さらに、平成4年の本城郭から茶臼郭の間の堀切2ヶ所と小郭の発掘調査では、正郭両端の堀切はいずれも畝堀の形態であり、本城郭側の堀切では8本、茶臼郭側の堀切では5本の畝が検出された。また、小郭担面は一辺約15mの三角形状を呈し、緑辺には地山を削り出して低い土塁が設けられており、南・北端には「つぶて石」に利用したと考えられる拳大ほどの河原石んぽ溜場が検出されている。郭全体には焼土・炭化物の薄層が覆っており、焼失した可能性があるがピットは4個確認できただけで建物の存在を示唆するまでには至っていない。また、平成5年の河村城の根古屋とされる岸湯坂地区土佐屋敷・秀清屋敷伝承地の試掘調査では、室町時代から戦国時代にかけての館跡と思われる溝が一部確認されており、当時すでに館・詰めの城の関係が成立していた可能性がある。(山北町)

d0183387_01123304.jpg
街道の風景③ 本城郭の南は堀切を挟んで蔵郭があります

d0183387_01350987.png
堀切
本城郭蔵郭の間にある幅20m、深さ8m、堀底の巾50cmの傾斜の急な堀切です。発掘調査では堀底を含め5の造り直しを確認しました。橋脚の跡は堀切内の平らな造成面で発見され、それよりも古い傾斜のある時期の橋脚跡は不明です。

d0183387_01361511.png
堀切で発見された橋の跡
堀切内からは4本の柱穴が見つかり、その位置を柱状のコンクリートで示しています。橋脚幅は4m、堀をまたぐ柱の間の幅は8mあり、柱穴に残った炭化した柱の炭素による年代測定(AMS法)では、400ほど前に伐採した木材であることがわかりました。

d0183387_01162313.jpg
木橋
木橋は城跡全体の維持管理のために架けた現代的な橋ですが、当時の橋の様子を想わせる整備をおこなっています。幅2.5m、長さ24m、高さは3.3mあります。橋の手摺は神奈川県のヒノキ、橋脚や床板は国外の硬い樹木を利用しています。(山北町教育委員会)

d0183387_01444512.jpg
街道の風景④ 蔵郭です

d0183387_01485720.png
蔵郭
東西約700m、南北約300mの長楕円形の郭(くるわ)で西に本城郭、東に近藤郭があります。北側は丸い尾根に3段の平場が続く郭です。南側は急な谷間で郭の東西には自然地形を利用した堀切を築いています。近藤郭との間の堀切は東西24m、南北60m、深さ12mの河村城最大の堀切です。

d0183387_01505104.png
蔵郭で発見された城の施設跡
建物跡
蔵郭の中央東側にあります。径6m方形で深さは約50cmあります。竪穴からは直径10cm~30cmの焼けた石、中国産の青磁の皿や碗、東海地方の陶器、かわらけ、鉄釘、炭化したイネやオオムギの果実、土壁状の塊が出土しました、これらの発見は建物跡と蔵(穀物を貯蔵した土蔵)の密接な関係を表しているのかもしれません。また、蔵郭の中央では建物の柱穴なども見つかっています。

d0183387_01514792.png
配石土杭
蔵郭の東側で中から大きい石賀数多くみかた長方形の穴(配石土杭)が、常滑(源愛知県常滑市)産の瓶とともに発見されています。その他周辺からは設楽(源滋賀県甲賀市)系壺、常滑系擂鉢片、かわらけの破片が出土しています。(山北町教育委員会)


d0183387_01580042.png
河村城案内図
河村城は中世山城の全容を残しています。城は自然地形を利用し尾根の高い部分を削り、その土で低い部分を埋めて「郭」と呼ぶ平場を造成します。また、谷や崖面を利用して堀とし外敵の侵入を遮るため、尾根を人工的に切断して堀とした「堀切」を造り、郭の間を隔てる防御態勢を整えました。河村城の郭や堀切の平面配置を示す「縄張り」は約300年前の絵図を参考にしています。(説明板)

d0183387_02040669.jpg
街道の風景⑤ 近藤郭です

d0183387_02034415.png
縁石ベンチは発掘調査で見つかった堅穴と空堀の跡を示しています。
堅堀
幅:約12m、深さ:3.5m以上、堀の斜度:4055度。郭内での敵の移動を制限するために設けられます。また、堀の中での敵の移動を制限するために堀障子を設けています。掘障子を持つ堀のことを障子堀と言い、小田原北条氏特徴的な堀の造り方です。河村城跡では堀切2などでも障子堀です。

d0183387_02204261.jpg
街道の風景⑥ 左は多地屋敷、右は大庭郭です

d0183387_02205505.jpg
街道の風景⑦
 大庭郭張出・大手です。直進は浅間山、右に下れば湯坂になります。前方に見えるのは松田山でしょうか。

d0183387_16125895.jpg
眼下は山北&東名の吾妻トンネル、左は鳥手山でしょうか、246はこの谷間を西に向かいます/大庭郭張出し

d0183387_16191427.jpg
浅間山の先から望む足柄平野、左が松田惣領、渋沢丘陵の先端が国府津、右手が小田原になります。城内歩道を本城郭に戻ります。

d0183387_19105242.jpg
街道の風景⑧ 本城郭から樹林帯を日向へ下ります

d0183387_19131795.jpg
d0183387_19132181.jpg
途中に馬出郭             右尾根に行くと西郭です

d0183387_19182603.jpg
街道の風景⑨ 湯坂から来る城山南麓の道です、前方の谷が洒水の滝、右折します/日向

d0183387_19234279.jpg
d0183387_19234654.jpg
ここから舗装路です          麓へ下ります

d0183387_09564903.jpg
南側は酒匂川との間に田んぼが広がります/日向

d0183387_10011763.jpg
西側は酒匂川に接した崖になっています。上流で皆瀬川を合わせます/高瀬橋

d0183387_10094097.png
山北駅付近地図
(黄:歩行コース 橙:246号 青:酒匂川・皆瀬川)

d0183387_13020450.png
山北辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(黄:歩行ルート 青:酒匂川・皆瀬川)


・・・・
資料ファイル
河村氏

d0183387_15442785.png
河村義秀
鎌倉前期の武士。相模国の住人。藤原秀郷の子孫、波多野氏の一族。秀高の子。治承4(1180)年源頼朝の石橋山挙兵の際、平家方に属し頼朝軍と戦いのち捕らわれて大庭景能の許に預けられた。斬罪になるところを景能の計らいで死を免れた。建久1(1190)8月の鶴岡八幡宮放生会の際、景能の進言で流鏑馬射手に召し出され、三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜き、頼朝より罪を許された。9月には本領河村郷(神奈川県山北町)安堵され、以後御家人として活躍。頼朝の2度の上洛や曽我兄弟の仇討ちで有名な富士野巻狩りにも随行。承久3(1221)年の承久の乱では幕府軍に属して軍功を挙げた。(コトバンク)
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

d0183387_15532241.png
河村秀清
相模国足柄郡河村郷(現・神奈川県足柄上郡山北町)の住人。藤原秀郷流、波多野氏の一族。幼名は千鶴丸、通称は四郎(河村四郎)。治承元年(1177)に波多野吉義通の実弟・河村秀高四男(母は源頼朝の御所の女官である京極局)として生まれる。兄に河村則実(のりざね、柳川二郎)と河村義秀(よしひで、河村三郎)、弟に河村秀経(ひでつね、河村五郎)がいる。「河村」の姓は、父・秀高(名は遠実(とおざね)とも)がその父(秀清の祖父)である波多野遠義(とおよし)から河村郷の所領を譲られてそこを本拠とし、その地名をとって名乗ったことに始まる。源頼朝が挙兵した際、義秀はそれに応じず平家側につき、治承4年(1180)の石橋山の戦いでも大庭景親に同調したが、富士川の合戦後に景親らとともに捕縛された。河村郷を中心とする義秀の所領(本貫地)は没収され、本来ならば斬罪に処されるべきところを、以前より頼朝方であった景親の兄・景義の計らいによって罪を赦され、本領であった河村郷を安堵され以後御家人として活動することとなる。義秀が捕縛された時、その弟である千鶴丸は浪人となり母・京極局のもとにいたようである。『吾妻鏡』によれば、文治5年(1189)、若年の千鶴丸は13歳にして奥州合戦に参加、三浦義村らとともに、藤原泰衡の異母兄・藤原国衡がまもる陸奥国阿津賀志山(現・福島県伊達郡国見町厚樫山)の堡塁(ほうるい)を攻めて武功を挙げ(阿津賀志山の戦い)これに感激した頼朝は船迫駅において、自らの御前で元服させたという。この時の烏帽子親は頼朝からの指名により小笠原長清が務め、「清」の字を与えられて秀清と名乗った。加えて秀清は戦後の論功行賞により岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶の三カ所に所領を賜った。以後、河村氏は本家筋の波多野氏とともに北条氏に従い、承久3年(1221)の承久の乱では兄・義秀とともに幕府方方について宇治川で戦い武功を挙げた。その後は没年を含め不明である。Wikipedia
(地図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

波多野城址の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26773255/


d0183387_16024897.png
古地図/案内板

波多野一族・松田氏の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26874839/

by Twalking | 2018-06-11 09:35 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり松田&山北02-山北   

日時 2018.6.2(土)
天気 晴れ

山北は酒匂川の上流域、波多野氏一族の河村氏が
進出してきた最先端の地域です。
河村城址や関連する寺社など史跡が多く残ります。

山北町の「水緑まんぷくコース」がありますので、
東山北からこのルートで歩いてみました。
先ずは浅間山山麓の史跡を訪ね河村城跡へ向かいます。


・・・向原(山北町)

d0183387_21202347.jpg
街道の風景① 御殿場線沿いに246号を向原(東山北)へ向かいます/山北町境

東山北駅

山北町の南東に位置する向原地区にある駅。地元の請願によって戦後の1956年(昭和31年)に新設された駅で、当駅の開業と同じ日に2つ隣の相模金子も開業した。1970(昭和45年)に県立山北高校が駅近くに移転してからは多くの通学者に利用されている。また、山北駅よりも1日あたり100人ほど乗車人員が多くなっている。Wikipedia


d0183387_21274948.jpg
d0183387_21325876.jpg
御殿場線を横断/村雨               尺里川を渡ります/大庭橋

d0183387_21364440.jpg
街道の風景② 大きく蛇行する酒匂川に沿って県道が通ります。右手「丸山」の裾を巻いて岸集落へ/原耕地

県道721号東山北停車場線

足柄上郡山北町の御殿場線東山北駅(246号)と県道74号小田原山北線交点(山北町岸)を結ぶ一般県道。Wikipedia


・・・岸

d0183387_22440276.jpg
街道の風景③ 丸山の西裾、向原と岸の集落を繋いでいますが、いい道ですね/岸

d0183387_22475481.jpg
般若院山門/岸

d0183387_22520030.jpg
河村氏の菩提寺「般若院」
当寺は河村氏初代・河村山城守秀高(波多野遠義・とおよしの二男)以来の菩提寺である。本尊に文殊菩薩を安置し、古くは恵華山と号した。河村城の大手湯坂の地にあったが文明年間、中興開山日円が現在地の北側に移した。天正8年(1580室生明神社を後方の丸山山上に勧請したので、室生山智積寺(ちしゃくじ)般若院(はんにゃいん)と号し、古義真言宗の名刹である。戦国時代甲斐、越後の軍が乱入し兵火で炎上、江戸時代にも災火にあって万治元年(1658現在地移転した。境内静寂、泉声渾々として脱俗の浄域である。

d0183387_22555227.jpg
後ろの丘に父の追福の為、河村権七が建てた累代の事蹟を刻んだ河村勝興(かつおき)のがある。寺宝として勝興の烏帽子型兜、法華経、河村城古図などがある。外に奥州河村氏に伝わる秘伝河村城篭城戦記「梅風記」の写し、幕府大目付河村大和守の記録がある。(山北町教育委員会)

d0183387_23022570.jpg
木造文殊菩薩坐像
般若院の本尊。右手に宝剣、左手に経巻を執る通形の文殊菩薩像です。構造は、頭体幹部を前後剥ぎとし割首、両体側材、脚部材などを剥ぎつけています。この像は量感のある全体形を持ち、やや箱型の体形や大きな衣文のさばきなどその造形に室町時代の名残を感じさせます。彫技は丁寧で背中や膝の起伏、穏やかに整った面相など神経の行き届いた表現を見せています。体内に納入銘札がありこの内容から寛文7年(1667)般若院一代法印宥傳(ほういんゆうでん)が鎌倉の仏師・式部に制作させた像と考えられ、江戸時代前期における鎌倉仏師の堅実な作風を伝える好例です。また、本像は般若院が江戸期に入り再興されたときの像であり史料的価値も高く評価されます。(山北町HP)(写真:山門)

d0183387_23025580.jpg
金箔烏帽子形兜
この兜は外見が烏帽子の形をしているため烏帽子形兜(えぼしなりかぶと)と呼ばれています。戦国時代後期、武具類の大量需要に応ずるためこれまで一般的であった筋兜や星兜から、しだいに制作の容易な頭形兜(ずなりかぶと)や烏帽子形兜などが流行するようになりました。これらは従来の兜と比べると格段に少ない鉄板で構成されるため軽量であり活動性にも富んでいました。鉢(頭に被る部分)は鉄板6枚を剥ぎ合わせて形作り、その上に漆を塗って剥ぎ目を平滑にしたのち金箔を貼っています。鉢の裏側に刻まれた銘文によると、天和元年(1681)に河村権七一吉が父勝興の追善供養のため智積寺(般若院の寺号)へ奉納したことがわかります。この銘文については江戸時代の後期、幕府により編纂された『新編相模国風土記稿』にも掲載されています。制作期、奉納期、奉納者名などが明らかで山北とも縁のふかい兜として貴重なものです。なお、勝興は初め豊臣秀吉方、のち徳川家康方大名となった加藤嘉明(よしあき)の家臣です。(嘉明の母は河村氏出身
(山北町HP)(写真:鐘楼)

d0183387_23064743.jpg
山北町岸のヒキガエル集合地
ニホンヒキガエルは動物学上、学術研究上また日本の理科教育上貴重な生物である。この地区はヒキガエルが多産し新編相模風土記稿にもこの地区の「蛙合戦」が載っていて、歴史的にも非常に古くから現在まで繁殖地としての蛙合戦が続いている。毎年3月上旬から下旬にかけて多数のヒキガエルが池に集まり産卵をする。やがて卵より生育したヒキガエルは6月頃山に帰っていく。これは昔より今日にいたるまで年々繰り返されていることで、いつまでも蛙合戦が続いていくように保護するため、ここに天然記念物に指定した。(神奈川県教育委員会・山北町教育委員会)

d0183387_23434006.jpg
東光院山門/岸 東寺真言宗のお寺です

d0183387_23453005.jpg
d0183387_23255967.jpg
本堂                 石造群
d0183387_23264527.jpg
境内から浅間山を望む

d0183387_10513821.jpg
街道の風景④ 木陰から振り返ると丸山が望めます、いい風景です/岸

d0183387_10523773.jpg
d0183387_10515684.jpg
石仏群                「水緑まんぷくコース」の標識

『水緑まんぷくコース』

河川敷の平地やハイキングコースの上り坂などバリエーション豊かな道を歩きます。上り坂は勾配も緩やかで歩きやすい道です。トイレもあるので安心です。歴史ある酒水の滝や河村城址公園を通り山北の歴史に触れ、滝と森の中で癒しを体感してください。森の緑と水の青、山北町の魅力がつまったコースです。東山北駅-ぐみの木公園-般若院-河村城址公園-洒水の滝-山北駅 距離:9km

d0183387_23540444.jpg
街道の風景⑤ 浅間山の南麓です、城の古都では「小田原道」と記されています/岸バス停

県道74号小田原山北線
小田原市(城山中学校入口交差点)と足柄上郡山北町(岸入口交差点)を結ぶ主要地方道である。Wikipedia

d0183387_23570964.jpg
八幡神社鳥居/岸

d0183387_23571601.jpg
八幡神社縁起・由緒
「新編相模風土記稿」(1841年)によれば八幡宮は『村の鎮守、本地仏三尊阿弥陀仏他安ず。3年に一度祭祀を行う。祭日は815日。往古は城山に在りしを、後年この地円月宮の社地に遷せしなり』と云う。加えて「般若院智積寺」の所存する真亨2年(1685年)当代11代伝栄和尚の筆による縁起より抜粋すれば『河村岸の鎮守正八幡大菩薩は、往古河村城山の城主・河村秀高公城内に建立せられ、建立の年代は不詳なれども秀高公開基、菩提寺般若院智積寺の建立が高倉天皇(11611181)の御宇治承2年(1172)なる故、正平841日(1353)瓦城落城するや岸湯坂梵天山山下に遷し、更にその後現在地に遷し奉り。村の鎮守の宮として村民の崇敬する所となれり』とある。(由緒書き)

d0183387_00081573.jpg
八幡神社のくすのき
山北町岸に所在する八幡神社入口にあり、樹高約20
m、根廻り約7.2mを有し、推定樹齢は約300年とされています。その姿は根元から約6mのところで大きく2つの幹に分かれ、しかも斜めに張り出した巨木で、葉は幹が隠れるほど茂っています。根元の小枝は関東大震災によって根元が裂け、その先端から生じたもので、学術的にも貴重な現象です。(山北町HP)





・・・山北

山北町
神奈川県の最西端に位置する町である。町内には1978年に完成した丹沢湖がある。横浜市から西へ直線距離で50km、神奈川県の最西端に位置し山梨県・静岡県と境を接する。町域の大半は丹沢山地であり丹沢大山国定公園に指定されている。国道246号や御殿場線など主要な街道や鉄道路線は町の南部に集中し、町域を東西に貫通しており市街地もそれに沿っている。渋滞ポイントとして知られる都夫良野トンは山北町の都夫良野地区にある。明治時代、東海道本線の開業とともに交通の要衝として栄えたが、同線が丹那トンネルの開通により経路を変更し御殿場線となって以来鉄道中継地としての役割は低下した。Wikipedia

d0183387_00381641.jpg
街道の風景⑥ 浅間山の東麓にあたります、右手に室尾神社があります/山北

d0183387_00443958.jpg
室生神社(むろうじんじゃ)/山北

d0183387_00451971.jpg
御祭神は建御名方命、倉稲魂命、誉田別命、木花咲耶姫命、天児屋根命、弟橘姫命、速玉男命、素盞嗚命、大山祇命、日本武命、大日孁貴命、玉依姫命、大山咋命、大己貴命、菅原道真です



d0183387_00451401.jpg
流鏑馬神事
室生神社の流鏑馬神事の由来は、治承4年源頼朝公が石橋山に旗揚げした折、河村城主義秀公は平家方である大庭景親に味方した罪にとわれ、領地河村を没収され処刑されるところを、景親の兄・大庭景能に助けられ隠われていたところ、建久元年鎌倉に於いて流鏑馬行事が行われた時、たまたま欠員ができたのでその代替として参加し、その抜群の妙技によって罪を赦され旧領河村復帰できたことを記念し、年々行われる様になったと伝えられています。そして780余年の間農民の手によって引き継がれて来たものであります。また、昔から一の的は早稲(わせ)、二の的は中稲(なのて)、三の的は晩稲(わくて)として、その的の当たる矢によって翌年の稲作の値付けの占いとしてきたものであります。(室生神社)

d0183387_00525565.jpg
d0183387_00525974.jpg
神馬でしょうか?           境内の石造群

d0183387_00452367.jpg
室生寺のいちょう
山北町山北に所在する室生神社境内にあり、樹高約25m、根廻り約9.8mを有し、推定樹齢は約300年とされています。幹が根元から南北2本に分かれ、いずれも雄大な姿を呈する雌株です。(山北町HP)


d0183387_00452626.jpg
室生神社のぼだいじゅ
山北町山北に所在する室生神社(むろうじんじゃ)の境内にあり、樹高約25m、根廻り約4mを有し、推定樹齢は約300年とされています。幹が根元から4本に分かれ、それぞれが高く伸び美しい樹形をした巨木です。昭和59年にかながわの名木100選に選ばれています。(山北町HP)

d0183387_11091252.jpg
水屋・水船石/山北
先代の人々が苦労し長年生活の糧と共に飲料水を大切にしたる文化遺産を此処に保存する(宮地水道組合)

d0183387_11061594.jpg
街道の風景⑦ 浅間山東麓の里を河村城址に向かいます

d0183387_11273819.jpg
d0183387_11274643.jpg
道祖神                城址への標識(お寺からも行けます)

d0183387_11295400.jpg
盛翁寺(せいおうじ)参道/山北 曹洞宗のお寺です

d0183387_11303930.jpg
d0183387_11310287.jpg
本堂                 観音堂

d0183387_12140399.png
やまきた観光案内図
(黄:水緑まんぷくコース 橙:245号)

d0183387_17284709.png
山北辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:水緑まんぷくkコース 緑:矢倉沢往還 橙:246号 青:酒匂川)

by Twalking | 2018-06-08 17:54 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり松田&山北01-松田城址   

日時 2018.6.2(土)
天気 晴れ

渋沢丘陵を越えて、酒匂川を渡り駅のあった
坂本へと向かい、足柄峠へと古道は続きます。
周辺には遺跡や史蹟も多く見所は多いようです。

酒匂川の上流域は波多野氏の一族の松田氏、
河村氏が進出しきた所、その城跡が残りますので、
先に進む前にその足跡を訪ねて見ることにしました。



・・・松田惣領


松田町は
足柄平野の北端にあり町域の大部分を丹沢山地が占める。中心集落の松田惣領酒匂川川音川の合流点に位置し、中世には松田荘が置かれた。足柄平野北部の交通の要地にあり矢倉沢街道宿場町、丹沢山地と大磯丘陵の接する谷口集落として発達し、現在はJR御殿場線と小田急線が交わるほか国道246号、255号線が通り東名高速道路の大井松田インターチェンジが設けられている。(コトバンク)

d0183387_21435792.jpg
街道の風景① 街道はロマンス通りを西へに向かいます/松田駅前


d0183387_21522040.jpg
途中を右折すると中沢酒造があります、一帯は街道の面影が残ります

d0183387_21533346.jpg
中澤酒造
日本酒を中心に製造販売する。主要銘柄名は「松美酉(まつみどり)」。1825年(江戸・文政8年)創業。中沢酒造で表記されている場合もある。足柄米を使いおいしい酒づくりに精を出す一方で、松田周辺の庄屋も兼ねる名家であった。また当時は小田原藩御用商人として大久保家に出入りし、その縁で自慢のお酒を献上したところお殿様から立派な酒名を賜った。それが「松美酉」である。ちなみにこの名は松並木が美しかった松田周辺の景観に由来しているWikipedia

d0183387_22030581.jpg
街道の風景② 街道を左折する道が「十文字の渡し場」への旧道でしょうか

d0183387_22060813.jpg
d0183387_22061389.jpg
左手に供養塔道標          ガード手前の石搭群

d0183387_22075332.jpg
川音川が酒匂川に合流します/宮下児童公園

d0183387_22472766.jpg
d0183387_22471872.jpg
「十文字」のモニュメント/宮下公園 江戸の渡し場はこの辺りでしょうか

d0183387_19153630.jpg
酒匂川から振り返って見る渋沢丘陵、左手は松田山です/渡し場付近

松田山

丹沢山地最南部、足柄上郡松田町と同郡山北町にまたがる山塊である。小田急小田原線およびJR東海御殿場線の新松田駅(松田駅)の北に位置する北西から南東にやや長い台形状の山塊であり、最高地点の標高は568mである。山頂一帯はゴルフ場となっており、南斜面には最明寺史跡公園西平畑公園などが設けられ季節を通じて多くの観光客が訪れる。Wikipedia


d0183387_23081455.jpg
街道の風景③ 昔は渡し、現在は橋を渡り開成町へですが、街道と別れて松田庶子へ向かいます/十文字橋

十文字橋
開成町と松田町を結んで酒匂川に架けられている橋を十文字橋といいます。また、橋の付近一帯、川原を含めて十文字と呼びますが正式な名前ではありません。その昔「十文字の渡し」という、矢倉往還の中で難所の渡し場が橋に変わった名残りです。渡しの方法は原則として歩行渡しでしたが、危険なため代官蓑笠之介により夏期は船渡しに変わり、冬期は流れの上だけ橋を架けていました。また、開成町側には渡しのケヤキと呼ばれるケヤキが植えられており、対岸が遠いため目印とされていたそうです。現在のケヤキは二代目のケヤキになっています。(酒匂川水辺ウオークパンフ)

d0183387_23101629.jpg
十文字橋の歴史
十文字橋明治221889)東海道線が開通し、それに伴い松田駅から大雄山最乗寺道了尊に通ずる幹線道路の橋として出来ました。この木の橋は地元有力者が建設し金銭を取り渡らせていました。たび重なる豪雨でその都度流され仮橋や渡舟で対応していました。大正21913年)現在の十文字橋の原型となるトラス橋を県が完成させました。しかし、中心部の橋脚だけが石で積み上げその他は木製でした。その後木製から鉄製になりました。大正12年(1923)の関東大震災で鉄製の橋脚は落ちてしまいましたが、石の橋脚部分だけは残りました。昭和81933)には鉄製部分がすべてコンクリート製になりました。その後、歩道をつけたりトラスをとる大規模改修をし、昭和51年(1976)からは松田町・開成町で管理することになりました。平成19年(2007997日未明の台風で大正2年(1913)につくられた石の橋脚の一部が被害を受けてしまいましたが、平成202008)現在の橋に復旧されました。このモニュメントに使われている石は大正2年(1913)の橋脚の石です。(松田町役場)

d0183387_23130058.jpg
酒匂川の鮎
神奈川県西部を流れる酒匂川は首都圏近郊では数少ない天然アユの遡上する河川です。下流の山北地区、松田地区及び小田原地区ではアユの友釣りを楽しむことができます。毎年61日から1014日まで 毎年121日から1231日まで。

d0183387_23215778.jpg
寒田神社鳥居/松田惣領

d0183387_23415659.jpg
寒田神社-松田町重要文化財(史跡)
西暦400年頃の古代に創建されたと言われる由緒ある神社で、延長5年(927)に国が作成した「延喜式神名帳」に相模国十三座の内「足上郡一座小寒田の神社」と明記されています。古代には箱根越えの旅人が足柄道の通行の途中この神社に旅の安全を祈願したと言われ、倭建命が東征の折に立ち寄られたと伝えられています。祭神は倭建命、更に文明4年(1472)に弟橘比売を合祀、大正2年に天神社2柱、昭和36年に子八幡社を合祀しています。

d0183387_23422597.png
神宝の椀-松田町重要文化財(工芸)
この椀は弥生時代後期の作と言われ神社創建の頃から御神宝として保存されています。材質はけやきで塗りの跡はなく、高台が特に高くロクロ目が荒く表面が輪なりにごつくて縄文のように見えます。なお、全体の形はふっくらとして量感に富んでいて格調の高い作品です。(松田町教育委員会)

d0183387_23540086.jpg
延喜式内社について
延喜式とは平安時代中期、醍醐天皇の時に完成した法制書です。この式の神明帳に掲載されている神祇官の管轄する神社を延喜式内社、略して式内社といって全国で2861社あります。相模国には13の神社名がのっています。当社はその一つです。このことから寒田神社は県西地区では唯一の式内社で、延喜式の完成当時すでに有力な神社として鎮座していたことが分る古社です。社伝では仁徳天皇3年(315年)の御創建で、古来より篤い信仰を集めていた由緒ある神社です(石碑文)

d0183387_23425097.jpg
寒田神社のカシ(かながわの名木100選)
幹はまっすぐに伸び県内のカシ類の中では最も樹高の高いものである。イチイガシは県内ではきわめて少なく貴重である。樹高:30m 胸高周囲:3m 樹齢:約500年(推定) イチイガシは関東南部から九州に分布する常緑高木である。樹高30m、胸高周囲5m、樹齢約1000年に達するものもあるといわれている。(神奈川県)

d0183387_23422901.png
松田大名行列-松田町重要無形文化財指定
寒田神社大祭典に江戸時代より行われており、その起源は詳かでないが文政13年徳川幕府に差し出した「人別一紙目録」にはその編成、服装等詳細に記されており、以来幾星霜幾多の変遷を経てきたが、明治初期藩制廃止に際し小田原城主大久保家の奴振りの師範を招いて指導を受け、一層充実し小田原藩十一万三千石の格式により今日まで受け継がれてきた。昭和46年同保存会が主軸となり衣装、調度品並びに御駕籠を新調、保存会員の拡大を図り益々盛大となってきた。演技の中心は奴振りで行列のかけ声と共に演技振りを行いその変化に富み独特の風格を持っていることで世に知られている。(松田町教育委員会)

矢倉沢往還(神山・松田惣領)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26823895/


・・・松田町庶子(そし)

『松田有常松田郷に住みて領主たり、有常二子あり、太郎某は弟なれ共妻の出なるにより太郎として本家を継がせた。次郎某は妾腹なる故に兄なれ共庶子として分家す。是惣領庶子に村の名の由りて起これる所以ってなり、此れ以前は一邑にして松田と称えしこと論なし』(皇国地誌)。惣領地区を「上松田」、庶子地区を「下松田」と言ったこともあったが惣領と庶子に戻っている。

d0183387_16562518.jpg
街道の風景④ 酒匂川の河岸段丘上、集落を繋いで旧道が通っています

d0183387_16594970.jpg
d0183387_16595431.jpg
石仏群                自然堤防?でしょうか

d0183387_17144077.jpg
d0183387_17145030.jpg
城光沢                旗谷沢の石仏

d0183387_17295754.jpg
d0183387_17301571.jpg
地蔵尊                 石仏群等が多い道です

d0183387_17253247.jpg
街道の風景⑤ 御殿場線の踏切を渡ると246号です/桜観音前

d0183387_17382683.jpg
桜観音/松田庶子


d0183387_17383129.jpg

桜観音
朱色の屋根が国道からもよく見えるお寺です。しだれ桜の老木が寄り添うように立っています。ご本尊の十一面観音菩薩は、奈良の長谷観音寺と鎌倉の長谷観音寺にある十一面観音像と同じ霊木を三分して作られたそうです。昭和46年に町の指定重要文化財の第一号となりました。(松田町HP)

十一面観音菩薩立像

平安時代の一本造り 高さ134.5一般には浮彫りで特に褶の部分は深彫りで彫痕が強く全体の風格に精神美がある。この十一面観音菩薩像は大和の長谷観音寺と鎌倉の長谷観音寺にある十一面観音菩薩像と共に一本の木を三分して作られたもので、行基の作であると伝えられている(松田町教育委員会)

d0183387_17464931.jpg
宝寿院/松田庶子

d0183387_17465242.jpg
宝寿院
真言宗東寺派のお寺。国道246号線を山北方面に行く途中の高台に見えるお寺です。長谷観音寺(桜観音堂)と隣り合う真言宗のお寺です。境内の庭園には多彩な植栽が施され、長谷観音寺の桜とあいまって四季折々の彩りを添えています。庭園内の階段をのぼると、東屋があり周囲の樹木を眺めることができます。(松田町HP)

d0183387_17521340.jpg
宝光寺 
真言宗のお寺です

d0183387_17564541.jpg
最明寺跡(松田山)への入口ですが、またの機会に/桜観音前


d0183387_17565147.jpg
最明寺跡
最明寺は松田山山頂付近の海抜550mの平坦地に、承久37月(1221)浄蓮上人(源延)が信州善光寺の一光三尊の仏を模写し、松田山頂に安置し創建、西明寺(最明寺)と号した。鎌倉時代には5歩に一楼、10歩に一閣といわれるほど盛大をなしたが、室町時代兵乱相続きおとろえる。文明2年(1470)鎌倉の八正寺の尊賢親王が再建を計ったがならず寺を金子郷に移転された。最明寺跡には今日も大門跡、日中坂、本堂跡、護摩堂跡、鐘突き堂跡等の地名や石碑・石仏等が安置されている。また、最明寺史跡公園内にからさわ古代瓦焼かま跡(のぼり窯)が移築されています。ここより徒歩約60分(松田町教育委員会)


・・・松田城址

d0183387_19140063.png
松田城跡想定図/説明板
松田城は鎌倉時代に松田氏によって築かれました。この地区より馬具や土器が出土しています。南北にひょうたん型に広がり、最北端の最高地(海抜約180m)のところに本陣居城址があります。(松田町HP)

d0183387_18294416.jpg
少し戻って坂を上り東名高速・城山橋を渡ります。崩されてますが右手が「下段腰曲輪」左手が「上段腰曲輪」です/城山橋

d0183387_18354987.jpg
d0183387_18333182.jpg
下段腰曲輪              上段腰曲輪(城址への道)

d0183387_19034271.jpg
説明板のある所が前曲輪2です。眼下は街道の通る松田惣領、足柄平野、相模湾が一望できます

d0183387_19040698.jpg
松田城址(松田町指定)
松田城跡は旗矢沢天神沢という二つの沢を天然の要害として利用した典型的な連郭式山城である。東名高速道路の拡幅工事時に記録保存され、上・下段腰曲輪、掘立柱遺構・柵列・井戸・溝状遺構・地下式擴・堀切が確認され、炭火穀物類・陶磁器類・カワラケ・鉄釘・古銭等多数が出土している。城郭として利用していた時期は15世紀中葉から16世紀後半頃で、秦野盆地から来た波多野氏の系譜である松田頼秀・顕秀・憲秀の頃である。松田憲秀は小田原北条氏の筆頭家老であり、松田城はその弟・新次郎康隆の持城であったとの記録が残っている。(松田町教育委員会)

d0183387_19205035.jpg
d0183387_19205390.jpg
その先が前曲輪             本郭曲輪2でしょうか
d0183387_19234274.jpg
本郭曲輪2より上段の風景です

d0183387_19295203.jpg
この上が本郭曲輪1のようですが、先もあるのでここまでにして下ります

d0183387_19571126.png
松田氏
相模国師柄上郡松田郷に発祥した藤原秀郷流波多野氏一族の氏族と、丹後を拠点とする桓武平氏流の秦行衆一族が知られている。室町時代後期に備前国西部一帯に存在した家系、室町時代に幕臣として京都に存在した家系(近年、丹後守・若狭守・豊前守・対馬守流のほう奉行集・松田氏一族は平姓であり奉公衆の波多野一族とは全く別の家系であることが判明している。小田原後北条氏に仕えた後に加賀前田家に召抱えられた相模松田家本家、その分家は結城家、徳川将軍家旗本になった家系がある。鎌倉期には相模国内に残存した波多野氏一族を統合する惣領家であったと考えられる。南北朝期から室町期にかけ、惣領制が崩壊し有力庶子家・一族が本宗家から独立していった時代であり、松田氏においてもいずれが本宗家かは定かではない。神奈川県足柄上郡松田町松田惣領にはJRの松田駅がある。Wikipedia
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

d0183387_20011106.jpg
街道の風景⑥ 酒匂川が大きく蛇行して流れます、いい風景です。右手奥の山北に向かいます/246号山北境

波多野城址の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26773255/


d0183387_01090614.gif
松田町風景散歩
松田町では丹沢系の中津川が流れ込む川音川と、酒匂川の2つの川が出会います。町の特産物である酒や農産物は、やわらかな丹沢の天然水が欠かせないと言っても過言ではないでしょう。このコースをたどることで、昔の人が川の氾濫や洪水などが起こるたびに知恵や工夫で生活を守り、神社の祭礼を行い伝統を今に伝えてきたことなどに想いを馳せる事ができるでしょう。(松田町HP)

d0183387_10071711.png
松田周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:歩行ルート 緑:矢倉沢往還 青:酒匂川)

by Twalking | 2018-06-07 14:22 | 古東海道関連(新規)