無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2018年 08月 ( 31 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 上中里駅   

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上中里駅/北区上中里
平塚神社を下ると駅です。
神社や旧古川庭園の最寄駅ですが、
確かに乗降する方が少ないですね。


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上中里駅
北区上中里一丁目にあるJR東日本の駅である。島式ホーム12線を持つ地上駅で橋上駅舎を有している。駅の立地が台地の斜面部分にあり、駅前は切り立った地形で平地面積が狭く、駅前にある施設は限られたものとなっている。また、路線南に位置する西ヶ原側の駅周辺は閑静な住宅地、路線北側の尾久側も住宅地ではあるが、尾久車両センターと京浜東北線などの線路に囲まれた特殊な立地となっており、付近に大きな商店街やまとまった商業地区はなく京浜東北線・根岸線の駅では最も乗車人員が少ない。(Wikipedia

by Twalking | 2018-08-31 20:50 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 晩夏   

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晩夏
番場公園/大栗川(八王子市堀之内)
9月は残暑長引かず、お~!
しかしスッキリはしない、う~ん。
一喜一憂の1ヶ月予報、ひとまず木陰へ。

by Twalking | 2018-08-30 21:12 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-平塚神社   

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阿形


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吽形

平塚神社/北区西ヶ原

年代はわかりませんが、
こちらのこちらの狛犬は獅子山型、
睨みが効いてます。

by Twalking | 2018-08-30 14:57 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 王子駅   

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王子駅/北区王子
東北新幹線の左を石神井川が流れます。
駅前は賑わってます、街中も面白そう、・・・、
一度、歩いてみたいでいですね。


王子駅

北区王子一丁目にあるJR東日本・東京メトロ(南北線)の駅である。築堤上に島式ホーム12線を有する高架駅。ホームの東十条寄りで国道122号(明治通り)およびその路面を通る都電荒川線を跨いでいる。京浜東北線のほか宇都宮線・高崎線列車が走行する列車線、湘南新宿ラインと貨物列車が走行する貨物線が並行する。改札口は北口・中央口・南口の3か所がある。南北線への乗り換えは北口か中央口が、都電荒川線への乗り換えは中央口が、飛鳥公園・栄町方面へ向かうには南口がそれぞれ便利である。北口ロータリーにはバスターミナルとタクシー乗り場が、南口ロータリーに面してタクシー乗り場がある。(Wikipedia


by Twalking | 2018-08-29 19:46 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お地蔵さん-無量寺   

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お地蔵さん/無量寺(北区西ヶ原)
竹林に風が通おる参道に
小さなお地蔵さん、
涼しげではあるけど、暑くないですか~???。
合掌。

by Twalking | 2018-08-29 11:19 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり飛鳥山03-王子   

日時 2018.8.17(金)
天気 晴れ


六道阿弥陀道を下ると古刹無量寺、七社神社の旧地です。
この道は中道と下道を繋ぐ支道のようですね、いい道です。
折角なので旧古川庭園にも寄ってみました。

バスが来たので王子駅に戻り、王子の謂れとなった
王子神社、王子稲荷神社に参拝しました。
音無親水公園を通って王子駅へ、ここはオアシスです。
石神井川は面白そう、歩いてみたいと思っています。


・・・西ヶ原

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街道の風景① 無量寺へ下る参道です、入口に道標が建ちます/六阿弥陀道

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六阿弥陀
阿弥陀仏を安置する六つの寺を巡拝すること。元禄(16881704)のころから行基作と伝える阿弥陀像を祀る以下の六か寺を春秋の彼岸に参詣して歩くことが盛んに行われたことに始まる。一番西福寺(東京都北区豊島、真言宗豊山派)二番延命寺(のち恵明寺に合併。足立区江北、単立)三番無量寺(北区西ヶ原、真言宗豊山派)四番与楽(よらく)寺(北区田端、真言宗豊山派)五番常楽院(調布市西つつじが丘、天台宗・移転)六番常光寺(江東区亀戸、曹洞宗)である。(コトバンク)

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無量寺山門


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無量寺
無量寺は佛寶山西光院と号し真言宗豊山派に属する寺院です。創建年代は不明ですが、調査によって14世紀頃板碑が多数確認されています。また「新編武蔵風土記稿」や寺伝等には慶安元年(1648)に幕府から85斗余の年貢・課役を免除されたことや、元禄14年(17014月に5代将軍綱吉の生母桂昌院が参詣したこと、寺号が9代将軍家重の幼名長福丸と同じであるためこれを避けて現在の名称に改めたことが記されています。本堂の正面には平安時代後期に造られたといわれる阿弥陀如来坐像が安置されています。江戸時代には江戸六阿弥陀詣(豊島西福寺、沼田延命院・現恵明寺、西ヶ原無量寺、田端与楽寺、下谷広小路常楽院、亀戸常光寺)3番目の阿弥陀として親しまれました。人々は春と秋の彼岸に極楽往生を願い、花見や紅葉狩りを楽しみながら各所の阿弥陀如来を巡拝していたようです。阿弥陀如来坐像の右手には本尊である不動明王像が安置されています。言い伝えによればある晩、忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり翌朝つかまったことから「足止め不動」として信仰されるようになりました。また、大師堂の中には恵心作の聖観音像が安置されており「雷除けの本尊」としても知られています。(北区教育委員会)

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江戸名所図会 無量寺 六阿弥陀三番 七社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

七社神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27071692/

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街道の風景② 平塚神社の向かいの旧古川庭園に寄ってみました/本郷通り

旧古河庭園
この庭園(面積307802)は英国風古典様式の本館を中心として、その前庭の欧風花壇及び池泉回遊式日本庭園よりなっております。もと古河氏の所有でありましたが、昭和304月東京都の管理するところとなりました。本館及び前庭欧風花壇は英国人ジョサイア・コンドル博士の設計によって、大正6年竣功したもので、また心字池を中心とする池泉回遊式日本庭園は京都庭師植冶の作庭によるものでありますが、ともに和洋の様式が調和した稀にみる設計というべく、その文化財としての価値もまた大なるものがありますのでこれを永く保存すると共に一般に公開するものです。本年は平成18126日の国の名勝に指定されました。(東京都)

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庭園の案内
この庭園の敷地は、元は明治の元勲陸奥宗光別宅でした。その後古河家が譲り受け、三代目当主の古河虎之助が大正3年頃に従来の敷地は本宅用地とし、新たに隣接地を買収して園としたのが始まりです。時を経て国に所有権が移り、地元の要望などを取り入れて東京都が整備したのち昭和314月から公開しました。この庭園の特徴は武蔵野台地南斜面という地形を活かし、この高台にゴシック様式の洋館を配しそのまわりと前面に斜面は明るい洋風庭園とし、連続する低地には池泉を中心とした和風庭園をつくりこれらを一体としたことにあります。設計にあたっては鹿鳴館やニコライ聖堂などを手掛けた英国人ジョサイア・コンドル18521920)が洋館並びに洋風庭園を受け持ちました。また、和風庭園は京都の平安神宮や無隣庵を作庭したことで知られる京都の著名な庭師、植冶こと小川冶兵衛18601933)の手によるもので、地形を生かした日本の伝統的な庭園を見事に造り上げています。当庭園は大正期原型を留める貴重なもので、昭和5784日に東京都文化財として指定され今日に至っていましたが、近代の庭園の中でも極めて良好に保存され、和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な庭園として平成18126日国の名勝に指定されました。(案内板)

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洋館(正面)

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石造りの洋館(大谷美術館)
英国貴族の邸宅にならった古典形式で、天然スレートぶきレンガ造り、外壁は真鶴産の赤味をおびた新小松石(安山岩)で仕上げられており、雨にぬれると落ち着いた色調を醸し出します。(パンフ)


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洋風庭園
テラス式の庭園に植えられたバラは、春と秋に見事な大輪の花を咲かせ、洋館の風情と相まって異国情緒を満喫させてくれます。秋篠宮家の長女・眞子様のお印「モッコウバラ」が石垣をびっしりと覆っています。(パンフ)

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心字池

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日本庭園
日本庭園の中心は心字池、優雅な曲線が心を癒します。大滝、枯滝、大きな雪見灯篭が周囲の緑に映えて、この庭の風情をいっそう深いものにしています。明治・大正期の庭師、植治の作として有名です。(パンフ)


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心字池
「心」の草書体を形取り、鞍馬平石や伊予青石などで造られた池。池を眺める要となる「舟着石」があり、正面には「荒磯」雪見灯篭、枯滝、石組みそして背後には築山がみられます。(パンフ)



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茶室                 馬車道


・・・岸町

岸とは本来荒川右岸にあたる一帯の村名であったが1322年(元亨2年)、現在の王子本町王子神社が勧請された際、村は王子村改称し、当時岸稲荷と呼ばれていた王子稲荷神社周辺岸の名が残されたという。江戸時代には王子村の小名として岸・岸ノ上が存在している。伝承によれば王子村は荒川の上流から見て氾濫原右岸にあたる台地であったことから古くは岸村と呼ばれた。Wikipedia

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街道の風景③ 王子駅から王子稲荷神社、王子神社などを巡ります/来住町

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王子稲荷の坂
この坂は王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられています。また江戸時代にはこの坂を登ると日光御成道があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道がありました。この道は姥ヶ橋を経て蓮沼村(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。(北区教育委員会)


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王子稲荷神社参道

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王子稲荷神社
祭神は宇氣母智之神、和久産巣日神、宇迦之御魂神です。もと岸稲荷と称し創建は不詳ですが、治承4年(1180源頼朝源義家腹巻(鎧の一種)、薙刀等を奉納したと伝え、古くから関東惣社と称したということです。社殿は寛永11年(1634)王子神社とともに幕府の手で造営され、元禄16年(1703)にも幕府によって造営され、現在の社殿は文政51822)建立によるものです。「江戸名所図会」は当時のこの界隈の賑わいを「実にこの地の繁花は都下にゆづらず」と伝えています。この神社には「額面著色鬼女図」があります。これは、天保11年(1840)江戸の住吉明徳講(東京砂糖元売商組合の祖)が柴田是真に委嘱して描かせ、業界の守護神と崇敬するこの神社に奉納した絵馬で、渡辺綱に腕を切られた羅生門の鬼が叔母に化けてその館を訪れ、すきをみて切られた腕を持って逃げる姿を図にしたものです。また、拝殿および幣殿の格天井に谷文晁による竜の絵があります。(北区文化財案内)

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額面著色鬼女図(国指定重要美術品)
日本画家・蒔絵師として著名な柴田是真作の額面著色鬼女図は、天保11年(18402月初午に、江戸住吉の砂糖商人の同業組合の明徳講が商圏の拡大を願って奉納した絵馬です。源頼光の家臣である渡辺綱は女に化けた茨木童子の退治に出かけ、鬼女の片腕を切り取ってしまう。画題は6日後に伯母に化けて綱の屋敷を訪れた鬼女が、腕を取り返すや否や伯母から変して目を怒らせ、口を開き疾風のごとく空中に飛び去る様子を描いてます。麗美な衣装とグロテスクな面貌との対照が場面の凄みを高め、人々を慄然とさせ、是真の名を世に知らしめる契機になったと伝えられます。王子稲荷神社は江戸時代には関八州稲荷の惣社とも称され、江戸の人々の崇敬を集めましたので、このほかにも谷文晁筆の板絵着色の竜図や数多くの文化財が保存されています。(北区教育委員会)写真:大鳥居

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江戸名所図会王子稲荷神社(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用』


・・・王子

王子という地名については『新編武蔵風土記稿』によれば、現在の岸町周辺にあたる岸村が鎌倉時代後期の元亨2年(1322)、豊島氏がこの地に紀伊
牟婁郡(むろぐん)熊野若一王子を勧請したことから王子村改称したことが起こりとされる。これが現在の王子神社であり、往時神社の田楽として著名な北区指定無形民俗文化財「王子田楽」は王子宮勧請の際に創生された魔除けの田楽芸能とされる。江戸時代になると王子村の中心には日光御成道(岩槻街道)が通って江戸の市街と直結され、18世紀には八代将軍徳川吉宗によって飛鳥山に桜が植えられたことをきっかけに、江戸市民が頻繁に足を運ぶようになった。飛鳥山の花見人気とともに、王子村の岸にある王子稲荷神社がもともと東国33ケ国(東海道の15国、東山道の11国、北陸道の7国)の稲荷社の頭領を自認していたこともあってか参拝客が増え、料理屋や茶屋が立ち並んで、江戸郊外の手軽な行楽地として人気を集めた。狐火の伝承をもとに毎年大晦日には狐の行列が催される。Wikipedia抜粋

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街道の風景④ 街道松でしょうか、なかなか風情のある街並です/王子本町

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王子神社大鳥居
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王子神社境内

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王子神社
御祭神:伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大御神、速玉之男命、事解之男命
元享
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年(1322)豊島郡を支配していた豊島氏が熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し若一王子宮として祀られるようになりました。これにより村名が岸村から王子村に改められ王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州地名に擬したとの説があります。王子神社は豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進をうけ、江戸時代には徳川家康が社領として200石を寄進しました。これは王子村の村高の3分の2にあたります。別当寺は王子神社に隣接していた禅夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に休息する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、3代将軍家光は社殿を新造し林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も5代綱吉、10代家治、11代家斉が社殿の造営修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ摂末社も17を数えました。紀州徳川家の出であった8吉宗は紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。この後、花見の名所となった飛鳥山や王子神社周辺は江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。特に713日に行われた王子神社の祭礼は「槍祭」ともよばれ、小さな槍を買い求める人や田楽躍を見物する多くの人で賑わったことが見物記などからうかがえます。明治時代にはいると明治元年(1868)准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方守護とされました。戦前の境内は「太田道灌雨宿りの椎」と呼ばれた神木をはじめ多くの樹木が茂っていましたが、戦災で焼失したため境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は氏子一同により権現造の社殿が再建され現在の景観に至っています。末社:関神社 蝉丸法師を祭神とし、理容業者により信仰されている全国でも珍しい「神」の祖神です(北区教育委員会)
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「若一王子縁起」絵巻(模本)/説明板

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「髪の祖神」関神社由緒略記 
御祭神:蝉丸公 神霊・逆髪姫 神霊 ・古屋美女 
神霊 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌で有名な「蝉丸公」は延喜帝第四皇子にして和歌が巧みなうえ琵琶の名手であり又 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代ここ「王子神社」境内に奉斎したのが当「関神社」の創始なり。昭和二十年四月十三日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和34524日これを再建せり。(王子神社 宮司)

東海道・関蝉丸神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/21593969/

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江戸名所図会 王子権現社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景⑤ 音無川に架かる音無橋、下の渓谷が音無親水公園です/本郷通り

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音無橋
音無橋の名の由来は架橋されている石神井川に求められる。石神井川は多摩地方から東流し、北区においては隅田川と合流するが、王子権現付近より以東の路線はかつては瀧野川あるいは音無川と呼ばれていた。音無川の名紀州熊野権現本宮近くにある音無川に因んだものである。本橋は昭和5年の架橋以来、周辺の交通の便を確保するとともに地域の発展の要として機能している。(碑文)

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音無親水公園

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音無親水公園
音無親水公園は小平市の東部を源にして隅田川に注ぐ石神井川旧流路に整備された公園です。石神井川北区付近では「音無川」呼ばれ親しまれ、古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など四季の行楽の名所、景勝の地でした。しかしながら、戦後の経済の復興・発展とともに石神井川も生活排水などで汚れた川となり洪水による被害を防ぐ目的で、昭和30年代から始まった改修工事によって緑の岸辺は厚いコンクリートの下へと消え、典型的な都市河川となりました。この改修工事飛鳥山公園2トンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行われ、残された旧流路に「かつての渓流を取り戻したい」として音無親水公園ができました。音無親水公園は全国の都市公園の模範たる公園として「日本の都市公園100選」に選ばれています。都内では、国営昭和記念公園、日比谷公園、上野公園、水元公園、代々木公園が選ばれており園内には記念碑があります。(北区飛鳥山博物館HP)

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音無親水公園マップ江戸

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名所図会音無川(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景⑥川沿いに進むと王子駅、都電荒川線も走っています/王子駅

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王子駅周辺マップ


・・・資料ファイル
北区飛鳥山博物館(03-地形の成りたち)

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地形の成り立ち(原始)
今から1213万年前の最終間氷期にだったこの地は、8万年前以降最終氷期を迎え陸化します。その後、富士・箱根火山の噴火により大量の火山灰が降下し武蔵野台地のもとになる起伏をつくりました。また、古利根川古荒川が低地部を刻み始めました。1万年前以降の後氷期になると気候の温暖化により再び海面上昇し、低地部は奥東京湾と呼ばれると化しました。又、石神井川不忍池方面から現在の方向に流路を変えました。その後、海は退き現在の地形のもとがつくられました。(説明パネル)

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有楽町海進と石神井川の河川争奪

後氷期に入り今から6000年前をピークに現在よりも海面が数mほど上昇しますが、この急激な海面変化を東京地区では有楽町海進と呼びます。現在武蔵野台地を東西に流れ、王子から低地へ出ている石神井川が、かつて王子付近で南東に曲がり不忍池方面へと流下していたことが以前から指摘されていました。近年、石神井川下流の流路が現在のコースをとった時期は、有楽町海進最盛期頃であることが分ってきました。海進によって台地の崖ぎわが急速に後退した結果、石神井川は王子付近崖端浸蝕をひきおこし、河川争奪を起こして流路を変えたのです。(展示パネル)

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縄文時代の河川争奪説
1994年北区教育委員会の中野守久らは石神井川の流路変遷時期を特定するため、現・石神井川から離れてすぐの谷田川の谷底低地にてボーリング調査を行いその結果を発表した。彼らは山手層(本郷層)の上位に泥炭質粘土からなる沖積層を発見し滝野川泥炭層と命名、年代測定によって約7400年前から約1000年前までに堆積したものと分かった。中野らは、滝野川泥炭層は石神井川下流部が現在の流路をとるようになってから、旧河床が沼沢地となった環境で形成されたと考えた。また、石神井川本郷台東端で縄文海進(6500-5500年前)に形成された埋没上位波食台(中里遺跡発掘の際に発見された)を侵食していないことなどから、縄文海進最盛期より後に河川争奪が起こったと推定した。これらのことから、石神井川は縄文海進最盛期に本郷台の崖端侵食に起因した河川争奪を起こし、流路を奪われた谷田川上流部では沼沢地となり滝野川泥炭層が堆積し、王子方向へと流出した新河流は河床を深く掘り込んで峡谷を作ったと結論づけた。北区飛鳥山博物館では中野らの研究成果に基づき縄文時代の河川争奪説の解説が展示されている。Wikipedia抜粋)

有楽町海進
関東平野では65005500年前、大阪平野では50004000年前などで、その頂面高度は現海面上05mである。東京の下町低地は
有楽町層という海成層から構成されているが、この地層は溺れ谷埋積した有楽町海進と命名されている海進による堆積物である。その深度2030m付近には上・下部層を境する不整合がみられ、下部は晩氷期(2万~1万年前)上部は後氷期(1万年前以降)の海進によるもので、この後者が縄文海進にあたっている。(コトバンク)

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地下鉄南北線にみる北区の地質縦断面

北区管内をほぼ南北に通る地下鉄南北線は駒込駅から王子駅までは武蔵野台地の下、王子駅から赤羽岩淵までは東京低地の下を通っています。台地と低地で構成される北区の地質を路線に沿った縦断面図で見てみましょう。台地で一般にみられる関東ローム層低地では地表近くには見られません。これは低地では後氷期の有楽町海進によって厚いシルト質の海成堆積物覆われ埋没したからです。また、低地では台地の下層にみられる砂質の山手層は堆積していません。しかし、最終間氷期の海成堆積物である東京層は台地と低地両方に堆積しています。(展示パネル)

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貝塚からわかること
貝塚は食料とするために縄文人が海に行って採取した貝の貝殻を集めた場所です。貝塚の貝の種類を時期ごとに比べると、海の移り変わりが分ります。西ヶ原貝塚の縄文時代後期の貝層はハマグリが多いですが、縄文時代晩期の貝層はヤマトシジミがその大半を占めています。つまり、ハマグリが棲む環境からヤマトシジミが棲む環境へと変わったのです。ヤマトシジミ淡水海水の混じったところに生息します。このことは海が退き、川が注ぎこむ河口域へとなったことを示しています。(展示パネル)

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西ヶ原貝塚剥ぎ取り標本(縄文時代晩期)
標本の上部には近代の錯乱が及んでいるが、それ以外は良好な状態。貝層は土をほとんど含んでいない純貝層。その大半はヤマトシジミでハマグリやカキ、オオノガイ、アカニンなども含まれる。(展示パネル)

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中里貝塚
中里貝塚は縄文時代中期の浜辺に形成された貝塚です。巾100m長さ500mから1kmに及ぶ範囲に広がり、貝層は厚い所で4.5mにもなります。この貝塚の特徴はその巨大さだけでなく、貝の種類がカキハマグリにほぼ限定されて魚骨や獣骨が混ざらないこと、土器や石器といった道具類がほとんど出土しないことにあります。周囲に住居なく一般的な貝塚とは異なる貝塚です。(展示パネル)

by Twalking | 2018-08-28 21:35 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 子守犬-七社神社   

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阿形

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吽形

七社神社/北区西ヶ原
「子守犬」と書いて「こまいぬ」
阿吽とも子を抱いて戯れているよう、
面白いですね、明治26年の奉納だそうです。


子守犬
『本殿前のこま犬はふところに小さな子犬を守るように抱いていることから「子守犬」と呼ばれ、向かって左側の雌・右側の雄ともに子宝・安産・家庭円満のご利益があると云われています。左の雌の子守犬をお母さんが、右の雄をお父さんが撫でて拝むことで安産のご利益にあずかると云われています』(七社神社HP)


by Twalking | 2018-08-28 21:15 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 唐木田駅   

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小田急線唐木田駅/多摩市唐木田
あまりの暑さに、ひと駅電車で。
もわ~んとして蒸しますね・・・、
この湿気は堪えます。

by Twalking | 2018-08-26 22:28 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 イエライシャン   

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イエライシャン/多摩市グリーンライブセンター(多摩中央公園)
昔、お世話になった神楽坂のバーの名前が「夜来香」
歌の方はママが唄ってくれたので覚えてますが、
花を見るのは初めてです。可愛い花ですね!


イエライシャン (夜来香)

ガガイモ科テロスマ属の常緑蔓性低木。中国南部からベトナム、インドにかけて分布しています。細い茎は5mにも伸びます。薄い葉は心形で対生し長い柄があります。8月から10月ごろ葉腋に散形花序をつけ、淡い黄緑色の花を咲かせます。芳香があり、とくに夜になると香ります。香水としても利用されるているようです。別名で「トンキンカズラ(東京葛)」とも呼ばれます。(植物図鑑)

by Twalking | 2018-08-26 11:51 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり飛鳥山02-西ヶ原   

日時 2018.8.17(金)
天気 晴れ

豊島郡衙や平塚城址の遺構は土中に眠っているので、
飛鳥山博物館の展示物をじっくりと拝見し、
資料室で関連の資料なども伺って閲覧させて頂きました。

すぐには頭に入りませんが、この辺りかな・・・
と思いながら現地を散策してみましたが、
深い緑と地形が面白いですね、いい所です。
いずれまた「古東海道」で訪ねてみたいと思います。


・・・西ヶ原/北区

北区の南西端部の武蔵野台地に位置し、豊島区との区境を成すかつての山の手の住宅街である。地区の中央を南北に本郷通りが縦走する。2000年に府中市に移転するまで東京外国語大学は西ヶ原に校舎があった。江戸時代
に日本橋から日光まで将軍が日光東照宮に参拝するために整備された日光御成道一里塚が設置されていた。現在の西ヶ原の始祖は1889年(明治22年)の町村制施行時点における北豊島郡滝野川村大字西ヶ原である。滝野川町は1932年(昭和7年)に東京市へ編入され滝野川区へ移行し、大字西ヶ原は西ヶ原町となる。1947年(昭和22年)に滝野川区は王子区と合併し北区が成立。Wikipedia


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街道の風景① 本郷通りのセンターに聳える一里塚跡/西ヶ原

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西ヶ原一里塚(国指定史跡)
慶長9年(16042月、江戸幕府は江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。西ヶ原一里塚は本郷追分次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通が主要なルートにあたりますが、岩淵宿から川口宿に渡ると鳩ヶ谷大門岩槻の各宿場を北上して幸手宿日光街道合流しました。将軍日光東照宮社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。旧道をはさんで一対が現存していますが、これは旧位置保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正56月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑にはこうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。(東京都北区教育委員会)

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二本榎保存之碑
一里塚に建つこの碑は大正初期西ヶ原の一里塚が東京市電の軌道付設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。(東京都北区教育委員会)

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二本榎保存之碑 公爵徳川家達題
府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものありこれを二本榎と云ふ 是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす 往昔群雄割拠の世道路久しく乞梗塞せしか 徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ 然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず今存するもの甚少し 二本榎は実に其存するものゝ一なり
 
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先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが 幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり 法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り 瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり 男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり 阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す 今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる 予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり 又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し 惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし 幕府治平を講ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり 老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん 後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん 大正五年六月 文学博士 三上参次撰阪 正臣書廣群鶴刻 (裏面)此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり 虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり 今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり(一部原文を現代かな漢字に直しています) (北区飛鳥山博物館HP)

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街道の風景② 一里塚脇の参道から七社神社へ/西ヶ原

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七社神社鳥居、もとは別当寺の無量寺境内にあったんですね

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七社神社 
この神社の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度売命、市寸島比売命、品陀別命(応神天皇)、帝中日子命(仲哀天皇)で、由来については寛政5年(1793)火災により社殿古記録等一切が焼失したためよくわかっていません。「新編武蔵風土記稿」には「村ノ鎮守トス」と記され、古くは別当寺であった無量寺境内にあり、寛政6年再建後もそこに祀られていました。「江戸名所図会」にも無量寺の高台に描かれています。明治初年神仏分離の際、神明宮社地(現在の地)に移され(明治3年)、西ヶ原の総鎮守として奉祀されるに至ったものです。末社には神明宮、稲荷神社、熊野神社、菅原神社、三峯神社があります。神明宮は天照大神を祭神としており、もともとこのにあった神社ですが、七社神社移転により末社となったものです。現在、切株が残っている杉の古木はその神木です。また旧社務所は村の青年会の発起で渋沢栄一、古河市兵衛を筆頭とする諸氏の寄附により大正9年建てられたもので公会堂を兼ねたものでした。なお、この境内から隣地にかけての一部は七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器、弥生式土器、土師器などが発見されています。(境内掲示板)

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旧一本杉神明宮社地
現在の七社神社の社地はかつては神明宮社地でした。神明宮は天照大神を祭神とし、神木が樹齢千年以上といわれる杉であったことから一本杉神明宮と呼ばれていました。明治初年七社神社がこの地に移転してきたことにより神明宮は七社神社の摂社となり、天祖神社と呼ばれるようになりました。杉の古木が枯れたため、明治44(1911)に地上3.4mのところを残して伐採されましたが現在もその切株は残っています。七社神社は江戸時代には七所明神社といい西ヶ原村鎮守で、別当である無量寺の境内にありました。祭神は紀伊国高野山四社明神を移し祀り、これに天照大神・春日・八幡の三神を合祀したものといいます。詳しい由来は寛政5(1793)の火災によって社殿をはじめ古文書・古記録等を焼失したためよくわかりません。神仏分離によって明治初年に現在地である神明宮社地に移されました。現在の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度売命、市寸島比売命、品陀別命、帝中日子命の七神です。境内には摂社となった天祖神社の他に末社として稲荷神社、菅原神社、三峰神社、熊野神社、疱瘡社があります(北区教育委員会)


・・・豊島郡衙跡/滝野川公園

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街道の風景③ 左手が正倉のあった国立印刷所、右が地下鉄西ヶ原駅です/本郷通り

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滝野川公園の入口に御殿前遺跡の碑があります、現地にあるのはこれだけです。

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御殿前遺跡
御殿前遺跡は、先土器時代から近世にわたる複合する遺跡です。なかでも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の郡衙(地方役所)と推定されています。古代の武蔵国には21の郡が置かれ、現在の東京都は豊島郡・荏原郡・多麻郡にあたります。この豊島郡衙の中心部分がこの一帯です。現在は遺跡周辺には、滝野川公園、滝野川体育館、地震の科学館(防災センター)、消防署などがあります。滝野川公園は滝や水路で水遊びのできる公園です。公園の奥には近代農業の研究施設・農事試験場跡地の碑があります。(北区飛鳥山博物館HP)

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郡庁跡が眠る体育館          この左手が印刷局です

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農業技術研究発祥之地
明治264月農務省農業試験場がこの地・東京府北豊島郡瀧ノ川村西ヶ原に創設され、我が国の農業技術研究は発祥した。爾来、87年、その間 昭和254月農業技術研究所と改称される等、組織機構の変遷はあったが「西ヶ原」は常に近代農業を先導し、我が国における農業関係試験研究機関の母体として多くの輝かしい業績により農業の発展に寄与してきた。昭和551月国立試験研究機関の筑波研究学園都市への移転に伴いこの地での研究を終わる。「西ヶ原」の栄光の不滅を記念し記念碑を刻む(碑文)


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御殿前遺跡
遺跡の概要
御殿前遺跡は平塚神社付近から国立印刷局東京工場付近にかけて広がる非常に広大な遺跡で、JR京浜東北線上中里駅や東京メトロ西ヶ原駅からは至近距離にあります。発掘調査は1983年の一次調査以来、北区教育委員会等により断続的に行われ、旧石器時代の遺物集中地点・縄文時代中期後半の集落跡・弥生時代後期の集落跡等が見つかっています。特に、古代の武蔵国豊島郡衙跡の発見された遺跡として著名です。豊島郡衙は古代の役所跡で、この一帯が豊島郡(千代田・文京・台東・荒川・豊島・北・板橋・練馬・新宿区の区域)における行政上の中心となっていたことがわかってきています。

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発掘調査はすでに終了していますが、今回は7世紀末頃に武蔵国豊島郡衙で操業していたと思われる鍛冶工房跡を紹介します。本遺構は長大な竪穴状遺構で、長さは約14.1m、幅は約4.9mあります。鍛冶炉跡は6基確認されており、すべて鉄床石の据付穴とセットで見つかっています。これらが同時に使われていたかどうかについては今後の検討が必要ですが、竪穴状遺構内に複数の鍛冶炉を二列配置し、作業単位も複数認めることができる点をふまえると「連房式鍛冶工房(れんぼうしきかじこうぼう)」と呼ばれる官営工房の一類型として捉えることができるでしょう。また、鍛冶炉跡の中にはフイゴの羽口(はぐち)(炉の温度を上げる際に用いた送風設備の一部)を装着した痕跡を確認できる例もあります。遺物としては、鍛冶作業に伴うものとして羽口(はぐち)、鉄床(かなどこ)石、鉄滓(椀形滓・粒状滓)のほかに、鉄を鍛えた際に生成される鍛造剥片などが見つかっており、工房内での一連の鍛冶作業工程を復元できる可能性があります。鉄製品の出土量は少ないですが、刀子(とうす)や武具である挂甲(けいこう)の小札(こざね)が数点見られ注目されます。古代の土器については若干出土しているのみですが、土師器の坏が主体で、畿内系土師器も含まれています。東日本における連房式鍛冶工房の典型的な例としては茨城県鹿嶋市の春内遺跡(7世紀末)があります。茨城県鹿の子C遺跡でも同様の遺構が複数見つかっていますが、これは8世紀後半の奈良時代のものであり、今回発見された連房式鍛冶工房跡は東日本では最古期に属する事例と考えられます。(20157月現在)(東京都埋蔵文化財センター)

飛鳥山博物館(豊島郡衙)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27067304/


・・・平塚城址(平塚神社)

上中里
北区の南東部に位置し滝野川地区内にあたる。東は東田端、南は中里および西ヶ原、西は西ヶ原および栄町、北は堀船および昭和町、僅かに荒川区西尾久と接する。京浜東北線の電車が走る線路を境にして南側の一丁目は武蔵野台地に属する高台であり、一方北側2丁目-3丁目は隅田川沿いの低地にあたる下町に分類される地域である。1889年(明治22年)の町村制施行時点における北豊島郡滝野川村(1913年に町制施行し滝野川町へ)大字上中里が現在の上中里一 - 三丁目の由来である。Wikipedia


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街道の風景④ 平塚神社参道入口に「平塚城伝承地」の説明板があります/上中里

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平塚城伝承地・平塚神社
平塚神社付近は平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領したを域内に埋めこの上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこにを建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城はこの地域の領主であった豊島家代々居城となりましたが、文明10年(14781月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し家光は程なく快復します。感謝した貞久はみずからの資金で平塚明神の社殿別当城官寺再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し250石の知行地を与え、この内の50石を朱印地として平塚明神寄進させました。(北区教育委員会)

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江戸名所図会 八幡太郎義家兄弟 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

『奥州征伐凱陣のころ武蔵国に入りたまひ、豊島某が住みし平塚の城に逗留ありて、あるじに鎧一領を賜りけるを、後、塚に築き収めて城の鎮守とし平塚三所明神といつきまつりしも、実に武功のしからしむるゆゑなるべし』


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平塚城の遺構
平塚城の所在地は江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』でも「今其所在定カナラズ」されており「平塚神社(北区上中里)周辺の台地」と推定されていたものの永く不明となっていた。しかし、近年周辺における発掘調査で城に関連する遺構が多数発見され始めその実態は次第に明らかとなりつつある。まず、神社より本郷通りを隔てた南西側向かいからは14世紀代のものと思われる20m以上切岸(虎口形態をとる)・径8mの井戸道路状遺構土間状遺構区画溝柵列の跡墓壙群15世紀後半)などが発見され、多数の人骨・馬骨・24点の板碑・宝篋印塔・五輪塔・瀬戸や美濃、常滑など陶器類・カワラケ・銭貨・和鏡・鉄製杏葉轡などが出土した。さらに、平塚神社より西北400mにある七社神社から本郷通り越えた南側地点では切岸、篝火の跡(北区教育委員会は「敵の夜襲に備えたもの」との見解を示している)などが確認され、神社北側からは竪堀と二間×二間の井楼櫓の跡も検出された。北東の台地縁辺にも竪堀が構築されており、東脇の前面に板張りのテラスを設けた跡、崖線に沿っては犬走り状の平場が見つかり、竪堀はこの犬走りと連結して出入り口の役割を果たしていたものと推測された。平塚神社には元禄5年(1692)に作成された神社とこれを開基した豊島氏の歴史を描く絵巻(「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」)が残され北区指定有形文化財に指定されている。Wikipedia抜粋)

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長い参道の先に社があります、いい社叢ですね

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源氏の棟梁源義家将軍を祀る平塚神社(旧平塚明神社)
(御祭神)八幡太郎・源義家命:平安後期の武将で源頼朝・義経や足利将軍家の先祖。岩清水八幡宮元服したので八幡太郎と号された。前九年の役(阿部貞任・宗任退治)、後三年の役をはじめ数々の戦を征された。「天下第一武勇之士」と称えられ、全国の武士達が臣従した。その武威は物の怪ですら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白川上皇に献上された。賀茂次郎・源義綱命:義家公の次弟。賀茂神社で元服したので賀茂次郎と号された。新羅三郎・源義光命:義家公の三弟で武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので新羅三郎と号された。笙の名手としても有名。

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(御神徳)勝ち運 立身出世(就職 昇進 事業繁栄)病気平癒 騎馬上達(交通安全)武芸(スポーツ)上達 開運厄除 心願成就等

(略縁起)平塚神社の創立は平安後期、元永年中といわれている。八幡太郎・源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ、領主の豊島太郎近義鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋めを築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得て、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たした。その後、家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官平塚明神社修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進したびたび参詣に訪れた。(説明板)

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江戸名所図会 平塚明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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城官寺山門

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城官寺/上中里
城官寺は真言宗豊山派に属し、本尊は阿弥陀如来像です。かつて平塚神社別当寺でした。平塚神社入口にある石碑に亀田鵬斎による城官寺の縁起が彫ってありました。それには甲冑塚に不思議なことがあるなどしたため、その傍に庵を建て僧を置いてこれを守らせたことに始まると記されていました(碑文は明治初年削りとられています)。元禄5年(1692)の縁起(同寺住職真恵によるもの)には、寛永17年(1640将軍家光が鷹狩りの途次、平塚神社を見て誰がここまで造営したのかと尋ねたところ、将軍が病床にあったとき山川城官という者が平塚神社に平癒を祈願し、叶ったことを喜びここまでにしたと村長が答えたので、城官を召して社領として50石、城官の知行地として200石を与え、寺号を改めて平塚山城官寺安楽院と称するよう命じたことが記されています(新編武蔵風土記稿)。

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この寺院の墓地には昭和113月、都の旧跡に指定された多紀桂山一族墓があります。多紀氏は丹波康頼の後裔で家康に仕え、元孝の代に奥医師となりました。多紀氏を名乗ったのも元孝の代で、それまでは金保氏でした。その子元悳(藍渓)は明和2年(1765)神田に躋寿館という医学校を建て医学教育を始めました。寛政2年(1790)躋寿館は幕府立の医学館となり、元恵はその教授に任ぜられました。その子元簡(桂山)元簡の子元胤らも奥医師として知られておりいずれもこの寺院に葬られました。亀田鵬斎は江戸時代後期の儒者で荻生徂徠の古文辞学を排撃し、朱子学を重んぜず寛政異学の禁では異端の筆頭とされました。書をよくし、草書は近世を通じての名手といわれています。(北区文化財案内)

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街道の風景⑤ 蝉坂を上中里駅へ下ります

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蝉坂
六阿弥陀道(ろくあみだみち)の途上でもある蝉坂(せみざか)という名称は江戸時代の後半にはあったようで、幕府の編纂した地誌『新編武蔵風土記』上中里村の項に「平塚明神ノ傍らニアル 登り三・四十間」とあり、このあたりから平塚神社参道に沿って約54mから72m余を登る坂道だとあります。坂を登りきって少し歩くと日光御成道と合流しますが、西ヶ原一里塚の方向へ右折してすぐに左折すると六阿弥陀第三番札所無量寺へと向かう道に入ります。明治時代初期の『東京府志料』では「或云(あるいはいう)攻坂(せめざか)ノ轉訛(てんか)ナリト」と室町時代の平塚城をめぐる合戦を彷彿とさせるような坂名の由来を記しています。現在の坂道は昭和187月昔の坂を拡幅して出来た道です。(北区教育委員会)

城周辺に残る伝承・地名

平塚神社付近にはかつて「角櫓」「外輪橋」などの小名があったとされ、また神社東側にある「蝉坂」の名は道灌が攻め上った「攻め坂」から転訛したものとも言われている(『新編武蔵風土記稿』『東京府志料』)。そのほか「二町ばかり東」または現在の農林水産政策研究所内には「勝坂」と呼ばれる坂があって、地元では「道灌は蝉坂から攻め上って勝坂より凱旋した」と伝えられていたという(高橋源一郎『武蔵野歴史地理』)。(Wikipedia抜粋)


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街道の風景⑥ 崖ぎわの線路に沿って「飛鳥の小径」がついています/上中里駅

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飛鳥の小径」マップ
(黄:飛鳥の小径 橙:本郷通り 青:石神井川 赤角:豊島郡衙跡)

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飛鳥の小径
この小径は桜の名所として親しまれている飛鳥山公園を中心に、上中里駅および王子駅周辺の緑と歴史的文化財をめぐる散歩道です。四季折々の変化を見せる緑の中に自然のささやきと歴史の香りが漂います。しゃれた小径をのんびり散策し、潤いと安らぎのある空間を楽しんでください。(案内板)

・・・・
資料ファイル
北区飛鳥山博物館(02-豊島氏関連)

豊島氏
鎌倉から室町時代の武家。平姓秩父氏の一族として武蔵国豊島郡名字の地とする。豊島郡衙の推定地に近い平塚城(東京都北区上中里)が初期の館跡と考えられている。鎌倉時代初期の豊島清光清元が正しく、江戸氏など平姓秩父氏一族とともに源頼朝に従った。その子有経(ありつね)紀伊朝経(ともつね)土佐守護を務めるなど有力御家人として活躍した。1368年(応安1)に平一揆(へいいっき)の乱に参加したために一時的に勢力を失い、関東管領上杉氏に従うようになる。以後、上杉方として享徳の乱等に参戦したが、1477年(文明9)の長尾景春(かげはる)の乱の際、当主勘解由左衛門尉(かげゆさえもんのじょう)(泰経・やすつね)は景春に与同し上杉氏から離反した。豊島氏は江古田沼袋(中野区)や石神井城(練馬区)で太田道灌と戦うが敗北、小机城(横浜市)でも敗れ豊島氏本宗家は滅亡した。(コトバンク)

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展示風景① 中世の始まりと豊島郡

中世の始まりと豊島郡(平安時代中期~鎌倉時代)

10世紀ごろになると次第に律令制度がゆるみ地方の国や郡の仕組みは変化しました。やがて11世紀になり豊島郡を支配したのは中世領主・豊島氏です。豊島氏は秩父平氏一族の武士団で、かつて豊島郡衙のあった地域周辺に本拠を置き、水田の広がっていた低地の清光寺近くにも拠点をおいて農村を開発しました。力を蓄えた豊島氏は平安時代末期になると平家打倒の兵を挙げた源頼朝に味方し、武家政権・鎌倉幕府成立に貢献しました。(展示パネル)


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武士の起こりと秩父平氏
桓武天皇の子孫・平将常(まさつね)は武蔵国秩父郡に定着し秩父氏を名乗る武士団を形作り、やがて荒川・入間川・多摩川などの大きな川沿いに一族を広げました。前九年の役(105162)・後三年の役(108387)で中央から派遣された源頼義とその子義家は関東の武士を率いて戦い、秩父氏の一族・豊島氏もこれに従いました。『平塚明神幷別当城官寺縁起絵巻』には後三年の役から帰る途中、豊島氏の館に泊まった源義家が鎧と十一面観音を豊島氏に与える場面が描かれ、中央の武士団のかしらである源氏と豊島氏との結びつきが知られます。(展示パネル)
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平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(複製)元禄5年(1692)平塚神社所蔵/展示資料


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源頼朝と豊島氏
諸国の武士たちが平氏への不満を強める中、治承4年(1180)源頼朝は平氏政権を倒す決意をしました。いったんは石橋山の合戦で敗れた頼朝でしたが、房総半島に渡り関東の武士を配下に兵力を増やし武蔵国へ向いました。武蔵国豊島郡を本拠とする豊島氏と同族の下総国葛飾郡の武士団・葛西氏はいち早く頼朝味方し、頼朝の武蔵国を助けたことが『吾妻鏡』に記されています。頼朝は豊島氏の勢力地である「豊島御庄滝ノ河」にも陣を張ったと伝えられています。やがて鎌倉を拠点にする武家政権への第一歩が築かれました。(展示パネル)

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豊島清元
代々、源氏の家人になり前九年の役や後三年の役で源義家に保元の乱で源義朝の配下で参陣している。父は豊島康家。治承4年(118093日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は安房国で再挙し、源氏重代の家人である清元とその子の葛西清重に陸路が塞がれているのなら海路でもって参陣するよう求めている。同族の江戸氏や河越氏は石橋山の戦いで平氏方だったが豊島氏はこれに加わっておらず清元、清重父子は格別に信頼されていたようだ。この時は参陣できなかったが、頼朝は房総半島を進軍して千葉常胤、上総広常がこれに加わり3万騎の大軍に膨れあがり隅田川に達した。102清元清重父子頼朝の陣に参上する。頼朝が源氏の本拠である鎌倉を占拠すると御家人に列した。清元の子の清重は優れた武将で頼朝から重用され、関東制圧に武功を立て源範頼に従って九州まで渡っている。長男の有経(系図類では孫)は源義経に従い紀伊国へ進駐して紀伊守護人に任じられた。(城郭)豊島清光館:隅田川の岸辺に建つ清光寺が豊島清光の館跡と言われる。平塚城:現在の平塚神社が城跡といわれている。清光とその子の朝経の時の居城。居城が石神井城に移ると支城となった。石神井城:現在の石神井公園の一角にあり三宝字池と石神井川に挟まれた台地上に築かれた。三宝寺池のほとりに城址碑がある。(Wikipedia抜粋)
写真:木造豊島清光坐像(複製)寛保2年(1742)清光所蔵/展示資料

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展示風景② 土地に根ざす豊島氏

土地に根ざす豊島氏(室町時代~戦国時代)
豊島氏はもともとは荒川を望む武蔵野台地沿いの縁に本拠をおき、全国各地の守護に任じられた鎌倉幕府の有力御家人でした。しかし鎌倉時代中期以降、豊島氏は幕府有力者である執権北条氏に圧倒され、石神井川流域豪族との結婚や入り婿婚によってその領地を受け継ぎ、やがて南北朝時代から室町時代にかけて次第に豊島郡内に強い支配力を持つ、国人領主へと変化しました。(展示パネル)

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石神井川をさかのぼった豊島氏
鎌倉時代後期、石神井郷(練馬区)の地頭・宇多重弘は男性の跡取りがなく3人の娘たちに領地が譲られることになりました。南北朝時代頃までは女性に財産権があり、やがてそれらの領地は結婚した相手先の家に伝わり、宮城政業(まさなり)の妻「箱伊豆」の領地は豊島宗朝が継ぎました。その結果、豊島氏は石神井川の水源に近い三宝寺池周辺に石神井城を築き拠点を移したのでした。(展示パネル)









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豊島氏の滅亡と太田道灌
文明8年(1476)山内上杉氏内部の主導権をめぐって不満を持った長尾景春は、主君の山内上杉顕定(あきさだ)に対して反乱をおこしました。景春に味方した豊島氏は平塚城(北区)・練馬城・石神井城(練馬区)を中心に、江戸城と川越城を拠点にした太田道灌と対立しました。「太田道灌状」には文明9年(1477)の江古田・沼袋(中野区)合戦、翌10年当主の豊島勘解由左衛門尉は再挙を図ったものの、再び平塚城で道灌に敗れたことが記されています。(展示パネル)
写真:木造大田道灌坐像(複製) 元禄8年(1695)静勝寺所蔵/展示資料

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by Twalking | 2018-08-26 11:03 | 東京散歩(新規)