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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 江戸城外濠(6)江戸歴史散歩コーナー(市ヶ谷駅)   

日時 2018.9.28(金)
天気 晴れ

久し振りの晴れ間、台風の来る前にと思って
本郷台地から上野公園方面へ出かけました。
市谷で南北線に乗換えて本駒込駅へ向かいます。

南北線へのコーンコースを行くとミニ博物館、
???・・・と思って寄ってみると外濠の展示、
これは、素晴らしい!折角なので記録させて頂きます。



・・・江戸歴史散歩コーナー/南北線市ヶ谷駅コーンコース

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新見附濠、新見附橋から市ヶ谷方向の景観です

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市ヶ谷門(市ヶ谷見附)
JR市ヶ谷駅前付近に存在した。別名「桜の御門」と呼ばれ、春には桜が人々の目を楽しませたという。現在はバラバラになった組石を数個遺すのみとなっている。なお、南北線駅に通じる地下コンコース内には濠の石組みが再現されているが、説明板によればこれは雉子橋(日本橋川)付近から出土した石を移築したものである。Wikipedia

市ヶ谷周辺の関連記事はこちらへ(
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展示風景(全景)フローアーには「安政6年江戸大絵図」、壁にパネル解説が展示してあります

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江戸城の石垣
雉橋(千代田区九段西)から出土した石材を使って、江戸時代初期(17世紀初頭)の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積みの技法を再現したものである。当時、石を割るには割りやすいように石の目にそって石切ミノで「矢穴」を掘り、これに「」と呼ばれる楔(くさび)とその両面に「せりがね」と呼ばれる薄い鉄板を差し込み、「玄翁」(げんのう)で矢を叩いて割った。石材には切り出し地、石積みを行った藩や石工等の刻印と共に石割の際の矢穴が残っている。(説明板)


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石曳図/大田愛子氏蔵

小田原藩・大久保家が幕府へ献上する石材の切り出しから運搬までの手順を描いた図。石山での石曳きのための道づくり、採石、切石の沢渡し、修羅(木のソリ)を使った石船への積み込みなど、当時の様子を知ることができる。(説明板)

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築城図屏風/名古屋市博物館蔵

徳川家康が諸大名に命じた駿府城(静岡市内)築城の様子を伝える屏風絵。慶長12年(1607)二の丸石垣構築の一部を受け持った加賀藩前田家の活躍を描いたとされる。石の大小に応じた修羅(木のソリ)、牛車、天秤棒、籠などによる当時の運搬方法、高石垣の構築方法などこの屏風から石垣構築現場の様子を知ることができる。(説明板)

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寛永3年江戸城外堀普請
寛永31636)の江戸城外堀普請(土木工事)は幕府に命じられた外様大名を中心とする113の大名によって行われた。この普請は西国大名61家の石垣方と東国大名52家の堀方の二手に分かれて進められた。下図は有力大名を組頭とする石垣方、堀方の普請(工事の分担組)を示している。工事量は各組の大名の石高に応じて決められた。(説明板)

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埋浚(ほりざらい)丁場図

江戸城外堀が築かれた10年後の正保21645)に幕府の命により行われた埋浚い作業分担を示す図。この埋浚いは東国6の大名によって行われた。赤坂御門から吉祥院橋(現水道橋)までの工事範囲は8つの区域(丁場)に分けられ、各区域は6家に分割された。(説明板)

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外堀工事の修復

市ヶ谷駅発掘調査では江戸時代の盛土によって築かれた外堀土手に、崩壊修復を繰り返した痕跡が認められた。排水のために設置した暗渠(地中に設けられた水路)や築き直した土手を補強する土留めなどは当時の土木技術の一端を示している。(説明板)


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玉川上水と外堀

四谷見附は玉川上水が外堀を渡り、江戸城に分水される地点であった。四ツ谷駅発掘調査では、玉川上水の木樋(もくひ・木製の水道管)や埋桝、四谷土橋にそって懸け渡された木樋(懸樋)の橋台の石垣などが発掘されている。また、外堀に水を落とすための江戸時代初期の木樋も出土した。外堀は江戸城の防備の役割だけではなく江戸の水利施設とも深く関わっていた。(説明板)

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江戸の地震跡

江戸時代の地震は江戸城の堀にも被害を与えた。四ツ谷駅発掘調査では、江戸時代に盛土された地層から地震による地割れ、地滑りや噴砂(地盤の液状化により砂が吹き上がる現象)の跡がいくつも発見された。また、幕府お抱えの石職人で石材調達等を営んだ青木家には、安政江戸地震1856)で被害を受けた江戸城の堀の石書や土手が崩壊した場所を示す図面が伝わっている。(説明板)

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南北線
品川区目黒駅から北区の赤羽岩淵駅を結ぶ東京メトロが運営する鉄道路線。路線名の由来は東京を南北に貫くことから。目黒駅から東急目黒線の日吉駅まで、赤羽岩淵駅から埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)の浦和美園駅までそれぞれ相互直通運転を実施している。7号という路線番号が示すように計画そのものは1960年代になされていたが着工は大幅に遅れ、1991年(平成3年)に部分開業、2000年(平成12年)に全線開業した。後発路線のため全体的に地中深い駅が多いのが特徴である。Wikipedia)写真:南北線市ヶ谷駅

銀座線虎ノ門駅「外濠展示室」の関連記事はこちへ(https://teione.exblog.jp/22054621/

by Twalking | 2018-09-30 15:55 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 金木犀   

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金木犀/多摩市愛宕
う~ん、いい香り・・・、
この芳香を連れてかないでおくれ~、
お願い!大風さん。


キンモクセイ(金木犀)
モクセイ科モクセイ属の常緑小高木樹で、モクセイ(ギンモクセイ)の変種。秋に小さいオレンジ色の花を無数に咲かせる。雌雄易異株であるが日本では雄株しか入っていないので結実しない。雄しべが2本と不完全な雌しべを持つ。花は芳香を放つ。芳香はギンモクセイよりも強い。中国南部原産で日本には江戸時代に渡来した。(Wikipedia

by Twalking | 2018-09-30 12:51 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『ひぐらしの里』03-根津神社   

日時 2018.9.18(火)
天気 晴れ諏

諏訪台通りを谷中寺町を通り三崎坂から
千駄木へ下ってみました。
ここはメイン通りより裏路地が面白そうです。

いつも寄れなかった根津神社に参拝しました。
さすがに荘厳な素晴らしい古社です。
千代田線が便がいいので千駄木駅へ戻りましたが、
本郷台の中腹を行く藪下通り、これもいい古道ですね。


・・・谷中


台東区上野台地北西端の地名。JR日暮里駅の西側にあたる。古くは〈屋中〉とも書いた。谷中は上野駒込の中間に位置するの意とする説などがある。江戸時代にはすでに付近の台地の上を含むかなり広い範囲が谷中と呼ばれていた。初見は戦国時代の1559(永禄2)。当時は後北条氏の家臣遠山弥九郎の所領であったが、江戸時代の谷中村は初め天領、のち東叡山中堂領となる。元禄年間(1688
1704)ころまでに大半は市街地化したが、とくに慶安年間(164852)以後、神田台方面からの寺院の集中などによって大規模な寺町が成立し、俗に〈谷中八丁に九十八ヵ寺〉といわれた。(コトバンク)

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街道の風景①「谷中みち」(諏訪台通り)を南へ進みます/御殿坂上

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錻刀店(ブリキ)さん         
朝倉彫塑館(休館日でした)

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朝倉彫塑館
(国名勝・国登録有形文化財)
近代日本を代表する彫塑家・朝倉文夫の邸宅兼アトリエである。朝倉は明治16大分県で生まれ、明治4年東京美術学校(東京藝術大学)彫刻科を卒業後、当地に住居とアトリエを新築した。その後改築、増築を繰り返し、現存の建物は大半が昭和10年の竣工である。すべて朝倉が設計し銘木、竹などの材も自ら選んだ。庭との一体感に配慮した独特の空間意匠、造詣が追求され随所に彫刻家朝倉の個性を見ることができる。中庭は木造和風の住居棟と近代洋風建築のアトリエに囲まれた日本庭園で、空間の大半を水面が占めている。水面に配された5つの巨石が密度の濃い水景を創り上げ、朝倉の芸術思想の特質である自然観をもうかがえる。屋上庭園はかつて朝倉が昭和2年に自邸とアトリエにおいて開設した「朝倉彫塑塾」の塾生が蔬菜を栽培し、日常の園芸実習の場として使われた菜園であった。昭和初期に遡る屋上庭園の事例としても貴重である。昭和42年故人の遺志によって一般公開され、昭和61年には台東区に移管され「台東区立朝倉彫塑館」となった。平成13年建物が国登録有形文化財に、本館所蔵の文夫の代表作「墓守」の石膏原型が重要文化財の指定を受けた。平成19年には建物と庭一帯が国名勝の指定を受けた。(台東区教育委員会)

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龍泉寺山門/谷中 日蓮宗のお寺さんです

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観音寺山門/谷中


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観音寺
徳川家康が江戸幕府を開いて間もない慶長16年(1611)に創建された、奈良県桜井市初瀬にある長谷寺を総本山とした真言宗豊山派の寺院です。江戸時代の区画整理によって延宝8年(1680)に神田から現在地に移転し、以来谷中寺町の一角を形成しています。現存する築地塀は幕末の頃に作られたもので国の登録有形文化財に指定されており、谷中のシンボルの一つとして多くの方に親しんで頂いております。また、観音寺は赤穂義士ゆかりの寺と知られ、境内に四十七士の供養塔があり、『忠臣蔵』のファンの方など数多くの方が当寺を訪れています。観音寺門前の道は、不忍池からひぐらしの里(日暮里)まで通じるいわゆる「谷中のみち」で、江戸時代には文人墨客や粋人たちが四季おりおりに杖をひいたと言われ、現在でも江戸情緒の残る谷中・根津・千駄木を「谷根千」と呼び、多くの方が観光を楽しんでおられます。(観音寺HP)

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赤穂浪士ゆかりの寺
赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として広く世に知られている。四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とはのち当寺第6世となった朝山大和尚のことである。寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作『元禄快挙録』には勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716観音寺改称した。本堂に向って右側にある宝篋印塔四十七士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種子(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永4年(17073月吉日、長福寺6朝山の名を刻む。(台東区教育委員会)

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観音寺築地塀
観音寺は明和9年(1772)の火災で灰燼に帰した後、文政年間頃に再興された。築地塀は境内の南面を画する延長37.6mのいわゆる練り塀で、瓦と粘土を交互に積み重ねて造り潜り戸一所を備える。浅草と並ぶ江戸有数の寺町であった当時の面影を伝える。(文化遺産オンライン)

赤穂浪士ゆかりの地-泉岳寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24491381/


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長安寺山門/谷中

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長安寺
臨済宗妙心寺派長安寺は老山和尚禅師(享保91724年寂)が開山、長安軒として安藤右京亮屋敷内に創建、正徳2年(1712)大道山長安寺の寺号が認められ、当地に移転したといいます。



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長安寺板碑(台東区登載文化財)
死者の菩提を弔うためあるいは生前に自らの死後に供えて供養を行う(逆修という)ために建立した塔婆の一種。板石塔婆・青石塔婆ともいう。関東地方では秩父地方産の緑泥片岩を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。頂上を山形にしその下に二段の切り込み(二条線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、仏像または梵時の種字(阿弥陀如来の種字<キリーク>が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ。長安寺には鎌倉時代の板碑三基・室町時代の板碑一基がある。 建治2年(12764月 円内にキリーク種字を刻む 弘安8年(12858月 上部にキリーク種字を刻む 正安2年(13002月 「比丘尼妙阿」と刻む 応永3年(1396)正月 上部に阿弥陀三尊の種字を刻む 長安寺の開基は寛文9年(1696)とされ、同寺に残る板碑は開基をさかのぼることおよそ400年も前である。長安寺開基以前この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。平成3年台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会)

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狩野芳崖墓(台東区史跡)
明治初期の日本画家で、文政11年(1828)長府藩御用絵師狩野晴皐の長男として、長門国長府(下関市)生まれ。19歳の時江戸に出て狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎と謳われた。維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は貧窮に陥ったが岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治17年第2回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、更には西洋画の陰影法を取り入れるなどして独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京藝術大学蔵)は何れも重要文化財である。同21年天心・雅邦とともに東京美術学校(東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年1161歳で没した。墓所は長安寺墓地の中程にあり、明治20年没の妻ヨシとともに眠る。また本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正6年造立)が建つ。平成5年台東区史跡として区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会)

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功徳林寺山門(こうとくりんじ)/谷中


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功徳林寺
京都知恩院末、本尊阿弥陀如来。谷中共葬墓地は明治7開設せられたが、供養道場の設備なく往々差支えを生ずることが尠くなかつた。茲に於て明治181月、爵島津忠寛を發起人とし新寺建立制規に準じて谷中共葬墓地有無兩縁諸靈總供養及び古今の戦死者の霊魂を慰めんことを出願し、同年318日許可を蒙り後千辛萬苦の折、杉山弘憲氏等らの救援あり漸く堂宇、庫裡の功成り、同26429日入佛會を執行した。開基は知恩院順譽徹定である。當寺々域天王寺舊境内にて有名な笠森稲荷社お仙茶屋故地に當る。しかし現在當寺内に在る笠森稲荷祠は明治412の頃建てられたもので、當時のそれと深い因縁はない。天王寺中の笠森稲荷は同寺塔頭福泉院が別當をしてゐたが、同院衰微して之を藤叡山寛永寺中養壽院(現上野櫻木町9番地所在)に譲り、養壽院にては目下寺内に笠森稲荷社を勧請しつつある。(下谷區史)

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笠森稲荷堂
笠森稲荷は緒願成就のお稲荷さまとして信仰されてきました。江戸時代の中ごろ門前の茶屋の一人娘のお仙が店に立つと、江戸三代美人の一人として浮世絵に描かれ、童唄にも歌われて大評判になりました。その笠森稲荷堂が境内にあります。御自由に御参拝ください。(案内板)


・・・三崎坂

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街道の風景② 諏訪台通りから三崎坂を下り千駄木へ向かいます/坂上


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旧町名・谷中三崎町
「三崎」のいわれは諸説あるがこの地が駒込、田端、谷中の三つの高台に向っていることから名付けられたとする説が一般的である。本町は元禄年間16881704)のころすでに谷中村からわかれ町屋を形成していた。その後、明治4年(1871)に南北二町にわかれ、谷中三崎町南側および谷中三崎町北側となった。しかし、同6年には付近の大円寺をはじめとする六ヵ寺を合併するとともに南北二町は再び一つになりもとの一町にもどった。本町の中心を東西に通る坂が三崎坂。谷中には由緒ある寺院が数多くあるが、この三崎坂の途中に大円寺がある。ここには江戸時代に浮世絵画家として活躍した「錦絵開祖 鈴木舂信」の碑が建っている。(台東区旧町名由来案内)


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天龍院(臨済宗妙心寺派)
伊東玄朴墓(都指定旧跡)
伊東玄朴は近世後期の蘭方医。寛政12年(1800肥前国仁比山村(佐賀県神埼郡神埼町)の農家に生まれる。医学を志し、長崎では通詞猪股伝右衛門とドイツ人フォン・シーボルトに師事してオランダ語、西洋医学を学んだ。文政11年(1828)江戸に出て本所番場町(墨田区東駒形1丁目)で開業、翌年下谷長者町(台東区上野3丁目)に転居し医療を施し、天保2年(1831)には佐賀藩医となった。天保4年(1833)移転した下谷和泉橋通(現、台東区台東1丁目)の家は象先堂と称し訪れる者が列をなしたという。玄朴は嘉永2年(1849)幕府が発した蘭方禁止令、蘭書翻訳取締令に対抗するため私設種痘所の建設を企画、同士に呼び掛けた。安政5年(1858神田お玉ヶ池(千代田区岩本町)に設立され、これが蘭方医学を幕府に認めさせる突破口となった。種痘所は翌年火災による焼失のため玄朴宅の隣地である下谷和泉橋通に移転、再建された。万延元年(1860)には幕府直轄となり翌年西洋医学所と改称、玄朴はその取り締まりに任命された。その後は明治政府に引き継がれ、現在の東京大学医学部の前身となった。玄朴は明治4年(187172歳で没しここ天龍院に葬られた。ドイツ人ビショップの著書の翻訳『医療正始』は現在でも高く評価されている。なお、台東1丁目30番には種痘所跡・伊東玄朴跡の説明板が建っています。(台東区教育委員会)

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全生庵山門/谷中

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全生庵(ぜんしょうあん)
台東区谷中五丁目にある臨済宗国泰寺派(富山県高岡市にある禅寺、臨済宗国泰寺派の本山の寺院)山号は普門山。本尊はかつて江戸城の守り本尊だった葵正観音菩薩。開基は山岡鉄舟。落語を代表する名人・初代三遊亭圓朝の墓があり、毎年811日近辺に本庵、落語協会、円楽一門会のそれぞれが本庵にてイベントを開催する。1880年(明治13年)山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために創建を発願。国泰寺から越叟義格(えつそうぎかく・松尾義格)を開山に招聘して1883年(明治16年)に創建した。Wikipedia

木像観音菩薩像(台東区登載文化財)

幕末維新の剣客・政治家山岡鉄舟の開創で有名な全生庵の本尊であるこの観音像は、「葵観音」と呼ばれ興味深い伝来をもっています。この像はもともと日向国にあった大慈寺という寺院にあったもので、のちに京都の東福寺塔頭長慶寺に移され、さらに豊臣家に嫁いだ徳川家康の孫千姫によって江戸城に迎えられました。千姫が亡くなるとこの像は姫の侍女が開いた大塚の大慈寺に姫の遺品とともに安置され「葵観音」の名で知られました。しかし明治維新になってまもなく大慈寺は廃寺となったため山岡鉄舟がこの「葵観音」を自邸にひきとり、のちに全生庵の本堂に迎えたということです。この像は平安時代後期の作で、やわらかな線に典型的な定朝様の作風がうかがえます。また、くりぬかれた像の内側に漆塗が施されている点に特徴がありますが、このような作り方は多くの場合像内に品物を納入するためで、平安時代後期の上級貴族が願主になって作られる仏像にいくつかみられます。この像も同じく品物の納入を考えて作られたものと思われます。(台東区HP)


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山岡鉄舟墓
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東京都指定旧跡・山岡鉄舟墓
江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は天保7年(1836610日、幕臣小野朝右衛門5男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩、字は曠野、猛虎鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永5年(1852)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し駿府西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治13年には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治16年臨済宗普門山全生庵開基となった。開山は松尾越叟である。明治2171953歳で死去した。山岡家墓所には基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周辺には鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬、村上政忠の墓がある。(東京都教育委員会)

東海道-西郷・山岡会見の地の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/20142370/


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東京都指定旧跡 三遊亭円朝墓 
初代三遊亭円朝は通称出淵次郎吉といい、天保10年(183941日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島切通町に生まれた。2代目三遊亭円生の門人となり、安政2年(185516歳で真打ちとなる。芝居噺で人気を博し『真景累ヶ淵』や『怪談牡丹燈籠』『塩原多助一代記』などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和歌、俳句、書画など和敬静寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で自らの設計監督によって内藤新宿では数奇屋造りの家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余の枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公案を喝破して居士号を授けられた。更に書画古美術品に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。明治3381162歳で死去した。墓石には山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。(東京都教育委員)


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三崎坂(さんざきざか)/坂下
「三崎(さんざき)」という地名の由来には諸説あるが、駒込・田端・谷中の三つの高台に因むといわれる。安永2年(1773)の『江戸志』によると三崎坂の別名を「首ふり坂」といい、30年ほど以前この坂の近所に首をふる僧がいたことに因む。(台東区教育委員会)

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街道の風景③ 六道阿弥陀道と交差しています/谷中小前

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大円寺山門/谷中

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大円寺
台東区谷中にある日蓮宗の寺院。山号は高光山。旧本山は本所法恩寺、小西・法恩寺法縁。境内には「錦絵開祖鈴木春信」碑(笹川臨風撰、題字は東京美術学校(現東京芸術大学)校長をつとめた正木直彦の筆)、「笠森阿仙の碑」(永井荷風撰)がある。笹森お仙は江戸時代、谷中・笠森稲荷前の水茶屋の看板娘で、江戸三美人の一人として知られ、浮世絵師鈴木春信が錦絵にその姿を描いた。また、南条俊賢(南条元清の玄孫)の墓所もある。毎年10月には谷中菊祭り(大円寺御会式)が行われる。天正年間(1532-1555)大円院日梗の開基で上野清水門脇に創建され、元禄16年(1703現在地に移転した。明和5年(1768)火災により焼失した。現在の本堂は昭和9年(1934)に再建されたものWikipedia

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笠森お仙と鈴木春信の碑
お仙は笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の1人。絵師鈴木春信はその姿を当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に大正82つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰文、「錦絵開祖鈴木春信」碑は文学博士笹川臨風が撰し、題字は東京美術学校(東京芸術大学美術学部)校長正木直彦の手になる。荷風の撰文は漢字仮名交じりの文語調である。女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、150有余年、嬌名今に高し。今年都門の粋人、春信が忌日を選びてこヽに阿仙の碑を建つ。時恰大正己未夏6月鰹のうまい頃五大州は日本のことで、大正己未は大正8にあたる。(台東区教育委員会)

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街道の風景④「よみせ通り」と交差します、いい雰囲気、今度じっくり歩きたいですね

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藍染川と枇杷橋(合染橋)跡
文京と台東区の区境の道路はうねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川流路である。『新編武蔵風土記稿』によれば、水源は染井の内長池(現在の都営染井霊園の北側低地)で、ここから西ヶ原へさらに駒込村から根津谷に入る。不忍池から上野の山の三枚橋下(公園入口のところ)で忍川となり、三味線堀から隅田川に注ぐ川の名は上流から境川谷戸川(谷田川)・藍染川などと呼ばれた。藍染の名の由来はいろいろある。染井から流れ出るから、川筋に染物屋があり川の色が藍色に染まっていたからなど。前方の道路と交わるところに藍染川に架かるがあった。江戸時代の『御府内備考』や『新編武蔵風土記稿』によれば、この橋は合染橋藍染橋枇杷の橋(のちの琵琶橋)などと呼ばれた。また旧八重垣町にも同名の橋があった。川は水はけが悪くよく氾濫したので大正10から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境道路となっている。(文京区教育委員会)


・・・根津

中央を不忍通り(都道437号)が走りその西側が1丁目、東側が2丁目となっている。町域の元は根津神社(旧名・根津権現)と門前徳川綱重屋敷地で、綱重の屋敷地は後に旗本の居宅街となった。門前にできた岡場所は根津遊郭と呼ばれ栄えたが、明治時代になり東京帝国大学の近くにあることが問題視され1888年に遊郭群が洲崎へ強制移転させられ色町としての街は消滅している。1965年(昭和40年)根津須賀町、根津清水町、根津藍染町、根津片町、根津八重垣町、根津宮永町、根津西須賀町の全部に向ヶ丘弥生町の一部をあわせた町域を根津一丁目、根津二丁目に分けて現行の「根津」となった。Wikipedia


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街道の風景⑤ 折角なので根津神社へ足をのばしました/不忍通り(千駄木駅前)

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新坂(権現坂・S坂)
本郷通りから根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため新坂と呼んだ。また、根津権現〈根津神社の旧称〉の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。森鴎外の小説「青年」(明治43年作)に「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、坂の上に出た。地図では知れないが割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている・・・」とある。旧制第一高等学校の生徒たちがこの小説「青年」を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴎外命名である。根津神社社殿の造営は宝永3年(1706)である。5代将軍綱吉が綱豊(6代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として団子坂北元根津から遷座したものである。(文京区教育委員会)

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根津神社表参道鳥居

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神橋と楼門

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唐門と透垣

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根津神社(国指定建造物)
日本武尊が千駄木の地に創建したと伝わる。現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重山手屋敷跡であり、のちに6代将軍となる德川家宣誕生の地であった。5代将軍・徳川綱吉は家宣の産土神として宝永3年(1706千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し権現造りの社殿を造営した。社殿は拝殿・本殿と両社を接続する幣殿(相の間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ権現造りの完成された姿を見せている。拝殿前に唐門を配しその左右から透垣で社殿を囲んでいる。唐門前方の楼門を含め、権現造り神社建築様式の旧観を示すものとしてすべて国指定重要文化財である。祭神は須佐之男命・大山祇命・誉田別命・大国主命・菅原道真公である。境内には「家宣の胞衣塚」(区指定民俗文化財)、「塞ノ大神碑」などがある。(文京区教育委員会)

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神輿三基・付獅子二頭(文京区指定文化財)
根津神社(根津権現)は、5代将軍綱吉により世継ぎの家宣(6代将軍)の産土神として宝永3年(1706千駄木にあった社を移し建てられた。造営記念の祭礼が正徳4年(1714)にいわゆる天下祭・宝永祭として盛んに行われた。この時、神輿三基が奉納されて御神幸に用いられた。神輿は漆塗や金具などの後補があるが、本体部は初めのもので製作年代の明らかな江戸神輿として貴重なものである。獅子は頭、尾および背布からなる二頭である。「江戸根津大権現神前額面之縮図」によれば、宝永祭の神輿行列を先導する獅子二頭が描かれている。神輿と同寺の製作と考えられ天下祭りを偲ぶ重要な遺品である。神輿と獅子を一対として指定した。(文京区教育委員会)

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乙女稲荷神社


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乙女稲荷神社
祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
宝永3年(1706)根津神社がこの地に遷座した後、「つつじが岡」の中腹に穿たわた洞に祀られた社で、古記録には「穴稲荷」とある。霊験あらたかと崇敬者多く参道には鳥居の献納が絶えない。現在の社殿は昭和31年に奉建されたものである。(案内板)

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徳川家宣胞衣塚(文京区指定文化財)
6代将軍家宣胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。この根津神社の境内はもと5代将軍綱吉の兄綱重(家光の第2子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文2年(166245日ここで生まれた。胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ胎盤をいう。われわれの祖先が胞衣を大切に扱ったことは各地の民間伝承にある。例えば熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。一方上流の階層では胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には徳川家康胞衣塚がある。この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。塚正面には明治14年に建てられた『胞衣塚碑』がある。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが社務所の庭にある。家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。(文京区教育委員会)

徳川家康胞衣塚(岡崎城址)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/21188879/

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庚申塔(6基 根津神社境内)
ここに6基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが明治以後、道路拡幅などのため根津神社に納められたものである。正面から左回りに刻まれた像・銘文を見ると青面金剛・猿・鶏・寛文八戊申(1668)駒込村 施主15名 観音像・庚申供養・施主12名 日月瑞雲・青面金剛・鬼・鶏・元禄五壬申(1692)施主26名 日月・青面金剛・猿・延宝八庚申(1680)願主一名 梵字・庚申供養・寛永9年壬申(1632)・都島馬木村・施主7名 日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町施主10名・宝永六己丑(1709) この中での庚申塔は寛永9年(1632)の建立で区内の現存のものでは最も古い。都内で最も古いのは足立区花畑にある元和9年のもので、これより9年前の建立である。青面金剛は病魔・悪鬼を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申の神の使いとされ見ざる、言わざる、聞かざるの三猿は、そのような慎み深い生活をすれば神の恵みを受けられるとされた。庚申信仰は中国の道教から生まれ、60日毎に巡る庚申(かのえさる 十干十二支の組み合わせ)の夜は人が眠ると、三尸の虫がその人の体から抜けて天に昇り、天帝にその人の罪を告げて命を縮めると説かれた。これが仏教と融合して我国に渡来し、古来の天つ神を祀るお籠りの習慣と結びついた。江戸時代に特に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集まり般若心経を唱え、和やかな話し合いで一夜を過ごした。また祭神も猿田彦神、塞の大神=道祖神であるとの説もある。(文京区教育委員会)

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塞の大神碑
この塞の大神碑はもと通称駒込の追分(向丘11)にあった。ここは現在の東京大学農学部前で、旧中山道旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で追分といわれた。この追分は日本橋から一里(約四粁)で、江戸時代一里塚のあった所である。今も角店は江戸時代から続く老舗の高崎屋である。この高崎屋寄りに一里塚があり、榎が植えられていたが明和3年(1866)に焼け、この跡に庚申塔が置かれたがこれも文政7年(1824)の火災で欠損した。その跡地にこの塞の大神碑が明治6年に建てられた。同43年道路の拡幅のため碑は根津神社に移され現在に至っている。礎石に移転の事情が刻まれている。塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で道の神とも道祖神ともいわれる。(文京区教育委員会)

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根津裏門坂
根津神社の裏門前を根津の谷から本郷通りに上る坂道である。根津神社(根津権現)の現在の社殿は宝永3年(17065代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(6代家宣)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で国の重要文化財である。坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に夏目漱石の住んだ家(猫の家)があった。『吾輩は猫である』を書き一躍文壇にでた記念すべき所である。家は現在「明治村」に移築(文京区教育委員会)
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根津神社境内案内図

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江戸名所図会 根津権現社
 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景⑥ 北門にでたので「藪下通り」から千駄木へ戻りました/堀鴎外記念館前

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藪下通り
本郷台地の上を通る中山道(国道17号線)と下の根津谷の道(不忍通り)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から駒込方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道である。「藪下道」とも呼ばれて親しまれている。むかしは道幅もせまく、両側は笹藪で雪の日はその重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという。この道は森鷗外の散歩道で小説の中にも登場してくる。また多くの文人がこの道を通って鷗外の観潮楼を訪れた。現在でもごく自然に開かれた道のおもかげを残している。団子坂上から上富士への区間は、今は「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。(文京区教育委員会)

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観潮楼跡
森鴎外(18621922年、医学博士、文学博士)は明治 25年(189230歳の時に駒込千駄木町21番に居を構え、増築した2階部分から東京湾が眺められたとされたことにより観潮楼と名付けた。森鴎外はこの地において半生を過ごし青年』『雁』『阿部一族』『高瀬舟』『渋江抽斎』など代表作を執筆した。その後、建物は火災や戦災より焼失したが、「胸像」「銀杏の木」「門の石畳」「三人冗語の石」は残り、当時の姿を偲ぶことができる。戦後文京区はこの地を児童遊園地として解放し、東京都指定史跡の認定を受けた。さらに森鴎外生誕100年にあたる昭和37年(1962)に鴎外記念室を併設した文京区立鴎外記念本郷図書館を開館し、平成24年(2012)に鴎外生誕150年を記念して文京区立森鴎外記念館を開館した。(説明版)

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街道の風景⑦ 団子坂を下ると千代田線・千駄木駅です/千駄木

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団子坂/千駄木
潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂という」(御府内備考)団子坂の由来は坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからといわれている。また「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事がありここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期だったという。この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が住んでいた。(文京区教育委員会)

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根津神社周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(橙:諏訪台通り・六道阿弥陀道・よみせ通り・藪下通り 黄:御殿坂・七面坂・三崎坂・団子坂・新坂・根津権権裏坂)

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日暮の里(西日暮里駅~千駄木駅)コース地図
(赤:歩行コース 黄:坂 赤角:西日暮里駅・千駄木駅)


・・・・・
資料ファイル

笠森神社
谷中寺町に笠森稲荷の旧知があり、笠森お仙のことが記されていましたので調べてみました。

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笠森お仙
江戸中期の美女。江戸郊外・谷中の感応寺境内笠森稲荷門前にあった水茶屋鍵屋五兵衛の娘で、大黒舞や手鞠唄に唄われ、芝居に仕組まれたり錦絵の一枚絵や草双紙などにも描かれるほど、江戸の人気を集めた。明和7(1770)2月、忽然と姿を消し店には父親五兵衛がいるだけとなったので、失望した男たちの間に「とんだ茶釜が薬罐に化けた」という言葉が流行したという。実際は、お仙は笠森稲荷の祭主でお庭番(幕府の隠密)倉地政之助と結婚し、外界と遮断された桜田の御用屋敷に住み幸せな生涯を送った。(コトバンク)
お仙を葬った墓は中野区上高田の正見寺にありその墓石は1994年に中野区登録有形文化財に登録されています。

鈴木春信

江戸時代中期の浮世絵師。細身で可憐、繊細な表情の美人画で人気を博し、今日浮世絵というとまず思い浮かべる木版多色摺りの錦絵誕生に決定的な役割を果たし、後の浮世絵発展に多大な影響を及ぼした。Wikipedia
錦絵:笠森お仙/鈴木晴信Wikipedia

笠森稲荷

大阪府高槻市にある稲荷神社とそこから勧請された神社である。祭神は宇賀御魂神。創建の年月は不明だが、地元の豪族・笠氏が稚武彦命(わかたけひこのみこと)と鴨別命(かものわけのみこと)を祀って創設されたと伝えられる。中世以降はこの地の領主をしていた真上氏の崇敬が厚かったとされる。笠森は瘡守(かさもり)に通じて、瘡平癒から皮膚病、梅毒に至るまで霊験があるとされ江戸時代後期には各地に広まった。

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江戸の笠森稲荷 
江戸では谷中、小石川などへ勧請された。
谷中
応寺1833天王寺と改称)の塔頭・福泉院境内にあった稲荷社。(台東区谷中7-6-9)境内または門前にあった水茶屋「鍵屋」の看板娘・お仙笠森お仙)が有名であった。明治に入って福泉院は廃寺となり、稲荷社は東叡山寛永寺の子院である養寿院(台東区上野桜木一丁目15-9)へ遷座した。には明治26年(1893)に功徳林寺が建立され境内に改めて笠森稲荷が祀られている。
小石川 
後に小石川御薬園となる地に勧請された稲荷社。(文京区白山3-7-1)享和3年(1803)に大円寺(台東区谷中三丁目1-2)へ遷座し、明治に入り神仏分離によって稲荷社を本地仏・疱瘡薬王菩薩として祀った。 Wikipedia


by Twalking | 2018-09-29 22:53 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 南北線市ヶ谷駅   

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地下鉄南北線市ヶ谷駅/千代田区
市ヶ谷までは京王線・都営で一本、ここで南北線に乗り換えです。
有楽町線は使いますが、南北線は初めて、コーンコース歩いていると
「ミニ博物館」を発見、これは面白いですね!お勧めです。


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南北線市ヶ谷駅
東京メトロは有楽町線、南北線それぞれに島式ホーム12線を有する地下駅で、有楽町線のホームには可動式ホーム柵が、南北線のホームにはフルスクリーンタイプのホームドアが設置されている。有楽町線のりばと北線のりばを結ぶ連絡通路には、R中央線と都営新宿線の乗り換え口側に動く歩道、南北線のコーンコース中央には「江戸歴史散歩コーナー」と称するミニ博物館が設置されており、同線建設工事の際に発掘された石材を使って復元された石垣がある。Wikipedia

by Twalking | 2018-09-29 20:17 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 スタチューパフォーマンス   

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スタチューパフォーマンス
上野公園/台東区
『白いサラリーマン像』うん、面白い、
とシャッターきってたら、指先で応えてくれました。
サンキュー!スタチューパフォーマーさん、お見事。

by Twalking | 2018-09-28 22:42 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ハイビスカス   

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ハイビスカス
多摩市グリーンライブセンター/多摩中央公園
「わたし、そろそろ店じまいするわ~」
「だよね~・・・、楽しませてくれて、ありがとう!」

by Twalking | 2018-09-27 19:23 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 トケイソウ   

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トケイソウ
多摩市グリーンライブセンター/多摩中央公園
「何時ごろだろう??」
「わたしをみて~!」
あれ、アリさんも思う所は同じかな・・・。


トケイソウ(時計草)

トケイソウ科の蔓性の多年草。高さ約4m。巻きひげで他に絡みつき、葉は手のひら状に深く裂けている。夏、直径8cmくらいの時計の文字盤に似た花を開く。花びらと萼は淡紅色か淡青色で、その内側に糸状の紫色の副花冠が多数並ぶ。ペルー・ブラジルの原産で日本には江戸時代に渡来。同属には花が赤色のホザキノトケイソウやパッションフルーツ(クダモノトケイソウ)などがある。(コトバンク)


by Twalking | 2018-09-27 19:00 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 石仏-長安寺   

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なにをお抱えでしょう??? やさしいお姿・・・、 合掌


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なんと柔和な微笑だこと・・・、合掌


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涼しげな、お眼もと・・・、合掌
長安寺/台東区谷中

by Twalking | 2018-09-26 13:33 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『ひぐらしの里』02-谷中   

日時 2018.9.18(火)
天気 晴れ


諏方神社へ戻って富士見坂をくだります。
諏訪の台と本郷台の間の低地を藍染川が流れていました。
現在は暗渠、その上をよみせ通りが通ります。

よみせ通り、谷中銀座と下町情緒豊かな商店街です。
周辺は古刹も多く、夕焼けだんだんもいいですね。
見所も一杯、ぶらりには最高、面白い所です。



・・・西日暮里

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街道の風景① 古来よりの富士見の名所、諏訪の台から西へくだります/富士見坂


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富士見坂
坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことからこの坂も通称「花見坂」または「妙隆寺坂」と称された。都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。都心にいくつかある富士見坂のうち最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。(荒川区教育委員会

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街道の風景② 坂下は「六阿弥陀道」、左へ行った南泉院門前に道標が建ちます

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法光寺山門/西日暮里

法光寺
荒川区西日暮里三丁目(日暮里富士見坂下)にある法華宗門流の寺院。山号は日照山。慶安3年(1650)、現在の港区赤坂に開基。開基檀越は江戸時代初期の安房東条藩主・西郷正員。同寺には西郷家代々の墓も現存するが、当主が明治維新後渡米したきり音信不通である。その後、寺地が御用地となったために新宿区四谷坂町へ移転。さらに明治時代に現在地である日暮里富士見坂下へ移転。この移転は当時の住職が私財を投じたものだった。JR日暮里駅と西日暮里駅の中間に位置する富士見坂の下にあるため「富士見坂法光寺」もしくは「富士見坂下法光寺」などと通称される。近くには「花見寺」「月見寺」「雪見寺」と呼ばれる寺院があり、法光寺のことを「富士見寺」と呼ぶ人も少数だが存在する。(Wikipedia

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南泉寺山門/西日暮里

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南泉寺
当山は臨済宗妙心寺派で元和2年(16162代将軍秀忠より境内3200余坪を拝領した。開山大愚和尚は徳川家の信仰を受け、武州豊島郡下村の石高30石と寺紋に葵を拝領し明治に至っている。寺格は紫衣地で、妙心寺輪番住職を勤め宮中に参内する事も許されていた。徳川家の代替祝儀における納経では一束一本(賜物)を帝鑑の間で進上し、柳の間で時服を受け興に乗って参礼することも許されていた。墓城には将軍家光、家綱に仕えた老女岡野の墓や講談師松林伯円の墓がある。本堂内の木造聖観音立像は旗本美濃遠山氏の念持仏で、厨子には遠山家の家紋が記されている。下半身は鎌倉時代後期のものと推定されるが頭部、胴体部などは江戸時代に修復されたものと考えられる。(文京区史跡さんぽ実施報告書)

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美濃遠山氏の聖観音
山号を瑞応山と証する臨済宗妙心寺派の寺。元和2年(1616)徳川家から境内3200余坪を拝領し大愚が開創した。その後、将軍家光・家綱に仕えた老女岡野の遺言により貞享3年(1686)朱印地30石を賜った。本堂内の木造聖観音立像は美濃遠山氏の念持仏。厨子に遠山氏の家門「遠山家 息心庵本尊、正観音菩薩、安政4年丁巳710日」の銘がある。上半身等に江戸期の補修が加えられているが鎌倉期の作と推定される。その他、善光寺式阿弥陀三尊の一部と思われる銅造菩薩立像を所蔵。境内には菅谷不動、講談師松林伯円の墓等がある。(荒川区教育委員会)

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街道の風景③ 坂下を右は修性院、塀に布袋様が描かれています/六阿弥陀道

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修性院山門/西日暮里

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修性院
日蓮宗の寺院です。この辺りは江戸時代の中頃から「ひぐらしの里」と呼ばれ、江戸近郊の行楽地としてにぎわっていました。修性院は妙隆寺(修性院に合併)・青雲寺とともに花見寺とも呼ばれています。浮世絵師・歌川広重の「名所江戸百景」日暮里寺院の林泉はここの境内春景色が描かれています。また、谷中七福神の一つである「ひぐらしの布袋」が祀られています。寺の塀には四季をモチーフにした布袋尊のイラストが描かれており道行く人々に親しまれています。(荒川区HP)

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日ぐらしの布袋尊
修性院の布袋は谷中七福神の一つで「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神めぐりは江戸市中で最も古い歴史をもち、年初めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。江戸時代の中期ごろからこのあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(現、身延山関東別院玉川寺)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。境内には江戸時代の儒者・日尾荊山衣幘碑がある。(荒川区教育委員会)

身延山関東別院玉川寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22627917/

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青雲寺山門 崖上が西日暮里公園です/西日暮里


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青雲寺
青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。宝暦年間(1751-64)、堀田相模守正亮の中興と伝える。江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため青雲寺は修性院・妙隆寺(現、身延山関東別院玉川寺)などとともに花見寺ともいわれていた。現在谷中七福神のひとつ「恵比寿」が祀られている。境内には滝沢馬琴の筆塚の碑(文化6年)をはじめ、硯塚の碑(寛政10年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など江戸を代表する文人の碑が多く残っている。(荒川区教育委員会)

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馬琴の筆塚・硯塚(花見寺)江戸中期に「ひぐらしの里」として市民に親しまれたこの地は四季に花が咲き花見寺の名を生んだ。この青雲寺は七福神の一つ「恵比須」が祀られており、境内には道灌船繋松の碑をはじめ瀧沢馬琴の硯塚(寛政10年・1798)、同じく筆塚(文化7年・1810)、享和年間(18013)の狂歌師安井甘露庵の碑があり往時をしのばせるものが多い。(荒川区教育委員会)

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瀧沢馬琴の硯塚            道灌船繋松の碑

西日暮里公園周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27119266/


・・・よみせ通り

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街道の風景④ 文京区との境、この通りの下を藍染川が流れています

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よみせ通り
「よみせ通り」は「谷中銀座」とT字型に交わる通りで台東区谷中と文京区千駄木区境です。ここはもともと藍染川が流れていたのですが、大正91920)に暗渠工事が行われ藍染川を覆う上の通りが「よみせ通り」となりました。「よみせ通り」は色々なお店が立ち並ぶ便利な活気溢れる買い物通りとなりました。特に午後からは露店が並んで大道芸人が客を呼び、夜遅くまでにぎわいました。露店(夜店)の並ぶことから「よみせ通り」と呼ばれるようになったということです。(
谷根千散策)(よみせ通り入口/道灌山通り)

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よみせ通り延命地蔵尊
此の所のお地蔵さまは今から370余年前、長野県南佐久郡切原村の黄檗宗
の由緒ある立派なお寺の偉いお坊さまが大変慈しんで信仰されていたお地蔵菩薩さまで、昭和8年に地元のお年寄りで信仰の篤いお方が分霊をお迎えしてここへ安置されたもので、大変不思議なお力を持って救って下さる効き目があると伝え聞き、遠近よりお徳を偲んで大勢のお参りの人々がお見えになっています。いつも家族が無事でいられる、子供や孫が丈夫に立派に育つ、勉強が良く出来て尊敬される人に成れる、旅行に出掛けても事故に合わない、難しい病気や悩みを全癒してくれる、いつまでも若々しく長生き出来て幸福でいられる、人々の祈願するものすべてお聞き叶えて下さり、あなたの災厄を払い除けてお守りして下さる、沢山ご利益が授かると感謝されて益々お参りの人々が増えて、お地蔵さまから大変尊い善いお力を授かり喜ばれていろいろとお礼の真心のこもった奉納をいただいております。お地蔵さまはいつもあなたをお線香の煙の向こうからやさしく、あたたかく見守り続けていらっしゃいます。合掌(説明板)

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旧駒込坂下町
元文年間(173641)開かれた町で、千駄木坂の下にあるので千駄木坂下町と名づけられた。明治44年駒込坂下町と改められた。千駄木坂下は坂上から東京湾の海が見えたので潮見坂、坂のそばに団子を売る茶店があったので団子坂と呼ばれた。団子坂は明治時代、菊人形で有名であった。(文京区)
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街道の風景⑤ この先も良さそうですが、谷中銀座へ左折します/谷中

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谷田川、藍染川
この広い谷を巣鴨薬園からの通水、周辺の谷戸からの湧水を集めた谷田川(谷戸川とも呼ばれた)の小河川が流れていた。江戸期には王子石堰からの通水も合わせた。下流にはかつて谷田川に架橋されていた霜降橋、谷田橋などの名前が残っている。昭和に入って暗渠化されたが、暗渠上には染井銀座田端銀座霜降銀座が建って賑わった。谷根千(現在は「よみせ通り商店街」)に入ると千駄木谷中の町域境界を流れていた。かつて付近は藍染めが盛んであった事から「藍染川」とも呼称された。川はいくつかの通水に分かれて流れており、夏には小川を蛍が飛び「蛍川」と名があった。一帯は盆地のようになっており大雨でたびたび浸水していた。1918年、治水対策として谷田川を分岐させて道灌山の下を暗渠で通し、JR西日暮里付近から開渠として京成線沿いに町屋へ向かう藍染川排水路を通した。しかしこの排水路や残った川道も1960年までには暗渠化され、現在は暗渠跡に葦染川通り藍染西通りの名が残るのみとなっている。千駄木付近暗渠道は細かく蛇行していることから「へび道」の俗称がある。通水は不忍池に注いでいた。Wikipedia


・・・谷中/台東区

台東区の地名で旧下谷区にあたる下谷地域内である。谷中は「寺町」と呼ばれるように寺院が集中している。上野戦争で罹災したものの、関東大震災や第二次世界大戦では被害が少なく旧来の町並み・建造物が残されている。早口言葉「なかなか鳴かない谷中のかなかな」に関しても有名。下谷地域の北西に位置し、文京区(千駄木・根津)・荒川区(西日暮里・東日暮里)との区境にあたる。名前の由来は本郷台地上野台谷間に位置することから名付けられたといわれる。Wikipedia抜粋)

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昔ながらの元気な商店街、さすがに人気がありますね!/谷中銀座商店街

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商店街入口/よみせ通り      商店街の先は夕やけだんだん/坂下
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谷中銀座商店街案内図 

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坂上からの風景、これは絵になりまね!人気のほどが分かります/夕やけだんだん

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夕やけだんだん
荒川区西日暮里三丁目10番・13番と14番の間にある日暮里駅方面から谷中銀座に下る坂(階段)。御殿坂の延長線上にあたる。階段の傾斜は15度で緩やかであり、高低差は4m、段数は36段ある。幅は4.4mあり長さは15mとなっている。階段上から谷中銀座を見下ろす風景は谷中関連の雑誌や番組にしばしば登場する有名なもので夕焼けの絶景スポットにもなっている。階段の下には「谷中ぎんざ」と書かれたゲートがある。また、階段には野良猫・飼い猫を問わず沢山の猫が集まっているので「夕やけにゃんにゃん」と呼ばれることもある。平成2年に石段が改装された際の愛称募集時に作家・タウン誌『谷根千』編集者の森まゆみが命名したWikipedia
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街道の風景⑥ 真直ぐが夕焼けだんだん、左の七面坂を下ります/坂上

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七面坂(しちめんざか)
宝暦年間の『再校江戸砂子』に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中3-10)坂下にあるもと日蓮宗の寺七面坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里3-10)七面塔を指す。七面塔は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方・七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女祀る堂である。坂は『御府内備考』の文政9(1826)の書上によれば幅2(3.6)ほど、長さ50(90)、 高さ2(6)ほどあった。なお宗林寺は『再校江戸砂子』に蛍の所在地としそのホタルは他より大きく光もよいと記され、のちには境内にハギが多かったので萩寺と呼ばれた。(台東区教育委員会)

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長明寺山門/谷中

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長明寺
台東区谷中にある日蓮宗の寺院。山号は日照山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流・ほんこくじ)、池上・土富店法縁。境内には会津藩士平田門十郎二女蝶子の墓所がある。春には枝垂れ桜で知られる。慶長14年(1609)蓮光院殿日照禅尼(志村八兵衛尉夫の妻)を開基、在天院日長(元和6年・1620没)を開山に創建された。大正年間には付近の谷中正運寺(慶長5年・1600創建)を合併した。(Wikipedia

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銅鐘
本銅鐘は総高122.9cm、口径75.1cm。銘文によると天和2年(1682)初冬(10月)16日屋代安次が自らの逆修供養のために寄進した。逆修とは生前に自分の死後の冥福を祈るために仏事を修することである。撰文は下総国飯高(現千葉県八日市場市)の日蓮宗檀林所として著名な飯高寺の僧性孝、書は長明示4世住職目習。鋳物師は椎名伊予良寛。鋳物師の椎名家は江戸時代初頭に多くの作例を遺し、椎名伊予吉次を初代とする江戸鋳物師の名家であった。椎名伊予良寛は延宝9年(1681)頃から元禄13年(1700)頃にかけて活躍した鋳物師でおよそ26点の作品を残している。銅鐘が19点、銅燈籠が24点、宝塔・水盤が各1点である。特に宝塔は上野寛永寺にある将軍家墓所の1つで、4代将軍家綱(厳有院)の墓である。このように将軍家の墓の鋳造を任されている事からも、椎名良寛が当時実力を伴った著名な鋳物師であったことがわかる。(台東区教育委員会)

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宗林寺山門/谷中

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宗林寺
宗林寺は妙祐山と号する日蓮宗寺院で、はじめは駿府(静岡県静岡市)の地に斎藤宗林を開基、玄龍院日辰を開山として創建されたようです。天正年間(15731592)に江戸昌平橋外(千代田区)に移り、後に上野東寺町に移転、さらに元禄14年(1701)に当地へ転じたと伝えられます(『御府内寺社備考』)

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本銅鐘は、銘文によると宝暦4年(1754)、当寺14世日道(?1766)の代に宗林寺の鐘として鋳造され鐘楼堂に懸けられました。本鐘を鋳造した鋳物師(いもじ)鈴木播磨大掾藤原定久は、江戸時代中期中葉に活躍した江戸の鋳物師で神田に居住していました。定久の作例は銅鐘、銅常香盤、銅灯篭など8例が知られています。作例からわかる活動期間は宝暦年中(17511764)と短期間でした。とくに銅鐘は本鐘を含めて5口が知られますが、現存が確認できるのはわずか2口にとどまっています。このことから、鋳物師鈴木播磨大掾藤原定久を知り作例を研究する上で本鐘のもつ重要性は高いといえます。さらに、近世の鋳物師の制作活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品です。(台東区HP)

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江戸名所図会 日暮里惣図其2 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・西日暮里/荒川区

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街道の風景⑦ 区境です、左が荒川区、右が台東区谷中の寺町になります/坂上

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延命院山門/西日暮里

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延命院
日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局。家綱出生の際に安産を祈祷した慧照院日長が三沢局の信施を受け、甲州身延山七面大明神を勧請。慶安元年(1648別当寺として延命院を開創したという。七面大明神には胎内に慶安3年(1650)法寿院日命が願主となり、仏師矢兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ七面堂に祀られている。これにちなんで門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。境内には樹齢600年を超えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。(荒川区教育委員会)

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延命院のシイ
シイはブナ科に属し、日本の照葉樹林の最も中心となる常緑高木である。堅果(実)は、渋みがなく、やや透明な白色で食用となり、また庭園樹としても広く利用されている。延命院のシイは天保7年(1836)開板の「江戸名所図会」巻5の「日暮里惣図」に現在地と思われる位置に本樹の全容が描かれていて、当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺われる。かつては幹周り5.5m(平成9年調べ)の巨樹だったが、平成14年(20025月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し安全のため現在の樹形に保っている。(東京都教育委員会)

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本行寺山門/西日暮里


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本行寺
本行寺(ほんぎょうじ)は大永6年(1526江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て宝永6年(1709現在地移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。20世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ「青い田の 露をさかなや ひとり酒」などの句を詠んでいる。儒学者市河寛斎・書家米庵父子や幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代に太田道灌斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。(荒川区教育委員会)

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道灌丘碑
太田道灌斥候台を築いたところを道灌物見塚と呼んでいる。塚は境内にあり「わたり二間ばかり、高さ一丈ばかり見事な塚なり」(江戸砂子)とあるところから当時の模様が想像される。今は道灌丘碑を残すのみとなっている。この本行寺は宝永6年(1709谷中から移ったもので、景勝の地であったところから月見寺とも呼ばれていた。(荒川区教育委員会)

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小林一茶の句碑               山頭火の句碑

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街道の風景⑧ 諏訪台通りから日暮里駅への下り、右手は谷中霊園です/御殿坂

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御殿坂
文政12年(1829)に成立した『御府内備考』には「感応寺本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根津」の誤写の可能性がある。明治5年『東京府志料』には長さ15間(約27.3m)幅2(約3.6m)とあるが、現在の坂の長さ50m以上あり数値が合致しない。以前は谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの路線ができた際に消滅したためその名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。(荒川教育委員会)

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西日暮里方向の景観です/下御隠殿橋(日暮里駅)

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鶯谷方向の景観、スカイツリーが望めます/谷中霊園入口(日暮里駅上)

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『歴史と文化の散歩道-日暮しの里散歩』地図

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日暮里周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(橙:諏訪台通り・六道阿弥陀道・よみせ通り 黄:富士見坂・七面坂・御殿坂・三崎坂) 

by Twalking | 2018-09-25 18:49 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 曼珠沙華   

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曼珠沙華/愛宕下通り(多摩市愛宕)
お彼岸はまあまあのお天気、
お墓参りは少し遅らせて・・・にしました。
母さんの様子をみてお参りに行きますね。

by Twalking | 2018-09-24 20:34 | ○Flower