無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2018年 10月 ( 51 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 橋の風景-長池見附橋   

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長池見附橋/長池公園姿橋(八王子市別所)
周囲の景観にマッチした美しい橋ですね。
もとは四ツ谷駅直上に架かっていた四谷見附橋、
この歴史的な文化遺産をこちらに移設・復元したものです。



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四谷見附橋の由来
四谷見附橋は1913(大正2年)9月に都内四ツ谷駅直上に竣工した上路式鋼製アーチ橋です。この頃の日本の橋梁技術は近代橋梁技術の黎明期をすぎ、自らの力で歩み始めた時代で、周辺環境との調和に配慮した設計がなされ始めた頃でした。この当時で現存するものは数少なく、四谷見附橋は都内では日本橋と共に文明開化期の面影を偲ぶことのできる貴重な橋梁となっていました。高欄や橋灯及び橋名板などは隣接した迎賓館とデザイン的に対応させたネオ・バロック様式の装飾が施され、周辺環境との調和に配慮した設計で、文化財的価値の高い橋梁となっていました。技術的にも非常に高く評価でき、その当時の設計・施工技術は現在でも十分に使用に耐え得るほどで、我が国近代橋梁の道標となっていたものです。この様に橋梁の構造と造形が巧みに融合した歴史的名橋は長池見附橋と名前を変えてこの地に移設、再建されましたが、移設、再建出来なかった構造体の中の貴重な物についてはわが国の土木文化や近代技術を後世に永く伝えるために、ここに展示保存されることになりました。(説明板)

長池公園の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23582343/

by Twalking | 2018-10-31 12:11 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 池の風景-築池   

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築池/長池公園(八王子市別所)
幻想的な風景、惹きつけられます。ルーツは明治末から大正期に造られた灌漑用のため池、下流の田圃に水を供給していました。そこに見附橋を造る際に堤を高くしたため水位は当時より1~2m程深くなっているそうです。水際の山桜や立枯れた木々がそれを物語り、一層の潤い豊かな水辺景観を醸し出しています、癒されますね~・・・、美しい。

by Twalking | 2018-10-31 11:29 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 丘の風景-唐木田の道   

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唐木田の道/多摩市唐木田
この辺りの標高は160m位、尾根のみちで一番高い所です。
唐木田の街並や丹沢山系が望める景色のいい所、
かつては府中CC(左)の中を八王子道が小野路へ向かっていました。
いい道ですね!、気持いい。


by Twalking | 2018-10-30 22:03 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり上野~三ノ輪04-三ノ輪   

日時 2018.10.16(火)
天気 晴れ

金杉通りは奥州裏街道と言われていますので、
言問通りから三ノ輪、南千住へと歩いてみました。
三ノ輪周辺が面白い所です。

ここは旧日光街道を歩いた時に寄れなかった所、
投込み寺の浄閑寺、江戸五色不動の永久寺等見所が一杯、
ついでに黒門のある円通寺にも寄ってみました。


・・・下谷/台東区

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街道の風景① 言問通りから三ノ輪へ向かいます、かつての奥州裏街道になります。通りの右手が下谷、左が根岸です/金杉通り

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三島神社鳥居/下谷


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三嶋神社
台東区下谷三丁目にある神社。本社伊予国一宮で日本総鎮守と称される今治市(大三島)の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)である。
主祭神:大山祇神。弘安4年(1281河野通有は元弘に際し、氏神である三島大明神(大山祇神社)に戦勝を祈願して出陣し、三島大明神の神使である白鷺の導きにより華々しい武勲を挙げたが、その帰陣にあたり夢の中で武蔵国豊島郡に三島大明神を勧請せよというお告げを受け、上野山内河野氏の館に奉斎したのが始まりと伝えられる。慶安3年(1650)徳川家光より社地移転を命じられ、金杉村(現在の台東区根岸)に遷座した。さらに宝永7年(1710)社地が幕府の御用地となったため浅草小揚町(現在の台東区寿)に遷された(寿四丁目の本社三島神社)。しかし、氏神様が遠くて困るとして金杉村字金杉町の火除稲荷神社社地分霊を勧請した。これが金杉町(下谷)の三島神社である。現在に至るまで当社の歴代宮司河野通有子孫が務めている。なお、同じく金杉村根岸の氏子が本社三島神社より分霊を勧請し、熊野神社に合祀したのが根岸一丁目の元三島神社である。Wikipedia

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火除稲荷社
御祭神:保食命(ウケモチノミコト)
往昔、奥州街道に沿う町並みとして発達せる武蔵国豊島郡金杉。村のこの地に御先稲荷を勧請したるあり後、正保3年東叡山寛永寺の建立にあたり、この地にその火除地と定められて以来、火除稲荷と称し奉り三島神社地主神であります。家内安全、商売繁盛、火災守護の大神として町人から崇敬されています。(説明板)

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雷井戸
昔武蔵国の原野は雷が多く里人は常におそれていた。時たま神社の境内に雷が落ちたので神主が雷をこの井戸にとじ込めた処、雷は「井戸から出して呉れ」と哀願するので「二度と此地に落ちない」と約束のもとに許してやったと云う。爾来、此地に雷が落ちないと伝えられている。この井戸の発掘年代は不祥なるも相当な古井戸で危険防止の為に蓋をしてあるが、現在も満満と水をたヽえて雷除の井戸として信仰されている。(説明板)


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旧金杉町
江戸時代の初め、金杉村のうち奥州街道裏道(現在の金杉通り)沿いに町屋がつくられ、いつしか金杉下町と呼ばれるようになった。明治11(1878)の市政改革にともない下谷区に編入され下谷金杉下町となった。明治22年には隣接する千束の地を東側に合併して町域を広げたが、そのあと昭和12年に金杉通りそった地が金杉二丁目と町名変更がされたことから、東側の部分が金杉下町として残った。金杉の地名は相当古くからあったという。そのため地名の由来はよく分からない。しかし、鎌倉時代末(1330年頃)の記録によると金曽木彦三郎なる人物がこの地にいて地名を姓にしたとされているので、初めは金曽木といったがその後金杉に変わったとされている。(下町まちしるべ/台東区)


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街道の風景② 昭和通り手前を左折すると薬王寺、こちらも古い道のようです/根岸

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薬王院山門/根岸

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薬王寺
薬王寺は三ノ輪町の西側に存す。寛永年間天海大僧正が開山と伝えられている。(御府内備考讀編第37)一説には草創の年代は不詳で、室町時代中期の創建以来移動のなかった寺とも伝えられている。本尊は秘仏薬師如来で、境内には背面後ろ向き地蔵尊、南北朝時代の板碑を安置している。戦前は毎月3回の縁日で栄え、特にお薬師様は眼病に御利益があるとされ、お地蔵様は延命・子育て地蔵として大衆に信仰が厚く境内や門前に露店商が立ち並び大勢の参詣客で賑わったものと今でも語り継がれている。寺は大正時代関東大震災で全焼しその後一応復興するが、昭和20年の東京大空襲の戦禍でおしくも堂宇・宝物・什物文化資料を焼失した。その後の混乱の中で往年の寺の姿を無くし荒廃した。背面地蔵正保41647)の創立で、一丈三尺余り。その昔、奥州街道の傍ら道路仏として西向きに建てられしが、後に明和元年1764道筋が寺の東側に改り、地蔵を前向きに立て直したところ不思議に一夜のうちに元の向きになったと人々に伝えられて、この尊称が起こったと言われている。現在も珍しい縁起のお地蔵様として多くの参拝者が訪れている。(天台宗東京教区)

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背面地蔵尊                 板碑

薬王寺にある背面知像の縁起
昔の昔この地蔵は上野から奥州へ向かう旧街道の傍らに存した。その後、道筋が改り後背の三ノ輪町通りが新しく拓け、旧道に面していた地蔵尊が新道から後ろ向きに見えるので、恰も此の尊称が起こったのである。記録には「ここに又不思議なる御遷座の夜、主僧の夢に神人現る。告げて曰く汝如何なれば我が面を東に向かわしめたるや、そもこの寺の西辺は古陸奥への駅路なり、我はその道に臨み西に向い立たるなりとありければ、主僧驚きて遂に石工を招き寄せ事の子細を語り聞かせ、石工も夢に同じ告を蒙古りたりとてその夜のうちに御像を動かし面を西に向わし奉りぬ。さればその後参詣せし人々はその有様を見て、さても不思議ななるかな、昨日は東に向ひたまいしに今日は西に向はせられたりとて、その事たちまち四方に伝わり背面地蔵お御遠近に聞え渡りぬ」頃明和元年(1764。こうして薬王院の背面地蔵尊は本尊薬師如来の治眼信仰と共に毎月縁日で栄えたのであった。道路仏でもあり延命子育てとして地蔵信仰は今でも多くの人々に語り継がれている、(説明板)


・・・三ノ輪


台東区の北部に位置する。町域北部から北東部は荒川区南千住に接する。南東部は台東区日本堤に、南部は同竜泉に、西部は同根岸に接する。町域内は商店やビル、寺院や住居などが混在している。町域内にある大関横丁交差点は明治通り、昭和通り、日光街道が交わり交通の要所となっている。他に町域内には国際通り、土手通りなどが通っている。東京メトロ日比谷線の駅名にも使われる「三ノ輪」の名は、台東区のみならず近隣の荒川区南千住東日暮里などにも広く見られる呼称である。
Wikipedia)

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街道の風景③国道4号(日光街道)と明治通りが交差します/大関横町(三ノ輪駅前)

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旧三ノ輪町
三ノ輪という地名は古く江戸時代以前からあった。この地は奥東京湾に突き出た台地先端部であることから水の鼻(みずのはな)といわれ、これがいつしか三ノ輪になったといわれる。延享2(1745)隅田川宿場として形成した三ノ輪村原宿が原宿町として独立した。そして明治3年に下谷原宿町となり、同24年下谷原宿町と三ノ輪村が合併して旧三ノ輪町が誕生した。昭和初年まで今は無い音無川にかかる三ノ輪橋があった。慶応4年に水戸へ去る徳川慶喜はこの橋のたもとで山岡鉄舟らの見送りを受けた。今でも都電の停留所(荒川区)にその名が残っている。(下町みちしるべ/台東区)

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梅林寺
/三ノ輪
梅林時木造綱敷天神坐像
曹洞宗花嶽山梅林寺は、はじめ小塚原(現荒川区南千住)にあり龍源寺と称していました。本像はもと下総里見氏の鎮守で、慶長の里見家没落の際、家臣が下総平井村(現江戸川区平井)に移し、やがて小塚原に祀られ、17世紀中頃に伊勢亀山藩士が主君の病気平癒祈願のため、小塚原の本像とともに龍源寺現在地に移し梅林寺と名を改めたといわれます。安政大地震で天満宮祠は全壊し、大正4年の勧進により建立、昭和42年本堂に移され現在に至ります。本像はヒノキ材製で像高20.8cm、髪際高17.1cm。束帯姿で口をやや開き、顎髭を垂らし、眼をいからして綱座に坐る珍しいものです。室町時代末期に制作されました。当寺には九州で菅原道真が綱座を勧められ我が身の哀れを嘆いたところ、土地の者が「これは帆綱で自分には命綱だから都の敷物に決して劣らない」と諌めたという伝承があります。綱敷天神はみな忿怒形をしており、不遇に対して怒る道真を現します。しかし、江戸時代後期には、為永春水作『園の花』によると梅林寺綱敷天神を除災招福の神として信仰するように変わったことがわかります。本像は、秘仏であるため一般には非公開です。(台東区登載文化財)(台東区教育委員会)

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目黄不動尊(永久寺)
目黄不動は江戸五色不動の一つとして知られている。江戸五色不動とは目白、目赤、目黒、目青、目黄の各不動尊のことで、寛永年間162443)の中頃、徳川3代将軍家光が寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、江戸府内の名ある不動尊指定したと伝える。不動明王は密教ではその中心仏とされる大日如来が悪を断じ衆生を教化するため、外には憤怒の形相、内には大慈悲心を有する民衆救済の具現者として現れたとされている。また、宇宙のすべての現象は地、水、火、風、空の五つからなるとする宇宙観があり、これらを色彩で表現したものが五色といわれる。不動尊信仰は密教がさかんになった平安時代初期の頃から広まり、不動尊を身体ないしは目の色で描き分けることは平安時代(7841179)すでに存在したという。(台東区教育委員会)


・・・南千住

南千住は江戸時代における日光街道の宿場町である千手宿を起源としている。隅田川以北の宿場が拡大し、万治31660)に千住大橋南側の小塚原町・中村町が宿場に加えられ以来南宿(下宿)と呼ばれた。かつて江戸時代から明治初期には小塚原刑場という処刑場(仕置場)があり20万人余の罪人がここで刑を執行されたという(延命寺内掲示板による)。形状跡は現在の南千住駅の西側、常磐線と日比谷線の線路に挟まれる場所にある延命寺内に位置する。また、隅田川が弓のように大きく東側に張り出した地形に存在していたかつての南千住汐入(現在の南千住四丁目、八丁目、三丁目東側)は明治時代以降、隅田川の舟運と鉄道貨物基地の陸運を接続する物流の要所のひとつであり「大日本紡績(ニチボウ、現・ユニチカ)」と「鐘淵紡績(カネボウ)」の2大工場が立地する工業の町としても発展した。南千住駅南側の泪橋交差点を中心に山谷と呼ばれる地域があり、かつては木賃宿が立ち並ぶ労務者の街として知られ、現在も簡易宿泊施設(通称:ドヤ)が少なからず存在する。
Wikipedia

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街道の風景④ 浄閑寺は土手通りにあります、音無川が傍らを流れていました/南千住

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音無川と日本堤/南千住
音無川は王子で石神井川から分かれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ三ノ輪橋をくぐり、淨閑寺の西側に沿ってここから山谷堀を経て隅田川に注いでいる。今は暗渠となっているが明治の終わりまで灌漑用水として使われていた。音無川に沿って三ノ輪から聖典町(現浅草7丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。安藤広重の『名所江戸百景』に描かれて新吉原への遊客で賑わっていた堤はいまはない。淨閑寺前の三叉路の最も南寄りの道路がその名残である。(荒川区教育委員会)

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浄閑寺/南千住

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投込寺(浄閑寺)
浄閑寺は浄土宗の寺院で栄法山清光院と号する。安政2(1855)の大地震の際、たくさんの吉原の遊女が投込み同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ新吉原総霊塔が建立された。壇徒の他に、遊女やその子供の名前を記した寛保3(1743)から大正15(1926)にいたる十冊の過去帳が現存する。遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて作家永井荷風はしばしば当時を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑はこのような縁でここに建てられたものである。(荒川区教育委員会)

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新吉原総霊塔
ここに葬られた遊女は2万人を越えるといわれ、安政21855)の大地震に際して多数の遊女の遺骸が投げ込まれたと伝えられる。このことから投込寺と呼ばれ、こうした遊女達の霊を供養するためにこの新吉原総霊塔が建立された。浄閑寺の墓地は昭和4年(1929)に墓地の全面改修が行われ、この塔も頭頂部と台座以外は改修された。同寺の過去帳に記される遊女達の没年齢はほとんどが20代で、かつての女性の置かれた環境を考える中で忘れてはならない哀しい記念碑ともいえる塔である。なお、塔下の墓所には川柳人クラブ花又花酔の「生まれては苦界、死しては浄閑寺」の句が壁面にはめ込まれている。(荒川ゆうネット)

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永井荷風文学碑
今のわかき人々
われにな問ひ そ今の世とまた來る時代の藝術を。われは明治の兒ならずや。その文化歴史となりて葬られし時 わが青春の夢もまた消えたり。團菊はしおれて櫻癡はちりき。一葉落ちて紅葉はかれ緑雨の聲も亦絶えり。 圓朝も去れり紫蝶も去れり。わが感激の泉とくに枯れたり。われは明治の兒なりけり。 或年大地俄にゆらめき 火は都を燬きぬ 柳村先生既になく 鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。江戸文化の名残烟となりぬ。明治の文化また灰となりぬ。今の世のわかき人々我にな語りそ今の世とまた來む時代の藝術を。くもりし眼鏡ふくとてもわれ今何を見得るべき。われ明治の兒ならずや。去りし明治の兒ならずや。震災 偏奇館吟草より明治、大正、昭和三代にわたり詩人・小説家・文明評論家として 荷風永井壯吉が日本藝林に遺した業績は個人歿後益々光を加へ その高風亦やうやく弘く世人の仰ぐところとなった。谷崎潤一郎を初めとする吾等後輩42人故人追慕の情に堪えず 故人が生前「娼妓の墓亂れ倒れ」(故人の昭和12622日の日記中の言葉)てゐるのを悦んで瘻々、杖を曳いたこの境内を選び 故人ゆかりの品を埋めて荷風碑を建てた。(荷風死去4周年の命日 昭和38430日 荷風碑建立委員會)

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街道の風景⑤ 国道4号(日光街道)が常磐線を潜ります、右手に「三ノ輪橋跡」左手に「大関横丁」の説明板が立っています/南千住

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三ノ輪橋跡
かつて石神井用水(音無川)と日光街道が交叉する地点に架かっていた。江戸時代には市中と市外の境界に位置して、現在の台東区域と荒川区域を結んでいた。昭和初期に石神井用水は暗渠となったため三ノ輪橋
も撤去されて、現在は都電荒川線の停留所にその名が残る。(台東区教育委員会)

大関横丁
大関横町は下野黒羽藩主大関信濃守下屋敷(南千住1丁目18番付近)の西を取囲んでいたである。南側の道は現在の明治通り。西側の道をはさんで伊予新谷藩主加藤大蔵少輔下屋敷(荒川1丁目3638番付近)があった。明治通りに拡張される前の道幅は2(約4m)で、大関横町から三河島道(区立第一中学校の南側の道)に入ると前方に地蔵堀の石地蔵などを望むことができたという。(荒川区教育委員会)

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街道の風景⑥ 都電荒川線の停車場、いい風景ですね!

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ジョイフル三ノ輪            こちらが旧道でしょうか?

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真正寺/南千住 浄土宗のお寺です

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真正寺門前町
寛文元年(1661)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に真正寺門前町も同時につくられた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約16002)ほどの土地であるが、本区におけるただ1つ門前町である。町奉行支配地で寛延2年(17493月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治2年(1869)地名を下谷真正寺町と改めたが、明治12年(1879)下谷通新町に合併された。(荒川区教育委員会)

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円通寺山門/南千住


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円通寺
延暦10年(791坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった48の首を寺域内に埋めてを築いたので、このあたりと小塚原とよぶようになったという。江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の入谷鬼子母神真源寺とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政2年(1855)の大地震で倒壊した。境内には石像七重塔、彰義隊士の墓、永仁4年(1296)銘をはじめとする板碑4(区指定文化財)などがある。(荒川区教育委員会)

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旧上野の黒門(荒川区指定文化財)

この黒門は慶応4年(1868515日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争で、あとに放置されていた多数の彰義隊の遺体を当時の円通寺仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎とが集めて火葬し円通寺に葬った機縁で、明治40年(1907)に帝室博物館より下賜された。上野山内袴越し」にあった黒門は上野八門のうちで表門にあたり両軍攻防の重要な拠点であった。弾痕が往時の激戦を今に伝えている。(荒川区教育委員会)

黒門があった下谷広小路の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27174218/

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彰義隊の墓
慶応4年(18685月寛永寺に集結した彰義隊隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる彰義隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。これが縁となって明治40年(1907)寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和60年(1985)に修復工事が行われている。(荒川区教育委員会)

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四十八首塚
八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四十八を得て還り、この地に埋め首塚四十八基を築いた。それからこの地を「小塚原」と呼ぶようになった。(円通寺)

鷹見の松
寛永3年(16263代将軍徳川家光が放鷹の日、円通寺の松に止まる。それから「鷹見の松」と呼ばれる。(円通寺)

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板碑四基(永仁410月日銘)
円通寺の板碑4基の内3基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中でも古い時代に属する。とりわけ永仁4年(129610月日銘は、日慶寺の正応2年(1289)銘に次いで2番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代の人びとの生活を知るうえで貴重である。また嘉暦4年(1329)正月29日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。荒川区指定有形文化財(歴史資料)(荒川区教育委員会)

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三ノ輪周辺地図
(黄:歩行ルート 紫:日光街道・明治通り 橙:旧日光・奥州街道)

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上野~南千住地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

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ルート図(御茶ノ水~三ノ輪)(赤:歩行ルート 橙:旧日光・奥州街道 紫:古東海道(推定) 青:隅田川)


・・・・・・・
資料ファイル

五色不動
(ごしきふどう)
五行思想の五色(白・黒・赤・青・黄)の色にまつわる名称や伝説を持つ不動尊を指し示す総称。東京(江戸)のものが有名であるが厳密には四神や五色に関連する同様の伝説は各所に存在し、それが不動尊と関連付けられたものを五色不動と称されることがある。江戸五色不動とも呼ばれており、江戸幕府3代将軍・徳川家光が大僧正・天海の建言により江戸府内から5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来するなどの伝説が存在する。史跡案内など多くの文献ではこのような説話に倣った由来が記述されているが資料によっては伝説の内容にばらつきも見られる。また名称を別とすれば個々の寺院や不動像自体は江戸時代(以前)からの歴史を持つとされる。特に目黒不動・目白不動・目赤不動については江戸時代の資料からもその名称が確認でき、江戸の名所として「三不動」の名で知られる。このうち目黒と目白は山手線の駅名ともなり、特に目黒は区名となっているため有名である。(Wikipedia

江戸五色不動

目黒不動 瀧泉寺(目黒区下目黒) 
(関連記事はこちらへ 
https://teione.exblog.jp/22246396/
目白不動 金乗院(豊島区高田)
(関連記事はこちらへ https://teione.exblog.jp/24126255/
目赤不動 南谷寺(文京区本駒込)
(関連記事はこちらへhttps://teione.exblog.jp/20891042/
目青不動 教学院(世田谷区太子堂)
(関連記事はこちらへhttps://teione.exblog.jp/22614408/
目黄不動 永久寺(台東区三ノ輪)
江戸五色不動のうち目黄不動は台東区三ノ輪の永久寺を指すことが多いが、関東三十六不動では目黄不動に江戸川区平井の最勝寺を指している)

by Twalking | 2018-10-29 21:50 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の秋-ロケット公園   

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ロケット公園/多摩市愛宕
柔らかな秋の色、
静かで寛げるさんぽ道です。

by Twalking | 2018-10-28 11:36 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 マユハケオモト   

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マユハケオモト
母が世田谷から持ってきた思い出の一鉢、
今年も元気に咲いてくれました。
いいこだね~、まゆはげちゃん、ありがとう~!


眉刷毛万年青(マユハケオモト)
ユリ科ハエマンツス続の常緑多年草で、ハエマントゥス・アルビフロースの和名です。南アフリカが原産です。球根状の鱗茎があり高さは20cmほどになります。葉は厚くて多肉質です。9月から11月ごろ、花茎を伸ばして「眉刷毛」に似た白い花を咲かせます。先端が黄色いのが雄しべ、割れているのは雌しべです。(Weblio辞書)


by Twalking | 2018-10-27 20:55 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり上野~三ノ輪03-根岸の里   

日時 2018.10.16(火)
天気 曇り


鶯谷の駅周辺から御隠殿跡や子規庵のある路地を
歩きましたが、切れ切れでも下町風情がよく残り、
なかなか味わいがある横丁です。

うぐいす通り周辺は寺町、古刹が多い所です。
名所絵図にも描かれた円光寺、お行の松などを
巡り金杉通り(奥州裏街道)を三ノ輪に向かいます。
鶯谷界隈は初めてですが、見所豊富で面白いですね。



・・・鶯谷/台東区

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街道の風景① 言問通りから路地を鶯谷駅に向かいます/根岸

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鶯谷
行政上は「鶯谷」という地名は存在しない。駅東側にはラブホテルがあり、かつて文人が多く住んだことで知られる根岸の里がある。根岸2丁目には子規庵、中村不折の書道博物館がある。西側には寛永寺・上野公園が広がり、近くには江戸の風物詩・朝顔市の入谷鬼子母神がある。江戸時代は寛永寺領であったため上野・根岸・根津に渡って多数の寺院が残っており高層ビルや高層マンションが少ない。江戸時代に寛永寺の住職として代々京都から皇族が駐在していた。その一人である公弁が元禄年間に「江戸の鶯はなまっている」といって当時の文化人・尾形乾山に京都から鶯を運ばせてこの地域に鶯を放し、鶯の名所になったことに由来する。Wikipedia)

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旧上根岸町
呉竹の
根岸の里は上野山を背景にした田園風景と清流音無川の流れる静寂の地であった。江戸時代から「根岸の里の侘び住まい」といわれ多くの文人墨客が好んで住んだ。そのむかしこの付近には大きな池があった。そして上野山のもと()にあったことから、すでに室町時代には根岸と呼ばれていた。江戸時代初期、根岸は金杉村に属しいくつかの民家が建っていた。風光明媚の地であったことから文化文政(18041830)の頃には別荘地として二百戸余りになっていた。明治22(1889)根岸は下谷区に編入されたあとすぐに上根岸町、中根岸町、下根岸町に分けられた。「雀より鶯多き根岸かな」俳人正岡子規は、明治25年から同35年まで根岸に住んだ。今、その住まいは「子規庵」として残されている。(下町まちしるべ/台東区)

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元三島神社鳥居/
根岸

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元三島神社
当社の由来は弘安4年(1281)の役の折、勇将河野対馬守越智通有、大山祇神社に必勝祈願出陣し、神恩加護のもと武功赫々として帰陣したところ、夢中に神のお告げを得て大山祇大神を武蔵国豊島郡に勧請すべく発願し、分霊を奉じて上野山内に鎮座したところ、里人深く尊崇したことにはじまるという。のち、室町の代を経て社運の隆昌をみるが、慶安3年(1650)徳川家光の時、上野山内よりの社地移転を命ぜられ、御朱印により金杉村に移転をとげた。ついで宝永6年(1709)金杉村社地幕府用地になるにおよび、代替地浅草小揚町を賜わり再び御遷座の運びとなった。しかるに代々金杉村に住む氏子から氏神様の遊離はまことに不都合と、金杉・根岸の村民相寄り協議を重ね、ついに当金杉の地熊野社合祀をはかりこれを元三島神社と称し今日に至る。明治4年再建の社殿は戦災で焼失、同23年復興なるもその後の老朽著しく、よって昭和514月新に社殿を建立する。(東京都神社名鑑)

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正岡子規の句碑
「木槿咲て 繪師の家問ふ 三嶋前」



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河野通有(こうのみちあり)
鎌倉中期に活躍した伊予(愛媛県)河野氏正系の武将。御家人通信(みちのぶ)の孫、通継の子で、久米郡石井郷にある縦淵(たてぶち)を本拠とした。1281年(弘安4弘安の役に伯父通時、子通忠らと筑前国博多に出動し、防御線である石塁の前に陣を張ったので「河野の後築地(うしろつきじ)」とよばれ驚嘆された。ついで志賀島の戦いに元の大艦を奇襲して功績をあげた。その後西国および熊野浦の海賊を鎮定し河野氏を中興した。没後、遺骸は彼が元寇戦没者の追善のために建立した周布(しゅふ)郡北条郷の長福寺に葬られた。(コトバンク)


・・・根岸

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街道の風景② 寛永寺陸橋下を線路沿いに根岸薬師寺(御隠殿跡)へ向かいます/鶯谷駅前

d0183387_19330848.jpg根岸
上野の山
北の陰に位置し、西はJR山手線、北は荒川区東日暮里・南千住、東は台東区三ノ輪・竜泉・下谷に囲まれた三角形の町域をもつ。関東大震災や第二次世界大戦で罹災しなかった市街地も含まれ、昔ながらの町並み・建造物が残されている場所もある。名前の由来は上野の崖の下にあり、かつてが入り込んでいた頃、木の根のように岸辺がつづいていたためといわれる。室町時代に武蔵国豊島郡根岸村という地名があったという説もあるが、当時から金杉(金曽木)の地名が一般的であった。江戸時代は武蔵国豊島郡金杉村の一部であり、生保3年に東叡山寛永寺領となった。金杉村の中央以南の地の字(あざ)名は南部を「根岸」、西北と新田を「杉ノ崎」、東北を「中村」、更に東北を「大塚」と分けて呼ばれた。「根岸」が一番南側なので江戸のほうからはこれらの地をまとめて「根岸」と呼んだ。Wikipedia

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街道の風景③ この道の先は日暮里の駅ですね、音羽川が流れていたそうです、ここから戻ります/荒川区境

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御隠殿橋
御隠殿は宝暦4
年(1754)上野寛永寺門主輪王宮の隠居所となった。御隠殿橋はその正門前の音無川に架けられた橋であった。橋の長さは約2.7m、幅約3.9m、石材でつくられた立派な橋であったが、昭和8年音無川暗渠工事で取り除かれ橋けただけが道路の下に残っている。往時、このあたりは水鶏(くいな)の名所で下流には水鶏橋が架かっていた。(荒川区教育委員会)

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御隠殿址・根岸薬師堂跡/根岸


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御隠殿跡(台東区有形文化財)
輪王寺宮
一品法親王は天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山お各山主を兼帯したので「三山管領主」とも呼ばれ、第3世から幕末の第15世まで親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承されてきた。当地はこの輪王宮別邸御隠殿」があった所である。御隠殿の創建年代は明らかではないが、幕府編纂の絵図「御府内沿革図書」には宝暦317537月に「百姓地41畝」を買い上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり同年までには建造されていたようである。敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。輪王寺宮は一年の内9ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用した。また谷中7丁目と上野桜木2丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。慶応4年(18685月、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めていない。(台東区教育委員会)

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境内に「根岸御隠殿の図」が掲示されています
(①感王寺(天現寺)③芋坂⑨谷中天現寺五重塔⑩御隠殿橋⑪大井戸7尺あり⑮当宿役宅⑯月光殿宮常住宅21.呉竹寮23.御隠殿坂31.根岸薬師堂)

東叡山寛永寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27150492/

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うぐいす横町を鶯谷駅へ向かうと書道家会館(左)子規庵(右)があります/根岸

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中村不折旧宅(書道博物館)
中村不折は明治・大正・昭和初期の洋画家であり、慶應2年(1866)7月10日江戸八丁堀に生まれた。幼名を鈼太郎という少年年時代を長野で過し明治20年(1887)上京し、浅井忠や小山正太郎鈼に師事し明治美術会に出品するほか「小日本」新聞の挿絵なども担当していた。明治34年(1901)から4年間フランスに留学しラファエル・コランやジャン=ポール・ローランスの教えを受けた。帰国後は太平洋画会や帝国美術院の会員として展覧会活動を行う一方、太平洋美術学校校長として後進の育成にも力を入れ多くの逸材を育て美術教育にも貢献した。書道界では書家としての活動の他に書道博物館創設者としても知られている。昭和11年(1936113日に開館した書道博物館は中国と日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館で、重要文化財12点、重要美術品5点を含む16千点が収蔵されている。昭和20年(19454月の空襲で中村邸の居宅と蔵は焼失してしまったが、博物館とその収蔵資料および不折の胸像や石燈籠などは焼失を免れた。不折は大正2年(1913)から亡くなるまえまでの30年間この根岸の地に住んだ。昭和18年(19436678歳で死去、多磨霊園に葬られた。東京都指定史跡(東京都教育委員会)


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子規庵(東京都指定史跡)
正岡子規(18671902)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升(のぼる)、本名は常規(つねのり)、別号を獺祭書屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。著書には俳論「俳諧大要」「俳人蕪村」、歌論「歌よみに与ふる書」、歌集「竹の里歌」、随筆「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」など多い。子規はこの場所に明治27年(18942月から住み、同35年(1902919日病のため没す。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。昭和20年(1945)戦災によって平屋造りの家屋は焼失したが、昭和25年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。史跡に指定されている土地の面積は405.6㎡。(東京都教育委員会)

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子規庵
子規庵の建物は旧前田侯下屋敷御家人用二軒長屋といわれています。明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。子規没後も、子規庵には母と妹が住み句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。昭和2年、母八重(83)没。同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。昭和16年妹律(71)没後、同20414日の空襲により子規庵は焼失。幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております。(子規庵HP)

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街道の風景④ 尾久橋通り(左)と尾竹橋通りの分岐、左角に笹乃雪があります。右の根岸小の路地へ入ります/根岸小前

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笹乃雪(ささのゆき)
台東区根岸二丁目にある豆富料理の店舗である。1691年(元禄4年)に初代玉屋忠兵衛が上野の輪王寺の宮といわれる第111代後西天皇の第6皇子・公弁法親王のお供をして京より江戸に移り、根岸新田(現在地)で絹ごし豆富を作り料理やを開いたのが始まり。江戸で初めてできた絹ごし豆富を親王に献上したところ、京を懐かしみ「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と称されたので、屋号を「笹乃雪」と名づけた
Wikipedia

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庚申塔群/根岸小前

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円光寺/根岸 臨済宗妙心寺派のお寺、中には入れませんでしたが藤棚がありました

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江戸名所図会 
根岸円光寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
『世俗、藤寺といふ。庭中、架(か)を繞(めぐ)らしてこれを纏(まと)はしむ。朶(そだ)の長さ三、四尺に充ちて、花色もっとも艶美なり』

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西蔵院山門/根岸


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西蔵院
真言宗智山派。開山、平真法印より第7世真朝法印に至るまで当山の過去帳や墓碑などに寂年の記載はありません。しかし、当山に現存する過去帳によれば天明2年(17826月、第20世中興祐永和上作成の最古の過去帳には「妙永禅尼」(文正3年・14461026日没)「右塔ハ右ノ者地内ニ有江川八左ヱ門」とあります。これらから推察し諸説を交え推考するに、定かではありませんが当山の開山は1400年代前後ではないかと考えられています。(西蔵院HP)

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根岸小学校発祥之地
根岸小学校は明治72月西蔵院庫裏に第五中学区五番小学根岸学校として開校せらる。教員3名生徒60名官給金月10円以外は悉く民費に依る(台東区立根岸小学校第23代校長藤原藤治謹誌並書)


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西蔵院境外仏堂不動堂/根岸

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御行の松

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御行 (おぎょう) の松
江戸期から根岸の大松と人々に親しまれ『江戸名所図会』や広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松はその3代目である。初代の松は大正15年に天然記念物の指定を受けた当時、高さ13.63m 、幹の周囲4.09m、樹齢 350年と推定された。枝は大きな傘を広げたようで遠くからもその姿が確認できたという。しかし天災や環境悪化のため昭和3年に枯死。同5年に伐採した。2代目の松は昭和31年に上野中学校敷地内から移植したがこれも枯死してしまい、昭和5183代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土地中より掘り出して保存し、不動堂の中にこの根の一部で掘った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王宮行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡といったところから別名・時雨の松とも呼ばれた。(台東区教育委員会)

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江戸名所図会 
時雨岡不動堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
『田園雑記 霜の後 あらわれにけり 時雨をば 忍びの岡の 松もかいなく 道興准后(どうこうじゅんごう)』

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街道の風景⑤ お行の松の傍らには音無川が流れていました、うぐいす通りを戻ります/荒川区境

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永称寺山門/根岸 浄土真宗本願寺派のお寺です

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本堂                  鐘楼

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千手院山門(真言宗豊山派)/根岸

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千手院(せんじゅいん)
補陀洛山千手院は初代快實和尚が下谷町(現在の御徒町周辺)に創建して400年以上、城北根岸の地に移って300年以上の歴史を持っております。現在では四季折々に草花が育ち「下町の花の御寺」とまで呼ばれるようになっております。また、千手観世音菩薩さまをおまつりする伽藍は古い木造建築を保ち、江戸時代の密教信仰を伝える五智如来堂も残しており古い時代を偲ばせるお寺でございます。当山が現在のような立派な姿に残るのも檀信徒、ご参拝者、地域の方々のご助力によるものと感謝しております。これからも皆様の心のよりどころとなり、参拝されました方がすがすがしい気持ちとなられますよう仏さまへのご供養、並びに境内整備に心掛けてまいります。どうぞ皆様にも、末永く当山を盛り立てていただきますようお願い申し上げます。(千手院HP)

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街道の風景⑥ 駅に近づくと賑やかになります、右折して金杉通りから三ノ輪に向かいます/根岸

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鶯谷駅周辺地図
(黄:歩行ルート 橙:金杉通り 緑:うぐいす通り 紫:言問通り・尾久橋通り・尾竹橋通り)


・・・・
資料ファイル

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江戸名所図会 根岸の里 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用
『呉竹の根岸の里は、上野の山蔭にして幽趣あるがゆえにや、都下の遊人多くはここに隠棲す。花になく鶯、水にすむ蛙(かわず)も、ともにこの地に産するもの、その声ひとふしもありて、世に賞愛せられはべり』


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「根岸前田邸近傍図」(明治後期根岸の復元図)/根岸子規会
(橙:奥州裏街道 青:旧音無川 緑部:御院殿址 黄部:加賀屋敷址)

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ようこそ根岸へ
正岡子規は明治25年に根岸に転居し明治35919日に亡くなるまで、この根岸の地で彼の生涯の文学活動の大半を行いました。また、根岸に住むことを誇りに思い暇さえあれば根岸周辺を散歩して俳句を詠みます。歩くことができなくなれば人力車で出かけ、それもかなわなくなれば六畳の病床に聞こえてくる町の音に耳を澄まし、根岸の光景を思い出しながら俳句を詠みます。私たち根岸子規会は地域の方々の協力のもと子規の俳句を街角に貼りました。また今では顧みられることもなくなった史料をもとに当時の景観の再構成を試み「根岸前田邸近傍図」を作成しました。子規の住んでいた上根岸は言問通り・尾竹橋通り・尾久橋通りの開通、鉄道用地の拡幅、前田邸・諏訪邸の解放により大きく変化しました。しかし、切れ切れになりながらも鶯横丁狸横丁根岸中道は残っています。街角の「近傍図」を見ながら子規に会おうと夏目漱石、高浜虚子、長塚節等が歩いた道を辿ってみませんか。(根岸子規会)

石神井用水
石神井川の水を王子神社と南の飛鳥山の間でせき止め(王子石堰)東へ流した用水。別名王子川、音無川という。北区王子から田端、西日暮里、日暮里の現在のJR線に沿って流れ、日暮里駅前から荒川区と台東区の区界を形作っている。三ノ輪まできたところで流れがいくつかに分かれ、北東方向には石浜川として、南東方向の流れは思川として明治通りに沿い泪橋を抜け白髭橋付近で隅田川に注ぎ、もう1つは日本堤沿い山谷堀に通じた。江戸期には蛍も飛び交ったといわれたが、次第に汚れ、現在はすべて暗渠化されて下水道となっている。Wikipedia


・・・

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御行の松由来
時雨(しぐれ)が岡「お行の松」といえば昔は湯島天神より東何町「お行の松」と道しるべがあったほどの江戸名所の一つで、広く世に知られたものでした。この松については種々の伝説があり、弘法大師又は文覚上人が此処にて修行せし事あり、因って「お行」というなどの伝えもあるが、この松文覚上人が活躍していた700年以上のものではなく、まして弘法大師の千年以上前の物ではなく、伐採した年輪から推定して500以上はたっていないと思われる。
根岸は昔、奥州路であった由で今から500年前・文明18道興准后(聖護院宮法親王)が東北地方巡遊の砌に北陸から関東を一巡されての帰り路、浅草の石浜から上野へ向かわれる途中ある松原にさしかかられた。するとにわかに時雨が降りだしたので、准后はとある松の大木の傘を広げた様な枝の下に雨宿りをなされた。その時、『霜ののちあらわれにけり時雨をば忍びの岡の松もかひなし』と詠まれたという事が廻国雑記にかかれてありこれが文献にあらわれた最古のもので、この歌から「時雨が岡」の地名が起こり、雨宿りされた松を「時雨の松」と呼ぶようになったと言われている。

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天保初年の江戸名所図会に『「時雨が岡」とは根岸の里、庚申塚といえるより34丁、艮(東北)の方小川の傍て、一株の古松もとに不動尊の草堂あり。土人この松を「お行の松」と号つく。一つは「時雨の松」とも呼べり』とあるから、按ずるに忍の岡というのは上野東叡山旧名で、この地も東叡山の御領分ゆえに和歌の意をとって後世に好事の人がこう名付けたものと考えられる。また金杉村の旧い「金杉水帳」には「大松」と記したものがあり、これがこの松の本名かと思われる。
「お行の松」と唱えたのは宝暦(約250年前)以後のことらしい。それは御歴代の輪王寺の宮が御一大に一度「御加行」(ごけぎょう)「御続堂」(ぎょうどう)と言って百日間、毎朝種々の御修業があって山内にある仏陀、神祠を巡拝あらせられる例であったが、宝暦以降、何時の宮であったか御加行続堂の際に根岸の御隠殿を通ってこの松の木に来たり息わせられた事があったのを、宮様の御行のお休みの松という意味で「お行の松」と称したことに由縁して呼ばれたと言う。

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この松の下には不動堂の小さな草堂があり「新編武蔵風土記稿」によると「弘法大師」このにて大日不動尊の修法を行いしを、或いは康平(約960年前)の頃源頼義が奥州攻めに祈願したりと、また源頼朝が平家追討の為文覚上人をして行をなさしめし所と諸説あるが、いずれも前に述べたように松の樹齢一致しないので執り難い説である。また、別説で「出羽の国湯殿山の末寺大日坊の所在せし所なる」常州佐竹の一族・岡田左衛門なる者が先祖の由緒ある所ゆえにとして、宝暦年中文覚上人の手彫りの一寸八分の不動尊を石の唐柩に納めてこれを松の下に埋め、その印にとして石の不動尊を置いたと言う。その後、文化3寅年江戸中大火の後で一比丘尼(貞照)が此処の土人ならびに福生院(真言宗)主と力を合わせ、再び庵を結び不動堂を建立して堂内へ右の石像を安置し、土中の石柩を掘り出して同所に埋めたという。明治維新の数年前に福生院は廃寺となり、不動堂は西蔵院境外仏堂となったものであるが、その頃には老松も衰態を見せ始め近隣の人々の憂いを集めていた。大正146月史蹟名勝天然記念保存仮指定となり、翌15年には天然記念物に指定された。惜しいことに昭和3年夏にはほとんど枯死してしまった。御行の松復興奉賛会発行・お行の松由来より抜粋(お行松不動講)

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江戸時代の地図/お行松不動堂掲示板

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明治13年測量地図/お行松不動堂掲示板


by Twalking | 2018-10-27 19:29 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 かっぱのぎーちゃん-曹源寺   


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かっぱのぎーちゃん/曹源寺(かっぱ橋本通り・台東区松が谷)
これはまた可愛らしいかっぱさん、山門を入ると迎えてくれます。この一帯は低地で水はけが悪くしばしば水害に悩まされ困窮していました。そこで当地の商人・合羽川太郎(合羽屋喜八)が私財を投じて「新堀川」の開削を行いました。言い伝えでは、隅田川に棲んでいた河童がこの工事を手伝い完成させたと言われます。文化11年(1814)に喜八が没し、菩提寺の曹源寺に葬られましたが、手伝った河童を見ると様々な御利益があると評判を呼び「河童大明神」として境内のお堂に祀られるようになった・・・、「かっぱ寺」謂れだそうです。

かっぱ寺・曹源寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27180119/

by Twalking | 2018-10-26 22:49 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 入谷鬼子母神   

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真源寺/台東区下谷
「恐れ入谷の鬼子母神」の地口で知られる真源寺を訪ねてみました。この地口は太田蜀山人の狂歌「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮 志やれの内のお祖師様」という酒落言葉の中から出たものだそうです。言問通りの喧騒をよそに境内は静かなもの、大きな名入りの提灯は目を引きますが、思いのほか質素な感じのお寺さんでした。江戸の頃から門前の朝顔市は著名で下町情緒豊かな風景であったそうですが、蜀山人さんは何を恐れ入ったんでしょうね~???。江戸三大鬼子母神の入谷と雑司ヶ谷はお参りしましたが、あと一つは市川の法華経寺さんとか、機会があったらお参りしたいものです。

入谷鬼子母神の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27180119/
雑司ヶ谷鬼子母神の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24149684/



by Twalking | 2018-10-26 15:41 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 奥沢駅   

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東急目黒線奥沢駅/世田谷区奥沢
踏切から駅をみたことはありますが、
乗降するのは初めてです。
武蔵小杉・登戸で乗り換えると意外と近いですね。


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奥沢駅
世田谷区奥沢三丁目にある東急電鉄目黒線の駅、目黒線で唯一世田谷区の駅である。単式ホーム11線と島式ホーム12線を有する地上駅。目黒線の車両基地である元住吉車検区奥沢車庫に隣接している。3番線は奥沢車庫と事実上一体化しており、田園調布方とは繋がっておらず車止めが設置されている。1972年(昭和47年)に駅を改築し駅前に噴水のある広場を設けた。この駅前広場は1992年(平成4年)に「ふんすい広場」と名付けられ「せたがや百景」にも選定されている。Wikipedia


by Twalking | 2018-10-25 22:49 | ○station