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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2019年 01月 ( 38 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-玄照寺   

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阿形

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吽形
山門脇の狛犬、もしかして彪さんかな・・・??、ちょっとお訪ねしたくなりますね


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阿形

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吽形
こちらは本堂前の狛犬さん、声高らかに歌っているみたい・・・、可愛いですね。

玄照寺/烏山寺町(世田谷区北烏山)
烏山寺町の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27405293/

by Twalking | 2019-01-30 21:26 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 麻布十番駅   

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麻布十番駅/大江戸線(港区麻布十番)
エスカレーターを何回か乗り継いでやっとホームになります。地上の標高は5m、ホームの深さは約32mとか。お隣の六本木駅は大江戸線では一番深いホーム(深さ42m)ですから、電車も台地上から古川低地へ下ってるんですね。歩けばすぐ分かるのに、地下だと気づかないですね~・・・。


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麻布十番駅
港区麻布十番にある東京メトロ・都営地下鉄の駅である。東京メトロの南北線と都営地下鉄の大江戸線が乗り入れ接続駅となっている。2000(平成12年)営団地下鉄南北線(目黒-溜池山王間)全線開通により開業、12月に都営地下鉄大江戸線(国立競技場-清澄白河-都庁前間)全線開業により乗換駅となる。大江戸線は島式ホーム12線を有する地下駅、改札は地下4階、ホームは地下6階にある。(Wikipedia

by Twalking | 2019-01-29 23:02 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり麻布狸穴町   

日時 2019.1.24(木)
天気 晴れ


所用があって港区の麻布支所まで出かけました。
支所は鳥居坂上にありますので、ついでに
周辺の坂道を歩いてみました。

外苑東通りの西側は古川への谷になっていて、
坂上が旧飯倉片町、谷側は麻布狸穴町になります。
ここは訪ねて見たかった所、楽しみです。


・・・麻布十番

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街道の風景① 麻布十番から鳥居坂を六本木方向へ向かいます/環状3号線

環状3号線

六本木区間は青山から六本木を経由し芝へ至る区間。並行する外苑東通りのバイパス機能を持つ。1993年に全線開通・供用を開始した。外苑東通りが尾根沿いを走るのに対して当道は谷沿いの低地を走る。都道319号環状三号線に指定されている。Wikipedia


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十番稲荷神社鳥居/麻布十番

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十番稲荷神社
祭神:倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)宗像三女神
もと末広神社(旧坂下町鎮座)および竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)です。両神社は昭和20415日に戦災に遭い焼失、昭和256月復興土地区画整理により両社境内地を現在地に換地、隣接指定されました。その後両社は合併して社名を十番稲荷神社と改称し、平成9329日現社殿に建て替えられました。

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末広神社由緒
慶長年間(15961615年)に創建され、元禄4年(1691年)には坂下東方雑式に鎮座していましたが、同6年永井伊賀守道敏が寺社奉行の時、坂下町41の社域に遷座されました。往古より境内に多数の柳樹があり、「青柳稲荷」と称されていましたが、後にその中の一樹の枝が繁茂して扇の形をしていたことから「末広の柳」とよばれるようになり、社名に冠されて末広稲荷と称されました。その後、明治204月に末広神社と改称されました。

竹長稲荷神社由緒(たけちょう)
創建は定かではありませんが一説には和銅5年(712年)とも、弘仁13年(822年)に慈覚大師の八咫の神鏡を以て武蔵国豊島群竹千代丘(今の鳥居坂上)へ稲荷大神を勧請したとも伝えられています。延喜式内社の稗田神社と目されており、少なくとも10世紀初頭には鎮座していた古社と考えられます。その後、弘安2年(1279年)に鳥羽氏が社殿を再建、そして寛永元年(1624年)3月に永坂町に遷座されました。(十番稲荷神社HP)


・・・鳥居坂

旧麻布鳥居坂町
東鳥居坂町と鳥居坂町との間の坂が鳥居坂です。これは氷川神社の二ノ鳥居があったためという説もありますが、江戸時代に鳥居丹波守屋敷があったためと思われます。明治5年(1872)に町名を付けるときに坂名をとりましたが、鳥居氏の屋敷の無いほうが麻布鳥居坂町となり、有ったほうが東鳥居坂町となりました(麻布地区の旧町名由来/港区HP)

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坂の風景① 鳥居坂を上ります、坂上には国際文化会館、東洋英和女子学院などがあります

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鳥居坂
江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間16881703)ごろ開かれた道である。(標柱)


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国際文化会館(左)
敷地は江戸時代から幕末にかけて多度津藩(現・香川県丸亀市)藩主京極壱岐守の江戸屋敷であったもので、明治初期に井上馨の所有となった。その後、久邇宮(くにのみや)邸、赤星鉄馬邸、岩崎小弥太邸と変遷し戦後は国有地となっていたが、払い下げられ1955年(昭和30年)に開館した。現在の庭園は岩崎小弥太が京都の造園家「植治(うえじ)」こと7代目小川治兵衛に作庭を依頼し、桃山時代あるいは江戸初期初期の名残りを留める近代庭園の傑作として知られている。庭園は2005年(平成17年)に港区の名勝に指定された。Wikipedia抜粋)

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東洋英和女学院
カナダ・メンジスト教会(現在のカナダ合同教会)婦人伝道会社から派遣された宣教師ミス・カートメルによって1884年(明治17麻布鳥居坂に開設された。キリスト教教育を行なうが入学及び教員の着任に際してクリスチャンであることは求められない。女子高として中高一貫教育が行われており高校からの入学者募集は行われていない。てぃばすの通る道路の反対側に港区麻布地区総合支所(旧麻布区役所)が位置する。Wikipedia

六本木周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22176559/

・・・六本木

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街道の風景② 外苑東通りに出て、東側の谷へ下ります/六本木5付近


外苑東通り

新宿区早稲田鶴巻町交差点(新目白通り交点)から、港区麻布台の飯倉交差点(国道1号交点)に至る道路の通称である。全線が都道319号環状3号線に属しており、神宮外苑の東側を通ることから「外苑東通り」と命名された。港区青山一丁目交差点(国道246号交点)の南側で環状3号線に接続する。新宿区弁天町から新宿区市ヶ谷仲之町の間にかけては片側一車線であり、渋滞が激しいため拡幅事業中である。(Wikipedia

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坂の風景② 坂途中には共同墓地があります、南へ登ります丹波谷坂/六本木

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丹波谷坂
元和年間旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした。(標柱)


・・・永坂

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旧麻布永坂町
町の北の方に「長い坂」があるので永坂町と呼ばれるようになりましたが、長坂氏の居住地があったのが由来という説もあります。東京の坂道の名で一番古く記録にあるのは上野の車坂ですが、その次はこの永坂で明暦3年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』という江戸初期の地図に「なか坂」(昔は濁点を省略した)と書いてあります。(麻布地域の旧町名由来/港区HP)

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坂の風景③ 標柱は旧道に建ちます、下ると麻布十番(一之橋)です

永坂
麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。(標柱)


・・・麻布台

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街道の風景③ 麻布通りを横断します、西側は谷になっています/飯倉片町

麻布通り(415号)
六本木二丁目交差点-古川橋交差点間に「麻布通り」の名が付与されている。これは港区により命名され2014年に都から承諾を受けたものだが、戦後に整備された比較的新しい道路なので広く周知された通称名は特に存在しない。旧来のものとしては道往寺前-伊皿子交差点間に伊皿子坂、魚籃坂下交差点-伊皿子交差点間に魚籃坂、一の橋交差点-飯倉片町交差点間の長い坂に永坂という名称が付いている程度である。Wikipedia

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飯倉片町
飯倉というのは古くからある地名です。昔伊勢神宮の直轄領である屯倉(みやけ)(役所・倉・水田を含む)を置いた跡なのでこの名が起こったといわれています。飯倉片町の起立の時期については飯倉町各丁と同じ頃のようです。「江戸図」には延宝2年(1674)町屋としてみえており、このころから片町と呼んだらしく片側町であったため飯倉片町というようになりました。(麻布地域の旧町名由来/港区HP)


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外務省飯倉公館
首脳会談や外相会談のほか各種会議やレセプションなどの交流活動にも利用されている。吉田五十八の設計で1971年(昭和46)に完成。所在地は港区麻布台1丁目53号だが、名称に冠した「飯倉」はこの地の歴史的名称「飯倉町」に由来する。また江戸時代の幕末期の開国以来の外交資料を保管し展示する外交史料館を併設している。近傍には旧事務次官公邸だった麻布台別館もある。(Wikipedia


・・・麻布狸穴町

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麻布狸穴町(まみあなちょう)
かつては飯倉村と呼ばれていましたが、江戸時代以降おいおい町並みとなり飯倉狸穴町というようになりました。狸穴の地名の由来は諸説ありますが谷あいの土地で古くより木立も繁り魔魅(まみ)(今日の動物学上ではアナグマとされており、タヌキと混同されたこともあったといいます)も住んでいそうな場所であったためと言われています。また、荻生徂徠(儒学者・16661728)は採金、すなわち「まぶ」のなまりとし、享保6年(1721)ごろ黄金のような砂がでましたが、まだ年のたらぬ金だといって掘らなかったと言っています(これは黄色の雲母(鉱物の一種)ではないかと想像されています)。この説は独特のものです(麻布地域の旧町名由来/港区HP)

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坂の風景④ ロシア大使館脇から古川方向へ下ります/麻布台

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狸穴坂(まみあなざか)
まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔そのまぶ)が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。(標柱)









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右手がロシア大使館          坂下から麻布台を望みます

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坂下に狸穴公園があります

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園内には狸穴大明神が祀られています、「狸」じゃなくて狐さんですね・・・・

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街道の風景④ 麻布十番に戻りまた、左にカーブするのが明治通り、右に登るのが麻布通りです/新一ノ橋

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麻布十番周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(橙:中原街道 黄:六本木通り・麻布通り・外苑東通り・明治通り 青:古川)

麻布十番周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22181592/


・・・・
資料ファイル


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麻布区
麻布区は港区の前身(東京市野の行政区)の1つである。1878年(明治11)に郡区町村編成法が施行され、東京府域が156郡に区画分けされた際に発足した。その範囲は今日「麻布」を名前に含む町すべて(麻布十番・麻布台・南麻布など8町)と六本木一丁目~六丁目の町域にほぼ一致する。1947年(昭和22)に港区が発足し麻布区は消滅。この際、旧麻布区域のすべての町名には「麻布」を冠する町名に変更がなされたため(一例、「六本木町」を「麻布六本木町」に変更)住居表示の実施による町名町域統合が行われるまで、麻布地区一帯には「麻布○○町」といった町名が41存在した。麻布永坂町に住む松山善三と麻布狸穴町に住む澤博士の両者の運動により麻布永坂町麻布狸穴町の地名だけが変わらず今日に残っている(ただし両町とも約半分の面積に割譲)Wikipedia)
図:港区等高線マップ(部分)/港区郷土歴史館


by Twalking | 2019-01-28 22:45 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕陽   

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多摩センター北口通り/多摩市落合
西陽になが~い影、
少し陽が長くなったかな~・・・、
冷え込みが厳しそうです、ご自愛くださいませ。

by Twalking | 2019-01-28 22:11 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 フクロウ   

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港区郷土歴史館/港区白金
おめめパッチリで可愛らしいこと、それに
「森の物知り博士」て言われてるから賢こそう、
剥製ですが、生きているみたいですね~。


フクロウ
(梟)
夜行性であるため人目に触れる機会は少ないが、その知名度は高く「森の物知り博士」「森の哲学者」などとして人間に親しまれている。全長は50-62cm、翼開長は94-110 cm、尾長は22-25 cm。上面は褐色の羽毛で覆われ濃褐色や灰色、白い斑紋が入る。下面は白い羽毛で被われ褐色の縦縞が入る。平たいお面のような顔で、頭は丸くて大きい。目は大きく暗闇でも物がよく見えるように眼球が大きく発達し、眼球とまぶたの間に半透明の瞬膜があり、日中は眼球を覆い網膜を保護する。目は他の種類の鳥が頭部の側面にあるのに対して、人間と同じように頭部の前面に横に並んでいる。Wikipedia


by Twalking | 2019-01-27 22:31 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 標本-ミンククジラ   

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港区歴郷土歴史館/港区白金
「遺跡で出たんですか???」と伺いましたら
宮城県沖で捕れて、標本館に保存されていたものとか、
デンと飾られているので目を引きますが、小さい部類だそうです。


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ミンククジラ(ナガスクジラ科)
宮城県鮎川で捕獲されたクジラで、東京慈恵会大学の標本館に収蔵されていましたが、平成10年(1998)に寄贈されました。ミンククジラは歯のかわりにヒゲを持つクジラの中まで、ほぼ世界中の海に生息しています。体長は9m前後になります。ナガスクジラ科の中では最も小さいクジラです。(説明板)写真:クジラのヒゲ


by Twalking | 2019-01-27 19:09 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ステンドグラス   

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港区郷土歴史館/ゆかしの杜(港区白金台)
丁度、西日が射し込んで美しく輝いていました。旧東海道の札の辻(港区三田)近くにあった浅野総一郎邸にあったもの。その後、芝浜中学に受け継がれ、校舎建替えの時に不要となりこちらへ保存されたものだそうです。


ステンドグラス
(stained glass)
エ字形の断面を持つ鉛のリムを用いて着色ガラスの小片を結合し、絵や模様を表現したもの。ガラスに金属酸化物を混入することで着色している。キリスト教や西洋館の窓の装飾に多く用いられる。外部からの透過光で見るため人の目に非常に美しく映る。装飾を否定するモダニズム建築全盛の時期になるとあまり用いられなくなったが、今日では再びステンドグラスが見直され公共建築、住宅、教会堂などに採用されている。ガラス工芸としてランプの傘などにも用いられる。日本では近代建築とともにステンドグラスの技法が伝えられた。素朴なものでは長崎市にある大浦天主堂(国宝)のステンドグラスがある。Wikipedia


by Twalking | 2019-01-25 22:21 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 烏山川緑道(世田谷区)01-源流域~船橋   

日時 2019.1.16(水)
天気 晴れ


烏山川は高校の校庭脇を流れていましたし、
通学路なので橋も渡っていました。
現在は緑道となっていて流れはありません。

高源院の鴨池が源流の一つなので、ついでに
どんな感じな・・・と流路を辿ってみました。
史跡や古刹もあるので楽しめそうですよ~。


・・・北烏山(源流域)

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川の風景① この鴨池が烏山川の源流域一つです、ここから南へ下ります/高源院

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烏山寺町
この地は水利に恵まれ地下水に富み、地元の人の話では井戸水を柄杓で汲めるほどであったという。烏山の地は海抜約45台地で、北から東南部にかけては烏山川(高源院の鴨池を水源とする)と烏山用水(玉川上水の分流)が流れ、西北部から南東には戸越用水(品川用水)が流れていた。西には水無川という川もあり、これらの川付近の低地は水田となっていた。高源院の鴨池はもともと「亀の子出井」(かめのこでい)と呼ばれていた湧水で年中水が涸れず水位は井の頭池と同じであるといわれる。Wikipedia

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川の風景②「昔はどぶ川が流れてました」と地元の方、これが川筋のようです

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フェンスで行けませんが鴨池方向です  寺町の裏側を流れていたようです

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川の風景③ 烏山団地の中を南へ進みます/松葉通り

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中央道を越えます           橋跡があるようですが???/甲州街道

烏山寺町の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27405293/


・・・旧甲州街道

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川の風景④ 下谷の前後に流路跡がありますが「大橋場跡」に橋があったようです/下宿バス停(旧甲州街道)

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手前の流路              大橋場跡の流路 

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大橋場跡 親柱に「武州千歳村大橋場跡」とあり、脇には「下山地蔵尊」が建っています

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フェンス先              京王線で行き止まり


・・・南烏山

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烏山川
世田谷区北烏山付近に源を発し南東へ流れ、同区三宿付近北沢川と合流して目黒川となる。流路延長は11.70km。世田谷区北烏山にある高源院弁財天堂の池が源流の1つ。1970年以降、ほぼ全面的に暗渠化されほとんどが下水道(烏山幹線)へ転用された。近年は暗渠部の緑道化が進められ「烏山川緑道」と呼ばれている。八幡山3丁目・都営八幡山アパート付近には環八通りに沿って廃用になった開渠が遺る。水は流れていない。Wikipedia)(南烏山付近マップ 緑:烏山川緑道 橙:旧甲州街道 紫:滝坂道)
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烏山念仏堂 京王線を渡った烏山川の右岸に念仏堂、烏山神社があります/南烏山

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武州烏山村念仏堂・薬師堂略縁起
念仏堂・薬師堂の歴史は古く室町時代(足利幕府のころ)世田谷領主・吉良氏に、徳川時代には江戸幕府に関わりを持ちつつ明治の新しい時代を迎え、明治5年(1872)学制発布されると翌6烏山小学校の前身「温知学舎」がこの地に誕生しました。室町時代、旧烏山村はじめ世田谷全域、深大寺を含む調布市、三鷹市南部、狛江市、多摩川の向こうの川崎市など広い地域を納めていたのが、足利将軍家の一族世田谷(東条)吉良氏です。初代・吉良治家は世田谷豪徳寺つづきの東南の舌状台地に居城(世田谷城)を構え世田谷郷を領有したのが、永和年(1376)の頃と文献に見えます。その後、4代領主・吉良右京大夫頼高菩提寺として、また世田谷城北西の備えとして烏山村の南端に「栴澤寺」(せんたくじ)を開創しました。六代成高(しげたか)の頃です。この地域は世田谷城から約3km余、台地続きで往来に便利でした。

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栴澤寺(泉沢寺)は浄土宗・頼高法名(戒名)は泉沢寺殿船運光大禅定門です。時に延徳3年(1491)。実は4代頼高、5代政忠父子は永享の乱に関わり、室町幕府より世田谷領は没収され父子は厳重蟄居を命ぜられなど不運の領主でした。6成高の代に至り再び世田谷領は吉良氏に与えられるというプロセスがあります。泉沢寺は七堂伽藍を整え、吉良氏創立寺院中最高の格式を誇ったと伝えています。寺域は烏山神社から南側一帯で、寺領として旧甲州街道の南側全域、粕谷・廻沢にまで及んでいました。泉沢寺の開山と同時に寺領は烏山村から独立して荏原郡泉沢寺村に行政替えとなり江戸初期まで続きました。寺の運営にあたり烏山近郷領民のすべてが領主の命により泉沢寺の信仰集団(未だ檀家制度なし)に組み込まれ、厳しい奉仕活動を余儀なくされたため村から逃げ出す領民もいました。然し、開山から約60年を経た天文1815492月、第5世心誉住職の代に失火のため全山悉く灰燼に帰したことは誠に悔しい限りです。かくて5世心誉上人は泉沢村に土着されたと古老は伝えています。

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時の領主7吉良頼康は烏山村に再建することなく川崎市中原区上田中の現在地に移転し、現存する名刹です。泉沢寺は江戸時代を通じ20石の朱印寺です。泉沢寺移転の後、荒野となった地域には泉沢寺の守護神・白山社の祠と古い時代から存在した薬師堂が隆盛を極めた寺の盛衰を達観してきました。近郷村民はこのお薬師さんに無病息災、健康長寿を祈願してまいりました。ご本尊の薬師瑠璃光如来立像は室町時代後期の作と伝え貴重な仏像で霊験あらたかでありがたいお薬師さんと多くのみなさんから大層崇敬されております。徳川時代後期に刊行された新編武蔵風土記稿に「薬師堂・除地56歩、甲州街道より南、小名泉沢寺にあり、堂4間に4間半、本尊薬師は木仏にて長さ15寸、もとよりわずかなる堂なれば、いつの頃の草創なりと伝うことも伝えず」と記され、現存の薬師如来立像がそれであります。(念仏堂・薬師堂世話人一同 本寺・西向薬師医王院)

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釈迦涅槃石像(釈迦如来入滅の姿)
この石造は江戸時代中期から後期のものと伝え、東京都内で唯一体という貴重な文化財であります。お顔は童顔で柔和、拝者に光と希望をお与えくださる有難い御仏です。この尊像には建立寄進者名が刻字され昭和初期に判読できたと伝えています。また、泉沢寺跡付近から永徳元年(1381)明徳年間、他の板碑も出土しております。(念仏堂・薬師堂世話人一同 本寺・西向薬師医王院)

泉沢寺(川崎市中原区上田中の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22251172/

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烏山神社鳥居

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烏山神社
祭神は白山比咩大神・御嶽大神・天照皇大神・倉稲魂命・菅原道真公、創立および古代の縁由については不詳でみるが、元文元丙辰年9(1736)吉祥日と記載された手水鉢あり、これより以前であることは推察できよう。それ以後については社史によると天保3年大嵐により社殿大破したため改築、明治6年には村社に列せられて大正7年現今の社殿が新築された。さらに昭和7年には社号白山神社白山御獄神社と改称することになり、昭社29年には宗教法人法による登記を完了した。次いで昭和37年には町内天神社・神明社・稲荷社を合併して烏山神社と改称し39年に神楽殿を改め新築して今日に至っている。

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この神社は古くから村の鎮守として、旧千歳村の中では最大の氏子数をもち村の崇敬を集めていた。今日でも祭儀として例大祭が924日、春祭224日、秋祭1124日、月次祭毎月15日、元旦祭11日、初午祭2月初午日、神明祭311日、天神祭4月25日とにぎやかに行なわれている。「新編武蔵国風土記稿」によると「除地三段ニ畝ニ歩、小名泉沢寺ノ並ニアリ。村ノ鎮守ナリ。本社六尺四方。南向。拝殿ニ間ニ三間。神体白幣ヲ建ツ。社ノ廻リニ松杉ノ類村立リ。鎮座ノ初ヲ詳ニセズ。上高井戸村医王寺ノ持とある。なお合記された三社についてであるが、天神社は祭神は菅原道真公で烏山町713番地にあったものであり、神明社は祭神は天照皇大神で鳥山町913番地にあったものである。稲荷社については鳥山町にあった2社(いずれも祭神は倉稲魂命)のうち杉田一族の稲荷の方が合記された。他に志村稲荷といって志村一族によって祭られていた穏蒋は現在鳥山持社の境内におかれている。(せたがや社寺と史跡)

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高橋番神堂撤去記念碑
高橋一族は戦国時代に伊豆雲見城より当地に移り住み、一族の守護神として三十番神様を南烏山二丁目274番地に勧請す。爾来星霜を重ねる事四百年今度の都市計画整理地に当り昭和60417日に諸神それぞれの御本宮に御帰りを願う祭を修して後、御堂を撤去し当烏山神社境内に記念の調を記す。昭和607月吉日建立(碑文)

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高橋氏高
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏家臣。永正6年(1509)伊豆国雲見上ノ山城にて誕生する。・天文31534)扇谷上杉家臣の難波田善銀(なんばだ)が守る武蔵国多東群深大寺城を攻略した。その後、兄の綱高と共に深大寺城奪回に押し寄せた難波田善銀率いる扇谷上杉軍と対峙した。この時に武蔵野烏山を築く。その間に北条氏綱が河越城へ進軍したため、難波田勢が撤退を始めるとそれを追撃。多くの敵兵を討ち取り大勝した。・天正181590年)の小田原征伐では、氏直の命により吉良氏の兵600人を率いて伊豆国下田城に検使役・援軍として籠城する。3月に小田原城が落城したため氏直に従い随行者として高野山に入山。氏直の死後、帰郷し武州烏山に住した。Wikipedia抜粋)

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川の風景⑤ 千歳通りを越えると緑道が付いています、左が世田谷文学館、右後方が烏山神社です/南烏山

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世田谷文学館
世田谷区南烏山にある博物館施設である。1995年に東京23区初の近代総合文学館として開館した。運営は公益財団法人せたがや文化財団。環八通りと蘆花恒春園の近くに位置し、ウテナ創設者久保政吉旧邸宅に隣接して建てられた。(Wikipedia

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芦花翠風邸
お隣は久保雅吉の旧邸でしたが、現在は高級老人ホームになっています。






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・・・八幡山

中世には
鍛冶山と呼ばれた。1553年(天文22年)吉良頼康から大平静九郎に「かち山」が与えられた文書が残る。江戸時代には当初は天領だったが、1633年(寛永10年)に彦根藩井伊氏領となった。村南部は藩の御林となり薪炭が採取された。八幡山遺跡からは江戸時代初期の炭焼窯跡が発掘されている。慶安年間、船橋村より移住した島田五兵衛が当地を開拓し八幡山村が成立した。1889年(明治22年)北多摩郡千歳村の大字となる。村内にあった八幡神社が由来といわれるが定かではない。一般的には一丁目の八幡神社が由来の神社とされている。(Wikipedia

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川の風景⑥ 環八に沿って左側に緑道が続きます/八幡山

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横断歩道手前に案内板         環八沿いの旧流路跡

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川の風景⑦緑道を進むと八幡山遺跡の案内板があります

d0183387_15051767.jpg八幡山遺跡
豊かな水と緑に恵まれた世田谷区は関東平野南西部に拡がっている武蔵野台地の南東部に位置し、埋蔵文化財(遺跡)の宝庫でもありその数は東京23区内でも最も多い28ヶ所以上にも及んでいます。その中でも武蔵野台地の内部を流れる小河川沿いにも先土器時代や縄文時代を中心とした遺跡が多数発掘されたいます。八幡山遺跡も小河川の一つである烏山川(北烏山4丁目にある高源院から武蔵野面を刻んで東南に流れている)の左岸の台地に位置し、縄文時代中期の集落や江戸時代の炭焼窯等が調査されました。この調査で遺構(住居跡・小竪穴・土杭・ピット)や遺物(土器・石器・土製品)等が発掘されました。(碑文)

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滝坂道で通った所です         この先希望丘公園を左折します

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・・・船橋

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船橋は世田谷区中西部に位置し砧地域に属する。東で経堂、南で桜丘、環八通りを境に西で祖師谷、北で粕谷、桜上水、八幡山、上北沢と隣接する。小田急線千歳船橋駅北側、環八通りの東側にあり、同駅周辺や道沿いには商店が見られる。南北に細長い形をしており南端の一丁目から北端の七丁目まで数字順に並ぶ。船橋の地名は文字通りかつてこの辺りは湿地帯で「船橋」をかけて交通の便を図ったことに由来する。
Wikipedia

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川の風景⑧ 希望丘公園の先まちかど図書館から緑道が続いています/希望丘通り先

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梶山橋/まちかど図書館前        本村橋を潜ります

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希望丘小の横を通ります        荒玉水道道路を横断

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川の風景⑨この先緑道は続きますが、観音堂を経由して千歳船橋駅に向かいます/千歳が丘高下

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船橋観音堂

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船橋観音堂
当観音堂の由緒を常徳院開山伝承、世田谷城名残常盤記、等文献に依て顧みるに、480有余年前延徳・明応の頃、船橋草奔の地穴山と呼ぶ所に世田谷領主・吉良氏家臣内海鈴木等の菩提所・浄徳庵と云う小庵あり。此庵嘗て足利義尚公武蔵国に下向の折ゆかりある故を以て明応年代、領主・吉良成高公世田谷城の守護となさんと多摩郡二俣尾海禅寺より益芝正謙和尚を迎え、寺名を常徳院と改め吉良家一寺に取立開山し、居城側近宮之坂に移動し給う。茲に於て吉良氏仏堂を船橋に存置し、旧浄徳庵檀徒領民等宣撫の要あり故に浄徳庵旧跡南方至近の地をとし一宇を建立して聖観世音菩薩を祀る。是れ当観音堂の創始と云う。本尊安置の御堂造り厨子扉に吉良家恩賜の菊桐の定紋あるは此の由縁を思惟す。自来戦乱の幾星霜を経て江戸時代宝暦113月及び聖代昭和1112月両度本堂再建の儀あり。而して方今本堂破損甚しく今年6月補修を施し宝性寺上田龍憲和尚を導師として本尊供養を厳修す。(説明板)

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船橋橋観音堂厨子
船橋観音堂の創建について伝承では15世紀後半に吉良成高が船橋にあった浄徳庵を宮坂へ移し常徳院とした代わりとして、観音堂を現在地に創ったといわれています。堂内に納められている厨子の扉に十六葉菊と五三の桐の家紋をかたどった飾りが付けられていることからも、船橋観音堂と世田谷吉良家、常徳院の関係が古くから指摘されています。この厨子の建立年代を知る資料は現在のところ発見されていませんが、各部の彫刻絵様から判断すると江戸時代中期の建立と推定されます。地域の歴史や文化を知るうえで貴重な建造物です。世田谷区登録有形文化財(建造物)非公開(世田谷区HP)

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烏山川緑道周辺地図明治39年(今昔マップ/埼玉大学教養学部・谷謙二氏を参照)
(青:烏山川・北沢川・玉川上水 橙:旧甲州街道 紫:滝山道 緑:鎌倉道



・・・資料ファイル

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ふなばし歴史散歩案内板(緑:烏山川緑道橙:鎌倉道赤角:千歳船橋駅赤丸:船橋観音堂・千歳が丘高校)

遺跡関係(赤丸)①船橋本村北遺跡 ②千歳遺跡 ③本村南部遺跡
湧水関係(青丸
⑦~⑬)
昭和20年代初期(1945~)船橋には少なくとも7つの湧水があり烏山川(谷戸川)へ流れていた。弁天橋の祠に祀らていた弁天さまが近くの民家の庭先の祠に今も祀られている。弁天橋そばには弁天滝と呼ばれる湧水をたたえた池があり、ザリガニやフナ等子供たちの遊び相手が棲んでいた。

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船橋観音堂前             千歳船橋駅への道

鎌倉道(茶丸④:橙)
今も世田谷に名を残す鎌倉道は、鎌倉から下総奥州へ通ずる鎌倉時代の主要な道であった。現在の千歳船橋駅東側から船橋観音堂横を通り希望丘小学校方面へと続く道が鎌倉道の一部であったという記録が残っている。地図上の鎌倉道の道路は文献史料を基に現在の道に読み変えて示している。

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高校の松と高射砲陣地(⑥)
第二次世界大戦中千歳船橋高校グランドから穴山にかけての一帯は旧陸軍が使用していた。校庭内の松が残る台地と穴山の高台には高射砲陣地があったという。(案内板より)

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千歳船橋駅周辺地図明治39年(今昔マップ/埼玉大学教養学部・谷謙二氏を参照)


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船橋
船橋という名の由来についてはいくつかの説があります。その一つは昔多摩川の蛇行する川岸に集落があって、多摩川を住民が渡るために船橋を架けたことから名がついたと言われるものです。この船橋というのは船や材木など水に浮くものを水面に並べてつなぎその上に板を渡した浮き橋のこと、または両岸から綱を張ってその綱を伝わって動かす(いかだ)のことでした。また別の考え方ではずっと昔には烏山川を含む周辺一帯に幅200m、長さ1800mくらいの大きな池があったのではないかとされ、そこに船橋が架けられていたと見る説です。そしてその橋の位置は今の希望丘橋のあたりで、この船橋を通る道は古い鎌倉街道の一つだったであろうといわれています。この幻の船橋の池と考えられるところはかつての水田地帯だった場所で、長い間に池は徐々に湿地帯となって水田に利用されたのではないかといわれています。またもう一節は佐野景綱という豪族の子の船橋春綱という人が下野の国に住んでいて、その子孫にあたる船橋吉綱の一族が移り住んだので船橋と呼ぶようになったというのですが、それ以上のことは何もわかってはいません。(地名由来/世田谷区HP)(写真:千歳船橋駅前商店街)

by Twalking | 2019-01-25 13:39 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東京タワー   

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外苑東通り/港区赤坂台
どこからでもこの塔を見かけると、
やっぱり撮りたくなりますね~。
馴染んでるんですね・・・、見飽きることはありません。


東京タワー
Tokyo Tower
港区芝公園にある放送用鉄塔。高さ333m19581223日竣工。正方形の断面をもった立体トラスの鋼構造で、地上145mと150mに大展望台があり250mの特別展望台は観光名所ともなっている。フランスのエッフェル塔を目標として構想された。エッフェル塔が鉄材約7300tを要したのに対し、東京タワーは約3600tでできている。エッフェル塔竣工の約70年後につくられたとはいえ、風が強く地震の多い悪条件下でこの所要鋼材重量の差が生じたのは科学技術の進歩によるものとされている。放送施設のほか高さをいかした公害調査のため風向風速計、硫黄酸化物測定器などが取り付けられた。2013531日地上デジタル放送の電波送信施設が東京スカイツリーに正式に切り替えられた。(コトバンク)

by Twalking | 2019-01-24 21:17 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 キンセンカ   

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愛宕通り/多摩市愛宕
う~ん、艶やかななこと、
あったかそうだね~・・・、
ひなたぼっこかな。


キンセンカ
(金盞花)
キク科の植物。別名はカレンデュラポットマリーゴールド。原産地は地中海沿岸。北アメリカ、中央アメリカ、南ヨーロッパなどで栽培されている。春咲き一年草として扱うが宿根草タイプは冬を越すので「冬知らず」の名で市場に出回る。葉は長さ518cmの単葉、しばしば荒い毛が生えている。花径10cmほどでオレンジ色や黄色の花を咲かせる。花容は一重、八重、また中心に黒のスポットのあるものと多彩。(Wikipedia

by Twalking | 2019-01-23 13:48 | ○Flower