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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2019年 06月 ( 38 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川(2)王子~南千住03-南千住   

日時 2019.6.18(火)
天気 晴れ


南千住へ向かいます。
千住大橋を挟んで上宿と下宿がありました。
日光道中で歩きましたが上辺だけだったような。

荒川ふるさと文化館に寄って資料を収集してから、
ひとまず下宿をじっくりと見て廻りました。
千住は見所が多くて面白いですね~。



・・・南千住


東西に長い菱形をした荒川区の頂角に当たる最東端に位置し、東縁を流れる隅田川に北および東を接する。対岸の足立区とは千住大橋と千住汐入大橋、墨田区とは水神大橋と白髭橋の4本の橋梁で連絡されている。南千住は江戸時代における日光街道の宿場町である千手宿を起源としている。隅田川以北の宿場が拡大し万治31660)に千住大橋南側の小塚原町中村町が宿場に加えられ、以来南宿(下宿)と呼ばれた。また、隅田川が弓のように大きく東側に張り出した地形に存在していたかつての南千住汐入(現在の南千住四丁目、八丁目、三丁目東側)は明治時代以降、隅田川の舟運と鉄道貨物基地の陸運を接続する物流要所のひとつであり「大日本紡績(ニチボウ)」と「鐘淵紡績(カネボウ)」の2大工場が立地する工業の町としても発展した。(Wikipedia

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隅田川の風景① スパー堤防から東電荒川専用橋、千住大橋を眺めます/南千住

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街道の風景① 右手が若宮八幡神社、左が荒川工業高校、一帯は千住製絨所跡の跡地です/若宮八幡通り

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千住製絨所跡
この付近一帯には明治121879)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所(せいじゅうしょ)があった。工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6-384045付近)が選定された。敷地面積8300余坪、建坪1769坪の広大なものであった。明治21年(1888)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに現荒川スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。構内にも生産工場にとどまらず研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。戦後民間に払い下げられ昭和37年敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり人々に親しまれてきた。一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。(荒川区教育委員会)

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若宮八幡神社鳥居/南千住


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若宮八幡神社と八幡太郎義家伝説

若宮八幡の名のとおり仁徳天皇を祭神とする。平安時代、奥州攻めに向かう八幡太郎義家(源義家)が荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたとも伝える。足立区千住仲町白幡八幡はこの白幡が納められた神社という言い伝えを持ち、この付近が古くから渡河地点であったことを推測させる。婦人の病に効験があるとされ、祈願して治った時には二股大根を描いた絵馬を奉納するという。近隣の崇敬を受け平成14年(2002)に社殿の新造営が行われた。(荒川区教育委員会)

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かつて米倉屋敷があった場所、子供たちのいい遊び場です/天王寺公園

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米倉屋敷跡
宝永4年(1707)当時下野国(栃木県)皆川藩主であった米倉計昌照がこの地に下屋敷を拝領した。享保16年(1732)屋敷の北側部分が相対替えで屋代氏の所有に移り、残りの南側部分も翌享保17年(1733)に上知(幕府が屋敷地を収公することとなり、米倉氏はわずか20数年でこの地を去ることになる。北側部分はさらに土屋氏・池田氏・曲淵氏の屋敷地となるが、現在でもこの天王公園のあたりは土地の人々から「米倉屋敷」とも呼ばれ親しまれている。(荒川区教育委員会)


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橋本左内の墓・旧套堂/荒川ふるさと文化館
この套堂(さやどう)は昭和8年(1933)に橋本佐内の墓(区登録有形文化財〔歴史資料〕)を保護する(納める、覆う)ために造られた建造物です。大正12年(1923)の関東大震災後に耐震性と不燃性の観点から注目されるようになった鉄筋コンクリート造で、規模は方一間(柱間1.94m)宝形造の屋根、軒裏および柱・梁等の軸部には表面に人造擬石洗出・研出仕上げを施しており、伝統的な建築の意匠と近代的工法との折衷を図った近代仏教建築といえます。もとは回向院(南千住5丁目)境内入口にありましたが、平成182006)套堂のみ区に寄贈され平成21年(2009)ここに復元されました。

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当時、套堂の施主となったのは橋本左内を追慕し遺徳を広く発揚することを目的として明治35年(1902)に設立された景岳会で、事務所は福井県出身の学生を育英するため設けられた輔仁会内に置かれました。設計には同会会員で建築家でもあった原田正があたり、歴史学者黒板勝美(古社寺保存会委員・東京帝国大学教授)に助言を求め、日本建築史を体系化した建築家伊東忠太(東京帝国大学教授・史蹟名勝天然記念物保存協会評議員)の監修を受けています。また、正面に据え付けられた陶製の橋本家の家紋のデザインは、福井県出身で日本の陶彫のさきがけとして知られる沼田一雅(東京美術学校教授)によるものです。当代一流の学者の知識・技術・感性が結集した近代の貴重な文化財といえます。(荒川区教育委員会)

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素盞雄神社鳥居(日光道中側)

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素盞雄神社
小塚原・三ノ輪・下谷通新町・三河島・町屋など区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦14年(795荊石が微妙な光を放ちその光のうちに翁の姿をした二神(素戔雄命、事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ出現した二神を祭神として祀る。宝暦年間頃(1751-64)まで行われていたという千住大橋綱曳はその年の吉凶を占う当社の神事で「東都歳時記」にその雄壮な様が描かれている。(荒川区教育委員会)

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下谷道側鳥居             神楽殿

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飛鳥の杜 瑞光石が祀られています、奥は富士塚です

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瑞光石(ずいこうせき)
瑞光石は素盞雄神社の祭神に姿をかえて降臨した奇岩といわれ「瑞光荊石」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。嘉永41851)には周囲に玉垣を築き、元治元年1864)には洗顔神社を祀った。万延元年(1860)に編纂された「江戸近郊道しるべ」には千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。(荒川区教育委員会)

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富士塚
素戔雄神社には「瑞光石」が鎮座する塚がある。縁起の中で2柱の神が現れたとする祭祀上重要な場所である。この塚はある人の眼には富士塚として映り「南千住富士」とも呼ばれる。また古墳が富士塚に転用されたと見る人もある。いずれにせよこの場所が聖なる場所であることに違いはない。この塚には「瑞光石」に奉納された石造物以外に、人工の富士山=富士塚としての構造物がある。瑞光石の左側に浅間神社の碑がある。その脇から頂上に登山道が伸び途中、五合目として小御嶽石尊大権現の碑、頂上には浅間神社奥宮がある。塚には「黒ぼく」という溶岩塊が積まれている。富士講が建てた碑の多くは西側に林立し、北側には人穴も造られている。明治28年(1895)の由緒書によれば、元治2年(1865)に黒ぼくなどの石を積んで塚を築き、浅間大神を祀った(但し元治元年とする説もある)。現存する碑を見ると造立当初から大正期にかけて碑が断続的に建てられていったようである。その後時期は定かでないが、黒ぼくや碑をコンクリートで固め中に埋める措置が施された。幕末につくられた瑞垣が平成7年に取り払われ(一部、塚の脇に保存)今日の姿に至っている。(説明板)

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天王社の大銀杏
素盞雄神社境内は古来より『あすかの森』と呼ばれ銀杏などの大木が林立していた。『江戸名所図会』にも境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。この大銀杏は幹の周囲約3.3m、高さ約30mである。この木の皮を煎じて飲むと乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり現在も続いている。(荒川区教育委員会)

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素戔雄神社と文人たち
千住宿界隈や隅田川沿岸の社寺には江戸の文人が残した碑が多く見られる。この境内にも文人が建てた二基の碑がある。文政31820)建立の松尾芭蕉の句碑と、旗本池田家の主治医の死を悼んで天保121841)に建てられた森昌庵追慕の碑である。芭蕉の句碑は谷文晁の弟子で関谷在の建部巣兆・儒学者で書家としても名高い亀田鵬斎らが、森昌庵追慕の碑は「江戸名所図会」などの挿絵で知られる長谷川雪旦、この近隣に住んでいた俳人・随筆家の加藤雀庵らがそれぞれ建碑にかかわった。これらの碑は文人たちの交流を今日に伝えている。(荒川区教育委員会)

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芭蕉碑
千寿といふ所より船をあがれば 前途三千里のおもひ胸にふさがりて 幻のちまたに離別のなみだをそゝぐ 
『行はるや鳥啼魚の目はなみだ』はせを翁


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庚申塔群3基(荒川区登録文化財)
江戸時代に建てられた3基の庚申塔で、向かって左から延宝6年(1678)銘、寛文13年(1673)銘、文化8年(1811)銘があります。庚申塔とは60日に一度めぐってくる庚申の日に、寝ずに夜を明かす行事「庚申待」を3年間継続した諸願成就の証しとして建てられたものです。中央寛文13年銘の庚申塔は聖観音が本尊です。聖観音の光背には「庚申講供養」と「念仏講供養」の文字が刻まれ庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られます。延宝6年銘の庚申塔は如意輪観音が本尊です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえます。施主として久兵衛、おとらなど男女15人の名が見えます。文化8年銘の庚申塔には「青面金剛」の文字が刻まれています。寛文13年銘と延宝6年銘の庚申塔は造形上も優れており他の信仰との習合も見られ、また3基の庚申塔から近世の庚申塔の変遷がうかがえ学術的にも貴重なものであるといえます。(説明板)

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江戸名所図会 
飛鳥社小塚原天王宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
江戸名所図会では当社は「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介されています。「小塚原」とは御祭神が姿を出現した瑞光石のある小高い塚に由来する地名で、「天王宮」とは素盞雄大神の別名「牛頭天王」によるものです。(案内板)

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街道の風景② 日光道中と下谷道が合流します、右手が素盞雄神社です/南千住

下谷道
下谷広小路・坂本・三の輪・下谷通新町を通り素盞雄神社の所で右におれ奥州街道(現コツ通り)に合流する道は、江戸時代、日光道などともよばれ、東叡山門主で日光山門主も兼ねていた輪王寺宮日光に行く際の道とされていた。周辺には大名屋敷や寺院・町家が軒を連ね賑わったという。現在の国道4号線(日光街道)がほぼこの道筋にあたるが道路の拡張や改修によってその姿は変ってしまった。
素盞雄神社に至るこの道はかろうじて旧道の面影を止どめている。(荒川区教育委員会)


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誓願寺山門/南千住

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誓願寺
奈良時代末期の草創、長保元年(999)恵心僧都源信が天台宗寺院として開基したと伝える。その後慶長元年(1598)芝増上寺18世定誉随波が天台宗を改め浄土宗とした。天正19年(1591徳川家康が巡覧した際に腰掛けたという2本あった。現在境内には親の仇討ちをしたという子狸の伝承を残す狸塚、庚申塔2基、板碑、汐入村開祖高田氏の墓などがあります。(荒川区教育委員会)

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庚申塔(左:延宝41011日銘)
青面金剛供養塔(右:享保105月吉良日銘)(荒川区登録文化財)

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熊野神社/南千住

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熊野神社
創建は永承51050源義家の勧請によると伝えられる。大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行・伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄3年(1594)橋の完成にあたりその残材で社殿の修理を行なった。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。(荒川区教育委員会)

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千住の河岸
江戸時代、千住大橋袂河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。材木問屋は千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散拠点となるに至った。熊野神社には弘化2年(1845)千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。(荒川区教育委員会)(写真:東電荒川専用橋)

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街道の風景③ 隅田川に架かる最初の橋です、風格がありますね/千住大橋南詰

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千住大橋
千住大橋は「千住の大橋」とも呼ばれている。最初の橋は徳川家康が江戸城に入って4年目の文禄31594年)に架けられた。隅田川の端の中では一番先に架けられた橋である。当初はただ「大橋」と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋が作られてからは「千住」の地名を付して呼ばれるようになった。江戸時代の大橋は木橋で長さ66間(120)、幅4間(7)であった。奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。松尾芭蕉が奥州への旅で、人々と別れたところもここである。現在の鉄橋は関東大震災の復興事業昭和21927年)に架けられ、近年の交通量増大のため昭和48年(1973年)新橋がそえられた。(東京都)

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千住大橋
文禄31594)徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊那備前守忠次が奉行を務めたが工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住6丁目)に祈願したところ工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素戔雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より200m程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。千住大橋は日光道中の初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果(まやませいか)の戯曲「江戸を去る」では最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。現在の鋼橋は昭和2年(1927)、日本を代表する橋梁技術者・増田淳の設計により架け替えられた。プレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは400年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。(荒川区教育委員会)

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隅田川の風景② 千住大橋新橋より下流側の景観です、右岸に日枝神社があります

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江戸名所図会 千住川 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
『荒川の下流にして、隅田川・浅草川の上流なり』

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日枝神社/南千住

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山王清兵衛(日枝神社)
日枝神社は江戸時代、山王社とよばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり正和51316)に建てられたと伝える。この社の入り口にあたる旧砂尾土手北端に歯神清兵衛を祀った小祠がある。いずれかの藩士・清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。(荒川区教育委員会)

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山王清兵衛の祠            砂尾堤の説明板

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砂尾堤と砂尾長者
南千住7丁目20番地付近から現在の隅田川に沿って台東区今戸に向かう道は、土手になっていて砂尾堤と呼ばれた。中世石浜砂尾長者とよばれる土豪が住み、この地を領していたことに因むという。石浜の地は古代から武蔵国と下総国をつなぐ交通の要地であり、砂尾長者は15世紀半ば千葉氏が内紛により下総国を逃れ石浜に入った後、家臣としてこの地に住んだといわれる。台東区橋場にある砂尾不動院の開基とも、中興ともいわれる人物である。現在では平坦な道路になっているが、江戸期の古地図を見ると砂尾堤ははっきり描かれている。橋場の総泉寺まで続いていた。この一帯は昔から広範囲にわたりしばしば水害に見舞われた。汐入堤とも呼ばれたこの堤近くには昭和初期まで砂尾堤根という字が残っていた。(荒川区教育委員会)

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日慶寺/南千住

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日慶寺の鬼子母神
天文1532-55)の頃、日慶という比丘尼が谷中に日慶寺を草創した。その後、3代将軍家光に仕えた円心院日相尼が宝永元年1704)千住南字砂尾と呼ばれたこの地に、当時荒廃していた谷中日慶寺遺号を引継ぎ当寺を開創。そのため円心山日慶寺と号する。現存する鬼子母神像は運慶作・家光感得といわれ、5代将軍綱吉から開山日相尼へ下賜されたものと伝える。宝暦9年(1759)には芝金杉(港区)円珠寺において出開帳が行われている。また、区内最古で釈迦の種子のある正応218294月日銘板碑を所蔵する。元文元年(17369代将軍家重が三河島筋で鷹狩を行った際には当寺が御膳所にあてられている。(荒川区教育委員会)

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街道の風景④現在の日光街道(4号)を三ノ輪へ向かいます/南千住(合流点)

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千住宿/日慶寺参道入口
慶長91604)日本橋を起点として五街道が定められた。奥州道中の第一の宿場が千住宿である。大橋南側から「コツ通り」にいたるこのあたりに小塚原町中村町があって下宿とよばれ、問屋・各種商店・旅篭などがたち並んでいた。江戸の宿場のなかではこの千住宿(本宿と下宿)が最も長い宿場通りであった。(荒川区教育委員会)

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真養寺山門/南千住

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真養寺
運千山真養寺は寛永2年(1625下や三枚橋(現台東区)に開創した広布山真養寺と、万治2年(1659)当地に創建された運千山自性院が元禄2年(1689)に合寺して開かれた寺院である。吉田勘兵衛は自性院創建の際に寺地2240坪を寄進し鬼子母神堂や庫裡、書院なども建てたと伝えられる。

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境内には吉田勘兵衛が先祖供養のために建立した寛文11年(16712月銘の宝塔が今も残る。勘兵衛は現在の大阪府豊能郡出身で、寛永頃江戸に下り本材木町4丁目(現中央区)に住んだ。石材・材木商として江戸城の普請工事に参加し、万治2年(1659)には吉田新田(現横浜市中区・南区)を開発したことで知られている。なお小塚原周辺でも新田開発を行ったとされており万治3年(1660)小塚原町・中村町が千住宿に加宿されたことと、勘兵衛の新田開発との関連が指摘されている。(荒川区教育委員会)

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街道の風景⑤ 常磐線のガードを潜ると大関横丁(明治通り)になります/日光街道(4号)

三ノ輪周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27190538/

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南千住周辺案内図(橙:日光街道・コツ通り 黄:下谷通り 緑:明治通り)

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南千住周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照(橙:日光道中 黄:下谷道)

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隅田川(2)王子~南千住ルート図(赤点線:歩行ルート 橙:日光道中 黄:下谷道 紫:古東海道)

隅田川(2)王子~南千住02-尾久の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27661063/


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資料フィル

荒川ふるさと文化館


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あらかわの周辺の地形と地質
ほぼ京浜東北線を境として武蔵野台地の東端の上野台地旧谷田川(藍染川)のの一部と、東京低地と呼ばれる三角州の低地からなっています。低地をつくる地層は「沖積層」と呼ばれる川や海の作用で積もったやわらかい地層です。これに対して台地には「関東ローム層」が見られ、沖積層よりも古い地層でできています。(荒川ふるさと文化館常設展示図録を参照)


あらかわの古代・中世

古代の荒川は武蔵国豊島郡に属していました。隣接する北区の台地上に豊島郡家(ぐうけ・郡役所)と古代官道の施設である駅家(うまや)がありました。下総国へ向かう道は豊島の駅家を経て、荒川をとおり石浜(現南千住3丁目、台東区橋場付近)あたりで隅田川を渡り下総に入ったと考えられます。石浜は古代・中世を通じて水陸交通の要地で、軍事上も重視され公家・武士・僧侶などさまざまな人がここを行き交いました。

渡し場と橋場
一偏は弟子を伴って常陸国から下総国を経て隅田川を渡り石浜の地に入りました。「問わず語り」に『渡し場を利用する人がおおいので「すたの橋」という大橋が架けられた』とあり、さまざまな人がこの橋を利用していたと思われます。しかし間もなくこの橋は廃止されます。

隅田の渡しと都鳥

平安時代の承和2年(835)には、隅田川に常設していた渡し船が政府の命令により倍の4に増発されました(類聚三代格)伊勢物語の主人公はこの渡しを利用した際、隅田川に遊ぶ鳥の名を渡守に問い『名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は在りやなしやと』の名高い歌を残しました。

もう一つの道

平安時代源義家が陸奥へ向かう途中、荒川があふれて渡れませんでした。紀州熊野の神弊を出して祈願したところ、無事に渡河できたので熊野神社(南千住6丁目)を創建したといいます。この時目印の旗を立てた所が若宮八幡(南千住6丁目)と伝え、対岸の足立区にも義家にまつわる寺社が北へ向かって点在しています。このことは石浜経由のほかに上野台地から北へのびる微高地上があったことを想像させます。

石浜城と合戦

南北朝時代の文和元年(1352)、武蔵野合戦10万の新田軍に敗れた足利尊氏は石浜まで逃れてきました。尊氏は石浜で態勢を立て直し8日後、小手指原高麗原新田軍を打ち破りました。室町時代には太田道灌千葉実胤(武蔵千葉氏)を石浜城に迎え入れます。後北条氏の時代まで石浜は軍事上の拠点として重視されました。(近年の研究では弟の自胤が石浜に入ったことが判明した)(荒川ふるさと文化館常設展示図録を参照)

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江戸名所図会 天正7年隅田川合戦之図 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

橋場・石浜周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27271884/


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あらかわの近世
千住下宿と河岸千住大橋は奥州方面への玄関口として千住大橋は奥州・日光道中と荒川が交差する交通上の要所です。橋のに位置する小塚原町中村町千住下宿として諸役人や荷物搬送のため人馬を提供する役割を果たしました。荒川を上り下りする川船の航行が盛んになってくるとさまざまな職業の店が立ち並ぶ宿場を形成していきました。
河岸模型(荒川区側から足立区側を望む)1/150(荒川ふるさと文化館常設展示図録を参照)


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小塚原村絵図装置
小塚原村絵図は菅谷耕地河原崎耕地大曲耕地3枚の絵図を組み合わせて初めて小塚村の全体景観を知ることができる。絵図は彩色で縦258cm、横149cmと大きなものである。本絵図には道や田畑、用水、町屋敷、寺社、武家屋敷などが詳しく描かれ近世の小塚村の様子を伝える貴重な資料となっている。絵図の作成年代は不明であるが、各所有者ごとに記された田畑反別は元禄11年(1698)の小塚原村検地帳の記載とほぼ一致する。(後世になってさまざまな情報を盛り込んで作成された絵図と思われる)本絵図3枚の絵図から構成される小塚村絵図を合成17世紀末頃小塚村の土地利用状況をしたものです。(荒川ふるさと文化館常設展示図録を参照)
(橙:日光道中・コツ通り 黄:下谷道 緑:砂尾堤・日本堤 赤角:千住下宿・千住大橋)

by Twalking | 2019-06-29 18:48 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 花菖蒲   

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中沢池公園/多摩市中沢
散歩がてら花菖蒲を見てきました。
いろんな種類があるんですね・・・、
どれも爽やかでいいですね!


ハナショウブ(花菖蒲)

アヤメ科の多年草。ノハナショウブの栽培変種。観賞用に水辺・湿地に栽培され品種が多い。高さ0.61.2m。葉は線形、剣状でアヤメに似るが中肋(ちゅうろく)が著しい。初夏、花茎の頂に大きな花をつける。6枚の花被のうち外側の3片は大形で垂れ、内側の3片はさらに大きくなることが多いが、垂れ下がることはない。花色は紫・白・絞りなど品種によって異なる。(コトバンク)

乞田川源流域-中沢池の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23386710/


by Twalking | 2019-06-27 22:13 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-船方神社   

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阿形


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吽形

船方神社/北区堀船
真っ黒で、鋭い眼光、
がっちりとした体躯だから
熊さんかと思ったよ~・・・。

船方神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27655180/

by Twalking | 2019-06-26 21:18 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 モントブレチア   

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愛宕下通り/多摩市愛宕
夏草の間で、午後の陽射しを浴びて
輝いてるね~・・・、モノトくん。


モントブレチア/
姫檜扇水仙
フランスで交配によって作出された園芸品種。交配親は檜扇水仙(ヒオウギズイセン)と姫唐菖蒲で、どちらも南アフリカが原産地。日本へは明治時代の中期に渡来。現在は野生。化花茎から35個の穂状花序を出しそれぞれにたくさんの花をつける。花の色は朱赤色で下のほうから順に咲き上がる。花びら(花被片)は6枚で内側と外側に3枚ずつあり、根元のほうでくっついている。雄しべは3本、花柱(雌しべ)が1本ある。花柱の先は3つに裂けている。(みんなの園芸)



by Twalking | 2019-06-26 14:03 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川(2)王子~南千住02-尾久   

日時 2019..6.18(金)
天気 晴れ


小台橋から裏通りをお寺を廻りながら八幡神社へ。
宮前駅前の八幡神社は立派な社殿です。
かつては用水が流れ、跡地がプロムナードになっています。

尾久橋は隅田川と荒川が接近し、日暮里舎人ライナーが
走っていて、なかなか景観に優れています。
都電通りから尾竹橋へ向かい渡し場跡などを見ながら
南千住へ、ここはじっくり見てみたい所です。



・・・尾久(おぐ)/荒川区

1923
年(大正12年)の町制施行によって誕生した。現在の荒川区北西部に当たる地域。元々鎌倉時代から室町時代には武蔵国豊島郡小具郷(おぐのさと、おぐごう)と呼ばれ、現在の荒川区東日暮里と台東区根岸、北区堀船のあたりも含む広大な地域であった。古くは「おうぐ」と発音し小具、越具、奥とも書かれた。鎌倉時代の『吾妻鏡』に「武蔵国豊嶋庄犬食名」とあるがこの「犬食」は「大食(おおぐい)」の誤記であり尾久のことではないかとする説もある。小具郷は鎌倉時代には鶴岡八幡宮社領であった。さらに時期は不明だが、正保の改までには上尾久村下尾久村舟方村(後の船方村)に分かれ、江戸時代には上尾久村・下尾久村は峡田領に、船方村は岩淵領に属した。(Wikipedia

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街道の風景① 改良工事で道路の真ん中に軌道、スッキリした街並ですね/小台駅(都電通り)

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小台通りを戻ります          裏通りから尾久八幡神社へ

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宝蔵院山門/西尾久

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宝蔵院
新義真言宗のお寺です。本尊は虚空蔵菩薩、近世の山水画、阿弥陀三尊板碑などがあり元禄4年(1691)の願文が納められている木造不動明王が祀られています。またこの付近一帯は徳川将軍の「お狩場」だった所で、当時将軍の馬を繋いだと伝えられる「駒つなぎのイチョウ」があります。(荒川区HP)

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阿弥陀三尊板碑(荒川区登録文化財)寶蔵院は金亀山地正寺と号する。開山は寛永10年(1633)に没したちょう賢、明治の初期まで閻魔堂があったが火災で失った。所蔵する板碑は下部が欠けていて年未詳であるが、阿弥陀三尊の種子と天蓋・瓔珞が施されている。そのほか元禄4年の願文が納められている木造不動明王、近世の山水画などを所蔵する。境内にはちょう賢を供養するために造られた寛永10年銘の宝篋印塔、一石で造られた一石五輪塔などがある。また、地蔵山墓地の同院管理墓地内には万治元年(1658)銘ほか四基の庚申塔が立っている。(荒川区教育委員会)

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すぐ先に馬場子育て稲荷大明神のお堂があります/西尾久

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地蔵寺山門/西尾久

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地蔵寺
真言宗霊雲寺派のお寺です。本尊の地蔵菩薩は聖徳太子作と伝えられ、子育て地蔵尊として信仰されています。宝暦元年1751)に開かれた地蔵堂に始まり、同9年地蔵寺と称しました。八角堂内には千体地蔵尊が安置され、文明15年(1483)銘の阿弥陀三尊来迎図が描かれた夜念仏供養板碑があります。(荒川区HP)

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地蔵寺文書(荒川区登録文化財)
地蔵寺は金光山宝珠院と号す真言宗霊雲寺派の寺院です。宝暦元年(1751)に分了智範和尚(開基)が地蔵堂を創建したことに始まります。同9年、武蔵国久良郡金沢領寺之前村(六浦藩米倉丹後守領分)に所在する地蔵寺が無住であったため文了和尚は上尾久村の名主らとともに、寺名の譲渡を藩主米倉氏に懇願し幕府の許可も得て地蔵寺と改めました。この地蔵寺の縁起を記したものが宝暦9年「地蔵寺引寺記録」です。地蔵寺文書はこの他明治2年「霊雲寺第十五世大和上御筆」など4点の史料からなります。地蔵寺には別系統の「一月寺文書」が現存します。(荒川区教育委員会)

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一月寺文書(荒川区登録文化財)
地蔵寺の第9代住職・一月正空氏の出身が松戸市一月寺に関わったことにより伝存する史料です。金龍山一月寺(院号は梅林院)は普化宗の総本山で別名虚無僧寺とも呼ばれました。普化宗は中国唐代の普化禅師を宗祖とする禅の一派でその徒を虚無僧と称しましたが、江戸時代には京都明暗寺・下総国小金一月寺武蔵国青梅鈴法寺が根本道場とされました。幕府は普化禅宗として公認して寺社奉行の配下に置き、関東では一月寺と鈴法寺に宗徒を取り締まらせています。「一月寺」文書は普化宗に関する文書を中心とし、天保3-明治3年(1832-1870)までとなっています。天保3年の「十二郡取締穀代高帳」は虚無僧寺院の財政基盤を知ることのできる貴重な史料であり「本則」は一月寺住職が弟子に与えた免許状とされるものです。しかし、明治3年の火災や翌4年の普化宗廃止により一月寺廃絶しています。(荒川区教育委員会)

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大林院山門(だいりんいん)/西尾久

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大林院
ここには八幡神社別当の願勝寺が明治8年(1875)神仏分離で廃寺となるまでありました。明治22年(1889)曹洞宗の尼僧寺大林院が堂守継承しました。鎌倉時代の正和5年(1316)銘の阿弥陀三尊の板碑、慶安4年(1651)と元禄3年(1690)の五輪塔、石仏群や庚申塔等があります。(荒川区HP)

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板碑正和5年銘(荒川区登録文化財)
ここの地には尾久八幡神社別当寺である新義真言宗の願勝寺があった。明治8年(1875)神仏分離で廃寺となるまで尾久八幡神社の運営を司った。現在の庫裡前にある正和5年(1316)銘の板碑、その他の石仏等は恐らく願勝寺から伝わったものであろう。大林院はもと港区三田功雲寺中にあった曹洞宗の寺で、願勝寺の寺地堂宇を継承し今日に至っている。(荒川区教育委員会)

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街道の風景②くねくねとした通りを行くと都電通りにでます、左が八幡神社です/宮前駅

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尾久八幡神社鳥居/西尾久


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尾久八幡神社
八幡神社は応神天皇を祀っており、古くから地域の人々に信仰されてきました。創建の年は不詳ですが鎌倉時代末期正和元年1312)に尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮寄進された頃にさかのぼると考えられ、神社に残る棟札から至徳21385)に社殿が建てられたことが確認できます。8月の第一土曜・日曜に例大祭が行われます。4年に一度の例大祭は、神幸祭と呼ばれ本社神輿などが盛大に町中を練り歩きます。(荒川区HP)

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八幡神社と八幡掘
八幡神社の創建は不詳であるが、鎌倉時代末期の正和元年(1312)に尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると考えられる。また、神社に残る棟札から至徳21385)には社殿が再建されたことが確認できる。江戸時代に幕府が編纂した地誌「新編武蔵風土記稿」には上・下尾久、船方三村鎮守と記されている。八幡堀は王子・上中里・田端・日暮里と流れる用水が八幡神社を取り囲んでいたもので、酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久3-4周辺)を経て荒川(現在の隅田川)に注いでいた。川を往復する船が八幡堀まで進み、交易で賑わい神社の西側では下肥の積み下ろしも行っていたという。(荒川区教育委員会)
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上尾久村村絵図

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八幡神社と上尾久村村絵図
所蔵の上尾久村村絵図(荒川区指定文化財)は神社を中心とする上尾久村の江戸時代の様子を物語る。図中には農業用水の流路、7名の領主名と各領主付農民、村内の寺社などが記され、隣村の田端村や中里村との間で取り決められた用水に関する記述が3ヶ所ある。制作年代は記されていないが、嘉永元年1848)以後のものであると推定される。このほか同社には享保14年(1729)銘の手水鉢や南北朝期の至徳2年(1385)銘をはじめとする棟札等がある。同社の創建年代は不詳だが、棟札の年号等から中世には当地の鎮守として勧請されていたと考えられる。(荒川区教育委員会)
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八幡堀プロムナードを通って尾久橋へ向かいます/西尾久

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八幡掘プロムナード
江戸時代、この地域には石神井川から引かれた「八幡堀」と呼ばれる農業用水路が流れていました。昭和60年(1985)に尾久宮前小学校の子どもたちが今は見えない川となってしまったこの水路について学習をはじめ、それがやがて地域ぐるみの取り組みとなり手づくりの絵本「ぼくらの音無川」にまとめられました。こうした地域活動は高い評価を得て第40回読売教育賞の中で最優秀賞を受賞しました。荒川区はこうした貴重な財産を永く将来に伝えたいと考えこの水路を「八幡堀プロムナード」と名付けて整備を行いました。東京都もこの都道付近が水路跡の一部であったことから、道路の整備に合せて水路をイメージした整備を行いました。この地域の歴史に関する活動を記念しここに古地図のレリーフを設置します。(荒川区教育委員会)


・・・東尾久
(ひがしおぐ)

ひし形をした荒川区の北西部に位置し、西に隣接する西尾久と合わせて尾久と総称される。地区の北を隅田川を挟んで足立区と、東を町屋および荒川と、南を西日暮里および北区と、西を西尾久と接する。(Wikipedia


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華蔵院山門(けぞういん)/東尾久

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華蔵院
真言宗豊山派のお寺です。開創は未詳ですが、中世に造られた板碑2を所蔵し、境内には庚申塔、宝篋印塔など多数の石塔が残されています。当院は江戸時代末期より上尾久村の教育の場であり、弘化2年(1845)に寺子屋江川堂が開かれ、明治11年(1878)には公立尾久小学校の前身の私立田辺小学校が設立されました。(荒川区HP)

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光明遍照偈板碑(荒川区登録文化財)
華蔵院は大悲山観音寺と号する真言宗の寺院。開創は未詳だが中世に造られた板碑2を所蔵する。うち一基は「光明遍照十万世界、念仏衆生摂取不捨」の光明遍照偈が阿弥陀の種子を月輪のように取り囲む形態のもので他に例を見ない。そのほか境内には庚申塔・宝篋印塔など多数の石塔が残されている。また、当院は江戸時代末期より上尾久村の教育の場となった。弘化2年(1845寺子屋江川堂が開かれ明治11年には私立田辺小学校が開校。現在の尾久小学校の前身である。(荒川区教育委員会)

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玄琳牡丹屋敷跡/東尾久
江戸時代後期、ここに佐治玄琳という医者の屋敷があり、文化年間(180418)庭に見事な牡丹を植えていたため牡丹屋敷と呼ばれた。二列の花壇は夏になると大小色とりどりの牡丹が咲き乱れ、なかには珍しい品種も植えられていた。特に百輪以上の花を付ける一株が有名で、将軍の御物とされ毎年詳細な書上を提出していたという。将軍もたびたびここに御成をしたが、実際に訪れた千万庵敬順は庭のしつらえを称賛しつつ「将軍御物の牡丹は元々上総国(現千葉県)産で、樹の高さは約七尺(約2.1m)あり左右へ伸びた枝は約九尺(約2.7m)余。根本の幹の太さは2尺一寸(約75.2cm)もあり、花はみな薄紅の八重である」と「遊歴雑記」に書き残している。(荒川区教育委員会)

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隅田川の風景① 下流側の景観 右岸が東尾久、左岸が小台、区境になります/尾久橋

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尾久橋(おぐばし)
都市計画道路放射11号尾久橋通り(都道58号台東川口線)を通す。北岸は足立区小台1丁目、南岸は荒川区東尾久8丁目。橋名は荒川区地名にちなむ。隅田川に架かる橋であるが、北岸部で荒川に架かる扇大橋と連続するような形になっている。橋長:431.0m 幅員:24.0m 形式:3径間連続鋼床鈑箱桁橋 竣工:昭和43年(1968年)(Wikipedia

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熊野の渡し
現在の尾久橋付近にあったもので大正中期から昭和にかけて利用されていた。下流の尾竹橋や上流の小台橋が開通した後は徐々に利用客が減少したものの1950年(昭和25年)まで利用された。尾久橋のたもとに案内板が設置されている。Wikipedia

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荒川の風景① 下流側/扇大橋
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荒川の風景② 上流側/扇大橋

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扇大橋
荒川(荒川放水路)に架かる都道58号台東川口船(尾久橋通り)の橋である。荒川河口から15.5kmの位置に架かる橋で、左岸側堤内地には取り付け道路の斜路があるが、右岸側では隅田川に架かる尾久橋と直接接続している。すぐ下流側には日暮里・舎人ライナーの荒川橋梁が並行して架橋されており南詰に足立小台駅、北詰に扇大橋駅がある。左岸側は足立区扇、右岸側は足立区小台で橋名は左岸側の地名にちなむ。橋長: 445.4 m(河川区域外のアプローチ区間を含めると625.0 m)幅員: 26.0 m 構造形式: 3径間連続鋼ゲルバー式桁/連続箱桁橋 竣工: 1974年(昭和49年)(Wikipedia

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日暮里・舎人ライナー
荒川区の日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅を結ぶ東京都交通局が運営する案内軌条式鉄道・AGT(走行路面上の中央または側壁にある案内軌条に案内輪をあててゴムタイヤで走行する交通機関)路線である。路線距離:9.7km(13)  最高速度:60km/h 開業:20083月(Wikipedia

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街道の風景③ 都電通りと尾竹橋通りが交差します、左斜めに入り尾竹橋へ向かいます/熊野前駅

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首都大学東京荒川Cの学食で一休み/東尾久

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十三坊塚
首都大学東京荒川キャンパス付近はかつて十三坊という名で呼ばれており、新編武蔵風土記稿によれば旧上尾久村側に『十三坊塚 当所ニ四所アリ。高各五尺許』と4基、下尾久村側に『十三坊塚 村北ニアリ。高サ五尺、廻リ七八間。八ケ所程アリ。此内ニ砂利塚ト唱ヘルアリ。永禄年中、太刀具足様ノモノヲ掘出セシコトアリシト云』と8基あり、高さ1.5m、径13から15程の塚が計12基が所在していたようある。この十三坊という地名は古代の条理制に基づく地名らしく、また塚から太刀や具足の類が出土したという記事から武具を副葬した古墳群であったとも考えられ、荒川区報では古墳であったろうと推定されている。(Wikipedia


・・・町屋
(まちや)


東西に長い菱形をした荒川区の中央北部に位置する、下町的町並みを持つ。町域の北と東を隅田川に接し、尾竹橋をもって対岸の足立区とつながる。南は区役所の所在する荒川と西は東尾久と接する。(Wikipedia

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街道の風景④ 旭電化通りを尾竹橋へ向かいます/町屋 

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尾竹橋通り町屋駅方向         左折して尾竹橋へ/荒木田

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隅田川の風景② スカイツリーが見えてきました、右に大きく蛇行して流れます。右が町屋、左は千住桜木町になります/尾竹橋

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尾竹橋(おたけばし)
尾竹橋通り(都道313号上野尾竹橋線)を通す。南岸は荒川区町屋六丁目と七丁目を分かち、北岸は足立区千住桜木二丁目。橋名はこの場所の足立区側にあった「尾竹の渡し」の名に因む。尾竹の渡しは元来お茶屋の渡しと呼ばれていたが、茶屋に「おたけさん」という女性がいたことから呼ばれたとされている。付近は千住西新井大師への渡船場として栄えてきた場所であり、昭和93月に関東大震災後の復興事業の一環として計画、架橋された。当時の橋は長さ132m、幅10.2mで当時最新の5径間突桁式上路鋼鈑桁橋(ゲルバー桁橋)であった。 交通量の増大と橋脚の老朽化に伴い平成4に現在の橋に改架された。橋長:130.3m 幅員:15.0m 形式:3径間連続ローゼ桁橋 竣工:平成4年(1992年)(Wikipedia

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お茶屋の渡し (お竹の渡し)/尾竹橋公園
ここから南へ70行ったところに 町屋足立区千住桜木1丁目を結ぶ渡しがあった。対岸の足立区側の渡し場の脇に三軒茶屋があったことからこの名がつけられたといわれる。別名をお竹の渡し。茶屋に「おたけさん」という名の女性がいたためにそう呼ばれたという。この渡しは天保年間(183044)にはじめられたと伝え、千住・西新井方面へ向かう交通路として重要な役割をはたした。昭和9にこの渡しから少し上流に尾竹橋が架けられた後もしばらくは渡しが残っていた。(荒川区教育委員会)


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街道の風景⑤ 左に入った荒川病院の前に一本松の渡しの説明板があります/町屋

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一本松の渡し/町屋
現在の上水千住水管橋付近にあった渡し。京成電鉄隅田川橋梁上流100 ほどの位置にあたる。千住町屋を結んでいた生活道路であったという。いつごろ廃止されたのかは不明。上水千住水管橋そばに案内板が設置されている。名は付近の庚申塚にあった大きな松の木に因むといわれる。この松は元禄6年に町屋村と三河島村との境に植えられたと伝えられ、後に戦災で枯死したものの、一本松グリーンスポットという小公園に現在2代目の松が植えられている。なお、近くを通る都営バスの停留所名として「一本松」の名が残っている。Wikipedia

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京成本線隅田川橋梁          右手が三河島水再生センターです
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隅田がの風景③ スーパー堤防より上流側の景観です/南千住

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隅田川の風景④ スーパー堤防より下流側の景観です/南千住

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東京都のスーパー堤防整備
東京の東部低地帯は地盤が低いためこれまでに何回も水害を受けてきました。東京都はこれらの地域を高潮や洪水から守るため昭和30年代後半から短期間のうちに防潮堤・護岸建設しました。

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変化する堤防の役割とスーパー堤防
防潮堤・護岸はなるべく早期に水害から人々の生活を守るため、水害に対する機能を優先して造られました。その結果、カミソリ護岸とも呼ばれ河川から人々を遠ざけてきました。現在の河川整備には河川の親水性向上や自然環境機能の回復も強く望まれています。さらに大地震時における地盤の亀裂・断層や液上化などの特異現象にも配慮した耐震性向上を図る必要があります。東京都は東部低地帯のカミソリ護岸をスーパー堤防に代表される土でできた河川堤防に改築していくことにしました。土の堤防は大地震時に見舞われても大きな損傷を受けることがなく、仮に損傷しても応急復旧が容易に行えます。現在のカミソリ堤防を取り除くことが出来、河川に身近に接することができるようになります。スーパー堤防の整備は背後地の土地利用の効率化と協力して実施しています。(碑文抜粋/東京都公と治水事務所)

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尾久・町屋周辺地図

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町屋周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照

隅田川(2)王子~南千住01-堀船の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27655180/

by Twalking | 2019-06-25 19:48 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 小台駅   

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荒川線小台駅/荒川区西尾久
初めて訪れましたが、以外とスッキリした街並ですね。
都計道の工事に合わせて都電もセンターリザベーション方式になったようです。
ここは裏通りが面白そうですね・・・、行ってみます。


小台停車場

荒川区西尾久五丁目の都道306号王子千住夢の島線支線(補助90号線)上にある都電荒川線の停留場である。停留場名の「小台」(おだい)は駅北側の隅田川を挟んだ対岸の足立区の地名で小台橋を渡って連絡できる。「熊野前」から「小台」までは路面活用して走行する区間であるが、現行においては軌道敷の両脇を縁石で固めたセンターリザーベーション方式(準専用軌道・軌道が中央)を採用しており軌道と自動車用道路の完全分離がなされている。1913(大正2年)の開業。Wikipedia


by Twalking | 2019-06-24 22:30 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 睡蓮   

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大林院/荒川区西尾久
スイレンでしょうか・・・・、
黄色い鮮やかな咲振り、
美しいですね~!


スイレン
睡蓮
スイレン科の属の一つ。水生多年草。日本にはヒツジグサ(未草)の1種類のみ自生する。白い花を午後、未の刻ごろに咲かせることからその名が付いたと言われる。睡蓮はヒツジグサの漢名であるが、一般にスイレン属の水生植物の総称として用いられる。水位が安定している池などに生息し、地下茎から長い茎を伸ばし水面に葉や花を浮かべる。葉は円形から広楕円形で円の中心付近に葉柄が着きその部分に深い切れ込みが入る。葉の表面に強い撥水性はない。多くの植物では気孔は葉の裏側にあるがスイレンでは葉の表側に分布する。根茎から直接伸びる花柄の先端に直径5-10cmほどの花をつける。Wikipedia

by Twalking | 2019-06-22 12:59 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川(2)王子~南千住01-堀船   

日時 2019.6.18(火)
天気 晴れ


季節の変わり目、腰痛で自重していました。
座っているのが良くないのかな・・・、
歩いている方が楽ですね。

痛みも引いたので歩きに出かけました。
上中里から隅田川を南千住へ下ります。
川風が気持ちいいですね~、のんびりと行きます。


・・・上中里
/北区


京浜東北線の電車が走る線路を境にして南側の一丁目は武蔵野台地に属する高台であり、一方北側2丁目- 3丁目は隅田川沿いの低地にあたる、下町に分類される地域である。この間を結んでいる瀧野川女子学園前からJR上中里駅前を通り左に湾曲しながら平塚神社脇にのぼっていく坂は蝉坂あるいは攻坂と呼ばれる。坂下にあたる二丁目・三丁目はいずれも住宅地と工場が混在する地域であるが、北東部の大部分はJR東日本尾久車輛センターの敷地となっている。(Wikipedia

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街道の風景① 左手が平塚神社のある武蔵野台地、右が東京低地になります。梶原駅を通り隅田川へ向かいます/上中里駅

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街道の風景② 下町情緒溢れるいい商店街ですね・・・/梶原駅

梶原銀座商店街

梶原銀座商店街は都電荒川線の北側に面した商店街です。梶原仲銀座商店街とも接しています。戦前から愛宕地蔵を守り毎月3のつく日には縁日が行われます。特に夏の縁日は盛大です。またこの商店街は都電荒川線の形をしたおなじみの和菓子「都電もなか」のお店があることでも有名です。(北区HP)


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荒川線梶原駅             都電もなかの和菓子屋さん

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愛宕地蔵尊
この地蔵H江戸時代にこの地域を領していた水野家の本郷の屋敷内から、当地の小泉家が勧請してきたと伝えられている。この尊は眼病平癒と火防の祈願仏として広く信仰を集め、毎月3日、13日、23日はこの尊のご縁日と定められており、お参りする善男善女のお線香の煙は途切れることがありません。(説明板)

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荒川線
荒川区南千住一丁目の三ノ輪停留場から新宿区西早稲田一丁目の早稲田停留場までを結ぶ東京都電車(都電)の軌道路線(路面電車)である。かつて東京都23区内内を中心にピーク時で40路線を展開していた都電路線が廃止された後、唯一現存する路線である。東京都23区内で営業を行う軌道線は同じ都営の日暮里・舎人ライナー、ゆりかもめの軌道線扱いの区間を除外すると、当線と東急世田谷線を残すのみとなっている。大部分は専用軌道となっており、自動車道路と重なる併用軌道区間は約1.7km(全区間の14%)である。併用軌道は明治通り(国道122号)上の王子駅前-飛鳥山間小台-熊野前間のみで、後者においては道路中央の区分された空間に軌道を敷設するセンターリザベーション方式(準専用軌道・軌道が中央)が採用されているため車道と区分されていないのは前者のみである。Wikipedia

上中里駅・平塚神社周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27071692/


・・・堀船

北区の南東部東端部、荒川区および足立区との区境に位置する。町域北東を隅田川を挟んで対岸に足立区宮城、南東を荒川区西尾久、南を上中里および栄町、西を石神井川を挟んで王子、北を豊島と相対する。町域内を明治通りが北西から南東に通る。1889年(明治22年)の町村制施行時点に北多摩郡王子村大字「堀之内」および大字「船方」といった。大字時代の「堀之内」と「船方」をより一文字ずつ取った名前である。(Wikipedia

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『堀船』の名の由来/北区立白山堀公園
堀船の名は堀之内村船方村とが合併してできたものである。江戸時代から明治22年までこのあたりは梶原堀之内村であった。しかし昭和7に東隣の船方村と合併して堀船という地名になった。足利時代末に太田道灌の孫であり太田資正(三楽斎道誉)の子である梶原政景が、今のポンプ場(堀船3丁目の下水道局王子ポンプ場)あたりに屋敷を構えたと言われている。その屋敷の内堀の内ということで梶原堀之内村と呼ばれていた。梶原の姓は永禄元年(1558)古河公方義氏の元服の時に太刀役を務め梶原の姓を与えられたという説(『異本小田原記』)と、同4年長尾景虎が上杉姓と関東管領を譲られた拝賀の時に与えられたとする説(『北条記』)がある。(永禄5年の政景の初見史料ではすでに梶原を名乗っている)

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梶原政景は下総国の土豪で柿岡城主であり「弓矢打物達者にて、鬼にも神にも逢ふべき器量」で和歌、手跡・早歌・乱舞・馬上・鞠など諸芸にも秀でていたという(『異本小田原記』)福性寺の本堂前に「地名発祥梶原塚」という標石があり梶原塚と呼ばれている。船方村は豊島の7つの村の1つで、江戸時代に船の組み仲間として有名な船頭の一族がこのあたりに住んでいたと言われている。町の名前が堀船になっても梶原という呼び方はこの地に住む人の愛着や郷愁からか、梶原○○○と呼ばれるところも多いようである。(参考)東京都北区立堀船小学校創立70周年記念「わたしたちの堀船」/案内板

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白山神社鳥居/堀船

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白山神社/堀船
当社は維新前まで寺院が別当であったため、神仏分離のさい古文書等ことごとく紛失したので、創立・沿革等は文献で証左することは不可能であるが、いい伝えによると鎌倉時代以前のものであることが明らかなようである。源義家奥州に出陣のさい、当白山社に詣で戦勝を祈り奥州を平定し、当地を経鎌倉より京師にのぼれりといわれている。現在堀船地内鎌倉街道は当時よりいい伝えられたものである。当社は当時梶原堀船の鎮守として白山大権現と称えたるものであり、慶長年間(15961615)徳川家康江戸城に入るや、上野に東東叡山寛永寺を創立し、梶原堀の内(堀船)をその領地としてより、白山神社の氏子は漸次増加し徳川の家臣にも崇敬したもの多数ありという。(東京都神社名鑑)

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福性寺参道/堀船 門前に延命招福地蔵尊があります

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福性寺山門


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福性寺
真言宗豊山派。本尊は大日如来像です。創建年代は不詳ですが「北区史」には「本尊は大日如来、寛永2年創建の際の彫刻で、開基は篤信法師である。…記録を焼失して詳細は不明である」と記されています。寛永2年は西暦1625年にあたり江戸時代前期になります。この寺の境内にある石造物の多くは梶原塚にあったものということです。

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梶原塚は太田三楽斎資正(太田道灌の子孫)の次男・梶原源太政景墳墓で、享保(1716-36)のころまでは石碑・石段があったが、洪水で川に崩れ込み今は一株の松だけがあると「江戸名所図会」に記されています。梶原政景は鎌倉時代の梶原氏の名を継いだ戦国時代の武将で、系図の上からは太田氏に属します。「武蔵古蹟志」に『梶原塚…40年許り以前は塚もあり御影石の燈籠ありしが、塚は川へ崩込、石燈籠は誰か盗み、今は川岸に小竹少生たる中に松二本あり畑にて道なし』と記されているといいます。「北区の歴史」には「武蔵演路」によると洪水で崩れた梶原塚を村人が修復したと記されているが、その後の河川の改修などにより梶原塚にあったいろいろな石仏を当寺に移したと記されています。(北区文化財案内)


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江戸名所図会 梶原塚 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

梶原塚と庚申塔

梶原塚(写真の左右)は1600年頃庚申塔(写真の中央・上記)は元禄元年1688年)に建立されています。都電荒川線「梶原駅」はこの梶原塚と江戸時代の旧村名梶原堀之内村から名づけられました。(福性寺HP)

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隅田川の風景① 梶原の渡船場があった所です、上流のポンプ場(ガーダー付近)に梶原政景の居館跡と言われます/堀船周回ロード

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梶原の渡船場跡
この奥の隅田川沿いには明治・大正・昭和にかけて対岸の宮城村(足立区)との間を結ぶ渡船場がありました。明治41(1908)現在のキリンビール東京工場の敷地に下野紡績の工場ができ、対岸からも人々が工場へ通勤するようになりました。そこで両岸の梶原・宮城地区の住民有志が出資してつくった船の発着場がこの梶原の渡船場です。

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子供の頃から父親とともに船頭をしていた方の話によると最初、運賃は大人一銭・子供5厘・荷車一銭五厘・自転車一銭だったそうで、この渡しができたことで地域の住民の交通の便が非常に良くなりました。また、荷車という運賃があるように駒込にあった市場に野菜を出すための交通路としても利用され、毎日15台以上が隅田川を船で往復していたそうです。第二次世界大戦中には足立方面などに軍需工場が多くなり工場へ通う通勤者の行き帰りの足として混雑したそうですが、交通手段の整備とともに渡しが使われることも少なくなり昭和36(1961)その姿を消しました。(北区教育委員会)

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堀船周回道路を下流へ           延命寺/真言宗豊山派のお寺

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船方神社鳥居/堀船

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船方神社の十二天塚
船方村鎮守の船方神社は江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森十二天社とよばれました。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は次の伝承にもとづいて建てられたものです。昔、この地域の荘園領主豊島清光は子供に恵まれず熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立小輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(荒川)に身を投げ、十二人の侍女も姫を追って身を投げたという話が、江戸六阿弥陀仏伝承のなかにあります。十二天とはこの十二人侍女を指すと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため塚などの祭壇にまつりました。

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密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰とが結びつき、船方神社の十二天社としてまつられたものといえます。なお、この伝承は江戸時代、江戸六阿弥陀仏参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。(北区教育委員会)

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御嶽神社               水神宮

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十二天塚 すぐ裏は隅田川です


・・・荒川区


縄文・弥生の原始時代には
荒川区の地域は大部分がで、日暮里の台地だけが陸地となっていました。日暮里の台地からは道灌山遺跡日暮里延命院貝塚も発見され当時集落があったことが確認されています。江戸時代には日光道中初宿の千住宿が置かれ往き交う人でにぎわいました。また、近郊農村地帯として発展し汐入大根・荒木田大根・三河島菜(漬け菜)・谷中しょうがなどが有名でした。明治時代になると大工場が相次いで設立され工業地帯が形成されていきました。大正2には王電(のちの都電)三ノ輪から飛鳥山下(現在の栄町)が開通し、関東大震災後、官営工場千住製繊所と宅地化が進みました。南千住・三河島・尾久・日暮里の四つの町が一つになって荒川区が誕生したのは昭和7のことです。(荒川区HP)

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あらかわ遊園 現在工事中です。ぐるーっと廻って隅田川テラスへ向かいます/西尾久

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荒川区立あらかわ遊園
荒川区にある遊園地。2018年(平成30年)より工事に伴い長期休園中となっている。1922年(大正11年)失火で操業停止した旧煉瓦工場跡地に工場経営者広岡勘兵衛が私立遊園地「荒川遊園」を開園。「遊園」と言うものの当初はアトラクションと呼べるものはごく僅かだった。主要施設は温泉大浴場や演芸場、料亭などで、大人が寛ぐ現在のクアハウスのような用途の施設だった
Wikipedia

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隅田川の風景② 川風が気持ちいいこと、小台橋へ向かいます/あらかわ遊園裏

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上流側                下流側に水上バスの発着所があります

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隅田川の風景③ 下流の尾久橋を望みます/小台橋

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小台の渡し(あらかわの史蹟・文化財)
西尾久3丁目と足立区小台2丁目を結ぶ渡し。尾久の渡しとも呼ばれ、江戸時代から重要な交通機関であった。西新井大師・六阿弥陀の一つ沼田恵明寺に詣でる人々も多く利用した。平常は尾久側と対岸の足立区側の農民が半月交代の当番制で渡していたという。昭和8に小台橋が架橋され 次第に衰徴し廃止された。(荒川区教育委員会)

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小台橋
小台通り
(都道458号白山小台線)を通す。北岸は足立区小台2丁目、南岸は荒川区西尾久3丁目。架橋前は付近に「小台の渡し(尾久の渡し)」があり、江戸時代より江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用した。小台橋が最初に架橋されたのは昭和81933)で関東大震災後の都市復興事業により架橋された。いわゆる「震災復興橋梁」には数えられないが復興都市計画に基づいて架橋されたものである。その後老朽化によって平成41992年)に現在の橋に架け替えられた。橋長:122m 幅員:15m 形式:鋼ニールセンローゼ桁橋 竣工:平成4年(1992)(Wikipedia


・・・小台
(おだい)/足立区


北を荒川、南を隅田川に挟まれた東西に細長い町域を形成している。町域自体は広大ではないが足立区でも最大規模の工場集積地帯である。足立区が成立した際に大字小台は小台町小台大門町(旧・字大門)とに分割された。旧小台大門町には弥生式後期の土器が発掘されておりかなり古くから人が住んでいたと考えられている。「小台」の地名がいつ頃より用いられていたかは定かでないが律令国である武蔵足立郡の成立まもない頃から「小さい台地」と言う意味で「小台」と呼ばれ始めた模様である。荒川もこの台地を避けて流れていたことが推測され、自然堤防一部であったと思われる。(Wikipedia

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隅田川の風景④ 上流側 堀船の十二天の森、白山神社の社叢を確認、奥は王子の街でしょうか/小台橋

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天祖神社鳥居/小台


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天祖神社
御祭紙天照大御神、相殿:淤母陀琉命、伊邪那美命
天照大御神は天津御祖の大神と称され日本国民の総祖神におはします。生成化育修理固成の御神徳をお持ちになり国民の上に恵みある御光を、投げかけ下さる大神として信仰されています。昭和14年現在の社殿を造り昭和3021日天祖神社として、村社江北氷川神社より分祀独立し小台の鎮守神として住民の尊心を専らにして変る事なく今日に至る。(説明板)

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堀船周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照

隅田川(1)岩淵~王子02-豊島の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27637937/

by Twalking | 2019-06-21 22:04 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 モニュメント-Kissing Fish   

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子供プール/あらかわ遊園前(荒川区西尾久)
木陰でオトトがチュッチュしてる~、
ママ、わたしもチュチュした~い・・・、かな。

Kissing Fish
 加藤加奈衛 1968
遊園前の小さな公園の入り口に、ぽってりと丸くユーモラスな石の魚たちがキスを交わしている「Kissing Fish」という像があります。日本だけでなくヨーロッパでも活動している加藤可奈衛氏の花崗岩の作品です。(荒川区HP)


by Twalking | 2019-06-20 22:53 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 タイサンボク   

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多摩市愛宕
ちゃんとお椀で受けて、
お行儀のいいこと、
いよいよ梅雨も本格的ですね~。


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タイサンボク(泰山木、大山木)
モクレン科の常緑高木。北アメリカ原産で庭園に栽植される。高さ10m以上になる。葉は柄をもち長さ1220cmの長楕円形。表面は暗緑色で光沢があり裏面は赤褐色の細毛を密布。初夏、枝先に強い芳香のある白い大輪花が咲く。花は径1520cmで、ふつう花弁状の萼片3個と6個の花弁からなる。果実は円柱状広楕円形で長さ約8cm。多数の袋果から成りそれぞれの中に赤い種子が2個ある。(コトバンク)

by Twalking | 2019-06-20 17:54 | ○Flower