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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 くらやみ祭/大國魂神社   

日時 2023.5.5(金)
天気 晴れ




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大國魂神社随神門 

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規制中なので関係者以外は入れません


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旧甲州街道 

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大國魂神社境内へ集合していくようです


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ケヤキ並木

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萬灯                 太鼓と神輿/フォーリス1F



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御先払大太鼓

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獅子頭                   大太鼓



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一之宮神輿


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大勢の人出です。初めて見ましたが勇壮でわくわくしました。



くらやみ祭/大國魂神社_d0183387_18351502.jpgくらやみ祭り
主に53日〜6日にかけて府中市の大國魂神社(武蔵国の国府である当地の総社)で行われる例大祭で、武蔵国の「国府祭」を起源としており東京都指定無形文化財となっている。古く武蔵国の国府で行われた国府祭を由来とする長い伝統と格式を誇る大國魂神社の「例大祭」である。室町時代の文書には「五月会」と記録があり、江戸中から見物人が多く訪れていた。その後は地域住民の祭礼へと発展していった。かつて街の明かりを消した深夜の暗闇の中で行われていたため「くらやみ祭」と呼ばれるようになった。「江戸名所図会」という江戸時代の観光案内においては、江戸近郊で盛大に続けられている古い祭りとして紹介され「五月五日六所宮祭礼之図」が掲載されている。府中市の中心部を六張もの大太鼓と八基の神輿が回る壮大な祭として知られている。Wikipedia


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江戸名所図会 六所宮祭礼之図  (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

大國魂神社(府中市)の関連記事はこちらへ(大國魂神社/府中 : TEIONE BLOG - 平山 貞一 (exblog.jp)

# by Twalking | 2023-05-09 21:19 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町   

日時 2023.3.20(月)
天気 晴れ


海老取川に架かる弁天橋から羽田七曲りを経て
旧堤防道を大師橋に向かいます。
かつての羽田漁師町の面影が色濃く残っています。

白魚稲荷神社先からは旧堤防の赤レンガ堤が
現存し、漁師町の趣きが漂っています。
羽田道は産業道路を東糀谷への道筋ですが、
今回は大師橋から堤防沿いに六郷へ向かいます。



・・・羽田


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かつての河口から多摩川スカイブリッチを望みます/五十間鼻


多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_19002020.jpg羽田(町)
東京府荏原郡にかつて存在した町である。現在の東京都大田区大田区の南東部に位置する。「羽田郷土史」では、羽田村は源義朝が平清盛に敗れた平治の乱の後、源氏の落武者7人が羽田浦に漂着して開村したと伝えているという。羽田浦中世以来漁村だったが比較的早い段階で現在の東糀谷辺りが干拓され、六郷領用水が羽田地区まで引かれたこともあり農村として発達した側面ももっていた。(図:明治後期の羽田漁師町)

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_19060012.jpg江戸時代後期から明治前期にかけて、多摩川に面した一帯は羽田猟師町と呼ばれる漁業専業の町となり人家が集中し活況を呈した。羽田猟師町が出来たのは江戸時代正保~元禄の頃といわれ、漁村部が農村部と分かれる形で猟師町が分村したもので、当初その境界はあいまいだったとされる。近代の羽田猟師町は概ね現在の弁天橋通り南側で、西の中村地区(現大師橋の上手、流水部が堤防に接近して河原が無い辺り)から東の大東地区(海老取川の際)までの範囲。中心に「羽田の渡し」を有し、多摩川水運を利用した材木船、砂利船、年貢米輸送船などが多く経済力を背景とした商人も多く存在していたという。(写真:羽田漁師町から対岸を見ます)

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_19134024.jpg多摩川河口にあって魚貝類が豊富に採れたため、江戸城に新鮮な魚貝類を献上する「御菜八ヶ浦」の一つとして幕府から指定を受け、江戸湾における漁猟の優先的特権を有して繁栄した。「新編武蔵風土記稿」は羽田猟師町の項に、家数は300軒余りで平田船15艘、茶船38艘があり、皆「御免言字御極印船(ごめんげんのじごこくいんせん)」であるとし、極印船は昔大阪の役の際軍船を多く出したことによって極印を賜わったと説明している。(Wikipedia)(写真:左が現在の堤防、右の道が旧堤防です)


・・・羽田道


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羽田道 弁天橋先を左折して「羽田七曲り」へ。右手に白魚稲荷神社があります/弁天橋


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白魚稲荷神社 「羽田七福いなりめぐり」の一社です

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_19293553.jpg稲荷社
字鷹取にあり。弁天の西にして其社へまふずる道の傍にあり。社ははづか1間に2間、南向に鳥居たてり。幅1間土人呼て白魚稲荷と云。漁人白魚を取ころ初て得し時は、まづ此社に供ふる故にかくいへり。(新編武蔵風土記稿)

白魚稲荷神社
当神社の創立年月は不詳なれども古社と伝えられる。明治時代安田屋の先祖により境内地として当地を奉納され、現在に至るも当時の社殿老朽化したるにより社殿新築し、昭和42611落成遷宮祭を斎行す。昭和53428日東京都知事より宗教法人設立の認証を得たるによりこれを記念しここに碑を建立す。(碑文)


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藤崎稲荷神社

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羽田七曲りの様子


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鴎稲荷神社


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鴎稲荷神社
今から約290年前、享保年間から天保年間にかけて江戸では三大飢饉が起り疫病、大火、洪水等があり人々は毎日の生活に苦しんでいた。当時どこの村でも神頼が始り生活の安泰を祈った。この稲荷神社は江戸時代の頃、弘化2乙巳年3月吉祥日(鳥居に刻まれている)その頃に創建されたものと思われる。祭神は宇迦之御魂命(食物を祭さどる神様)。

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当時、村人は朝、夕とお参りをした。海上安全、大漁祈願、火伏の神様として多くの人々が参拝した。又、隣の厄神様は厄除の神様として祭られている。その頃の多摩川は六郷川と呼ばれが多く群がっていた。そのにちなんで鴎稲荷神社と名付けたと聞く。又、この辺は徳川幕府の領内で六郷領であった。羽田は六郷から東に向って上田、中村、西町、仲町、猟師町となっていた。仲町は現在の横町町会、稲荷前町会、下仲町会となっている。その三町守護神として交代で守っている。(写真:厄神様)

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毎年初午祭にはお焚き火をたき、油揚げ、魚、小豆飯、等を供え羽田囃子や初午太鼓で賑やかに執り行われている。入口の鳥居は安静の大地震、大正の関東大震災、太平洋戦争と何たびかの困難を乗り越えて来た。本殿は太平洋戦争で焼失し今の本殿は戦後まもなく再建された。(兼務社/羽田神社HP)(写真:鳥居前の羽田道)

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_23442882.jpg羽田道
羽田道は旧東海道(三原通り)の内川橋際から分岐し、大森東・南、東糀谷を通って羽田(弁天橋)に至る。江戸時代には羽田弁財天等への参詣に利用され、また羽田で捕れた魚などを江戸に運ぶ道でもあった。鴎稲荷神社前は羽田道の「羽田七曲り」の一つで、多摩川寄りの地域は漁業専業の「羽田猟師町」であった。この付近には鴎が多く大漁の兆しとしてまつられたものという。(標柱)



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神社前から赤レンガ堤防に出ます

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レンガ堤(五十間鼻方向)       レンガ堤(大師橋方向)

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レンガ堤

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羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革
1)度重なる水害に苦しめられた羽田地区  羽田は多摩川河口の砂洲の上にあったことからたびたび水害が発生していました。天正17年(1589)から安政6年(1859)の間に62の大洪水があったと記録されています。明治以降、明治11年(1878)、17年(1884)、40年(1907)、43年(1910)の洪水は甚大な被害をもたらしました。(図:位置図 赤:レンガ堤堤防跡 緑:現堤防 橙:羽田道・七曲り 紺:海老取川 赤角:弁天橋 黄:産業道路 薄緑:首都高) 

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_13104151.jpg2)羽田レンガ堤の建設 「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正61917内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事大正7年度着工、昭和8年度完成(工期16カ年)しました。

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「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所・昭和1010月発行)には「羽田地先1632の築堤の区間は、初め旧堤を拡張する計画であったが、土地の状況を考慮して工法変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガ胸壁(赤レンガ堤防)を築き、所々に陸閘を設け、堤上は道路に利用するとして河川住民及び一般の利便を増進させた」と記されています。また人が堤防をまたぐため階段も設けられました。

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_13184630.jpg3)羽田レンガ堤と人々の暮らし レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ桟橋、造船所、生簀、材木置場、作業所があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などが住んでおり船宿もありました。昭和201945921日に進駐軍鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。(写真:大師橋手前)

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_13185229.jpgレンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水災害もなく安心した生活を過ごすことができました。そして昭和20415日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害からそして戦災から多くの人々の生命財産を守りました。昭和481972高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。(出展:羽田レンガ堤調査報告書/大田区教育委員会 平成233月より)(説明板)(写真:第二水門付近)

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直進は旧堤防道、右折が羽田道です/大師橋下

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羽田道(七曲り方向)        羽田道(産業道路側道)


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正蔵院山門

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_13413260.jpg正蔵院
当寺の創建は詳かでないが、本尊の不動明王は伝教の作と伝えられ宝徳21449)時の住職重仙により、さらに文禄41595)に乗信により修復されたと「新編武蔵風土記稿」に記されている。かつては本尊不動明王にかえて大日如来を本尊としたこともあった。慶安31650)境内は多摩川の洪水により川の中に入ったため、元禄81695)に織田越前守の検地により218歩を境内地として与えられたという。大正111922520日羽田仲塗師観蔵院を合併した。(大田区の寺院)

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不動明王(非公開)
当寺の本尊である。江戸時代の地誌「新編風土記稿」には、宝徳2年(1450)住職・重仙の時と文禄4年(1595)乗信の時に修復されたと記されている。造像された年や作者等は不祥であるが、その様式から15世紀中頃の製作と考えられ、区内に伝存する仏像でも古いものの一つと推定される。桧材寄木造、古色、玉眼、像高65.2cm。大田区文化財。(大田区教育委員会)





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羽田街道の碑            庚申塔


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羽田神社

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_23195436.jpg羽田神社
隣接する自性院元鎮守社で、現在の本羽田・羽田・羽田旭町に相当する羽田村・羽田猟師町旧村社。旧称は八雲神社。戦国時代、蒲田・六郷・羽田・大師河原一帯の領主であり、羽田浦水軍の実質的な支配者であった行方与次郎牛頭天王を祀ったのが創建の起源である。1861年(文久元年)、疱瘡(天然痘)が蔓延した際、将軍・徳川家定が病気平癒祈願に参詣して治癒した故事により病気平癒で有名になり、徳川氏・島津氏・藤堂氏などからの信仰を集めた。

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_23220617.jpg長らく隣の自性院鎮守神として祀られていたが、明治時代の神仏分離政策により、須佐之男尊と稲田姫命を祀る祇園信仰の「八雲神社」として分離独立し羽田村・羽田猟師町の鎮守となった。1907年(明治40)には「羽田神社」に改称した。1945年(昭和20年)から1948年(昭和23年)の間、連合国軍による羽田空港拡張の為に強制退去させられた現在の羽田空港に相当する鈴木新田(羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町)鎮守の穴守稲荷神社のご神体が合祀されており、のちに社殿が羽田神社の氏子地域内再建された。

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_23251981.jpgまた、穴守稲荷と同じく強制退去となった鈴納稲荷神社が羽田神社境内へ、玉川弁財天が兼務神社・羽田水神社境内へ遷座されている。羽田空港第1ターミナル内に鎮座する羽田航空神社と混同されている事例があるが由緒や祭神等一切関係が無い。又、大鳥居駅の駅名や天空橋駅近くにあるにある大鳥居が羽田神社に由来するものと誤解されている事例もあるが、穴守稲荷神社に由来するものでありこちらも羽田神社とは一切関係が無い。Wikipedia


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鈴納稲荷神社
祭神:宇迦之御魂神 創建年:天明5年(1785) 羽田漁師町の名主・鈴木弥五右衛門氏が天明4年(1784)羽田村名主・石井四郎右衛門氏より35畝の干潟を譲り受け、その周囲50間四方に堤防を作り開墾を始めました。名主・鈴木弥五右衛門が造成した土地を鈴木新田とし、無事に納まるように鈴納耕地と名付けました。度々の風雨や洪水で堤防が決壊し住民が困ったので、これを防ぐため屋敷近くに稲荷社を建立して鈴納耕地の安全を祈願しました。昭和20921日強制立退き後、昭和312月午の日現在地鈴納稲荷神社を建立しました。(説明板)

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増田稲荷神社
祭神:宇迦之御魂神 創建年:不祥 環状8号線と高速横羽線が交わるあたり一帯は徳川幕府中期以降、増田市左衛門が開墾したので増田新田と呼ばれ、近年まで六間堀に増田橋が架けられていました。増田稲荷神社は高速上り線羽田出口(現羽田1丁目10番地)付近に祀られていたが戦後、京急及び道路の拡張に伴い関係者、有志の願いが許され羽田神社の境内社として移されました。古老の話として祠の中には子供たちが遊ぶことが出来た親しみのあるお稲荷さんだったとの事です。(説明板)

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日枝神社
祭神:大山咋命 創建年:江戸中期 西町・前河原の守護神として祀られ、文化年間の古文書にも記されている社です。御祭神「大山咋命」は五穀豊穣、家内安全、景気回復にご神徳があるといわれています。太平洋戦争廃失(昭和20415日)しましたが、昭和24年現大田区体育館の所在地にライオン株式会社があり、敷地に焼失を免れて社があったのでそれを頂き羽田2-28-5再建しました。その後、昭和36年両町会の合意により羽田神社に合祀を願い許されて境内社になりました。別名「山王さん」と呼ばれ、神使いは「お猿さん」で町民から親しまれ毎年429日に社前祭が行われています。(説明板)


多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_00143832.jpg羽田稲荷神社
祭神:宇迦之御魂神 創建年:不祥 現つばさ高校辺りにあった井上軍左衛門宅庭内神社として祀られていましたが、引っ越しの際昭和5511月羽田神社境内社となりました。御祭神は伏見稲荷神社から分霊を頂きました。(説明板)

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八雲神社之碑(疱瘡神)
かつて「疱瘡」(天然痘)は子供たちにとって最も恐ろしい病気であった。人々はこの「疱瘡」に対して畏敬の念を表し、その原因を「疱瘡神」によるものとして崇め祀ってきました。羽田神社には社殿右側に「疱瘡除祈願御礼の碑」があり、この碑は天保12年に将軍家定が疱瘡治癒祈願に訪れた事績によるものです。この参拝により流行病が治癒したことから病気平癒の神としても信仰され、病気平癒や身体健全を願う多くの参拝者が訪れています。(説明板)


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自性院山門

多摩川(6)左岸河口域03-羽田猟師町_d0183387_00195775.jpg自性院(じしょういん)
大田区にある真言宗智山派の寺院。平安時代末期、慈性(1159年寂)によって開山された。その後、恵麻(1559年寂)によって中興した。かつては境内に牛頭天王社を祀っていたが、明治時代の神仏分離政策により「八雲神社」(現在は羽田神社)として分離独立した。なお境内に「牛頭天王堂」があるが、これは羽田神社の名残ではなく1929年(昭和4年)に三輪厳島神社から移築したものである。江戸時代後期の建築という(Wikipedia

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牛頭天王堂
外陣(旧拝殿)は入母屋造り銅板葺、向拝に軒唐破風を付け、その下に弁財天の彫刻が施され、各軒廻りに斗供をもつ。内陣(旧本殿)は切妻造りの銅板葺。文久元年1861大森弁天神社の社殿として建てられたが、昭和41929)移築され牛頭天王堂として転用されたものである。区内でも数少ない建築年代等の明確な建物であり、江戸時代末期の精巧な建築として価値が高い。自性院には旧来、牛頭天王社が羽田の総鎮守としてまつられていたが、明治維新の神仏分離で八雲社として独立し、さらに発展して隣接羽田神社となった。(大田区教育委員会)


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羽田道は産業道路を大鳥居駅方向へ向かいます


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羽田漁師町周辺 明治39年今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照(橙:羽田道 紺:海老取川 緑:旧堤防 赤丸:羽田の渡し・大師の渡し)


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羽田付近航空写真(橙:羽田道 紺:海老取川 緑:旧堤防 薄緑:現堤防)

多摩川(6)河口域-02海老取川の関連記事はこちらへ(多摩川(6)河口域(6)-02海老取川 : TEIONE BLOG - 平山 貞一 (exblog.jp)


# by Twalking | 2023-05-08 19:32 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お昼はもんじゃ焼き   

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「もじ蔵」に行ってみようか・・・、で決まり。

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個室でした                  レトロ調の店内



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お好み焼き(ミックス)





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もんじゃ焼 う~ん、美味しそう




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もんじゃ(ミックス)




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もんじゃ(明太子もちチーズ)

もじ蔵/国立市東

# by Twalking | 2023-05-01 21:38 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩川(6)左岸河口域02-海老取川   

日時 2023.3.20(月)
天気 晴れ


海老取川辺りが多摩川の河口だったようです。
葦原に多摩川が分流し、沖合を埋め立て鈴木新田にしました。
現在の旧羽田飛行場地区が鈴木新田に当たるようです。

海老取川の左岸の遊歩道を穴守橋まで散策しましたが、
係留施設もありわずかに「海辺」の面影を留めています。
強制疎開により移転を余儀なくされた寺社を訪ねました。



・・・羽田


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弁天橋より海老取川河口をみます 

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遊歩道                 平和大鳥居

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弁天橋

多摩川(6)左岸河口域02-海老取川_d0183387_10530676.jpg羽田の漁業
羽田浦の漁業は約830年前の平治年間、羽田に七人の落人が住み着いたときから始まったと言われている。江戸時代になってから漁船、漁師は参勤交代のときに六郷川(多摩川河口部)の船橋や補佐役として、また大阪夏の陣には軍船として使用された。この羽田浦は魚介類の大切な栄養源となる淡水が多摩川より大量に流れ出るため、その周辺は絶好の漁場であった。この地で水揚げされた魚介類は鮮度が高く、徳川将軍家に献上したり江戸の町に運んでいた事実が伝えられている。(写真:漁業碑)

多摩川(6)左岸河口域02-海老取川_d0183387_11232942.jpg特に羽田洲は「干潟広大にして諸貝を産し、中でも蛤貝を名産とし汐吹貝、赤貝多し」と「羽田史誌」に記されており、古くから多くの貝類が漁獲されていた。かつての江戸湾内の優良漁場であった羽田浦周辺も、昭和30年代から始まる東京湾の埋め立てと航路づくりのため、昭和37海苔漁場の漁業権の放棄が余儀なくされた。その後、空港拡張により浅瀬漁場は減少し、以前のような漁村としての姿は薄れつつあるなかで、多摩川河口の船溜まりは昔をしのばせる貴重な場所となっている。大田区(写真:船溜まり)


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五十間鼻

多摩川(6)左岸河口域02-海老取川_d0183387_11453751.jpg五十間鼻(ごじゅっけんばな)
大田区羽田六丁目の多摩川海老取川分流点に所在する石積みの沈床。多摩川左岸(東京都側)の河口から2km上流、海老取川が分流し北行する地点の上流側に築かれている。増水時の河岸侵食を抑えるために、多摩川の流路に沿って長さ五十間(約90m)に渡って水中に石を敷き詰めたもので、これが名称の由来である。周辺は東京湾の干満の影響を受ける気水域で、干潮時には石積みの上を歩くことが可能だが、満潮時には全体が川底に沈む。接続する羽田六丁目の河岸はコンクリートで護岸されているが、岸のすぐ下には干潟が存在し、干潮時には岸から降りることができる。遠景に多摩川河口と東京国際空港(羽田空港)を眺望でき、釣りスポットや初日の出スポットとしても知られる。(Wikipedia)(写真:海老取川多摩川分流点)

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五十間鼻無縁仏堂

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五十間鼻無縁仏堂
五十間鼻の上(陸地との接続部近く)には小さな無縁仏堂が建っている。現在はコンクリートとブロック塀で建設された方形の基礎の上に置かれ、満潮時には川中の小島のようになる。陸地とは簡素な桟橋で結ばれている。この仏堂は多摩川において水難で亡くなった人々の霊を慰めるためのものであり、特に関東大震災東京大空襲の折には、火災に追われて川に飛び込み亡くなった無数の遺体がこの地にも流れ着いたという。

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いつ頃からこの様な慰霊施設が存在していたのかは定かではないが、戦後、河口近くの川中に1本の角塔婆が立っていたのを羽田地区の漁業組合長が管理し、1978護岸工事に伴い現在地に移転、その後荒廃していたものを地元有志の浄財により復興したものである。(Wikipedia



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玉川弁財天/羽田

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水神社
創建年代は不明であるが昔から羽田漁民の信仰を集めてきた。毎年511日に「水神祭」が執り行われている。船で羽田沖に向かい、神酒を海に捧げ、海上安全と大漁を祈願している。かつては毎年1月・5月・9月の年3回開かれ、海中に投げ込まれた角樽を若者が海に飛び込んで奪い合う勇壮な祭りであった。境内には「玉川弁財天」の下宮が祀られている。元々、現在の羽田空港にあった鈴木新田鎮座の神社で、江戸時代には『江戸名所図会』で取り上げられるほどの景勝地であった。戦後、連合国軍による空港拡張工事によって強制退去させられたので、遷座されることになった。尚、上宮龍王院境内に鎮座している。(Wikipedia

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玉川羽田弁財天
茲に祀られて居る弁財天は御大四寸八分「天長7年(830)空海作」と銘刻があり弘法大師が護摩の灰を固めて御自刻されたものと伝えられて居る。この弁財天は広島県厳島神社、神奈川県江の島弁財天と共に日本三弁天と言われて居り往古より変らぬ信仰を今に伝えて居り祭礼は正月、五月の十日に行われる。龍王院(掲示板)


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弁天社
東町の内要島にあり。其所を鷹取ともいへり。山を金生と称す。社は3間四方南向なり。神体は如意宝珠にて海中より出現せり。此如意宝珠は昔上の宮にありしを、後此処に寓居をたててあがめ祭りしより、ここをば下の宮と呼り。上の宮と称するものは、此所より遥に隔りて別当龍王院の境内にあり。此神体の事は上の宮におさむる、縁起にのす。其の條について見るべし。又前立に弁天の像あり。木の座像にて長2尺許、脇に十五童子たてり。是は尤近き頃のものなり。境内に鳥居2たてり。1は柱間2間にて西向なり。前に多摩川の流を掘入小橋をわたせり。1は柱間7尺同じ向なり。昔は此より南の方へさして60間あまりの大門道あり。其半に石の鳥居ありしが、年々霖雨の頃河のほとり凡6070間かほど欠入しかば、今は其鳥居も立へき地なければ、其儘河のほとりに横たはれり。何の頃か海岸を石にたてたたみしかば、今は川欠の患もなしと云。祭礼は正月五月九月十四日に行へり。(新編武蔵風土記稿)(図:名所江戸百景-はねだのわたし弁天の社/広重)

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江戸名所図会 羽田弁財天社 (わたしの彩『江戸名所図会』から引用)  
この地の眺望もっとも秀美なり。東は滄海漫々として、旭日の房総の山に掛くるあり。南は玉川混々として、清流の冨峰の雪に映ずるあり。西は海老取川を隔て、東海の駅路ありて往来洛繹たり。北は筑波山峨々として、飛雨行雲の気象万千なり。この島より相州三浦・浦賀へは午 (うま)に当たりて海路およそ八、九里。南総木更津の湊へは巳(み)に当たりて海路八、九里、南北総の界は卯(う)に当たりて海路十三里ばかりを隔てたり。富峯は酉(とり)の方へ見ゆ。


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弁天橋から上流側を見ます

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左岸遊歩道

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駅前地蔵尊 昭和63年8月12日移転建立


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天空橋(歩道橋)

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天空橋船着場            天空橋駅入口


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稲荷橋


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まだ工事中です           多摩川方向を見ます


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穴守橋

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羽田空港                 欄干モニュメント


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海老取運河方向/穴守橋



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玉川惣絵図-河口




・・・穴守稲荷神社



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表参道鳥居


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穴守稲荷神社
大田区羽田五丁目27号にある稲荷神社である。祭神は豊受姫命。かつては海老取川のにあり、周囲は羽田穴守町と呼ばれていたが、終戦直後の羽田空港の拡張工事に伴いに現在地移転した。1804年(文化元年)の羽田沖の干拓事業の折り、海が荒れて干拓地の堤防が決壊し、水田は海水による甚大な被害を受けた。村民が天下泰平を祈願し、堤防の上に勧請し稲荷大神を祀った。これが穴守稲荷神社の起こりとされている。穴守という名の由来は、堤防に開いた穴の害から人々を守るという神徳にちなむ。元々は羽田干拓事業を主導した鈴木家の土地にある小さな祠であったという。Wikipedia

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拝殿

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社史
社史に云う。文化文政の頃、鈴木新田(現在の空港内)開墾の際、沿岸の堤防しばしば激浪のため害を被りたり。夜時挺行の腹部に大穴を生じ、これより海水浸水せんとす。ここにおいて村民等相計り堤上一祠を勧請し祀る処、稲荷大神を以てす。これ実に当社の草創なり。(写真:表参道)

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爾来、神霊の御加護あらたかにして風浪の害なく五穀豊穣す。その穴守を称する「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」という心なり。そもそも稲荷大神は畏くも伊勢の外宮に斎祀られる豊受姫命にましまして、衣食住の三要を守り給える最も尊き大神なり。吾等一日たりともこの大神の恩顧を蒙らぬ日はなく実に神徳広大なり。(写真:神楽殿)

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殊に当社は明治以来、大正・昭和を通じて隆昌に至った。参拝の大衆日夜多く境内踵を接する如く社頭又殷賑を極め、崇拝者は国内は勿論遠く海外にも及べり。然るに昭和208終戦にのぞみ敗戦という未曽有の大混乱の中、米軍による羽田空港拡張の為、従来の鎮座値より48時間以内の強制退去を命ぜられた。同年9月、地元崇敬者有志による熱意の奉仕により境内地700坪が寄進され、仮社殿を復興再建。現在地(大田区羽田五丁目2番)に遷座せり。爾来、崇敬者各位の協力により社殿・神楽殿・社務所等を復興し、令和2年春には奥之宮を竣工。漸次昔日の面影を取り戻しつつある次第なり。(説明板)(写真:奥之宮)


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必勝稲荷              千本稲荷

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出世稲荷              繁盛稲荷

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稲荷山

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穴守稲荷上社            御岳神社


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表参道界隈

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商店街               京急穴守稲荷駅


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海老取川周辺 明治39年今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照




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海老取川周辺航空写真


多摩川(6)左岸河口01-多摩川スカイブリッチの関連記事はこちらへ(多摩川(6)左岸河口01-多摩川スカイブリッチ : TEIONE BLOG - 平山 貞一 (exblog.jp)




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資料ファイル



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海老取川(えびとりかわ)
海老取川は大田区羽田旭町及び羽田5.6丁目と羽田空港1丁目の間にほぼ直線的南北方向に位置する河川である。北側で海老取川運河(港湾局管理)に接続し、全川が潮汐(ちょうせき)に応じて水位が変動する感潮河川である。多摩川から分派し海老取川運河に接続するまでの流路延長1.04kmの一級河川であるが流量分配を持たない河川である。

地形・地質
多摩川と台地を開削して流れる呑川内川などにより形成された沖積低地であり、標高2m以下の満潮面以下の地域である。この地域の多摩川低地は河口部に広がる三角州低地とこれを取り囲むように分布する旧河川による自然堤防・砂洲を中心に形成されている。また、多摩川河川沿いは河川敷、河口から東京湾及び海老取川右岸側埋立地となっている。地質は表層部に沖積層である「有楽町層上部砂層」と呼ばれる軟弱な砂がち堆積物が810m程度の層厚で分布している。


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歴史(中世から江戸時代)
羽田は中世以来の海村であり「漁猟」に従事する「猟師」が定着して生計を営み「羽田猟師町」を形成していた。江戸時代、羽田浦は幕府へ鮮魚を調達することで幕府の保護を受ける「御采八ケ浦」(おさいはちかうら)の一つになった。これは江戸湾における漁猟の優先的特権であった。江戸時代の元禄年間になると羽田浦に田畑が増えてきており猟師町の中にも農家が増加していった。
(明治期)
明治年間は海老取川は歩いて渡れるほどの浅瀬だったという。文字通りエビ(車エビでなく芝エビ)を取ったことが名称の由来といわれている。明治期の羽田は絶景の地であった。明治27年(1894)には鉱泉が湧き、旅館や料亭が営まれる。さらに置屋・料理屋・待合の三つの施設がある花街(三業地)に発展した。明治35年(1902)には蒲田-穴森間に電車が開通した。(図:明治後期の鈴木新田)

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(昭和以降)
昭和2年(1927)内務省港湾調査会は京浜運河の開削と埋立地造成計画(京浜運河計画)を決定し、昭和14年(1939)には漁業権の大部分が東京府に買い上げられた。しかし財源不足で計画が白紙撤回され昭和24年(1949)には新漁業が成立し東京湾沿岸漁業は復活した。昭和30年代に入り高度経済成長が進むにつれ東京湾の汚染が深刻化、水質汚濁により漁場の確保が困難となり漁業権の放棄を余儀なくされた。(図:昭和7年頃の鈴木新田)

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(東京国際空港開港から沖合展開・再拡張工事)
羽田飛行場の発端は大正51916穴森に日本飛行学校と飛行機製作所を設立したことに始まる。昭和41929)に逓信省が鈴木新田字江戸見崎鴨猟場の北側の埋立地を買収し飛行場を建設することになり、昭和61931東京飛行場が完成した。昭和20年の終戦を迎えると飛行場は接収され「ハネダ・エアベース」となった。昭和13年(1938)まで競馬場があった隣接の島との間を埋立てつなぐ工事が昭和22年に完了した。面積は260万m2となり外国の民間航空会社が乗り入れるようになる。「ハネダ・エアベース」は昭和27年(1952)に一部が日本側に返還され名称も「東京国際空港」に改称された。昭和331958全面返還となった。(海老取川河川整備計画/東京都)(図:昭和20年頃の鈴木新田)


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鈴木新田
現在の大田区の羽田地域にあった村および大字。大田区羽田空港一・二丁目(旧猟師町御台場部分を除く)に相当する。江戸時代、もとは多摩川の河口にできた干潟で、扇浦要島と呼ばれていた低湿地を武蔵国荏原郡羽田猟師町の名主・鈴木弥五右衛門が中心となって開墾した。天明年間(1780年代頃)より始まり、文化121815)年に事業が完成。新田開発に従事した農民もこの地に住み着いた。新田開発の従事者は近在農村の分家が多かったが、中でも大森村からの者が多かった。判明している15軒のうち11軒が大森出身者で、現在でもその子孫の多くは羽田周辺に在住している。鈴木弥五右衛門は羽田猟師町を子に譲り、文化・文政年間頃にのちの穴守稲荷神社となる祠を勧請。新田内に邸宅を構えて隠居し後事を養子に託した。文政12年(1829)この開墾地は羽田猟師町から分かれて「鈴木新田」と名付けられた。その後、羽田村、羽田猟師町、鈴木新田の三集落を合わせて「羽田三ヶ村」といわれるようになった。(Wikipedia)(図:昭和42年頃の羽田空港)






# by Twalking | 2023-04-24 09:49 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 一駅、電車で   

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中河原駅下り線ホーム/京王線(府中市住吉町)




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各駅電車が到着です





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車窓から架け替え工事中の関戸橋を見ます/多摩川





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聖跡桜が丘駅 ここからバスで帰ります




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関戸橋かから京王線多摩川橋梁を見ます

# by Twalking | 2023-04-14 18:21 | ○station