日時 2023.3.20(月)
天気 晴れ
海老取川に架かる弁天橋から羽田七曲りを経て
旧堤防道を大師橋に向かいます。
かつての羽田漁師町の面影が色濃く残っています。
白魚稲荷神社先からは旧堤防の赤レンガ堤が
現存し、漁師町の趣きが漂っています。
羽田道は産業道路を東糀谷への道筋ですが、
今回は大師橋から堤防沿いに六郷へ向かいます。
・・・羽田
かつての河口から多摩川スカイブリッチを望みます/五十間鼻
羽田(町) 東京府荏原郡にかつて存在した町である。現在の東京都大田区大田区の南東部に位置する。「羽田郷土史」では、羽田村は源義朝が平清盛に敗れた平治の乱の後、源氏の落武者7人が羽田浦に漂着して開村したと伝えているという。羽田浦は中世以来漁村だったが比較的早い段階で現在の東糀谷辺りが干拓され、六郷領用水が羽田地区まで引かれたこともあり農村として発達した側面ももっていた。(図:明治後期の羽田漁師町)
江戸時代後期から明治前期にかけて、多摩川に面した一帯は羽田猟師町と呼ばれる漁業専業の町となり人家が集中し活況を呈した。羽田猟師町が出来たのは江戸時代の正保~元禄の頃といわれ、漁村部が農村部と分かれる形で猟師町が分村したもので、当初その境界はあいまいだったとされる。近代の羽田猟師町は概ね現在の弁天橋通りの南側で、西の中村地区(現大師橋の上手、流水部が堤防に接近して河原が無い辺り)から東の大東地区(海老取川の際)までの範囲。中心に「羽田の渡し」を有し、多摩川水運を利用した材木船、砂利船、年貢米輸送船などが多く経済力を背景とした商人も多く存在していたという。(写真:羽田漁師町から対岸を見ます)
多摩川の河口にあって魚貝類が豊富に採れたため、江戸城に新鮮な魚貝類を献上する「御菜八ヶ浦」の一つとして幕府から指定を受け、江戸湾における漁猟の優先的特権を有して繁栄した。「新編武蔵風土記稿」は羽田猟師町の項に、家数は300軒余りで平田船15艘、茶船38艘があり、皆「御免言字御極印船(ごめんげんのじごこくいんせん)」であるとし、極印船は昔大阪の役の際軍船を多く出したことによって極印を賜わったと説明している。(Wikipedia)(写真:左が現在の堤防、右の道が旧堤防です)
・・・羽田道
羽田道 弁天橋先を左折して「羽田七曲り」へ。右手に白魚稲荷神社があります/弁天橋
白魚稲荷神社 「羽田七福いなりめぐり」の一社です
稲荷社 字鷹取にあり。弁天の西にして其社へまふずる道の傍にあり。社ははづか1間に2間、南向に鳥居たてり。幅1間土人呼て白魚稲荷と云。漁人白魚を取ころ初て得し時は、まづ此社に供ふる故にかくいへり。(新編武蔵風土記稿)
白魚稲荷神社
当神社の創立年月は不詳なれども古社と伝えられる。明治時代安田屋の先祖により境内地として当地を奉納され、現在に至るも当時の社殿老朽化したるにより社殿新築し、昭和42年6月11落成遷宮祭を斎行す。昭和53年4月28日東京都知事より宗教法人設立の認証を得たるによりこれを記念しここに碑を建立す。(碑文)
藤崎稲荷神社
羽田七曲りの様子
鴎稲荷神社
鴎稲荷神社
今から約290年前、享保年間から天保年間にかけて江戸では三大飢饉が起り疫病、大火、洪水等があり人々は毎日の生活に苦しんでいた。当時どこの村でも神頼が始り生活の安泰を祈った。この稲荷神社は江戸時代の頃、弘化2年乙巳年3月吉祥日(鳥居に刻まれている)その頃に創建されたものと思われる。祭神は宇迦之御魂命(食物を祭さどる神様)。
当時、村人は朝、夕とお参りをした。海上安全、大漁祈願、火伏の神様として多くの人々が参拝した。又、隣の厄神様は厄除の神様として祭られている。その頃の多摩川は六郷川と呼ばれ鴎が多く群がっていた。その鴎にちなんで鴎稲荷神社と名付けたと聞く。又、この辺は徳川幕府の領内で六郷領であった。羽田は六郷から東に向って上田、中村、西町、仲町、猟師町となっていた。仲町は現在の横町町会、稲荷前町会、下仲町会となっている。その三町の守護神として交代で守っている。(写真:厄神様)
毎年初午祭にはお焚き火をたき、油揚げ、魚、小豆飯、等を供え羽田囃子や初午太鼓で賑やかに執り行われている。入口の鳥居は安静の大地震、大正の関東大震災、太平洋戦争と何たびかの困難を乗り越えて来た。本殿は太平洋戦争で焼失し今の本殿は戦後まもなく再建された。(兼務社/羽田神社HP)(写真:鳥居前の羽田道)
羽田道 羽田道は旧東海道(三原通り)の内川橋際から分岐し、大森東・南、東糀谷を通って羽田(弁天橋)に至る。江戸時代には羽田弁財天等への参詣に利用され、また羽田で捕れた魚などを江戸に運ぶ道でもあった。鴎稲荷神社前は羽田道の「羽田七曲り」の一つで、多摩川寄りの地域は漁業専業の「羽田猟師町」であった。この付近には鴎が多く大漁の兆しとしてまつられたものという。(標柱)
神社前から赤レンガ堤防に出ます
レンガ堤(五十間鼻方向) レンガ堤(大師橋方向)
レンガ堤
羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革
1)度重なる水害に苦しめられた羽田地区 羽田は多摩川河口の砂洲の上にあったことからたびたび水害が発生していました。天正17年(1589)から安政6年(1859)の間に62回の大洪水があったと記録されています。明治以降、明治11年(1878)、17年(1884)、40年(1907)、43年(1910)の洪水は甚大な被害をもたらしました。(図:位置図 赤:レンガ堤堤防跡 緑:現堤防 橙:羽田道・七曲り 紺:海老取川 赤角:弁天橋 黄:産業道路 薄緑:首都高)
2)羽田レンガ堤の建設 「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正6年(1917)内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完成(工期16カ年)しました。
「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所・昭和10年10月発行)には「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡張する計画であったが、土地の状況を考慮して工法を変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガ胸壁(赤レンガ堤防)を築き、所々に陸閘を設け、堤上は道路に利用するとして河川住民及び一般の利便を増進させた」と記されています。また人が堤防をまたぐため階段も設けられました。
3)羽田レンガ堤と人々の暮らし レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ桟橋、造船所、生簀、材木置場、作業所があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などが住んでおり船宿もありました。昭和20年(1945)9月21日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。(写真:大師橋手前)
レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水災害もなく安心した生活を過ごすことができました。そして昭和20年4月15日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害からそして戦災から多くの人々の生命財産を守りました。昭和48年(1972)高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。(出展:羽田レンガ堤調査報告書/大田区教育委員会 平成23年3月より)(説明板)(写真:第二水門付近)
直進は旧堤防道、右折が羽田道です/大師橋下
羽田道(七曲り方向) 羽田道(産業道路側道)
正蔵院山門
正蔵院 当寺の創建は詳かでないが、本尊の不動明王は伝教の作と伝えられ宝徳2年(1449)時の住職重仙により、さらに文禄4年(1595)に乗信により修復されたと「新編武蔵風土記稿」に記されている。かつては本尊不動明王にかえて大日如来を本尊としたこともあった。慶安3年(1650)境内は多摩川の洪水により川の中に入ったため、元禄8年(1695)に織田越前守の検地により2段1畝8歩を境内地として与えられたという。大正11年(1922)5月20日羽田仲塗師観蔵院を合併した。(大田区の寺院)
不動明王(非公開)
当寺の本尊である。江戸時代の地誌「新編風土記稿」には、宝徳2年(1450)住職・重仙の時と文禄4年(1595)乗信の時に修復されたと記されている。造像された年や作者等は不祥であるが、その様式から15世紀中頃の製作と考えられ、区内に伝存する仏像でも古いものの一つと推定される。桧材寄木造、古色、玉眼、像高65.2cm。大田区文化財。(大田区教育委員会)
羽田街道の碑 庚申塔
羽田神社
羽田神社 隣接する自性院の元鎮守社で、現在の本羽田・羽田・羽田旭町に相当する羽田村・羽田猟師町旧村社。旧称は八雲神社。戦国時代、蒲田・六郷・羽田・大師河原一帯の領主であり、羽田浦水軍の実質的な支配者であった行方与次郎が牛頭天王を祀ったのが創建の起源である。1861年(文久元年)、疱瘡(天然痘)が蔓延した際、将軍・徳川家定が病気平癒祈願に参詣して治癒した故事により病気平癒で有名になり、徳川氏・島津氏・藤堂氏などからの信仰を集めた。
長らく隣の自性院の鎮守神として祀られていたが、明治時代の神仏分離政策により、須佐之男尊と稲田姫命を祀る祇園信仰の「八雲神社」として分離独立し羽田村・羽田猟師町の鎮守となった。1907年(明治40年)には「羽田神社」に改称した。1945年(昭和20年)から1948年(昭和23年)の間、連合国軍による羽田空港拡張の為に強制退去させられた現在の羽田空港に相当する鈴木新田(羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町)鎮守の穴守稲荷神社のご神体が合祀されており、のちに社殿が羽田神社の氏子地域内に再建された。
また、穴守稲荷と同じく強制退去となった鈴納稲荷神社が羽田神社境内へ、玉川弁財天が兼務神社・羽田水神社境内へ遷座されている。羽田空港第1ターミナル内に鎮座する羽田航空神社と混同されている事例があるが由緒や祭神等一切関係が無い。又、大鳥居駅の駅名や天空橋駅近くにあるにある大鳥居が羽田神社に由来するものと誤解されている事例もあるが、穴守稲荷神社に由来するものでありこちらも羽田神社とは一切関係が無い。(Wikipedia)
鈴納稲荷神社
祭神:宇迦之御魂神 創建年:天明5年(1785) 羽田漁師町の名主・鈴木弥五右衛門氏が天明4年(1784)羽田村名主・石井四郎右衛門氏より3町5畝の干潟を譲り受け、その周囲50間四方に堤防を作り開墾を始めました。名主・鈴木弥五右衛門が造成した土地を鈴木新田とし、無事に納まるように鈴納耕地と名付けました。度々の風雨や洪水で堤防が決壊し住民が困ったので、これを防ぐため屋敷近くに稲荷社を建立して鈴納耕地の安全を祈願しました。昭和20年9月21日強制立退き後、昭和31年2月午の日現在地に鈴納稲荷神社を建立しました。(説明板)
増田稲荷神社
祭神:宇迦之御魂神 創建年:不祥 環状8号線と高速横羽線が交わるあたり一帯は徳川幕府中期以降、増田市左衛門が開墾したので増田新田と呼ばれ、近年まで六間堀に増田橋が架けられていました。増田稲荷神社は高速上り線羽田出口(現羽田1丁目10番地)付近に祀られていたが戦後、京急及び道路の拡張に伴い関係者、有志の願いが許され羽田神社の境内社として移されました。古老の話として祠の中には子供たちが遊ぶことが出来た親しみのあるお稲荷さんだったとの事です。(説明板)
日枝神社
祭神:大山咋命 創建年:江戸中期 西町・前河原の守護神として祀られ、文化年間の古文書にも記されている社です。御祭神「大山咋命」は五穀豊穣、家内安全、景気回復にご神徳があるといわれています。太平洋戦争で廃失(昭和20年4月15日)しましたが、昭和24年現大田区体育館の所在地にライオン株式会社があり、敷地に焼失を免れて社があったのでそれを頂き羽田2-28-5に再建しました。その後、昭和36年両町会の合意により羽田神社に合祀を願い許されて境内社になりました。別名「山王さん」と呼ばれ、神使いは「お猿さん」で町民から親しまれ毎年4月29日に社前祭が行われています。(説明板)
羽田稲荷神社 祭神:宇迦之御魂神 創建年:不祥 現つばさ高校辺りにあった井上軍左衛門宅の庭内神社として祀られていましたが、引っ越しの際昭和55年11月羽田神社境内社となりました。御祭神は伏見稲荷神社から分霊を頂きました。(説明板)
八雲神社之碑(疱瘡神)
かつて「疱瘡」(天然痘)は子供たちにとって最も恐ろしい病気であった。人々はこの「疱瘡」に対して畏敬の念を表し、その原因を「疱瘡神」によるものとして崇め祀ってきました。羽田神社には社殿右側に「疱瘡除祈願御礼の碑」があり、この碑は天保12年に将軍家定が疱瘡治癒祈願に訪れた事績によるものです。この参拝により流行病が治癒したことから病気平癒の神としても信仰され、病気平癒や身体健全を願う多くの参拝者が訪れています。(説明板)
自性院山門
自性院(じしょういん) 大田区にある真言宗智山派の寺院。平安時代末期、慈性(1159年寂)によって開山された。その後、恵麻(1559年寂)によって中興した。かつては境内に牛頭天王社を祀っていたが、明治時代の神仏分離政策により「八雲神社」(現在は羽田神社)として分離独立した。なお境内に「牛頭天王堂」があるが、これは羽田神社の名残ではなく1929年(昭和4年)に三輪厳島神社から移築したものである。江戸時代後期の建築という(Wikipedia)
外陣(旧拝殿)は入母屋造り銅板葺、向拝に軒唐破風を付け、その下に弁財天の彫刻が施され、各軒廻りに斗供をもつ。内陣(旧本殿)は切妻造りの銅板葺。文久元年(1861)大森の弁天神社の社殿として建てられたが、昭和4年(1929)移築され牛頭天王堂として転用されたものである。区内でも数少ない建築年代等の明確な建物であり、江戸時代末期の精巧な建築として価値が高い。自性院には旧来、牛頭天王社が羽田の総鎮守としてまつられていたが、明治維新の神仏分離で八雲社として独立し、さらに発展して隣接羽田神社となった。(大田区教育委員会)
羽田道は産業道路を大鳥居駅方向へ向かいます
羽田漁師町周辺 明治39年今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照(橙:羽田道 紺:海老取川 緑:旧堤防 赤丸:羽田の渡し・大師の渡し)
羽田付近航空写真(橙:羽田道 紺:海老取川 緑:旧堤防 薄緑:現堤防)